項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
東二番丁尋常小学校 |
設立 |
1973年(M6) |
東二番丁小学校は、1973年(M6)7月設立
名称の変遷
「二番小学校」1973年(M6)7月~
「養賢小学校」1875年(M8)6月~
「東二番丁小学校」1879年(M12)1月
「東二番丁尋常高等小学校」1892年(M25)8月~
「東二番丁尋常小学校」1916年(T5)4月~
「東二番丁国民学校」1941年(S16)4月~
「東二番丁小学校」1947年(S22)4月~
[写真73-04]の校舎は
* 1886年(M19)、建設
* 1945年(S20)7月、仙台空襲で焼失
その後の校舎は、
* 1948年(S23)3月、木造新校舎完成
* 1964年(S39)12月、鉄筋新校舎完成
* 1986年(S61)8月、校舎解体
* 1987年(S62)10月、新校舎完成(2018年現在の校舎)(Wikipedia「仙台市立東二番丁小学校」)
* 1987年(S62)12月22日、部屋境のない校舎完成(「続・ 宮城県郷土史年表」P234)
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「仙台巷譚第56号」(平成5年発行)に、仙台の小学校の変遷記述あり/Wikipedia「仙台市立東二番丁小学校」(2018年現在)/「続・ 宮城県郷土史年表」P210、P234
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73-04、73-06/「いつか見た街・人・暮らし」P78(入学式、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120(明治19年建設の校舎玄関付近)/「新・目で見る仙台の歴史」P138(東二番丁小学校同窓会記念写真、髪に大きなリボンを飾った女児たち)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年完成校舎)
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NHK全国児童唱歌コンクールで連続優勝 |
東二番丁尋常小学校、2年連続優勝 |
1932年(S7)~1933年(S8) |
NHKのラジオ放送を通じて全国児童唱歌コンクールが毎年行われたが、仙台の小学校が第1回のS7年からS14年に間に7回全国優勝し大きな話題となった / 優勝校はS7年、8年が東二番丁尋常小学校
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「NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P5/「重訂 宮城県郷土史年表」P432
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69-03
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文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 |
ラジオ出演 |
1932年(S7)ころ |
S7年頃、文化キネマの楽団員たちが、NHK仙台放送局のラジオドラマ(生放送)で伴奏を担当
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67-01、67-04
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多門師団凱旋 |
仙台帰還(凱旋) |
1933年(S8)1月 |
陸軍第二師団(多門二郎師団長)は、満州駐箚中に起きた満州事変(S6年9月~)で満州各地を次々に占領 当時の市民は、その「武勲」に熱狂した
・ 第二師団の戦死者は約300人、凍傷・負傷者約1500人(「新・目で見る仙台の歴史」P160)
* 1933年(S8)年1月7日~9日と13日、市民あげて歓迎する中、第二師団が仙台に凱旋した
・ 凱旋歓迎に動員された児童生徒は「凱旋凱旋ああわが勇士」(多門師団凱旋の歌)と歌った
・仙台駅前から南町通りを経由して、川内の第二師団まで凱旋行進(師団長ら師団司令部は8日「凱旋」)
・南町通りは、1月7日市会の決議により、この日から師団長の名にちなんで「多門通り」と改称された → 項目「多門通り」参照
・1月8日、戦勝祝賀花電車(市電)
・2月19日、宮城県愛国連盟・仙台市教育会主催、対国際連盟大講演会・県民大会開催
・2月24日、国際連盟、リットン報告を採択
・3月27日、日本、国際連盟を脱退
・4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)→<参照>項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」
* 1934年(S9)12月、仙台市昭忠記念堂除幕式(青葉山公園)
昭忠記念堂は、満州事変で「武勲」をたてた多門二郎師団長指揮下の第二師団を記念し、本丸跡上り口に建造(近くには多門師団長の胸像もあったが太平洋戦争中の金属供出により台座だけが残されていた)→ 仙台城石垣修復事業にともない平成16年に撤去
<参考> 写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述)
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「仙台市史10 年表」P280) /「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P204/「新・目で見る仙台の歴史」P160
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65-02、65-04、65-01、98-081、98-082、98-083、65-03、65-05、65-06、65-07 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128/「目で見る仙台の歴史」P168/「新・目で見る仙台の歴史」P160/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
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南町通りの電柱(戦前) |
木製 →金属製 |
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[写真65-01](多門師団凱旋3)をみると、1933年(S8)1月には、このあたりの南側の電柱は木製だった/ その後に、道の南側が金属製の柱にかわる
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65-01、98-037、43-30は木製 / 73-03、53-53、53-91、 53-96、63-04は道の南側が金属製
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多門通り |
南町通りを改称 |
1933年(S8)1月7日 |
南町通りは、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路
*1933年(S8)1月には、「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを「凱旋行進」した
・ 「凱旋」を記念して、1933年(S8)1月7日市会の決議により南町通りは、当時の師団長の名を冠した「多門通り」と改名された
・ 戦後は南町通りに復名
・ 敗戦後、進駐してきた米軍はこの道路を「メープル街(かえで)と名付けた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P28)
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「仙台市史 年表」P106/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P28
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65-01-01、53-91、53-96、63-04-01、98-148(被占領時代の仙台市街地図 米軍用)
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 続編第1巻」P67】より
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)仙台到着
* 9月16日、仙台に本格進駐開始(第8軍指揮下の第14軍団第11空挺師団)/ロード准将ら将兵106人がジープで仙台到着
・ 特別列車と、海路塩釜から上陸して仙台、塩釜、石巻、松島、大河原、古川、多賀城など7市町村に計1万人が分駐
・ ドン准将以下幹部は、松島海岸のパークホテルに宿営
・ 第14軍団司令部は北一番丁の仙台簡易保険局庁舎に設置
・ 空挺隊員は、原町の陸軍造兵廠と多賀城海軍工廠に駐屯
【「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240】より
* 1945年(S20)9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 内務省からの連絡で案内役を仰せつかった宮城県職員矢野栄作さんは「福島県境の山下村(現・山元町)の望楼から半鐘が鳴った。米軍の到着である。案内車と英語で書いた乗用車から米軍のジープをのぞくと、2門の機関銃を手に完全武装したした米軍兵が緊張した面持ちでこちらを見ている」と『せんだいあこころ八十八年』(宝文堂)に書いています
【毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション】より
* 9月15日、仙台に司令部をおいた第14軍団、塩釜に上陸
* 9月16日、仙台には第11空挺師団が進駐開始
・ (陸軍)幼年学校、尚絅女学院、安田生命(国分町)、富国生命、日銀仙台支店を宿舎として接収
<編者注:疑問> 日銀は仙台空襲(S20年7月)で焼失したのに接収対象にできたのか? 「日銀支店社宅」が正しいと思われる(宮城県知事事務引継書(昭和20年)には、日銀社宅と記載あり=「戦争のころ 仙台、宮城」P241)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P67/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~241/毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション/「仙台市史 年表」P114
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P327(接収された仙台地方簡易保険局庁舎)
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324】より
<先遣隊>
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)到着 / 横浜からジープ38台に分乗した先遣隊106名が、同日未明に陸路松島に到着し、松島パ-クホテルに分宿 /知事はじめ県首脳部と会見(進駐軍宿舎や物資集積所のための施設・建物の接収を決める)
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240では、「宮城県には9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 翌日から、米軍と宮城県の間で宿舎、施設利用、警備について協議が始った」
・ 進駐軍との事務的交渉窓口「渉外事務処理本部」は、この会談を機に、知事直結の窓口として「知事官房渉外課」を設置
<海上から>
* 9月15日、東北地区進駐軍最高幹部らが塩釜港に上陸し、松島に入る
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月15日、塩釜港に6席の艦船から約3800人の兵士が上陸用舟艇を使ってまるで敵前上陸のように進駐してきました」
<列車で到着>
* 19月16日、2本の特別列車で約1000名、仙台駅到着 / 塩釜港には艦艇で着いた約3800名上陸 / 仙台(原町苦竹の造兵廠)、多賀城(海軍工廠)、松島に分駐 / 将校以上の幹部たち、ジープで国道6号線経由仙台に到着し、そのまま松島に入る
* 9月17日、1200名、特別列車で仙台着
* 9月18日、2580名、特別列車で仙台着
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月16日朝には東北線、常磐線の特別列車で1100人の兵士が仙台駅に到着したのを皮切りに26日迄に、列車と船舶、ジープ、トラックで合計1万95人が宮城県内に展開しました」
・ 9月26日までに、計約1万名が宮城県に進駐
・ 仙台、多賀城、松島のほか、塩釜石巻、古川、船岡などに駐屯(兵士数は造兵廠と海軍工廠に駐屯が圧倒的に多い)
・ 仙台では、霞ノ目飛行場や榴ケ岡の東部122部隊地にも小部隊が入った
<簡易保険局庁舎接収し、中枢機能を置く>
・ 第14軍団司令部(その後の第9軍団司令部も)、第11空挺師団司令部、宮城県を管轄する軍政団司令部、MP(憲兵隊)本部など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324、P327 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~240
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)
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ブラザー軒 |
概要 |
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ブラザー軒は、仙台初の本格的な西洋料理店(高級レストラン)
1) 1901年(M34)か1902年(M35)、新国町で創業
2) 1910年(M43)、東一番丁通りに新築移転するが3年後に焼失
3) その後は森徳横丁で営業
第二師団の将校たちがよく利用したほか、東北帝国大学や仙台高等工業学校の学生たちも送別会や歓迎会などで利用した
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「東一番丁物語」(柴田量平著)P112/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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62-14
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ブラザー軒 |
2) 移転・新築開店 |
1910年(M43) |
* 1910年(M43)10月1日、東一番丁64(東一番丁・玉沢横丁角よりやや南)に移転し、3階建て新築開店」(洋風木造3階建)
/「M44年仙台市全図」では、東一番丁・玉沢横丁角よりやや南にある
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「明治の洋風建築」P120 /「仙台市史 年表」P95/「明治44年仙台市全図」
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62-02
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精養軒 |
東一番丁の仙台支店 |
1923年(T12) |
* 1923年(T12)9月、精養軒仙台支店を東一番丁に設置
現在の三越付近にあった西洋料理店「弥生軒」(明治34年開業)の建物を引継ぎ営業 / 東北産業博覧会記念写真帳(昭和3年)掲載の「精養軒」が、「弥生軒」の写真と同じ
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「重訂 宮城県郷土史年表」P390 /「東北産業博覧会記念写真帳」/弥生軒については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P84
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62-01/「目で見る仙台の歴史」P143に「弥生軒」
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文化横丁 |
新設 |
1924年(T13)12月12日 |
・ 東一番丁南部(通称・大通り)と西側の南町を結ぶ横丁
・ 開設当初の名称は「東南横丁」だが、翌1925年(T14)に活動写真の「文化キネマ」ができて文化横丁と呼ばれるようになった
【「東一番丁物語」P219】「大正13年、阿部太助が所有地を開放して東一番丁と南町を貫通し、両側に百軒店街を開設すべく貸家を建築し東南横丁と名づける。12月12日に開通式」
* 1924年(T13)12月12日、文化横丁が新設される(「仙台市史 年表」P102)
* 1925年(T14)12月11日、阿部太助が、界隈の発展を目的に映画常設館「文化キネマ」を、文化横丁の南側中央に新築開設 / 阿部太助、昭和2年他界後、遺志は子息の阿部来太郎に引き継がれ、文化キネマ経営、文化横丁の新興がはかられた(「番丁詳伝」P119)
(「仙台年表」P206には、昭和10年開館とあるが間違い)
* 1936年(S11)12月、「文化キネマ」が東一番丁(大通り)・文化横丁角へ新築移転し「文化映画劇場」と改称
<参照> 項目「文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場」
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「東一番丁物語り」(柴田量平著)P219/「仙台市史 年表」P102/「仙台映画大全集」P450/「重訂 宮城県郷土史年表」P395/「番丁詳伝」P119
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61-24/98-134(大正末~昭和初期の商店配置図に、文化横丁と文化キネマの位置が記載)/98-135(S32年の店舗配置図に、東一番丁・文化横丁角の文化劇場記載) / 昭和30年代初め頃は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P28
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針久旅館支店(仙台駅前) |
開業 |
1887年(M20) |
場所は、仙台駅前広場の北側に面する
* 1868年(M元年)、国分町に旅館開業
* 1882年(M15)、針久旅館と改称
* 1887年(M20)、仙台駅開業の年に二代目久助が東北本線(日本鉄道)仙台駅前に支店を開設
その後、三代目久助が東五番丁に千坪の別館を建て、東京にも神田と上野、築地の3つの支店を開業した
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「仙台老舗百店史P182~189『針久旅館』
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61-18/53-88の右端建物/06-23の上部(陸奥ホテルの左隣の建物)/「目で見る仙台の歴史」P155に、国分町の針久旅館
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一番町(旧・東一番丁)北部 |
一番町四丁目買物公園<年表> |
昭和初期~平成10年 |
S5、市立病院開院(S14.11.19、改築落成) →S55、清水小路に移転 / S6.1、森徳座焼失(仙台映画大全集) / S8.4.1、三越出店 / S29.7、第1代アーケード完成 /S38.11.1、三越、新館新装開店(地上7階、地下2階、屋上に3階の塔屋あり、S36.9~増改築工事) / S45.12.2、北振会アーケード改築完成(2代目) / S46、中央会アーケード改築完成(2代目) / S57.10.2、四丁目商店街「アーケードのある買物公園」完成(透明なアーケード、噴水式モニュメント、約70本の街路樹) / S58.10.6、記念誌「風雪三十年」完成 / S60.7.13、北の入口に「もみの木」植樹(光のページェントの原点) / S62.3.21、141(イチヨンイチ)が開店 / H4.10.25、三越増改築開店
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P151、P152
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61-16、22-53、18-16、99-014など写真分類A-02-01(東一北部)の全写真
/「仙台市史 特別編4 市民生活」P231(昭和初期、東一番丁北部森徳座付近)/「市民の戦後史(仙台市)」P73(S28年頃、東一番丁北部)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図37~38(S53年俯瞰、H8年141ビル)
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街灯(東一番丁北部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁通り北部(立町角以北)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置 / 通称「スズラン灯」(1基5灯型、電球の傘が筒型)
・ 写真 22-51 (三越付近)、 99-052 (栄亭付近)、 99-037 (富士屋洋品店付近)など
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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61-16、22-51、53-34、53-13、53-23、99-041、99-052
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
年表 |
昭和初期~平成10年 |
S3.4.15、東北産業博覧会(55日間開催)にあわせ、東一番丁通りがアスファルト通りになり、街灯(スズラン灯)がつく、ただし、三区域ごとに独自の形 / S4.1.6、市庁舎新築落成 / S6.9.10、県庁舎竣工 / S17.8、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出 / S20.7.10、仙台空襲で、東一番丁一帯も壊滅的被害 / S20.12、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転 / S20.12.25、復興歳の市(東一番丁歳の市復活)、出店500軒 / S21.8、東一番丁に戻ったバラック店舗52軒がいっせいに七夕飾りをかかげる / S21.8.15、3夜連続で復興盆踊り大会開催(戦災焼け跡にヤグラを組む、東一が全市に先駆けて開催、毎夜数万人で賑わう) / S21、東一番丁通り(定禅寺通~柳町通り間)幅員15mに拡幅決まる(両側に4.2mの歩道、車道はアスファルト舗装、歩道はコンクリート製1尺角のブロック敷き詰め)/ S22.4.17~4.18、さくらまつり開催(新憲法施行記念の仮装行列) / S22.8.5~8.7、市内各商店街、戦後初の七夕まつり(8.5には昭和天皇仙台巡幸を七夕飾りで歓迎) / S22、戦後のスズラン灯建つ / 東一番丁全町に街路灯設置(広瀬通の南北でデザインに違い) / S28、アーケード設置を前に電柱撤去(南町通り角~定禅寺通り角、838m)/ 東北初のアーケード完成(北部は S29.7、中央部S29.1.14、南部=大通りはS29.12.11) / S29.12.12、アーケード完成祝賀仮装行列 / S34.3.4、青葉通りが全線開通 / S36.5.12、ネオンアーチ完成 / S40.12.8、夢のカラー歩道完成(定禅寺通り~南町通りまで、乳白色の人造大理石にグリーンのアクセサリー) / S41.7.15~7.17、東一番丁誕生百年祭を祝う(藩祖政宗公生誕400年と兼ねて実施) / S42.1.25、定禅寺通り、広瀬通りが全線開通(東一番丁付近完成はS29.4) / S45.2.1、住居表示変更(東一番丁 → 一番町) / S45.10.10~、歩行者天国実施(土日祝、320店) / S47年、歩行者天国を全面実施 / S51.3.31、仙台市電廃止 / S52.12.3~25、全面歩行者天国(午後0時~6時) / S53.6.12、宮城県沖地震 / S54.1.20、東一番丁通りが通行禁煙となる / S54、東一番丁通りが歩行者専用道路となる / S54.7,東一番丁通りカラー煉瓦に化粧 / S61.12、光のページェント始まる / S62.7.15、地下鉄南北線開通(勾当台駅できる)
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各商店街の年表は、「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9の「年表」による/「仙台市史 年表」P127、P128、P131、P134/「仙台市史10 年表」P311/「仙台市史 年表」P215/「重訂 宮城県郷土史年表」P571、P626/「続・ 宮城県郷土史年表」P91、P98/電柱撤去は、「番丁詳伝」P166/スズラン灯回収は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26/街路灯設置は「番丁詳伝」P178/「仙台あのころこのころ八十八年」P250、P256/「市民の戦後史」P185/15m拡幅は、「番丁詳伝」P164、P166
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61-16(S3,スズラン灯がついた東一番丁)、35-14(空襲被害)、53-08 (天皇巡行)、47-05 (東一番丁百年祭)22-58 (歩行者天国)など、写真分類A-02(東一番丁)の全写真/「市民の戦後史(仙台市)」P185(東一番丁百年祭祝う商店街)
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商店など |
ライト和洋食堂 |
創業年不詳 |
・ 場所は、仙台駅前広場西側に面していた
・ (1928年(S3)の写真に写る看板文字から)「和洋食堂、ビリヤード、簡易宿泊、私設待合所」と多角的に商売
・ 大正末期や昭和戦前期の商店配置図では、丹六と裏五番丁通りを挟んで向かい合う店で、「カフェー・ライト」と表示されている
・ 仙台空襲(S20年7月)まで経営継続できたかは不詳
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東北産業博覧会(昭和3年)記念写真帖の写真の内容から
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61-15/ 44-09の左から3番目の木造でキリンビール看板ありがライト食堂
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戦時衣料 |
国民服 制定 |
1940年(S15) |
* 1938年(S13)、成年男子に国民服(国防色)が奨励され、流行(仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1940年(S15)11月2日、「国民服令」(勅令)公布
・ 戦時下の衣装簡素化のため制定された
・ 男性用で、軍服をモデルにしたカーキ色(国防色)の服(5つボタン)
・ 「甲号」は、襟が立折襟式開襟で詰襟と開襟の両方で着られる/「乙号」は、襟が立折襟
・ 一着で仕事着、日常服、礼服を兼用できた(儀礼章をつければ礼服にも使用できた)
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仙台市史 特別編4 市民生活」P314/毎日新聞社「昭和史事典」P132/仙台市史 特別編4の「市民生活」P27
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60-40/乙号は、24-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P50(国民服、カラー)
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藤崎(戦後期) |
屋上遊園地オープン(西館) |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)3月、西館に「屋上遊園地」オープン
(観覧車、モノレール、子ども用自動車などがあった)
<編者注> 屋上観覧車が写る「写真18-09」はS29年夏の写真(理由:東一番丁通りのアーケードが大町角までで、藤崎以南にはまだ完成していない/西館がまだ一部4階建)なので、観覧車はS29年にはすでに出来ていたことがわかる
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「藤崎170年のあゆみ」P196~197
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59-01、18-09
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バス |
ボンネット型 |
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日本では、1950年代頃までは大多数のバスがボンネットを持った形状(ボンネットバス)だったが、次第に輸送効率の良い箱型バスに置き換えられた。日本では、1971年に量産タイプのボンネットバスの製造が中止された
仙台市営バスでは、1965年(S40)当時、仙台市中心部でまだボンネットバスが使われていた → 写真 201-08 、 201-09
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Wikipedia「ボンネットバス」(2019年10月)/写真201-08、201-09のキャプション
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58-03、201-08、91-21、201-39、201-42
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エキスポートバザー |
開設期間 |
1949年(S24)~1951年(S26) |
* 1949年(S24)8月~1951年(S26)12月、藤崎デパートの地下にあった進駐軍専用売店(EXPORT BAZAAR)
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「藤崎170年の歩み」P130、P256
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55-01、55-02、55-04
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藤崎(戦後期) |
エクスポート・バザー 開設 |
1949年(S24)~1951年(S26) |
* 1949年(S24)8月10日~1951年(S26)12月、「西館」の地下1階に、外人専用売り場「エクスポートバザー」開設
・ 進駐軍(米軍)将兵と家族が対象
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「藤崎170年の歩み」P256/同P205の写真(S27年8月)とP140の写真(S26年11月)にエクスポートバザーの表示あり
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55-01、55-02、55-03、55-04
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奉安殿 |
撤去指示 |
1946年(S21) |
【「日本大百科全書(ニッポニカ)」の用語解説】
学校に下賜された「御真影(ごしんえい)」や教育勅語など勅語類を安置する建物。天皇・皇后の写真である「御真影」と勅語の諸学校への下賜は1890年(明治23)に始まるが、その下賜数がしだいに増加するとともにその管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるに至った。「御真影」などは当初校舎内の奉安所に安置されていたが、学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まった。奉安殿の建設は1935年(昭和10)以降全国的に実施され、「御真影」はますます神格視された。敗戦後、「御真影」は焼却され奉安殿は取り壊された。
**************************************
* 1946年(S21)7月4日、奉安殿の撤去を指示(教育民生部長通牒)
* 1946年(S21)10月8日、文部省、教育勅語の奉読を廃止(菅家年表)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P512/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
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54-01、73-04
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商店など |
大竹園(茶舗) |
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・ よろづ園とともに、仙台の二大茶商とうたわれ、一族が市内各所に茶舗をひらく
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「番丁詳伝」P99
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53-98
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南町通り(多門通り) |
概要 |
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・「南町通り」は、仙台駅前から裁判所(戦前は宮城控訴院、戦後は仙台高等裁判所)へ向かう通りで、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路だった
・ 仙台で初めて街路樹が植栽され、歩車道の区別が設けられるなど、大正期から昭和期にかけ整備がすすんだ(「番丁詳伝」P81)
・ 仲見世(南町通り) 大正年間、毎年年末25日頃より、道路真ん中に一間くらいに仕切った板囲いの小屋が両側にできた。(露天商が東京など全国からやってきた)
・ 戦前から、コンクリート舗装されていた
・ 1933年(S8)1月、第二師団(多門師団長)が満州事変から「凱旋」し、これを機に「多門通り」と改称され、1945年(S20)日本敗戦後、再び「南町通り」となった
* 1926年(T15)11月、仙台初の市電が、「仙台駅前」から南町通りを経由し、大橋や川内の第二師団への入口である「大町一丁目」まで開通した
* 1933年(S8)1月、 第二師団(師団長の名を関して、通称多門師団)が「凱旋行進」 / 「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを行進
* 1933年(S8)1月、「多門通り」と改名(「凱旋」を記念して、仙台市会が当時の師団長の名を冠した改名を決議)
* 1945年(S20)7月、 仙台空襲で南町通り周辺一帯も焼失し壊滅的な被害
* 戦後は「南町通り」に復名
* 1953年(S28)月日、南町通り・西公園線の一部の舗装が、日米行政協定による事業として、一気にすすむ
* 1963年(S38)、仙台初の地下ケーブルの水銀灯点灯、歩道の舗装も完成、街路樹もヤナギから唐カエデに植え替えられた(「仙台市史 続編第2巻」P167)
* 1976年(S51)3月、仙台市電廃止
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「番丁詳伝」P81/「わが心の仙台駅前史」P43/「仙台市史 年表」P103、P106、P130/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167
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53-91、65-01-01、20-02など分類A-05-06「南町通り」の全写真 / 戦災焼失後の様子は、63-04/「目で見る仙台の歴史」P198(南町通り東五番丁交差点、朝のラッシュ、S30年代前半)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P100(S51、東一番丁角以東、カラー)
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仙台市電 |
北仙台線 開通~廃止 |
1937年(S12)10月~1969年(S44)3月 |
・ 北四番丁~北仙台駅間、1.2キロ
* 1937年(S12)10月26日開通~1969年(S44)3月31日廃止
(「仙台市史 年表」P109では、S12年10月25日に営業開始)
* 1968年(S43)9月、北仙台線廃止決まる
* 1968年(S43)9月11日、北仙台線撤去に反対する学生等が仙台市議会議場に乱入
* 1969年(S44)3月31日、北仙台線廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P518/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P109、P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P642、P647
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53-90/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P519に北仙台線軌道俯瞰写真/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P166の写真44は、北仙台線最終日の市電/「市民の戦後史(仙台市)」P218(北仙台線の軌道俯瞰、廃止反対して議場に押しかけたヘルメット姿の学生たち)
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街灯(東一番丁・南町通角以南) |
戦前 5灯型 |
設置年不詳~1945年(S20) |
戦前>
* 設置年不詳
・ 1基5灯のスズラン灯は東一番丁(立町角以北)のとよく似ているが、上部アームのデザインが異なる
* 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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53-89
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映画館(戦後) |
仙都劇場 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月25日、仙都劇場開館
場所は、青葉通りの東三番丁交差点の東北角(東三番丁40)
開館は、戦後新設された青葉通りが貫通した年
「仙台映画大全集」の記述 →「大映封切館で、1階~2階までスロープ状に888席あり、ゆったりとしていた」
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「重訂 宮城県郷土史年表」P546/「仙台映画大全集」
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53-83(夜景)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P23(S33)
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ネオンサイン
(戦後復活) |
戦後復活 |
1950年(S25) |
* 1949年(S24)3月、(全国)ネオン広告を全面解除
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
* 1951年(S26)2月、電力事情悪化 / ネオン、エレベーターなどの使用禁止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43/仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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53-82(S26~27年頃の仙台駅前夜景)
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爆弾三勇士 |
歌発表音楽会開催 |
1932年(S7) |
* 1932年(S7)4月14日、「爆弾三勇士の歌」発表音楽会、仙台市公会堂で開催 / NHK仙台放送局がラジオ中継放送
* 1934年(S9)2月22日、爆弾三勇士銅像除幕式(東京芝区の青松寺)
【中公文庫「日本の歴史24 ファシズムへの道」P346】 「爆弾三勇士(または肉弾三勇士)は、第1次上海事変で「3人の日本兵が火のついた破壊筒をもって身体ごと敵(中国)の鉄条網に突進し、突破口を開いた」という。(昭和7年2月22日) 当時、国民精神作興のため“美談"として銃後(国内)で大々的に宣伝された。」
【「昭和生活文化年代記・戦前編」P256】
・ 映画5社が「肉弾三勇士」を一斉に封切ったほか、ラジオ、出版、芝居などにもブーム
・ S7年、キリンビールの広告に「爆弾三勇士」
・ S10年、レートクレームの広告「肉弾三勇士」をもじった化粧品広告
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「仙台放送局60年のあゆみ」P5
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53-68(仙台七夕の仕掛け物「爆弾三勇士」)
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西公園(桜ケ岡公園) |
概要、公園内の施設など |
戦前 |
仙台市中心部、広瀬川東岸にあり、東の榴ケ岡公園とならんで、仙台の代表的な公園
* 1875年(M8)6月、宮城県が設置(市史年表P81)
宮城県県令が旧仙台藩門閥の3つの邸地5447坪を収容し明治8年に公園とし「櫻ケ岡公園」と称した(別に本柳町公園、西公園とも称した)
園内には、
・ 桜ケ岡大神宮のほか、
・ 戦前は仙台市公会堂の木造本館(M42年に市が割烹・挹翠館=ゆうすいかんを買収)と洋館の新館(T5年竣工)
・ 公会堂前付近にS3年5月、地元有志「桜ケ岡会」により、動物園・噴水・池などが新設された。(Wikipedia「西公園」)
・ 軍馬の銅像(日露役殉死軍馬銅像)
・ 朝鮮館(S3年の東北産業博覧会の展示館の1つで、博覧会後に寄付された仙台市が民間に貸し付け、仙台銘産品の紹介所と喫茶があった)
・ 殉職消防組員招魂碑(S6年6月建立)
・ 花壇(S7年11月、市民の寄付で設置)などがあった
軍馬の銅像は戦時中の金属回収で1943年(S18)か1944年(S19)に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた 公会堂(本館、新館)は仙台空襲(S20年7月)で焼失、朝鮮館は焼失を免れたが、1950年(S25)に解体された
<参考>
・ 以上の記述にある「桜ヶ丘大神宮」「仙台市公会堂」「挹翠館」「軍馬の銅像」「朝鮮館」を、キーワードで検索すると、それぞれの詳細な記述あり
・ 「仙台市史本篇2 P371」に戦前期(推定、S5~6年頃)の公園の平面図がある ⇒ 写真[98-074]はその平面図の接写
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「仙台市史 年表」P81/「仙台市史 本編2」P367~373の「桜ガ岡公園」/Wikipedia「西公園」/「仙台あのころこのころ八十八年」P246
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53-63、99-119、44-67など分類D-13-02「桜ケ岡公園(西公園)」の全写真/「公園内見取り図」(昭和5~6年頃)は、98-074/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P119(桜ケ岡大神宮の鳥居と社殿)
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仙台市民金庫/仙台信用金庫 |
改称 |
1932年(S7)/1951年(S26) |
* 1932年(S7)10月3日、仙台市民金庫、創立 / 三越進出問題に触発されての設立(「番丁詳伝」P141)
* 1932年(S7)10月、仙台市民金庫を産業組合法により、定禅寺通・東一番丁突き当りに開業(「重訂 宮城県郷土史年表」P433)
* 1951年(S26)10月、仙台市民金庫を仙台信用金庫と改称
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「番丁詳伝」P141/「重訂 宮城県郷土史年表」P433、P552
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53-61、40-07、201-04、07-01-01、22-29/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(29~33年頃)の右端
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養賢堂 |
講堂 建築~焼失 |
1817年(文化14年)~1945年(S20) |
養賢堂は仙台藩の学問所
* 1760年(宝暦10)、北一番丁・勾当台通りの一角に移り養賢堂と名付けられた
* 1817年(文化14年)、講堂を建築
(木造平屋・東西24間南北24間・桟瓦葺=サンカワラブキ)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「宮城県百科事典」P1076「養賢堂」 /「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P41/「仙台市史 年表」P79、P100
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53-54/「目で見る仙台の歴史」P77~79(門、講堂、孔子廟、構内略図、絵図)/「新・「目で見る仙台の歴史」P110~111(養賢堂俯瞰図、講堂)/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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逓信関連 |
仙台逓信局 |
戦前期 |
・ 東二番丁・南町通り交差点の南東角にあった / 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1910年(M43)4月1日、仙台逓信管理局を仙台市に設置
* 1913年(T2)6月、北部逓信局と改称
* 1919年(T8)5月、仙台逓信局と改称
・ 終戦後、焼け跡に通称「仙台銀座」(木造6棟のマーケット、建坪3000坪)ができたが、S27年1月22日の仙台銀座大火で140戸焼失
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「仙台市史第2巻本編2」P717~718/「重訂 宮城県郷土史年表」P345、P554
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53-53/「目で見る仙台の歴史」P144/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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レジャーセンター |
竣工 |
1952年(S27)~1998年(H10) |
* 1951年(S26)4月2日、起工式
* 1952年(S27)6月10日、仙台市レジャーセンター、錦町公園内(東三番丁62)に完成し落成式、あわせて同施設内にサイエンスルームが設置される / 競技場200坪、観覧席2000名(「重訂 宮城県郷土史年表」P556では、6月13日竣工)
* 1952年(S27)6月、東三番丁にレジャーセンター建設 / 2階に競技場、競技場中央にボクシングのためのせり上げ舞台を設置、1階に脱衣場やシャワー室 / ラジオ仙台の放送室、録音室も併設 / 各種の集会、展示場としても使用(「仙台市史 続編第2巻」P203)
* 1959年(S34)8月14日、大時計をレジャーセンター前に建設し除幕式(郵便友の会東北地連が皇太子ご成婚記念に)
* 1968年(S43)3月、サイエンスルームは新設される仙台市科学館(東二番丁・青葉通り角の日本長期信用銀行ビル地下に開設)へ移転統合
* 1998年(H10)6月、レジャーセンター閉館
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「重訂 宮城県郷土史年表」P556、P593/「仙台市史 年表」P117、P125/「仙台年表」P224/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P203
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53-50/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P203の写真58/「目で見る仙台の歴史」P184/「市民の戦後史(仙台市)」P68/「新・目で見る仙台の歴史」P179/「仙台市史 特別編4 市民生活」P287(S28年撮影)
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街灯(芭蕉の辻) |
戦前 5灯型 |
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戦前> 道の両側に真新しい(白い柱の)街灯が建てられた / 昭和3~4年頃の写真53-49「芭蕉の辻と市電芭蕉の辻線」には写る / 1基5灯型(四方へ4灯、上に1灯)
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53-49
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街灯(旧・大町四丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧・大町4丁目の街灯は1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ、アームは道に直角)/ T14年頃の写真 43-25 には街灯はなかった / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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53-46、22-52、20-46、20-47
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仙台市街自動車 |
設立~市が買収 |
1919年(T8)~1942年(S17) |
伊勢久治郎が設立、市民に「銀バス」の愛称で親しまれた
* 1919年(T8)7月16日、仙台市街自動車、創設(社長 伊勢久治郎、資本金20万円)
* 1919年(T8)11月10日、乗合自動車の営業開始、仙台停車場を起点に市内の南北、および市外は増田、閖上、深沼などまで走った
* 1930年(S5)7月、市内遊覧バスの運行を開始
* 1942年(S17)7月1日、33万円で仙台市に買収され、8月21日から「仙台市営バス」として営業開始
<参照>[写真98-149]は、昭和11年当時の「仙台市交通網図」で、当時のバス路線網も記載
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「重訂 宮城県郷土史年表」P373/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P86、P187(市電年表)/逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P99、P105/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
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53-46、22-10、53-15、98-104、53-121/仙台市交通網図は、98-149/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(パンフレット「仙台遊覧自動車案内」)
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第二高等学校(旧制) |
北六番丁校舎時代 |
1926年(T15)~1945年(S20) |
<北六番丁校舎時代>
東北帝国大学法文学部設置にあたり片平丁の校地を提供して、北六番丁(現・東北大学農学部)に移転した
* 1925年(T14)7月、北六番丁校舎へ移転(「宮城県百科事典」P637)
* 1926年(T15)10月9日、二高新築校舎、尚志会運動場落成(「重訂」P404、「仙台年表」P197、「市史10 年表」P268)
* 1927年(S2)、自治問題や明善寮管理問題をめぐり校長排斥のストライキ
* 1934年(S9)12月28日、旧制二高7名と東北帝大ボート部員3名、松島湾で突風吹雪のため遭難、10人死亡(「重訂」P443、「市史10 年表」P284)
<護国尚志会>
* 1941年(S16)1月8日、第二高等学校護国尚志会発会式(「市史10 年表」P300)
* 1944年(S19)7月20日、第二高等学校護国尚志会、二高総蹶起大会挙行(「重訂」P502、「市史10 年表」P308)
<戦時中、修業年限短縮>
* 1941年(S16)10月16日、勅令第924号「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」により、大学・高等専門学校、中等学校での就業年限を6か月短縮 / この年は12月に、翌年3月卒業予定者を繰上げ卒業
* 1942年(S17)8月21日、修業年限3年から2年に短縮(中等学校は5年を4年に短縮)
* 1943年(S18)1月21日、大学令改正で、大学予科、高等学校の修業年限を3年間から2年間に短縮(「市史10 年表」P304、「菅家」P30)
<終業年限短縮 Wikipedia「旧制高等学校」より転記>
「太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措置として1942年、43年には半年繰り上げの2年半で、また、1943年入学の学年からは法改正により正式に修業年限が2年に短縮された。ただし、終戦直後の1945年9月に再び修業年限3年に改められたため、2年の年限で卒業したのは1943年入学の学年だけである。 」
<校舎焼失>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、北六番丁校舎焼失(その後、三神峯に移転)
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「宮城県百科事典」P637/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「重訂 宮城県郷土史年表」P404、P443、P502/「仙台年表」P197 /「仙台市史10 年表」P268、P284、P300、P304、P308/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P10/「菅家年表」P36/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P312/新・目で見る仙台の歴史」P148/「仙台市史 特別編4 市民生活」P536
Wikipedia「旧制高等学校」2020年8月版
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53-41、53-42/「新・目で見る仙台の歴史」P148(S2年、校長排斥スト、講堂で集会と決議文)/「目で見る仙台の歴史」P160(松島湾ボート遭難30分前の写真)
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藤崎(戦前期) |
北売場 開店~焼失 |
1935年(S10)~1945年(S20) |
* 1935年(S10)12月14日、「藤崎北売場」開店
・ 東一番丁・大町角(北西角)の梅川漆器店舗跡地に建設
・ 木造、地下1階地上3階建
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「藤崎170年のあゆみ」P203
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53-33、64-03/七夕飾りは20-32、20-48/「藤崎170年のあゆみ」P203に全景写真/「番丁詳伝」P43/地図は98-110
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朝鮮館 |
建設~取壊し |
1928年(S3)~1950年(S25) |
* 1928年(S3)、「朝鮮館」建設
昭和3年に仙台で開かれた「東北産業博覧会」の際、桜ケ岡公園に朝鮮総督府が出品する展示館として建てられた極彩色の建物(場所は桜が岡公園の北西の隅)
* 1930年(S5)、仙台市が物産陳列室を設ける(博覧会後、寄付された仙台市が民間に貸し付け、仙台銘産品の紹介所と喫茶があった)
* 1945年(S20)の仙台空襲では焼失を免れたが、1950年(S25)に取り壊された
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「仙台市史 本篇2」P370/「仙台市史10 年表」P275
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53-32、08-05 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P86
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梅川漆器舗 |
閉店 |
1935年(S10)? |
* 1935年(S10)?閉店 / 「梅川漆器舗」の場所(東一番丁・大町交差点の北西角)には、S10年に、「藤崎」が「北売場」(木造地下1階地上3階建)を建設し、同年12月14日に開店
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53-20、 53-70-01、98-017、 20-47
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テレビアンラジオ |
発売開始 |
1936年(S11)7月1日 |
山中電機が発売した、時計つきのラジオ
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「日録20世紀 1936年」P30
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53-14に「テレビアンラジオ」の広告看板あり
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明治百年 |
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1968年(S43) |
明治元年から100年経過した1968年(昭和43年)、国内各地で記念行事や催しが開催された
* 1967年(S42)6月21日、明治百年記念として台原森林公園(59ha)開設きまる(全国10カ所に開設する施設のひとつ)
* 1968年(S43)10月23日、明治百年記念式典
* 1968年(S43)10月、仙台市が記念植樹式
* 1973年(S48)4月、台原森林公園開園
→ 項目「台原森林公園」参照
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62/「市民の戦後史(仙台市)」P211
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53-125(仙台七夕 明治百年に因んだ飾り)/「市民の戦後史(仙台市)」P211(市が記念植樹)
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仙台高等工業学校 |
開校 |
1907年(M40)~1951年(S26) |
官立の仙台高等工業学校は、(旧制)中学校卒業者が入学した3年制の専門学校
・「SKK」は校名の略称(仙台、高等、工業の頭文字を並べた)
・「SSKと萩の葉」を組み合わせ校章とした
* 1906年(M39)3月29日、文部省直轄学校一つとして設置
* 1907年(M40)4月20日、仙台高等工業学校開校(敷地,校舎は、南六軒丁の宮城県立仙台第一中学校を充当) / 名古屋、熊本につぎ3番目 / 土木、機械、電気の3工学科と採鉱冶金学科
* 1912年(M45)3月29日~1921年(T10)3月31日の間、東北帝国大学に包摂され、東北帝国大学工学専門部と改称
* 1921年(T10)4月、再び仙台高等工業学校として独立、再発足
* 1939年(S14)3月29日、工業化学科を新設(定員35名)
* 1944年(S19)4月、仙台工業専門学校に改称
* 1948年(S23)6月25日、同盟休校(教育防衛闘争)
* 1949年(S24)、東北大学に包摂された(工学部に合併され、東北大学仙台工業専門学校と改称)
* 1951年(S26)3月:東北大学仙台工業専門学校、廃止。
「写真53-120」の校舎は、1908年(M41)竣工~1926年(T15)6月全焼
「写真18-03」の校舎は、東北大学発足後は、第二教養部校舎となり、その後は、東北大学通信研究所が使用した
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「重訂 宮城県郷土史年表」P335、P337、P467/「宮城県百科事典」P579『仙台工業専門学校』 /「明治の洋風建築-宮城県-」 P69とP78『仙台高等工業学校』 /「仙台市史 年表」P94、P100、P113/「仙台市史10 年表」P318/Wikipedia「仙台高等工業学校」(2020年3月)
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53-120、18-03/「新・目で見る仙台の歴史」P141/「新・目で見る仙台の歴史」P141(校門と校舎)/「市民の戦後史(仙台市)」P39(仙台工業専門学校)
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仙台七夕 |
終戦直前、1本の七夕飾り/戦後復活七夕第1号 |
1945年(S20)/1946年(S21) |
<終戦直前、1本の竹飾り>
* 1945年(S20)8月5日、「広島へ原爆が投下されたその前日、(仙台空襲で焼け残った)一番丁三越前に一本の青竹が風に吹かれていた。近寄ってみると、それは申し訳のように、五色の細く切った紙がつるしてある。仙台に育った私に、いままでこれほど美しいと思ってみた七夕竹はまだなかった。」(一番丁一丁目の瀬川善太郎氏の回顧 / 「番丁詳伝」P156より)
<敗戦翌年、東一番丁で七夕復活>
* 1946年(S21)8月5日、敗戦の翌年夏に東一番丁通りの森権五郎さん(森天祐堂)が仙台で一番早く自分の店の前に七夕飾りを出した
* 1946年(S21)8月6日~7日、東一番丁で商店52軒が一斉に七夕飾りをあげる
・ 戦争が続いて仙台七夕は昭和12年を最後に途絶えていた。
・ S20年7月、仙台は米軍による空襲で市中心市街地500ヘクタールが灰燼に帰すが、敗戦翌年のS21年8月、東一番丁の焼け跡に戻って商売を再開した商店主たち52戸(当時の全戸)が、バラック建ての商店街で市内のトップをきっていち早く七夕飾りを掲げ、多くの市民が見に訪れた / 森さんがトラックで近郊から竹を手に入れ運び、52軒に配った / 市民による戦後復興の狼煙となった
【「番丁詳伝」P156】より 「昭和21年は、新円切換えや農地改革が行われ、食糧事情は極度に悪化して生きることに汲々としていた混乱の時であった。(空襲の)焼け跡がまだだいぶ残り、歯の抜けたようにまだ軒並みも続かない東一番丁だった。 (8月)7日付けの河北新報は「十年ぶりの七夕祭り涙の出るほど懐かしい」の見出しで紙面をさいたが、これは復興に活を入れるとの心意気で東一番丁の人々が相はかって企画したので、荒れすさんだ生活となにもない欠乏時代の市民に一抹の清涼剤となった。(中略)52本の七夕飾りが取り去られた8月中旬、東一番丁旧一力邸跡で盆踊り、また広瀬川に5年振りで灯篭流しが行なわれるというように、この年の夏の行事は平和をとりもどした喜びの祭りとなった。」
<参照> 仙台七夕の概要は、当サイト内、写真データベースの【解説】E 「仙台七夕」
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「森権五郎さんの手記」/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史年表 10 年表」P313/「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「番丁詳伝」P156
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53-12(森さんが掲げた戦後七夕第1号)
/「市民の戦後史(仙台市)」P33(東一番丁・戦後復活した七夕に集まった人々)
/戦前・戦後の七夕は、写真分類E「仙台七夕」の全写真
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園 開園 |
1936年(S11) |
* 1933年(S8)、失業対策事業で、広瀬川沿いの評定河原が埋め立てられ、北半分は東北帝国大学のグラウンドとなり、南隅は動物園用地となった
* 1936年(S11)4月1日、仙台市動物園が評定河原埋立地に開園(当時、東京以北で唯一の動物園で、昭和12年12月までの入場者は31万人)
・ 入園料(昭和11年) 大人15銭、軍人10銭、小人5銭(昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64)
・ 坪数8150坪、収容動物150種500点、初代園長漆沢忠雄(「重訂 宮城県郷土史年表」)
・ 象・虎・ヒョウ・白熊など35種100頭を、閉園した東京浅草の花屋敷動物園から譲り受け、それに加えて200余頭を購入した(「仙台はじめて物語」)
・ 3月29日に収容動物到着、4月1日開園、165種471点(仙台市史10 年表)
・ 入場者、昭和11年(4月~12月)に31万人
・ 入場者 昭和12年17万人、13年20万人、14年26万人と戦乱(日中戦争)が拡大しても、観客は減るどころか年々増えていった(「戦争のころ 仙台、宮城」P40)
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「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 年表」P108/「仙台はじめて物語」P104~105 /「仙台市史10 年表」P288/「重訂 宮城県郷土史年表」P451/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「市史せんだい Vol2」P15/昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P40
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53-119/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204(仙台市動物園開園記念観覧券と市電乗車券)
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復興盆踊り |
開催 |
1946年(S21)8月 |
* 1946年(S21)8月、「復興第一年祝賀盆踊り」
・ 敗戦(S20年8月)の翌年、東一番丁では他の町内に先駆けて、復興盆踊りを開催
・ 場所は、東一番丁大通りの一力邸(河北新報社会長)の空襲焼け跡の原っぱ (その後、この場所は「青葉通り」になった)
・ 「森権五郎氏が中心になり戦後初の盆踊り大会が開かれ毎晩数万人が集まる」(「東一番丁創立五十周年」P8より)
・ 薄田清が「伊達で鳴らした仙台さまの心意気だよ地固めも・・・」と復興盆おどりを作詞し、お囃子は柴田量平が受けもった」(「仙台市史 続編第2巻」P197~198)
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「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197~198
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53-09、53-26
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商店など |
繁田園(茶舗)/お茶の井ケ田 |
1920年(T9) |
* 1920年(T9)、繁田園が国分町で茶舗創業
* 1928年(S3)、東一番丁通りへ移転(住所は大町5丁目)
* 1948年(S23)、『お茶の井ケ田』に改称
ただし、[写真16-41](S25年頃撮影)には、まだ「繁田園」の看板がある
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「お茶の井ケ田」社長の井ケ田徳治氏談/「番丁詳伝」P98
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49-01、49-02、49-03
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東一番丁百年祭大仮装行列 |
開催 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日~17日、開催
・ 武家の町だった東一番丁が、明治維新後に商業の町として一歩を踏み出して一世紀になるのを記念して開催された
・ またS41年は、藩祖政宗公生誕(永禄10年=1567年)から400年目にあたる
・ 大仮装行列は、東一番丁の商店主たちが藩政時代から現代までの歴史を、仮装で表した
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東一番丁創立五十周年」P9の「連合会の歴史」欄/東一番丁の粟村寅之助氏談/「市民の戦後史」P185/「重訂 宮城県郷土史年表」P626
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47-01、47-02、47-03、47-04、47-05
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