項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
スポーツ大会(戦後復興期) |
全日本サッカー選手権 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)5月、第31回全日本サッカー選手権大会(宮城野原サッカー場) / 地元仙台サッカーは4位
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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仙台市役所庁舎 |
第二庁舎 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)5月14日、仙台市役所第2庁舎、上杉1丁目に落成
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「続・ 宮城県郷土史年表」P177
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日米野球 |
米大リーグ選抜対巨人軍 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)10月25日、日米親善野球、米大リーグ選抜対巨人戦、宮城県営野球場で開催 / オドール監督以下ディマジオ兄弟ら
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「仙台市史10年表」P326/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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満蒙開拓 |
宮城県関連(1) |
1932年(S7)~ |
<武装移民団>
* 1932年(S7)10月、宮城県初の武装満州移民団(開拓団)出発(「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183) / <編者注> 日付から、東北や長野県など数県の在郷軍人で構成する武装移民団「満州第一次武装開拓団弥栄村」と思われる
<満蒙開拓青少年義勇軍>
* 1938年(S13)1月、宮城県内で満蒙開拓青少年義勇軍募集が行われる
* 1938年(S13)~1942年(S17)の間に、当時の仙台市内から満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州へ入植したのは103人(「仙台市史第2巻本編2」P604の表103)
* 1940年(S15)2月4日、宮城県は、大陸開拓のため県下農民海外移住を計画
* 1941年(S16)3月1日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が「満蒙開拓現地通信」放送開始
<宮城県人の移住地(例)>(「近代みやぎの歩み」より)
* S12、黒竜江省慶安の宮城村 /S12、趙家店、安拝 /S14、錦州省興城 /S15、六間房 /S16、頭導梁子
* 宮城県は満州開拓民団を昭和9年第1次から昭和18年第10次まで2000戸以上を満州へ入植させた(「仙台年表」P213)
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設(「仙台市史 年表」P111~112) → <商工業者がS17年に入植した仙台村開拓団>は、小項目「宮城県関連(4) 仙台村」に記述
・ 「仙台市史第2巻本編2」P604の103表に、宮城県からの満蒙開拓移民数(昭和13~19年、満蒙農業移民、満蒙開拓青少年義勇軍、仙台開拓団)
・ 「宮城県開拓団の記録」によれば、宮城県出身の開拓村関係者6743人のうち、帰国できたのは3267人(全体の48%)(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216)
* 1978年(S53)8月20日、松島町瑞巌寺境内に満蒙開拓団員の慰霊碑「拓魂」、除幕
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「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183/「仙台市史 年表」P109、P111/「仙台市史10 年表」P304/「仙台年表」P210、P212、P216/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P15/佐々久「近代みやぎの歩み」P106/「続・ 宮城県郷土史年表」P84/「仙台市史第2巻本編2」P604/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P170
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偕行社 |
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→ 項目「仙台偕行社」参照
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高等学校(新制) |
仙台育英学園高等学校 |
1948年(S23)~ |
<前史>
* 1905年(M38)、加藤利吉、仙台市東四番丁に私塾「育英塾」を創立。
* 1922年(T11)4月、私立「仙台育英中学校」、外記丁に開校
* 1939年(S14)、校舎新築
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で全校舎焼失 / 以後、上杉山国民学校、次いで長町国民学校において授業継続
* 1946年(S21)、宮城野の旧陸軍用地の一部に、約7,000坪の校地を確保
<学制改革で高校に>
* 1947年(S22)4月、財団法人仙台育英学園設立認可、学制改革により私立「仙台育英学園高等学校」開校。私立「仙台育英中学校」を併設
* 1949年(S24)、宮城野原に新校舎完成し移転 / 翌年、第2期工事完成
* 1951年(S26)、学校法人仙台育英学園設立認可
* 1955年(S30)、商業高等学校設立(S37年に育英高校に合併 / 育英高校は普通部と商業部となる)
* 1956年(S31)、仙台育英中学校閉校
* 1961年(S36)、新校舎「南冥」落成 / 続いて本館「栄光」、図書館等完成
* 1965年(S40)3月10日、「第二北辰」「第二南冥」、図書館、体育館焼失(S41年3月までにすべて復興)
* 1984年(S59)、全日制普通科総合コース制を導入
* 1986年(S61)、新設の外国語コースで、男女共学制開始
* 1987年(S62)、カナダの高校他4校と姉妹校提携
* 1991年(H3)、多賀城校舎起工式
* 1998年(H10)、通信制課程開設
* 2001年(H13)、光星学院協力で広域通信制「ILC青森」開校
* 2003年(H15)、東北私学初の中等教育学校 仙台育英学園秀光中学校
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仙台育英学園高等学校HP/「仙台市史 年表」P101/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P514~515
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全日本学生ヨット選手権 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)7月、全日本学生ヨット選手権(松島湾)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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日米野球 |
全米オールスターズ対全パシフィック |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月22日、宮城県営野球場で、全米オールスターズ対全パシフィック軍(米3-日0)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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満蒙開拓 |
宮城県関連(2)満蒙開拓団リスト |
1932年(S7)~ |
<(戦争のころ 仙台、宮城」P164~165より転記>
・ 宮城県は長野県、山形県に次いで全国で3番目に開拓団を多く送り出した県といわれ、国策の名のもと38地点に1万2000人の開拓団や義勇隊が渡満した
・ 宮城県知事引継書(昭和17年10月7日 林信夫知事→加藤於兎丸知事)の記述
「北海道自作農や、南米、南洋方面への移住希望者はほとんどなく、目下満州開拓民の創出に全力を挙げている。特に(南郷村のような)分村計画を樹立したところもあり移民業務は円滑に行われている」
・宮城県から渡満開拓団のリスト
昭和7年、第1次弥栄村37人 8年、第2次千振郷39人 9年、第3次瑞穂村17人 10年、第4次城子河、吟達河44人 11年、第5次大安屯、朝陽卍、黒台南郷、自警村移民168人 12年、第6次湯原、第7次先遣隊304人 13年、第7次本隊拉林、安井、第8次先遣隊420人 14年、第8次本隊横泰、青葉、韓家、第9次先遣隊173人 15年、第8次、第9次補充、第10次先遣隊137人 16年、第8、9、10次補充210人 17年、第8、9、10次補充216人 (以上、昭和17年知事引継書より)
以降は昭和19年まで続き、沙河子仙台657人、三裸樹北方村34人、三竜津久毛45人、吟達村南郷122人が移住(以上、鈴木文雄編著「宮城県開拓団の記録」)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P164~165
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スポーツ大会(戦後復興期) |
日米対抗陸上競技大会 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)8月15日~17日、日米対抗陸上競技大会(会場は、8月10日に開場した宮城県営宮城野原陸上競技場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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日米野球 |
来仙チーム |
1953年(S28)?~1956年(S31) |
* 1953年(S28)?、ニューヨーク・ジャイアンツ来仙試合
* 1955年(S30)、ニューヨーク・ヤンキース
* 1956年(S31)、ブルックリン・ドジャース
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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満蒙開拓 |
宮城県関連(3)南郷村の分村 |
1936年(S11)~1945年(S20) |
・ 南郷村(現・美里町)は県内で満州開拓(移住)に最も熱心だったと言われ、満州の各地に数十戸ずつの移住者を送り「南郷集落」を展開(分村計画)
・ 提唱者は南郷村の国民学校校長松川五郎氏、米作地帯の南郷で安定した経営を図るには1戸3ha必要とし、計算上はみ出す農家405戸を満州移住させる計画に多くの村民が応じた
・ 1936年(S11)以降、第5次黒台村50戸、第6次宮城村、第7次安拝村など、各地に数十戸ずつ、計約300戸、1500人
・ 1944年(S19)には、第13次南郷開拓団122人をソ連国境付近に
・ 大陸の花嫁のはしりとなる乙女たちが渡満したのも南郷村が先駆
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P165
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高等学校(新制) |
聖和学園吉田高等学校/聖和学園高等学校 |
1948年(S23)/1986年(S61) |
<前史>
* 1930年(S5)4月8日、宮城県仏教会が吉田高等女学校開設(東三番丁の東本願寺別院が仮校舎)
* 1930年(S5)9月、木ノ下旧国分寺薬師堂隣接地に新校舎建築し移転
* 1936年(S11)、財団法人吉田高等女学校認可
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)、新制高等学校を設置、聖和学園吉田高等学校と改称し、吉田中学校も併設
* 1951年(S26)、学校法人聖和学園設立認可
* 1978年(S53)、創立時建設の高等学校木造校舎解体
* 1979年(S54)、中学校廃校
* 1980年(S55)、創立50周年記念式典挙行並びに講堂兼体育館及び管理棟落慶式
* 1986年(S61)、聖和学園高等学校と改称
* 2003年(H15)、薬師堂キャンパス竣工、三神峯キャンパス竣工、男女共学制開始、5コース制導入
* 2006年(H18)、全コース男女共学
* 2010年(H22)、創立80周年記念式典
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聖和学園高等学校HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529/聖和学園高等学校HP
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スポーツ大会(戦後復興期) |
宮城県高校総合体育大会(第1回) |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)5月23日、第1回県下高等学校総合体育大会始まる
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「仙台市史10 年表」P328
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仙台城二の丸焼失 |
焼失 |
1882年(M15) |
資料により、出火原因が異なっている
* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1882年(M15)9月7日、川内(旧仙台城跡)の仙台鎮台で火災発生、鎮台本営などの施設のほか、旧仙台城二の丸の建物のほとんどが焼失
* 1882年(M15)9月7日、旧仙台城二の丸(仙台鎮台本営)は雷火によりて火災を起こし、伊達家累代の建物等ことごとく焼失す。わずかに征韓の折、豊太閤より賜りたる大手門(名護屋にありし門)と巽門とのみを残したるに過ぎざりき / 二の丸遺構の9割、17~8棟焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P265)
* 1882年(M15)、追廻で行われた西南戦争の招魂祭の花火のため二の丸が全焼(「仙台市史 続編第2巻」P163)
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232/「仙台市史 年表」P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P265/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P163
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ニッカウイスキー工場 |
仙台工場 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)5月10日、仙台工場を宮城町新川地内に完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P649
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満蒙開拓 |
宮城県関連(4-1)仙台村 |
1942年(S17)~1945年(S20) |
<商工業者が入植した仙台村開拓団(仙台村)>
【仙台市市 年表」P111~112】
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設
【「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46】
1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊26名、仙台駅を出発(「仙台年表P212]では、7日出発) / 第1陣11家族42人は一応、宮城村愛子の農学寮で訓練をうけ、7月10日、仙台市から贈られた「開拓旗」を先頭に出発 / 浜江省五常県沙河子(しゃほうず)地区に入植、仙台村を建設 / 仙台村に移民したのは、戦時中の価格統制下で生業を失った仙台の商工業者たちが中心 / S19年6月まで250戸、約1000人が入植したが、敗戦後帰国できたのは209人に過ぎなかった
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P317】
* 仙台開拓団は、1942年(S17)3月結成 / 宮城郡広瀬村愛子の農学寮に入所して訓練を受け、先遣隊25名が4月6日に仙台を出発 / 翌年(S18)6月までに第5次本隊まで103戸が海を渡り、現地採用の4戸を加えて107戸415人が入植し仙台村を形成している / 同年9月には開拓団内で9組が結婚、13人が出生したとあるが、戸数110戸、412人とされている / 入植先は、ハルビンから南南東に鉄道拉浜線で3時間、さらに森林鉄道で4時間を要する浜江省五常県で沙河子(しゃほうず)という場所で、平坦で耕作に利用できる土地が1万haはあるというが、その中には現地の中国・朝鮮の農民から買収済という既耕地や家屋も含まれていたようである。このような土地には当局が強制的に買い上げた例が多いといわれている / 開拓団は仙台市内の中小商工業者の転業・廃業者を中心とするものであった。戦争の影響による経済統制のため、営業が成り立たなくなって転業・廃業に追い込まれた人々も少なくはなく、悪性インフレも進行していた / 団員は市内の居住者が大多数で、全市にわたり、北目町、連坊小路、南鍛冶町、南染師町、小田原、元寺小路、北四番丁、東二番丁などの周辺が多くなっている / 職種も多岐にわたるが、農家は少数で、各種食品・衣料・雑貨類の小売商、食品その他の加工業、サービス業など零細な経営を想像させるものが多く、やむぬやまれぬ事情がうかがえる。ほかに職工・工員や郵便局員も含まれている / 戦局の悪化につれ、この人たちについての情報はなくなるが、ソ連参戦後の逃避行とその引き揚げの苦難については多くの悲惨な事実が伝えられており、(「仙台市史 続編第1巻」によれば)「仙台村」には最終的に約250戸、1000人が入植し、帰国できたのは209人にすぎなかったといわれる
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216=出典は「河北新報」S21.10.28)
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「仙台市史 年表」P111~112/「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46/「仙台市史 特別編4 市民生活」P317/「仙台年表」P216
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高等学校(新制) |
聖ウルスラ学院高等学校/聖ウルスラ学院英智高等学校 |
1959年(S34)/2005年(H17) |
<前史>
* 1936年(S11)、カナダから来仙した修道女が北四番丁で家庭学校の前身を創設
* 1940年(S15)、市内木ノ下に修道院を開設
* 太平洋戦争中、修道女たちは拘束され、修道院は軍の無線通信講習所として接収、戦後は戦災を受けた白百合学園に貸与
* 終戦後、修道女たちは一旦カナダに帰国、1947年(S22)に再来日
* S23年に木ノ下に家庭学校、S24年に幼稚園、S25年に小学校開設 / S30年に、一本杉の旧伊達伯爵邸跡に中学校創設
<高等学校>
* 1959年(S34)、学校法人聖ウルスラ学院が高等学校を開校(一本杉の旧伊達伯爵邸跡に)
* 2003年(H15)、一般と特別志学のコース制を導入
* 2005年(H17)、高校の新校舎完成
<校名変更>
* 2005年(H17)、校名を、聖ウルスラ学院英智高等学校に変更 / 特別志学コースを男女共学制とする
* 2007年(H19)、特別志学コースType2を新設し、特別志学コースType1、尚志コースの3コースとする
* 2012年(H24)、校舎一体型の小・中学校と併設型高等学校の一貫教育(4・3・2+3)の実現
* 2017年(H29)、南小泉総合グラウンド完成
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P530~531
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全国高校レスリング選手権 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月、全国高校レスリング選手権(レジャーセンター)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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仙台庶民金庫 |
開業 |
1923年(T12) |
* 1923年(T12)7月、仙台市街地信用組合として開業、同年12月に仙台庶民金庫と改称(「仙台市史 年表」P102)
* 1923年(T12)4月、定禅寺通りに(有)信用組合仙台庶民金庫、設立(「仙台市史 特別編4 市民生活」P515)
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「仙台市史 年表」P102/「仙台市史 特別編4 市民生活」P515
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満蒙開拓 |
宮城県関連(4-2)仙台村(つづき) |
1942年(S17)~1945年(S20) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P166~167】にも、「仙台村」開拓団の記述あり
・ 農作業は4戸1組となり、水田3ha、畑7haを共同経営、米、大豆、小豆、大麦、小麦、コーリャン、馬鈴薯、家畜として牛38頭、馬60頭、ニワトリ50羽
・ 朝6時起床、朝食7時、作業は8時~夕方5時、朝食だけは、共同炊事場で作ったものを皆で食べる
・ 開拓団本部は東西500m、南北800mの土塁で囲まれ、これを二分して半分が日本人、残る半分に満州国民、朝鮮人が住んでいた
・ 国策として入植した仙台村には、激励を兼ねて宮城県や仙台市の職員が視察、河北新報記者も取材し現地ルポを記事にした
<敗戦時>(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
「敗戦時、「仙台村」では周囲を囲んでいた土塁を破って数百人の暴徒が侵入、立ちはだかる者に容赦なく大きな鳶口が振り下ろされました。 男たちだけでなく婦女子、赤ちゃんも殺され、それだけでなく、逃亡の途中にも栄養失調で餓死したり、絶望の果てに自殺したりした人もいました。 「子供を売れ」と言われて従った人、生きるために中国人の妻になった人もいました。この結果、「仙台村」に入植した約250戸、1000人のうちで、帰国できたのは209人(仙台市史)とか、657人中、引き揚げたのは396人(「宮城県開拓団の記録」)との説もあります。」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P166~167、P170
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高等学校(新制) |
聖ドミニコ学院高等学校 |
1960年(S35) |
<前史>
* 1931年(S6)、聖ドミニコ女子修道会本部より5人の修道女が来日、仙台に修道院を設立
* 1933年(S8)、 暁の星学院(外国語教育)を設立
* 1937年(S12)、暁の星幼稚園(のちの、聖ドミニコ学院幼稚園)を開園 / 戦争のため一時休園
<戦後>
* 1949年(S24)、私立北仙台幼稚園(のちの、聖ドミニコ学院北仙台幼稚園)を開園
* 1953年(S28)、学校法人聖ドミニコ学院創立、聖ドミニコ学院小学校設立、暁の星幼稚園を聖ドミニコ学院幼稚園と改名
* 1959年(S34)4月、聖ドミニコ学院中学校を開校(S56年、生徒数の減少により休校 / H21年、中学校再開)
<高等学校>
* 1960年(S35)4月、聖ドミニコ学院高等学校を設立(北五十人町、のちの角五郎丁6丁目)
* 1983年(S58)、学院創立30周年 / 新校舎落成
* 2003年(H15)、学院創立50周年
* 2008年(H20)、高等学校のコース制再編(2コースより、特別進学コース、総合進学コース、幼児保育進学コース、キャリアデザインコースの4コースとなる)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P531/Wikipedia「聖ドミニコ学院中学校・高等学校」
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全日本自転車競技選手権 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月、全日本自転車競技選手権(宮城野原自転車競技場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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満蒙開拓 |
宮城県関連(5)農漁村スタイルの亘理開拓団 |
1940年(S15)~1945年(S20) |
・ 亘理郡の農漁民で構成する興城亘理開拓団
* 1940年(S15)11月、山下村(現・山元町)、荒浜村(現・亘理町)から先遣隊13人
・ 場所は、大連と山海関の中間、渤海湾に面した温暖な海岸で近くには興城温泉、陸軍の温泉保養所、飛行場もある南満州随一の保養地
・ 開拓団は、中国人の没落豪農の屋敷を買い取って本部とし、敗戦時の規模は戸数60数戸、300人
・ 米と魚の二本立てで経営、内地から漁船を運び、現地の幼稚な漁法の改善を指導、カニ、エビ、カレイなどの漁獲高は倍増、米作は、満州の直播方式でなく内地の本植えにし、収量5割増、敗戦時の水田は150ha(1戸平均3ha)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168
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満蒙開拓 |
宮城県関連(6)満蒙開拓青少年義勇軍 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
・ 満蒙開拓青少年義勇軍は、満州現地では「満蒙開拓青少年義勇隊」と称す
・ 1938年(S13)、満15歳~18歳の希望者が、各地の連隊区司令部で口頭試問や身体検査を受け、茨木県にある内原訓練場で2か月、満州で3年間訓練された後、本格的な活動に入る
・ 開拓団の組織内には警備隊もあって軍事的性格があった
・ 国内の訓練所は、その後、全国に拡大、山形県大高根道場、岩手県六原道場などでも入植訓練
・ 1942年(S17)時点で、宮城県から1548人が渡満していた
・ ソ連国境近くの満蒙開拓青少年義勇隊の東寧訓練所の大一中隊(宮城県出身者)の回想録「嗚々東吟達湾」では、隊員は開拓民の仕事のほかに、関東軍と連動した軍事行動(軍需物資、食料品の運搬、無線傍受して広報用文書作成など)も行った / 1944年(S19)秋になると、隊員が続々軍に召集され入隊、敗戦後ソ連軍により、シベリア抑留生活を送った人が多かった / 1969年(S44)8月、松島・瑞巌寺で物故者50人の慰霊祭
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/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168~169
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スポーツ大会(戦後復興期) |
東北一周自転車競走 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)、第1回東北一周自転車競走
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P472
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ネオンサイン |
仙台では・・・ |
1928年(S3)~ |
* (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降
* カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。
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「番丁詳伝」P197
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水の森スケート場 |
開場 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)12月29日、仙台市が「水の森スケート場」を設置
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「仙台市史 年表」P129
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スポーツ大会 |
市民総合体育大会 |
1965年(S40)~ |
* 1965年(S40)10月1日~3日、第1回仙台市民総合体育大会(学区対抗などの形で、18競技)/ 1968年(S43)には25種目
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P479~480
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仙台市立病院 |
長町に新築・移転 |
2014年(H26) |
* 2014年(H26)11月1日、長町に移転・開院
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仙台市立病院HP(病院の沿革)/Wikipedia「仙台市立病院」
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ネオンサイン(全廃) |
全廃決定 |
1939年(S14) |
* 1937年(S12)8月24日、国民精神総動員実施要綱を決定
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など)
国民精神総動員運動は、1937年(S12)日中戦争勃発を受け「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を方針とした国民運動が企図され、開始された
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岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P16
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国際反戦デー |
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* 1969年(S44)10月21日、東北は7万人参加
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「重訂 宮城県郷土史年表」P653
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スポーツ大会 |
全国高校総合体育大会(第28回) |
1990年(H2) |
* 1990年(H2)7月31日、宮城県で、第28回全国高校総合体育大会開催
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「続・ 宮城県郷土史年表」P267
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国定公園 |
蔵王国定公園 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)8月8日、蔵王連峰を国定公園に指定(宮城県、山形県にまたがる)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P609
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スポーツ大会 |
仙台ハーフマラソン大会 |
1991年(H3) |
* 1991年(H3)3月17日、第1回仙台ハーフマラソン大会
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「続・ 宮城県郷土史年表」P271
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ネオンサイン |
オイルショック後復活 |
1975年(S50) |
* 1973年(S48)10月25日、石油ショック発生
* 1973年(S48)11月5日、石油ショックで東京など大都市のネオンが消える(「菅家年表」P67)
* 1974年(S49)1月16日、電力の使用制限始まる(16年ぶり)、ネオン、広告塔、テレビ放送時間短縮(深夜放送禁止)(「菅家年表」P68)
* 1974年(S49)10月6日、東京・銀座にネオンが復活(「菅家年表」P68)
* 1975年(S50)11月、オイルショック以来消えていた仙台のネオンが点灯復活(「続・ 宮城県郷土史年表」P47)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P67、P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P47
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緑の団地条例(仙台市) |
指定第1号 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)11月9日、第1号に茂庭台1丁目~5丁目を指定
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「続・ 宮城県郷土史年表」P153
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国定公園 |
栗駒国定公園 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)7月22日、栗駒山を中心にする一帯を国定公園に指定(岩手県、宮城県、秋田県、山形県にまたがる大規模な山岳国定公園)
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Wikipedia「栗駒国定公園
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スポーツ大会 |
仙台カップ・国際ユースサッカー大会 |
2003年(H15) |
* 2003年(H15)、第1回仙台カップ・国際ユースサッカー大会、開催 / 2010年(第8回大会)まで開催、2011年大会は東日本大震災の影響で開催が中止、以後も休止状態 / 会場は「仙台スタジアム」(2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」) /
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台カップ・国際ユースサッカー大会」(2020年4月)
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仙台スタジアム |
オープン |
1997年(H9) |
* 1997年(H9)6月、「仙台スタジアム」が、泉区七北田にオープン / 2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」
サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールの専用公式競技場として誕生 / サッカーのベガルタ仙台のホームスタジアム
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Wikipedia「仙台スタジアム」(2019年9月)
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ネオンサイン |
省エネ消灯 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)6月16日、省エネで、ネオン9割近く消灯
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「続・ 宮城県郷土史年表」P112
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国鉄(日本鉄道時代) |
東北本線 |
1887年(M20)~1906年(M39)10月 |
<日本鉄道時代>
* 1887年(M20)12月15日、開業
(当時は私鉄・日本鉄道で、塩釜まで開通)
* 同年12月20日、東京・仙台間の開通式挙行
* 1891年(M24)9月1日、仙台~青森間が開通
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「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86、P87
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スポーツ大会 |
ねんりんピック |
2012年(H24) |
* 2012年(H24)、年輪ピック宮城・仙台2012、開催
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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仙台赤十字病院 |
開設/改称/移転 |
1924年(T13)/1940年(S15)/1943年(S18)/1945年(S20)/1956年(S31)/1982年(S57 |
* 1924年(T13)10月18日、財団法人斎藤報恩会(桃生郡河南町の斎藤善右衛門)の寄付金により、「日本赤十字社宮城支部常設救護所(診療所)」が北一番丁に開設される(内科・外科・小児科で、対象は救急患者のみ)
* 1940年(S15)1月、日赤宮城支部仙台病院と改称(一般患者も受入れ)
* 1941年(S16)、看護婦養成所開設
* 1943年(S18)1月、「仙台赤十字病院」と改称
* 1945年(S20)3月、横須賀海軍仙台赤十字病院として、海軍傷病兵300人収容 / 一般患者は外来のみとなる
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で全焼、患者12人など18人死亡
* 空襲後移転先 愛子国民学校→青根温泉内の分院→S20年10月、片倉製糸工場(東八番丁)の一部借受け、一般患者診療開始(病床115)
* 1954年(S29)11月3日、病院建設起工式(清水小路)
* 1956年(S31)9月25日、県立病院を併置して清水小路に新築移転完了/ S36年10月、併設の県立仙台病院廃止
* 1982年(S57)3月20日、新病院が八木山本町2丁目に竣工、翌月14日診療開始
* 1982年(S57)4月14日、併設の東北初、「小児医療センター」新病棟完成
・ 戦時中は、応召看護婦101人
・ 災害地への出動、無医村、開拓地への巡回診療、戦後、中国や朝鮮からの帰還者の添い乗り診療なども実施
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P397/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P730~731/「仙台市史 年表」P102、P119、P132/「重訂 宮城県郷土史年表」P574/「続・ 宮城県郷土史年表」P145
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年賀郵便 |
戦時中に廃止 |
1941年(S16)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月6日、年賀郵便の取扱いを中止
* 1948年(S23)12月5日、昭和15年に廃止の年賀郵便を復活
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P42
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国鉄(鉄道省時代) 1 |
日本鉄道 →国有化(鉄道省) |
1906年(M39)11月~1945年(S20)8月 |
<鉄道省・運輸逓信省時代>
日本鉄道は、M39年公布の鉄道国有法により、
* 1906年(M39)11月1日、国有化された
* 1944年(S19)11月15日、東北本線岩切駅から分岐する「海線」(岩切~品井沼)開通
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「仙台市史 年表」P93/Wikipedia「日本鉄道」/「重訂 宮城県郷土史年表」P503
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国鉄(鉄道省時代) 2 |
戦時輸送(貨物優先体制) |
1938年(S13)~1943年(S18) |
<戦時中>
(所管は鉄道省、S18年11月運輸通信省、S20年5月運輸省)
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より)
* 1938年(S13)6月、鉄道輸送は旅客より貨物重点方針決定、戦時輸送優先(全国鉄道局長会議)
* 1938年(S13)、仙台鉄道局内に第1鉄道輸送司令部仙台支部設置(司令官は大佐)、1943年(S18)に仙台地区司令部となり(司令官は大佐)、仙台駅、弘前駅には停車場司令部が置かれた
* 1938年(S13)10月1日、銑鉄局管内で「銃後弁当」売り出し(15銭)
* 1939年(S14)11月15日、ダイヤ改正、旅客を従、貨物列車を主とする
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語の表示が消える(菅家年表P25)
* 1942年(S17)10月6日、閣議、戦時陸運非常体制を決定、東北本線は石炭輸送第一(北海道の石炭を京浜の軍需工場へ輸送)
* 1943年(S18)2月28日、国鉄乗客指定制実施(厳しい旅行制限)、食堂車、寝台車完全廃止
* 1943年(S18)3月10日、仙鉄局、11本の貨物列車新設(3月11日、石炭専用列車スタート)
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「ものがたり東北本線史」P507~P532/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25
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年中行事(まつり) |
仙台祭 |
1887年(M20)~ |
* 1887年(M20)10月、招魂祭に合わせて桜岡大神宮祭礼や青葉神社祭礼などの仙台祭がおこなわれる。 この年以降、招魂祭と仙台祭は合同開催となる
* 1899年(M32)、仙台まつりの山鉾は路上の電線その他の関係によりこの年限り廃止となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P315)
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「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P315
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国鉄(鉄道省時代) 3 |
戦時輸送(決戦輸送) |
1944年(S19) |
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より)
* 1944年(S19) この年、国鉄は徴用者、一般疎開、工場疎開、学童疎開、北海道からの石炭輸送、戦時物資などの輸送を重点とした / 戦時貨物輸送増強のため、国鉄長町ヤードを強化 / 4月からは「決戦輸送」
<女性増加>
* 1月、国鉄現場に女性が急激に進出(仙台局管内の8%に) / 出札、改札、小荷物、車掌、列車掃除手、踏切警手など
* 3月、女性が、貨物掛、荷扱手など重労働の職種にも
<急行列車など廃止>
* 4月1日、急行半減、寝台車廃止、一等寝台、食堂車廃止
* 4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ
* 9月、唯一の急行列車も廃止(昭和20年11月20日、仙鉄の急行列車復活)
<疎開輸送>
* 3月28日、東北地方初の疎開輸送用臨時列車(常磐線まわり一関行き)
* 4月25日~6月10日、疎開輸送強化期間
<旅行制限>
* 4月1日、100キロ以上の長距離旅行制限 / 旅行者は、警察の「旅行証明書」が必要
<旅行制限:以下、Wikipedia「決戦非常措置要綱」より>
旅行制限では100km以下の乗車券の発売枚数の割当による数量の制限のほか、100km以上(乗車時間2時間以上)の遠距離列車の切符について居住地の警察署発行の旅行証明書がないと購入できないようにする措置(買い出しや遊興旅行の制限が目的)が東京都区内・横浜市内・川崎市内駅発に限り試行されたが、警察署の第一線事務増加からの反対から5ヶ月後に廃止され全国施行はされなかった。(上田卓爾「戦時下における旅行制限とガイドブックについて」)
<これ以降は、項目「国鉄(戦後)」へつづく>
<戦後の東北線関連は、項目「国鉄(東北本線)」へ>
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「ものがたり東北本線史」P507~P532/Wikipedia「決戦非常措置要綱」
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隅櫓 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大手門と共に焼失
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仙台市HP
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