項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
敗戦後の諸相・仙台 |
生活抄から |
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生 活 抄 通子
・ 子供等が食にいやしくなり来つる
叱りつつあわれ国敗れたり
・ 配給日まで耐えこしあらな米をひき
糊にして食い三たび三度を
・ 今少し食あらばかく病ませじを
蒼白き鼻尖りて見ゆる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P73~74
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宮城県青年の船 |
実施 |
1973年(S48)~1989年(H1) |
* 1973年(S48)4月8日、フィリピンへ出港
* 1973年(S48)9月1日、マニラに向けて船出
* 1989年(H1)8月19日、最終回の青年の船、韓国へ出発
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「続・ 宮城県郷土史年表」P18、P23、P262
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(2)~さらに拡大し通年動員へ~ |
1943年(S18)10月/1944年(S19)4月 |
* 1943年(S18)6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」(閣議決定)
・学校報国隊の戦技訓練・特技訓練・防空訓練の徹底、女子は戦時救護の訓練実施
<勤労動員は1年の3分の1へ>
* 1943年(S18)10月、「教育に関する戦時非常措置方策」により、学校修業年限の抑制、学校の整理統合、戦時勤労動員の強化等を決定 / 勤労動員を在学期間中1年につき、概ね3分の1相当期間実施
* 1944年(S19)1月、「緊急学徒勤労動員方策要綱」決定
・動員期間は1年につき概ね4か月を標準とし、『継続して』行う」
<学徒の通年動員>
* 1944年(S19)2月25日、「決戦非常措置要綱」を閣議決定
・中等学校程度以上の学徒は、「今後1年、常時勤労その他非常勤務に必要に応じて動員」を決定
* 1944年(S19)3月、「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要項」を閣議決定
・1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導、教職員による勤務管理
* 1944年(S19)3月末、文部省、詳細な学校別動員基準を決定し指令 / 全国の学徒は、4月半ばごろから続々と軍需工場へ動員された
* 1944年(S19)5月、文部省が指示「勤務時間中に、軍事教育、教授訓育等のため、1週6時間を原則とする時間を設ける」
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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国民精神総動員運動 |
仙台市では |
1937年(S12)~ |
* 1937年(S12)7月7日、日中戦争開始
* 1937年(S12)9月、近衛文麿内閣、「国民精神総動員運動」開始により、市町村ごとに実行委員会結成
<仙台市>
* 1937年(S12)9月13日~19日、仙台市では一日ごとに目標を定め、全市民参加の国民精神総動員運動
・第1日:時局の日(明治天皇の「戊申詔書奉読」などの行事
・第2日:出征将兵への感謝の日
・第3日:非常時経済の日(職場・学校へは日の丸弁当持参奨励)
・第4日:銃後の護りの日(遺族の訪問など)
・第5日:神社参拝・殉国勇士を讃える日
・第6日:勤労奉国の日(早朝出勤・勤務時間延長)
・第7日:非常時心身鍛錬の日
・週間中、「国民朝礼ノ時間」設け、市職員は率先して市庁舎前で君が代を歌い、皇居遙拝、ラジオ体操をし、他団体に模範を示す
* 1937年(S12)11月14日、国民精神大講演会
* 1937年(S12)12月、仙台市国民精神総動員実行委員会結成 / 会長は市長、各種団体の長が委員、「挙国一致」「尽忠報国」の決意を市民に宣言、軍国精神の高揚を促すためのものであるが、消費節約も強く打ち出した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P408)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P312~313、P408
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戦後教育・仙台 |
新制中学校発足 |
1947年(S22) |
<新制中学校>
* 1947年(S22)3月31日、仙台市立中学校19校、市立高等学校6校設置(「仙台市史10 年表」P315)
* 1947年(S22)4月1日、仙台市で29校の新制中学校開校
(「仙台市史年表」P115) / <編者注> 29は、市立18、官立1、私立10の合計
<市立中学校の校舎建築>(仙台市史 続編第1巻)
・ 市立新制中学校は18校
・ 五橋など旧高等小学校4校はそのまま中学校に移行したが、14校は校舎がなく学区内の小学校に併置、授業は小学校教室を借りての二部授業だった
・ S27年までに18校校舎が新築され二部授業は解消したが、引き続き生徒増加に追われながら新増築が進められた
・ S28~S39年度、屋内体育館建設
・ 各中学校校舎等建築状況→「仙台市史 続編第2巻」P328~330
<戦後ベビーブームで、生徒激増>
・ S35年度から激増し、S37年度にピーク
・ S27年度~37年にマンモス校解消のため、中学校3校新設(西多賀、郡山、台原)
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「仙台市史10 年表」P315/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P517/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95~96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P327~330
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敗戦後の諸相・仙台 |
アルコール添加で三倍増醸 |
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<米不足で、酒造高も減>
・ 県酒造組合仙台支部では、1945年度(S20年度)5696石(1石=180リットル)、21年度4438石、22年度2585石
・ 政府、清酒をアルコール添加で増量する“三倍増醸”を認めたが、それでも酒造高は終戦前(S19年度)の半分以下で、時たまあった配給は1合か2合だった
<横行する密造酒>
・ 市内に流れた濁り酒は、市内小田原周辺や塩原の第三国人地域や、仙北地方の農村からが多かった
・ 仙台駅前のヤミ市で取引された、別名”白馬(ドブロク)”は、1升に米1升のバーター制、屋台の“仙台カストリ”(しょうちゅう)は1杯60円で、飛ぶように売れた
<連日報道されたメチル禍>
・ 薬店やヤミ商人から買ったメチルアルコールを飲んで、悶死や失明 / アルコールはかつての軍需物資がはっきりした表示がないままヤミに流れたもの
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72~73
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宮城県第二総合運動場 |
設置 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)4月、宮城県第二総合運動場、宮城県武道館(4月25日落成、鉄筋5階建て)とともに根岸の宮城県農業学校跡地に設置
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「仙台市史 年表」P132/「続・ 宮城県郷土史年表」P127
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国民登録/勤労報国隊 |
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1940年(S15)~ |
<青年国民登録>
* 1940年(S15)9月、実施 / 満16歳以上徴兵適齢期以下の男子全部に職能申告を義務付け
<青壮年国民登録>
* その後に範囲拡大し、満16歳~40歳の一般男子、満16歳~25歳の一般女子(未婚)にも適用
<未婚女子の勤労報国隊>
* 1941年(S16)12月、仙台市では、“浮動労力”といわれた未婚女子の勤労報国隊が結成され、第1陣として隊員150人が12月15日、東京の陸軍被服本廠へ送り出され、1年間の長期作業に従事した
* 1943年(S18)、女子勤労報国隊員、仙台市内の女性70人が東京赤羽の陸軍被服本廠に入廠(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
<勤労報国隊>
* 1943年(S18)8月、政府、報国隊整備要綱と実施指導要領を通達 / 「男子は14歳以上50歳まで、女子(未婚)は14歳以上25歳までは、必ず、各職域、地域、団体ごとに編成する報国隊のいずれかに、また在学中の学生・生徒は各学校の報国隊に参加を義務付け / 報国隊を総合・一元的に指導訓練し動員その他を企画するため大政翼賛会県支部に県勤労報国隊本部、各市町村にも本部を置き、各本部長、役職員を置く / 全市民が翼賛体制のワク内にはめ込まれて、軍需産業その他の統制産業、農業、国防土木業、公務などへ動員され、1945年(S20)3月には本土決戦に備える国民義勇隊に移行していった。」
<青壮年国民登録を拡大>
* 1944年(S19)2月、さらに範囲拡大され、男子12歳~60歳、女子12歳~40歳までとなり、無職未婚の女子を残らず動員体制に組み入れた
(以上は、「仙台市史 続編第1巻」P44~45)
<国民義勇隊> → 参照:項目「国民義勇隊」
* 1945年(S20)3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された(「日録20世紀 1945年」P16)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P44~45/「仙台市史 特別編4 市民生活」P366/「日録20世紀 1945年」P16
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戦後教育・仙台 |
新制高校発足 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)4月1日、新制高等学校が発足
仙台では、旧制中等学校をそのままの形で、新制高校に移行したものが多く、開設当時は、市立5校(うち定時制2校)、県立8校(うち定時制1校)、国立1校、私立12校が新制高校として発足した(一覧は、「仙台市史 続編第2巻」P333)
* 1949年(S24)4月1日、宮城県内の高等学校で学区制実施
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「仙台市史 年表」P115、P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P331~333
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仙台フィルハーモニー管弦楽団 |
改称 |
1989年(H1) |
* 1989年(H1)4月1日、宮城フィルハーモニー管弦楽団が、仙台フィルハーモニー管弦楽団と改称
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「仙台市史 年表」P135
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧危機で転入抑制 |
1946年(S21)3月~11月 |
<仙台への転入者急増>
・ 市の人口、1946年(S21)4月末で25万3655人に対し、5月中の転入者が5699人/疎開先からの復帰のほか、東京・横浜など食糧事情の極度に悪い大都市からの“再疎開”も多かった
<都会地転入抑制緊急措置令を適用>
* 1946年(S21)3月~、東北地方ではただ1か所、仙台市内への転入抑制措置開始/復員・引揚者や復興工事労務者など特別な場合を除いて転入不可 / 9月末の解除予定が、食糧事情、住宅事情から11月末まで延期
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P69~70
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学徒勤労動員 |
アウトラインと宮城県内の状況 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314>
・ 労働力不足に対応するための中等学校生徒以上に対する集団勤労は昭和13年、文部省の「集団勤労作業に関する訓令」に始まるがこれが激しくなったのは昭和16年秋ごろから
・ 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」により、「1年を通じて30日以内、授業を廃して増産運動に協力すること」を命じられる
・ 1943年(S18)10月、閣議決定「教育に関する戦時非常措置」により、「在学期間中1年につき3分の1に相当する部分が学徒動員にあてられる」 / この傾向はさらに強化されて、「工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」(昭和19年?)、「学徒勤労の徹底強化に関する件」(昭和19年7月)などにより、「国民学校高等科生徒の動員や、中等学校3年生以上の深夜労働が認められる」ようになる
・ 仙台市においても、昭和16~17年は主として近郊農家の田畑の除草、収穫の手伝いなどだったが、18年になると男子は開墾、湿田の暗渠排水、製炭作業のほかに、原町の陸軍造兵廠、玉浦飛行場(仙台空港の前身)などの整地作業が加えられ、女子は被服廠の縫製作業に動員され、農家の手伝いには低学年を動員
・ 昭和19年にはいると、上級学年は主として日立、川崎、逗子など県外の軍需工場に動員され、低学年生徒は市内の軍需品関連工場に動員されるという状態で、仙台貯金局に動員された仙台女子商業や宮城県第一高等女学校生徒はむしろ恵まれたものとして、うらやまれた。
<編者注>
(1) 上記「閣議決定」「要綱」などの年月は、編者が補足、ただし、工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」は年月不詳
(2) 仙台の中等学校等の勤労動員の具体例 → 当データベース<仙台よみとき用語年表>の項目「戦時下の学園」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P49~50に、昭和18年春と夏の農繁期に農作業支援で動員された学徒や職域の団体(報国隊)別の動員人数、学徒が動員された軍需工場名など記述あり
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敗戦後の諸相・仙台 |
住宅難 |
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・ 仙台は、空襲で1万1000余戸が焼失し、相次ぐ復員、外地からの引き揚げ、転入増加で、家無き市民は約2万人超あり、来る冬をいかに過ごすかが切実な問題
・ 緊急措置令(昭和21年8月1日)で、「余裕住宅」の開放呼びかけるも、(知人・親戚を優先させたいのは人情で)9月半ばまでに斡旋できたのはわわずか10世帯のみ
・ 町にはトタン小屋が並び、穴居生活や橋下生活を余儀なくされる市民もいた
・ 住宅難につけいって途方もない家賃もはびこる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P74~75
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仙台物産陳列所 |
開館 |
1907年(M40) |
* 1907年(M40)5月28日、仙台物産陳列所、仙台駅前に開館
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「仙台市史 年表」P94
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈 |
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<東一番丁へ移される>
・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」
・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。
東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。
一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。
人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。
こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。
三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102
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宮城県庁舎 |
3代目庁舎(18階建) |
1989年(H1) |
* 1986年(S61)7月、着工
* 1989年(H1)5月、18階建の新庁舎竣工(正式名は宮城県行政庁舎)
* 1989年(H1)6月3日、庁舎開庁式
* 1989年(H1)6月26日、新庁舎で業務開始
* 1989年(H1)7月10日、県庁と各地方事務所に「みやぎ目安箱」設置
* 1989年(H1)9月19日、県庁で、第1回県民ロビーコンサート開催
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Wikipedia「宮城県庁舎」/「続・ 宮城県郷土史年表」P260、P261、P262
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(1) 生徒の動員先、作業内容を指定 |
1944年(S19)8月~1945年(S20)4月 |
* 1944年(S19)8月、政府は国家総動員法に基づく「学徒勤労令」発令 / (旧制)中学校、高等女学校以上の学徒を、S19年秋~20年1月にかけ、指定された場所へ動員(軍需工場、食糧増産のための開墾、農作業、飛行場造成、家屋疎開作業など)
・ 全国で310万余、全学徒の約7割が対象(軍需生産200万人、食糧増産100万人、防空防衛14万人、重要研究2000人)
「防空防衛」は、空襲の際に都心部で消防車が入れる道路や鉄道を守る広場確保のため一般家屋を急いで解体する作業で、仙台市では第1次として仙台駅周辺など1065戸が対象
「重要研究」は、大学研究室で軍事研究に携わる学生で、「徴兵猶予」撤廃で軍隊に入った学生も大学に呼び戻された
* 1944年(S19)7月(注:文部省HPでは、S19年11月)夜間学校や弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
* 1945年(S20)4月、国民学校(当時の小学校)を除き1年間学業停止、1年を通じての「通年動員」に変更
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P171~172
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国民服 |
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⇒項目「戦時衣料」みよ
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敗戦後の諸相・仙台 |
歓楽街復活 |
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・ ヤミ市には戦災者、引揚者が、それぞれ根城をつくり、その日暮らしの設計をたてていたが、禁制のヤミ物資を扱うブローカーたちと進駐軍兵士のために、仙台駅前、苦竹、東一番丁付近などに、まず真っ先に歓楽街が復活した
・ 東八番丁、宮町の遊郭や売春宿も1945年(S20)9月には早くも営業を開始、東一番丁の焼けビルにはアメリカ風のキャバレーが出現して市民の目を奪った
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196
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宮城県町村会館 |
落成 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月26日、落成式(県庁構内外記丁側)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(2) 生徒動員数 |
1945年(S20)4月現在 |
<「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月 丸山鶴吉知事→生悦住(いけずみ)求馬(もとめ)知事)より>
・ 「宮城県としては学徒動員本部を設置し、専任視学員を置いて事業所の受け入れ態勢、作業状況、厚生施設、給与、保健の改善に努めている」
・ 動員数(昭和20年4月、宮城県) 農業・商業を含め男子中学校1万1616人、女子中学校1万953人
・ 動員先 多くは陸軍造兵廠(仙台市苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)だが、民間工場へも動員
<動員先の例>
・ 仙台中学 5年生(仙台の陸軍造兵廠)、4年生(川崎市の東芝 →のちに、仙台の東北特殊鋼)、3年生(作並製炭所)、2年生(仙台近郊農家の手伝い)
<参考文献>
・ 『戦時下女学校の学徒勤労動員』(宮城学院発行) 宮城県内の39旧制高等女学校卒業生の271人に聞き取り(2000年 大平聡教授と学生たち調べ)
・ 『旧制男子中学校の勤労動員実態調査』(2001年 宮城学院大学院生鈴木洋子)
・ 『海鳴りの響きは遠く』(草思社) 宮城県第一高等女学校生徒の軍需工場動員記録
・ 『太平洋戦争に生きた少女たち』(高津計以編 私家版) 尚絅高等女学校卒業生による記録と追想
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P173
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国民帽 |
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⇒項目「戦時衣料」みよ
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1950年(S25)~1951年(S26) |
* 1950年(S25)3月17日、魚の統制撤廃きまる
* 1950年(S25)3月26日、政府供出後の麦自由販売を決定
* 1950年(S25)5月1日、米以外の主食のパンなど自由販売となる
* 1950年(S25)6月5日、味噌・醤油自由販売(「重訂 宮城県郷土史年表」P543では、7月5日から)
* 1950年(S25)9月20日、衣料切符廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P544、「仙台市史10年表」P324)
* 1950年(S25)、人絹とスフ、綿布の統制解除、自由販売に(「仙台市史 続編第2巻」P705)
* 1950年(S25)、この年、コンドームを配給統制品から解除(「菅家年表」P44)
* 1951年(S26)3月1日、雑穀の統制を廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)4月17日、衣料切符配給制を廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)6月、ガソリンの統制廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)、この年、民営の米屋が復活してくる(「菅家年表」P45)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44、P45/「仙台市史10 年表」P323、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P543、P544/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705
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敗戦後の諸相・仙台 |
赤線地帯(特殊飲食街)・青線地帯 |
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【「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392】
* 1946年(S21)1月、GHQ指令により「公娼制度」廃止
・ 廃止以前から、酌婦・カフェー女給などが私娼として、飲食店、料理屋、飲食店などで売春を行っていた
・ 仙台市では、細横丁や東八番丁に私娼街ができた
<赤線地帯>
・ 警察は、「社会上やむを得ない悪としてこの種の行為について、特殊飲食店などを指定して警察の特別の取締りにつかせ、かつ特殊飲食店などは風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置すること」(「宮城県警察史」第二巻)と、例外的に特殊飲食店での売春を認めた / いわゆる「赤線地帯」 / 特殊飲食店街は、仙台市の東八番丁や元寺小路にあった / 表面上はあくまで特殊飲食店の女給として正業についていた / 建前上は、あくまで本人の意思に基づき、客との交渉の結果自分で契約した金額であり、4割~6割を自分の収入とし残金を主人に渡した / 特殊飲食店でそれぞれ一室をもらい、寝具を貸与される以外は衣装ほかは自弁で、建前上は自らの意思によって売春を営むという形態に切り替えられた
<青線地帯>
・ 終戦直後の米軍の進駐とともに、内務省指示により、米兵を対象とした「特殊慰安施設(RAA)」が、国分町・芭蕉の辻界隈のビルの中に作られたが、その後閉鎖され、街頭に立ち米兵を相手とするようになった / 仙台駅近くのX橋周辺、榴ヶ岡などに集まる傾向があり、俗称「青線地帯」とよばれた
* 1956年(S31)4月1日、売春防止法施行 / 赤線、青線の灯は消えた
【「番丁詳伝」P159より】
・ 戦前の公娼はGHQ指令でその制度はなくなったが、内務省は通達で特殊飲食店を認め、娼婦の自由意志での営業を許可した
・ 警察は特殊飲食街のある地域を地図上に赤線で囲ったところから赤線と呼ばれる
・ 仙台には、東八番丁、元寺小路の特飲街があった
・ その後、昭和33年4月売春禁止法の実施により赤線の灯は消える
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392/「番丁詳伝」P159
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(3) 軍の3工場に動員された学校リストと作業内容 / 海軍工廠で大爆発 |
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<学徒動員先>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)
仙台市内の中学校、高等女学校、旧制二高、東北学院高等商学部など14校 / 宮城県内各地の中学校、女学校からも動員 / 機関砲の薬きょう箱詰め、旋盤などに従事 / 女性や少年に禁止されていた深夜作業が1943年(S18)年から復活し、甲班、乙班に分かれ1週間ずつ昼夜交代で働く
・ 海軍工廠(多賀城)
仙台市内の仙台育英、東北学院、常盤木、尚絅のほか、佐沼中、塩釜、若柳、登米、石巻高女など県内各地の生徒が勤務 / 南地区の機銃部、北地区の火工部に分かれ、ゼロ戦の機関砲弾、爆弾、焼夷弾などを製造
・ 海軍工廠(多賀城)装填工場で大爆発(S18年11月23日午後1時すぎ)37人死亡、当時は極秘事項で報道されず
・ 海軍火薬廠(船岡)
旧制二高、東北薬学校、白石中、白石高女、柴田農林、大河原高女、岩沼高女、鹿又高女、角田中、角田高女、佐沼高女、岩手県黒沢尻高女、大船渡専修学校の13校 / 円筒形30キロ爆弾の信管製作 綿火薬製造など / 全身黄燐まみれ、硫酸、有毒ガスなどで健康被害(実例体験談あり)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P174~175
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1952年(S27)~1981年(S56) |
* 1952年(S27)4月1日、家庭用砂糖の統制撤廃
* 1952年(S27)5月8日、麦統制撤廃(6月1日、麦の自由販売実施)
* 1952年(S27)6月4日、国産金ペン万年筆の製造許可(「菅家年表」P46)
* 1953年(S28)10月14日、上野駅着各列車の主食一斉取締り、担ぎ屋260人、米250俵を押収(「菅家年表」P47)
* 1960年(S35)1月、米の値段が公定価格を下回り、米の配給辞退(「菅家年表」P54)
* 1960年(S35)10月、酒類の公定価格を廃止、自由販売制(「菅家年表」P54)
* 1964年(S39)6月1日、ビール酒類、25年ぶりに自由価格に(「重訂 宮城県郷土史年表」P614)
* 1966年(S41)、この年、外米の自由販売が始まる(「菅家年表」P60)
* 1969年(S44)4月1日、自主流通米出回る
* 1969年(S44)5月16日、閣議、自主流通米制度を決定
* 1972年(S47)4月1日、米を物価統制令の適用から除外
* 1981年(S56)6月11日、米穀通帳制度を廃止
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46、P47、P54、P60、P63、P75/「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P555、P556、P614/「続・ 宮城県郷土史年表」P8/岩波ブックレット「年表 昭和史」P49
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仙台ホテル |
立て替え(ホテル3代目) |
1935年(S10)/1945年(S20) |
* 1935年(S10)、モダニズム建築に建て替え
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被災
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Wikipedia「仙台ホテル」
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敗戦後の諸相・仙台 |
日陰の花/売春防止 |
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・ 戦後“パンパン”と呼ばれた女たちは、仙台駅前、X橋周辺、小田原、原町などに多かった / 大部分は18~20歳、中には30~35歳くらいの婦人も / 大部分は性病におかされていた
・ 片平丁にあった“夜の女”の診療所には常時30人前後の患者を収容 / 患者脱走を防ぐため、私服を取り上げ、前と背中にVDと大きなマークの入った旧軍衣類を着せた
* 1958年(S33)3月25日、売春防止法施行(同年4月1日)に先立ち、市内で最後まで残っていた東八番丁の特飲街が一斉廃業
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(4) 首都圏の軍需工場へも動員 / 卒業後も動員 |
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<首都圏の軍需工場へ学徒勤労動員>
・ 「昭和19年以降、仙台市内の生徒のうち神奈川、茨城両県に限っても、川崎、横浜、横須賀、湘南、日立などの工場に、男子638人、女子946人の計1584人が動員された」(宮城県教育委員会発行『宮城県教育百年史』)
・ 首都圏に動員された県内の高等女学校は、宮城県第一、宮城県第二、宮城県第三、宮城、尚絅、吉田、朴沢、角田、石巻、石巻実業、白石の11校945人(宮城学院女子大学大平聡教授調べ)、これに旧制の中学校、高等学校生が加わる
・ 首都圏に動員された仙台市内の学校は、仙台一中、仙台二中、仙台中、仙台育英中、栴檀中、県工業学校、仙台工業学校、仙台商業学校、旧制第二高等学校、仙台工業専門学校、県女専、東北学院専門部、東北帝国大学(『仙台市史』)
・ 動員中の死亡例
日立製作所(茨城県)で、県工業学校生徒5人が米艦からの艦砲射撃で
・ 横須賀海軍工廠へ動員された宮城県第一高等女学校(4年生100名)は、逗子の寮から通い、高角砲の砲弾の弾頭部に火薬を入れたり、航空特攻兵器「桜花(おうか)」の部品づくりに従事
・ 尚絅高等女学校(4年生)約200人は、農家や国民学校に泊まり込んで神奈川県(その前は東京鎌田)の東京計器で飛行機の部品づくり
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P176~177
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こけし塔(西公園) |
除幕式 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)3月27日、仙台市戦災復興都市計画事業完了、完工式(総額11億5千万円)、3月27日に完了記念の「こけし塔」を西公園に建設除幕式 / 鋳物製
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「仙台市史 年表」P122/「仙台あのころこのころ八十八年」P253/「宮城百年」(毎日新聞社刊)年表
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学徒出陣 |
徴集猶予停止 |
1943年(S18)10月 |
* 1943年(S18)10月、在学徴集延期臨時特例公布(学生・生徒の徴兵猶予停止)
「学徒出陣は、深刻な指揮官になる将校の不足を補うためといわれる。定員14万2000に対して現役将校は3万4000にすぎず、残りは予備役将校で補っていた。中でも尉官(大尉、中尉、少尉)クラスは、戦闘で陣頭指揮をとるので戦死や負傷しやすい。政府は、高等教育を受け中学時代から軍事教練が義務づけられている学生を補充にあてようと考えた。
陸軍は昭和18年12月1日まで、海軍は12月9~10日に軍隊に出頭せねばならず、10月15日から11月5日の間に徴兵検査を受ける必要があった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P124~125)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P124~125
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戦災記録 |
市民の手でつくる戦災の記録」の会 |
1972年(S47)/1973年(S48)/1995年(H7) |
* 1972年(S47)7月7日、仙台市に「市民の手でつくる戦災の記録」の会発足
* 1973年(S48)8月15日、仙台「市民の手でつくる戦災の記録」の会が「空襲」出版
* 1995年(H7)10月16日、仙台「市民の手でつくる戦災の記録」の会が「仙台はフェニックス―戦中戦後の証言と聞書集」出版
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「続・ 宮城県郷土史年表」P11
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敗戦後の諸相・仙台 |
天井知らずの物価/死の抗議 |
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・ 公定価額では何一つ買えず、すべてにヤミ物価、500円ベースの給料では困窮の極
・ 生活苦にあえぐ引揚者が、鉄道自殺で死の抗議(満州から引揚げた36歳、5人家族の公務員が「給与ではとても食っていけない」と遺書)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77
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宮城県美術館 |
開館 |
1981年(S56) |
* 1980年(S55)1月29日、川内支倉で起工式
* 1981年(S56)11月3日、川内に開館
* 1986年(S61)11月、丸森町出身彫刻家佐藤忠良の全作品を県美術館に寄贈
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「仙台市史 年表」P132/「続・ 宮城県郷土史年表」P108、P135、P214
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国旗掲揚 |
戦後 |
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* 1945年(S20)8月、太平洋戦争で日本敗戦
* 1945年(S20)、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止
* 1947年(S22)12月27日、GHQ,新年の国旗掲揚を許可
* 1948年(S23)4月1日、GHQ、国民の祝日の国旗掲揚を許すと通告
* 1949年(S24)1月1日、無制限に許可(「重訂 宮城県郷土史年表」P532)
<Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)より>
占領下における日章旗の掲揚禁止、祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、
* 1949年(昭和24年)1月1日、マッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。」
* 1950年(S25)10月17日、文部省、祝日に国旗、君が代をすすめる通達
* 1977年(S52)7月23日、文部省、小学校の学習指導要領で「君が代」を国歌と規定
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「重訂 宮城県郷土史年表」P532/Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)/岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P42、P71
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仙台郵便貯金会館 |
完成 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)4月、榴岡に完成
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「仙台市史 年表」P128
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敗戦後の諸相・仙台 |
浮浪者 |
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* 1948年(S23)6月、上野を追われた浮浪者は仙台方面に落ち延びて各地を荒らす
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
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宮城県物産陳列場(芭蕉の辻) |
開設~廃止 |
1892年(M25)~1898年(M31) |
* 1892年(M25)11月27日、芭蕉の辻勧工場(芭蕉の辻商館)内に開設
(芭蕉の辻商館は、1891年(M24)9月19日開館~1900年(M33)4月10日焼失)
・1901年(M34)に勾当台通に開場した「宮城県物産陳列場」とは別
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「仙台市史 年表」P88/「近代日本〈陳列所〉研究」 (三宅拓也 著 思文閣出版, 2015.2)(国立国会図書館蔵)
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学徒出陣 |
壮行式など |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)11月18日学徒出陣の壮行式が宮城野原練兵場で行われる(東北帝大、旧制二高、弘前高校など)
* 1943年(S18)11月18日~19日、仙台平野を舞台に、文部主主催の出陣学徒壮行野外演習、東北、北海道、新潟県からも参加し本番並みの激しい演習を展開、岡部長景文相も姿を見せた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P126)
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P126/「仙台市史 年表」P112/逸見英夫氏談/「仙台市史10 年表」P307/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P185(年表)
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子ども会など(子供の団体) |
戦前期 |
大正~昭和初期 |
☆ 大正末期から戦後にかけての子供対象の組織(団体)について、「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~447「子供の組織」に記載あり
・ 1914年(T3)8月、片平丁尋常小学校が夏期林間教養所を向山に開設
・ 1921年(T10)、「おてんとさん社」、仙台で結成(大正7年児童雑誌「赤い鳥」発行で起こった児童芸術運動に共鳴)
・ 1923年(T12)~1931年(S6)、仙台児童倶楽部(県の図書館内)結成(毎月、童謡・童話会・子供むけ音楽会・自由画展覧会など開催)
・ 1923年(T12)前後に結成されたのは、北星少年少女会、空堀丁のヤマバトの家、新寺小路東秀院内に宮城野コドモ会、荒町に皎林寺コドモ会、東二番丁に仙教婦人会少年部、南町のたんぽぽコドモ会、川内山屋敷の山屋敷童謡童話会、鈎取尋常小学校分教場の会
・ 1923年(T12)8月3日~10日、東一番丁教会が桂島で桂島海浜学校開催 / 1940年(S15)まで継続して開催
・ 1924年(T13)4月、「七ツの子供社」(影絵・童謡劇・童話劇などで組織) / 1927年(S2)8月上旬に伊勢堂山で夏期林間学校に58名児童参加、10年間続くが、日中戦争で中止
・ 1926年(T15)4月3日、コドモ花祭り(出演団体は、北稜日曜童園、皎林寺日曜教林、仙台仏教日曜会、東本願寺日曜学校、仏教婦人会少女部、龍宝寺コドモ会、宮城野コドモ会、西本願寺日曜学校など)
<ボーイスカウト>
・ 1922年(T11)、少年赤十字団、発足
・ 1924年(T13)、少年赤十字団宮城県支部ができ、最初に榴岡小学校が加盟
・ 1924年(T13)、宮城少年団結成され、仙台ではYMCA少年団、仙台少年団、仙台中央少年団が加盟 / これらの団体を中心に少年団宮城連盟結成(1941年に戦時体制強化のため、大日本青少年団に統合され、解散)
<昭和初期>
・ 1928年(S3)、NHK仙台放送局、ラジオ放送開始 / 「子供の時間」が組まれ、各種の児童文化団体が成立 / 上杉山通の児童中心にNHK子供会、仙台児童学芸協会(児童劇・童話会劇など子供の劇場グループ)
・ 1928年(S3)、舞踏研究会「お人形社」(5・6歳以上の子ども対象)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~444
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仙台臨海鉄道 |
運行開始 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)10月、貨物専用線の私鉄「仙台臨海鉄道」営業開始 / 陸前山王始発、駅は仙台港・仙台北港・仙台埠頭・仙台西港
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「仙台市史 年表」P150/Wikipedia「仙台臨海鉄道」(2020年6月)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201
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火災(地域) |
宮町方面 |
1869年(M2) |
* 1869年(M2)1月28日、北二番丁から出火し、宮町方面一帯に延焼、130戸が焼失
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「仙台市史 年表」P78
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戦災復興(応急対策) |
空襲跡の状況 |
1945年(S0) |
「仙台空襲(S20年7月10日)では、市内の中枢部500haが焼き払われ、わずかに土蔵、鉄筋コンクリート建物などが焦土の中に残されただけで、当時の全市民の26%が被災し2590人の死傷者を出すという惨状に市民はただ茫然自失、立ち上がる気力を失った。やがて終戦(8月15日)を迎えて幾月たっても民有地の焼け跡の整理が進まず、瓦や石ころが散乱するにまかせ手の施しようがなかった。
理由の主なものは、復興計画が確定していない、建築の制限、建築資材の入手難、大工不足、焦土の処理難、費用の増嵩などのほか、地主が土地を貸したがらず、電灯の復旧もはかばかしくなかったことなど、当時としてはやむを得ない事情が重なっていた。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P311
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戦没者遺骨調査・収集 |
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1953年(S28)~ |
* 1953年(S28)2月、南海調査団派遣
* 1953年(S28)7月、アッツ島玉砕地の遺骨収集
* 1955年(S30)、大成丸のガダルカナル遺骨収集
* 1956年(S31)2月、ビルマの遺骨収集
* 1956年(S31)6月、ニューギニア方面の遺骨収集
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P272、P279、P282
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敗戦後の諸相・仙台 |
小中学生にも流行る「符丁」 |
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・ パチンコはピストル、ダチコは友達、ヤジコはオヤジ(父親)、オシンはゼニ(銭)、ハイモナイは1銭もない(「仙台市史 続編第1巻」P80にこのほかの主な30例が載る)
・ 香具師仲間の符丁が、終戦後にヤミ屋、露天商などを通じて普及、夜の女、チンピラの日常語となっていたが、これが学校の生徒にも影響
・ 符丁は、日常生活に関する言葉全体にわたっていた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P79~80
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
以下(1)(2)(3)の出典一覧 |
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出典一覧
イ 「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」(国立国会図書館蔵)
ロ 「重訂 宮城県郷土史年表」P323
ハ 七十七銀行「七十七年史」の年表
ニ 「古写真に見る仙台の建築」のP42の写真キャプション
ホ 「仙台市史 年表」
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火災(地域) |
長町 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)1月17日、名取郡長町で火災、69戸が焼失
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「仙台市史 年表」P79
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火災(地域) |
北山 |
1876年(M9) |
* 1876年(M9)3月5日、北山で火災、一帯が焼失し、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、寂光寺なども類焼
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「仙台市史 年表」P81
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戦災復興(応急対策) |
住宅応急対策 |
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・ 戦災者を、焼け残った学校その他の施設に収容(縁故先や他町村へも疎開も多かった)
・ 建築は規模に関係なく知事の許認可を要したが、S21年3月末までで1139戸(平均建坪29坪)、無許可で752戸(同18坪)
・ 県が越冬対策で簡易住宅(6畳、3畳、組み立て式)2000戸計画し実物見本を展示したが、申し込みは約800戸、実際に建ったのはごくわずかだった
・ S21年5月、簡易住宅(賃貸)完成(市営住宅250戸、日本住宅営団750戸
・ S22年5月現在、民間自力建築2073戸、市営住宅350戸、営団住宅1814戸、同胞援護会関係138戸、計4375戸
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P313~314
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敗戦後の諸相・仙台 |
石炭飢饉で火葬場にも赤信号/銭湯は客急増 |
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<戦後も燃料飢饉>
・ 長町の鉄道操車場付近で、機関車が焚いた石炭の燃え残りを拾う主婦や子供の姿が多くなる
・ 戦災家屋の焼け残りの木材、墓場の塔婆、うっかりすると板塀まで消えて無くなっていた
・ 1946年(S21)12月、冬暖房用の亜炭、輸送力不足で、市は国鉄や各事業所のトラックを借り、足りぬ場合は進駐軍の救援も頼んで輸送した
<火葬場にも赤信号>
・ 仙台の火葬場は北山の市営と新寺小路の会社経営の2か所で、冬は死亡者が日に20人も珍しくない / 石炭配給の中止状態が続き、新寺小路の火葬場では、燃料持参しないと焼いてもらえない事態も発生
<銭湯は客急増>
・ 市の公益浴場、戦前は大赤字経営だったが、S20年は12万人、S21年は16万人が利用
・ 利用料金はS20年は10銭、S21年は一気に35銭に
・ 湯銭にもヤミ値(一般の浴場)あらわれ、S21年当時、正午~2時が1円、2~3時が50銭、3時の営業開始時間からマル公の20銭
・終戦当時は銭湯はたいてい電熱で沸かしたので、停電日は休業、電灯の暗い夜の間は“板の間かせぎ”の絶好の場で、身ぐるみ持ち去られることが多かった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P82
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