仙台よみとき用語年表
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バス 仙台市街自動車    → 項目「仙台市街自動車」参照     
バス 仙台初  1912年(T1)  * 1912年(T1)10月18日、仙台初のバスが営業開始
   清水小路(現・五橋五丁目)の菊地道三郎所有のもの 
逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P96/「仙台あのころこのころ八十八年」P242/「仙台市史 特別編4 市民生活」P202   
博覧会・フェア 89グリーンフェアせんだい  1989年(H1)  * 1989年(H1)7月26日、七北田公園で、「89グリーンフェアせんだい」開催  「続・ 宮城県郷土史年表」P261   
博覧会・フェア 未来の東北博覧会  1987年(S62)  * 1987年(S62)7月18日~9月28日、「'87未来の東北博覧会」、仙台港地区で開催 / 297万人動員 / 海上に高さ85mの大噴水  「仙台市史 年表」P135/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P226   
博覧会・フェア 東一番丁百年祭大仮装行列  1966年(S41)   →項目「東一番丁百年祭大仮装行列」参照     
博覧会・フェア 科学博覧会  1959年(S34)  * 1959年(S34)9月末~11月初め、開催  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P712   
博覧会・フェア 仙台復興祭グランドフェア  1949年(S24)   → 項目「仙台復興祭グランドフェア」参照     
博覧会・フェア 紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会  1940年(S15)  * 1940年(S15)4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)  「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15   
博覧会・フェア 東北振興大博覧会(中止)  1939年(S14)  * 1938年(S13)4月10日~5月31日、東北振興大博覧会(仙台市制施行50周年記念、仙台市主催)(仙台年表P462) 
 →<編者注>予定したが昭和14年開催予定に変更し、結局中止になった(仙台市史続編第1巻P10) 
「仙台年表」P208/仙台市史続編第1巻P10   
博覧会・フェア 藩祖三百年祭記念産業観光博覧会  1935年(S10)  * 1935年(S10)5月12日、藩祖三百年祭記念産業観光博覧会  「仙台市史10 年表」P285   
博覧会・フェア 第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会  1933年(S8)   → 項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」参照     
博覧会・フェア 東北産業博覧会  1928年(S3)   → 項目「東北産業博覧会」参照     
廃藩置県(仙台県誕生) 仙台県誕生/宮城県と改称  1971年(M4)/1972年(M5)  <版籍奉還>
* 1868年(M1)12月7日、伊達藩主(第13代)慶邦は、慶応4年の戊辰の役、奥羽戦争の罪を問われ、仙台城没収と28万石(宮城・黒川・名取・玉造・志田の5郡)に削封
・ 慶邦の実子亀三郎(3歳)に家名を継がせ、藩内の土地、領民の版籍を奉還
* 1869年(M2)6月、仙台藩「知事」に当主の亀三郎任命される / 仙台城二の丸に「勤政庁」設置(翌3年藩庁と改称)

・ 伊達藩から没収した旧領地に、政府直轄地として「涌谷県」「栗原県」「桃生県」設置し「権知事」を置く
・ その後の名称変更や統合(白石県→「角田県」/ 桃生県→「石巻県」/ 登米・石巻が合して「登米県」など)

<廃藩置県>
* 1971年(M4)7月、廃藩置県、「仙台県」誕生(仙台藩、角田県、登米県を合わせ、玉造郡は一関県(岩手)に分割) / 藩庁は県庁となり、二の丸から養賢堂に移転、二の丸跡には「東北鎮台」(のちの第二師団)設置
* 1872年(M5)1月、「仙台県」が「宮城県」と改称 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P361~362   
敗戦後の諸相・仙台 治安悪化、犯罪多発  昭和20年代  終戦後の混乱期、食糧難や貧困の時代、治安悪化し各種犯罪が多発、刑務所が収容定員超過 / 成人の犯罪が昭和24年を峠に減少傾向、一方青少年犯罪が逆に増え、しかも強盗、暴行、放火など凶悪犯が増加 

・ 具体的事例は、→ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P745からの第十一章第一節「警察と公安」参照 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」第十一章第一節「警察と公安」   
敗戦後の諸相・仙台 隠匿物資の摘発    <隠匿物資> 終戦のどさくさに紛れて、旧軍隊や軍需工場、官庁などでひそかに確保していた物資、それらを無償に近い安値でかき集め倉庫などに保管し、小出しでヤミで売るさばいていた物資を、公正な配給ルートに乗せるべきと摘発

(1) 市会戦後対策委員会が「隠匿摘発監視隊」を編成、各公会や警察とも連絡、場合によっては進駐軍の手を借りて摘発 / 1946年(S21)1月21日、CIC(米第9軍指令部特務機関)が、仙台鉄道局東七番丁材料品倉庫に隠してあった大量の米や酒、大量の貴金属を押収
(2) 1946年(S21)2月、日本共産党宮城地方委員会が、東北戦災者更生団、仙台民主主義連盟と共同で、隠匿物資摘発隊を組織、20数人で南材木町の某倉庫から、警察官立ち合いで、もめん、缶詰など多量の物資を摘発 / 警察は、「不正に隠匿されると思われるものはない」、摘発が住居侵入罪、脅迫罪を構成しかねない点を警告
(3) 1946年(S21)2月、宮城地方生活擁護同盟結成準備会が摘発した物資は、米1723俵(仙台市民2日分の配給量に相当)、小麦770俵、あずき、メリケン粉、ウーメン、乾パン、その他各種の食糧、衣料、燃料などおびただしい量にのぼった
(4) 仙台地方検察局が、日通仙台支店長町営業所の12の倉庫から、水銀など時価1億円相当の隠匿退蔵物資を摘発 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P83~84   
敗戦後の諸相・仙台 石炭飢饉で火葬場にも赤信号/銭湯は客急増    <戦後も燃料飢饉>
・ 長町の鉄道操車場付近で、機関車が焚いた石炭の燃え残りを拾う主婦や子供の姿が多くなる
・ 戦災家屋の焼け残りの木材、墓場の塔婆、うっかりすると板塀まで消えて無くなっていた
・ 1946年(S21)12月、冬暖房用の亜炭、輸送力不足で、市は国鉄や各事業所のトラックを借り、足りぬ場合は進駐軍の救援も頼んで輸送した

<火葬場にも赤信号>
・ 仙台の火葬場は北山の市営と新寺小路の会社経営の2か所で、冬は死亡者が日に20人も珍しくない / 石炭配給の中止状態が続き、新寺小路の火葬場では、燃料持参しないと焼いてもらえない事態も発生

<銭湯は客急増>
・ 市の公益浴場、戦前は大赤字経営だったが、S20年は12万人、S21年は16万人が利用
・ 利用料金はS20年は10銭、S21年は一気に35銭に
・ 湯銭にもヤミ値(一般の浴場)あらわれ、S21年当時、正午~2時が1円、2~3時が50銭、3時の営業開始時間からマル公の20銭
・終戦当時は銭湯はたいてい電熱で沸かしたので、停電日は休業、電灯の暗い夜の間は“板の間かせぎ”の絶好の場で、身ぐるみ持ち去られることが多かった 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P82   
敗戦後の諸相・仙台 小中学生にも流行る「符丁」    ・ パチンコはピストル、ダチコは友達、ヤジコはオヤジ(父親)、オシンはゼニ(銭)、ハイモナイは1銭もない(「仙台市史 続編第1巻」P80にこのほかの主な30例が載る)
・ 香具師仲間の符丁が、終戦後にヤミ屋、露天商などを通じて普及、夜の女、チンピラの日常語となっていたが、これが学校の生徒にも影響
・ 符丁は、日常生活に関する言葉全体にわたっていた 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P79~80   
敗戦後の諸相・仙台 浮浪者    * 1948年(S23)6月、上野を追われた浮浪者は仙台方面に落ち延びて各地を荒らす  菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42   
敗戦後の諸相・仙台 天井知らずの物価/死の抗議    ・ 公定価額では何一つ買えず、すべてにヤミ物価、500円ベースの給料では困窮の極
・ 生活苦にあえぐ引揚者が、鉄道自殺で死の抗議(満州から引揚げた36歳、5人家族の公務員が「給与ではとても食っていけない」と遺書) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77   
敗戦後の諸相・仙台 日陰の花/売春防止    ・ 戦後“パンパン”と呼ばれた女たちは、仙台駅前、X橋周辺、小田原、原町などに多かった / 大部分は18~20歳、中には30~35歳くらいの婦人も / 大部分は性病におかされていた
・ 片平丁にあった“夜の女”の診療所には常時30人前後の患者を収容 / 患者脱走を防ぐため、私服を取り上げ、前と背中にVDと大きなマークの入った旧軍衣類を着せた

* 1958年(S33)3月25日、売春防止法施行(同年4月1日)に先立ち、市内で最後まで残っていた東八番丁の特飲街が一斉廃業
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286   
敗戦後の諸相・仙台 赤線地帯(特殊飲食街)・青線地帯    【「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392】
* 1946年(S21)1月、GHQ指令により「公娼制度」廃止
・ 廃止以前から、酌婦・カフェー女給などが私娼として、飲食店、料理屋、飲食店などで売春を行っていた
・ 仙台市では、細横丁や東八番丁に私娼街ができた

<赤線地帯>
・ 警察は、「社会上やむを得ない悪としてこの種の行為について、特殊飲食店などを指定して警察の特別の取締りにつかせ、かつ特殊飲食店などは風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置すること」(「宮城県警察史」第二巻)と、例外的に特殊飲食店での売春を認めた / いわゆる「赤線地帯」 / 特殊飲食店街は、仙台市の東八番丁や元寺小路にあった / 表面上はあくまで特殊飲食店の女給として正業についていた / 建前上は、あくまで本人の意思に基づき、客との交渉の結果自分で契約した金額であり、4割~6割を自分の収入とし残金を主人に渡した / 特殊飲食店でそれぞれ一室をもらい、寝具を貸与される以外は衣装ほかは自弁で、建前上は自らの意思によって売春を営むという形態に切り替えられた

<青線地帯>
・ 終戦直後の米軍の進駐とともに、内務省指示により、米兵を対象とした「特殊慰安施設(RAA)」が、国分町・芭蕉の辻界隈のビルの中に作られたが、その後閉鎖され、街頭に立ち米兵を相手とするようになった / 仙台駅近くのX橋周辺、榴ヶ岡などに集まる傾向があり、俗称「青線地帯」とよばれた

* 1956年(S31)4月1日、売春防止法施行 / 赤線、青線の灯は消えた

【「番丁詳伝」P159より】
・ 戦前の公娼はGHQ指令でその制度はなくなったが、内務省は通達で特殊飲食店を認め、娼婦の自由意志での営業を許可した
・ 警察は特殊飲食街のある地域を地図上に赤線で囲ったところから赤線と呼ばれる
・ 仙台には、東八番丁、元寺小路の特飲街があった
・ その後、昭和33年4月売春禁止法の実施により赤線の灯は消える 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392/「番丁詳伝」P159   
ネオンサイン オイルショック後復活  1975年(S50) 
* 1973年(S48)10月25日、石油ショック発生
* 1973年(S48)11月5日、石油ショックで東京など大都市のネオンが消える(「菅家年表」P67)
* 1974年(S49)1月16日、電力の使用制限始まる(16年ぶり)、ネオン、広告塔、テレビ放送時間短縮(深夜放送禁止)(「菅家年表」P68)
* 1974年(S49)10月6日、東京・銀座にネオンが復活(「菅家年表」P68)
* 1975年(S50)11月、オイルショック以来消えていた仙台のネオンが点灯復活(「続・ 宮城県郷土史年表」P47) 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P67、P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P47   
都市型CATV 仙台に登場  1989年(H1)  * 1989年(H1)11月、仙台市に都市型CATV(有線テレビ)開局  「続・ 宮城県郷土史年表」P264   
トラックターミナル 仙台トラックターミナル開業  1962年(S37)  * 1962年(S37)11月20日、仙台トラックターミナル、仙台市苦竹に開業、16業者参加  「仙台市史 年表」P122 /「重訂 宮城県郷土史年表」P606   
トラックターミナル 仙台南トラックターミナル完成  1978年(S53)  * 1978年(S53)10月1日、仙台南トラックターミナル完成(名取市熊野堂に)  「続・ 宮城県郷土史年表」P86   
長町駅(秋保電鉄) 開業  1914年(T3)  <秋保電鉄・長町駅>
* 1914年(T3)12月23日、秋保石材軌道(のちの秋保電気鉄道)の駅が開業
* 1961年(S36)5月8日、秋保電気鉄道線廃止(7日にさよなら運転) 
「仙台市史 年表」P122/「仙台市史 年表」P97/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)   
長町駅(仙台市電) 開業  1936年(S11)  <仙台市電・長町駅前停留所>
* 1936年(S11)12月19日、仙台市電「長町駅前」できる
* 1976年(S51)4月1日、仙台市電廃止 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)   
長町駅(仙台地下鉄) 開業  1987年(S62)  <仙台地下鉄南北線・長町駅>
* 1987年(S62)7月15日、仙台市営地下鉄南北線の長町駅が開業 
「仙台市史 年表」P135/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)   
長町駅貨車操車場 完成  1925年(T14)  * 1925年(T14)6月11日、東北本線の長町駅貨車操車場(長町ヤード)が完成  「仙台市史 年表」P102   
日米野球 米大リーグ選抜対全日本選抜  1934年(S9)  * 1934年(S9)11月9日、八木山球場で、「米大リーグ選抜と全日本選抜」が対戦、ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ  「仙台市史 年表」P107   
日米野球 シールズ対六大学選抜  1949年(S24)  * 1949年(S24)秋、サンフランシスコ・シールズ(オドール監督)対六大学選抜(評定河原球場)  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469   
日米野球 米大リーグ選抜対巨人軍  1951年(S26)  * 1951年(S26)10月25日、日米親善野球、米大リーグ選抜対巨人戦、宮城県営野球場で開催 / オドール監督以下ディマジオ兄弟ら  「仙台市史10年表」P326/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469   
日米野球 全米オールスターズ対全パシフィック  1953年(S28)  * 1953年(S28)10月22日、宮城県営野球場で、全米オールスターズ対全パシフィック軍(米3-日0)  「重訂 宮城県郷土史年表」P569   
日米野球 来仙チーム  1953年(S28)?~1956年(S31)  * 1953年(S28)?、ニューヨーク・ジャイアンツ来仙試合
* 1955年(S30)、ニューヨーク・ヤンキース
* 1956年(S31)、ブルックリン・ドジャース 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469   
ニッカウイスキー工場 仙台工場  1969年(S44)  * 1969年(S44)5月10日、仙台工場を宮城町新川地内に完成  「重訂 宮城県郷土史年表」P649   
閖上大橋 開通  1972年(S47)  * 1972年(S47)9月14日、「閖上大橋」(ゆりあげおおはし)開通 / 県道10号線(塩釜亘理線)の名取川に架かる橋  「仙台市史 年表」P128   
ネオンサイン 仙台では・・・  1928年(S3)~  * (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降
* カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。 
「番丁詳伝」P197   
ネオンサイン(全廃) 全廃決定  1939年(S14)  * 1937年(S12)8月24日、国民精神総動員実施要綱を決定
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など)

国民精神総動員運動は、1937年(S12)日中戦争勃発を受け「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を方針とした国民運動が企図され、開始された 
岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P16   
敗戦後の諸相・仙台 女子の登校、婦女子の夜間外出見合わせ  1945年(S20)9月  9月16日からの進駐軍(米軍)の宮城県内進駐を警戒して
* 1945年(S20)9月13日、県教学課「連合国軍の本県進駐に伴う臨時措置として、仙台市と占領軍の駐留地周辺町村内の女子中等学校(高等女学校)と国民学校高等科の女子生徒児童の授業を、9月15日から当分の間中止するよう」通達(のち、9月25日と10月1日から授業再開)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327)
* 1945年(S20)10月1日、進駐軍との関係で再開の遅れていた仙台の高等女学校の授業が再開(焼失した学校は他の女学校や小学校の校舎に間借り)
・ 仙台女子商業学校「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495)

* 警察署は、婦女子の夜間外出を避けるよう呼びかけたので、繁華街の東一番丁もしばらくは夜の人出は絶えるほどであった(「番丁詳伝」P158)
* 仙台市役所では、女子職員を午後4時に退庁させた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)

・ 占領軍が進駐してくる県内市町村の高等女学校では当分授業を中止、役所の女子職員は午後4時に退庁、一般市民も夜間は外出を控えるよう注意が出された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242~243)

・ 「昭和20年9月半ばから1か月間の進駐軍関係の事故は257件、悪質なものとしては婦女暴行未遂4件、傷害6件(うち1人死亡)など・・・戦後しばらくの間、住民は進駐軍の姿におびえ、日没後、進駐軍の姿を恐れて外出を控える婦女子が多かったのも、当時としては無理もない。」「県警統計では、その後、1946年(S21)までに進駐軍犯罪が、届出あったものだけでも、1053件」(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68、「仙台市史 特別編4 市民生活」P327) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66~68/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P244、P495/「番丁詳伝」P158/「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P242~243   
敗戦後の諸相・仙台 町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈    <東一番丁へ移される>
・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75) 
【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」

・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。 
 東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。
 一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。
 人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。
 こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。
  三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102   
敗戦後の諸相・仙台 住宅難    ・ 仙台は、空襲で1万1000余戸が焼失し、相次ぐ復員、外地からの引き揚げ、転入増加で、家無き市民は約2万人超あり、来る冬をいかに過ごすかが切実な問題
・ 緊急措置令(昭和21年8月1日)で、「余裕住宅」の開放呼びかけるも、(知人・親戚を優先させたいのは人情で)9月半ばまでに斡旋できたのはわわずか10世帯のみ
・ 町にはトタン小屋が並び、穴居生活や橋下生活を余儀なくされる市民もいた
・ 住宅難につけいって途方もない家賃もはびこる   
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P74~75   
敗戦後の諸相・仙台 食糧危機で転入抑制  1946年(S21)3月~11月  <仙台への転入者急増>
・ 市の人口、1946年(S21)4月末で25万3655人に対し、5月中の転入者が5699人/疎開先からの復帰のほか、東京・横浜など食糧事情の極度に悪い大都市からの“再疎開”も多かった

<都会地転入抑制緊急措置令を適用>
* 1946年(S21)3月~、東北地方ではただ1か所、仙台市内への転入抑制措置開始/復員・引揚者や復興工事労務者など特別な場合を除いて転入不可 / 9月末の解除予定が、食糧事情、住宅事情から11月末まで延期 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P69~70   
敗戦後の諸相・仙台 アルコール添加で三倍増醸    <米不足で、酒造高も減>
・ 県酒造組合仙台支部では、1945年度(S20年度)5696石(1石=180リットル)、21年度4438石、22年度2585石
・ 政府、清酒をアルコール添加で増量する“三倍増醸”を認めたが、それでも酒造高は終戦前(S19年度)の半分以下で、時たまあった配給は1合か2合だった

<横行する密造酒>
・ 市内に流れた濁り酒は、市内小田原周辺や塩原の第三国人地域や、仙北地方の農村からが多かった
・ 仙台駅前のヤミ市で取引された、別名”白馬(ドブロク)”は、1升に米1升のバーター制、屋台の“仙台カストリ”(しょうちゅう)は1杯60円で、飛ぶように売れた

<連日報道されたメチル禍>
・ 薬店やヤミ商人から買ったメチルアルコールを飲んで、悶死や失明 / アルコールはかつての軍需物資がはっきりした表示がないままヤミに流れたもの 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72~73   
敗戦後の諸相・仙台 生活抄から        生 活 抄      通子  

・ 子供等が食にいやしくなり来つる
        叱りつつあわれ国敗れたり     
・ 配給日まで耐えこしあらな米をひき
        糊にして食い三たび三度を
・ 今少し食あらばかく病ませじを
        蒼白き鼻尖りて見ゆる 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P73~74   
敗戦後の諸相・仙台 家畜も激減    <市立屠場(市内小田原泉町)では>
・扱った牛馬豚羊が、1944年(S19)5000頭超、S20は2000頭、S22は746頭と激減

<飼育頭数も激減>
・市内の飼育数(牛馬豚羊)、S20は3475頭、S21は272頭
・深刻な食糧事情で、食いつぶされてしまった 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72   
敗戦後の諸相・仙台 米、大減収    * 1945年(S20)は凶作で、20年産米の供出量は、21年3月で66%
* 1946年(S21)産米は、前年に比べやや持ち直す
* 1947年(S22)、大減収(7、8月の豪雨と9月のカスリーン台風)
* 1948年(S23)、大減収(アイオン台風) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70、P72   
敗戦後の諸相・仙台 進駐軍相手の「特殊慰安施設」  1945年(S20)秋~1946年3月  <特殊慰安施設>
「特殊慰安施設」(RAA)は、占領軍向け性的慰安施設で、内務省の指令で警察が中心となって仙台や県内各地につくられた
・仙台では、小田原の公娼貸座敷業11軒、東八番丁の私娼料理屋11軒が、進駐軍の「性的慰安」に対応させられた
・小田原中江南にあった造兵廠の挺身隊寮が改造され特殊慰安施設とバー・キャバレー、ビリヤード場、ダンス・ホールを一体化した巨大な料理店兼遊興場となった / ここには、酌婦300名、女給・ダンサー100名がいたというが、警察の資料では100名が慰安婦だったという
・ 「特殊慰安施設」は、施設に出入りした兵士に性病が急増したことや米国本土の世論の反発によって、1946年(S21)3月にすべて廃止となった (以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)

・ 仙台料理店組合では「国際料理店」(有志でバー、キャバレー、球つき場、特殊慰安所を総合した施設)の敷地選定を急ぎ、仙台市小田原に設けられた(酌婦300人、女給・ダンサー100人)(以上、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68)

・ 進駐軍将校のパーティーへ芸者派遣要請あるも、応じる女性なく、責任者が謝りに会場へ / 翌日米軍から警察部長に出頭命令(「番丁詳伝」P158) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P326/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68/「番丁詳伝」P158   
年賀郵便 戦時中に廃止  1941年(S16)~1947年(S22)  * 1940年(S15)11月6日、年賀郵便の取扱いを中止
* 1948年(S23)12月5日、昭和15年に廃止の年賀郵便を復活 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P42   
年中行事(まつり) 仙台祭  1887年(M20)~  * 1887年(M20)10月、招魂祭に合わせて桜岡大神宮祭礼や青葉神社祭礼などの仙台祭がおこなわれる。 この年以降、招魂祭と仙台祭は合同開催となる
* 1899年(M32)、仙台まつりの山鉾は路上の電線その他の関係によりこの年限り廃止となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P315) 
「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P315   
年中行事(まつり) 青葉まつり  1956年(S31)~   → 項目「青葉まつり」参照     

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陸奥国分尼寺跡
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八木山球場
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