項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
野球場 |
八木山球場 |
1929年(S4) |
→ 項目「八木山球場」参照
|
|
|
競馬 |
愛子競馬場開設 |
1929年(S4) |
* 1929年(S4)11月21日、愛子(あやし)競馬場開設
|
「仙台市史 年表」P105
|
|
仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎(白亜の市庁舎) |
1929年(S4)完成~1966年(S41)秋取壊し |
鉄筋コンクリート3階建て
* 1926年(T15)、着工
* 1929年(S4)1月16日、竣工落成式
「一部鉄筋コンクリート3階建てルネッサンス式で高塔がある / 「のべ面積4934㎡、外部腰回りは花崗石組み、グランドニットタイル張りで、当時は仙台の代表的な“白亜”の建築物だった」(「仙台市史 続編第1巻」P218)
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
* 1935年(S10)4月7日、仙台市庁舎に御真影奉安室新設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れた
* 1966年(S41)秋、取り壊し
(新庁舎がS40年11月に完成するまで使われた)
(跡地は、第3代庁舎前の噴水広場になっている)
屋上にはサイレンが設置され、1929年(S4)2月1日から正午を報せた(これにともない、川内の第二師団内で大砲を撃って報せた「午砲」が廃止された) / サイレンは太平洋戦争中は空襲警報に転用された
|
「目で見る仙台の歴史」P162/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P218/「市民の戦後史」P177/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P285/「仙台年表」P200/「仙台あのころこのころ八十八年」P17~18「ドンとサイレン」/「番丁詳伝」P123
|
99-010、22-36、18-06、53-61、16-34、16-35、201-01、40-05、20-04、22-37、07-01-01/「目で見る仙台の歴史」P162(「白亜の庁舎」と「落成式記念写真」)/「新・目で見る仙台の歴史」P145(庁舎、東口、天井、階段、装飾柱)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年頃、整地中の市役所前広場)/同P176~177(東入口、荘重な正面階段、貴賓室天井、ゴシック式門柱、大時計、午報サイレン、解体され傾く塔屋、白亜の庁舎と並立する新庁舎)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38)
|
午砲(午報) |
サイレンで |
1929年(S4)~ |
* 1929年(S4)1月16日に完成した仙台市役所新庁舎(白亜の市庁舎)の屋上にサイレンを設置
* 同年2月1日から、サイレンで正午を報せた(午報)
(これにともない、川内の第二師団内で大砲を打って報せた「午砲」は廃止)
* 1945年(S20)9月25日、戦時中中止していた仙台市の午報を3年5か月ぶりに復活
|
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89
|
|
野球場 |
スポーツマン球場 |
1929年(S4)~1933年(S8) |
* 1929年(S4)6月、杉村多利治氏(のちの日乃出映画劇場社長)が国分寺薬師堂北隣につくる / ライトの塀外は薬師堂の杉木立でファンは木に登って見物した
* 1929年(S4)6月(7月)、スポーツマン球場設立(宮城野原南部、国分寺薬師堂北隣)
* 1933年(S8)、廃止
|
「仙台市史 年表」P105/「重訂 宮城県郷土史年表」P416/「仙台あのころこのころ八十八年」P70
|
|
精養軒 |
芭蕉の辻の洋館で営業 |
1929年(S4)~1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
(1)七十七銀行(M36年~S4年7月18日)のあと
(2)精養軒(S4年~)
(3)日本銀行仙台支店(S16年10月10日~)が使用し、
仙台空襲(S20年7月)で焼失した
・ サービスガールは、紺の着物にエンジの帯を締め、白いエプロン姿(「仙台市史 特別編4 市民生活」P85)
/ 注:この精養軒は東京の支店で、明治初年に東一番丁に開業した「精養軒」(牛鍋・洋食)とは関係が無い(「東一番丁物語 明治編」P157)
|
柴田量平著「東一番丁物語 明治編」P157/「仙台市史10 年表」P302/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
|
99-026、22-33、64-05、99-028/地図は98-110
|
芭蕉の辻の洋館 |
精養軒が使用 |
1929年(S4)~1941年(S16) |
* 1929年(S4)~1941年(S16)、精養軒(洋食レストラン)が使用
|
|
99-026、22-33、64-05、99-028/地図は98-110
|
八木山遊園地 |
工事完了 |
1930年(S5) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が、所有する土地に私費を投じて野球場とともに建設し、遊園地(約10万坪)は7年後に仙台市に寄付した(八木山公園は一時、宮城県に寄付したが、昭和7年八木氏に返還され、9年4月に改めて仙台市に寄付された) / 公園には、野球場、遊園地、吊り橋、動物舎、散策路などがある(「仙台市史 本編2」P377)
* 1937年(S2)9月、起工
* 1930年(S5)4月、「八木山遊園地」と「公園」を開設(「仙台市史 年表」P105)
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」、仙台市に寄付される(「仙台あのころこのころ八十八年」P247)
* 1936年(S11)5月28日、「八木山遊園地」を仙台市に寄付(仙台市会が寄付採納可決)
* 1937年(S12)、仙台芸妓組合、八木山遊園地、沿道、紅葉ケ谷に桜800本を植栽し、仙台市に寄付(「仙台あのころこのころ八十八年」P248)
|
「仙台市史 年表」P105、P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P415/「仙台あのころこのころ八十八年」P247、P248/八木山公園については、「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり
|
|
野球場 |
澱橋野球場 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)10月、澱橋野球場開設(角五郎町、澱橋わき)
* 1940年(S15)5月5日、澱橋総合運動場竣工、落成式
* 澱運動場は、戦後一時、米軍(進駐軍)が接収
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P422/「仙台市史10 年表」P298/「仙台年表」P210/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328/「仙台あのころこのころ八十八年」P246、P248
|
|
藤崎(戦前期) |
改称 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)5月1日、株式会社藤崎呉服店、株式会社藤崎と改称
|
「仙台市史 年表」P105/藤崎170年のあゆみ」P255
|
|
医療機関 |
仙台市立病院 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始
(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造)
→ これ以降は、項目「仙台市立病院」へ
|
|
|
防空演習(防空訓練) |
宮城県で初の防空演習 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)11月4日、第二師団司令部、仙台市を中心に1市4町18カ村で防空演習を実施させる(仙台で初の防空演習)/ NHK仙台放送局が防空演習を中継放送
(* 1931年(S6)9月18日、満州事変勃発)
|
「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台放送局60年のあゆみ」P3/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
|
|
仙台市立病院 |
旧・裁判所庁舎で診療開始 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)1月30日、開院式 / 医師5人、看護婦7人、事務員4人(「番丁詳伝」P129)
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造) / 当初は内科・外科・眼科、翌年に小児科・耳鼻科を追加、S7年に産婦人科も開設 / 外来患者数、S5に14万人、S10に18万8000人、見舞客も含めて東一番丁には大きな潜在購買客となる
・ 昭和3年の昭和天皇即位大典の記念事業
・ 旧裁判所庁舎(明治9年建築の木造)を利用
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706~707に、診療科など記述あり
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「番丁詳伝」P128~129
|
「目で見る仙台の歴史」P163と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P427に、「仙台地方裁判所跡に開設された市立病院」
|
金富士(料理店) |
開店~閉店 |
1930年(S5)~1971年(S46) |
玉澤横丁にあった、西洋料理と中華料理の店
・戦前、「銀のスプーンで」食べるカレーライスが人気だった
・「崑崙(こんろん)山」と名付けた庭で有名だった /
<崑崙山(息女の石井直子さん談)>
「この庭は、初代の経営者石井金三朗が全国を回って集めた天然石で築造、昭和初期に1000円もした高価な石も使われた。 庭の地下に水槽をつくり電動ポンプで水をくみ上げた滝もあった。庭にある鳥居も石で出来ていた。帽子をかぶった人が腰かけているのうな石もあった。トイレにも自然石が使われていた。土井晩翠が詩に詠んだほどの名所だった。」
* 1930年(S5)開店(玉沢横丁)
* 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1948年(S23)、再建し1971年(S46)まで営業した
【「仙台年表」P201】「昭和5年、仙台国分町の金富士寿司経営者、石井金三郎氏、石崑崙を築く。面積260平方尺、高さ20尺、集石に5年、築造に1年、大小の石は北海道アイヌから九州迄に及び10万円を費やす」
|
金富士の家族談/仙台年表P201
|
戦前は98-110、71-01、71-02、71-03、71-04、71-05、71-06、戦後は71-07、71-08、71-09、201-43
|
大日本連合婦人会 |
結成 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、文部省系の大日本連合婦人会、結成
* 1931年(S6)2月7日、宮城県連合婦人会、結成
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
|
「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P202(出典:毎日新聞)
|
|
「仙台郷土研究」 |
創刊 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)1月10日、「仙台郷土研究」創刊(月刊)/末永勇四郎編、無一文館書店発行 / 小倉博(斎藤報恩会館)、阿刀田令造(旧制二高)らが中心
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P424/「目で見る仙台の歴史」P159
|
「目で見る仙台の歴史」P159に、創刊号、小倉博氏と阿刀田令造氏肖像
|
冷害・凶作 |
昭和6年 |
1931年(S6) |
<昭和6年>
* 1931年(S6)、冷害
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4、昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
|
仙台市史 特別編4 市民生活」P356~357
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P356(宮城県の米収穫高グラフ)/同P360(婦女売買救済運動本部設置をつたえる新聞記事)/同P361(窮民救済のため設けられた公益質屋)
|
商店など |
信用堂洋服店 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、信用堂洋服店、大町五丁目194で創業
|
「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P107
|
99-042/ 20-46に看板あり
|
商店など |
仙台会館 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、仙台会館、旧・大町五丁目20で創業 / 洋食・カフェー
|
あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P107
|
20-49
|
競馬 |
長町競馬場の開設認可 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)4月18日、長町競馬場、開設認可
|
「仙台市史 年表」P105
|
|
瑞鳳殿 |
国宝指定 |
1931年(S6) |
仙台市経ケ峯にある藩祖伊達政宗公の霊廟 / 経が峯には二代目忠宗公霊廟「感仙殿」、三代目綱宗公霊廟「善応殿」もある / 感仙殿は瑞鳳殿と同等に華麗なものだったが、明治初年に本殿を除いて取り壊された
* 1928年(S3)、鐘楼堂落成(350貫の大梵鐘を釣る)
* 1931年(S6)12月14日に瑞鳳殿と感仙殿が、旧仙台城の大手門、隅櫓ともに国宝に指定される
|
公益財団法人瑞鳳殿HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P414/「仙台年表」P202/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187
|
99-084、99-085、99-086、99-087、44-21、53-56、53-57/「目で見る仙台の歴史」P46~49(瑞鳳殿、涅槃門、本殿正面、本殿厨子、梵鐘)/同P57~58(空襲焼失以前の感仙殿、厨子、門)/同P60(戦災焼失以前の善応殿霊屋)
|
日米野球 |
米大リーグ選抜対明治大学 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)11月10日、八木山球場で、「アメリカ大リーグ選抜(グローブ投手やゲーリッグら)対明治大学チーム」の日米野球試合(米13-明治2)が行われた
(【「仙台はじめて物語」P235~241】に詳述あり)
|
「仙台はじめて物語」P235~241/「重訂 宮城県郷土史年表」P428/「仙台年表」P202
|
98-064 (「新・目で見る仙台の歴史」P155の米チーム一行記念撮影と同じ)
|
隅櫓 |
国宝指定 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)12月14日、大手門脇の隅櫓が国宝に指定された(大手門、霊屋にある瑞鳳殿、感仙殿とともに)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P428
|
99-081、65-08、08-02、53-44、73-01/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P249
|
宮城県庁舎 |
昭和の庁舎竣工(赤レンガ庁舎) |
1931年(S6) |
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった(「番丁詳伝」P123)
* 1929年(S4)6月27日、工事着手
* 1931年(S6)9月30日、県庁舎議事堂竣工
(鉄筋コンクリート造、一部鉄骨、地上4階地下1階)
* 1952年(S27)9月30日、東庁舎竣工(鉄筋コンクリート3階建、建坪684.0坪、延坪2432.63坪)
* 1952年(S27)12月10日、東庁舎落成式
* 1953年(S28)9月15日、宮城県印刷所を県庁構内北一番丁側に新設落成(鉄筋コンクリート2階建)
* 1986年(S61)~1987年(S62)、取り壊し
* 1986年(S61)8月9日、本庁舎改築に伴いお別れ参観デー
* 1986年(S61)8月11日、赤レンガ庁舎お別れ式、花時計も撤去
|
「番丁詳伝」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P558、P561、P567/「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P42/「続・ 宮城県郷土史年表」P209/
|
99-008、99-009、18-05、53-16、22-37/「目で見る仙台の歴史」P162/東庁舎は、53-111
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54~55(S37)/同P115(S61、さようなら県庁舎看板と正面玄関)
|
八木山橋 |
吊り橋、開通 |
1931年(S6)8月(11月?) |
八木山橋(吊り橋)は、八木久兵衛氏(仙台の味噌醤油製造業「紅久」経営者)が私費(3万1千円)を投じて昭和初期に行った八木山観光ルート開発の一つ
・ 深さ70メートルの龍の口渓谷をまたぎ、青葉城址(天守台)と八木山を結ぶルート上に架設し、仙台市に寄付した
・ 長さ107メートル、幅3.7メートルで、当時は宮城県下一のつり橋だった
* 1931年(S6)8月(11月)、開通(木造鉄柵吊り橋) / 「仙台市史 年表」P106では8月架設、 「重訂 宮城県郷土史年表」P429では11月開通
* 1937年(S12)、仙台市南光院丁某飲食店女中、初めて八木山橋から投身自殺す(「仙台年表」P208)
|
「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P429/「仙台年表」P202、P208
|
34-32、53-40、99-108、53-65、53-21、25-14、25-13/「新・目で見る仙台の歴史」P188/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図19~20(S8、S12)
|
大手門 |
国宝指定/焼失 |
1931年(S6)/1945年(S20) |
・ 豊臣秀吉が朝鮮役で肥前名護屋に陣営を築いた時の城門を、政宗が拝領して仙台に移築したものと伝えられる
・ 仙台城(青葉城)の「大手門」で、西公園側から大橋の先に見えたが仙台空襲で脇にあった隅櫓とともに焼失した/(写真に大橋が写れば、S20年7月以前の撮影)
・ 菊花桐葉の金紋は後水尾天皇から賜ったもの(「仙台の産業と観光 1936年刊」P53、P61)
* 1871年(M4)以降、仙台城二の丸跡に東北鎮台(M6年仙台鎮台、M21年に第二師団と改称)がおかれ、大手門は明治期から師団司令部の正門だった
* 1889年(M22)、この頃、師団司令部の経理部が大手門を破壊せんとす / 師団長佐久間左馬太これを却け、大蔵省に修理予算を請求し、金具の鍍金(めっき)復元等により外観を一新す(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)
* 1931年(S6)12月14日、「大手門」と脇にある「隅櫓」がともに旧国宝に指定される
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(「隅櫓」も)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除
* 1967年(S42)、隅櫓のみ、民間の寄付により外観が再建された
|
「目で見る仙台の歴史」P50/「重訂 宮城県郷土史年表」P284、P428 /「仙台城」(昭和42年 仙台市教育委員会発行)P234~P235/「仙台の産業と観光」P53、P61/「仙台年表」P201/「仙台市史10 年表」P322
|
99-080、64-02など「写真データベース」分類D-12-01の写真全部/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P247に大手門正面(東面)詳細、南面/同P248に門扉詳細/「目で見る仙台の歴史」P50~51(大手門の正面と背面)
|
東北振興/農村更生 |
2 |
1931年(S6)~1934年(S9) |
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4,昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
・欠食児童が増加、青森県上北郡で1300名中700名が欠食
・青森県上北・下北・三戸地方収穫皆無、人身売買が横行
・山形県のある村では、15~24歳の娘467人中110人が売られた
* 1932年(S7)、不況さらに深刻になり、官吏や教員の給料の遅配や減給も生じ、県下には税が納入されず廃村を決議した村もあると新聞などで報じられた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
・ 仙台周辺の農村では、地主の所有する小作地が多くなる(原町で54.1%、岩切46.3%、七郷42.3%など) / 市内の商業資本家たちがこれらの村々の水田を買い、不在地主になっていた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1932年(S7)7月、欠食児童が激増/北海道10899人、青森県6107人、秋田県996人、岩手県3539人、全国で20万人
* 1932年(S7)7月4日、宮城県農村自力更生運動連盟結成(宮城県販売購買組合連合会、産業組合中央会宮城支会など14団体参加)
* 1932年(S7)、小作争議が各地で激化
* 1932年(S7)、農山漁村経済更生事業開始(昭和7年以降、毎年20ケ町村づつを指定して、経済更生特別指導町村となし、農山漁村の経済更生事業を実施す)
* 1932年(S7)12月、時局匡救事業として仙台に飛行場工事を起す(8年3月27日、霞目の仙台飛行場竣工、落成式)
* 1933年(S8)、農家は豊作となったが、豊作貧乏に泣く
* 1934年(S9)秋、台風・冷害のため大凶作となる(「仙台市史 年表」P107)
* 1934年(S9)の凶作、米減収率、岩手県56.4%、青森県46.4%、山形県45.9%、宮城県38.3%、福島県33.4%、秋田県25.6%(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
* 1934年(S9)、東北地方大凶作、娘の身売り増加(岩波P11)
* 1934年(S9)10月26日、仙台市、凶作による仙台市内窮民救済のため、市吏員、職員および市立学校職員臨時恤救金拠出規約を制定
* 1934年(S9)、婦女子の出稼ぎ(昭和9年、警視庁管下の調査)、宮城県では1万962人(芸妓228人、娼妓520人、酌婦1264人、女給643人、女中・子守3860人、女工3346人、その他1101人)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P360)
* 1934年(S9)11月、東北地方大凶作で、女子出稼ぎ者は芸妓らを含め5万8173人(芸者2196、酌婦5961、娼妓4521、女給3271、女中15534、子守19244、女工1726、その他5720) / 秋田県横手駅、午後3時41分発の列車は「身売り列車」と呼ばれ、毎日女の子が銘仙に白足袋をはきマダラ化粧で発つ
* 1934年(S9)11月、NHK仙台中央放送局が、「農山漁村経済更生実績講座」(冷害対策として、14回シリーズ放送)
* 1934年(S9)12月26日、東北地方窮乏対策のため、政府が「東北振興調査会」を設置(S13年3月31日に廃止)
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P356、P360、P361、P517~518/「宮城県百科事典」P754/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P12、P13、P14、P15/岩波ブックレット「年表 昭和史」P11/「仙台市史 年表」P106、P107/「仙台放送局60年のあゆみ」P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P433
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P517(「宮城県に於ける経済更生運動の概要」表紙、パンフレット「自力更生」)/同P518(S9年、「東北地方の飢饉救援に関する全国農民組合総本部通達」)
|
敗戦後の諸相・仙台 |
宮城県出身者の従軍数(召集数)、戦死者数、復員数 |
1931年(S6)~1945年(S20) |
<宮城県出身者の従軍数と復員数>
(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66)
陸軍17万人 外地 12万人 → 復員数 9万6000人
内地 5万人 → 復員数 5万人
海軍4万人 外地 2万人 → 復員数 1万3000人
内地 2万人 → 復員数 2万人
<宮城県からの召集数、県出身者の戦死数>
(「宮城県史」より 「戦争のころ 仙台、宮城」P239)
召集数
陸軍 約17万
海軍 約4万
戦死者数(死亡公報が発行された人数)
陸軍 約2万8000人(全体の16%)
海軍 約7000人(全体の18%)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239
|
「新・目で見る仙台の歴史」P171(シベリア抑留軍人が仙台着)
|
藤崎(戦前期) |
西館 開店 |
1932年(S7) |
S8年の三越進出(東一番丁)を視野に、先手をうって本館横に西館を建設
* 1932年(S7)4月5日、地鎮祭
* 1932年(S7)11月3日、「西館」開店
・ オープン後は西館が藤崎の主力店舗となった
・ 東一番丁・大町交差点(南東角)で、T8年建設の洋風木造本館の西に隣接、それ以前この場所には土蔵造り瓦葺平屋店舗(M30年建設)があった
・ 鉄筋コンクリート造地下1階地上3階、一部4階建、ルネッサンス式総タイル張り、一部4階建て、のべ614坪
・ 大食堂(3階)、催事場(2階)、屋上には遊園地、エレベーターを設置
新設されたエレベーターと、それを操縦するエレベーターボーイ(紺の詰襟服、金ボタンに赤線の入ったズボン姿)が人気を博した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P39)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で建物は焼け残る
* 1945年(S20)8月3日、空襲後の営業再開
|
「藤崎」の店舗の変遷(増改築)は「藤崎170年のあゆみ」P196~209の年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P39、P40/「仙台市史 年表」P113
|
20-37、20-38、18-22、98-016、64-03、53-33、53-46、22-27、98-019、20-23、53-100、20-26、20-31、72-02
|
爆弾三勇士 |
歌発表音楽会開催 |
1932年(S7) |
* 1932年(S7)4月14日、「爆弾三勇士の歌」発表音楽会、仙台市公会堂で開催 / NHK仙台放送局がラジオ中継放送
* 1934年(S9)2月22日、爆弾三勇士銅像除幕式(東京芝区の青松寺)
【中公文庫「日本の歴史24 ファシズムへの道」P346】 「爆弾三勇士(または肉弾三勇士)は、第1次上海事変で「3人の日本兵が火のついた破壊筒をもって身体ごと敵(中国)の鉄条網に突進し、突破口を開いた」という。(昭和7年2月22日) 当時、国民精神作興のため“美談"として銃後(国内)で大々的に宣伝された。」
【「昭和生活文化年代記・戦前編」P256】
・ 映画5社が「肉弾三勇士」を一斉に封切ったほか、ラジオ、出版、芝居などにもブーム
・ S7年、キリンビールの広告に「爆弾三勇士」
・ S10年、レートクレームの広告「肉弾三勇士」をもじった化粧品広告
|
「仙台放送局60年のあゆみ」P5
|
53-68(仙台七夕の仕掛け物「爆弾三勇士」)
|
思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(2) |
1932年(S7) |
* 1932年(S7)2月10日、赤化運動によって東北帝大生4人検束
* 1932年(S7)3月1日、日本プロレタリア劇場同盟本部員江津誠等、仙台署に検束
* 1932年(S7)11月10日、県下共産党員の一斉検挙(仙台年表P203)
* 1932年(S7)11月14日、共産党員および青年同盟関係者一斉検挙、宮城県124名、東北帝大理学部助教授服部鼎、東北中学教員鈴木博等逮捕さる(「仙台市史10 年表」P279)
|
宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P278、P279/「仙台年表」P203
|
|
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 |
ラジオ出演 |
1932年(S7)ころ |
S7年頃、文化キネマの楽団員たちが、NHK仙台放送局のラジオドラマ(生放送)で伴奏を担当
|
|
67-01、67-04
|
仙台市民金庫/仙台信用金庫 |
改称 |
1932年(S7)/1951年(S26) |
* 1932年(S7)10月3日、仙台市民金庫、創立 / 三越進出問題に触発されての設立(「番丁詳伝」P141)
* 1932年(S7)10月、仙台市民金庫を産業組合法により、定禅寺通・東一番丁突き当りに開業(「重訂 宮城県郷土史年表」P433)
* 1951年(S26)10月、仙台市民金庫を仙台信用金庫と改称
|
「番丁詳伝」P141/「重訂 宮城県郷土史年表」P433、P552
|
53-61、40-07、201-04、07-01-01、22-29/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(29~33年頃)の右端
|
満蒙開拓 |
宮城県関連(1) |
1932年(S7)~ |
<武装移民団>
* 1932年(S7)10月、宮城県初の武装満州移民団(開拓団)出発(「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183) / <編者注> 日付から、東北や長野県など数県の在郷軍人で構成する武装移民団「満州第一次武装開拓団弥栄村」と思われる
<満蒙開拓青少年義勇軍>
* 1938年(S13)1月、宮城県内で満蒙開拓青少年義勇軍募集が行われる
* 1938年(S13)~1942年(S17)の間に、当時の仙台市内から満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州へ入植したのは103人(「仙台市史第2巻本編2」P604の表103)
* 1940年(S15)2月4日、宮城県は、大陸開拓のため県下農民海外移住を計画
* 1941年(S16)3月1日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が「満蒙開拓現地通信」放送開始
<宮城県人の移住地(例)>(「近代みやぎの歩み」より)
* S12、黒竜江省慶安の宮城村 /S12、趙家店、安拝 /S14、錦州省興城 /S15、六間房 /S16、頭導梁子
* 宮城県は満州開拓民団を昭和9年第1次から昭和18年第10次まで2000戸以上を満州へ入植させた(「仙台年表」P213)
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設(「仙台市史 年表」P111~112) → <商工業者がS17年に入植した仙台村開拓団>は、小項目「宮城県関連(4) 仙台村」に記述
・ 「仙台市史第2巻本編2」P604の103表に、宮城県からの満蒙開拓移民数(昭和13~19年、満蒙農業移民、満蒙開拓青少年義勇軍、仙台開拓団)
・ 「宮城県開拓団の記録」によれば、宮城県出身の開拓村関係者6743人のうち、帰国できたのは3267人(全体の48%)(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216)
* 1978年(S53)8月20日、松島町瑞巌寺境内に満蒙開拓団員の慰霊碑「拓魂」、除幕
|
「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183/「仙台市史 年表」P109、P111/「仙台市史10 年表」P304/「仙台年表」P210、P212、P216/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P15/佐々久「近代みやぎの歩み」P106/「続・ 宮城県郷土史年表」P84/「仙台市史第2巻本編2」P604/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P170
|
|
NHK全国児童唱歌コンクールで連続優勝 |
東二番丁尋常小学校、2年連続優勝 |
1932年(S7)~1933年(S8) |
NHKのラジオ放送を通じて全国児童唱歌コンクールが毎年行われたが、仙台の小学校が第1回のS7年からS14年に間に7回全国優勝し大きな話題となった / 優勝校はS7年、8年が東二番丁尋常小学校
|
「NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P5/「重訂 宮城県郷土史年表」P432
|
69-03
|
博覧会・フェア |
満州事情展覧会 |
1932年(S7)~1934年(S9)頃 |
* 東北帝国大学報国会が、満州事変勃発(昭和6年9月18日)記念日頃に開催 / 開催場所は県商品陳列所か?(後援が県商品陳列所)/ 会場垂れ幕に満州皇軍慰問金バザー、音楽童謡舞踊の会の字 / 開催年は、昭和7年~10年の間の9月(根拠:宮城県商品陳列所は昭和10年11月11日に「宮城県商工奨励館」に改称なのでそれ以前)
|
「新・目で見る仙台の歴史」P160/当サイト内「写真データベース」の「商工奨励館」
|
「新・目で見る仙台の歴史」P160
|
西内楽器店 |
コロンビア・マーク |
1932年(S7)~1935年(S10)5月の間に設置された |
西内楽器店の最上層についていた「コロンビアマーク」
* 藤崎西館開店した1932年(S7)11月にはまだなかった(写真53-20)
* 1935年(S10)5月(藩祖公300年祭仮装行列時)にはついている(写真44-69)
・ 従って、S7年11月~S10年5月の間についた
・ 空襲(S20)焼失までついていたかは不明
|
|
44-69 (S10年5月)/22-52、20-46は、S10年12月以降、
|
満蒙開拓 |
宮城県関連(2)満蒙開拓団リスト |
1932年(S7)~ |
<(戦争のころ 仙台、宮城」P164~165より転記>
・ 宮城県は長野県、山形県に次いで全国で3番目に開拓団を多く送り出した県といわれ、国策の名のもと38地点に1万2000人の開拓団や義勇隊が渡満した
・ 宮城県知事引継書(昭和17年10月7日 林信夫知事→加藤於兎丸知事)の記述
「北海道自作農や、南米、南洋方面への移住希望者はほとんどなく、目下満州開拓民の創出に全力を挙げている。特に(南郷村のような)分村計画を樹立したところもあり移民業務は円滑に行われている」
・宮城県から渡満開拓団のリスト
昭和7年、第1次弥栄村37人 8年、第2次千振郷39人 9年、第3次瑞穂村17人 10年、第4次城子河、吟達河44人 11年、第5次大安屯、朝陽卍、黒台南郷、自警村移民168人 12年、第6次湯原、第7次先遣隊304人 13年、第7次本隊拉林、安井、第8次先遣隊420人 14年、第8次本隊横泰、青葉、韓家、第9次先遣隊173人 15年、第8次、第9次補充、第10次先遣隊137人 16年、第8、9、10次補充210人 17年、第8、9、10次補充216人 (以上、昭和17年知事引継書より)
以降は昭和19年まで続き、沙河子仙台657人、三裸樹北方村34人、三竜津久毛45人、吟達村南郷122人が移住(以上、鈴木文雄編著「宮城県開拓団の記録」)
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P164~165
|
|
東一番丁大火(一番丁大火) |
|
1933年(S8) |
* 1933年(S8)3月20日早暁、東一番丁の活動写真館仙集館付近より出火し52戸を焼く
* 仙集館→白崎写真館へ延焼→飛び火して、新国町界隈→国分町へ(51戸焼失、罹災戸数35)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「番丁詳伝」P131
|
|
昭和三陸大地震津波 |
発生 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)3月3日発生、マグニチュード8.1 / 岩手、宮城、中心に大津波被害甚大(死者・行方不明者 3000余人、うち宮城県が300余人)
|
|
|
仙台市紋章 |
制定 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)9月5日、制定
|
「仙台市史10 年表」P281
|
|
三越(仙台店) |
開店 |
1933年(S8) |
<前史>
* 1930年(S5)6月、株式会社仙都ビルディング創設(東一番丁)
* 1931年(S6)、三越仙台進出阻止運動(「仙台年表」P203)
* 1932年(S7)8月、東一振興会と商業連合会、三越仙台店設置反対運動を展開
* 1932年(S7)8月18日、仙台進出阻止演説会(日比谷公会堂)
・ 三越進出阻止運動(昭和5年~7年)については、「番丁詳伝」P138~141に詳述あり
・ 三越店員を地元から採用が伝わると、300人の計画に対し、男女3500人の履歴書が出され、2月15日から8日間、市公会堂で採用試験実施
<東一番丁に開店>
* 1933年(S8)年4月1日、三越百貨店(鉄筋コンクリート5階建、地下1階)、東一番丁北部の仙都ビルに開店 / 「三越の開店は風があったとはいえ、穏やかな春日和の四月一日、宣伝飛行機は開店ビラをまきながら大売り出しで始まった」
【「番丁詳伝」P144~145】
・ 「三越開店前までは、東一番丁では初の商店街組織「北振会」が結成されていたが開発は遅かった。三越周辺は空き地が目立ち、桃季園病院の黒塀が20m程続き淋しいところで、夜は暗くまったく商売にならなかった」
・ 「三越が開店して東一番丁は急激に商店が増えてくる。これまで、立町通り、虎屋横丁角までの人の流れもにも変化が見えてくる」
・ 「開店当初の店内配置は、地下(食料品・家庭用品)、1階(化粧品・履物・薬品・紳士用品・帽子)、2階(紳士婦人子供服・傘・ハンドバッグ・靴・貴金属品)、3階(呉服)、4階(文化用品)、5階(和洋家具・小ホール)」
・ 「開店時、ホールでの芸能披露、目玉商品、十銭均一売り出しなど記述あり」
・ 「(仙台は)街行く婦人は着物姿、僅かにみられる男性の背広姿はツンツルテンのズボンであったから、東京から転勤した約30人の三越青年社員の東京仕込みの中折帽、編上靴、ステッキ姿は目立つ存在であった」
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、内部を全焼
* 1945年(S20)8月1日、空襲後の営業再開
* 1963年(S38)11月1日、新館新装開店
(地上7階、地下2階、屋上に3階の塔屋あり)
* 1992年(H4)10月25日、三越増改築開店(三越・ABビルが竣工)/ 北隣の141ビルとの間に上空連絡通路を設置
|
「仙台年表」P203~204/「仙台市史10 年表」P279/「仙台市史 年表」P113/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「重訂 宮城県郷土史年表」P420、P435/「番丁詳伝」P138~145
|
22-51、47-06、53-34、22-53、53-23、16-39、20-33/「目で見る仙台の歴史」P165
/三越の七夕飾りは20-22/仙台空襲焼け跡に立つ三越は35-14/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38、新館)、P66(S38、新館)
|
火災(地域) |
東一番丁大火 |
1933年(S8) |
<仙集館と東一番丁大火>
* 1933年(S8)3月20日早暁、東一番丁の活動写真館仙集館付近より出火し、52戸を焼く
* 仙集館→白崎写真館へ延焼→飛び火して、新国町界隈→国分町へ(51戸焼失、罹災戸数35)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P232/「番丁詳伝」P131
|
|
博覧会・フェア |
第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会 |
1933年(S8) |
→ 項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」参照
|
|
|
思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(3) |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)1月18日、(旧制)第二高校生12名検挙(青共同盟建設実行運動に関し)
* 1933年(S8)2月28日、特高警察、宮城県消費組合仙台支部を急襲、5名逮捕
* 1933年(S8)3月23日、社会大衆党仙台支部結成(宮城県全農大衆党と社民党が合同)
* 1933年(S8)5月27日、京都帝大瀧川事件に東北帝大生起ち、法文学部有志大会を開く / 6月16日、東北帝大有志が学生大会で決議(瀧川教授休職取消、京大法文学部閉鎖反対など)/東北帝大法文学部同盟休校
* 1933年(S8)10月6日、消費組合設立運動者東北帝大法文学部学生3名検挙
* 1933年(S8)10月7日、仙台署特高警察、共産青年同盟再建運動を探索、市内数カ所急襲
* 1933年(S8)10月17日、広瀬川改修工事労働者300余名、デモを企つ、25日に首謀者2名解雇
* 1933年(S8)10月25日、共青事件街頭レポ東北帝大生門平謙三検挙、(共青関係者検挙終わる)
|
宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P280、P281、P282/「宮城百年」(毎日新聞社)年表
|
|
第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会 |
開催 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)
<「わしが国さ」昭和8年2(?)月号P2「満蒙軍事博覧会」より要約> 展示館は、満州国大パノラマ館、陸軍館(新兵器、満州事変上海事変戦利品)、海軍館(陸軍館と同様)、第二師団戦勝館(各種兵器、軍刀、血染めの軍服、遺品)、産業館、特設館、日本伝説お化け館、お伽の国館、特設海女館(豊麗なる十数名の海女が水中にて種々なる妙技を実演)、演芸館(歌舞、映画、演劇等)
|
「仙台市史10 年表」P280/「わしが国さ」昭和8年2(?)月号P2
|
|
多門師団凱旋 |
仙台帰還(凱旋) |
1933年(S8)1月 |
陸軍第二師団(多門二郎師団長)は、満州駐箚中に起きた満州事変(S6年9月~)で満州各地を次々に占領 当時の市民は、その「武勲」に熱狂した
・ 第二師団の戦死者は約300人、凍傷・負傷者約1500人(「新・目で見る仙台の歴史」P160)
* 1933年(S8)年1月7日~9日と13日、市民あげて歓迎する中、第二師団が仙台に凱旋した
・ 凱旋歓迎に動員された児童生徒は「凱旋凱旋ああわが勇士」(多門師団凱旋の歌)と歌った
・仙台駅前から南町通りを経由して、川内の第二師団まで凱旋行進(師団長ら師団司令部は8日「凱旋」)
・南町通りは、1月7日市会の決議により、この日から師団長の名にちなんで「多門通り」と改称された → 項目「多門通り」参照
・1月8日、戦勝祝賀花電車(市電)
・2月19日、宮城県愛国連盟・仙台市教育会主催、対国際連盟大講演会・県民大会開催
・2月24日、国際連盟、リットン報告を採択
・3月27日、日本、国際連盟を脱退
・4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)→<参照>項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」
* 1934年(S9)12月、仙台市昭忠記念堂除幕式(青葉山公園)
昭忠記念堂は、満州事変で「武勲」をたてた多門二郎師団長指揮下の第二師団を記念し、本丸跡上り口に建造(近くには多門師団長の胸像もあったが太平洋戦争中の金属供出により台座だけが残されていた)→ 仙台城石垣修復事業にともない平成16年に撤去
<参考> 写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述)
|
「仙台市史10 年表」P280) /「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P204/「新・目で見る仙台の歴史」P160
|
65-02、65-04、65-01、98-081、98-082、98-083、65-03、65-05、65-06、65-07 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128/「目で見る仙台の歴史」P168/「新・目で見る仙台の歴史」P160/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
|
多門通り |
南町通りを改称 |
1933年(S8)1月7日 |
南町通りは、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路
*1933年(S8)1月には、「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを「凱旋行進」した
・ 「凱旋」を記念して、1933年(S8)1月7日市会の決議により南町通りは、当時の師団長の名を冠した「多門通り」と改名された
・ 戦後は南町通りに復名
・ 敗戦後、進駐してきた米軍はこの道路を「メープル街(かえで)と名付けた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P28)
|
「仙台市史 年表」P106/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P28
|
65-01-01、53-91、53-96、63-04-01、98-148(被占領時代の仙台市街地図 米軍用)
|
霞目飛行場(仙台飛行場) |
落成~終戦 |
1933年(S8)~ |
<戦前は、軍用→逓信省→軍用>
* 1932年(S7)12月、時局匡救事業として仙台に飛行場工事を起す
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し、7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)3月27日、仙台飛行場落成式(「仙台市史10 年表」P280、「仙台市史 年表」P107)
* 1937年(S12)4月1日、東京・札幌間(仙台、青森経由)で定期航空路開設(「仙台市史 年表」P109、「仙台年表」P207=出典:毎日新聞、「仙台あのころこのころ八十八年」P247) / 日本航空輸送のフォッカー・スーパーユノバーサル機(旅客6人乗り)が発着した。 冬季は休便を強いられ効率が悪い上、中国との開戦が影響して、1938年(S13)に休止(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1938年(S13)9月10日、航空局仙台乗員養成所、落成開所式(「仙台市史10 年表」P294、重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 太平洋戦争開戦とともに陸軍が仙台飛行場の拡張と整備を重ね、航空機乗員養成所、軍用機操縦訓練施設として使用。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
*******************************
「宮城県百科辞典」P188の「霞ノ目飛行場」
* 1933年(S8)、軍の飛行場として完成
* 1938年(S13)、逓信省臨時航空機乗員養成所
* 1944年(S19)、陸軍航空部隊が使用
「仙台年表」P203(出典:河北新報26.10.1)
<編者注:以下の内容は多分間違いか?>
* 1932年(S7)、逓信省航空乗員養成所として、七郷村霞目飛行場開設
*********************************************
<松島の海軍飛行場>(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
このほか、戦前の軍用飛行場に「松島海軍航空隊」の飛行場があった。
* 1942年(S17)5月、3本の滑走路完成(S16年12月に矢本の国有林300haと65名の田畑買収) 戦闘、補給、管理の3部隊約1000人を配置。一式陸上攻撃機20~30機、爆撃機銀河約50機、夜間戦闘機月光5~6機の一大航空基地
* 敗戦後は米軍(第11空挺師団188連隊)が進駐、隣接地も接収し拡張
* 講和条約締結後返還され、航空自衛隊の基地(ブルーインパルスも所属)
|
「仙台市史10 年表」P280、P294/「仙台年表」P203、P207/「仙台市史 年表」P107、P109/「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「宮城県百科事典」P188/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155、P156
|
戦前は、「目で見る仙台の歴史」P161/02-01、02-02
|
斎藤報恩会博物館(斎藤報恩館) |
博物館竣工~取壊し |
1933年(S8)~2015年(H27) |
・ 東三番丁の元貞(げんてい)坂上にあった
・ 鉄筋コンクリート3階建て、秋保石張り、ドームのある建物として親しまれた / 設計は小倉強
* 1933年(S8)11月1日、東三番丁に斎藤報恩会会館完成、併置した博物館を開設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れる
戦後は、
* 1948年(S23)年5月27日~S27年5月、「仙台CIE図書館」(GHQの民間情報教育局管轄)が同居 → 項目「仙台CIE図書館」参照
* 1952年(S27)、「仙台アメリカ文化センター」(米国務省管轄)が館内に同居 → 項目「仙台アメリカ文化センター」参照
* 1953年(S28)11月3日、終戦後閉館中だった自然史博物館を再開(化石、動物はく製品等を展示)
* 1972年(S47)9月、解体
* 1973年(S48)~74年(S49)に改築のために取り壊し
* 建替え後、自然史博物館を継続
* 2015年(H27)3月末、斎藤報恩会博物館を閉館(所蔵資料は仙台市に寄贈された)
|
「仙台年表」P204/「仙台市史10 年表」P437/Wikipedia「斎藤報恩会」/「仙台市史 年表」P115、P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P437、P569/「続・ 宮城県郷土史年表」P14/「古写真にみる仙台の建築」P46
|
戦前は、53-110、99-101、「目で見る仙台の歴史」P165/「新・目で見る仙台の歴史」P151/空襲焼け跡に立つのは、35-14、62-04、53-71、35-09、35-10 /戦後は53-50、07-01-04
|