仙台よみとき用語年表
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文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 開館/移転・改称/改称/空襲焼失・休館/再建/改称  1925年(T14)/1936年(S11)/1938年(S13)/1945年(S20)/1950年(S25)/1958年(S33  <大映文化キネマ>
* 1925年(T14)12月11日、阿部太助が、界隈の発展を目的に「文化キネマ」を、文化横丁の南側中央に新築開設(「東一番丁物語」P219」
* 1925年(T14)11月、文化キネマ(活動写真)、東一番丁に開設(「重訂 宮城県郷土史年表」P400)
* 1925年(T14)12月1日、阿部三郎が「大映文化シネマ」を始める(「東一番丁創立五十周年」P8)
* 1925年(T14)12月11日、阿部来太郎、「大映文化キネマ」を文化横丁の中央南側に新築開館(松竹映画と洋画を上映)(「仙台映画大全集」P450)
・ 文化キネマは松竹映画とともに、洋画も上映 / 東京浅草から弁士を招致して新風を吹き込んだ(「番丁詳伝」P113)

<文化映画劇場>
* 1936年(S11)12月、東一番丁(大通り)へ新築移転し「文化映画劇場」と改称 / 洋風建築、椅子席、3階建、2階に楽屋、3階に食堂とホール(「仙台映画大全集」P140)

<文化キネマ>
* 1938年(S13)、再び「文化キネマ」に改称
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で外壁を残し焼失、休館

<戦後復活し、文化劇場>
* 1950年(S25)12月、大通り(東一番丁88)で「文化劇場」として復活(松竹映画を上映、943席)
<仙台松竹映画劇場>
* 1958年(S33)11月、「仙台松竹映画劇場」と改称
* 2001年(H13)、閉館 
「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史P450ほか /「重訂 宮城県郷土史年表」P400、P546/「番丁詳伝」P87、P113/参考:「東一番丁物語」(柴田量平著)P219、P236~237  ・戦前は、22-5953-3861-2461-25/「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P106~107/「いつか見た街・人・暮らし」P44(昭和12年頃) ・戦後は、18-0418-08 
青葉山公園 開設  1925年(T14)/1954年(S29)  仙台市が管理している都市公園 / 青葉山の東端から広瀬川右岸にかけての40.6haで、仙台城(青葉城)の跡地の一部やその堀であった五色沼、長沼を園内に含む

* 1925年(T14)10月、第二師団より大手門等を含む2,957坪を借地し、仙台市青葉山自然公園とし、大手門への出入り自由となる(「仙台城」P233、「重訂 宮城県郷土史年表」P399) / 旧青葉城の大手門は、明治期から昭和戦前期には陸軍第二師団の正門だった
* 1925年(T14)10月、仙台市が、仙台城の大手門を含む2957坪を青葉山公園として開設(「仙台市史 年表」P103)
* 1937年(S12)9月3日、多門将軍銅像、青葉公園に建設、除幕式(「仙台市史10 年表」P291) (注)多門将軍は、満州事変当時の第二師団長多門二郎中将

<戦後>
* 1945年(S20)、連合国軍(米軍)が第二師団の敷地を接収(キャンプ・センダイ)したために青葉山公園は事実上の休園状態
・ 川内の旧軍跡地の接収は、第9軍団司令部が札幌から仙台に移転した、1946年(S21)(「戦争のころ 仙台、宮城」P224)
・ 米軍が二の丸跡に、米軍人軍属の住宅、クラブなど建築、二の丸遺跡は徹底的に破戒され、三の丸巽門(櫓門)破却、中島池、奥方庭園池泉、藩主居間前庭の瓢箪池、中奥外の濠、筋違橋付近深谷みな埋め立てらる(「仙台城」P235)
・ 中島池は埋め立てられゴルフ場に(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
* 1950年(S25)10月、護国神社が、本丸一帯の国有地の払い下げを受ける(「仙台城」P235)
* 1954年(S29)2月、護国神社所有地本丸の一部、2万0933坪を仙台市管理に移し、五色沼、長沼一帯国有地1万2643坪を加え、3万3576坪を公園地とす(「仙台城)」P236)
* 1954年(S29)4月1日、青葉山公園が川内に開園(再開)
* 1955年(S30)、追廻を公園地に編入(「仙台城)」P236)/ 旧第二師団の練兵場だった追廻地区は、戦後、米軍の接収をまぬがれ、住宅営団が戦災者・引揚者用の応急簡易住宅団地(追廻住宅 / 賃貸約620戸)を建設、その後居住者に払い下げられていた(追廻地区住民は、同地区の公園化に反対した)
* 1957年(S32)9月、仙台市が五色沼、長沼を浚渫(「仙台城)」P236)
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1960年(S35)6月10日、仙台郷土博物館建設(翌年10月10日開館)=博物館第1期工事
* 1961年(S36)10月、仙台市博物館開館(三の丸跡に)
      → 詳細は、項目「仙台市博物館」参照
* 1964年(S39)8月18日、宮城県スポーツセンターが青葉山公園内に開館(1万人収容、東北一の規模)
* 1965年(S40)7月、元東北大学教授山田孝雄先生の碑を建設期成会が護国神社裏に建立
* 1991年(H3)月日、仙台国際センターが開館
      → 詳細は、項目「仙台国際センター」参照
* 2015年(H27)、仙台市地下鉄東西線国際センター駅開業 
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233、P235、P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P571、P621/「仙台市史 年表」P103、P118、P123/Wikipedia「青葉山公園」(2019年6月)/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244  * 1960年(S35)3月13日、川内追廻住宅地(おいまわし)に火災、49戸焼失 
思想弾圧/共産党員検挙 昭和期(1)  1925年(T14)~1929年(S4)  * 1925年(T14)4月22日、治安維持法制定
* 1927年(S2)5月30日、京都地裁、京都学連事件に有罪判決、(治安維持法初の適用)
* 1928年(S3)2月1日、「赤旗」創刊
* 1928年(S3)2月20日、初の普通選挙
* 1928年(S3)3月15日、全国で、共産党員一斉検挙、検挙者1568人、起訴488人に及ぶ(3・15事件)
* 1928年(S3)6月29日、改正治安維持法、緊急勅令で公布(死刑、無期刑を追加)
* 1928年(S3)7月3日、全国の警察部に「特別高等課」設置
* 1928年(S3)7月22日、無産大衆党結成
* 1928年(S3)7月24日、司法省、思想係検事を設置
* 1928年(S3)10月30日、文部省、思想問題のための「学生課」設置、各大学に学生主事をおく
* 1928年(S3)12月20日、日本大衆党結成
* 1928年(S3)12月22日、新労働農民党結成(12月24日、解散命令)
* 1928年(S3)12月28日、政治的自由獲得労農同盟準備会創立宣言
* 1929年(S4)3月5日、山本宣治(旧労農党代議士)刺殺
* 1929年(S4)4月16日、4・16事件(共産党員大検挙)

  ~1930年(S5)~1931年(S6)の間は、年表に記載なし~    
岩波ブックレット「年表 昭和史」P4、P5、P6/
宮城県関連は、「重訂 宮城県郷土史年表」P397、P506 
 
東北帝国大学 学園にみる時代相(1)  1925年(T14)~1935年(S10)  * 1923年(T12)秋、東北帝国大学社会科学研究会発足 / 都市貧困地区への援助活動としてのセツルメント活動を東二番丁で行ったり、無産政党設立準備のための政治研究会仙台支部を結成したり、仙台一般労働組合を組織など / 東北帝大を中心として社研関係者に徹底的な弾圧、医学部・法文学部などの学生が仙台警察署に拘引され、家宅捜索で押収した手紙や日記をもとに、関係者を召喚 / 社研は解散声明発表(「仙台市史 特別編4 市民生活」P535)
* 1925年(T14)4月22日、治安維持法制定
* 1928年(S3)10月30日、文部省、思想問題のための「学生課」設置、各大学に学生主事をおく(「岩波」P5)

<満州事変 1931年(S6)9月18日~>   
* 1931年(S6)12月1日、東北帝国大学満州慰問連合会結成(「仙台市史10 年表」P277)
* 1932年(S7)、満州ブームの一例、佐々久氏の旧制二高同級生の半分が、大学卒業後すぐに満州に渡る(佐々久「近代みやぎの歩み」P80)

* 1932年(S7)2月10日、赤化運動によって東北帝大生4人検束(「市史10 年表」P278)
* 1932年(S7)11月14日、宮城県124名、東北帝大理学部助教授服部鼎、東北中学教員鈴木博等逮捕さる(「市史10 年表」P279)
* 1933年(S8)1月18日、(旧制)第二高校生12名検挙(青共同盟建設実行運動に関し)(「市史10 年表」P280)
* 1933年(S8)5月27日、京都帝大瀧川事件に東北帝大生起ち、法文学部有志大会を開く / 6月14日、瀧川事件応援に東北帝大生代表出発 / 6月16日、東北帝大有志が学生大会で決議(瀧川教授休職取消、京大法文学部閉鎖反対など) / 6月23日、東北帝大法文学部同盟休校(「市史10 年表」P281)
* 1933年(S8)10月6日、消費組合設立運動者東北帝大法文学部学生3名検挙(「市史10 年表」P281)
* 1933年(S8)10月25日、共青事件街頭レポ東北帝大生門平謙三検挙、(共青関係者検挙終わる)(「市史10 年表」P282)

* 1934年(S9)6月1日、文部省、学生部を拡充,思想局設置(「岩波」P11)
* 1934年(S9)6月27日、宮城県特高課、共産青年同盟関係者東北帝大生ら6名検挙(「市史10 年表」P283)

 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P5、P11/「仙台市史10 年表」P277、P278、P279、P280、P281、P282、P283/「仙台市史 特別編4 市民生活」P265、P534~536//佐々久「近代みやぎの歩み」P80

 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P265(S13年2月2日、宇野弘蔵東北帝大法文学部助教授らの検挙を伝える「河北新報」) 
宮城電鉄 国有化以前  1925年(T14)~1944年(S19)4月  * 1922年(T11)9月9日、宮城電気鉄道株式会社設立
・ 細倉鉱山の亜鉛精錬用電力の余剰分消費のため企画された
* 1925年(T14)6月5日、宮城電気鉄道(私鉄)が仙台~西塩釜間で運行開始、宮城電鉄仙台駅も開業
* 1927年(S2)4月、松島まで開通
* 1928年(S3)11月23日、石巻まで延伸開業(西塩釜~石巻間が開通)、30分おきに1両運転 / 女性車掌のオシボリのサービスもあり、松島観光や海水浴を宣伝した / 昭和恐慌の頃は展望車接続
* 1944年(S19)5月1日、宮城電鉄が国有化され、国有鉄道仙石線となる

<以降は、項目「国鉄(仙石線)」参照> 
「重訂 宮城県郷土史年表」P398/「仙台市史 年表」P101、P103、P104、P113/「新・目で見る仙台の歴史」P147/「仙台市史 特別編4 市民生活」P200  「目で見る仙台の歴史」P156と「新・目で見る仙台の歴史」P147に、宮城電鉄/「仙台市史 特別編4 市民生活」P200(リーフレット「宮城電鉄沿線案内」)/同P523(戦前期?新田駅のプラットホーム) 
軍事教練 学校教練(中等学校)  1925年(T14)~1945年(S20)  <学校教練>
* 1925(T14)年の陸軍現役将校学校配属令に基づき、旧制中等学校以上の教育機関に配属将校を配置し実施された
・ 第1次世界大戦後の軍縮に伴う将校の失業を救済するとともに、思想教育を兼ねた
・ 射撃など武器の使い方や戦史などを教え、演習も行った
・ 軍国主義教育の中心となった
* 1939年(S14)、中学校から大学までの授業に軍事教練が義務化された

* 1940年(S15)10月24日、県下男子中学校生徒(33校の上級生)の紀元二千六百年奉祝記念演習会を仙台付近で行う
* 1942年(S17)11月6日、宮城県下中等学校連合演習(仙台市付近で)

<配属将校>
・ 中学校には尉官級(大尉、中尉、少尉)、旧制高校、大学には佐官級(大佐、中佐、少佐)が配属され、複数の将校がいる学校もあった。
・ 教練は、射撃訓練や長距離行軍、部隊訓練、指揮法、手旗信号、武器保存、救助法、毒ガス防毒面の装脱、手りゅう弾投げ、防空監視など(「戦争のころ 仙台、宮城」P93)
 
「重訂 宮城県郷土史年表」P478、P493/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93  29-0629-0729-0843-0243-1243-14/「新・目で見る仙台の歴史」P161(S11年頃、宮城県工業学校の軍事教練) 
映画館(戦前・戦後) 文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場  1925年(T14)~戦後   → 項目「文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場」参照     
乳銀杏(苦竹のイチョウ) 国の天然記念物に指定  1925年(T15)  <仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「苦竹のイチョウは巨木で,大きく枝を張り,幹から出た根の一種である気根がつらら状に乳房のように多数垂れ下がっている様子から「乳銀杏(ちちいちょう)」とも呼ばれる。気根の最大のものは,周囲が1.6mにもなり,端が地面に達するものも見られる。樹下にまつられている銀杏姥神には,母乳が良く出るようにとお参りする人々も多い。樹齢は千年を越え,奈良時代に聖武天皇の乳母紅白尼の遺言でその塚の上に植えられたとの言い伝えがある。イチョウは起源の古い植物で,今から1億年以上前の中生代に栄えた。針葉樹等と同じく裸子植物に属している。イチョウには雌株と雄株があり,この樹は雌株である。苦竹のイチョウは,天然記念物に指定されているイチョウの中でも全国的に著名で,町名もこのイチョウにちなみ「苦竹」から「銀杏(いちょう)町」に変えられた。  樹種イチョウ(いちょう科) 幹周 7.8m 樹高 約32m 推定樹齢 1200年」

* 1925年(T15)10月20日、国の天然記念物に指定 
「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」  99-147 /「市民の戦後史(仙台市)」P86 
自動車など各種車両台数 自動車台数(仙台市内)  1926年(S1)~1985年(S60)  * 仙台の車(昭和10年頃)(「仙台の産業と観光」P27)
  ・ 自動車695台(乗用572台、貨物123台)
  ・ サイドカー35台、オートバイ109台  

* 仙台の自動車台数(出典調査中)
 →数字は、自動車台数(乗用車台数、貨物自動車等台数)
  ・1926年(S1)、 256台(221、35)
  ・1935年(S10)、 704台(578、126)
  ・1945年(S20)、1350台(436、914)
  ・1955年(S30)、4348台(920、3428)
  ・1965年(S40)、2万3602台(8302、1万5300) 

* 終戦前後、仙台市内にあった自動車台数(「仙台市史 続編1」P88)
→数字は(乗用車台数、貨物自動車等台数)
  ・1943年(S18)、自動車(496、804)
  ・1944年(S19)、自動車(448、606)
  ・1945年(S20)、自動車(436、914)
  ・1946年(S21)、自動車 (23、376)

* 仙台市内、乗用車保有台数(「仙台市史 特別編4 市民生活」P217)
  ・1975年(S50)、 6万8000台
  ・1985年(S60)、15万3000台   
「仙台の産業と観光」(S10年、仙台市役所刊)P27/「仙台市史 続編1」P88/「仙台市史 特別編4 市民生活」P217  S11~15年頃は、53-8853-9234-08 / 戦後は、20-07(S38)、22-13(S43) 
仙台市電 開業 / 駅前~大町1丁目、東五番丁~荒町 開通/モータリゼーション進展で利用者減 / 財政悪化/全線廃止  1926年(T15)11月/1976年(S51)3月  * 1925年(T14)11月、起工
* 1926年(T15)11月25日、仙台市電が初開通
  (仙台駅前~大町1丁目間2.1キロ、東五番丁~荒町間1.2キロ)
* 同日、西公園で開通記念式典

・ 「開業日、市中は飾り塔、造花、赤ちょうちん、紅白幕、小旗に彩られ、東一番丁では花トンネルをつくった。 また、開通の日、午前中だけで1万2000人が乗ったと記録されている」(「番丁詳伝」P118)

開業時にすでに、始発駅の仙台駅のやや北にある、名掛丁角まで軌道が敷かれている(「昭和史とともに 仙台市電-その50年」P166の市電系統図)

      ********************
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P216>
・ 市電利用者:昭和39年をピークに減少、市電財政悪化しはじめる / 対策として、大型ボディー車導入や1966年(S41)から一部をワンマン化 / 郊外に住宅団地増え周辺部から流入する自家用車で、市電並走部で交通渋滞 / 1976年(S51)3月、市電全線廃止

仙台市電(各路線)の開通日や廃止日は、
 ・「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189と
 ・「文集 仙台市電 市民が綴る五十年の軌跡」末尾年表で、わかる
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P364/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電 市民が綴る五十年の軌跡」末尾年表/「番丁詳伝」P118/「仙台市史 特別編4 市民生活」P216  22-48、/ 開通記念式典は、98-103/開業時の市電系統図は、98-101/「目で見る仙台の歴史」P148と「新・目で見る仙台の歴史」P147に「西公園における開通式、花電車」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P207(開通式、記念絵葉書の袋、一番電車が片平丁車庫を出発、開通記念無料乗車券)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P206~213(市電関連写真) 
青年訓練所 設置  1926年(T15)7月1日  <「日録20世紀 1926年」P42>
1925年(T14)に軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請/ 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった

<「仙台市史 特別編4 市民生活」P451>
1926年(T15)、文部省が管轄し、市町村に設置させた / 16歳~20歳までの男子の勤労青年に、修身・公民・職業・普通学科の教育と、主に在郷軍人による軍事教練を課すもので、兵卒の養成を目的にしたもの / これを終了すると兵隊になった時の在営期間が短縮された
   ***************************************

1926年(T15)4月1日、青年訓練所令及同規則公布 / 同年7月1日、青年訓練所を仙台市内12か所に設置
1931年(S6)7月5日、青年訓練所5周年記念一市三郡連合野外演習(宮城野原で)
1932年(S7)7月13日、青年訓練所連合演習

* 1935年(S10)4月、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる 
「日録20世紀 1926年」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451/「仙台市史 年表」P103/「仙台市史10 年表」P267、P276、P278/「番丁詳伝」P123   
東北振興/農村更生 1926年(T15)~1930年(S5)  ・ 東北は、1931年(S6)、1934年(S9)とつづく大冷害や、農業恐慌(生糸や米価の暴落)、1930年(S5)からの昭和恐慌が重なり、疲弊した苦難の時代が続いた
・ 「東北振興」が重要な政策課題となり、農村経済更生が叫ばれた
・ 「東北興業会社」(S11年秋創設)が中心となって諸事業を手掛けたが、1937年(S12)夏からの日中戦争拡大とともに先細りの傾向を示した

* 1926年(T15)12月18日、生糸相場が暴落
* 1928年(S3)、不景気で農村からの出稼ぎ増える
* 1929年(S4)10月24日、ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌始まる
* 1930年(S5)、世界恐慌が日本に波及(昭和恐慌)、不況状態1932年(S7)頃まで続く
* 1930年(S5)3月3日、生糸大暴落、この日大正5年以来の最安値となる
* 1930年(S5)秋の豊作で農産物価格が下落
* 1930年(S5)、東北では「娘身売りの際は相談してください」と村の掲示板に張り紙が出される/農村には現金がなく、米との交換が始まる
* 1930年(S5)、農業大恐慌、全般的に繭、野菜などが大暴落、農家の負債700~800円に 
「宮城県百科事典」P754/岩波ブックレット「年表 昭和史」P7/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P6、P8、P10、P11、/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356   
仙台市電 モハ1型 導入  1926年(T15)~1934年(S9)  車両モハ1型はT15~S9に導入、このうち7号はS39年10月に廃車  市電の各型の使用期間は、「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P180~181  201-3699-002 
兵役制度 昭和年代(1)  1926年(T15)~1941年(S16)  <大正末期~昭和初期>
* 1926年(T15)7月21日、1年志願兵及び1年現役兵服務特例公布(教練の検査とその合格者の在営機関短縮)(菅家年表)=「生活の変わりようをみる昭和の年表」
* 1927年(S2)4月1日、徴兵法を改正し兵役法を公布、現役期間1年短縮(菅家年表)

<満州事変勃発 1931年(S6)9月18日>
* 1931年(S6)11月10日、兵の名称改正(1等卒が1等兵に、輸卒が特務兵に)(菅家年表)
* 1933年(S8)2月16日、特別志願士官制度採用(予備、後備からの志願)(菅家年表)
* 1933年(S8)4月28日、少年航空兵制度実施、少年の志願兵に道を開く(菅家年表)
* 1937年(S12)2月19日、兵役法施行令改正、徴兵検査合格基準を5cm緩和、視力、聴力の基準も引き下げ(菅家年表)

<日中戦争勃発 1937年(S12)7月7日>
* 1938年(S13)2月25日、兵役法改正、学校教練修了者の在営期間短縮の特典を廃止(菅家年表)
* 1939年(S14)3月9日、兵役法改正公布、兵役期間延長(短期現役制廃止)(岩波)=岩波ブックレット「年表 昭和史年表」
* 1939年(S14)7月15日、少年戦車兵150名(15~18歳)募集を閣議決定(菅家年表)
* 1939年(S14)11月11日、兵役法施行令改正公布、第一乙種は現役兵、第二乙種は補充兵、第三乙種を設けて第二補充兵へ(菅家年表)、短期現役制廃止(市史10 P297)
* 1940年(S15)4月24日、陸軍志願兵令公布(岩波)(市史10 P298)
* 1941年(S16)11月15日、兵役法施行令改正公布、丙種合格で第二国民兵編入者も召集へ/ 同日、朝鮮志願兵を募集、25万人が応募(岩波P18)(菅家年表P27) 
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P4、P16、P18、/【菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P6~7、P12、P14、P18、P22、P27/「仙台市史10 年表」P297~298/「重訂 宮城県郷土史年表」P507   
軍事教練 一般青年  1926年(T15)~1945年(S20)  一般青年に対しては、
* 1926年(T15)、全国に青年訓練所を設立し実施
* 1935年(S10)以降は、青年学校に引き継がれ実施された
(S10年、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる)

<青年訓練所>(「日録20世紀 1926年」P42)
1926年(T15)7月1日、全国1万3842カ所に設置 約104万人が入学 前年、軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請した / 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった(4月20日、法令公布) 

<青年学校>(「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)
1935年(S10)4月、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学) 
「日録20世紀 1926年」P42/「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11  青年学校生は、06-06 
西内楽器店 開店~焼失  1926年(T15)~1945年(S20)  繁華街の東一番丁・大町交差点の北東角にあり、中央部が塔屋含めて5層に見える木造建築(大正15年竣工)が、向かい(南東角)の藤崎デパート西館(3階建ビル、昭和7年竣工)とともに特徴ある風景を象づくり、昭和戦前期の仙台の代表的景観のひとつだった

・ 呉服商の「大内屋」が建てた長屋で、数軒の店が入居
・ 木造2階・一部3階・瓦葺・真壁漆喰塗

* 1926年(T15)、竣工(中央正面の目立つ場所に「西内楽器店」が入った)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失 
「古写真に見る仙台の建築」P44  98-01553-2011-0322-2720-4644-6949-0464-0322-52 
第二高等学校(旧制) 北六番丁校舎時代  1926年(T15)~1945年(S20)  <北六番丁校舎時代>
東北帝国大学法文学部設置にあたり片平丁の校地を提供して、北六番丁(現・東北大学農学部)に移転した
* 1925年(T14)7月、北六番丁校舎へ移転(「宮城県百科事典」P637)
* 1926年(T15)10月9日、二高新築校舎、尚志会運動場落成(「重訂」P404、「仙台年表」P197、「市史10 年表」P268)
* 1927年(S2)、自治問題や明善寮管理問題をめぐり校長排斥のストライキ
* 1934年(S9)12月28日、旧制二高7名と東北帝大ボート部員3名、松島湾で突風吹雪のため遭難、10人死亡(「重訂」P443、「市史10 年表」P284)

<護国尚志会>
* 1941年(S16)1月8日、第二高等学校護国尚志会発会式(「市史10 年表」P300)
* 1944年(S19)7月20日、第二高等学校護国尚志会、二高総蹶起大会挙行(「重訂」P502、「市史10 年表」P308)

<戦時中、修業年限短縮>
* 1941年(S16)10月16日、勅令第924号「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」により、大学・高等専門学校、中等学校での就業年限を6か月短縮 / この年は12月に、翌年3月卒業予定者を繰上げ卒業
* 1942年(S17)8月21日、修業年限3年から2年に短縮(中等学校は5年を4年に短縮)
* 1943年(S18)1月21日、大学令改正で、大学予科、高等学校の修業年限を3年間から2年間に短縮(「市史10 年表」P304、「菅家」P30)

<終業年限短縮 ​Wikipedia「旧制高等学校」より転記>
「太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措置として1942年、43年には半年繰り上げの2年半で、また、1943年入学の学年からは法改正により正式に修業年限が2年に短縮された。ただし、終戦直後の1945年9月に再び修業年限3年に改められたため、2年の年限で卒業したのは1943年入学の学年だけである。 」

<校舎焼失>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、北六番丁校舎焼失(その後、三神峯に移転) 
「宮城県百科事典」P637/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「重訂 宮城県郷土史年表」P404、P443、P502/「仙台年表」P197 /「仙台市史10 年表」P268、P284、P300、P304、P308/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P10/「菅家年表」P36/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P312/新・目で見る仙台の歴史」P148/「仙台市史 特別編4 市民生活」P536

​Wikipedia「旧制高等学校」2020年8月版 
53-4153-42/「新・目で見る仙台の歴史」P148(S2年、校長排斥スト、講堂で集会と決議文)/「目で見る仙台の歴史」P160(松島湾ボート遭難30分前の写真) 
国鉄(仙山線) 戦前・戦後  1926年(T15)~昭和末年まで  * 1926年(T15)4月、着工
* 1929年(S4)9月24日(または29日)、仙台~愛子間で営業開始(9月29日、北仙台駅開業)
* 1931年(S6)8月30日、愛子~作並間開通
* 1932年(S7)7月25日、東仙台駅開設
* 1934年(S9)10月17日、仙山西線、羽前千歳~作並間開通
* 1936年(S11)1月28日、面白山トンネル工事で建設列車が鉄橋から転落、60余人死傷す
* 1937年(S12)11月10日、作並~山寺間の工事完了し、全線開通(仙台~作並~山寺~山形)、全線で電気機関車運転開始

<戦後>
* 1957年(S32)7月1日、交流電化完成(日本初)
* 1957年(S32)9月5日、仙台~作並間、交流電化による運転開始
* 1958年(S33)2月24日、世界初の交直両用電車の試運転開始
* 1960年(S35)11月1日、仙山線全線交流電化が完成(日本初の全線交流電化) 
* 1984年(S59)2月1日、国見駅・北山駅開業(当初は無人駅)
* 1986年(S61)7月7日、仙山線に自動式ドア採用
* 1987年(S62)3月21日、西仙台ハイランド駅開業
* 1988年(S63)11月18日、東照宮駅開業 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P564/「仙台市史 年表」P105、P109、P120、P121、P135/「仙台市史10 年表」P284/「重訂 宮城県郷土史年表」P416、P427、P450、P460、P585、P598/「仙台年表」P200、P203、P207/「続・ 宮城県郷土史年表」P172、P208、P220、P253/「新・目で見る仙台の歴史」P147(カラー、北仙台駅)  「市民の戦後史(仙台市)」P99(S32年9月、祝交流電化と表示かかげた電気機関車、熊ヶ根鉄橋を行く電気機関車)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201(祝交流電化と表示かかげた電気機関車) 
商店など かき徳  1927年(S2)  * 1927年(S2)、仙台市東一番丁に開店 / 仙台初のかき専門店 / 当時、本店の塩釜で種牡蠣を養殖し、仙台支店で販売した
・ 戦後はドリアン・キャンディーなどを扱った、 
「番丁詳伝」P220~221  44-03 
三原時計店 大町の店、取壊し  1927年(S2)  * 1927年(S2)、大町の店(時計塔のある土蔵造)を取り壊し、その跡にハイカラな時計塔のある店を新築  あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43   
メーデー(戦前) 宮城県初のメーデー  1927年(S2)  * 1927年(S2)5月1日、宮城県最初のメーデー、日本農民組合宮城県支部連合会・仙台一般労働組合などの主催により桜ケ岡公園で開催(デモコースは、公園→南町通り→仙台駅前)
* 1934年(S9)5月1日、メーデー共同闘争委員会約20名(各組合代表)が仙台市役所にデモ、夜は東一館で演説会開催、佐々木更三逮捕される

<参考>
* 1935年(S10)5月1日、第6回メーデが、戦前最後のメーデー(「一億人の昭和史 昭和重要事件年表」)
* 1936年(S11)3月24日、内務省が今年のメーデー禁止を通達 
「仙台市史 年表」P104/岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P13/「新・目で見る仙台の歴史」P149/「仙台市史10 年表」P283  「新・目で見る仙台の歴史」P149(仙台の第1回メーデー・デモ )/「仙台市史 特別編4 市民生活」P530(S2年5月1日、仙台の第1回メーデーデモ隊) 
四大節 制定  1927年(S2)  * 1927年(S2)に制定された四つの祭日(昭和戦前期)
・ 四方拝(1月1日)・紀元節(2月11日)・天長節(昭和時代は4月29日)・明治節(11月3日)の総称 
・ 戦前は、児童生徒は学校に登校し式が行われた 
大辞林 など   
仙台市電 仙台駅前~光禅寺 開通  1927年(S2)11月  ・ 0.7キロ 
・ 駅から駅前電車通りを北へ向かう路線/環状線(循環線)の一部区間

* 1927年(S2)11月24日、開通 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表  99-020/「市民の戦後史(仙台市)」P73(戦後20年代後半?の駅前電車通り) 
仙台市電 光禅寺~県庁前 開通  1927年(S2)2月  ・ 0.9キロ / 環状線(循環線)の一部区間

* 1927年(S2)2月25日、開通 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表   
仙台市電 大町1丁目~大学病院 開通  1927年(S2)4月  ・ 1.2キロ / 環状線(循環線)の一部区間

* 1927年(S2)4月1日、開通 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表   
七十七銀行 他行を合併  1927年(S2)、1932年(S7)  <他行を合併>
* 1927年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409)
* 1931年(S6)11月27日、東北実業銀行、五城銀行と合併仮契約書(「仙台市史10 年表」P277)
* 1932年(S7)1月31日、七十七銀行が、東北実業銀行、五城銀行と合併し、七十七銀行に(「重訂 宮城県郷土史年表」P429)

<「仙台市史 特別編4 市民生活」P356」より>
「七十七銀行は、第一次大戦後は、『米の七十七、繭の商銀』とうたわれ、宮城商業銀行とともに、県内各地に支店網を形成していった。 しかし(片倉製糸などの器械製糸工場におされて、取引先の)座繰製糸の不振によって、宮城商業銀行は大きな不良貸し付けを抱えることになり、1927年(S2)の金融恐慌をきっかけとして、仙台興業銀行ともに七十七銀行に合併されることになった。 さらに、七十七銀行は金融恐慌のさなかの1932年(S7)に東北実業銀行と五城銀行を合併し、仙台を中心とした地方の金融機関として生き残っていくことになる。」 
「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P429/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356   
仲の瀬橋(広瀬川) 木造橋架橋/ゲルバー型に架け替え/二層構造の橋架橋  1927年(S2)/1956年(S31)/1980年(S55)or1983年(S58)  (旧)中の丁から川内地区を結ぶ橋
* 1885年(M18)11月24日、広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失
* 以前は私設の渡銭橋だった
* 1927年(S2)11月11日、第二師団工兵第二大隊の架橋演習により架設され竣工、開通式(S3年の「東北産業博覧会」に備え架橋) / 木造ポニートラス六連の橋で、長さ170.6m、有効橋幅5m
* 1940年(S15)9月5日、大雨による広瀬川氾濫で流失
* 1941年(S16)5月、工兵第二連隊の架橋演習として修築
* 1950年(S25)、出水時に橋桁、橋台など被災 その後復旧
* 1953年(S28)、架け替え着工
* 1956年(S31)9月に、ゲルバー型の鋼板桁橋完工(長さ163.3m、幅9m)

<二重構造の橋>
(注:Wikipedia「西公園」と、Wikipedia「仲の瀬橋」で開通年が異なる)
* 1980年(S55)8月、仙台西道路新仲の瀬橋下り車線完成(「続・ 宮城県郷土史年表」P116)
* 1980年(S55)8月、二層構造の橋架橋完成(Wikipedia「仲の瀬橋」) / 上層の道路は地上の道路とつながり、下層の道路は仙台西道路(国道48号バイパス)として川内トンネルとつながる
* 1983年(S58)、仙台西道路の建設に伴い、2層構造になる
* 1983年(S58)5月14日、仙台西道路が暫定開通、同時に(新)仲の瀬橋も開通(Wikipedia「西公園」の年表) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412/「仙台市史10、年表」P270/「仙台市史 年表」P85、P104、P110、P111/「仙台年表」P210、P211/Wikipedia「仲の瀬橋」(2019年11月)/「続・ 宮城県郷土史年表」P116  34-31-0107-02-0116-4716-48 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P87(昭和3年)/「市民の戦後史(仙台市)」P95(S31年架橋以前の傷んだ仲の瀬橋、S31年3月完成した新仲の瀬橋)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図25~27(S26年木造橋、S54年高架橋工事中、H8高架橋カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P57(S37、カラー) 
陸軍の学校(宮城県内) 仙台陸軍教導学校  1927年(S2)~1943年(S18)  * 1927年(S2)7月1日、「陸軍教導学校令」(勅令)制定、歩兵科の下士官候補者を養成する陸軍教導学校を、仙台、豊橋、熊本に設置、歩兵科以外の下士官養成は従来どおり各部隊で行われた

* 1927年(S2)7月1日、仙台陸軍教導学校(陸軍下士官の教育機関)を、川内の元歩兵第29連隊兵舎におく
* 1938年(S13)8月13日、教導学校内に仙台予備士官学校を併設、開校式(S14年3月に盛岡近郊へ移転、1943年8月2日に廃止)
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた 
「重訂 宮城県郷土史年表」P207/Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」   
明治製菓仙台売店 芭蕉の辻/東一番丁  1927年(S2)~1945年(S20)  <芭蕉の辻>
* 1927年(S2)12月5日、仙台明治製菓売店、芭蕉の辻南西角に開店(出典:「明治製菓40年小史」)
* 1932年7月の七夕写真 99-046 には、芭蕉の辻南西角の明治製菓が確認できる  
(編者注:芭蕉の辻南西角にあった「明治製菓」が昭和10年頃になくなったが、店を東一番丁にだけにした可能性がある)

<東一番丁>
* 1932年7月の東一振興会(東一番丁中央部の商店会)仙台七夕の描写に「明治製菓店の海水浴は自働式に波の上に人が現れたりチョコレートが現れたりするので、子供をよろこばせる事頗る非常」(「わしが国さ」昭和7年8月号P9)→ 遅くとも昭和7年には東一番丁に店があったことがわかる
* 1934年(S9)、仙台明治製菓売店開業(「番丁詳伝」P147)
* 1934年(S9)頃、東一番丁の明治製菓(喫茶)の思い出(→<参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」のID146)  
* 1939年(S14)、明治商事(菓子、食料品、砂糖)東一番丁76に開業(重訂 宮城県郷土史年表P471)」         
* 1945年(S20)7月9日、戦災(仙台空襲)により東一番丁の店を焼失 
粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P33(出典:「明治製菓40年小史」)/「わしが国さ」昭和7年8月号P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「番丁詳伝」P147  芭蕉の辻の店は、53-4999-04622-3399-02664-0599-02898-110 / 東一番丁の明治製菓→「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P64(右の建物) 
東北産業博覧会 開催  1928年(S3)  * 1928年(S3)4月15日~6月8日、仙台で、「東北産業博覧会」開催

・ 仙台商工会議所主催
・ 第一会場は川内の元騎兵隊跡(新築早々の仙台第二中学校)
  第二会場は桜ケ岡公園(=西公園)
  第三会場は榴ケ岡公園
・ 第一と第二の会場間には、広瀬川をまたぐケーブルカー架設、広瀬川に向かってウォーターシュートも設置

・ 「県庁舎(昭和6年)、市庁舎の改築(昭和4年)と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)

「東北産業博覧會記念寫眞帖」の記述
→「不景気挽回策と銘打って、延期5日間を加えて55日間開催、入場者は昼間153万1千人、夜間13万2千人。 市民から集めた寄付金十余万円・・・・・・」 
「東北産業博覧會記念寫眞帖」/「番丁詳伝」P123  「目で見る仙台の歴史」P158に「会場写真」/「新・目で見る仙台の歴史」P143、P148/99-14934-0161-1363-1095-0195-02/「東北産業博覧會記念寫眞帖」 に関連写真多数/「仙台市史 特別編4 市民生活」P42(東北産業博覧会ポスター2種、カラー)/同P233(博覧会会場全図、カラー)/「新・目で見る仙台の歴史」P148(会場間のケーブルカー、第一会場入場門、ポスター)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P233(会場図、カラー) 
NHK仙台放送局 ラジオ放送開始  1928年(S3)  * 日本放送協会は、1927年(S2)年6月9日、仙台に東北支部を設置
* 1927年(S2)8月11日、原町の送信アンテナ設置のための小作地取り上げ反対町民大会 / 農民と住民が反対運動 / ビラに、「町会議員は殆んど皆弱腰になったぞ!」「彼らの陰謀をたたき潰せ! 一萬円寄付には絶対に反対しろ!」 
* 1928年(S3)6月16日、東北地方で初めてのラジオ放送が仙台放送局から開始された

<初期のラジオ中継放送>
* 1929年(S4)8月14~15日、「野外納涼盆踊り大会」中継(桜ケ岡公園から)
* 1929年(S4)9月22~23日、ミシガン大学との野球戦中継(八木山県営グラウンド)

* 1934年(S9)5月16日、NHK仙台中央放送局と改称

<戦後>
* 1945年9月23日、進駐軍放送のため施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始
* 1946年(S21)6月9日、仙台復興祝賀街頭音楽大会、放送
* 1946年(S21)7月29日、東北初の放送討論会開催(会場は仙台南松竹劇場)(「重訂 宮城県郷土史年表」P512)
* 1948年(S23)6月、仙台局開局20周年、NHKラジオ番組「二十の扉」公開放送
 
「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P1、P9、P21/「仙台市史 年表」P104/「重訂 宮城県郷土史年表」P512/「仙台市史10 年表」P313/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260/「新・目で見る仙台の歴史」P148  44-1125-0125-06など「写真データベース」分類F-24の写真全部/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234(S3、リーフレット「NHK仙台放送局開局」)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234/「目で見る仙台の歴史」P160に、本放送開始時のNHK仙台局舎/「新・目で見る仙台の歴史」P148(アンテナ反対町民大会ビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P509(同ラジオ送信アンテナ)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260の写真84(二十の扉公開放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P69(のど自慢、三つの歌、二十の扉各公開放送ステージ)/「新・目で見る仙台の歴史」P175(NHK街頭録音)/「市民の戦後史(仙台市)」P42(放送討論会ステージ、NHK放送慰問団トラック、のど自慢会場東北劇場前の看板)/同P70(S27年、楽器店前でラジオ五輪実況を聞く人々) 
日本生命館 落成  1928年(S3)  * 1928年(S3)10月8日、東一番丁・南町通り交差点の南西角に、落成(レンガ造り)  

* 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、内部は焼けたが、外観は残った 
渋沢社史データベース「日本生命九十年史」P369/「番丁詳伝」P209  戦前は、53-91/戦後は、63-0418-1436-08 
日本農民組合 宮城県連合会大会  1928年(S3)  * 1928年(S3)、日本農民組合宮城県連合会第3回大会(仙台市公会堂) / ビラに書かれたスローガン(俺達の大会を守れ! 働く農民に土地を保証せよ! 土地取上絶対反対! 耕作権を確立せよ!)  「新・目で見る仙台の歴史」P148  「新・目で見る仙台の歴史」P148(大会ビラにスローガン) 
博覧会・フェア 東北産業博覧会  1928年(S3)   → 項目「東北産業博覧会」参照     
博覧会・フェア 東北遺物博覧会  1928年(S3)  * 1928年(S3)4月、東北産業博覧会開催中、宮城県図書館と商品陳列所を会場に、伊達家の宝物を中心に、東北各藩の違宝を陳列した  「目で見る仙台の歴史」P153  「目で見る仙台の歴史」P158に「会場写真」 
仙台市電 環状線(循環線)完成  1928年(S3)3月  * 1928年(S3)3月28日、県庁前~大学病院間(1.7キロ)が開通、これで環状線(循環線)全線(6キロ)が完成
・ 仙台駅前~錦町~県庁市役所前~北四番丁~西公園~南町通~仙台駅前(停留所名は、1976年市電廃止時の名称)

・ 西公園において開通式挙行 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P104  201-01201-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(循環線が完成したころの乗り換え乗車券)/同211(S49年、仙台駅前停留所の市電、カラー) 
仙台市電 芭蕉の辻線(南町支線) 開通~廃止  1928年(S3)4月~1944年(S19)3月  ・ 0.3キロ / 市電南町支線(通称・芭蕉の辻線)
・ 「芭蕉の辻」が終点
  
* 1928年(S3)4月8日開業
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表) / 軌道(レール)は戦時供出(金属回収)のため撤去「仙台市史 特別編4 市民生活」P92) / 資材は、他の路線の補修用にまわした(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
* 1944年(S19)12月10日に休止(「仙台市史 年表」P113)
   → <編者注> この日付は間違いと思われる

「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
 市電「芭蕉の辻線」は昭和3年の東北産業博覧会開催を目途に開通(314m) / 大正12年の案では、芭蕉の辻が終点ではなく、さらに北へ延ばし国分町・二日町を経て北鍛冶町に至る計画だったが結局は実現せず、「芭蕉の辻線」は太平洋戦争中の昭和19年3月末に廃止された 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)/「仙台市史 年表」P104、P113/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163  22-3353-49/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる芭蕉の辻線のレール)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(終点芭蕉の辻俯瞰) 
街灯(旧・大町五丁目) 戦前(1) 1灯型  1928年(S3)?~1935年(S10)頃  戦前> 旧・大町五丁目の街灯は、1基1灯型 / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町四五丁目」に1基1灯型が写る / 昭和7年の絵葉書、昭和10年のスタンプがある絵葉書では1基1灯型     1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町五丁目」、20-4722-27 
街灯(旧・大町一、二、三丁目) 戦前 2灯型  1928年(S3)?~1945年(S20)  戦前> 旧大町1,2,3丁目の街灯は1基2灯型(柱から両側に突き出でたアームに1灯ずつ、アームは道に平行) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」に1基2灯型が写る / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失     東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」 
街灯(旧・大町四丁目) 戦前 2灯型  1928年(S3)?~1945年(S20)  戦前> 旧・大町4丁目の街灯は1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ、アームは道に直角)/ T14年頃の写真 43-25 には街灯はなかった / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失      53-4622-5220-4620-47 
街灯(国分町) 戦前 1灯型  1928年(S3)?~1945年(S20)  1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「国分町」に1基1灯型(柱の上に1灯)が写る(ただし、国分町4~5丁目とそれ以北の国分町では、同じ1灯型でも形が違う)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失    東北産業博覧会記念写真帳の「国分町4、5丁目」、同「国分町(その2) 
街灯(新伝馬町) 戦前 2灯型  1928年(S3)?~1945年(S20)  戦前> 1期2灯型(柱から道方向に突き出たアームに2灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町」に1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失    東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町] 
街灯(南町) 戦前 1灯型  1928年(S3)?~1945年(S20)  戦前> 1基1灯型(柱の上に1灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」に1基1灯型が写る/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失    東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」、53-9544-90-01 
街灯(南町通り) 戦前 2灯型  1928年(S3)?~1945年(S20)  戦前> 1期2灯型(柱から左右へ2灯、アームが曲線) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」には1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失    東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」、53-9143-30 
ネオンサイン 仙台では・・・  1928年(S3)~  * (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降
* カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。 
「番丁詳伝」P197   
街灯(東一番丁北部) 戦前 5灯型  1928年(S3)~1945年(S20)  東一番丁通り北部(立町角以北)の街灯

戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置 / 通称「スズラン灯」(1基5灯型、電球の傘が筒型) 

・ 写真 22-51 (三越付近)、 99-052 (栄亭付近)、 99-037 (富士屋洋品店付近)など

* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出  
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26  61-1622-5153-3453-1353-2399-04199-052 
街灯(東一番丁中央部) 戦前 5灯型  1928年(S3)~1945年(S20)  東一番丁中央部(立町通角~大町通角の間)の街灯

戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置 
・ 東一番丁通り中央部(立町通角~大町通角の間)の「スズラン灯」は1基5灯型(電球が球形と釣鐘型がある)

* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26  99-01861-1111-03、/傘が釣鐘型は、20-2599-037 
警察(戦前) 特別高等警察(特高)  1928年(S3)~1945年(S20)10月  <「戦争のころ 仙台、宮城」P17~18より>
・ 特高警察は、内務省警保局を頂点に各府県の警察署特高係までを網羅した組織で、各県の特高、外事課長は内務省の人事で赴任した。 少数のエリートとその下で働く大勢の特高警官という構図。
・ 宮城県警察部は旧県庁2階の一角にあり7課(警務、警防、保安、刑事、工場、衛生、特高)85人体制
・ 特高課は刑事課と並ぶ20人の大世帯で、県内22警察署に100人以上の特高係が置かれ、職務は左翼、右翼、労働農民、内鮮宗教、検閲、外事、時局対策の7セクションにわかれていた

・ 1945年8月15日、戦争に負けると、内務省は全国の「特高警察」に捜査書類を一切焼却するよう指示(このため、宮城県公文書館に特高関係資料がない)
・ その50日後、GHQは政治的、宗教的自由を制限する治安維持法を廃止し、政治犯も釈放
・ 内務省と特高は解散を命じられ、内務大臣や警察首脳部、すべての特高警察官は休職扱いとなって後に罷免される / その数、全国では5000人、宮城県警察部では特高課長のほか一線署員も含めて90人が対象になった

   *******************************************

* 1928年(S3)、「特別高等警察」(特高)、全国一律に未設置県にも設置された
* 1928年(S3)7月、宮城県警察部に特別高等警察課設置

<言論検閲も担当>
「宮城県特高課には、検閲係4人が専従、河北新報社本館1階には特高課用の部屋があって警官がしょっちゅう出入りしていたとの話もあります。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P111)

* 1945年(S20)8月末日、宮城県特高課廃止(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747)
* 1945年(S20)10月5日、宮城県特別高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
* 1945年(S20)10月11日、宮城県特高警察官91名の休職の臨時措置 
「宮城県史7 警察」P243/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P17~18、P111  99-125(左下に宮城県特高課検閲済の字あり) 
朝鮮館 建設~取壊し  1928年(S3)~1950年(S25)  * 1928年(S3)、「朝鮮館」建設
 
昭和3年に仙台で開かれた「東北産業博覧会」の際、桜ケ岡公園に朝鮮総督府が出品する展示館として建てられた極彩色の建物(場所は桜が岡公園の北西の隅)
* 1930年(S5)、仙台市が物産陳列室を設ける(博覧会後、寄付された仙台市が民間に貸し付け、仙台銘産品の紹介所と喫茶があった)
* 1945年(S20)の仙台空襲では焼失を免れたが、1950年(S25)に取り壊された
  
「仙台市史 本篇2」P370/「仙台市史10 年表」P275  53-3208-05 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P86 
八木山球場 開場  1929年(S4)  八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が所有する土地に私費を投じて建設し、宮城県に寄付し「宮城県営野球場」となる / 工費40万円

* 1927年(S2)9月、八木山球場を起工
* 1929年(S4)6月23日、開場(開場同日に宮城県に寄付し、「宮城県営八木山球場」となる(「仙台市史 年表」P105、「重訂 宮城県郷土史年表」P415、「宮城県の百年」年表、「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
* 1930年(S5)6月、八木山球場で、三田・稲門野球戦(三田は慶応大学、稲門は早稲田大学)

<開催された日米野球>
* 1931年(S6)11月10日、米大リーグ選抜対明治大学(米13-明治2) / 大リーグ選抜にはグローブ投手やゲーリッグらが参加( →「仙台はじめて物語」P235~241に詳述あり)
* 1934年(S9)11月6日、米大リーグ選抜と全日本選抜 ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ(「仙台あのころこのころ八十八年」P70) 
「仙台市史 年表」P105、P107/「重訂 宮城県郷土史年表」P415、P420、P428 / 「新目で見る仙台の歴史 P155」/「仙台はじめて物語」P235~241/「仙台あのころこのころ八十八年」P70/「宮城県の百年」年表   

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ペデストリアンデッキ
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奉安殿
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ポケットベル
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ホテル
歩兵第4連隊
歩兵第104連隊
本土決戦体制
政宗卿騎馬像
政宗卿平服像
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場
松島パークホテル
松永正敏中将
松原街道
マナスル登頂成功
丸光
満年齢
満蒙開拓
右側通行
水の森スケート場
三越(仙台店)
緑と花いっぱい運動
緑の団地条例
南町大火
南町通り(多門通り)
三原時計店
宮城学院
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宮城県会議事堂(明治時代)
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宮城交通
宮城集治監
宮城電鉄
宮城野駅/仙台貨物ターミナル駅
宮城の塔(沖縄)
宮城野通り
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