項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
東北大学 |
沿革(1) 新設学部 |
1947年(S22)~1972年(S47) |
東北帝国大学時代は、→ 項目「東北帝国大学」参照
* 1947年(S22)10月1日、東北帝国大学を東北大学に改称
* 1949年(S24)4月1日、法文学部分解し、<文学部>、<法学部>、<経済学部>独立
* 1949年(S24)5月31日、国立大学設置法に基づく東北大学設置 / 同日に、東北大学が旧制第二高等学校・仙台工業専門学校・宮城師範学校・宮城青年師範学校を包括、宮城県女子専門学校を併合 / 発足当初は、文学部・教育学部・法学部・経済学部・理学部・医学部・工学部・農学部、一般教養課程の分校教養部
<教養部>
* 1949年(S24)6月、分校第一、第二、第三教養部を設置
/ 旧制第二高等学校(北六番丁)が昭和20年の仙台空襲で焼失後、旧仙台陸軍幼年学校の校舎だった三神峯校舎に移転していたが、新制東北大学へ包括に伴い三神峯校舎は分校第一教養部となる / S27に第三教養部、S32年に第二教養部が、それぞれ第一教養部に統合
* 1957年(S32)4月、三神峯の第一教養部、富沢分校と改称
* 1958年(S33)9月、富沢分校が川内へ移転完了
* 1964年(S39)4月1日、教養部と名称変更
* 1993年(H5)3月、教養部廃止
<分校教育教養部 / 宮城教育大学>
* 1949年(S24)6月、設置
* 1958年(S33)10月、川内地区に移転し、川内東分校
* 1964年(S39)月日、教育学部分校
* 1965年(S40)4月、教育学部教員養成課程が東北大学より分離独立し「宮城教育大学」設置
* 1967年(S42)3月、東北大学教育学部附属小中学校が、宮城教育大学に移管
<歯学部> * 1965年(S40)4月1日、歯学部設置
<薬学部> * 1972年(S47)5月、薬学部設置
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東北大学HP掲載「沿革図」http://www.bureau.tohoku.ac.jp/koho/pub/gaiyou/gaiyou2011/pdf/gaiyo2011_05.pdf#search=%27%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%A4%A7%E5%AD%A6+%E6%B2%BF%E9%9D%A9%27
「仙台市史 年表」P115、P116、P120/「仙台年表」P227/「仙台市史10 年表」P321/「重訂 宮城県郷土史年表」P613、P631/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532~534
設置年などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした
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18-03、18-17、99-062/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P164と「市民の戦後史(仙台市)」P39に、「宮城県女子専門学校」(S9年、八木山に建設)/「新・目で見る仙台の歴史」P142(片平丁キャンパス)
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仙台駅(戦後) |
仮駅舎設置 |
1972年(S47) |
東北新幹線開業に伴う駅舎新築のため、S47年に西口駅前広場に「仮駅舎」を設置 / 仮駅舎の後方の第4代駅舎を取り壊したあと、新駅ビルを建設
* 1972年(S47)11月、仮駅舎設置、開業
* 1975年(S50)7月11日、地下道より広い渡線橋設置
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Wikipedia「仙台駅」/「続・ 宮城県郷土史年表」P14、P43
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松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場 |
オープンとその後の経緯 |
1885年(M18)~1975年(S50) |
松島座(パテー館、仙台日活館)は、東一番丁の立町通り角のすぐ南にあった映画館(戦後は立町通りが拡幅されて広瀬通り角になった)
<明治・大正・昭和前期>
* 1885年(M18)2月、東一番丁28に、松島座開座(芝居小屋)
* 1892年(M25)、洋風に改装
* 1912年(M45)3月13日、仙台パテー館(映画常設館)となる
エムパテー会社取締役の内山梅吉が入手し、電飾輝く洋館仕上げに大改造し、M45年3月、仙台パテー館と改称し映画常設館となる
* 1919年(T8)7月、再び松島座と改称し、歌舞伎でオープン
* 1924年(T13)12月、失火焼失し1年間休座
* 1925年(T14)12月、再建し日活パテー館と改称
<編者注>[写真20-44][写真99-018]では、松島座名ののぼり旗で、T14年6月設立の「マキノプロダクション映画」上映や、『修羅八荒』(T15)上映が確認できるので、T14年12月再建後もしばらくは「松島館」だったことが確認できる
* 1932年(S7)12月、仙台日活館に改称、一部改装して初の椅子席に(「番丁詳伝」P214によれば、仙台初の椅子席映画館)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失し閉館
<戦後復活し、仙台日活劇場に>
~場所は、広瀬通り・東一番丁通り交差点の南東角~
* 1946年(S21)12月、仙台日活劇場として、東一番丁26に再オープン(「仙台映画大全集」)
* 1947年(S22)1月、日活映画劇場、東一番丁27に開設(530席)(「重訂 宮城県郷土史年表」P516)
* 1975年(S50)5月、閉館 / 跡地にジャスコ開店(1984年(S59)2月に、
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「目で見る仙台の歴史」P146/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史 / <参考>「東一番丁物語」(柴田量平著)P90~106、P235/「重訂 宮城県郷土史年表」P516/「番丁詳伝」P214
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仙台パテー館は、99-015、20-43、20-40/同スケッチ画は98-005/ 松島座は99-016、20-44
/ 戦後は、16-43、18-12、22-01
/「新・目で見る仙台の歴史」P146(パテー館のビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P228(仙台日活週報、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40の右角(S33年、俯瞰、仙台東映と向き合う)
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挹翠館(ゆうすいかん) |
建設~焼失 |
1886年(M19)~1945年(S20) |
桜ケ岡公園(西公園)にあった木造の割烹(和洋料理店)だったが、M42年に仙台市が買収し、戦前は仙台市公会堂として使用された
* 1886年(M19)1月24日 建設(木造2階建て、寄棟造瓦葺、真壁漆喰塗)
* 1887年(M20)、桜ケ岡公園内に開業 / 木造2階建ての和洋料理店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P83)
* 1909年(M42)5月18日、市が買収し、仙台市公会堂となる
* 1916年(T5)に、隣接して洋館の公会堂新館が竣工したあと、挹翠館は公会堂本館とよばれた
* 1945年(S20)7月10日、公会堂本館(挹翠館)、洋風新館とも、仙台空襲で焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273/「仙台市史 年表」P85、P94/「古写真に見る仙台の建築」P43/「仙台市史 特別編4 市民生活」P83
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98-058、98-059/「目で見る仙台の歴史」P117
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瞑想の松 |
概説 |
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樗牛瞑想の松
・ 樹齢600年以上と伝えられる赤松
・ 明治20年代に旧制第二高等学校に在学した高山樗牛(のち、1年半ほど旧制二高教授)が、ここで瞑想にふけったといわれ、松は土井晩翠らの説得で伐採を免れたという
・ 場所は、台原天神山の東北医科薬科大学の構内
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08-07、53-112/「新・目で見る仙台の歴史」P150に「樗牛肖像、瞑想の松)
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歩兵第4連隊 |
設置 |
1875年(M8)~1945年(S20) |
歩兵第4連隊は、明治初期から昭和20年敗戦まで、仙台榴ヶ岡に兵営をおいた歩兵部隊(当初は仙台鎮台、明治21年からは第二師団隷下)/ 毎年9月の軍旗祭では市民も兵営内に入ることができるなど、長い間地元に根付いた市民には馴染みの連隊だった
* 1974年(M7)9月11日、榴ケ岡の洋風兵舎竣工し、仙台城の第2大隊の兵移る
* 1875年(M8)5月27日、仙台鎮台に歩兵第4連隊を設置
* 1875年(M8)9月9日、宮中に於いて軍旗親授
明治・大正・昭和敗戦まで、海外出兵や国内出動多数
(→項目「第二師団(出兵記録)」参照)
* 1945年(S20)8月31日、軍旗奉焼
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「仙台市史 年表」P80、P81/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾(P685~715)『仙台部隊関連年表』
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98-085、99-150、98-087、06-23、16-58/「いつか見た街・人・暮らし」P3(第4連隊への入営スナップ、大正13年)/同P16(軍旗祭、大正13年9月9日)/同P19(第4連隊除隊の朝、大正13年)/同P47の写真167(第4連隊兵営空撮、戦前期)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P27(第4連隊除隊の朝、大正13年)
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住宅団地 |
泉ニュータウン(泉パークタウン) |
1969年(S44) |
泉パークタウンは、泉町(1971年に泉市)の黒川丘陵上に三菱地所グループ(子会社を含む)が計画したニュータウン事業 / 住宅供給だけでなく、工業団地、ゴルフ場、スポーツ施設、大規模商業地区、大学等を含む複合開発事業
* 1969年(S44)、事業開始
* 1972年(S47)7月15日、生協チェーン泉向陽台店オープン
* 1974年(S49)から、高森地区で入居開始
* 1985年(S60)10月9日、スポーツガーデン1期工事落成式
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「仙台市史 年表」P126/Wikipedia「泉パークタウン」/「続・ 宮城県郷土史年表」P11、P195
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仙台市営地下鉄 |
南北線開業 |
1987年(S62) |
泉中央駅~富沢駅間、14.8km
* 1981年(S56)5月7日、起工式
* 1982年(S57)7月13日、地下鉄の市街工事、広瀬通工区から始まる
* 1982年(S57)12月21日、旭ヶ丘トンネル工事で到達式
* 1985年(S60)10月25日、八乙女~台原間が完成
* 1986年(S61)4月、北四番丁以北が完成
* 1987年(S62)2月9日、広瀬通駅に「星空のプロムナード」、除幕式
* 1987年(S62)2月27日、勾当台公園駅に「空間デザイン創造の森」完成
* 1987年(S62)4月16日、地下鉄仙台駅に「デザイン壁」完成
* 1987年(S62)7月14日、仙台市地下鉄開業祝賀式
* 1987年(S62)7月15日、地下鉄南北線、八乙女~富沢間(約14キロ)で開業(東北初の地下鉄)
* 1987年(S62)9月1日、駅の有料駐輪場営業開始(旭ヶ丘、台原、河原町、長町、長町南の各駅)
* 1992年(H4)、泉中央駅まで延伸
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「仙台市史 年表」P132、P135/「続・ 宮城県郷土史年表」P148、P154、P196、P204、P226、P219、P220、P222、P229/仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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「新・目で見る仙台の歴史」P198(走行する仙台地下鉄)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P219(S62、開業式、ミス仙台が花束贈呈、広瀬通駅の星空のプロムナード、カラー)
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金富士(料理店) |
開店~閉店 |
1930年(S5)~1971年(S46) |
玉澤横丁にあった、西洋料理と中華料理の店
・戦前、「銀のスプーンで」食べるカレーライスが人気だった
・「崑崙(こんろん)山」と名付けた庭で有名だった /
<崑崙山(息女の石井直子さん談)>
「この庭は、初代の経営者石井金三朗が全国を回って集めた天然石で築造、昭和初期に1000円もした高価な石も使われた。 庭の地下に水槽をつくり電動ポンプで水をくみ上げた滝もあった。庭にある鳥居も石で出来ていた。帽子をかぶった人が腰かけているのうな石もあった。トイレにも自然石が使われていた。土井晩翠が詩に詠んだほどの名所だった。」
* 1930年(S5)開店(玉沢横丁)
* 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1948年(S23)、再建し1971年(S46)まで営業した
【「仙台年表」P201】「昭和5年、仙台国分町の金富士寿司経営者、石井金三郎氏、石崑崙を築く。面積260平方尺、高さ20尺、集石に5年、築造に1年、大小の石は北海道アイヌから九州迄に及び10万円を費やす」
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金富士の家族談/仙台年表P201
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戦前は98-110、71-01、71-02、71-03、71-04、71-05、71-06、戦後は71-07、71-08、71-09、201-43
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緑と花いっぱい運動 |
開始 |
1963年(S38) |
目標「ビルがならぶ都心には、工夫をこらして緑と花を、郊外や一般家庭にはできるだけ植樹をし、潤いのある環境を」
* 1963年(S38)、仙台市が「緑と花いっぱい運動」開始
* 1963年(S38)3月、市民ラジオ体操祭、参加者に花の種1万袋配布
・ 宣言記念式店出席者に苗木1500本配布
・ 園芸協会の協力で、苗木即売会、地域・職域団体による花壇づくり
・ 健康都市協議会直営の公園を、榴ヶ岡公園下と国道4号線土樋三角地帯の2か所に開設
* 1964年(S39)4月、フラワーポット町角に登場
・ 1965年(S40)月日、消防局の花いっぱい運動が、日本花いっぱい協会の最優秀賞受賞
* 1967年(S42)~、市民記念植樹実施(入学、卒業、長寿、転勤など記念し、市が指定する場所に記念植樹)
・篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
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仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P249~250/ 「市民の戦後史(仙台市)」P158
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「市民の戦後史(仙台市)」P158(街角のフラワーポット)
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仙台市役所庁舎 |
第3代庁舎 |
1965年(S40) |
第2代庁舎の北側に建てられた(鉄骨鉄筋コンクリート 地上8階・塔屋3階、地下2階、総建坪3万1237㎡、軒高30.4m、塔屋最上部40.25m)
* 1964年(S39)3月24日、新庁舎建設起工式
* 1965年(S40)10月31日、新庁舎が竣工
* 1965年(S40)11月8日、落成式(開扉式)
* 1965年(S40)11月22日、新庁舎で執務開始(マイクロフィルムシステム、電子計算機等導入)
* 1966年(S41)12月1日、庁舎前庭落成(噴水池を中心に岩石や花木を配置)
* 1972年(S47)9月1日、市役所前広場と水道局隣の二日町に市営有料駐車場設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P219~220/「重訂 宮城県郷土史年表」P613、P622、P628/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P13/「市民の戦後史」P175
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40-05、201-02、201-05/「市民の戦後史(仙台市)」P174~175(新庁舎全景、窓口、議場、玄関、ロビー、電算機室、和風中庭)/「新・目で見る仙台の歴史」P200(第3代庁舎と噴水)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図60(H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S45、カラー)
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松永正敏中将 |
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第5代第二師団長
* 任期は1906年(M39)7月6日~1912年(M45)2月18日
* 1912年(M45)1月16日、死去
第二師団が朝鮮派遣(駐剳)中に京城(現・ソウル)で死去
* 1912年(M45)、葬儀(仙台・追廻練兵場で)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P351
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99-077/ 葬儀は、99-011-2、99-103
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進駐軍(米軍) |
概説 |
1945年(S20)9月~1957年(S32)11月 |
米軍が仙台および周辺に進駐・駐留したのは、S20年9月~S32年11月
<仙台進駐>
* 1945年(S20)9月16日、米軍(占領軍、進駐軍ともいう)、仙台に到着し原町、松島等に駐屯す
* 進駐軍進駐は9月11日(注:この日は先遣隊約20人が仙台到着)、1週間のうちに6000人を超える米軍が、原町と多賀城に駐屯、北一番丁の簡易保険局に司令部が置かれる(「番丁詳伝」P158)
・「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
<朝鮮戦争で、県内の米兵大幅減>
* 1950年(S25)6月の朝鮮戦争勃発に伴い、米軍将兵が県内米軍キャンプからも戦線へ大量移動し、県内の米兵大幅減
<講和条約発効後、駐留軍となる>
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、日本占領終る(米軍は「駐留軍」として引き続き日本に基地を置く)
→ これ以降は、項目「駐留軍(米軍)」参照
<全キャンプ返還>
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内の米軍基地はすべて姿を消す
<米軍の宮城県進駐> → 【「宮城県警察史(第二巻)」(昭和47年 宮城県警察本部)P13~30「米軍の本県進駐と警察」】に詳述されている
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「宮城県警察史(第二巻)」P13~30「米軍の本県進駐と警察」/「番丁詳伝」P158/「重訂 宮城県郷土史年表」P506 /「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 年表」P114/「仙台年表」P214、P224/「市民の戦後史(仙台市)」P50、P72
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90-06、90-07、90-08、90-09、90-10、90-11、90-12、90-13、90-14、90-15/「市民の戦後史(仙台市)」P50(朝鮮戦争に向かう米兵たち)/同P72(米軍キャンプの返還式)/同P72(お茶を習う米兵たち)
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進駐軍(米軍) |
米軍鉄道輸送司令部(RTO仙台) |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
→ 項目「RTO(仙台)」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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RTO(仙台) |
開所~廃止 |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
* 1945年(S20)9月20日、仙台のRTO開所(宮城、青森、岩手を管轄)
* 1946年(S21)6月21日以降は東北地方と新潟のRTOを管轄
* 1952年(S27)4月1日、廃止(国鉄の自主運行となる)
* 1957年(S32)10月まで、仙台駅北側(RTOの場所)を米軍が占拠 (「仙台市史 続編第1巻」P570)
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16-22(の内容欄、関連情報欄)参照/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P570
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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敗戦後の諸相・仙台 |
治安悪化、犯罪多発 |
昭和20年代 |
終戦後の混乱期、食糧難や貧困の時代、治安悪化し各種犯罪が多発、刑務所が収容定員超過 / 成人の犯罪が昭和24年を峠に減少傾向、一方青少年犯罪が逆に増え、しかも強盗、暴行、放火など凶悪犯が増加
・ 具体的事例は、→ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P745からの第十一章第一節「警察と公安」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」第十一章第一節「警察と公安」
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医療機関 |
仙台社会保険病院 |
1952年(S27) |
結核対策として全国社会保険連合会が設置
* 1952年(S27)8月、堤町に開院(結核病床129)
* 1955年(S30)過ぎると、患者急速に減少
* 1960年(S35)、一般病床も併置
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P733
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西内楽器店 |
開店~焼失 |
1926年(T15)~1945年(S20) |
繁華街の東一番丁・大町交差点の北東角にあり、中央部が塔屋含めて5層に見える木造建築(大正15年竣工)が、向かい(南東角)の藤崎デパート西館(3階建ビル、昭和7年竣工)とともに特徴ある風景を象づくり、昭和戦前期の仙台の代表的景観のひとつだった
・ 呉服商の「大内屋」が建てた長屋で、数軒の店が入居
・ 木造2階・一部3階・瓦葺・真壁漆喰塗
* 1926年(T15)、竣工(中央正面の目立つ場所に「西内楽器店」が入った)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「古写真に見る仙台の建築」P44
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98-015、53-20、11-03、22-27、20-46、44-69、49-04、64-03、22-52
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芭蕉の辻の城櫓風建物 |
北西角の入居者、変遷 |
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芭蕉辻北西角の建物は、
* 奥田金物店 →1911年(M44)に共済生命保険 →1929年(S4)に社名改称し、安田生命保険
* 1887年(M20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1971年(S46)2月3日、芭蕉の辻北西角に安田生命保険相互会社が、仙台ビルを建設するにあたり、かつての「芭蕉の辻道標」と「棟の竜屋根瓦」を再現し除幕式
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P15/「重訂 宮城県郷土史年表」P668
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98-023、44-22、99-023、99-024、44-06、99-027、99-028、20-18、53-52
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釈迦堂 |
建立 |
1695年(元禄8年)/1968年(S43)移転 |
藩政時代(元禄8年)、伊達藩四代藩主伊達綱村が生母の冥福を祈るために建立した持仏堂
* 1948年(S23)7月、戦時供出された鐘が戻る
* 1968年(S43)、宮城県図書館建設のため、榴ケ岡4丁目の孝勝寺本堂脇に移された(「重訂 宮城県郷土史年表」P675では、「昭和46年に移転復元」)
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仙台市のHP/「市民の戦後史(仙台市)」P38/「重訂 宮城県郷土史年表」P675
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99-134、14-05/位置図は98-078/「目で見る仙台の歴史」P63(釈迦堂、二天門)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年に戻った鐘)
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芭蕉の辻の城櫓風建物 |
4棟の焼失年 |
1890年(M23)~1945年(S20) |
藩政時代以来芭蕉の辻の四隅を占めていた城櫓風の建物(白壁の櫓屋敷)は、明治年間に3棟が焼失、昭和20年の仙台空襲で残りの1棟も失われた
<芭蕉の辻の建物の焼失>
「重訂 宮城県郷土史年表」より
* 1890年(M23)1月14日、南東角(近江屋馬渕善吉商店)焼失
* 1890年(M23)5月25日、北東角(若松屋)焼失
* 1902年(M35)2月3日、南西角(田中時計店)焼失
「仙台市史10 年表」より
* 1890年(M23)1月14日、芭蕉の辻、東南部焼失
* 1890年(M23)5月25日、芭蕉の辻、東北部16棟焼失
* 1902年(M35)2月3日、芭蕉の辻、南西部焼失
<北西角焼失>
* 1945年(S20)7月10日、北西角(安田生命)は仙台空襲で焼失
<参考> 「仙台あのころこのころ八十八年」P21~23の「芭蕉の辻は悲し」(三原良吉)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P285、P324/「仙台市史10 年表」P200、P201、/「仙台あのころこのころ八十八年」P238
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98-022
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西内楽器店 |
コロンビア・マーク |
1932年(S7)~1935年(S10)5月の間に設置された |
西内楽器店の最上層についていた「コロンビアマーク」
* 藤崎西館開店した1932年(S7)11月にはまだなかった(写真53-20)
* 1935年(S10)5月(藩祖公300年祭仮装行列時)にはついている(写真44-69)
・ 従って、S7年11月~S10年5月の間についた
・ 空襲(S20)焼失までついていたかは不明
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44-69 (S10年5月)/22-52、20-46は、S10年12月以降、
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昭忠碑 |
建立 |
1902年(M35) |
西南戦争や日清戦争などで戦死した陸軍第二師団所属の戦没者の慰霊顕彰碑
* 1902年(M35)11月22日、天守台(青葉城本丸址)に建立
【「重訂 宮城県郷土史年表」P326】「碑はゴシック式高塔、陸軍大将西寛二郎の意匠にして、東京美術学校に於いて鋳造、工費総額2万4033円余」
【ふるさとの昭和史 「新仙台」案内記P35】「明治34年、第二師団と第八師団(弘前)合同の陸軍大演習が宮城県下であり、昭忠標は、その演習の際に明治天皇から100円を下賜され建てられた」
* 戦時中の金属回収では、同じ天守台の「政宗卿騎馬像」は対象にされたが、昭忠碑の「金鵄」は回収を免れた
* 1936年(S11)11月3日、朝、強震あり、金鵄の翼折れて落下
* 東日本大震災(2011年3月11日)で頭頂部の金鵄像が落下破損したが、修復されて2016年に「昭忠碑」前の基台に据え付けられた
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233/「重訂 宮城県郷土史年表」P326、P454/「ふるさとの昭和史」(「新仙台」案内記)P35/青葉城資料展示館HP/東京文化財研究所HP/「仙台市史 年表」P92
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99-112、99-113、99-114、99-115、44-24/「目で見る仙台の歴史」P137に、「昭忠碑の鵄」
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医療機関 |
東北労災病院 |
1954年(S29) |
財団法人労災協会東北労災病院として、台原で発足
・ 労働災害による負傷に対する診療
・ 特に、脊髄損傷に対する診療と機能回復の指導で有数
* 1953年(S28)12月15日、「東北労災病院」落成式
* 1954年(S29)1月25日、開院、診療開始
* 1957年(S32)7月、労働福祉事業団の経営となる
* 1965年(S40)7月、労働者災害補償保険リハビリテーション施設として50床設置、作業療法棟、回復棟完成
* 1983年(S58)2月、新病棟落成式
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P733~734/「重訂 宮城県郷土史年表」P569/東北労災病院HP/Wikipedia「東北労災病院」/「続・ 宮城県郷土史年表」P158
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衛戍病院(陸軍病院) |
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1871年(M4)/1890年(M23)/1936年(S11) |
資料によって、改称年がことなっている
【「重訂 宮城県郷土史年表」P250】
* 1976年(M9)11月、仙台鎮台病院、仙台に創設
* 1981年(M14)3月、仙台陸軍病院と改称
* 1898年(M21)5月、仙台衛戍病院
* 1940年(S15)、仙台第一陸軍病院と改称
【Wikipedia「国立病院機構仙台医療センター」】
* 1871年(M4)、仙台鎮台病院設置(仙台城二の丸北西の亀岡御殿辺り)
* 1877年(M10)12月、外記丁の定禅寺跡地に移転
* 1890年(M23)、仙台衛戍病院に改称、のち、仙台陸軍病院に改称。
<衛戍病院 → 陸軍病院>
* 1936年(S11)、仙台陸軍病院に改称
(編者注) 東京などの衛戍病院は、昭和11年に陸軍病院に改称しているので、仙台衛戍病院も同時と思われる
* 1937年(S12)、日中戦争が始まった昭和12年、仙台第一陸軍病院と改称、負傷者が急増したので、宮城野原に臨時の分院が建てられました。それだけでは病院が足りず、現大崎市、川渡ホテルを譲りうけ、鳴子臨時病院を開設して対応しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P37~38)
* 1938年(S13)4月16日、朝香宮鳩彦殿下、仙台陸軍病院慰問(「仙台市史10 年表」P293)
* 1945年(S20)7月10日、仙台陸軍病院、仙台空襲で焼失
<陸軍病院宮城野原分院 → 仙台第一陸軍病院>
* 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院宮城野分院、開設 / 昭和12年日中戦争勃発により激増した傷病兵を収容 / 宮城野原練兵場の片隅に応急的に建設 /(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
* 1939年(S14)1月12日、仙台陸軍病院榴ケ岡分院開設(「仙台市史10」年表P295)
* 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
<地図では>
・「改正仙臺市明細全圖](明治22年5月印刷)では、「陸軍病院」
・「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)と、「最新仙臺市全地圖」(昭和11年5月現在 仙臺市土木課)では「衛戍病院」
* 1945年(S20)、終戦とともに厚生省に移管され、国立仙台病院となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
→ 以下、大項目「国立仙台病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「重訂 宮城県郷土史年表」P250/「仙台市史10 年表」P293、P295/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P37~38/「改正仙臺市明細全圖」(明治22年5月印刷)/「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)
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仙台衛戍病院は、53-18、「市民の戦後史(仙台市)」P21/仙台衛戍病院伝染病棟は、99-158/仙台陸軍病院は、53-122/仙台陸軍病院宮城野原分院は、53-118
<関連映像> 98-111(仙台の兵営配置図 明治44年)と98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、衛戍病院の場所がわかる
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仙台城二の丸焼失 |
焼失 |
1882年(M15) |
資料により、出火原因が異なっている
* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1882年(M15)9月7日、川内(旧仙台城跡)の仙台鎮台で火災発生、鎮台本営などの施設のほか、旧仙台城二の丸の建物のほとんどが焼失
* 1882年(M15)9月7日、旧仙台城二の丸(仙台鎮台本営)は雷火によりて火災を起こし、伊達家累代の建物等ことごとく焼失す。わずかに征韓の折、豊太閤より賜りたる大手門(名護屋にありし門)と巽門とのみを残したるに過ぎざりき / 二の丸遺構の9割、17~8棟焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P265)
* 1882年(M15)、追廻で行われた西南戦争の招魂祭の花火のため二の丸が全焼(「仙台市史 続編第2巻」P163)
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232/「仙台市史 年表」P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P265/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P163
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仙台市電 |
モハ1型 導入 |
1926年(T15)~1934年(S9) |
車両モハ1型はT15~S9に導入、このうち7号はS39年10月に廃車
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市電の各型の使用期間は、「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P180~181
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201-36、99-002
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (1)明治期 |
1894年(M27)~1901年(M34)/1904年(M37)~1908年(M41) |
軍隊に志願する青年の育成勧誘、兵役に就く者およびその家庭への援助・救援活動、出征兵士の歓送迎、祝賀行事、戦病死・負傷者に対する弔慰行事などを行う民間の組織体で、軍の意向に応じて、行政機関と地域の有力者を中心に結成された
<仙台市兵事義会、日清戦争契機に結成>
* 1894年(M27)7月29日、仙台市兵事義会結成(7月25日日清戦争勃発、8月1日に正式宣戦布告)
・ 日清戦争開始を契機に、市内有力者や勝間田稔県知事の要望により結成 / 会長は遠藤庸治仙台市長、市役所が事務所 / 里美良顕、伊沢平蔵、岩崎総十郎、藤崎三郎助、早川智寛らの幹事と若干名の常議員によって運営
・ 経費は義援金で、地区の有力者を勧誘委員に任命 / 地方税中の戸数割負担が中等以上の8869戸に勧誘状を送り、金の出納は七十七銀行と仙台銀行に委託 / 6121名から1万1497円42銭7厘と、刀剣1060振が寄付された
・ 事業は、軍隊の歓送迎や便宜の供与、従軍者および戦病死者家族の保護援助、軍功をあげた者の顕彰など
・ 市が募集した従軍人夫156人へ衣料類の支給、市出身の将校・兵士に対する餞別、歓送迎行事への動員と祝賀会費用、傷病兵慰問、戦病死者の合同慰霊祭や弔慰金
・ 仙台市から招集された従軍兵士247名のうち、兵事義会の保護援助を必要とした家庭が約100戸(支出6621円)、援助不要家庭104戸、他は病気などにより入営未定の者
* 1901年(M34)1月、仙台市兵事義会解散
<仙台市兵事義会、日露戦争戦争を前に再興>
* 1904年(M37)1月12日、仙台市兵事義会、日露戦争を前に第二師団司令部の要望で拡大再興(2月10日から日露戦争)
・ 寄付金、団体・個人8511名から3万864円31銭7厘
・ 仙台市出身兵1508名出征 / 戦病死は134名(将校52名、下士官・兵卒82名)
・ 保護援助を必要とした下士官・兵卒の留守家庭は347戸 / 救援は米の贈与が中心 / 生活困難な従軍兵士家庭の婦女子は、兵事義会が開設した付属工場などで、陸軍使用の軍服などの縫製作業、マッチ製造、封筒製造に従事(工賃は僅か)
* 1908年(M41)、仙台市兵事義会、活動休止
* 兵事義会がまた活発な動きを始めるのは昭和の戦争期
<大沢村の兵事組合>
* 1889年(M22)、結成(第二師団発足の翌年) / (仙台市は任意加入だが)大沢村は全戸強制加入で、経費の半分は村税中の等級別個別割り、半分は戸数均等割りで徴収
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P301~302に、大沢村と秋保村の詳細記述あり>
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「仙台市史 年表」P89、P91、P92/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300~303
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P302(長町停車場で日清戦争出征見送り)、P303(日清戦争第二師団帰還出迎え)、P306(日露戦争から帰還する兵士を迎える市民たち)
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戦災者・引揚者用住宅 |
住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅) |
1946年(S21) |
追廻練兵場跡に、応急木造住宅620戸を建設
* 1945年(S20)10月、追廻に住宅営団の戦災者住宅着工、翌21年4月に621戸成る(「仙台城」P235)
* 1946年(S21)3月、住宅営団が戦災者・引揚者用の木造応急住宅620戸を建設(河北新報1996.11.21)
* 1945年(S20)11月~翌年3月、進駐軍の接収を免れた大日本帝国陸軍第2師団用地の1つである追廻練兵場跡地において、住宅営団が賃貸用の応急簡易住宅を約620戸建設(Wikipedia「川内追廻」)
・仙台市では戦後、追廻の陸軍練兵場跡に2年間で簡易住宅1876戸を建築して被災者や海外からの引揚者に提供(「戦争のころ 仙台、宮城」P227)
* 1946年(S21)11月11日、仙台市の戦災復興計画において、「追廻住宅」を含む当地(約22.5ha)が「仙台総合運動場」として都市計画決定(戦災復興院告示 第244号)
* 1946年(S21)12月23日、住宅営団が閉鎖機関に指定せられ、同時に解散(以降は清算法人) / これにより住宅営団の賃貸住宅だった「追廻住宅」では、建物は入居者に払下げられ、国有地である土地は東北財務局が管理して入居者と賃貸契約を結んだ(Wikipedia「川内追廻」)
* 1951年(S26)10月、住宅営団が4月に解散、建物を入居者に売却し、(土地は東北財務局が)時価貸付契約締結、契約期間は3年間(河北新報1996.11.21)
* 1954年(S29)10月、追廻地区住民が、同地区の公園化に反対して総決起大会
* 1960年(S35)3月13日、追廻住宅で火災49戸焼失
仙台市の戦後の応急住宅対策は、「仙台市史特別編4 市民生活」P160~161に記述あり
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P109/「市民の戦後史(仙台市)」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P595/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227
/Wikipedia「川内追廻」(出典: 旧軍用地に係る土地政策と転用実態 ―終戦直後から戦災復興期の都市部における旧軍用地転用― (PDF) (土地総合研究 2015年夏号)P152-153)/「河北新報」(1996.11.21)」
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「目で見る仙台の歴史」P174に「追廻住宅」/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P110(S54、画面下部、カラー)
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市町村合併 |
昭和の大合併 |
1954年(S29)
~1955年(S30)に合併した県内新自治体名 |
通称「昭和の大合併」は、昭和28年の町村合併促進法=町村はおおむね、8000人以上の住民を有するのを標準=、及びこれに続く昭和31年の新市町村建設促進法による市町村合併で、1953年(S28)~1961年(S36)に実施された。1954年(S29)4月以降、宮城県内でも町村合併が相次いだ。以下は、昭和30年までに合併が行われ誕生した新市町村名(31年以降は略)
<1954年(S29)>
4月には、白石市(新市誕生)、岩出山町、鳴子町、小牛田町 / 7月には、大郷村、宮崎町 / 8月には、中新田町、築館町 / 11月に、津山町 / 12月に丸森町、若柳町
<1955年(S30)>
昭和30年1月~12月に、金成町、亘理町、山元町、宮城村、志津川町、三本木町、河北町、河南町、桃生町、牡鹿町、北上村、本吉町、松山町、蔵王町、岩沼町、名取町、栗駒町、一迫町、迫町、泉村、村田町、川崎町、大和町、鳴瀬町、矢本町、涌谷町
******(S31年以下、略)******
<参考>明治以降、昭和末年までの宮城県内市町村合併の全貌は、「第4 市町村変遷等の状況」http://www.mygsk.or.jp/sityouson/pdf/siryou/04_shichosonhensenjoukyou.pdf#search=%27%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C+%E7%94%BA%E6%9D%91%E5%90%88%E4%BD%B5%E4%B8%80%E8%A6%A7+%E6%98%AD%E5%92%8C%27
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「重訂 宮城県郷土史年表」P572~579
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進駐軍(米軍) |
仙台市内街路名称 |
昭和20年代 |
進駐後、市内いたるところに英語標識ができるが、通り名称もアメリカ風にかえられた英語街路表示が作られた
・ 西公園から南町通りにかけて → メープル街
・ 光前寺通りから仙台駅前にかけて → インディァナポリス街
・ 南町通りから国分町にかけて → エルバリ街
・ 大町通りは、ヒッコリー街(クルミ)
・ 定禅寺通は、フィア街(モミ)
・ 南町通りは、メープル街(カエデ)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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被占領時代の仙台市街地図(米軍用) は、98-148
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釜房湖(ダム) |
給水開始 |
1970年(S45) |
釜房ダムは貯水量4500万トン、仙台市と周辺市町村に飲料水1日20万トンと工業用水10万トン供給、洪水調節、発電などの多目的ダム
* 1966年(S41)、釜房ダム建設開始
* 1970年(S45)7月10日、川崎町の釜房ダム、給水開始
* 1973年(S48)12月、釜房湖畔に、レジャーランドのバリハイセンターがオープン
* 1976年(S51)6月22日、湖畔に「鎮魂の碑」除幕
* 1978年(S53)10月15日、釜房湖畔公園誕生
* 1984年(S59)9月15日、湖畔で国営公園起工式
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「市民の戦後史(仙台市)」P219/「重訂 宮城県郷土史年表」P662/「続・ 宮城県郷土史年表」P25、P86、P181
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「市民の戦後史(仙台市)」P219(工事現場俯瞰、導水路トンネル)
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仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎(白亜の市庁舎) |
1929年(S4)完成~1966年(S41)秋取壊し |
鉄筋コンクリート3階建て
* 1926年(T15)、着工
* 1929年(S4)1月16日、竣工落成式
「一部鉄筋コンクリート3階建てルネッサンス式で高塔がある / 「のべ面積4934㎡、外部腰回りは花崗石組み、グランドニットタイル張りで、当時は仙台の代表的な“白亜”の建築物だった」(「仙台市史 続編第1巻」P218)
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
* 1935年(S10)4月7日、仙台市庁舎に御真影奉安室新設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れた
* 1966年(S41)秋、取り壊し
(新庁舎がS40年11月に完成するまで使われた)
(跡地は、第3代庁舎前の噴水広場になっている)
屋上にはサイレンが設置され、1929年(S4)2月1日から正午を報せた(これにともない、川内の第二師団内で大砲を撃って報せた「午砲」が廃止された) / サイレンは太平洋戦争中は空襲警報に転用された
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「目で見る仙台の歴史」P162/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P218/「市民の戦後史」P177/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P285/「仙台年表」P200/「仙台あのころこのころ八十八年」P17~18「ドンとサイレン」/「番丁詳伝」P123
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99-010、22-36、18-06、53-61、16-34、16-35、201-01、40-05、20-04、22-37、07-01-01/「目で見る仙台の歴史」P162(「白亜の庁舎」と「落成式記念写真」)/「新・目で見る仙台の歴史」P145(庁舎、東口、天井、階段、装飾柱)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年頃、整地中の市役所前広場)/同P176~177(東入口、荘重な正面階段、貴賓室天井、ゴシック式門柱、大時計、午報サイレン、解体され傾く塔屋、白亜の庁舎と並立する新庁舎)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38)
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多門師団凱旋 |
仙台帰還(凱旋) |
1933年(S8)1月 |
陸軍第二師団(多門二郎師団長)は、満州駐箚中に起きた満州事変(S6年9月~)で満州各地を次々に占領 当時の市民は、その「武勲」に熱狂した
・ 第二師団の戦死者は約300人、凍傷・負傷者約1500人(「新・目で見る仙台の歴史」P160)
* 1933年(S8)年1月7日~9日と13日、市民あげて歓迎する中、第二師団が仙台に凱旋した
・ 凱旋歓迎に動員された児童生徒は「凱旋凱旋ああわが勇士」(多門師団凱旋の歌)と歌った
・仙台駅前から南町通りを経由して、川内の第二師団まで凱旋行進(師団長ら師団司令部は8日「凱旋」)
・南町通りは、1月7日市会の決議により、この日から師団長の名にちなんで「多門通り」と改称された → 項目「多門通り」参照
・1月8日、戦勝祝賀花電車(市電)
・2月19日、宮城県愛国連盟・仙台市教育会主催、対国際連盟大講演会・県民大会開催
・2月24日、国際連盟、リットン報告を採択
・3月27日、日本、国際連盟を脱退
・4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)→<参照>項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」
* 1934年(S9)12月、仙台市昭忠記念堂除幕式(青葉山公園)
昭忠記念堂は、満州事変で「武勲」をたてた多門二郎師団長指揮下の第二師団を記念し、本丸跡上り口に建造(近くには多門師団長の胸像もあったが太平洋戦争中の金属供出により台座だけが残されていた)→ 仙台城石垣修復事業にともない平成16年に撤去
<参考> 写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述)
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「仙台市史10 年表」P280) /「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P204/「新・目で見る仙台の歴史」P160
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65-02、65-04、65-01、98-081、98-082、98-083、65-03、65-05、65-06、65-07 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128/「目で見る仙台の歴史」P168/「新・目で見る仙台の歴史」P160/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
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自動車専用道 |
仙台西道路 |
1983年(S58)/1987年(S62) |
青葉区を東西に走る自動車専用道路(国道48号)で、仙台市都心部と仙台都市圏環状自動車専用道路とを結ぶ唯一の自動車専用道路(5.15km)
* 1978年(S53)5月20日、青葉山トンネル貫通式
* 1980年(S55)8月、新仲ノ瀬橋下り車線完成
* 1983年(S58)5月14日、部分供用開始(暫定2車線、4.9km) / 仙台宮城IC入口交差点(折立IC)~立町交差点(西公園通と広瀬通との交差点)の区間(延長4.9 km)
* 1984年(S59)9月1日、立町トンネル開通(「続・ 宮城県郷土史年表」P184では、12月20日開通)
* 1987年(S62)11月30日、全線4車線で全面供用開始
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「仙台市史 年表」P131、P133、P135/「続・ 宮城県郷土史年表」P81、P116、P162、P184、P233/Wikipedia「仙台西道路」(2020年7月)
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宮沢橋(広瀬川) |
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1946年(S21)/1949年(S24)/1955年(S30) |
項目「宮沢の一銭橋」よりつづく
* 1946年(S21)7月12日、宮沢橋落成(着工は4月31日) / 本格的な木造橋が「一銭橋」の100m程上流に架けられた(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1947年(S22)4月31日、一銭の渡り賃で「一銭橋」の異名のあった宮沢橋が木造橋に架け替えの起工式(「仙台市史 続編2」P825)
* 1948年(S23)アイオン台風と、1950年(S25)に、広瀬川が氾濫し、被害をうける
* 1949年(S24)7月17日、宮沢橋落成(「仙台市史 続編2」P831)
* 1949年(S24)、宮沢橋、堰場・根岸間に復旧架設(「重訂 宮城県郷土史年表」P539)
* 1955年(S30)8月、元の渡し場付近に、今(1995年現在)の宮沢橋が完成(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1990年(H2)8月、宮沢橋付近で、広瀬川の灯篭流し復活(13年ぶり)(「続・ 宮城県郷土史年表」P268)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P409/「仙台市史 続編2(経済文化編)」P825、P831/「仙台あのころこのころ八十八年」P135/「重訂 宮城県郷土史年表」P539/「続・ 宮城県郷土史年表」P268
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99-110、06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図24(H8年)
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宮城県庁舎 |
養賢堂を使用 |
1871年(M4) |
養賢堂は、北一番丁・勾当台通りの一角にあった仙台藩の学問所
* 1871年(M4)7月14日、廃藩置県、仙台藩が廃止され、仙台県となる
* 1871年(M4)11月4日、仙台県庁を、養賢堂講堂に設置
* 1872年(M5)年1月8日、仙台県を宮城県と改称により、宮城県庁舎となる
* 1915年(T4)の県庁新庁舎建設以降も(県庁の一部として)使われた
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「宮城県の百年」(宮城県企画部編集)P5/「仙台市史 年表」P79/「重訂 宮城県郷土史年表」P237、P239
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98-053/「新・目で見る仙台の歴史」P121(高橋由一画)
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養賢堂 |
講堂 建築~焼失 |
1817年(文化14年)~1945年(S20) |
養賢堂は仙台藩の学問所
* 1760年(宝暦10)、北一番丁・勾当台通りの一角に移り養賢堂と名付けられた
* 1817年(文化14年)、講堂を建築
(木造平屋・東西24間南北24間・桟瓦葺=サンカワラブキ)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「宮城県百科事典」P1076「養賢堂」 /「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P41/「仙台市史 年表」P79、P100
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53-54/「目で見る仙台の歴史」P77~79(門、講堂、孔子廟、構内略図、絵図)/「新・「目で見る仙台の歴史」P110~111(養賢堂俯瞰図、講堂)/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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銀行(地域の銀行) |
銀行一覧(明治34年時点/昭和10年時点) |
1901(M34)/1935年(S10) |
(1) 明治34年時点の仙台の銀行(仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図の裏面より) いずれも株式会社
・ 七十七銀行(大町1丁目33)
・ 宮城商業銀行(大町3丁目31)
・ 仙台銀行(大町2丁目)
・ 宮城貯蓄銀行(大町3丁目20)
・ 国民貯蓄銀行(大町5丁目)
・ 宮城銀行(大町4丁目10)
・ 通商貯蓄銀行(名掛丁)
・ 仙台貯蓄銀行(大町2丁目)
(2) 昭和9年度末の仙台の銀行(「仙台市大観」P19~20) 地名は本店所在地、数字は支店及び出張所数
<地元4行>
・ 七十七銀行(大町 / 84)
・ 宮城銀行(元寺小路 / 6)
・ 東北貯蓄銀行(大町 / 4)
・ 宮城県農工銀行(東二番丁 / 1)
<県外銀行の支店>
・ 安田銀行仙台支店(大町)
・ 常磐銀行仙台支店(元寺小路)
・ 安田貯蓄銀行仙台支店(大町)
・ 不動貯蓄銀行仙台支店(東二番丁)
(3) 昭和11年時点(「仙台の産業と観光」P22)
・地元銀行、県外銀行の支店とも、昭和10年と全く同じ
ただし、常磐銀行は常陽銀行と記載されている
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仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図~ / 「仙台市大観」(昭和10年刊)P19~20 / 「仙台の産業と観光」(仙台市役所 昭和11年刊)P22
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丸光 |
3階建完成 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)
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16-27、98-048、53-82
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丸光 |
青葉通りへ進出(本館) |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月、青葉通りに新館落成 / 百貨店として営業開始(地下1階、地上3階建て)
* 1956年(S28)12月11日、この日から丸光屋上よりミュージックサイレン(荒城の月)を市内に放送開始(34年間続く)
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「重訂 宮城県郷土史年表」P570/わが心の仙台駅前史」P40
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大型店・量販店 |
エスパル |
1978年(S53) |
*1978年(S53)3月18日、仙台駅ビル内にS-PAL(エスパル)開店 / ファッション・雑貨・食品・おみやげ・レストランなどが揃うショッピングセンター
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「続・ 宮城県郷土史年表」P79/「わが心の仙台駅前史」年表/「エスパル仙台」HP
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P106~107(S53、カラー)
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ネオンサイン |
仙台では・・・ |
1928年(S3)~ |
* (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降
* カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。
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「番丁詳伝」P197
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藤崎(戦前期) |
創業/大町4丁目へ進出 |
1819年(文政2年)/1879年(M12) |
* 1819年(文政2年)、得可壽屋(えびすや、現・藤崎)、(旧)大町2丁目1番地の地に太物商として創業
・ 当時の屋号はエビスヤ(「えべすや」と発音していたと伝えられている)
・ 〇にエの字を配し至誠一貫の意を表す横棒を入れて店印とした
* 1879年(M12)、大町4丁目(東一番丁北西角)に進出、小売部を開店(M15年より、正札販売) / 大町2丁目を本店(ほんだな)、大町4丁目の店を出店(さきだな)と呼ぶ / 木綿から絹織物までを扱う呉服店
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「藤崎170年のあゆみ」P22、P42/同P196~197に、創業~1989年(H元年)までの年表あり/「東一番丁創立五十周年」P8/「番丁詳伝」P42~43/「重訂 宮城県郷土史年表」P266/「番丁詳伝」P40
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商店など |
よろづ園(茶舗) |
1829年(文政12年) |
* 1829年(文政12年)、創業
* 1897年(M30)、藤崎と土地を交換
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「番丁詳伝」P99
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77-19 、77-17 / よろづ園の七夕飾り物(77-10 ほか)
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三原時計店 |
戦後 |
1846年(S21)~ |
* 1846年(S21)6月、新築開店
* 1953年(S28)2月、株式会社三原本店と称し法人組織に
* 1968年(S43)12月、(旧)大町5丁目内で移転(現・一番町3丁目2-23に移転)、地下1階地上3階
* 1978年(S53)、増築
* 1987年(S63)3月、創業100周年
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三原本店HP/あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217
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商店など |
菅原園(茶舗) |
1853年(安政元年) |
* 1853年(安政元年)、開業 / 各地に支店あり
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「番丁詳伝」P99
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菅原園の七夕飾り物(79-03ほか)
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火災(地域) |
宮町方面 |
1869年(M2) |
* 1869年(M2)1月28日、北二番丁から出火し、宮町方面一帯に延焼、130戸が焼失
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「仙台市史 年表」P78
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冷害・凶作 |
明治年間 |
1869年(M2)
1874年(M7)
1897年(M30)
1902年(M35)
1905年(M38)
1910年(M43) |
* 1869年(M2)秋、冷害のため凶作となる
* 1874年(M7)、冷害のため凶作となる
* 1897年(M30)秋、冷害と水害のため凶作となる。
10月16日、仙台市会、凶作のため臨時米穀売買所開設を決議
10月27日、市が臨時米穀売買所で外国米の低価販売開始
* 1902年(M35) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治35年」へ
* 1905年(M38) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治38年」へ
* 1910年(M43)、この年水害のため凶作となる
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P305(図310)は、明治30~39年の宮城県の米収穫量(グラフ)
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「仙台市史 年表」P79、P81、P90、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P304
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仙台鎮台 |
東北鎮台を改称 |
1973年(M6) |
* 1871年(M4)11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月、全国六鎮台となり、東北鎮台を仙台鎮台と改称(「仙台城」P231)
* 仙台鎮台は、福島県、宮城県、水沢県を徴兵を行う管轄県として、歩兵第4連隊、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵を常備し、また岩手・秋田・山形・青森県から徴兵して青森におかれた歩兵第5連隊をあわせて管轄、函館にも一隊を分遣 / 兵力は、平時4460人、戦時6560人
* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営(司令部)火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1884年(M17)、仙台鎮台に、新発田(新潟県)の分衛を附属
* 1884年(M17)、司令部庁舎新築(「目で見る仙台の歴史」P113)
1945年(S20)の敗戦まで仙台は日本の軍都の一つでもあった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P292~298/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P231/「いつか見た街・人・暮らし」P232/「目で見る仙台の歴史」P113/「仙台市史 年表」P79、P80、P86
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P294(鎮台御用の米搗精所だった六合社)
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