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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台電報局 |
木造2階建て庁舎 (青葉通り・東二番丁角)/5階建新庁舎 |
1947年(S22)/1963年(S38) |
写真20-07の庁舎は、東二番丁・青葉通り北東角にあった(のちのダイエーの場所) / S22年~S38年までの庁舎
<「仙台老舗百店史P142~143」の「仙台電信局」より>
仙台の電信局は、
* 1874年(M7)9月25日、国分町の瀬戸勝旅館の辺りに2階建で建築、東京との間に電信線が開通して、公衆電報の取り扱い開始
* のちに南町に移転し、郵便電信局から郵便局に組織が変わる(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579では、明治36年に移転)
* 1947年(S22)にまた電信局に分離し、東二番丁・青葉通り北東角(木造2階建庁舎へ移る」(編者注:電信局は、昭和24年に電報局に名称変更)
<資料により、移転年に違いあり>
* 1961年(S36)4月4日、仙台電報局(地上4階、地下1階)を東二番丁に新築し移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P600)
* 1963年(S38)、仙台電報局は青葉通りの木造局舎から、東二番丁南町通り南の新局舎(5階建て)へ移転、仙台中央電報局と名称変更(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580)
*、1963年(S38)6月22日、「中央電報局」に昇格
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「仙台老舗百店史P142~143 仙台電信局」(一部記述に間違いあり)/「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P600/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579~580
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木造2階建庁舎(東二番丁・青葉通り北東角)は、20-07/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年)
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木炭バス(仙台) |
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1946年(S21) |
写真「仙台駅前を走る木炭バス(9月24日)」
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91-21、 91-24
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
以下(1)(2)(3)の出典一覧 |
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出典一覧
イ 「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」(国立国会図書館蔵)
ロ 「重訂 宮城県郷土史年表」P323
ハ 七十七銀行「七十七年史」の年表
ニ 「古写真に見る仙台の建築」のP42の写真キャプション
ホ 「仙台市史 年表」
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発電事業 |
仙台市営電気事業(大正期の電灯増加) |
大正年間 |
出典:雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_10.pdf#search=%27%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82+%E7%99%BA%E9%9B%BB%E4%BA%8B%E6%A5%AD+%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%85%83%E5%B9%B4%27
<仙台市営電気事業の電灯需要数>
・1911年(M44)7月、 5960灯
・1915年(T4)、 7万4310灯
・1919年(T8)、 9万3729灯
・1920年(T9)、 10万9390灯
供給区域は、この間に、仙台市(当時)から周辺町村や仙南地域まで及んでいる
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「東北学院大学経済学論集第177号」P172、雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
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勧工場・商館 |
宮城勧工場 → 東一番丁勧工場 |
1881年(M14)/1882年(M15)~1883年(M26) |
勧工場は勧商場ともよばれ、開発者が建物を建て出店者を募って営業させるのもので、明治期に始まったショッピングセンター
* 1881年(M14)7月20日~10月27日、宮城県(松平正直県令布達)が「宮城勧工場」を片平丁公園(のちの桜ケ丘公園)に開設、正札販売が義務づけられた / 閉場後に出店者有志が借受け11月末まで継続 / 12月4日に民設に移行(出店者32人) / 翌年、東一番丁(「都川」跡地)へ移転し、「宮城勧工場」跡地は料亭「梅林」に
* 1882年(M15)10月8日、「東一番丁勧工場」、宮城勧工場を引継いで東一番丁42(旧「都川」跡地)に開設 / 舶来小間物、日本小間物、絹綿織物、陶器、漆器、筆紙墨、靴、帽子、頭飾、埋木細工、鉄瓶、金具など / のち、「第一勧工場」と改称 / 1893年(M26)、閉鎖
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P36/「仙台市史 年表」P84/「番丁詳伝」P38
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木町通小学校 |
コンクリート校舎建設 |
1954年(S29) |
北四番丁通りに面する
* 1954年(S29)9月、 木町通り小学校に、仙台市内の小学校では初めて鉄筋コンクリート校舎が完成
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「新・目で見る仙台の歴史」P181
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22-16、53-60/「目で見る仙台の歴史」P181/「市民の戦後史(仙台市)」P79(鉄筋校舎落成運動会)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(市内初の鉄筋コンクリート校舎)
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冷害・凶作 |
冷害年の稲作減収率(宮城県内) |
明治~1944年(S19) |
北海道・東北の明治~昭和19年の主な冷害年の「宮城県の米減収率」
(「図説:東北の稲作と冷害」の棒グラフより読み取り)
M35年(50%位)、M38(80%余)、T2年(50%余)、
S6年(10%以下)、S9年(15%位)、S10(20%弱)、S16年(40%弱)
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東北農業研究センター水稲冷害研究チーム「図説:東北の稲作と冷害」www.regai.affrc.go.jp/zusetu/reigai/l より要約
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戦勝祝賀行事 |
南京陥落 |
1937年(S12)12月 |
南京陥落(日中戦争)では、昭和12年12月14日の夜に東京や大阪などで祝戦捷提灯行列が行われている
<仙台でも祝賀行事が行われた>
* 1937年(S12)12月13日、南京を完全に占領し、この日皇軍南京に入城す(「重訂 宮城県郷土史年表」P460)
* 1937年(S12)12月14日、県市主催、南京陥落記念式挙行(「仙台市史10 年表」P291)
* 1937年(S12)12月14日、南京陥落の祝勝行事が行われる(「市史年表」P109)
* 南京陥落の際は、市を挙げて2万人の提灯行列が行われた(「近代みやぎの歩み」「仙台市史 続編第1巻」)
* 1937年(S12)12月13日(14日の間違いか?)、NHK仙台中央放送局、南京陥落祝賀提灯行列の模様を針金磁気録音機で録音し、ニュースで放送
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「重訂 宮城県郷土史年表」P460/[仙台市史10 年表]P291(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「近代みやぎの歩み」(佐々久・著 1979年)P97/「仙台放送局60年のあゆみ」P11/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P8
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東北学院(教会) |
仙台日本基督教会 |
1901年(M34)~ |
南町通り(東二番丁通り北西角)にあり、赤レンガの「東北学院神学部校舎」に隣接していた
* 1881年(M14)5月、「仙台教会」、プロテスタント日本基督公会の押川方義らが国分町に設立
* 1901年(M34)、仙台教会が「仙台日本基督教会」献堂式挙行
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「東北学院創立七十周年写真誌」末尾年表P66
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43-30/「目で見る仙台の歴史」P138に、日本基督教会堂」
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多門通り |
南町通りを改称 |
1933年(S8)1月7日 |
南町通りは、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路
*1933年(S8)1月には、「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを「凱旋行進」した
・ 「凱旋」を記念して、1933年(S8)1月7日市会の決議により南町通りは、当時の師団長の名を冠した「多門通り」と改名された
・ 戦後は南町通りに復名
・ 敗戦後、進駐してきた米軍はこの道路を「メープル街(かえで)と名付けた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P28)
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「仙台市史 年表」P106/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P28
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65-01-01、53-91、53-96、63-04-01、98-148(被占領時代の仙台市街地図 米軍用)
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水害 |
台風豪雨 |
1986年(S61)8月5日 |
台風10号による豪雨災害発生 / 仙台市の降雨402ミリ、仙台市東部で5474棟浸水、仙台市・塩釜市など5市町に災害救助法適用
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P195/「続・ 宮城県郷土史年表」P209
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医療機関 |
東北公済病院 |
1951年(S26)~ |
国家公務員共済組合連合会が運営
* 1951年(S26)3月、開設(5科、40床 / 元櫓丁、配炭公団の建物を買収)
* 1958年(S33)7月、病棟新築(地下1階、地上6階) / 9科、200床 / 妊婦ドック、小児ドック、未熟児センターなど特色ある施設や相談所を開設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P731~732
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医療機関 |
宮城野病院 |
1951年(S26)?~2016年(H28) |
国家公務員共済組合連合会が運営 / 戦後、国家公務員の結核患者治療対策のため設立(市内原町小田原高平)
* 1953年(S28)3月、開院(148床)と共に満床
* 増床を続け。1954年(S29)には、284床となる
* 1955年(S30)頃を境に結核患者目立って減少、一部を一般病床に転用
* 1968年(S43)ころ、新病棟建設(鉄筋コンクリート6階建)
その後、東北公済病院の分院となり、2016年(H28)3月末で閉院し、東北公済病院に移転統合
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P732
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国道45号線 |
二級国道指定/一級国道に格上げ |
1953年(S28)/1963年(S38) |
国道45号は、仙台市から太平洋沿岸を経て青森市に至る一般国道
<111号 →45号>
* 1953年(S28)5月、仙台・八戸線が二級国道111号に
* 1962年(S37)5月、二級国道の111号(八戸・仙台間)を含む仙台・青森間が国道45号に
* 1963年(S38)4月、二級国道45号線を一級国道に格上げ
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「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P608、P644
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国道48号線 |
二級国道指定/一級国道に格上げ |
1953年(S28)/1963年(S38) |
国道48号は、仙台市青葉区から山形市に至る一般国道
<110号 →48号>
* 1953年(S28)5月、仙台・山形線(旧関山街道)が 二級国道110号に
* 1962年(S37)5月、仙台・山形間が、二級国道110号 →国道48号に
* 1963年(S38)6月4日、国道48号線(仙台~山形)を一級国道に指定
* 1968年(S43)11月21日、国道48号線の新関山トンネル完成(仙台~山形間が車で1時間半となる)
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「仙台市史 年表」P118、P122、P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P644
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仙台の裁判所 |
仙台地方裁判所 |
1876年(M9) |
地方裁判所は宮城県全体を管轄 / 仙台区裁判所を併設していた
* 1876年(M9)3月2日、「宮城裁判所」開庁(仙台地方裁判所と仙台地方検察庁の前身)
* 同年9月13日、「宮城裁判所」を廃止し、「宮城上等裁判所」(宮城控訴院、宮城高等裁判所の前身)と「一ノ関裁判所」(宮城・岩手両県を管轄)を設置
* 同年11月24日、「一ノ関裁判所」を仙台に移し、「仙台裁判所」(仙台地方裁判所の前身)を設置
* 1877年(M10)に東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成(仙台区裁判所と仙台裁判所の庁舎)
* 1881年(M14)10月6日、「仙台裁判所」を「仙台始審裁判所」と改称
* 1890年(M23)11月1日、「仙台地方裁判所」に改称
* 1924年(T13)、「仙台地方裁判所」は、併設の「仙台区裁判所」とともに、片平丁に移転(宮城控訴院との合同庁舎がT13年竣工 / 秋保石積赤タイル張り洋館)
<戦後>
* 1947年(S22)5月3日、仙台地方裁判所、仙台簡易裁判所設置 / 裁判所法、検察庁法が成立し、それまでの裁判所に付属していた検事局を分離し、仙台地方検察庁設置
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎) / 旧庁舎(赤タイル張洋館)はS50年9月に解体開始
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「仙台市史 年表」「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
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99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117に、『東二番丁時代の庁舎』
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針久旅館支店(仙台駅前) |
開業 |
1887年(M20) |
場所は、仙台駅前広場の北側に面する
* 1868年(M元年)、国分町に旅館開業
* 1882年(M15)、針久旅館と改称
* 1887年(M20)、仙台駅開業の年に二代目久助が東北本線(日本鉄道)仙台駅前に支店を開設
その後、三代目久助が東五番丁に千坪の別館を建て、東京にも神田と上野、築地の3つの支店を開業した
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「仙台老舗百店史P182~189『針久旅館』
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61-18/53-88の右端建物/06-23の上部(陸奥ホテルの左隣の建物)/「目で見る仙台の歴史」P155に、国分町の針久旅館
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警察学校 |
東北管区警察学校 |
1956年(S31)~1975年(S50)3月 |
場所は、現在(2018年)の榴ケ岡公園内の一角で、かつては(明治時代~昭和20年まで)陸軍第二師団の歩兵第4連隊兵営だったが、戦災にあわず、戦後は進駐軍(米軍)基地(キャンプ・ファウラー)となり、米軍から返還された後に東北管区警察学校が置かれた / 高等部は旗立から、普通部は玉浦から移転
* 1956年(S31)11月30日、開校式
* 1975年(S50)3月、多賀城に移転
* 1975年(S50)5月、跡地(国有地)が、仙台市緑の拠点として払い下げが決まり、榴ヶ岡公園の一部となった
* 移転後の1975年(S50)1月13日から、戦前からの旧・歩兵第4連隊兵舎は解体されたが、一棟だけ残された兵舎が、仙台市歴史民俗資料館となった(S54年11月3日開館)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P800/東北管区警察学校HP/「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P41
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34-47
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競馬 |
県営(市営)競馬復活/県営廃止、市に移譲/市営も廃止 |
1946年(S21)/1952年(S27)/1960年(S35) |
場所は仙台市長町郡山(のちの飯田団地と宮城自動車学校のところ)にあった
* 1946年(S21)11月16日、宮城県営仙台競馬復活(仙台市史 年表」P114、「仙台市史10 年表」P314)
* 1946年(S21)11月、仙台市営競馬(長町郡山の市営競馬場)が7年ぶりに復活、戦災復興事業の資金調達のため
* 1952年(S27)、仙台競馬場の県営競馬が廃止となり、競馬場が仙台市に移譲される(「仙台市史 年表」P118)
* 1960年(S35)3月13日、仙台市営競馬廃止を仙台市議会で決議(「仙台市史 年表」P121、「重訂 宮城県郷土史年表」P595では3月23日決議)
* 1960年(S35)3月、仙台市営競馬廃止(「仙台市史 続編第2巻」P200)
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「「重訂 宮城県郷土史年表」P314、P514、P595/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 年表」P118、P121/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200の写真57(市営競馬)/「市民の戦後史(仙台市)」P44(S24年長町で市営競馬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P236(市営競馬のマッチラベル、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P42(S33頃)
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藤崎(戦前期) |
洋風木造館(2階建て)建設~焼失 |
大正期~1945年(S20) |
場所は大町・東一番丁角の敷地のうち東側の部分で、(旧)大町5丁目通りの南側に面す
* 1919年(T8)11月3日、「洋風木造館」開店
・ 創業百年を記念し近代的な洋風二階建木造館(200坪)の陳列式店舗を建て百貨店化、藤崎マーケットと称する(座売式店舗を廃止した)、西隣(大町・東一番丁南東角)には土蔵造りの卸部があった
・ 店内にブロックを敷き詰め、歩道と同じように歩けるようにした陳列式店舗で、水洗便所、暖房装置、索道金銭運搬機(キャッシュキャリー)を設備 / 近代設備は当時の仙台名物のひとつ
・ 呉服、綿布、洋反物、洋品雑貨、洋服誂えで呉服と雑貨を主力とする
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「藤崎170年のあゆみ」P92、P254/「番丁詳伝」P43
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98-014、98-015、98-016、20-37、99-042
/「藤崎170年のあゆみ」P199~200(洋風木造館外観イラストと写真、売場写真、内部配置図)
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多賀城跡 |
特別史跡指定 |
1966年(S41) |
多賀城市にあった日本の古代城柵
* 1961年(S36)8月、東北大学考古学教室が多賀城跡の発掘調査に着手
* 1966年(S41)3月25日、多賀城址を特別史蹟に指定
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292/「重訂 宮城県郷土史年表」P624
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松根油 |
宮城県への割当て |
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大平洋戦争末期、軍用機の航空燃料の不足を補うため、代替に松の根から油(高性能オクタンの成分が多い)を採るため、全国の松を伐採 / (制海権、制空権を失い、日本軍が占領した南方からの石油輸送が絶望的になる)
* 1944年(S19)10月、政府、松根油(しょうこんゆ)から航空燃料を生産する緊急対策を決定、大政翼賛会の運動として全国都道府県、市町村に発掘量を割当て、宮城県の分は2034万貫(7600トン)と決まる
・ 精製用の乾留釜(高さ1.2m、直径85cm)に、根を小さく割って入れ、ふたを粘土で密封し12~15時間燃やす
・ 釜は、昭和20年3月までに201釜、5月までに432釜完成
・ 陸海軍の協定で、東北地方で生産される松根油は海軍が使うことになっていた
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「戦争のころ 仙台、宮城」P203~204
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一番町(旧・東一番丁)中央部 |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」<商店街組織> |
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大町角(中央通り角)以北の東一番丁は、戦前から「東一振興会」の名称が使われていたことが、[写真 49-04 で確認できる / S29、「東一振興会」を「東一一番街」に改称 (ただし、写真 77-02 (S31)ではまだ「東一振興会」の字が確認できる) / S45.7.27、一番町一番街商店街振興組合設立
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9
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明治生命館 |
竣工~解体 |
1920年(T9)~1977年(S52) |
大町通り(旧・大町五丁目)にあった明治生命館(明治生命仙台支店)は、鉄筋コンクリート地上3階・地下1階、ロマネスク様式、赤レンガの壁にみかげ石が張られていた
* 1898年(M31)8月28日、明治生命仙台支店を(旧)大町5丁目に開設
* 1919年(T7)、明治生命館(ロマネスク様式)着工(2年3か月間工事) / 設計は曽根達蔵、中条精一郎
* 1920年(T9)7月旧、竣工
* 戦後、進駐軍に接収された
* 1947年(S22)11月1日、明治生命宮城支部と改称
* 1953年(S28)4月1日、仙台外務部と改組
* 1977年(S52)6月、明治生命館(ロマネスク様式)解体
(5年後のS57年9月、跡地に「藤崎リビング館」がオープン)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P313/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P131/「藤崎 170年のあゆみ]P95/「番丁詳伝」P215
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16-44、22-28、43-25/「目で見る仙台の歴史」P151
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水害 |
大雨 |
1874年(M7)7月20日 |
大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失
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「仙台市史 年表」P81
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仙台高等工業学校 |
開校 |
1907年(M40)~1951年(S26) |
官立の仙台高等工業学校は、(旧制)中学校卒業者が入学した3年制の専門学校
・「SKK」は校名の略称(仙台、高等、工業の頭文字を並べた)
・「SSKと萩の葉」を組み合わせ校章とした
* 1906年(M39)3月29日、文部省直轄学校一つとして設置
* 1907年(M40)4月20日、仙台高等工業学校開校(敷地,校舎は、南六軒丁の宮城県立仙台第一中学校を充当) / 名古屋、熊本につぎ3番目 / 土木、機械、電気の3工学科と採鉱冶金学科
* 1912年(M45)3月29日~1921年(T10)3月31日の間、東北帝国大学に包摂され、東北帝国大学工学専門部と改称
* 1921年(T10)4月、再び仙台高等工業学校として独立、再発足
* 1939年(S14)3月29日、工業化学科を新設(定員35名)
* 1944年(S19)4月、仙台工業専門学校に改称
* 1948年(S23)6月25日、同盟休校(教育防衛闘争)
* 1949年(S24)、東北大学に包摂された(工学部に合併され、東北大学仙台工業専門学校と改称)
* 1951年(S26)3月:東北大学仙台工業専門学校、廃止。
「写真53-120」の校舎は、1908年(M41)竣工~1926年(T15)6月全焼
「写真18-03」の校舎は、東北大学発足後は、第二教養部校舎となり、その後は、東北大学通信研究所が使用した
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「重訂 宮城県郷土史年表」P335、P337、P467/「宮城県百科事典」P579『仙台工業専門学校』 /「明治の洋風建築-宮城県-」 P69とP78『仙台高等工業学校』 /「仙台市史 年表」P94、P100、P113/「仙台市史10 年表」P318/Wikipedia「仙台高等工業学校」(2020年3月)
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53-120、18-03/「新・目で見る仙台の歴史」P141/「新・目で見る仙台の歴史」P141(校門と校舎)/「市民の戦後史(仙台市)」P39(仙台工業専門学校)
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一番町(旧・東一番丁)北部 |
一番町四丁目買物公園<概要> |
平成20年時点 |
定禅寺通角~広瀬通角間の商店街(アーケード街)
道の両脇にのみアーケードがかかり、晴れた日には太陽光が直に差し込み、青空を望める明るい雰囲気となる / 降雨時の開口部からの横雨の入りを少なくするため、アーケードの高さは「1階分+看板分」程度の高さになっており、一番町の他のアーケード街と比べると低い / この街区と交差する定禅寺通の西洋風煉瓦造りの中央緑地帯の雰囲気にあわせ、旧車道部の舗装は石畳、旧歩道部は煉瓦風カラー舗装となっている
冬季には、旧車道の開口部に豆電球のイルミネーション装飾をいくつも渡し、日没後は北欧の街路のような雰囲気となる / 1982年(S57)から2003年(H15)7月まで、「水時計」と呼ばれる落水で動くからくり時計が街区の南東端に設置されていた
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Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より要約
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幹線道路 |
宮城県道22号仙台泉線 |
1985年(S60) |
宮城県道22号仙台泉線(元寺小路~七北田線)は、青葉区本町から、仙台市泉区将監に至る県道(主要地方道)で、青葉区と泉区を結ぶ幹線
* 1953年(S28)、広瀬通り角から北にイチョウ91本植栽(以降、計240本に)
* 1985年(S60)12月25日、拡幅完了し開通(「続・ 宮城県郷土史年表」P198)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P468?/「続・ 宮城県郷土史年表」P198
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県営宮城野球場(宮城球場) |
開場 |
1950年(S25) |
宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン
<開場式、記念のプロ野球戦試合>
* 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場グランド開き / 5月5日、観客殺到し、圧死3名、重軽症23名(「仙台市史10 年表」P323)
* 1950年(S25)5月3日、開場式 / 5月5日、仙台初のプロ野球公式戦(毎日対大映、毎日対南海)(「仙台市史 年表」P116)
* 1950年(S25)5月3日、球場開きの際、入場者殺到し、作ったばかりの金網の柵が倒れ、死者3人、負傷者23人という惨事(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P204、P266)
* 1950年(S25)5月5日、開場式(記念試合として、毎日・大映・南海の公式試合あり)(「重訂 宮城県郷土史年表」P542)
* 1951年(S26)10月25日、日米親善野球米選抜軍対巨人軍
* 1973年(S48)4月20日、照明塔6基点灯式
* 1973年(S48)5月22日、ナイター開幕
* 1974年(S49)1月、プロ野球ロッテ球団が、宮城県営野球場を本拠地とする
* 1974年(S49)4月6日、東北初のプロ野球開幕試合(ロッテ対阪急)
* 1977年(S52)9月13日、ロッテ球団、本拠地を川崎ヘ移す
* 1985年(S60)6月18日、県営宮城球場、大改造完成
* 2004年(H16)、全面改修され、プロ野球団東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となる(施設は宮城県が所有し、東北楽天ゴールデンイーグルスの運営法人・株式会社楽天野球団が都市公園法に基づく管理許可制度により運営管理)
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「仙台市史 年表」P116、P129/「仙台市史10 年表」P323、P326/「重訂 宮城県郷土史年表」P542/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P20、P71、P192/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P204、P266/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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20-06、25-15、25-16
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県営宮城野原公園総合運動場 |
各施設の開場 |
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宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン、昭和20年代半ばに以下のスポーツ施設が完成
* 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場開場
* 1951年(S26)5月、県営宮城野原蹴球場完成
* 1951年(S26)8月10日、県営宮城野原陸上競技場開場
* 1952年(S27)10月21日、県営宮城野原総合運動場庭球場落成(「重訂 宮城県郷土史年表」P557では、8月21日落成)
* 1952年(S27)、県営宮城自転車競技場開場
* 1973年(S48)4月28日、宮城野原公園に総合運動場の標識除幕
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「仙台市史」P117/「仙台市史10 年表」P323、P328/「仙台市史 年表」P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P542、P551、P557/「続・ 宮城県郷土史年表」P19/Wikipedia「宮城自転車競技場」2020年1月版
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「目で見る仙台の歴史」P189(運動公園全域空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(同空撮)/「市民の戦後史(仙台市)」P62(S25年5月、空撮)
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テレビアンラジオ |
発売開始 |
1936年(S11)7月1日 |
山中電機が発売した、時計つきのラジオ
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「日録20世紀 1936年」P30
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53-14に「テレビアンラジオ」の広告看板あり
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市民のつどい |
第1回 |
1967年(S42) |
島野市長時代に始まり、毎年定期的に会合
* 1967年(S42)11月9日、第一回市民のつどい
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「市民の戦後史(仙台市)」P204~205
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「市民の戦後史(仙台市)」P204~205
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仙台市の花・木・鳥・虫 |
決定 |
1971年(S46)9月1日 |
市花はハギ、市木はケヤキ、市鳥はカッコウ、市虫はスズムシ
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「仙台市史 年表」P127
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市町村合併 |
平成の大合併 |
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平成の合併は、「宮城県の市町村合併誌」https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/sichouson/sityouson-gappeishi.html
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍地方幼年学校/仙台陸軍幼年学校 |
1897年(M30)/1920年(T9)~1924年(T13) |
幼年学校は、年少段階から陸軍の幹部将校候補を養成する教育機関(場所は榴ヶ岡)
* 1897年(M30)9月1日、「仙台陸軍地方幼年学校」が榴ケ岡に開校 / 14~15歳の少年が受験
* 1920年(T9)8月10日、「仙台陸軍幼年学校」に改称
* 1924年(T13)、軍備縮小計画により廃止
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」が復活、開校式(場所は、三神峯)
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「仙台市史 年表」P90、P99/「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 特別編4 市民生活」P298
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地図は、98-111,98-113/「新・目で見る仙台の歴史」P135(仙台陸軍地方幼年学校の門標)
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仙台駅(戦後) |
第4代駅舎中間竣工 |
1949年(S24)7月 |
広い庇とその下の大時計(直径2m)が特徴で、S47年まで23年間にわたり仙台市のシンボルであった
* 1948年(S23)、着工
* 1949年(S24)7月、第4代駅舎(中間竣工)、木造2階建て / 駅前広場はアスファルト舗装、東五番丁まではコンクリート舗装
* 1950年(S25)5月18日、第4代駅舎完成
* 1950年(S25)11月5日~12月末、駅前の舗装(「仙台駅百年史」P49)
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「仙台駅百年史年表」P224/「戦災復興余話」P54/「仙台市史 年表」P116/「わが心の仙台駅前史」P86の「年表」/「仙台駅百年史」P49
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05-02、16-17、16-18、16-19、16-20、16-24、18-01、20-09、22-13、22-14、37-02、37-05
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水害 |
暴風雨 |
1885年(M18)11月24日 |
広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失
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「仙台市史 年表」P85
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水害 |
大雨 |
1908年(M41)9月30日 |
広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失
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「仙台市史 年表」P94
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水害 |
台風 |
1884年(M17)9月15日 |
広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失 / この台風被害により、野蒜築港工事が中止される
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「仙台市史 年表」P85
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「新・目で見る仙台の歴史」P124(野蒜築港設計図)
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水害 |
大雨 |
1889年(M22)9月10日~11日 |
広瀬川が氾濫し、澱橋・大橋・広瀬橋が流失 / 仙台で、死者17名、家屋流出40戸、倒壊39戸、浸水1012戸
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「仙台市史 年表」P87
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水害 |
大雨 |
1883年(M16)5月7日 |
広瀬川が氾濫し、牛越橋が流失 (1905年(M38)11月20日に架設)
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「仙台市史 年表」P85、P93
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愛宕堰 |
完成 |
1954年(S29) |
広瀬川の河川改修にともない完成 / 愛宕堰は広瀬川から、七郷堀(農業用などの幹線水路)への取水口
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「仙台市史 年表」P119
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水害 |
アイオン台風 |
1948年(S23)9月16日~17日 |
広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / 堤防決壊28か所、橋梁流失15か所、道路損壊32か所、仙台鉄道七北田鉄橋の流失を受け代行バス輸送
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「仙台市史 年表」P115
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「市民の戦後史(仙台市)」P38(洪水被害)/「新・目で見る仙台の歴史」P174(水害の太子堂付近)
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一番町(旧・東一番丁)中央部 |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」<概要> |
平成20年時点 |
広瀬通り角と中央通り角の間、一番町三丁目にあるアーケード街
1993年(H5)、高さ19.5mの高層アーケードに建て替えられた / この新アーケードは、旧車道部の上を覆う中央ドーム部が5階建て程度、両脇の旧歩道部の上が4階建て程度の高さになっており、ミラノのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアを模した
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Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より抜粋
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仙台市役所庁舎 |
市制以前(仙台区役所庁舎) |
1885年(M18)~1926年(T15) |
建物は、勾当台通表小路(1996年現在の市役所の前庭)にあり、平屋建てではあるが重厚な感じの木造で親しまれた
* 1878年(M11)7月22日、旧仙台城下は仙台区となる
* 1885年(M18)10月24日、区役所新庁舎、表小路に完成
* 1889年(M22)4月1日の市制施行後も1926年(T15)まで使用
* 昭和初期に取り壊し(1929年(S4)に完成した3階建て市庁舎建設を前に)
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「仙台市史 年表」P82、P85/「宮城県の百年」P9の掲載写真の「説明文」
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98-056/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116/「新・目で見る仙台の歴史」P121
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愛国婦人会 |
宮城支部創設 |
1901年(M34) |
愛国婦人会は、1901年(M34)に軍事援護と社会奉仕、報国運動を目的に、内務省・陸軍省の後援を得て結成された半官制の全国組織(「仙台市史 特別編4 市民生活」P454)
* 1901年(M34)12月12日、宮城支部創設、事務所を日本赤十字社宮城支部内に併置 / 初代支部長は、県知事夫人の小野田安子 / 1904年(M37)の日露戦争勃発で、第二師団所在地として軍事援助事業に動員され、これを通して愛国婦人会の組織が大きく拡充(会員数:創立当初は全県下で100余名→1905年に1万4000余名)
* 1904年(M37)1月6日、愛国婦人会宮城支部は、日本赤十字社篤志看護婦人会など5つの民間団体と合同で、宮城県連合婦人会を結成 / 第二師団への衣類寄贈や出征軍人家族、戦病死者の慰問、寄付金募集などを開始
* 1931年(S6)12月14日、宮城支部主催「満蒙婦人公演会」開催
* 1937年(S12)の市内会員数、1万4882人
* 1938年(S13)、小学校通学区域ごとに支部の分会 / 1939年(S14)に各分会の連絡統制のために仙台市連合分会を組織
* 1939年(S14)3月6日、愛国婦人会宮城支部に於て、婦人報国の赤誠を宣揚す
* 1941年(S16)4月1日、愛国婦人会仙台市連合会、市役所内に事務所を設ける
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P454、P456/「重訂 宮城県郷土史年表」P323、P467/「仙台市史 年表」P91、P92/「市史10年表」P277、P301
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P455(愛国婦人会秋保村分会の旗、カラー)
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愛宕大橋(広瀬川) |
開通 |
1975年(S50) |
愛宕上杉通り(国道286号)の広瀬川にかかる橋 / 青葉区土樋(つちとい)と太白区越路(こえじ)とを結ぶ / 橋の南詰が愛宕上杉通りと広瀬河畔通りとの境目
* 1975年(S50)10月1日、開通(交通渋滞緩和のため、愛宕橋のやや上流に建設、長さ228m、幅26m)
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「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P45/Wikipedia「愛宕大橋」
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仙台市公会堂(戦前) |
設置~空襲焼失 |
1909年(M42)~1945年(S20) |
戦前は、桜ケ岡公園(西公園)にあった
* 1909年(M42)、市が公園内にあった木造の割烹・挹翠館(ゆうすいかん)を買収し仙台市公会堂とした
→ 項目「挹翠館」参照
* 1908年(M41)10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)(「重訂 宮城県郷土史年表」P341)
* 1909年(M42)2月11日、憲法発布20周年記念として桜ケ岡(公園)に公会堂を建立(「宮城百年」毎日新聞社刊 年表)
* 1916年(T5)9月、洋館の新館(ルネッサンス式、木造2階建)が竣工、挹翠館を公会堂本館、洋館を新館とした / マンサード屋根スレート葺、モルタル塗り
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で公会堂本館、新館ともに焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273、P341、P364/「仙台市史 年表」P97/「宮城百年」毎日新聞社刊 年表/「古写真に見る仙台の建築」P44/「仙台あのころこのころ八十八年」P242
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挹翠館は、98-058、98-059/ 新館(洋館)は、99-092-1、99-093-1、53-94、53-99/「いつか見た街・人・暮らし」P14(公会堂講堂内部が写る、在郷軍人大会、大正13年)/「新・目で見る仙台の歴史」P144(カラー、挹翠館と公会堂新館)
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街灯(東一番丁・南町通角以南) |
戦前 5灯型 |
設置年不詳~1945年(S20) |
戦前>
* 設置年不詳
・ 1基5灯のスズラン灯は東一番丁(立町角以北)のとよく似ているが、上部アームのデザインが異なる
* 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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53-89
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街灯(南町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1基1灯型(柱の上に1灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」に1基1灯型が写る/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」、53-95、44-90-01
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