項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
街灯(停車場前通り) |
戦前 2灯型 |
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戦前> 1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ)
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99-020、44-10、44-09、64-04
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街灯(南町通り) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から左右へ2灯、アームが曲線) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」には1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」、53-91、43-30
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街灯(新伝馬町) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から道方向に突き出たアームに2灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町」に1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町]
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街灯(旧・大町四丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧・大町4丁目の街灯は1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ、アームは道に直角)/ T14年頃の写真 43-25 には街灯はなかった / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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53-46、22-52、20-46、20-47
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街灯(旧・大町五丁目) |
戦前(1) 1灯型 |
1928年(S3)?~1935年(S10)頃 |
戦前> 旧・大町五丁目の街灯は、1基1灯型 / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町四五丁目」に1基1灯型が写る / 昭和7年の絵葉書、昭和10年のスタンプがある絵葉書では1基1灯型
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1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町五丁目」、20-47、22-27
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街灯(旧・大町五丁目) |
戦前(2) 3灯型 |
1935年(S10)頃~1945年(S20) |
戦前> 旧・大町五丁目の街灯は、1基1灯型から1基3灯型になった/ 昭和10年か11年の写真では1基3灯型 / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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20-51、20-55、53-100、22-52
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街灯(旧・大町一、二、三丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧大町1,2,3丁目の街灯は1基2灯型(柱から両側に突き出でたアームに1灯ずつ、アームは道に平行) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」に1基2灯型が写る / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」
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街灯(芭蕉の辻) |
戦前 1灯型 |
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戦前> 辻の西南角側に洒落た街灯が1本(明治40年代)
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99-022
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街灯(芭蕉の辻) |
戦前 5灯型 |
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戦前> 道の両側に真新しい(白い柱の)街灯が建てられた / 昭和3~4年頃の写真53-49「芭蕉の辻と市電芭蕉の辻線」には写る / 1基5灯型(四方へ4灯、上に1灯)
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53-49
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街灯(芭蕉の辻) |
戦前 |
~1945年(S20) |
戦前> 道両側に街路灯 / 芭蕉の辻の四隅は1基5灯型、その北(国分町方向)は道路の両側に1基4灯型(四方に4灯、上にはなし)、辻の南側は1基2灯型/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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22-33、20-18、99-026、53-52、99-028、16-01、44-06、99-027
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定禅寺通り |
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戦後、戦災復興事業で勾当台公園角~西公園通り間が幅46mに拡幅され、中央分離帯(12m幅)には、欅を2列に植え、その間に遊歩道をもうけた街路公園として整備された。青葉通りとならび杜の都仙台を代表する街路となった
* 1957年(S32)から、西公園までの480mに計158本の欅を植樹
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「仙台市史 続編1」P462
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市場 |
駅前マーケット |
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戦後のヤミ市からできたマーケットの1つでバラック小屋が集まっていた / 場所は東五番丁・南町通り交差点北側 / 経営は仙台駅前商業組合
<火災>
* 1949年(S24)3月16日、46戸焼失
* 1949年(S24)10月10日、駅前マーケット(青葉通り)67戸に撤去代執行(「仙台市史 別冊2」P382)
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「番丁詳伝」P168/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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街灯(東一番丁北部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、戦後のスズラン灯建つ(「仙台年表」P217)
・ 戦前に「番街」の名物であったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)
・ 同じスズラン灯の形であったが、立町通(広瀬通)角以北と、立町通(広瀬通り)角~大町通(中央通)角では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)にアーケード設置のため撤去
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「番丁詳伝」P166/「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-38、16-39、16-40、18-16
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街灯(東一番丁南部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)?~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)?、街灯が復活(1基3灯型)
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-42、98-013、55-04、55-03、20-01-01、18-34、18-04、18-08
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街灯(東一番丁中央部) |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、街灯が復活(1基3灯型)
・ 戦前に「番街」の名物でもあったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)を取りつけた
・ 同じスズラン灯型であったが、広瀬通角(立町通)以北と、広瀬通り角~大町通角間では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)/「番丁詳伝」P166
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16-41、16-43、18-12
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街灯(旧・大町五丁目) |
戦後 3灯型 |
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戦後> 旧・大町5丁目の街灯は1基3灯型だが、戦前とは形が違う
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16-44
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街灯(南町通り) |
戦後 2灯型 |
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戦後> 柱から左右へ2灯(アームが直線)
/ 昭和26年にはまだ無かった(写真 20-02 、 16-45 )
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18-14、36-08
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発電事業 |
電力の国家統制(日本発送電/東北配電) |
1939年(S14)/1942年(S17) |
戦時体制の下、電力は国家管理となる
<日本発送電>
* 1939年(S14)、日本発送電株式会社設立(国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づき、東京電燈・日本電力など全国の電力会社の現物出資や合併によって設立された半官半民の特殊会社) / これにより、東北地方は仙台にある日本発送電(株)東北支店の所管となる
<昭和17年、東北地方は東北配電に一本化>
* 1941年(S16)8月30日、配電統制令が公布、即日施行
・ 全国各地の配電事業者は統合を余儀無くされ、五大電力会社を含めて全て解散
・ 1942年(S17)には全国9ブロック(北海道・東北・関東・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州)に新たな配電会社が設立され、この9配電事業体制の下で日本発送電と連携した配電事業が行われた
・ 東北送電(株)は解散し県営の3発電所とともに日本発送電に強制移管される → 仙台市電事業を除き、仙台市営と宮城県営のすべての施設が「東北配電」に移行
・ 仙台では当時、長町・原町周辺を中心に工場が増え始め、特に軍需関係産業には優先的に電力とガスの供給が行なわれた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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東二番丁通り(拡幅) |
はみ出し建物撤去 |
1958年(S33年)7月 |
拡幅予定地にかかり、街路にはみ出していた、逓信病院、宮城学院、東北学院中学校は、S33年3月~7月末に取り壊し完了(東北学院中学校赤レンガ校舎の道路側部分はS33年4月撤去)
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「仙台市史 続1」P349
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98-027、98-109、22-23、36-03、36-04、36-06
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宮城控訴院(赤タイル庁舎) |
落成/解体 |
1924年(T13)/1975年(S50) |
控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する
* 1879年(M12)、宮城上等裁判所(宮城控訴院の前身)の庁舎(ルネッサンス式、漆喰塗)が片平丁に完成 / 宮城控訴院は、発足時(M19年)にその庁舎を引き継ぐ
<赤タイル張り庁舎落成>
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」
<同庁舎、解体>
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・宮城県郷土史年表」P44)
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
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「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-01、13-02,、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館)
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仙台の裁判所 |
宮城上等裁判所/宮城控訴裁判所/宮城控訴院/仙台高等裁判所 |
1875年(M8)/1881年(M14)/1886年(M19)/1947年(S22) |
控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する
<宮城上等裁判所>
* 1876年(M9)9月13日、大審院が「宮城上等裁判所」を仙台に設置
* 1879年(M12)、片平丁に、宮城上等裁判所建築(ルネッサンス式、漆喰塗) / <編者注> 出典の「新・目で見る仙台の歴史」P122キャプションには、仙台上等裁判所となっているが、「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表によれば、仙台上等裁判所と称した時代はなく、宮城上等裁判所が正しいと思われる
<宮城控訴裁判所/宮城控訴院>
* 1881年(M14)10月6日、「宮城控訴裁判所」に改称(ルネッサンス式2階建て)
* 1886年(M19)5月4日、「宮城控訴院」に改称
* 1904年(M37)11月15日、片平丁の宮城控訴院構内を焼失
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」
<仙台高等裁判所>
* 1947年(S22)5月3日、「仙台高等裁判所」設置(裁判所法、検察庁法成立 / それまでの宮城控訴院に付属していた検事局を分離し、仙台高等検察庁設置
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・ 宮城県郷土史年表」P44)
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎)(「続・ 宮城県郷土史年表」P74)
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P274、P331、P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
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「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-01、13-02、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館)
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霊園/墓園 |
葛岡墓園(葛岡墓地公園) |
1969年(S44) |
新寺小路地区の都市改造事業(区画整理)による移転墓地 / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成
* 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始
* 1969年(S44)3月、第一期工事分(約38.2ha)がほぼ完成し一部墓碑の移転開始
* 1972年(S47)、仙台市葛岡斎場が開場
* 1978年(S53)4月、仙台市葛岡墓園が一般に開放
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P386、P744/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127/「仙台市史 年表」P123/Wikipedia「仙台市葛岡墓園」/「続・ 宮城県郷土史年表」P80
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「市民の戦後史(仙台市)」P211(造成すすむ葛岡墓地公園)
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日乃出映画劇場 |
日乃出会館オープン |
1957年(S32) |
日乃出映画劇場出火(S31年2月)後、日乃出会館を新築
* 1957年(S32)4月14日、地上8階・地下1階の商業施設ビルとしてオープン / 館内に4つの映画館や大ホールなどがあった
* 1973年(S48)7月、日の出興行ビル完成
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Wikipedia「日乃出会館」2019年12月18日版/わが心の仙台駅前史」P40、P89
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99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P26(S32)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮、日の出会館は画面左の交差点右角のビル)
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バス |
ボンネット型 |
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日本では、1950年代頃までは大多数のバスがボンネットを持った形状(ボンネットバス)だったが、次第に輸送効率の良い箱型バスに置き換えられた。日本では、1971年に量産タイプのボンネットバスの製造が中止された
仙台市営バスでは、1965年(S40)当時、仙台市中心部でまだボンネットバスが使われていた → 写真 201-08 、 201-09
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Wikipedia「ボンネットバス」(2019年10月)/写真201-08、201-09のキャプション
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58-03、201-08、91-21、201-39、201-42
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血液センター |
日赤宮城県血液センター |
1965年(S40) |
日本赤十字社宮城県支部が支部内に設置
* 1965年(S40)2月5日、宮城県血液センター開所、4月から献血車「いずみ号」稼働開始
* 1966年(S41)5月、民間血液閉鎖、売血制度廃止
* 1966年(S41)8月、県内6カ所に出張所開所
* 1967年(S42)、「第二いずみ号」配置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P736/「重訂 宮城県郷土史年表」P618
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「市民の戦後史(仙台市)」P166(献血の様子)
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ロシア兵捕虜 |
仙台に収容 |
1905年(M38) |
日露戦争で捕虜となったロシア軍将兵を仙台でも収容
* 1905年(M38)3月30日、仙台に到着
この後、宮城野原の捕虜収容所に約2000名を収容
* 1905年(M38)11月27日、ロシア兵捕虜の送還始まる平屋の収容所に移りました。初めて外国人を見る人が多く、寺のまわりは、毎日見物人で混雑したそうです。(「仙台市史 年表」P93)
・「仙台には、2252人の捕虜がやってきました。37人の将校は割烹や旅館に、他の大多数の兵士は寺院に収容され、後に宮城野原の国立病院機構仙台医療センターの場所に建設した平屋の収容所に移りました。捕虜たちは朝の点呼を受けると後は何もやることがなく、散歩したり読書、雑談をして一日は終わりました。将校には貴族の子弟が多く、白いズボン、白靴という姿で芸妓を連れて夜の街に繰り出すものもいました。宮城野原ではドラム缶で風呂をわかして入浴させようとしたところ、入浴の習慣はないようで、殺されると思ったのか逃げまわる兵もいたそうです。
帰国前日、リャポノフ中将は第二師団を通じて平穏、友好的だった市民に感謝の書簡を贈りました。仙台ハリストス正教会には、仙台で病死した捕虜3人の資料が残っています。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P70~71)
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「仙台市史 年表」P93/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P70~71
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幼稚園 |
木町通小附属幼稚園/公立仙台幼稚園/東二番丁小附属幼稚園 |
1879年(M12) |
明治12年開園の仙台最初の幼稚園(名称の変遷)
全国で2番目、公立幼稚園では全国1番目
(1) 1879年(M12)6月7日、仙台区木町通小学校附属幼稚園が、定禅寺通櫓丁に開園(仙台で初)
(2) 1984年(M17)、公立仙台幼稚園(仙台区南光院丁) / 園児は、男子29名、女子22名
(3) 1986年(M19)、東二番丁尋常小学校付属幼稚園となる(場所は東二小敷地内)
(4) 1896年(M29)3月28日、東二番丁尋常小学校付属幼稚園、独立して仙台市立幼稚園に
(5) 1916年(T5)4月1日、仙台市立仙台幼稚園、東二番丁尋常小学校付属幼稚園となる
(6) 1939年(S14)年2月28日、東二番丁小学校付属幼稚園改築工事竣工
(7) 1941年(S16)4月、園名を「仙台市立東二番丁国民学校附属幼稚園」と改称
(8) 1945年(S20)7月、太平洋戦争の空襲激化に伴い休園、7月10日の仙台空襲により園舎全焼、一時片平丁小学校に移り、一部を借り受け授業を行う
(9) 1945年(S20)12月、父母有志による「東二番丁小学校父母教師会立幼稚園」として復興、園舎落成
(10) 1974年(S49)3月、仙台市立東二番丁幼稚園として設立認可
(11) 2010年(H22)4月、民営化し、私立幼稚園に改組(場所は東二番丁小学校内で変わらず)
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(1)「仙台市史 年表」P83、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P368/(1)(2)「仙台市史 特別編4 市民生活」P442/(4)「仙台市史 年表」P89/(5) 「仙台市史 年表]P97/(6)「仙台市史10 年表」P295/そのほかは、Wikipedia「東二番丁幼稚園」(2016年4月)
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冷害・凶作 |
明治38年(その1) |
1905年(M38) |
明治38年凶作
(1)「仙台市史 特別編4 市民生活」P305~307より
1905年(M38)の凶作は「東北三県凶作」と呼ばれ、岩手県・宮城県・福島県の三県に例年の作況の1割にも満たない甚大な被害をもたらした。 仙台市もあまりの被害の大きさに有効な救済策をとることができなかったといわれる
* 1905年(M38)夏、冷害で米は大凶作となる。(宮城県87%減、福島県76%減、岩手県66%減) / 天明・天保以来の大凶作といわれた
・ 宮城県の窮民調査で、3人に1人が窮民(28万8千人) / 米作地帯の栗原郡で44%以上、遠田郡で76%、仙台市では7%(6500人)、宮城郡25%(1万8000人)、名取郡34%(2万1200人)が窮民
・ 1904年(M37)にはじまる日露戦争で、特に農村部では働き手が兵士として戦場に動員されたため家族労働力に頼る農家経営が困難となる事例が次第に増加していった
明治38年の5月、日本海海戦の勝利が伝えられた頃、東北三県を冷害が襲い始めた。
・ 8月~9月、ヤマセと雨天・日照不足
・ 仙台の8月の平均気温、前年より3.8度低い
・ 日照時間も極端に少なく、特に出穂期を迎える8月下旬は連日ほぼゼロの日が続いた
・ 農作物の生育は極端に悪く。特に稲が実を結ばずに米の収穫が激減した
・ 米価高騰で市民生活に打撃(6月はじめ、1升13銭 → 8月末に18銭 → 11月に20銭超え)
・ その他の影響(牛馬家畜減少、児童出席率低下、退学児童増、教科書寄贈運動、教員給与未払い、ほか)についても記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P305~P307
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幼稚園 |
仙台市内 |
明治42年当時 |
明治42年の「仙台市統計一班」(国立国会図書館オンライン 書誌ID 000000454715)によると、明治42年当時の仙台市内の幼稚園は4園
・ 市立仙台市幼稚園(東二番丁、明治12年創立)
・ 私立宮城幼稚園(東二番丁、明治36年創立)
・ 私立仙台幼稚園(元寺小路、明治38年創立)
・ 私立青葉幼稚園(東一番丁、明治42年創立)
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明治42年の「仙台市統計一班」
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明治百年 |
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1968年(S43) |
明治元年から100年経過した1968年(昭和43年)、国内各地で記念行事や催しが開催された
* 1967年(S42)6月21日、明治百年記念として台原森林公園(59ha)開設きまる(全国10カ所に開設する施設のひとつ)
* 1968年(S43)10月23日、明治百年記念式典
* 1968年(S43)10月、仙台市が記念植樹式
* 1973年(S48)4月、台原森林公園開園
→ 項目「台原森林公園」参照
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62/「市民の戦後史(仙台市)」P211
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53-125(仙台七夕 明治百年に因んだ飾り)/「市民の戦後史(仙台市)」P211(市が記念植樹)
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野球場 |
昭和11年現在 |
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昭和11年現在、仙台の野球場は、澱橋球場(収容1万人)、スポーツマン球場(収容1万人)、八木山球場(収容2万人) / (予定)東北帝国大学の球場
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
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木炭バス(東京・青バス) |
東京の青バスが木炭バスへ改造決定 |
1938年(S13)7月 |
昭和12年夏からの日中戦争の影響でガソリンの民需用使用が大幅に制限され、代替燃料への切り替えを余儀なくされた
* 1938年(S13)7月、東京の青バスは、すべてのバスを年内に木炭バスは改造することを決定
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「日録20世紀 1938年」P30
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市場 |
中央マーケット(戦前) |
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昭和戦前期、東一番丁南部(通称大通り)にあった。
【「仙台大観(昭和10年刊」P43】
「大通りには1年を通じて毎夜、夜店が開かれ、夜の一番丁に一層の賑わいを呈し、傍らの「中央マーケット」には、コリントゲーム、玉突き、輪投げ、射的、演芸(無料公開)等があり遊芸場として昼夜雑踏を極めている。」
<参照>当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみ に、戦前期の大通りの夜店、中央マーケットの思い出あり
なお、戦後(昭和21年)に通称大通りに開設された「仙台中央公設市場」も、通称「中央マーケット」と呼ばれた。
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「仙台大観(昭和10年刊」P43
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高等学校(新制) |
東北学院中学校・高等学校(戦前期) |
1886年(M19)~1945年(S20)夏 |
普通科が、戦後の東北学院中学校、高等学校の前身
<南町時代>
* 1895年(M28)、東北学院が予科、本科を改組し、普通科5年、その上に専修科(文科、理科)2年、その上に神学部3年を置く
* 1899年(M32)、私立学校令公布に伴う中学校令改正に当たっても「普通科」の呼称は変えず
<東二番丁・初代校舎時代>
* 1905年(M38)、東二番丁に「普通科」校舎竣工し、南町から移転
・木骨レンガ造りルネッサンス式、2階建て、スレート葺き屋根
・屋根面にトーマー・ウィンドウ(屋根窓)
* 1915年(T4)5月、普通科を中学部と改称(生徒数357名)
* 1919年(T8)3月2日、南町大火のため中学部校舎全焼
* 1919年(T8)9月、バラック建て仮校舎落成
<東二番丁・赤レンガ校舎時代>
* 1922年(T11)6月、旧校舎跡地に中学部校舎再建
・ 鉄筋コンクリートレンガ張り(通称「赤レンガ校舎」)
・ 2階建て、一部3階
・ 正面入り口に「LIFE LIGHT LOVE」が掲げられている
* 1943年(S18)、中学部を中学校と改称、第二部(夜間)設置
このころ、校舎が軍や鉄道局に接収され、校舎正面の「LIFE LIGHT LOVE」が削り取られ、礼拝堂ステンドグラスのキリスト昇天図が幕で蔽い隠され、日の丸の国旗がはりつけられた
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、校舎の大半(12棟)を焼失、焼失をまぬがれた本館、礼拝堂もコンクリートに亀裂
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「東北学院創立七十周年写真誌」P11~12、P22~23、P30、P32~35、P65~P69/東北学院HP/「明治の洋風建築-宮城県-」P66「東北学院中学部」
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<南町時代> 神学部校舎(南町)は、「東北学院創立七十周年写真誌」P11、P50の写真/99-068、43-30
<東二番丁初代校舎> 99-069/東北学院創立七十年写真誌」P22~23、P30の写真/「目で見る仙台の歴史」P142の写真
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東北大学 |
学部・大学院・附置研究所等一覧 |
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最新時点の一覧は、東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」にある https://www.tohoku.ac.jp/japanese/academics/
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東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」
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用語(大東亜共栄圏) |
用語の使用はいつ始まったか |
1940年(S15)8月 |
有田八郎外相(第2次近衛内閣)の1940年(S15)8月のラジオ放送に始まるとされる
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「東洋経済新報社 百年史」P647
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郵便局 |
仙台鉄道船舶郵便局 |
1910年(M43) |
木造洋風2階建て
・「重訂 宮城県郷土史年表」P290に
* 1891年(M24)9月、「仙台鉄道郵便電信局」を仙台に設置
* 1910年(M43)4月、「仙台鉄道船舶郵便局」と改称
南町にあった仙台郵便局とは違う(粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P28の南町の「郵便局」と建物が違う)(これとは別の場所にあった可能性がある)
【Wikipedia[仙台鉄道郵便局]】 日本の郵便局の種類の一つで、鉄道事業者に郵便車を運行させてこれに職員が乗務し、鉄道沿線の郵便局から継送される郵便物を輸送するとともに、郵便車内で郵便物をあて先地域別に区分する業務を行っていた / 仙台鉄道郵便局はおもに東北地方南部の区間を担当した
* 1910年(M43年)10月、「仙台鉄道船舶郵便局」(一等郵便局)を開局
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「重訂 宮城県郷土史年表」P290 / Wikipedia「仙台鉄道郵便局」
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99-099
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日乃出映画劇場 |
開館 |
1935年(S10)3月20日 |
東一番丁(横丁の新国町)に杉村多利治が開場
・ 水洗式トイレ、トーキーは35年型トービスと最新式の設備
・ 館名を一般公募で決める
・ PCC特約で洋画ファンを喜ばせ、学生の多いところから独特な雰囲気をもっていた
・ この後、新国町は日の出横丁と呼ばれるようになる
* 1935年(S10)3月20日、東一番丁(新国町)に開館
* 1940年(S15)12月からは東宝と提携、直営となった
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失し休館
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「仙台映画大全集」P451/「番丁詳伝」P131
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新国町/日の出横丁 |
新設 |
1902年(M35) |
東一番丁と国分町を結ぶ東西の小路(北側の玉沢横丁=現・広瀬通、南側の大町通りと平行)
* 1902年(M35)6月8日、新国町新設開通 / 屋敷の中を南北両側から、4尺5寸ずつの地所を出し合って幅9尺の私設街路をつくる / 両側に小店が並んだ(「東一番丁物語り」P120~123に店の配置やコメントあり) / 北側に16軒、南側に20軒)
* 大正時代は、“日陰町”とよばれさびれた
* 1932年(S8)3月、映画館「仙集館」付近より出火した火災(東一番丁大火)で新国町の大半が焼失
* 1932年(S8)、街路幅拡張
* 1932年(S8)5月、東一振興会が町名募集し、「日の出横丁」と決まる
* 1935年(S10)3月、映画館「日乃出映画劇場」開場
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「仙台市史 年表」P92/「東一番丁物語 明治編」P120~123/「番丁詳伝」P80、P108/「わが町昔がたり」P22
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位置は、98-110の地図で確認
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街灯(東一番丁中央部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁中央部(立町通角~大町通角の間)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置
・ 東一番丁通り中央部(立町通角~大町通角の間)の「スズラン灯」は1基5灯型(電球が球形と釣鐘型がある)
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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99-018、61-11、11-03、/傘が釣鐘型は、20-25、99-037
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街灯(東一番丁南部) |
戦前 4灯型 |
設置年不詳~1945年(S20)
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東一番丁南部(旧大通り地区=大町通角~南町通角の間)の街灯
戦前>
* 設置年不詳(ただし、S7年の絵葉書(20-37 藤崎西館完成記念)では、1基4灯型の街灯が写る)
・ 同じ東一番丁のスズラン灯でも、中央通(大町通)角を境に街灯の形が違った
・ 大町角以南の通称「大通り」は統一され、4灯タイプ(上1、下3)で、「わかもと」の遠景の宣伝看板がついていた
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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20-37、20-45、22-55、53-38、22-59、夜景は99-019、52-01
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映画館(戦後) |
中央劇場 |
1946年(S21)3月 |
東一番丁大通り(東一番丁84)に戦後できた映画館(700席、昭和映画)
* 「仙台映画大全集」では、S21年3月28日開場
* 「番丁詳伝」P211でも、S21年開場(洋画専門、のち日活、松竹、東映、新東宝の封切館となる / 跡地は「中央ビル」で地下に飲食、1階にそうご電気、6階まで事務所など入居
・ 昭和22年1月1日仙台市内映画館上映一覧に中央劇場「ターザンの猛襲」あり(「仙台市史 続編第2巻」P254)
* 「重訂 宮城県郷土史年表」P522では、S22年11月開場
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「仙台映画大全集」P454とP458/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254/「重訂 宮城県郷土史年表」P522
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44-29 /「仙台映画大全集」P455に中央劇場と周辺の写真あり
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錦章堂ビル |
竣工 |
1957年(S32) |
東一番丁通りに面し、三越の南手前にある小ビル(印舗の錦章堂ビル)はS32年に竣工
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錦章堂主人談
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22-61
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街灯(東一番丁北部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁通り北部(立町角以北)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置 / 通称「スズラン灯」(1基5灯型、電球の傘が筒型)
・ 写真 22-51 (三越付近)、 99-052 (栄亭付近)、 99-037 (富士屋洋品店付近)など
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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61-16、22-51、53-34、53-13、53-23、99-041、99-052
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森徳座 |
開業~焼失閉館 |
明治時代~1931年(S6) |
東一番町北部の森徳横丁角にあった
* 1977年(M10)、大新亭(別名、合唱亭)開座
* 1983年(M16)10月、中嶋座に改称
* 1884年(M17)11月、東座に改称
* 1892年(M25)10月、森民座に改称(M30年10月に活動写真興業)
* 1900年(M33)9月、森徳座に改称し活動写真で開座
<映画専門館となる>
* 1915年(T4)7月25日、錦輝館に改称 → のち森徳座と改称
* 1922年(T11)12月5日、森徳キネマに改称
* 1923年(T12)3月25日、森徳座に改称
* 1931年(S6)1月12日、失火焼失(全焼)し閉座(午後0時15分、試写中の映写機の故障で発火近くのフィルムに引火)、延焼はせず
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P352/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史/「東一番丁物語」(柴田量平著)P199~203/「重訂 宮城県郷土史年表」P424/「仙台年表」P202/「番丁詳伝」P23、P130、P142
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「目で見る仙台の歴史」P142(東一番丁森徳座付近)
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仙台市立病院 |
改築竣工~戦災焼失 |
1939年(S14) |
東二番丁の旧裁判所庁舎跡に建設
* 1939年(S14)11月19日、改築工事竣工
(鉄筋コンクリート造 4階建て一部5階、地下1階
5,211平方メートル 病床数170床)
* 後に増床も行われた
* 1941年(S16)6月、看護婦養成所開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、本館地下1階と1~2階の一部を残して焼失、黒こげの残骸となった / 入院患者190人を避難させたが、犠牲者6人 / 窓ガラスはなく病床にはワラ灰だけが残るベッドが並ぶ、まさに廃墟だったが、1~2階の一部を使用し、翌日から診療開始するが、医療機械器具、薬品なく、焼け跡からトタン板を拾って風を防いだ(「仙台市史 続編第1巻」P707~708)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P707~708/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 10 年表」P297/「番丁詳伝」P129
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35-14/「目で見る仙台の歴史」P163と「新・目で見る仙台の歴史」P145に「S14年新築された市立病院」
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東二番丁尋常小学校 |
設立 |
1973年(M6) |
東二番丁小学校は、1973年(M6)7月設立
名称の変遷
「二番小学校」1973年(M6)7月~
「養賢小学校」1875年(M8)6月~
「東二番丁小学校」1879年(M12)1月
「東二番丁尋常高等小学校」1892年(M25)8月~
「東二番丁尋常小学校」1916年(T5)4月~
「東二番丁国民学校」1941年(S16)4月~
「東二番丁小学校」1947年(S22)4月~
[写真73-04]の校舎は
* 1886年(M19)、建設
* 1945年(S20)7月、仙台空襲で焼失
その後の校舎は、
* 1948年(S23)3月、木造新校舎完成
* 1964年(S39)12月、鉄筋新校舎完成
* 1986年(S61)8月、校舎解体
* 1987年(S62)10月、新校舎完成(2018年現在の校舎)(Wikipedia「仙台市立東二番丁小学校」)
* 1987年(S62)12月22日、部屋境のない校舎完成(「続・ 宮城県郷土史年表」P234)
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「仙台巷譚第56号」(平成5年発行)に、仙台の小学校の変遷記述あり/Wikipedia「仙台市立東二番丁小学校」(2018年現在)/「続・ 宮城県郷土史年表」P210、P234
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73-04、73-06/「いつか見た街・人・暮らし」P78(入学式、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120(明治19年建設の校舎玄関付近)/「新・目で見る仙台の歴史」P138(東二番丁小学校同窓会記念写真、髪に大きなリボンを飾った女児たち)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年完成校舎)
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仙台市電 |
長町線 延長開通 |
1936年(S11)12月 |
東五番丁~荒町間
1926年(T15)11月25日開通
(仙台駅前~大町1丁目間と同時開通)
荒町~長町間4.2キロ
(S8年~S11年に徐々に延長開通)
1933年(S8)
2月12日、荒町~愛宕橋間
7月5日、愛宕橋~誓願寺通間
12月14日、誓願寺通~舟丁間
1934年(S9)
12月2日、舟丁~河原町間
1935年(S10)
8月21日、河原町~新河原町間
1936年(S11)
1月16日、新河原町~長町北町間
8月6日、長町北町~長町南町間
12月19日、長町南町~長町駅まで開通
12月24日、市電と秋保電車の連絡乗車券発売
* 1954年(S29)8月1日、この日から長町線と八幡町線が直通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P108/「仙台年表」P231
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36-01、201-30/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図84(S11年、土樋付近の市電線路と街並み)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(S8年、長町線土樋カーブでの架線工事)
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大学・短大 |
宮城教育大学 |
1965年(S40) |
東北大学教育学部教員養成課程を分離し、国立の宮城教育大学を設立
年表は → 項目「宮城教育大学」参照
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「市民の戦後史(仙台市)」P218(S43年10月、青葉山に完成した宮城教育大学校舎群)
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宮城教育大学 |
開校 |
1965年(S40)~ |
東北大学教育学部教員養成課程を分離し、国立の宮城教育大学を設立
* 1965年(S40)4月1日、国立宮城教育大学開校(東北大学富沢分校が仮校舎)、4月30日、東北大学川内記念講堂で入学式 / 小学校教員、中学校教員、盲学校教員各養成課程、および附属理科教育研究施設生物部門を設置
~ 以下、大学および大学院の各専攻科、各教員養成課程、付属研究センター、研究機構等の設置、名称変更、廃止などは、「国立大学法人宮城教育大学」HPの「沿革欄」参照~
* 1966年(S41)10月8日、宮城教育大学、青葉山裏久保田山に建設することが決定
* 1967年(S42)4月、 北七番丁の東北大学教育学部附属小学校、附属中学校及び附属幼稚園を、宮城教育大学に移管 / 同年6月、附属養護学校(小学部及び中学部)設置
* 1968年(S43)4月1日、仮校舎(太白区富沢字金山)から、荒巻字青葉久保田山に新築移転
* 1968年(S43)10月18日、全校舎等竣工落成
* 1969年(S44)、附属養護学校高等部増設
* 1971年(S46)、附属養護学校(仙台市青葉区上杉六丁目)を青葉区荒巻字青葉在地に移転
* 1988年(S63)、大学院教育学研究科(修士課程)設置 / 4月21日、大学院、初の入学式
* 1991年(H3)、情報処理センター設置
* 2000年(H12)、大学院教育学研究科(修士課程)夜間主コース設置
* 2004年(H16)、国立大学法人法により国立大学法人宮城教育大学発足
* 2005年(H17)、附属学校部設置
* 2007年(H19)、附属養護学校を附属特別支援学校に名称変更
* 2008年(H20)、大学院教育学研究科専門職学位課程高度教職実践専攻(教職大学院)設置
* 2010年(H22)、大学院教育学研究科(修士課程)夜間主コース廃止
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「国立大学法人宮城教育大学」HPの「沿革欄」/「仙台市史 年表」P124、P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P628、P631、P639、P643/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P338~339、P535~536
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P535/「新・目で見る仙台の歴史」P142
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