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東一番丁(大通り 昭和8~10年頃)
東一番丁(大通り 昭和8~10年頃)

分類項目 東一番丁(南部) 
タイトル 東一番丁(大通り 昭和8~10年頃) 
写真番号 22-55 
場所 仙台市東一番丁(大通り)
映像内容 絵葉書「(仙臺) 随一の繁華街。東一番丁南部」を複写 / 奥が北方向、アーチ看板「キリンビール」までが<大通り>で、そこが大町通りとの交差点になる / 道の両側に、街灯(1基4灯型で「わかもと」丸看板あり)
/ <道の左側>手前から、○屋○具店(内外タバコの看板)、広瀬菓子店、大一楽器(建物上部が三角)、その先のキリンビール看板左手前に一力邸(ここは戦後、東一番丁を横切る青葉通りの用地となった) (○は字が不鮮明で読み取れない)
/ <道の右側>手前から「中央マーケット」、順にゴム長、洋品店、窓掛敷物、メガネなどの看板、右奥のビルは「藤崎」(屋上に鯉のぼり) / 左奥に薄く見えるビルはキリンビール(昭和10年竣工、3階建て)?
/ 右端の「中央マーケット」には飲食店や娯楽施設などが集まっていた。奥には舞台がありさまざまな芸人が出演したが、中でも人気者だったのは、踊りなどが達者で女性よりも美しいと言われた女形の「文ちゃん」( 74-0174-0274-03 )だった 

<格安で人気だった喫茶ヒロセ>
 昭和10年位のことです。 (東一番町の大通りにある)広瀬蒲鉾店の1階では蒲鉾や魚を売っていたが、2階の喫茶では食事も出していた。 他より格安でおいしかった。ご飯とみそ汁、漬物がついて25銭位だった。 学生が多かった。私も食べたことがあります。 隣の「レディー洋裁店」の2階で洋裁を教えていたので習ったことがる。 その向かいの「白十字」にも学生が良く入っていました。
撮影年代 1933年(S8)春~1935年(S10)の間 
撮影年代判定根拠 ①右奥の藤崎(西館3階建)は昭和7年11月オープンだが、鯉のぼりがあるので、その翌年以降。   「わかもと」の発売は昭和8年から / ②大町交差点北西角の藤崎北売場(昭和10年12月開店)がまだない
関連情報/参考文献 【「仙台市大観」(昭和10年刊)P43】「大通りには一年を通じて毎夜、夜店が開かれ往来の人で夜の一番丁に一層の賑わいを呈し、傍らの中央マーケットには、コリントゲーム、玉突き、輪投げ、射的、演芸(無料公開など)あり、遊技場として昼夜雑踏を極めている。」

【「番丁詳伝」P211】<大一楽器>音楽ホールつきのビルで、杮落しは藤原義江のリサイタル、以後仙台の音楽愛好家の殿堂となった。店主夫人の「いとさん」は、番街三美人の一人と言われ、いつもきりっとした身嗜みで物故するまで店頭に立っていた

<青葉区・益田勝児さんの思い出 「東一番丁大通りの仲見世(戦前)」>
仲見世は大通りの道の真ん中に(南町通り角あたりから北にむけて南北方向に)小さな店が並んだ。 夏(8月の七夕まつりの前後)と冬(暮~正月に正月用品)だけ出た。 夏は風鈴など夏向きのものが売られ、店はあまり多くなかった。 冬は、神様の物、ダルマ、お正月の飾りなどで、その間には食べ物屋もあった。 店は2軒が背中合わせになり屋根はシートだった。 店は、昼も夜も出ていたが、カーバイドランプ(青い火)はけっこう明るかった。ランプの匂いが懐かしい。 旧正月には(仲見世は)南材木町に移り、そこには六郷、七郷の人たちが買いに来た。

<格安で人気だった喫茶ヒロセ> 
・ 青葉区のY.H.さん(大正8年生れ、女性)の思い出
 「昭和10年位のことです。 (東一番町の大通りにある)広瀬蒲鉾店の1階では蒲鉾や魚を売っていたが、2階の喫茶では食事も出していた。 他より格安でおいしかった。ご飯とみそ汁、漬物がついて25銭位だったとおもう。 学生が多かった。私も食べたことがあります。 隣の「レディー洋裁店」の2階で洋裁を教えていたので習ったことがる。 その向かいの「白十字」にも学生が良く入っていました」                      
備考 <石川さん(大正年14生まれ)の思い出 「中央マーケットと文ちゃん 74-03 」>
「私は小学校を昭和12年に卒業したが、その2~3年前から、毎晩風呂帰りに東一番丁を行ったり来たりして夜店をひやかし、中央マーケットに入って舞台をのぞいた。 / 夜店は戦前、夕方~夜にかけ大通りの真ん中にアセチレン灯をつけた店が出て、豆、バナナのたたき売り、七徳ナイフなどを売っていた。                                           / マーケットでは、舞台の間は、広沢虎造(初代)の浪花節のレコードなどを流していた。 時間が来ると幕があいて、文ちゃんの日本舞踊の他、漫才などが演じられた。 文ちゃんがでると「ぶんちゃん」という声がかかった。文ちゃんが踊る伴奏の三味線は文ちゃんの母で畠山という姓だったようだ (編者注:文ちゃんは三浦姓?)/夏にはマーケットの盆踊りがあり、文ちゃんは中心的な存在で踊っていた。」

<鈴木東吉さん(大正13年生まれ)1996年談> 
「中央マーケットの中の射的は5発で10銭、パチンコは玉1発で1銭(16歳以上しかできなかった)  奥の舞台(無料)では、文ちゃんの踊りや、人形芝居や時代劇もあった。文ちゃんが昼間暇なときに行くとお菓子をくれたり本を読んでくれたりした。普段から女装して化粧もしてきれいだった。男の人が好きで失恋して泣いていたこともあった。昭和5年から14年位まで活躍していた。」 
カラー/モノクロ モノクロ 
分類内の通し番号
画像ファイル名 sendai085 
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