項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
住宅団地 |
四郎丸団地 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)、市営住宅四郎丸団地(784戸)6か年に亘り建設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P603
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住宅団地 |
南光台団地 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)、南光台団地造成開始
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「仙台市史 年表」P122
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「市民の戦後史(仙台市)」P190
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住宅団地 |
旭丘堤団地 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)、旭丘堤団地造成開始
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「仙台市史 年表」P122
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住宅団地 |
中山ニュータウン |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)、中山ニュータウンの造成開始
* 1979年(S54)7月7日、中山商店街で100基の街路灯完成
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仙台市立中山小学校HP/「続・ 宮城県郷土史年表」P98
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住宅団地 |
将監団地 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)、泉町に造成開始(県開発公社がS50年にかけ造成)
* 1970年(S45)、県営住宅として、泉町に将監住宅412戸を建設
* 1972年(S47)2月、噴水池完成
* 1972年(S47)5月26日、公設小売市場オープン
* 1974年(S49)7月、18業者による協同組合公設小売市場完成
* 1978年(S53)5月20日、ファミリーデパート、オープン
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「新・目で見る仙台の歴史」P186/「仙台市史 年表」P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P667/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P10、P31、P81
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P91(S49年、将監公設小売市場)/「新・目で見る仙台の歴史」P186(H1年頃の将監団地、俯瞰カラー)
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住宅団地 |
向陽台団地 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)、向陽台団地、造成開始
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「仙台市史 年表」P126
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住宅団地 |
鶴ケ谷団地 |
1968年(S43) |
* 1964年(S39)9月、鶴ケ谷団地造成開始
* 1968年(S43)、仙台市は市営住宅鶴ケ谷第一、第二団地(1250戸)を3年間に亘って建築
* 1971年(S46)12月1日、鶴ケ谷ショッピングセンター開店
* 1971年(S46)12月10日、鶴ケ谷地区の地域冷暖房プラント完成
* 1971年(S46)12月16日、市営住宅40戸完成
* 1971年(S46)12月24日、公設小売市場オープン
* 1972年(S47)4月1日、鶴ケ谷郵便局開局、消防出張所設置
* 1972年(S47)4月、2つ目の幼稚園開園
* 1972年(S47)5月23日、鶴ケ谷市民センター一般開放
* 1972年(S47)11月、地域暖房の湯供給開始
* 1973年(S48)3月、鶴ケ谷住宅団地造成完成
* 1974年(S49)8月15日、団地に特別養護老人ホーム完成
* 1974年(S49)11月2日、トーコー鶴ケ谷ショッピングプラザがオープン
* 1975年(S50)5月、鶴ケ谷団地の大堤池にホタルの幼虫300匹放流(S49年から)
* 1980年(S55)12月、鶴ケ谷団地の店舗禁止規定解除
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「市民の戦後史(仙台市)」P148、P214/「重訂 宮城県郷土史年表」P645/「続・ 宮城県郷土史年表」P5、P8、P9、P13、P31、P34、P41、P120/「仙台あのころこのころ八十八年」P257
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「市民の戦後史(仙台市)」P149(団地完成予想図、まだ空き地が目立つ鶴ケ谷住宅団地空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P186(H1年頃、カラー鶴ケ谷団地/団地完成予想図)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図75~76(S43年、H9年空撮カラー)/同P186(鶴ケ谷団地土地利用図)/同P469(鶴ケ谷市民センターの利用案内)
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住宅団地 |
泉ニュータウン(泉パークタウン) |
1969年(S44) |
泉パークタウンは、泉町(1971年に泉市)の黒川丘陵上に三菱地所グループ(子会社を含む)が計画したニュータウン事業 / 住宅供給だけでなく、工業団地、ゴルフ場、スポーツ施設、大規模商業地区、大学等を含む複合開発事業
* 1969年(S44)、事業開始
* 1972年(S47)7月15日、生協チェーン泉向陽台店オープン
* 1974年(S49)から、高森地区で入居開始
* 1985年(S60)10月9日、スポーツガーデン1期工事落成式
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「仙台市史 年表」P126/Wikipedia「泉パークタウン」/「続・ 宮城県郷土史年表」P11、P195
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住宅団地 |
生出ニュータウン構想中止 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)11月29日、島野市長が生出ニュータウン構想中止を発表
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「続・ 宮城県郷土史年表」P15
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住宅団地 |
名取が丘ニュータウン |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)4月5日、名取市にオープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P18
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住宅団地 |
愛子団地 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)9月1日、発売(宮城町)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P32
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住宅団地 |
加茂団地 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)3月18日、起工式(泉市上谷刈赤坂)
* 1981年(S56)6月6日、公設小売市場開設
* 1988年(S63)4月、団地に加茂老人憩いの家完成
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「続・ 宮城県郷土史年表」P38/「続・ 宮城県郷土史年表」P130、P245
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住宅団地 |
みやぎ台ニュータウン |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)、宮城町に、みやぎ台住宅団地造成
* 1987年(S62)4月6日、みやぎ台簡易郵便局完成
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「続・ 宮城県郷土史年表」P221
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住宅団地 |
仙台南ニュータウン |
1976年(S51) |
* 1976年(S51)4月10日、分譲開始
* 1978年(S53)4月、団地内に公設市場オープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P53、P80
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住宅団地 |
茂庭住宅団地 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)10月16日、仙台市茂庭で起工式(鶴ケ谷団地に次ぐ規模)
* 1984年(S59)6月、団地内に中央公園完成
* 1987年(S62)5月7日、団地に茂庭台診療所開所
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「続・ 宮城県郷土史年表」P86、P178、P224
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住宅団地 |
花園ニュータウン |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)5月、利府町の大型団地花園ニュータウン造成工事起工
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「続・ 宮城県郷土史年表」P206
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住宅団地 |
シーアイタウン利府団地 |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)6月16日、利府町のシーアイタウン利府団地、造成着工
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「続・ 宮城県郷土史年表」P207
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住宅団地 |
国見ケ丘ニュータウン |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)9月18日、宮城町の国見ケ丘ニュータウン1期250区画完工式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P211
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住宅団地 |
利府ニュータウン(仮称) |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)5月23日、利府町に利府ニュータウン(仮称)起工式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P224
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住居番号表示制 |
開始年(全国/仙台) |
1962年(S37)/1965年(S40) |
* 1962年(S37)5月10日、住居番号表示制始まる
* 1965年(S40)4月1日、仙台市旭ヶ丘地区で新住居表示制度を実施(仙台市初)
・ 仙台市内各地区の新住居表示実施年一覧 → 項目「新住居表示制度(仙台)」
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P56
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体外受精(試験管ベビー) |
東北大学医学部 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)3月14日、東北大学医学部は、日本初の、試験管ベビー体外受精に成功、10月14日に日本初の体外受精児誕生
* 1985年(S60)11月10日、初の体外受精児(2歳28日)死去
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「続・ 宮城県郷土史年表」P160、P167、P196
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体育館 |
秋保体育館 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)、秋保体育館開館
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P286
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体育館 |
身障者体育センター |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)1月27日、原町小田原桝江に開館
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「続・ 宮城県郷土史年表」P36
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体育館 |
仙台市勤労者体育館 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)8月22日、卸町東に開館
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「仙台市史 年表」P132/「仙台市史 特別編4 市民生活」P286
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体育館 |
仙台市体育館 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)9月1日、富沢に開設
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「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P181/「仙台市史 特別編4 市民生活」P286
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「新・目で見る仙台の歴史」P194(外観と内部、カラー)
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俯瞰撮影禁止など |
禁止決定 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)12月12日の「軍機保護法」施行規則改正により、軍機保護のため、ビルや高台からの風景写真、俯瞰撮影を禁止
* 1944年(S19)8月3日、撮影禁止区域、全国的に拡大
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「日録20世紀 1939」P35/「週刊20世紀 1939」P27/「仙台年表」P213
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偕行社 |
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→ 項目「仙台偕行社」参照
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停電 |
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昭和20年代 |
* 1951年(S26)9月26日、県内一帯に緊急停電続く
* 1952年(S27)3月17日、北海道を除き電力制限解除(「菅家年表」P46)
<編者注> このほか、戦後(昭和20年代)には、全国的に停電が珍しくなかった / * 1946年(S21)3月6日、電力制限のため4日に1日停電(菅家年表) / * 1947年(S22)1月、全国的に隔日停電を実施
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「仙台年表」P222/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P40、P46
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健康都市宣言 |
仙台市 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)3月16日、健康都市宣言発表(島野市長2期目)
基本目標は、「人口集中、産業高度化、交通激化などに伴う問題を克服し、市民すべてが健康で文化的な生活を営むことのできる都市づくり」
・ 昭和39年以降、とくに工業化を先兵として拠点的地域開発がすすめられるであろうことを想定して、あらかじめ健康な仙台を保存して、開発と保存のバランスを前もってとることにした (「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P778)
* 1962年(S37)5月、健康都市建設協議会発足
* 1962年(S37)7月25日、市公会堂で第1回健康都市建設市民大会開催(1700人参加) / 以後毎月16日を「健康都市の日」と定め、4月~12月には早朝、市民総出で「町ぐるみ清掃」(町ぐるみで道路、広場、公園などの公共的場所の清掃)を8月16日から実施、第1回は78トンのごみ回収、第2回は倍の138町参加しごみ200トン、回ごとに参加町内は増えるがごみ量は急カーブで減少)
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P245に、3項目の目標、宣言文
* 1963年(S38)9月、第1回健康都市子ども大会(レジャーセンター)2400人参加 / 以後毎年開催
* 1963年(S38)9月8日、仙台市は健康都市の一環として「市民ラジオ体操会」開催
* 1965年(S40)8月8日、第1回「歩け歩け運動」(仙台市が実施)
* 1969年(S45)11月15日、仙台市が「健康都市仙台のあゆみ」刊行
・ 梅田川清掃運動(1964年10月)、広瀬川、六郷堀(1968年3月)、七号堀の清掃運動など各地に河川浄化運動が生まれ、1968年(S43)4月には連合組織として仙台市河川愛護会結成、この間下水道の普及もあって、市内河川の水質は目に見えて良くなり、アユがつれ、フナが泳ぐきれいな川が復活し全国からの見学に訪れるようになった → 項目「梅田川清掃運動」参照
・ 緑と花いっぱい運動へも発展 → 項目「緑と花いっぱい運動」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P115、P245~250/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P777~778/「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P604、P605、P609、P621、P654/「市民の戦後史(仙台市)」P138(町ぐるみ清掃)
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201-01/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P247~249に、「こども大会」、市民による「道路清掃」「六郷堀清掃」の写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P138(第4回健康都市建設市民大会、学童パレード、町ぐるみ清掃、市民ラジオ体操会、歩け歩け運動、花いっぱい運動の花壇)/「新・目で見る仙台の歴史」P190と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P428に「市民が横断幕掲げてパレード」
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億ション |
東北初 |
1989年(H1) |
* 1989年(H1)1月27日、東北初の億マンション「サンライズ東照宮ロイヤル別館」入居開始
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「続・ 宮城県郷土史年表」P258
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元気フィールド仙台 |
オープン |
2007年(H19) |
* 2007年(H19)6月開設 / 元気フィールド仙台(別称、仙台市新田東総合運動場)は、宮城県仙台市宮城野区にある運動場で、宮城野体育館、仙台市民球場の他、温水プール、アーチェリー場、ボルダリング室、スケートボードパークを備える
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「元気フィールド仙台」(2019年11月)
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光ヶ丘天使園 |
仙台版「少年の町」建設 |
1948年(S23) |
* 1947年(S22)5月、エドワード・フラナガン神父来仙
* 1948年(S23)3月、光ヶ丘天使園(仙台市東郊)起工式 / 前年のフラナガン神父来仙を契機とした仙台版「少年の町」 / その後、ラサールホームと改称
* 1948年(S23)12月26日、第1期工事完成
* 1950年(S25)5月、フラナガン神父来仙(宮城県盲学校で祈念植樹、キリスト教育児院、仙台天使園、聖母園、収容学園を視察)
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「市民の戦後史(仙台市)」P34/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P259
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S22年のフラナガン神父来仙は、「目で見る仙台の歴史」P185(盲学校を訪問したフラナガン神父)、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「市民の戦後史(仙台市)」P34/光ヶ丘のラサールホームは、「目で見る仙台の歴史」P194
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光化学スモッグ |
宮城県内 |
1973年(S48)以降 |
* 1973年(S48)8月17日、塩釜市に初の光化学スモッグ発生
* 1980年(S55)6月7日、仙台地区に5年ぶりに光化学スモッグ予報発令
* 1981年(S56)4月24日、光化学スモッグ注意報発令
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「続・ 宮城県郷土史年表」P22、P113、P127
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八木山ベニーランド |
開園 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)4月14日、仙台市八木山にある総合遊園地、八木山ベニーランド開園(所有者は株式会社エイトリー)
/ 前身は、1930年(S5)開園した「八木山遊園地」
( → 項目「八木山遊園地」参照)
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「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「仙台市史 年表」P125
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八木山橋 |
吊り橋、開通 |
1931年(S6)8月(11月?) |
八木山橋(吊り橋)は、八木久兵衛氏(仙台の味噌醤油製造業「紅久」経営者)が私費(3万1千円)を投じて昭和初期に行った八木山観光ルート開発の一つ
・ 深さ70メートルの龍の口渓谷をまたぎ、青葉城址(天守台)と八木山を結ぶルート上に架設し、仙台市に寄付した
・ 長さ107メートル、幅3.7メートルで、当時は宮城県下一のつり橋だった
* 1931年(S6)8月(11月)、開通(木造鉄柵吊り橋) / 「仙台市史 年表」P106では8月架設、 「重訂 宮城県郷土史年表」P429では11月開通
* 1937年(S12)、仙台市南光院丁某飲食店女中、初めて八木山橋から投身自殺す(「仙台年表」P208)
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「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P429/「仙台年表」P202、P208
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34-32、53-40、99-108、53-65、53-21、25-14、25-13/「新・目で見る仙台の歴史」P188/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図19~20(S8、S12)
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八木山橋 |
コンクリート橋 |
1965年(S40) |
* 1962年(S37)2月、八木山橋着工(「仙台城」P237)
* 1965年(S40)4月15日、新八木山橋成る / 全長117m、幅8.5m、高さ60m、旧橋より18m長く7m高し(「仙台城」P237)
* 1965年(S40)4月16日、コンクリート橋完成(全長117m、幅8.5m、デビダーク工法)(「重訂 宮城県郷土史年表」P619)
* 1971年(S46)10月1日、橋にネットを張る
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P619/「続・ 宮城県郷土史年表」P2/「番丁詳伝」P35
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「市民の戦後史(仙台市)」P171(建設中の八木山橋、完成開通した橋)/「新・目で見る仙台の歴史」P188/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図21~22(S40空撮、H9空撮カラー)
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八木山球場 |
開場 |
1929年(S4) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が所有する土地に私費を投じて建設し、宮城県に寄付し「宮城県営野球場」となる / 工費40万円
* 1927年(S2)9月、八木山球場を起工
* 1929年(S4)6月23日、開場(開場同日に宮城県に寄付し、「宮城県営八木山球場」となる(「仙台市史 年表」P105、「重訂 宮城県郷土史年表」P415、「宮城県の百年」年表、「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
* 1930年(S5)6月、八木山球場で、三田・稲門野球戦(三田は慶応大学、稲門は早稲田大学)
<開催された日米野球>
* 1931年(S6)11月10日、米大リーグ選抜対明治大学(米13-明治2) / 大リーグ選抜にはグローブ投手やゲーリッグらが参加( →「仙台はじめて物語」P235~241に詳述あり)
* 1934年(S9)11月6日、米大リーグ選抜と全日本選抜 ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ(「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
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「仙台市史 年表」P105、P107/「重訂 宮城県郷土史年表」P415、P420、P428 / 「新目で見る仙台の歴史 P155」/「仙台はじめて物語」P235~241/「仙台あのころこのころ八十八年」P70/「宮城県の百年」年表
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八木山遊園地 |
工事完了 |
1930年(S5) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が、所有する土地に私費を投じて野球場とともに建設し、遊園地(約10万坪)は7年後に仙台市に寄付した(八木山公園は一時、宮城県に寄付したが、昭和7年八木氏に返還され、9年4月に改めて仙台市に寄付された) / 公園には、野球場、遊園地、吊り橋、動物舎、散策路などがある(「仙台市史 本編2」P377)
* 1937年(S2)9月、起工
* 1930年(S5)4月、「八木山遊園地」と「公園」を開設(「仙台市史 年表」P105)
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」、仙台市に寄付される(「仙台あのころこのころ八十八年」P247)
* 1936年(S11)5月28日、「八木山遊園地」を仙台市に寄付(仙台市会が寄付採納可決)
* 1937年(S12)、仙台芸妓組合、八木山遊園地、沿道、紅葉ケ谷に桜800本を植栽し、仙台市に寄付(「仙台あのころこのころ八十八年」P248)
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「仙台市史 年表」P105、P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P415/「仙台あのころこのころ八十八年」P247、P248/八木山公園については、「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり
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八木山開発 |
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八木山は、もとは仙台藩士の共有財産だったが、明治初めに国有化され、大正年間に八木久兵衛氏の所有となった
八木山開発は、昭和初期、八木久兵衛氏が私費を投じて、自身が所有する仙台市八木山で行った一連の観光開発
<八木久兵衛(第4代)> 仙台の味噌醤油製造業「紅久」の経営者、「紅久」は藩政時代から、紅・小間物商、明治に入りみそ醸造開始、仙台市会議員、宮城貯蓄銀行、七十七銀行頭取、仙台商業会議所会頭(明治38年6月~大正7年9月)、大正7年6月貴族院議員(多額納税議員)、大正12年11月29日没(「重訂 宮城県郷土史年表」の該当年の記述より抜粋)
<八木久太郎(第5代久兵衛)> 八木山開発(昭和15年11月26日没)は第5代の手による / 私費を献じて仙台市電「芭蕉の辻線」を開通させた。
* 1929年(S4)6月23日、「野球場」を建設(同日、宮城県に寄付)
→項目「八木山球場」参照
* 1930年(S5)4月、「遊園地」と「公園」を開設(S11年5月28日、八木山遊園地を仙台市に寄付)
→項目「八木山遊園地」参照
* 1931年(S6)8月、竜の口渓谷に、「八木山橋」(木製鉄索、吊り橋)架橋、仙台市に寄付
→項目「八木山橋」参照
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」を仙台市に寄付
* 1936年(S11)11月、土居光知、薄田清が発起人となり、島崎藤村の詩碑(草枕)を建立(「番丁詳伝」P34) / 昭和42年、藤村詩碑を青葉城址へ移転
* 1937年(S12)、仙台芸妓置屋組合、芸妓の同意を得て寄付を募り、八木山遊園地に枝垂れ柳276本、沿道、紅葉ケ谷に、吉野桜524本を植栽し仙台市に寄付、動物園付近に桜樹植栽記念碑を建立(「仙台 あのころこのころ八十八年」P70、「番丁詳伝」P34)
* 1964年(S39)12月、八木山地区整理組合が発足し、宅地造成に入った
このほか、八木氏が仙台市に寄贈した土地に、
* 1965年(S40)に市が「八木山動物公園」を開園
→キーワード「八木山動物公園」で検索
<「仙台老舗百店史」P194~195「紅久」の記述>G1496
「天明3年(1783)から芭蕉の辻にあった紅・小間物商「紅久」が、明治16年、味噌醤油の醸造、販売も始め繁盛して得た資金で八木山を入手、八木山橋、野球場を建設し市に寄贈、また寄贈した土地に八木山動物園が建設された」
「番丁詳伝」P34~35にも、「紅久」「八木久兵衛」「八木山開発」について記述あり
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「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり/「仙台市史 年表」P105、P106、P108/「仙台 あのころこのころ八十八年」P70/「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「仙台市史10 年表」P283/「番丁詳伝」P34~35
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公会と隣組 |
発足~廃止 |
1940年(S15)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月15日、仙台市行政の下部機関であった区長制度を廃し、公会を全国に先駆けて創設 / 市内に341の公会を編成、学区に基づく18の連合公会に分属させた / 公会は直ちに隣組(約4300)を結成、戦時体制は市民生活に直接入り込んだ / 市では藤崎百貨店からの寄付で公会旗と連合公会旗を制定し、それぞれに交付した
「公会は、国民生活の地域的統制単位として、庶務連絡、生活物資の配給、公債の強制割当て、金属その他軍用物資の供出、防空演習、出征兵士の送迎、納税と貯蓄、特配物資の配給そのほか市民生活全般にわたることを実行した / 仙台市では「仙台市公報」を回覧板として配布、また付録として『公会通信』や『少国民通信』を配布」(「仙台市史 続編第1巻」P15、「仙台市史 特別編4 市民生活」P461)
・ (戦時下)いっそうの統制を達成するために、区制度や戸主会をはじめとする市民組織の合理的効率的な再編成が課題となっていった。それまでに、衛生組合・納税組合・町内会・部落会・契約講・戸主会・防火組合・青年団・婦人団体など多種多様な団体が、地域の必要によって結成されてきたが、それらの組織の複雑さを解消すべく、一貫した組織系統のもとに市民の体制を一元化しようと、渋谷徳三郎市長が提案
・ 内務省訓令「部落会町内会等整備要領」に基づき、1940年(S15)11月実施
・ 公会は、100~200戸程度を標準とし、区域内の世帯主と法人が会員、近隣の10戸程度で組、同一小学校区の公会で連合公会、公会には常会をおき重要事項以外の決定を行う。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P460)
* 1941年(S16)4月25日、「仙台市隣組行進曲」発表音楽会(仙台市公会堂)
「青葉城下の街々に銃後を守る手を組んで 助け合いましょう助けましょう
親和の誓いなごやかに 行くよわれらの隣組」
大政翼賛会仙台支部、仙台市、河北新報社が募集、審査員は土井晩翠ら5人
当選作は、宮城第一高女音楽教師古宇田明子の作詞、
これに市音楽担当視学 の海鋒義美が作曲
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51)
・6月に日本コロンビアからレコード化される
(唄 霧島昇・松原操夫妻、高橋裕子)
* 1941年(S16)9月15日、中田、六郷、七郷、岩切、高砂の5か村が仙台市に合併、全市の公会は400、連合公会は23になる / S18年11月、公会区域改訂で、168公会に統合
* 1941年(S16)7月1日、隣組の常会設置(「生活と風俗」P96)、全国の隣組一斉に常会を開く、ラジオ番組通じ、内務省、司会・指導(岩波ブックレット「年表 昭和史」P18)
* 1941年(S16)、ラジオ「常会の時間」(毎月1回)開始
* 1942年(S17)8月、公会なども大政翼賛会の指導下となる/ 同会県支部長が委嘱する世話役(公会長・連合公会長兼任)、世話人(隣組長兼任)を置き、各公会、隣組の常会を指導し大政翼賛運動の徹底をはかる仕組みとなる
* 1943年(S18)2月3日、仙台市隣組回覧板発行
* 1943年(S18)11月12日、公会を164に統合して連合公会を廃止
* 1947年(S22)4月1日、仙台市が公会制度を廃止(公会177、隣組4,584) / 旧泉市、旧宮城町、旧秋保町の部落会や隣組も同時期に廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P14~18、「仙台市史 特別編4 市民生活」P460~463に、仙台市の公会について記述あり
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18、P26/「市制八十周年記念 仙台の歴史」P147/「仙台市史 年表」P110、P111、P112、P114/「仙台市史10 年表」P305、P315/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51
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公会の慰安演芸大会は、06-17、06-11など写真分類G-27-03の全写真/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P15に、「仙台市公報」「公会通信」「少国民通信」の写真/「目で見る仙台の歴史」P169に「隣組回覧板」/「新・目で見る仙台の歴史」P172(配給を受けようと並ぶ人の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(S16年、こども隣組双六)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P461(S16年、木町通り第一公会第十八隣組栄養食共同炊事場、S16年外記丁隣組の炊事風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P462(S17年東裏丁公会の金属供出の様子、S18年仙台市隣組回覧板)
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公害・環境問題 |
(1) |
966年(S41)~1970年(S45) |
* 1966年(S41)3月29日、仙台市の梅田川浄化運動大会
* 1969年(S44)5月23日、政府、初の公害白書を発表
* 1970年(S45)8月21日、東北電力株式会社と七者協(仙塩地域七自治体公害防止協議会=宮城県・仙台市・塩釜市・名取市・多賀城市・七ヶ浜・利府町で構成)との間で、新仙台火力発電所に関する公害防止協定調印
* 1970年(S45)9月22日、公害市民憲章、仙台市が全国で初めて制定
* 1970年(S45)12月18日、公害関係14法案成立(公害対策基本法の「経済との調和」条項削除)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P49、P50/宮城県環境対策課HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/仙台市史 年表」P127
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公害・環境問題 |
(2) |
1971年(S46)~1973年(S48) |
* 1971年(S46)3月18日、宮城県公害防止条例公布
* 1971年(S46)4月1日、宮城県に公害対策局を新設、県工業技術センターの公害防止部を新設
* 1971年(S46)6月14日、東北石油会社(仙台新港)と、宮城県、仙塩7市町との間に、仙台製油所に関する公害防止協定調印
* 1971年(S46)7月5日、宮城県選出の自民党大石武一衆院議員が初代環境庁長官に就任
* 1971年(S46)8月9日、鉄鋼社石巻工場と、県・石巻市・矢本町が公害防止協定調印
* 1971年(S46)10月31日、仙台市ガス局原町工場が公害で操業停止
* 1971年(S46)11月25日、公害防止条例、仙台市が公布
* 1971年(S46)12月、仙台市で大気汚染観測基地設置
* 1972年(S47)5月26日、閣議、初の環境白書を了承
* 1972年(S47)6月1日、県庁北庁舎屋上に大気汚染仙台測定所(業務開始)
* 1972年(S47)6月3日、広瀬川でアユ大量死
* 1972年(S47)6月22日、自然環境保全法公布、大気汚染防止法・水質汚濁防止法各改正公布(公害無過失損害賠償責任法)
* 1972年(S47)8月29日、騒音規制地域に県内7市と岩出山町指定
* 1972年(S47)10月、泉市が泉ヶ岳のブナを製紙会社から買い戻し保護
* 1972年(S47)11月、東北地建、北上川下流汚染を4年前の4倍強と発表
* 1973年(S48)3月27日、杜の都の環境をつくる条例、仙台市で施行
* 1973年(S48)8月、自然保全地域第1次に、伊豆沼、仙台湾海浜、太白山、釜房湖など指定
* 1973年(S48)10月27日、産業廃棄物処理センター落成(日の出町3丁目)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P52/宮城県環境対策課HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P671、P675、P677/「続・ 宮城県郷土史年表」P1、P5、P10、P12、P14、P15、P22、P23/「仙台市史 年表」P127、P128
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「市民の戦後史(仙台市)」P101(ガス局原町工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P194(仙台市上空を覆うスモッグ空撮)
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公害・環境問題 |
(3) |
1974年(S49)以降 |
* 1974年(S49)5月、仙台市上水道水源の釜房湖にプランクトン発生
* 1974年(S49)7月、仙台市で、騒音・振動公害測定車始動
* 1974年(S49)9月28日、広瀬川の清流を守る条例、仙台市が制定
* 1975年(S50)4月、蒲生干潟のヘドロ減少を県が報告
* 1975年(S50)5月、鶴ケ谷団地の大堤沼にホタルの幼虫300匹放流(S49年から)
* 1975年(S50)6月5日、「杜の都の環境をつくる条例」に基づき、保存緑地28か所指定
* 1975年(S50)8月16日、仙台市清掃局、不要品あっせんコーナー開設(当時は全国でも珍しかった)
* 1975年(S50)11月25日、塩釜市の小野田セメント・日本セメント・三菱セメントは、公害防止協定結ぶ
* 1976年(S51)8月2日、北山輪王寺庭園に、ゲンジボタルの幼虫と卵7000匹放流
* 1984年(S59)5月25日、仙台市に、空き缶空き瓶選別センター発足
* 1985年(S60)12月5日(18日?)、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制)
* 1986年(S61)4月1日、宮城県スパイクタイヤ対策条例(脱スパイク条例)施行 → 項目「スパイクタイヤ粉塵公害」参照
* 1986年(S61)5月4日、蔵王のブナと水を守る会発足
* 1986年(S61)5月28日、仙台市沖野に、六郷・七郷の環境をよくする会結成
* 1988年(S63)6月2日、スパイクタイヤ、1990年12月までに製造を中止
* 1996年(H8)3月、仙台市環境基本条例、制定
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「続・ 宮城県郷土史年表」P30、P31、P40、P41、P42、P43、P47、P57、P177、P198、P204、P205、P206/「仙台市史 年表」P129/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P79、P84/仙台市HP「仙台市環境基本条例」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業)
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公害市民憲章 |
全国初、制定 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)9月22日、仙台市が全国で初めて制定
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「仙台市史 年表」P127
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公害防止条例 |
公布 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)11月25日、仙台市が公布
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「仙台市史 年表」P127
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公民館 |
仙台市公民館/仙台市中央公民館/市内各地区の公民館 |
1946年(S21)~ |
<仙台市公民館 → 仙台市中央公民館>
* 1946年(S21)10月1日、民主団体を主体に仙台市の助力により「仙台公民館」を設置(大町頭の仙台医師会館内に)/11月12日開館(「仙台市史10 年表」P314では、名称が「仙台市公民館」)
* 1950年(S25)11月、仙台公民館を発展解消して「市立仙台公民館」を常盤丁1番地に設置(仙台市公会堂に併設、12月17日開館式)(仙台市公会堂に併設)
* 1973年(S48)3月、「仙台市公民館」を、「仙台市中央公民館」と改称
* 1983年(S58)4月10日、仙台駅東口に完成したパルシティー仙台内に移転開館
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仙台市内各地区の公民館
・ 市民の教養講座や、趣味の活動、文化事業、スポーツ・レクリエーション活動の主たる担い手
<新築移転した学校の旧校舎と体育館を使用し開設>
* 1967年(S42)、長町公民館
* 1968年(S43)、高砂公民館
* 1969年(S44)、中田公民館
・ 地域住民による公民館運営管理協力委員会設置され、住民意向を反映、警備や清掃を業務委託
<その後の公民館の開設年>
* 1972年(S47)、八乙女公民館
* 1976年(S51)、熊ヶ根に宮城西公民館
* 1977年(S52)、馬場公民館
* 1978年(S53)、将監公民館
* 1979年(S54)、湯元公民館、南光台公民館
* 1982年(S57)、岩切公民館
* 1983年(S58)、七郷公民館、加茂公民館
* 1986年(S61)、柏木公民館
* 1988年(S63)、一番町公民館
<仙台市に合併前の各市町村の公民館>
* 1949年(S24)9月以降、県内各市町村に「市町村立公民館」を設置
* 1949年(S24)、生出村に公民館設置(1956年より仙台市公民館生出分館に)
* 1951年(S26)4月、秋保町に公民館(16分館)
* 1955年(S30)2月、宮城町に公民館設置(25分館)
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「仙台市史 年表」P128、P133/「重訂 宮城県郷土史年表」P513~514、P537、P545/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P453~455/「仙台市史 特別編4 市民生活」P285~286
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パルシティーは、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P117(S62、カラー、ブルーの網かかったビルの左隣)
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公職追放/追放解除 |
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1946年(S21)~1947年(S22) / 1950年(S25)~1951年(S26) |
* 1946年(S21)1月4日、GHQ、軍国主義者等の公職追放および超国家主義団体27の解散を指令
* 1947年(S22)1月4日、公職追放令改正、財界・言論界・地方公職に拡大
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* 1950年(S25)11月10日、旧軍人初の追放解除、3250人
* 1951年(S26)6月20日、政府、第1次追放解除発表、石橋湛山、三木武吉や政財界人2958人
* 1951年(S26)8月6日、政府、第2次追放解除を発表、鳩山一郎ら各界1万3904人
* 1951年(S26)8月16日、政府、旧陸海軍正規将校1万11885人の追放解除を発表
* 1951年(S26)9月8日、政府、GHQの承認を得て、旧特高警察関係336人の追放解除を発表(この日、対日講和条約・日米安全保障条約調印)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P25、P26、P29、P30
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公設浴場 |
設置 |
1921年(T10) |
* 1921年(T10)9月10日、宮城県が公設浴場を木町通に設置
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「仙台市史 年表」P100
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (1)明治期 |
1894年(M27)~1901年(M34)/1904年(M37)~1908年(M41) |
軍隊に志願する青年の育成勧誘、兵役に就く者およびその家庭への援助・救援活動、出征兵士の歓送迎、祝賀行事、戦病死・負傷者に対する弔慰行事などを行う民間の組織体で、軍の意向に応じて、行政機関と地域の有力者を中心に結成された
<仙台市兵事義会、日清戦争契機に結成>
* 1894年(M27)7月29日、仙台市兵事義会結成(7月25日日清戦争勃発、8月1日に正式宣戦布告)
・ 日清戦争開始を契機に、市内有力者や勝間田稔県知事の要望により結成 / 会長は遠藤庸治仙台市長、市役所が事務所 / 里美良顕、伊沢平蔵、岩崎総十郎、藤崎三郎助、早川智寛らの幹事と若干名の常議員によって運営
・ 経費は義援金で、地区の有力者を勧誘委員に任命 / 地方税中の戸数割負担が中等以上の8869戸に勧誘状を送り、金の出納は七十七銀行と仙台銀行に委託 / 6121名から1万1497円42銭7厘と、刀剣1060振が寄付された
・ 事業は、軍隊の歓送迎や便宜の供与、従軍者および戦病死者家族の保護援助、軍功をあげた者の顕彰など
・ 市が募集した従軍人夫156人へ衣料類の支給、市出身の将校・兵士に対する餞別、歓送迎行事への動員と祝賀会費用、傷病兵慰問、戦病死者の合同慰霊祭や弔慰金
・ 仙台市から招集された従軍兵士247名のうち、兵事義会の保護援助を必要とした家庭が約100戸(支出6621円)、援助不要家庭104戸、他は病気などにより入営未定の者
* 1901年(M34)1月、仙台市兵事義会解散
<仙台市兵事義会、日露戦争戦争を前に再興>
* 1904年(M37)1月12日、仙台市兵事義会、日露戦争を前に第二師団司令部の要望で拡大再興(2月10日から日露戦争)
・ 寄付金、団体・個人8511名から3万864円31銭7厘
・ 仙台市出身兵1508名出征 / 戦病死は134名(将校52名、下士官・兵卒82名)
・ 保護援助を必要とした下士官・兵卒の留守家庭は347戸 / 救援は米の贈与が中心 / 生活困難な従軍兵士家庭の婦女子は、兵事義会が開設した付属工場などで、陸軍使用の軍服などの縫製作業、マッチ製造、封筒製造に従事(工賃は僅か)
* 1908年(M41)、仙台市兵事義会、活動休止
* 兵事義会がまた活発な動きを始めるのは昭和の戦争期
<大沢村の兵事組合>
* 1889年(M22)、結成(第二師団発足の翌年) / (仙台市は任意加入だが)大沢村は全戸強制加入で、経費の半分は村税中の等級別個別割り、半分は戸数均等割りで徴収
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P301~302に、大沢村と秋保村の詳細記述あり>
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「仙台市史 年表」P89、P91、P92/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300~303
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P302(長町停車場で日清戦争出征見送り)、P303(日清戦争第二師団帰還出迎え)、P306(日露戦争から帰還する兵士を迎える市民たち)
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (2)日中戦争期 |
1337年(S12)~1939年(S14)3月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入
* 1337年(S12)7月17日、仙台では、市内の各種団体、在郷軍人会、農家組合、銀行などの代表者、市会議員、商工会議所議員が集会し、第二師団留守司令官、県や市の吏員が臨席して、戦時体制に備える「銃後」の物資動員懇談会を開催
* 1337年(S12)9月、仙台市兵事義会が国の軍事扶助法を補助するという趣旨で、3万8000円の募金計画 / 愛国婦人会・国防婦人会・女子青年団員らが街頭募金、新聞社の飛行機が5万枚のビラを撒き、小学児童も4万枚のビラを配布、交通整理員がメガホンで宣伝しながら自動車5台で3万枚のビラを配布、さらに各区長の指揮のもと、役員が各戸をまわって募金 / 9月1日からの「銃後週間」中に、すでに5万円に達しようとする勢いであった
・ このころから、兵事義会の活動は経済的援助に集中
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315
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