項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
人力車 |
台数ほか(仙台) |
明治・大正・昭和 |
* 1872年(M5)、新河原町で人力車営業が開始(伊藤清次郎と清水稔)(「仙台市史 年表」P80、「仙台市史 特別編4 市民生活」P192)
* 1873年(M6)、国分町の竹虎が開業(10台保有)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P192)
<「仙台あのころこのころ八十八年」P16>
* 1878年(M11)、市内に671台(大部分が営業用)
* 1980年(M13)、市内に755台
・ 人力車は当時の花形であり、隣県の業者と連絡して継ぎたてをしてゆくと、仙台から6日間で東京へ行けた
* 日本鉄道(現・東北本線)開業の明治20年頃、559台に減る(「番丁詳伝」P110)
<「番丁詳伝」P63より>
* 1889年(M22)、一人乗り596台、二人乗り8台
* 1897年(M30)、一人乗り1050台、二人乗り5台
* 1905年(M38)、一人乗り977台、二人乗り2台
* 1916年(T5)、一人乗り1055台
* 大正時代末期には、仙台の人力車は900台ほど / 市電開通(大正14年末)やバスの普及で減る(「新・目で見る仙台の歴史」P146)
* 1930年(S5)には327台(「番丁詳伝」P110)
* 1935年(S10)頃、210台({仙台の産業と観光」P27)
* 1941年(S16)10月4日、15年ぶりに人力車復活(「仙台年表」P211)
<「仙台市史 続編1」P88より>
・1943年(S18)、197台
・1944年(S19)、169台
・1945年(S20)、69台
・1946年(S21)、40台
* 戦後しばらくも人力車が活躍
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194/「仙台市史 年表」P80、P211/「新・目で見る仙台の歴史」P146/「仙台年表」P211/「仙台あのころこのころ八十八年」P16/「仙台の産業と観光」(S11、仙台市役所刊)P27/「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)P110/「仙台市史 続編1 行政建設編」P88
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99-004、22-44、19-02、16-21、22-10、44-50、22-12、16-19/「新・目で見る仙台の歴史」P146(人力車のある風景))/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193に人力車
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人力車 |
台数ほか(宮城県内) |
明治・大正・昭和 |
* 1878年(M11)、1人乗り1861台、2人乗り243台
* 1882年(M15)、1人乗り2477台、2人乗り216台
* 1891年(M24)、297人の営業者、2011人の挽子
* 1912年(T1)、2074台
(314人の営業者に1525人の挽子/自営の挽子630人)
* 1918年(T7)、1720台
* 1925年(T14)、1366台
・ 賃銭(乗車賃)→ 1877年(M10)、1891年(M24)、1926年(T15)時点の賃銭の記載あり
・ 昭和期には、次第に自動車に座を譲るが、ゴムタイヤを採用した黒漆地金蒔絵の高級車は花嫁行列などにはよく利用された
・ 第二次大戦後、人力車は急速に姿を消すが、作並や秋保などの温泉地ではかなりあとまで残っていた
・ 戦後は一時、輪タク(リンタク)が、占領軍兵士を顧客としていた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194
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16-27(輪タク)
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仁丹マーク |
発表 |
1905年(M38) |
* 1905年(M38年)2月、「仁丹」、日露戦争最中に懐中薬として発売
・ 大礼服でデザインされた「仁丹マーク」は、発売当初の容器や宣伝看板のデザインとして使われている
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森下仁丹のHP
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44-19
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仏舎利塔 |
落慶 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)5月21日、荒巻国見台で仏舎利塔落慶
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「続・ 宮城県郷土史年表」P29
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仙台CIE図書館 |
開館~廃止 |
1948年(S23)~1952年(S27) |
CIE図書館は、日本の敗戦後に連合軍総司令部(GHQ/SCAP)の一組織の民間情報教育局(CIE)が、日本の民主化非軍事化を目的とし、全国に23館を設置。 民主主義の普及や米国の生活様式など、多岐にわたる図書・雑誌・映画フィルムのほかレコードや楽譜、パンフレット類をおき無料で貸し出した。
* 1948年(S23)5月23日、仙台CIE図書館、斎藤報恩会館内に設置(日本で8番目のCIE図書館だった)
* 1952年(S27)5月1日、「仙台アメリカ文化センター 」と改称
1946年(S21)にCIEがアメリカ教育使節団の手引書として刊行した『日本の教育』(Education in Japan) では、CIE図書館の目的について『日本の文筆家・学者・官僚・政治家・諸団体ならびに一般人を対象に、国際関係や第二次世界大戦についての参考資料や書物を提供し、米国の慣習・法律・社会・政治機構に根ざす活動や政策の実態を知らせようとするもの』と述べている(関連情報欄の三浦太郎論文より引用)
サンフランシスコ講和条約発効(1952年)に伴い GHQ/SCAP は解散し、全国23か所にあったCIE図書館は廃止、このうち仙台など13都市にあったCIE図書館が米国国務省に移管され、1952年(S27)5月1日から「アメリカ文化センター 」(ACC) と改称
→ 項目「仙台アメリカ文化センター」参照
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「仙台市史 年表」P115、P117
/三浦太郎、2005年、「占領下日本におけるCIE第2代図書館担当官バーネットの活動 (PDF) 」 、『東京大学大学院教育学研究科紀要』45巻、東京大学、NAID 110006389820 pp. 267-276
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仙台の裁判所 |
仙台区裁判所 |
1876年(M9) |
仙台地方裁判所に併設されていた
・ 地方裁判所は宮城県全体を管轄
・ 区裁判所は、仙台市と周辺部の郡を管轄し、民・刑事の比較的罪の軽い事件や和解、調停や、刑事の略式手続、登記と戸籍などを扱う
* 1876年(M9)4月13日、「仙台区裁判所」設置
* 翌1877年(M10)、東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成
* 1881年(M14)10月6日、「治安裁判所」に改称
* 1890年(M23)11月1日、再び「区裁判所」に改称
* 1924年(T13)区裁判所は、仙台地方裁判所とともに、片平に移転(片平の宮城控訴院と合同庁舎となった)
☆ 東二番丁の「木造2階建庁舎」(写真99-096) は、地方裁判所・区裁判所が、1924年(T13)に片平丁に新築された「宮城控訴院」との合同庁舎(赤タイル張り洋館)に移転した後に改造され、1930年(S5)~1939年(S14)の間、仙台市立病院が使用 / 1939年(S14)にこの地に市立病院が鉄筋コンクリートの病院を新築する際に取り壊された
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城百科事典」P577、P597/「明治の洋風建築~宮城県~」P28~29/「新・目で見る仙台の歴史」P122
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99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117(東二番丁時代の庁舎)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(仙台区裁判所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P139(仙台区裁判所)
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仙台の裁判所 |
仙台地方裁判所 |
1876年(M9) |
地方裁判所は宮城県全体を管轄 / 仙台区裁判所を併設していた
* 1876年(M9)3月2日、「宮城裁判所」開庁(仙台地方裁判所と仙台地方検察庁の前身)
* 同年9月13日、「宮城裁判所」を廃止し、「宮城上等裁判所」(宮城控訴院、宮城高等裁判所の前身)と「一ノ関裁判所」(宮城・岩手両県を管轄)を設置
* 同年11月24日、「一ノ関裁判所」を仙台に移し、「仙台裁判所」(仙台地方裁判所の前身)を設置
* 1877年(M10)に東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成(仙台区裁判所と仙台裁判所の庁舎)
* 1881年(M14)10月6日、「仙台裁判所」を「仙台始審裁判所」と改称
* 1890年(M23)11月1日、「仙台地方裁判所」に改称
* 1924年(T13)、「仙台地方裁判所」は、併設の「仙台区裁判所」とともに、片平丁に移転(宮城控訴院との合同庁舎がT13年竣工 / 秋保石積赤タイル張り洋館)
<戦後>
* 1947年(S22)5月3日、仙台地方裁判所、仙台簡易裁判所設置 / 裁判所法、検察庁法が成立し、それまでの裁判所に付属していた検事局を分離し、仙台地方検察庁設置
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎) / 旧庁舎(赤タイル張洋館)はS50年9月に解体開始
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「仙台市史 年表」「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
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99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117に、『東二番丁時代の庁舎』
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仙台の裁判所 |
宮城上等裁判所/宮城控訴裁判所/宮城控訴院/仙台高等裁判所 |
1875年(M8)/1881年(M14)/1886年(M19)/1947年(S22) |
控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する
<宮城上等裁判所>
* 1876年(M9)9月13日、大審院が「宮城上等裁判所」を仙台に設置
* 1879年(M12)、片平丁に、宮城上等裁判所建築(ルネッサンス式、漆喰塗) / <編者注> 出典の「新・目で見る仙台の歴史」P122キャプションには、仙台上等裁判所となっているが、「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表によれば、仙台上等裁判所と称した時代はなく、宮城上等裁判所が正しいと思われる
<宮城控訴裁判所/宮城控訴院>
* 1881年(M14)10月6日、「宮城控訴裁判所」に改称(ルネッサンス式2階建て)
* 1886年(M19)5月4日、「宮城控訴院」に改称
* 1904年(M37)11月15日、片平丁の宮城控訴院構内を焼失
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」
<仙台高等裁判所>
* 1947年(S22)5月3日、「仙台高等裁判所」設置(裁判所法、検察庁法成立 / それまでの宮城控訴院に付属していた検事局を分離し、仙台高等検察庁設置
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・ 宮城県郷土史年表」P44)
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎)(「続・ 宮城県郷土史年表」P74)
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P274、P331、P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
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「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-01、13-02、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館)
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仙台の裁判所 |
仙台家庭裁判所 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)1月1日、発足(片平丁大町頭) / 旧少年審判所を併合して少年問題や家庭に関する調停・審判にあたる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P532/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P808
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「目で見る仙台の歴史」P194/「市民の戦後史(仙台市)」P40
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仙台の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(3) |
1960年(S35)~1968年(S43)頃 |
・ 連続の豊作記録と、消費の拡大によって、S34年のはじめから拡大をはじめていた東北の経済は、35年も引き続き高水準の成長を示し、民間企業317工場の設備投資額が、S33~35年には、毎年2倍くらいずつ伸び、事業所得も順調に伸長した。このような景気上昇を支えていたのは、いぜんとして農村を中心とする消費需要であった。
・ 昭和37年は、東北は全体として鉱工業生産の若干の伸び悩みがみられたものの、米の連続豊作や底堅い消費によってささえられている仙台の経済活動はますます活発になったのであり、その中で中央資本と結びついた大型スーパーの進出が相次いだ。
・ 日本経済は、昭和39年~40年に戦後最大の不況を迎えるが、当初は影響はそう大きくなく、昭和38年もまた連続豊作が続き農村での堅調な消費が、年末から再び行われた金融引き締めによる鉱工業生産の出荷のびなやみを大幅にカバーすることになった。
・ しかし、工業製品の出荷や在庫の動きを手始めに、次第に景気後退があらわれ、39年秋には企業倒産が深刻、不渡り手形も激増、市内百貨店の売り上げ増も39年12月は前年同月の8%増にとどまり、米代金の流入停滞や漁業不振も重なり、東北にも不況の波が押し寄せた。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P745~762の「第九章第三節 景気と金融の三 飛躍への道」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
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仙台アメリカ文化センター |
開館~閉館 |
1952年(S27)~1971年(S46) |
サンフランシスコ講和条約発効(1952年)に伴い GHQ/SCAP は解散し、全国23か所にあったCIE図書館は廃止、このうち仙台など13都市にあったCIE図書館が米国国務省に移管され、1952年(S27)5月1日から「アメリカ文化センター 」(ACC) と改称 →参照 項目「仙台CIE図書館」
* 1952年(S27)5月、仙台CIE図書館が、「仙台アメリカ文化センター」(ACC)と名称変更し、引き続き斎藤報恩会館内に置かれた
* 1968年(S43)、東二番丁の長期信用銀行ビル4階に移転
* 1971年(S46)3月31日、閉館(「重訂 宮城県郷土史年表」P677では、「6月末閉館」)
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石原眞理「岐阜女子大学紀要 第47号 (2017.10.)「CIE 図書館及びアメリカ文化センター資料に関する研究:仙台アメリカ文化センター及び横浜アメリカ文化センター
旧所蔵資料の調査を基に」/「仙台市史 年表」P117、P126、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P677
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「市民の戦後史(仙台市)」P63
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仙台オープン病院(旧・鶴ケ谷オープン病院) |
開院/名称変更 |
1976年(S51)/1986年(S61) |
仙台市と仙台市医師会が協力して設立した、公益財団法人仙台市医療センターが運営する全国初の公設民営方式の病院
* 1976年(S51)2月1日、「鶴ケ谷オープン病院」診療開始
* 1980年(S55)6月6日、新館病棟完成
* 1986年(S61)3月、救急センター竣工(6月、診療開始)
* 1986年(S61)4月1日、「鶴ケ谷オープン病院」を「仙台オープン病院」と改称
* 1998年(H10)9月、地域医療支援病院承認(全国第一号承認)
* 2018年(H30)2月、新救急センター棟竣工
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「仙台市史 年表」P130、P134、/「続・ 宮城県郷土史年表」P50、P113、P193/仙台オープン病院HP
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仙台ショーハウス |
建設 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)4月、仙台市制60周年を記念し「仙台復興祭グランドフェア」が西公園で開催、これにあわせて、仙台駅付近(南町通り角)に河北ショーハウスが建設された
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「仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)」
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16-29/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P21
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仙台スタジアム |
オープン |
1997年(H9) |
* 1997年(H9)6月、「仙台スタジアム」が、泉区七北田にオープン / 2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」
サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールの専用公式競技場として誕生 / サッカーのベガルタ仙台のホームスタジアム
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Wikipedia「仙台スタジアム」(2019年9月)
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仙台トラック輸送センター |
開業 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)11月、仙台トラック輸送センター、仙台流通センター地区内に開業(「続・ 宮城県郷土史年表」P16では、仙台トラック事業協同組合が12月完成)
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「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P16
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仙台バイパス |
開通 |
1964年(S39)~ |
仙台バイパスは、仙台都市圏を南北に縦断するバイパス道路 / 柴田町四日市場~泉町(のちの泉区)七北田間の33.8キロ / 国道4号・国道6号・国道47号の一部であり、途中、苦竹ICで国道45号と接続する4車線(一部6車線)道路
* 1941年(S36)10月13日、仙台バイパス工事着手(四日市場~市名坂間34キロ)
* 1962年(S37)、仙台バイパス着工
* 1964年(S39)4月、岩沼~仙台市郡山(籠ノ瀬)間(10.3㎞)の供用開始
* 1966年(S41)3月4日、千代大橋(広瀬川)開通、橋長310m、橋幅19.5m
* 1966年(S41)4月6日、籠ノ瀬~苦竹間(7.4km)、供用開始 / これにより、柴田町四日市場~仙台市苦竹間(24km)使用開始(苦竹は、国道45号線との交差点)
* 1970年(S45)4月24日、苦竹~七北田間、暫定2車線で供用開始
* 1974年(S49)11月1日、苦竹~七北田間、4車線で開通
* 1974年度(S49年度)、苦竹ICの立体交差完成により、岩沼(梶橋交差点)~泉区(泉交差点)間(26.6km)、4車線で供用開始
* 1982年度(S57年度)南有料取付 - 苦竹IC間 (8.0 km) を6車線で供用開始
* 2007年(H19)3月20日、苦竹IC~山崎交差点間(2.2km)を6車線で供用開始
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P155、P295/「仙台市史 年表」P123、P124、P127、P129/「重訂 宮城県郷土史年表」P602、P625、P660/Wikipedia「仙台バイパス」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P408
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「市民の戦後史(仙台市)」P192~193(S41年4月仙台バイパス市内中田付近空撮、国道45号線とのインター予定地空撮、車行き交うバイパス空撮)
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仙台フィルハーモニー管弦楽団 |
改称 |
1989年(H1) |
* 1989年(H1)4月1日、宮城フィルハーモニー管弦楽団が、仙台フィルハーモニー管弦楽団と改称
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「仙台市史 年表」P135
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仙台ホテル |
仙台ホテル開業 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)5月15日、仙台ホテル開業式挙行(「仙台市史10年表」P210)
<編者注> 大泉旅館が仙台駅前に、大泉支店の建物とは別に、「仙台ホテル」を仙台駅前広場に面した場所に建築し、開業
* 1896年(明治29年)、「仙台ホテル」を仙台駅前広場に面した場所に開業 / 2階建ての和洋折衷建築であり、東北地方初の洋式ホテルであった(Wikipedia「仙台ホテル」)
* 1903年(M36)6月、洋食開始(この年、陸奥ホテルは洋食を廃業)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P84)
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「仙台市史10年表」P210/「仙台はじめて物語」P90/Wikipedia「仙台ホテル」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P84
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98-062(「仙台市老舗百店史」P129のスケッチ画)と「目で見る仙台の歴史」P124に『明治29年建築の仙台ホテル』 <編者注>両書とも説明文に明治28年頃とあるが、明治29年完成のホテル第1代
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仙台ホテル |
立て替え(ホテル2代目) |
1905年(M38) |
* 1905年(M38)、 4階建ての擬洋風建築に建て替え /
出羽三山・本道寺(神仏分離により口之宮湯殿山神社。山形県西川町)の仁王像一対を1875年(M8)から所有していた弥勒院(山形県河北町)から買い取り、ホテルの1階玄関に安置(Wikipedia「仙台ホテル」)
* 1905年(M38)、「明治20年頃、仙台駅前に進出せる大泉旅館は、この年、三階建て旅館に設備を拡大し、仙台ホテルと改称す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P334)
<編者注> 大泉支店の仙台ホテル改称はホテル1代目建物ができた明治29年で、38年ではない/ 38年は、ホテル2代目建物(3階建一部2階建て擬洋風建築)に建て替えた年/ 看板「仙台ホテル」の他に、壁面に「大泉館」表示もある
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「重訂 宮城県郷土史年表」P334/Wikipedia「仙台ホテル」
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44-05、98-063/「目で見る仙台の歴史」P124と「新・目で見る仙台の歴史」P130に『明治38年建築の仙台ホテル』
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仙台ホテル |
立て替え(ホテル3代目) |
1935年(S10)/1945年(S20) |
* 1935年(S10)、モダニズム建築に建て替え
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被災
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Wikipedia「仙台ホテル」
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仙台ホテル |
戦後立て替え/閉業 |
1964年(S39)/2009年(H21) |
* 1964年(S39)5月10日、仙台駅西口前、青葉通り・愛宕上杉通り角(南東角)にオープン / 地上9階、地下2階
* 1964年(S39)、東京オリンピックに合わせ、9階建ての現在の建物が完成。仁王像一対は3階ロビーに移設
* 1985年(S60)、 ホテルを全面改装 / 同時に隣接して仙台ホテルアネックスビルを増築
* 1985年(S60)1月、ホテル5階に、「泉の庭園」設置
* 2009年(H21)12月31日、閉業
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「わが心の仙台駅前史」年表/「仙台市老舗百店史P126」/Wikipedia「仙台ホテル」/「続・ 宮城県郷土史年表」P188
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98-036、98-062/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P72(S39、カラー)
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仙台ホテル(前身の大泉旅館支店) |
仙台駅前に開業 |
1887年(M20)頃 |
<仙台ホテル前史>
* 1850年(嘉永3年)、国分町に大泉旅館開設(「番丁詳伝」P133)
* 1887年(M20)、国分町の旅籠「大泉屋」が、日本鉄道開通に合わせて仙台駅前に支店を開業 / 2階建ての切妻造平入り町屋建築で、1937年(昭和12年)まで使用された(Wikipedia「仙台ホテル」)
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「番丁詳伝」P133/「目で見る仙台の歴史」P124/「仙台市老舗百店史」P129/Wikipedia「仙台ホテル」
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「目で見る仙台の歴史」P124に、開業当時の大泉支店
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仙台七夕 |
明治・大正期/七つ道具 |
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【「番丁詳伝」P94~95】
・ 藩政期の諸文書にみる七夕と七夕流しに関する記述あり
・ 仙台七夕が7月6日にからに固定したのは、18世紀中期(六代藩主宗村の時代)からで、月遅れ(8月6日)ながら今日まで継承されている
・ 明治維新の大変革や、日露戦争後の明治30年代末以降、全国的に七夕行事が衰退するが、仙台では女子・家族のまつりとして、町家、屋敷町に守られてその火を消すことはなかった
・ 1894年(M27)、仙台市内に電柱がたてられるようになってから竹飾りは斜めに立てられるようになった、明治40年以降は電気照明もだいぶ利用されている
<七つ道具>
・ 仙台独自の飾りつけ「七つ道具」が確立するのは明治期
・ 七夕線香を飾るのは、昔は遊郭や芸妓屋のあった町に特にみられ、線香を三段に吊るすところもあった
(1)短冊 梶の葉のならいから。シメの変化とも考えられ、歌や願いごとを書き、歌や書の上達を願う。
(2)吹流し 五色の糸の変形。機織りの上達を願うが、この日そうめんを食べ供えた故事からかえられたとも考えられる。願いの糸にかけた願いは3年のうちに叶うという
(3)千羽鶴 吉兆として延命長寿を願う。家族の最年長者の数だけ折られた。
(4)紙衣 一般には白石紙子を使用するが、小袖がそのまま吊るされることもある。病災を身代わりに流す形代の意味をももち、タナバタツメの信仰から生まれた裁縫の上達と、子どもが丈夫に育つようにと祈りながら一番先端に吊るされる。
(5)巾着 富貴を祈りつくられる。
(6)投網 海の幸の豊漁を願い感謝のしるしをあらわす。
(7)屑籠 倹約と始末することの大切さを教える。
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「番丁詳伝」P94~95
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仙台七夕 |
昭和初期、復活させた商人たち |
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【「番丁詳伝」P124】
「昔から仙台の代表的なまつりの一つとして有名であった仙台七夕まつりは、明治以降はほそぼそとその伝統を守ってきたもののその衰退はどうしようもなく、特に大正期から昭和にかけての不況の時代、ますます淋しいものとなっていた。仙台七夕の伝統を生かしながら下火になったこの七夕行事に活を入れたのは大町五丁目の人々である。(以下略)」
【「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100】
・ 「昭和に入ってすぐ、その伝統を生かしながら、下火になった七夕行事に喝をいれたのは大町の人々である。 当時大町五丁目共同会会長の佐々木重兵衛は、町内の桜井常吉、三原庄太らに相談。 『不景気退散』の合言葉で、仙台商人の意気をみせようと町内一斉に七夕を飾りつけて、市民から喜ばれたのは昭和2年のことである。」
・ 「昭和3年6月、東北産業博覧会終了後、昨年の七夕を一層盛大にしようと、佐々木重兵衛の提唱を取り上げた仙台協賛会は、連合協議会の案をもって商工会議所に建議し、共同開催で実施することとした。 参加町内を募ったところ、仙台駅前、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、東一番丁、虎屋横丁、立町通り、五丁目新丁、元櫓町など11町会が参加し、八月六日夕四時一斉に飾付けがはじまり仕掛物が披露され、三日二夜にわたる祭典が開幕した。(以下略)」
【「番丁詳伝」P125】
・ 「昭和3年は、11か町会が参加し3日間2夜にわたる復活七夕が開幕、8月6日夕4時から一斉に飾り付けが始まり仕掛け物が披露され3日2夜にわたる復活七夕が開幕、この日は霧さえ立ちこめて今にも雨の降りそうな空模様のなか、しばしば通行整理と交通禁止が行なわれるほどの盛況を呈した。 飾りつけの審査(1~5等)が行われ、大町五丁目が優勝。」
・ 「昭和4年は、8月6日夜を本祭り、7日夜を後祭りとし、前年より4町多い15町会が参加。審査1等には、銀カップの優勝杯と賞金20円、・・・4等5等は5円授与」
・ 「昭和5年には、菖蒲田の外人村、東京、水戸、福島、森岡、青森から団体の繰りこみがあった。道路ごとに南進、北進の一方通行とした。見物客が年毎に増加し臨時列車の運行も」「東一番丁の東一振興会(第一区)では個人審査も行い、軒並み仕掛け物(仕掛け飾り)を飾って話題をまいた。(昭和5年の仕掛け物の具体記述あり)」
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「番丁詳伝」P124~125/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100
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戦前・戦後の仙台七夕の写真は、写真分類E-15、E-16、E-17、E-18、E-19
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仙台七夕 |
戦時中の休止 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
~ 出典は、右欄の1)2)3)4)に ~
1) 1938年(S13年)から、戦前の仙台七夕は中止となった(日中戦争の本格化により)
2) 仙台七夕祭、S13年に自粛、翌年から廃止
3) 1939年(S14)8月6日、仙台七夕の飾りつけを廃止す
4) 1939年(S14)、8月6日から始まる仙台の七夕は廃止と決定した
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1) 阿南透 都市祭礼「仙台七夕まつり」の成立と変容 P8/
2)「仙台市史 年表」P109/
3)「仙台年表」P209 (その出典は「河北新報」)/
4)「ものがたり東北本線史」(鉄道弘済会東北支部)P510
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仙台七夕 |
終戦直前、1本の七夕飾り/戦後復活七夕第1号 |
1945年(S20)/1946年(S21) |
<終戦直前、1本の竹飾り>
* 1945年(S20)8月5日、「広島へ原爆が投下されたその前日、(仙台空襲で焼け残った)一番丁三越前に一本の青竹が風に吹かれていた。近寄ってみると、それは申し訳のように、五色の細く切った紙がつるしてある。仙台に育った私に、いままでこれほど美しいと思ってみた七夕竹はまだなかった。」(一番丁一丁目の瀬川善太郎氏の回顧 / 「番丁詳伝」P156より)
<敗戦翌年、東一番丁で七夕復活>
* 1946年(S21)8月5日、敗戦の翌年夏に東一番丁通りの森権五郎さん(森天祐堂)が仙台で一番早く自分の店の前に七夕飾りを出した
* 1946年(S21)8月6日~7日、東一番丁で商店52軒が一斉に七夕飾りをあげる
・ 戦争が続いて仙台七夕は昭和12年を最後に途絶えていた。
・ S20年7月、仙台は米軍による空襲で市中心市街地500ヘクタールが灰燼に帰すが、敗戦翌年のS21年8月、東一番丁の焼け跡に戻って商売を再開した商店主たち52戸(当時の全戸)が、バラック建ての商店街で市内のトップをきっていち早く七夕飾りを掲げ、多くの市民が見に訪れた / 森さんがトラックで近郊から竹を手に入れ運び、52軒に配った / 市民による戦後復興の狼煙となった
【「番丁詳伝」P156】より 「昭和21年は、新円切換えや農地改革が行われ、食糧事情は極度に悪化して生きることに汲々としていた混乱の時であった。(空襲の)焼け跡がまだだいぶ残り、歯の抜けたようにまだ軒並みも続かない東一番丁だった。 (8月)7日付けの河北新報は「十年ぶりの七夕祭り涙の出るほど懐かしい」の見出しで紙面をさいたが、これは復興に活を入れるとの心意気で東一番丁の人々が相はかって企画したので、荒れすさんだ生活となにもない欠乏時代の市民に一抹の清涼剤となった。(中略)52本の七夕飾りが取り去られた8月中旬、東一番丁旧一力邸跡で盆踊り、また広瀬川に5年振りで灯篭流しが行なわれるというように、この年の夏の行事は平和をとりもどした喜びの祭りとなった。」
<参照> 仙台七夕の概要は、当サイト内、写真データベースの【解説】E 「仙台七夕」
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「森権五郎さんの手記」/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史年表 10 年表」P313/「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「番丁詳伝」P156
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53-12(森さんが掲げた戦後七夕第1号)
/「市民の戦後史(仙台市)」P33(東一番丁・戦後復活した七夕に集まった人々)
/戦前・戦後の七夕は、写真分類E「仙台七夕」の全写真
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仙台七夕 |
天皇を七夕飾りで歓迎 |
1947年(S22) |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察) / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「5日の夕、常磐炭鉱・平市を経て仙台入りをなされた陛下御一行が予定外のを五彩の吹流しがトンネルをつくる飾りつけの中を一本杉の伊達邸に入られた。市中のコースについては各商店ともぜひわが町をご通過いただきたいとその要望合戦は激烈であったが、予定外の新伝馬町も加えられている。河北新報は「紙吹雪のなかを歓呼にゆれて進む御料車」の見出しで伝えた。この年七夕飾りを行った家は約五千軒、中心部の商店の中には1本に2万円もかけた店もあった。」(「番丁詳伝」P157)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町のさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520/「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180/「番丁詳伝」P156~157
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S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「番丁詳伝」P157)
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仙台七夕 |
戦後エピソード |
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* 1949年(S24)、商工会議所を中心に、市、県、各商店会で七夕協賛会が結成され、開催期間を8月5日から3日間と決定(「番丁詳伝」P157)
* 1953年(S28)から、仙台商工会議所が公募してミス七夕コンテスト
* 1954年(S29)、東一番丁にアーケード設置され、親竹・子竹と大小の七夕飾り(高さ制限、歩道で2.1m、車道で4.5m以下)
* 1955年(S30)、壱岐紙店が雨に強いシリコン加工の七夕紙の試作成功
・ 七夕流しの習慣は清掃法の強化でなくなる
・ 七夕音頭、七夕踊り制定され、一番町をパレード(開始年不詳)
* 1956年(S31)8月6日、NHK仙台放送局が、仙台七夕を初のTV生中継(全国放送)
* 1958年(S33)、山下清が来仙、仙台七夕を描く
* 1971年(S46)、音と光を取り入れて「動く七夕パレード」開催(会場は定禅寺通り)
* 1986年(S61)、ミス七夕コンクールが13年振りに復活(5人のミス七夕選出)
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「番丁詳伝」P157、P187/「市民の戦後史(仙台市)」P92/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P31
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「市民の戦後史(仙台市)」P92(S48年のミス七夕たち/七夕を描く山下清画伯)
NHKテレビが七夕全国中継(18-33 、「市民の戦後史(仙台市)」P92、「新・目で見る仙台の歴史」P180)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P17(東一番丁北部の七夕飾り)
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仙台七夕 |
花火大会 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)8月5日、仙台七夕で、花火大会初開催(仙台青年会議所主催)
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「仙台市史 年表」P127/「番丁詳伝」P187
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仙台偕行社 |
初代建物竣工 |
1886年(M19) |
仙台偕行社(かいこうしゃ)は、陸軍将校の倶楽部で、戦前は天皇行幸の際は宿舎にもなった / 場所は、桜ケ岡公園(西公園)に隣接、現在(1996年)の仙台市図書館のあたり
* 1886年(M19)8月3日、仙台偕行社竣工(洋風建築)
* 1925年(T14)10月18日、陸軍大演習の間、大本営が仙台偕行社におかれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P399)
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「明治の洋風建築~宮城県~」P39/「仙台市史7(警察)」の仙台部隊年表P691/「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P399
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「明治19年落成の偕行社」は、98-060、「新・目で見る仙台の歴史」P134、「市民の戦後史(仙台市)」P22/門柱の形が異なるのは、98-061、99-095
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仙台偕行社 |
2代目?、空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 2代目?に建替え(年不詳)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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仙台卸商センター |
完成 |
1970年(S45) |
* 1965年(S40)6月17日、協同組合発足、卸商センター建設着手
* 1966年(S41)、着工
* 1970年(S45)10月14日、原町南目の仙台流通センター地区内に完成
* 1979年(S54)4月1日、センターに、国鉄連絡運輸駅設置
* 1986年(S61)10月15日、センターに、産業見本市会館完成
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「仙台市史 年表」P124、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P620、P623/「続・ 宮城県郷土史年表」P94、P212/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P370(S46年完成の仙台卸商センター)
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仙台合同庁舎 |
県庁構内 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)4月1日、県庁構内外記丁105に竣工開庁(地下2階、地上9階)、東北財務局ほか16官署が入る
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「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「市民の戦後史」P181
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「市民の戦後史(仙台市)」P40(旧・東北財務局庁舎)/同181(仙台地方合同庁舎)
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仙台合同庁舎 |
五輪1丁目 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)9月4日、五輪1丁目に仙台合同庁舎落成、仙台管区気象台も入る
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「続・ 宮城県郷土史年表」P133
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仙台商業会議所/仙台商工会議所/宮城県商工経済会/仙台商工会議所再発足 |
設立/改称/改称/再発足 |
1891年(M24)/1928年(S3)/1943年(S18)/1947年(S22) |
<仙台商業会議所>
* 1891年(M24)6月、仙台商業会議所設立
* 1924年(T13)、東二番丁に仙台商業会議所、竣工(鉄筋コンクリート2階建)
<仙台商工会議所>
* 1928年(S3)1月、仙台商業会議所を仙台商工会議所に名称変更
<宮城県商工経済会>
* 1943年(S18)9月28日、仙台商工会議所を改組(解散)し、宮城県商工経済会と改称(結成)(10月1日、開所式)
・ 自由商工人の自治活動であった商工会議所は、商工経済会という政府機関として、地域の中小事業者の転廃業の事務機関の役割を果たし、役員も天下りで決められて従来の商工人はしりぞけられる傾向であった「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700)
<戦後・再び商工会議所へ>
* 1947年(S22)2月1日、仙台商工会議所と改称(再発足)
* 1956年(S31)5月、仙台商工会議所会館の改装新築
* 1979年(S54)9月、新館着工(10月12日、建て替えのため解体)
* 1980年(S55)12月19日、仙台商工会議所会館落成
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目で見る仙台の歴史」P151/「仙台市史 年表」P87、P112/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P498、P515、P581/「仙台市史10 年表」P202、P306、P315/「続・ 宮城県郷土史年表」P101、P120/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700
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「新・目で見る仙台の歴史」P132(創立当時?の商業会議所)/同P144(大正13年竣工の仙台商業会議所)/「目で見る仙台の歴史」P151(大正13年竣工の仙台商業会議所)/「市民の戦後史(仙台市)」P34(大正13年竣工の仙台商業会議所)/53-50(戦後、改築前)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P726(戦後改築後の商工会議所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P441(S29年、仙台商工会議所)
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仙台国税局 |
開庁 |
1949年(S24) |
* 1941年(S16)7月、仙台税務監督局を仙台財務局と改称
* 1949年(S24)6月1日、仙台国税局開庁(新設)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P484、P535/「仙台市史10 年表」P321
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16-36
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仙台国際センター |
開館 |
1991年(H3) |
<仙台国際センターHPより要約>
・ 仙台国際センターは「会議棟」「展示棟」で構成され、一体利用することで6,000人規模の大規模催事が開催可能 / 外観は、仙台城跡・脇櫓の近くという立地条件から城のイメージを現代風にアレンジ、各会議室内の天井も青葉山の山並みや仙台湾のさざ波などがイメージされている / 無柱の展示室(3000㎡)、1,000名収容の大ホールや展示・レセプションホール、大・中・小会議室、市民が自由に出入りできるフリースペースがある / 北側の「せんだい青葉山交流広場」は、イベント会場や駐車場として利用可能(約19,000㎡)
* 1991年(H3)9月、仙台国際センターが開館(川内の青葉山公園内に)(3月に会議棟完成)
* 2015年(H27)、展示棟が完成
* 2015年(H27)12月、仙台市営地下鉄東西線「国際センター駅」開業
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仙台国際センターHP「施設ガイド」
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仙台城二の丸焼失 |
焼失 |
1882年(M15) |
資料により、出火原因が異なっている
* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1882年(M15)9月7日、川内(旧仙台城跡)の仙台鎮台で火災発生、鎮台本営などの施設のほか、旧仙台城二の丸の建物のほとんどが焼失
* 1882年(M15)9月7日、旧仙台城二の丸(仙台鎮台本営)は雷火によりて火災を起こし、伊達家累代の建物等ことごとく焼失す。わずかに征韓の折、豊太閤より賜りたる大手門(名護屋にありし門)と巽門とのみを残したるに過ぎざりき / 二の丸遺構の9割、17~8棟焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P265)
* 1882年(M15)、追廻で行われた西南戦争の招魂祭の花火のため二の丸が全焼(「仙台市史 続編第2巻」P163)
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232/「仙台市史 年表」P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P265/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P163
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仙台専売支局/仙台地方専売局/日本専売公社仙台地方局 |
設置/改称 |
1913年(T2)/1921年(T10)/1950年(S25) |
* 1913年(T2)6月、仙台専売支局、清水小路に設置
* 1921年(T10)7月1日、仙台専売支局が仙台地方専売局と改称
* 1924年(T13)12月1日、仙台地方専売局は山形地方専売局を併合し、東北6県を管掌することになる
*
* 1950年(S25)6月1日、日本専売公社法公布に伴い、仙台地方専売局を解消して日本専売公社仙台地方局として発足
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宮城縣郷土史年表 P356、P395、P543/「仙台市史 年表」P100
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99-097/「いつか見た街・人・暮らし」P42の写真144
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仙台専門店会/日専連仙台会 |
結成/改称 |
1935年(S10)/1957年(S32) |
* 1935年(S10)6月24日、仙台市内の有力専門店が、百貨店に対抗し任意組合「仙台専門店会」を結成
* 1936年(S11)10月8日、日本専門店連盟(日専連)発足し、仙台専門店会も加盟
* 1938年(S13)5月、日専連第2回全国大会、仙台で開催
* 1940年(S15)、日専連解散(戦時中断)/8月29日、仙台専門店会も解散
* 1950年(S25)5月、日専連再結成
* 1951年(S26)11月16日、仙台専門店会、日専連に再加盟
* 1957年(S32)5月、第12回日専連全国大会、仙台で開催
* 1957年(S32)8月29日、協同組合日専連仙台会と改称(「宮城県百科事典」P818では、昭和33年6月に改称)
* 1959年(S34)、日専連仙台会、東一番丁にデパート式の総合店舗を開店(中小企業の集団協業化として注目される)
* 1981年(S56)6月、第36回日専連全国大会を仙台で開催
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「JA宮城中央会」HPの「宮城野協同組合略史」(年表)/「仙台市史10 年表」P286、P299/「仙台市史 年表」P108/「宮城県百科事典」P818/「重訂 宮城県郷土史年表」P594/「市民の戦後史(仙台市)」P98
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「市民の戦後史(仙台市)」P98(S32年日専連全国大会、東一番丁通りでのイベント)
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園 開園 |
1936年(S11) |
* 1933年(S8)、失業対策事業で、広瀬川沿いの評定河原が埋め立てられ、北半分は東北帝国大学のグラウンドとなり、南隅は動物園用地となった
* 1936年(S11)4月1日、仙台市動物園が評定河原埋立地に開園(当時、東京以北で唯一の動物園で、昭和12年12月までの入場者は31万人)
・ 入園料(昭和11年) 大人15銭、軍人10銭、小人5銭(昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64)
・ 坪数8150坪、収容動物150種500点、初代園長漆沢忠雄(「重訂 宮城県郷土史年表」)
・ 象・虎・ヒョウ・白熊など35種100頭を、閉園した東京浅草の花屋敷動物園から譲り受け、それに加えて200余頭を購入した(「仙台はじめて物語」)
・ 3月29日に収容動物到着、4月1日開園、165種471点(仙台市史10 年表)
・ 入場者、昭和11年(4月~12月)に31万人
・ 入場者 昭和12年17万人、13年20万人、14年26万人と戦乱(日中戦争)が拡大しても、観客は減るどころか年々増えていった(「戦争のころ 仙台、宮城」P40)
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「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 年表」P108/「仙台はじめて物語」P104~105 /「仙台市史10 年表」P288/「重訂 宮城県郷土史年表」P451/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「市史せんだい Vol2」P15/昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P40
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53-119/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204(仙台市動物園開園記念観覧券と市電乗車券)
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園猛獣射殺 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)3月25日、太平洋戦争末期の仙台市動物園で、猛獣12頭(熊4頭、シロクマ・ヒグマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ各1頭)が「空襲の際に危険」と射殺された(仙台市交通局五十年史)/ ただし仙台市史ではシロクマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ・ヒグマ・クマ各1頭の合計8頭 / 自然休園となる / 5月19日、銃殺動物慰霊塔建設
* 1944年(S19)5月19日、空襲にそなえ処分された動物たちの慰霊祭(「戦争のころ 仙台、宮城」P140)
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「仙台はじめて物語」P104~105/「仙台市史10 年表」P307~308/仙台市史 年表」P113/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P140
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園閉園 |
1945年(S20) |
・ 猛獣の処分(S19年3月)で空き家になった建物には、市議会の建議通りブタ15頭が飼われ、花壇や通路では野菜を栽培、動物舎付近はカボチャ畑になった。閉園までは猛獣ぬきで営業(「戦争のころ 仙台、宮城」P143)
* 1945年(S20)4月1日、休園(そのまま再開せず)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P504/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P143
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仙台市の動物園(戦後) |
河北動物園 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)10月31日、評定河原の旧動物園跡で開催中に象小屋から出火、小象など焼死
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「仙台年表」P225
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仙台市の動物園(戦後) |
河北動物博覧会 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月24日、西公園で「河北動物博覧会」開催
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「見験楽学」(仙台・宮城のミュージアム情報サイト)/「仙台年表」P227
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仙台市の動物園(戦後) |
三居沢動物園 |
1957年(S32)~1965年(S40) |
* 1957年(S32)10月25日、三居沢に開園
~現在(1995年)、三居沢交通公園がある場所~
・ 最初は、20種類53点。のちにライオン、ヒョウ、クマ、象も増えて、最終的には68種268匹に(「戦争のころ 仙台、宮城」P144)
* 1965年(S40)9月24日、閉園
* 1967年(S42)1月、跡地に、東北初の「交通公園」開園
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「仙台市史 年表」P120/「重訂 宮城県郷土史年表」P586/「仙台あのころこのころ八十八年」P252、P255/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P144
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「目で見る仙台の歴史」P178/「市民の戦後史(仙台市)」P97(俯瞰全景、開園式場)/「新・目で見る仙台の歴史」P180
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仙台市の動物園(戦後) |
仙台市立八木山動物公園 |
1965年(S40)~ |
* 1965年(S40)10月15日、開園(14ha) / 90種、350頭 / 五大大陸ごとに放し飼い
・ 仙台の味噌醤油製造業「紅久」経営者八木家が、昭和初期に仙台市に寄贈した土地に開園 / 閉園する仙台市立三居沢子ども動物園の動物も八木山へ移された
* 1967年(S42)8月7日、音楽姉妹都市の大分県竹田市からイノシシ3頭を贈られる
* 1970年(S45)7月31日、動物園付近に、八木山開発者八木久兵衛(五代)の胸像建立
* 1971年(S46)1月18日、類人猿舎で火事、猿類18匹焼死
* 1987年(S62)6月29日、中国長春市から、レッサーパンダ到着(1988年(S63)8月6日、レッサーパンダの赤ちゃん誕生)
* 1988年(S63)3月30日、カナダからアメリカビーバー受納式
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「仙台市史 年表」P124/「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「重訂 宮城県郷土史年表」P622、P634、P663、P667/「続・ 宮城県郷土史年表」P225、P242/「市民の戦後史(仙台市)」P172/「番丁詳伝」P34~35
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「市民の戦後史(仙台市)」P172~173(正面から見た全景、象トシ子さん引越し)/「新・目で見る仙台の歴史」P192(カラー)
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仙台市の工業 |
参考文献 |
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<参考>
(1) 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~697に、戦前(大正~昭和戦前期)、戦後(終戦~昭和43年頃)の仙台市の工場立地、開発計画、工業統計、新産業都市指定にむけての動きなどが記述されている
(2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~697
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仙台市の工業 |
戦前期 |
大正~1945年(S20)8月 |
<大正末期に立地>
仙台市に、山文製作所(若林4丁目/サッシ類、汽缶類)、本山製作所(堤土手下/ポンプ、汽缶、精密機器類)、東洋刃物(米ケ袋下丁/製紙用、パルプ用の裁断ナイフ)が立地
<昭和戦前期の立地>
・東北金属(S8年、市内郡山諏訪/マグネット、通信機器材料)、東北特殊鋼(S11年、長町7丁目/高速度鋼、合金工具鋼、耐熱鋼)立地
・ 昭和戦前期と終戦時の工場名一覧(「仙台市史 続編第2巻」P661)
<1940年(S15)6月、「仙塩地方開発総合計画概要」(宮城県土木部、金森構想)> 釜房ダム、仙台内港開削、塩釜港修築し1万トン岸壁新設、貞山堀拡築、道路改良、動力は常磐、北海道の石炭と電力使用、緑の工業地帯(大代、蒲生、深沼に3工業地区、貞山堀東岸全部と西岸の数か所に緑地造成、工場地帯には帯状の公園広場) / 戦争激化で実現せず
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~664
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P365(T4年、山田機業場工場内部)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P491(茂庭製糸工場操業風景
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仙台市の工業 |
戦後期 |
1945年(S20)秋~1969年(S44)頃 |
☆「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
「敗戦直後の仙台市の工業は、ゴムや金属などの一部を除いて、代表とさるべき業種が見当たらない。朝鮮戦争の特需ブームは、国内経済の復興に寄与することになったが、工業の立遅れていた仙台地域の経済にとって物価高という悪影響の方が強く現れている。
☆「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697の記載項目
<昭和20年代> P665~
・ 1946年(S21)12月の市内工業統計(分野別の工場数、従業員数、出荷額)
・ 1947年(S22)、1948年(S23)の市内地区別工場分布
・ 1948年(S23)当時の主要工場名一覧
・ 県総合3か年計画
・ 1950年(S25)末、市内の工場(工員規模)、500人以上は専売公社工場のみ、200人以上は6工場、市内540の工場は大部分が工員数人(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705)
・ 1954年(S29)、仙台市工場設置奨励条例(既存工場を助成し、中小工場の新設増設を支援)
<昭和30年代> P675~
・ 1960年(S35)4月、専売公社仙台工場(たばこ)完成
・ 1961年(S36)、仙台市工場誘致条例(P670~)
<新産業都市指定> P675~
・ 新産業都市指定にむけた運動
* 1963年(S38)7月、仙台湾地区が、他の12地区と共に新産業都市に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区、新産業都市建設区域に指定
・ 新産都市予定地区内に進出立地した新規工場一覧(S36年~44年に操業開始)
・ 仙台周辺住宅用地造成計画表(計画年次はS39~S45)
・ 工業用水道計画(S50)
<新都市計画> P684~
* 1966年(S41)3月、新都市計画(建設大臣より認可)
この計画は、新産都市・広域行政など時代に即応し、市に隣接した泉町、宮城町、秋保町の一部もエリアとした、20年後の都市づくり総合構想で、工業面では、新産都市計画が進行するにあたって、仙台バイパス沿いに内陸工業地帯を、苦竹に流通センターを配置 / 工業地域は、長町・郡山の市内南部、小田原など東仙台地区、仙台新港につづく市東部の3か所、準工業地域として仙台バイパス沿いに鉄鋼団地・自動車団地・印刷団地 / 流通センターは、卸売団地(卸商センター)、トラックターミナル、倉庫団地など
・ 1966年(S41)の市内工業統計
・ 1969年(S44)年4月現在の主要工場一覧
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P368/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697、P705/「市民の戦後史(仙台市)」P90
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「目で見る仙台の歴史」P192(小田原折沢の専売公社仙台工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P90(S30年4月、専売公社仙台工場空撮)/同P201(印刷団地空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P197(印刷・機械金属・自動車の工業団地空撮、カラー)
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