項目 |
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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
進駐軍(米軍) |
地元行政当局への要請・指示/進駐軍要員 |
1945年(S20)9月~ |
・ 占領軍は、占領に必要なことすべてを、自らの行動・命令でなく、日本の行政当局への要請・指示を通じて行うことが原則
・ 進駐軍宿舎その他の施設の接収、設営、保守、警備、荷役、運搬作業も、当該都道府県や市町村の責任で行われた
・ 要求は期限付きで出され、反抗やサボタージュは処罰の対象となった
・ 進駐軍宿舎・施設の警備には、県内の警察官の半分以上を投入、さらに9月末に急きょ警察官を大募集し300人増員、岩手県から50人、秋田県から30名ほど臨時の応援を得た
・ 警察は進駐軍雑役業務作業員調達の責任があり、進駐から1か月余りで約4500人を集めた(仙台その他の兵舎、宿舎、倉庫での労務)
・ 進駐軍要員と言われた雑役作業員は、進駐軍駐屯地の労務管理事務所を通じて、部屋の清掃、倉庫の片づけ、建築資材の運搬などさまざまな作業にかり出されたが、中には復員軍人や徴用解除者が多かった
<進駐軍施設で働いた日本人たち>(「戦争のころ 仙台、宮城」P245~246)
・ 宮城県内では1万数千人といわれる / 身分は国家公務員特別職で、給料は終戦処理費から払われた
・ 宮城県では渉外事務局が、駐留地の施設、労務問題を担当 / 賃金、採用など労務問題を扱うのが「渉外労務事務所」で、仙台(川内、榴岡、原町苦竹、霞目、作並)、矢本、船岡、多賀城に事務所があった
・ 職種は120種あり、通訳、翻訳、書記などの事務職、運転手、ボイラーマン、大工、塗装工、理髪師などの技術職、ハウスメイド、コックなどの家庭住宅要員、消防、警備など
・ 最初の頃は、人が集まらかった / その後、給料は一般の5割増し、職種によっては労務加配米を支給が分かって応募者が増えた
・ 「検閲官」とよばれる日本人もいて、マスメディアだけでなく郵便物も調べた / 進駐してから3年間は徹底した事前検閲制をとり、新聞、ラジオは印刷、放送前に検閲を受けた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P325/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P245~246
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進駐軍放送局(仙台) |
開局~閉局 |
1945年(S20)~1953年(S28) |
* S20年9月23日、進駐軍放送局AFRS仙台(WLKE、1450kc/s 3KW)が開局(NHK仙台局に同居)
* キャンプ・センダイ(仙台城二の丸の旧第二師団跡地)に移転
* 1953年(S28年)10月3日閉局
「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19 →「昭和20年9月23日、進駐軍のために施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始」
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「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19
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25-01
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進駐軍(米軍) |
概説 |
1945年(S20)9月~1957年(S32)11月 |
米軍が仙台および周辺に進駐・駐留したのは、S20年9月~S32年11月
<仙台進駐>
* 1945年(S20)9月16日、米軍(占領軍、進駐軍ともいう)、仙台に到着し原町、松島等に駐屯す
* 進駐軍進駐は9月11日(注:この日は先遣隊約20人が仙台到着)、1週間のうちに6000人を超える米軍が、原町と多賀城に駐屯、北一番丁の簡易保険局に司令部が置かれる(「番丁詳伝」P158)
・「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
<朝鮮戦争で、県内の米兵大幅減>
* 1950年(S25)6月の朝鮮戦争勃発に伴い、米軍将兵が県内米軍キャンプからも戦線へ大量移動し、県内の米兵大幅減
<講和条約発効後、駐留軍となる>
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、日本占領終る(米軍は「駐留軍」として引き続き日本に基地を置く)
→ これ以降は、項目「駐留軍(米軍)」参照
<全キャンプ返還>
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内の米軍基地はすべて姿を消す
<米軍の宮城県進駐> → 【「宮城県警察史(第二巻)」(昭和47年 宮城県警察本部)P13~30「米軍の本県進駐と警察」】に詳述されている
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「宮城県警察史(第二巻)」P13~30「米軍の本県進駐と警察」/「番丁詳伝」P158/「重訂 宮城県郷土史年表」P506 /「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 年表」P114/「仙台年表」P214、P224/「市民の戦後史(仙台市)」P50、P72
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90-06、90-07、90-08、90-09、90-10、90-11、90-12、90-13、90-14、90-15/「市民の戦後史(仙台市)」P50(朝鮮戦争に向かう米兵たち)/同P72(米軍キャンプの返還式)/同P72(お茶を習う米兵たち)
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324】より
<先遣隊>
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)到着 / 横浜からジープ38台に分乗した先遣隊106名が、同日未明に陸路松島に到着し、松島パ-クホテルに分宿 /知事はじめ県首脳部と会見(進駐軍宿舎や物資集積所のための施設・建物の接収を決める)
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240では、「宮城県には9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 翌日から、米軍と宮城県の間で宿舎、施設利用、警備について協議が始った」
・ 進駐軍との事務的交渉窓口「渉外事務処理本部」は、この会談を機に、知事直結の窓口として「知事官房渉外課」を設置
<海上から>
* 9月15日、東北地区進駐軍最高幹部らが塩釜港に上陸し、松島に入る
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月15日、塩釜港に6席の艦船から約3800人の兵士が上陸用舟艇を使ってまるで敵前上陸のように進駐してきました」
<列車で到着>
* 19月16日、2本の特別列車で約1000名、仙台駅到着 / 塩釜港には艦艇で着いた約3800名上陸 / 仙台(原町苦竹の造兵廠)、多賀城(海軍工廠)、松島に分駐 / 将校以上の幹部たち、ジープで国道6号線経由仙台に到着し、そのまま松島に入る
* 9月17日、1200名、特別列車で仙台着
* 9月18日、2580名、特別列車で仙台着
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月16日朝には東北線、常磐線の特別列車で1100人の兵士が仙台駅に到着したのを皮切りに26日迄に、列車と船舶、ジープ、トラックで合計1万95人が宮城県内に展開しました」
・ 9月26日までに、計約1万名が宮城県に進駐
・ 仙台、多賀城、松島のほか、塩釜石巻、古川、船岡などに駐屯(兵士数は造兵廠と海軍工廠に駐屯が圧倒的に多い)
・ 仙台では、霞ノ目飛行場や榴ケ岡の東部122部隊地にも小部隊が入った
<簡易保険局庁舎接収し、中枢機能を置く>
・ 第14軍団司令部(その後の第9軍団司令部も)、第11空挺師団司令部、宮城県を管轄する軍政団司令部、MP(憲兵隊)本部など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324、P327 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~240
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 続編第1巻」P67】より
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)仙台到着
* 9月16日、仙台に本格進駐開始(第8軍指揮下の第14軍団第11空挺師団)/ロード准将ら将兵106人がジープで仙台到着
・ 特別列車と、海路塩釜から上陸して仙台、塩釜、石巻、松島、大河原、古川、多賀城など7市町村に計1万人が分駐
・ ドン准将以下幹部は、松島海岸のパークホテルに宿営
・ 第14軍団司令部は北一番丁の仙台簡易保険局庁舎に設置
・ 空挺隊員は、原町の陸軍造兵廠と多賀城海軍工廠に駐屯
【「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240】より
* 1945年(S20)9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 内務省からの連絡で案内役を仰せつかった宮城県職員矢野栄作さんは「福島県境の山下村(現・山元町)の望楼から半鐘が鳴った。米軍の到着である。案内車と英語で書いた乗用車から米軍のジープをのぞくと、2門の機関銃を手に完全武装したした米軍兵が緊張した面持ちでこちらを見ている」と『せんだいあこころ八十八年』(宝文堂)に書いています
【毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション】より
* 9月15日、仙台に司令部をおいた第14軍団、塩釜に上陸
* 9月16日、仙台には第11空挺師団が進駐開始
・ (陸軍)幼年学校、尚絅女学院、安田生命(国分町)、富国生命、日銀仙台支店を宿舎として接収
<編者注:疑問> 日銀は仙台空襲(S20年7月)で焼失したのに接収対象にできたのか? 「日銀支店社宅」が正しいと思われる(宮城県知事事務引継書(昭和20年)には、日銀社宅と記載あり=「戦争のころ 仙台、宮城」P241)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P67/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~241/毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション/「仙台市史 年表」P114
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P327(接収された仙台地方簡易保険局庁舎)
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進駐軍(米軍) |
宮城県知事事務引継書(昭和20年)より |
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【「宮城県知事事務引継書」(昭和20年 生悦住求馬知事→千葉三郎知事)】より
<進駐した米軍部隊>
・ 第8軍第14師団、同砲兵隊、第11空挺師団第187連隊、東部122部隊、第6工作隊
・ 司令官は空挺師団長のスウィング少将
<進駐先>
仙台市、塩釜市、石巻市、松島町、古川町、大河原町、多賀城村
<警備体制>
・ 宮城県警察部655人、応援として岩手県から50人、秋田県から30人
・ 県内28か所に検問所設置、373人を動員して警戒した
<接収された施設>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)、歩兵第4連隊(仙台市榴岡)、陸軍飛行場(仙台市霞目)、陸軍飛行場(岩沼)、海軍松島飛行隊(矢本)などのすべての軍施設
・ 仙台の尚絅女学院、日銀社宅、塩釜の二つの学校、倉庫15棟、仙台市内の富国生命、安田生命、明治生命の各ビル
・ 仙台地方簡易保険局(仙台市北一番丁)は、東北6県の占領行政を監視する第8軍第14軍団司令部がおかれた
・仙台市内の民間住宅60戸(将校用宿舎に)
<編者注>
・この時点では、のちにキャンプ・センダイとなる、第二師団司令部と各部隊兵営(仙台市川内)用地が接収対象に記載されていないようだ
【「戦争のころ 仙台、宮城」P244】に、仙台市川内のキャンプ・センダイ用地(第二師団司令部と各部隊兵営跡)の接収関連の記述あり → 項目「進駐軍(米軍)の小項目「宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地)」参照
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占領軍に建物を円滑に引き渡すために、仙台市内の中学生、旧制高等学校生、大学生が大勢集められ、「机、いすなどの備品は今日中に市内の郵便局に移すよう」命令された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242)
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/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240~242
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進駐軍(米軍) |
宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地) |
1945年(S20)9月~ |
<キャンプ・センダイを除き、1945年(S20)4月から>
キャンプ・センダイ(川内/第二師団司令部と各種の連隊跡)、キャンプ・ファウラー(榴ケ岡/歩兵第4連隊跡)、キャンプ・シメルフィニヒ(苦竹/陸軍造兵廠跡)、キャンプ・ローパー(多賀城/海軍工廠跡)、レニア・フィールド(南小泉霞ノ目/霞ノ目飛行場跡)、など
<キャンプ・センダイは、1946年(S21)4月から>
・ 川内の第二師団跡のキャンプ・センダイ用地は、1946年(S21)4月、第9軍団司令部(北海道・東北・東京横浜除く関東・甲信越が担当地域)が札幌から仙台への移転にあわせ、接収される / 川内の旧陸軍用地約110万坪は仙台空襲で兵舎など8割が焼失、仙台市は戦災復興事業で公園など緑地帯にする予定だったが、米軍の要求で計画は急きょ外された / 昭和21年末には、15ブロック総数246棟の建物が完成、県は物資不足の中、建設資材、作業員の調達に追われた / 東北地方最大の米軍施設となった(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
・ キャンプ・センダイには、第9軍団司令部のほか、将校用宿舎、下士官用宿舎、映画館、野球場、教会、図書館、体育館、電話局、消防、ゲストハウス2棟、ゴルフ場(中島池を埋め立てた)があった /
川内地区は日本人の立ち入りが禁止され、4か所の検問所で日本人従業員は出入りのたびにパスを提示 / 青葉山には強力な通信施設がつくられた(「戦争のころ 仙台、宮城」P244~245)
・「昭和22年、前年の暮から新しい年へかけて、積雪の中に、川内の旧陸軍の兵舎あとには占領軍の瀟洒な住宅が建設されていた。」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244~245/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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キャンプ・センダイの写真は、98-097、98-098、63-07/計画図は98-117/「新・目で見る仙台の歴史」P168(川内キャンプ全景)/「市民の戦後史(仙台市)」P37(川内キャンプ俯瞰)
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進駐軍(米軍) |
第14軍団司令部 →第9軍団司令部 |
1945年(S20)9月/1946年(S21)4月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」】
・ 占領初期、東日本の占領は米軍第8軍が担当 / 新潟を含む東北地区は、第8軍指揮下の第14軍団が進駐し、司令部は仙台 / 宮城県に進駐は、第8軍団に属する第11空挺師団
* 1945年(S20)9月、仙台に第14軍団司令部が置かれたが、S20年暮に14軍団は廃止された(札幌に司令部を置く第9軍団に統合)
* 1946年(S21)4月、第9軍団司令部が札幌から仙台に移された(これ以降、第9軍団軍政部が関東以北の占領に責任をもつ)
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」 に、宮城県に進駐した米軍の軍団名、連隊名、その変遷の一部が記述されている
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【(「戦争のころ 仙台、宮城」P244】
「仙台に米軍が進駐してから3か月もたたない昭和20年12月、東北地方の占領行政を監視する第8軍は突如、北海道に移転、第9軍団と統合 / その3か月後には再び仙台に戻った(第9軍団司令部が仙台へ移転)しかも担当地域は従来の北海道、東北に加えて、東京、横浜を除く関東、甲信越を含む地域に拡大 / 米英とソ連の冷戦は激化しており、ソ連領に近い北海道に司令部を置くことを敬遠したのでしょう」「仙台の拠点性が高まり、米軍の大規模駐屯地の建設が急がれ米軍の要求で、仙台の旧陸軍用地を提供、キャンプ・センダイとなる」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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進駐軍(米軍) |
予備軍団(第16軍団) |
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* 1951年(S26)4月13日、GHQ、仙台に予備軍団設置を発表(総司令官アーレン少将)
* 1951年(S26)5月12日、仙台所在の総司令部予備軍団を、第16軍団と改称
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「仙台市史10 年表」P325/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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「市民の戦後史(仙台市)」P74(16軍団長と岡崎市長)
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進駐軍(米軍) |
24師団 |
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* 1952年(S27)2月17日、GHQ、朝鮮戦線帰還の米軍24師団、仙台地区に駐留と発表
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「仙台市史10 年表」P327
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進駐軍(米軍) |
憲兵隊(MP)/CID |
1945年(S20)~ |
<憲兵隊>
・ 憲兵隊本部:占領当初は、進駐軍司令部と同じ北一番丁の簡易保険局庁舎内に置かれ、仙台北警察署や塩釜署など駐屯地を管轄する警察に出先があり、地元警察官とともに米兵販犯罪防止、取締りにあたる / 仙台北警察署には、4人のMPが常駐
・ 米軍憲兵(MP)は、米兵の犯罪摘発が任務だが、次第に政治活動や労働運動の急進化を監視する公安警察としての役割が目立ってくる
<CID>
* 1946年(S21)4月、米犯罪捜査部(CID)設置され、次第に捜査権限を拡大
* 1947年(S22)、仙台のCID本部が、憲兵隊(MP)から独立し、東邦ビル(南町)に移転
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P327
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44-65、44-36、44-61、44-41、44-31、44-58
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進駐軍(米軍) |
米軍鉄道輸送司令部(RTO仙台) |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
→ 項目「RTO(仙台)」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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進駐軍(米軍) |
進駐軍専用列車 |
1945年(S20)10月~1952年(S27)2月 |
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46
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進駐軍(米軍) |
仙台市内街路名称 |
昭和20年代 |
進駐後、市内いたるところに英語標識ができるが、通り名称もアメリカ風にかえられた英語街路表示が作られた
・ 西公園から南町通りにかけて → メープル街
・ 光前寺通りから仙台駅前にかけて → インディァナポリス街
・ 南町通りから国分町にかけて → エルバリ街
・ 大町通りは、ヒッコリー街(クルミ)
・ 定禅寺通は、フィア街(モミ)
・ 南町通りは、メープル街(カエデ)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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被占領時代の仙台市街地図(米軍用) は、98-148
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週休二日制(民間) |
全国(金融機関) |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)8月13日、銀行など初めて第二土曜休日制を一斉実施
* 1989年(H1)2月、全金融機関、完全週休二日制実施(毎土曜休)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P77、P84
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週休二日制(官庁) |
全国/宮城県内 |
1976年(S51)/1989年(H1) |
<中央>
* 1976年(S51)10月、政府、国家公務員の週休2日制を試行(4週の1土曜休)
* 1981年(S56)3月29日、国家公務員の週休2日制(4週5休)実施
* 1989年(H1)2月、政府機関は、毎月第2、第4土曜を閉庁
<宮城県>
* 1989年(H1)1月1日、県庁でも隔週土曜日閉庁をほぼ実施
* 1990年(H2)1月、仙台市は第2、第4土曜日の休庁実施(同年7月から月2回の土曜日閉庁実施)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P70、P74、P75、P85/「続・ 宮城県郷土史年表」P258、P266
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逓信関連 |
仙台逓信管理局設置 |
1910年(M43) |
* 1910年(M43)4月1日、逓信省が仙台に逓信管理局を設置
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「仙台市史 年表」P95/「重訂 宮城県郷土史年表」P345
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逓信関連 |
仙台逓信局 |
戦前期 |
・ 東二番丁・南町通り交差点の南東角にあった / 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1910年(M43)4月1日、仙台逓信管理局を仙台市に設置
* 1913年(T2)6月、北部逓信局と改称
* 1919年(T8)5月、仙台逓信局と改称
・ 終戦後、焼け跡に通称「仙台銀座」(木造6棟のマーケット、建坪3000坪)ができたが、S27年1月22日の仙台銀座大火で140戸焼失
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「仙台市史第2巻本編2」P717~718/「重訂 宮城県郷土史年表」P345、P554
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53-53/「目で見る仙台の歴史」P144/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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逓信関連 |
仙台逓信講習所 |
1919年(T8) |
* 1919年(T8)5月、仙台逓信講習所を霊屋下(おたまやした)に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P373
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43-06(校舎)、53-93(寄宿舎)
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輪タク |
全盛 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)、輪タク全盛時代、全国で1万3000台
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43
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16-27、53-11、53-81
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輜重兵第二大隊 /輜重兵第二連隊 |
大隊 →連隊と改編(名称変更) |
1936年(S11) |
* 1880年(M13)4月24日、輜重兵(しちょうへい)第二小隊を仙台鎮台に設置(仙台城内に仮営を開設)
* 1884年(M17)5月の仙台鎮台編制に「輜重兵第二大隊」がみられる
* 1888年(M21)、1897年(M30)、1907年(M40)、1925年(T14)の第二師団編制にある
* 1936年(S11)6月1日、輜重兵第二連隊と改編
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宮城県史7の「仙台部隊関連年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P452
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大隊は98-108、99-156
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軍馬の銅像 |
金属回収で供出 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
・ 桜ケ岡公園(西公園)にあった
・ 軍馬の銅像は当時の公園の平面図に「日露役殉死軍馬銅像」と表記されている
・ 戦時中の金属回収でS18年か19年に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた
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「仙台市史 本編2」P371
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99-120、53-63 /桜ケ岡公園(西公園)の公園の平面図は、98-074
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軍需工場(宮城県内) |
海軍火薬廠、海軍工廠、陸軍造兵廠 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
→ 項目「陸海軍の工場(宮城県内)」の小項目「第一海軍火薬廠」「多賀城海軍工廠」「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」を見よ
・ 陸海軍は、宮城県内にそれぞれ直営の軍事工場を持っていました。民間工場も含めて軍需工場がこれだけ集積していた県は東北にはありません。(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156
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軍需工場(宮城県内) |
民間工場 |
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・ 東北金属(現・太白区諏訪) →マグネット通信機器、機関砲部品
・ 東北特殊鋼(現・太白区長町八幡前) →銃の中心部分となる銃身鋼
・ 三馬弘進護謨 →軍用地下たび、被服など
・ 大日本航空 →新型ジェット機「秋水」の訓練用グライダー
・ 萱場製作所(のちのカヤバ工業)仙台工場(現・太白区八本松) →戦闘機や偵察機の油圧緩衝機、陸軍の依託で着弾観測用のオートジャイロ(カ号観測機)の組立作業
・このほか、日本電気、東北ゴム、本山製作所、仙台発動機、塩釜ドック、東北ドックでも軍需品を製造
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P158~159
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軍需工場(宮城県内) |
工場疎開 |
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<首都圏から宮城県へ>
「首都圏の軍需工場など98企業から宮城県へ疎開希望あり、すでに53工場が操業中、残りも対応中」(「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月)より)
<仙台市内の軍需工場の疎開>
東北臨時生産防衛対策委員会、仙台市内の10工場を、空襲に備えて疎開決定
・東北特殊鋼 仙台市長町 → 山形県西村山郡西郷村の国民学校へ
・三馬弘進ゴム 仙台市行人塚 → 鳴子町川端へ
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P211
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軍都・仙台 |
「軍都」と地元経済 |
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P298より
・ 新聞の広告などによると、軍の食料品や馬糧を主にして、燃料、衣料、軍靴などの購入調達が、入札による納入や指定御用達商店を通す方法で行われ、仙台の経済と深くかかわっていた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P334(「軍都」と経済より要約)
<兵士や将校の個人的な消費>
・ 日曜祭日、慰労休暇、褒賞休暇などの外出(飲食・映画などの娯楽 / 娯楽は軍人半額料金が多い)
・ 面会人や除隊兵士向けの土産品・記念品の店(菓子店、漆器店、木盃製造販売店などが大町1・2丁目と、鉄砲町方面から仙台駅前に向かって並んでいた)
・ 軍服・軍帽・軍靴・軍鞄・軍用腕時計・双眼鏡など(将校は自前で準備する必要)
<軍による調達>
・ 各隊兵士の食糧、軍馬用飼料(大麦・わら・干し草など)
・ パンや酒・缶詰などの陸軍御用商人もあった
(御用商人は定められた額の保証金を出した)
・ 軍馬の購入(川内の追廻や、扇坂、古川で)
・ 馬丁、調教師、蹄鉄工など募集
<軍による払下げ>
・ 外套・軍服などの古着、廃馬、各隊の下肥などの汲み取り、馬糞などの入札競売
・ 残飯などの払い下げを受ける業者 → 貧民に売る
・ 戦時には、生活に苦しむ軍人留守家族救済のため、軍服類の縫製や修繕を、留守家族が働く施設に発注
☆ 地元商工業界からは軍に、地元産業育成のため地元製品のより積極的な買上げを要望する声が絶えなかったが、その成果は上がらず、昭和期の軍工廠の設立を待つことになる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P298、P334
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軍都・仙台 |
第二師団御用達の店(軍関係者、兵士がよく利用した店を含む) |
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<調査中 資料未完成>
<昭和3年刊「東北産業博覧会写真帳」掲載写真に「陸軍御用達」の記載ある店>
・ パリーヤ洋服店(元寺小路101) 看板に「第二師団、偕行社指定」/軍服
・ 高新もちや(南町) 創業1869年(M2)、第二師団各隊御用、宮城師範学校御用 / 「番丁詳伝」P97では、「東一番丁2丁目、創業は奥州街道に沿う南町で明治2年、片平丁に仙台第二高等学校が開校し、さらに仙台に多くの兵舎が建てられてからは多くの若い人たちが名物のお汁粉を求めての門前市をなし「軍隊餅屋」の名でしられており、昔のあんもちの味を続けている。」
・ 日進堂(南町、和洋菓子、パン製造) 陸軍、鉄道局、逓信局、東北大学各学校諸官衙御用達
・ 須賀川酒造仙台支店(荒町26) 陸軍御用
<「番丁詳伝」などから>
・ 大町(通り)は、川内に兵舎が多く並んでときには、兵隊さんの往来で賑わい、除隊記念品を販売する店も目を惹いた(「番丁詳伝」P81)
・ 製麺製造所 日進堂本店(名掛丁)、日進堂増設販売所(新伝馬町)
・ 大平商店(大町2丁目) 酒味噌醤油飴たばこ小間物
・ 大武写真館(東一番丁) 1903年(M36)開業、日露戦争の頃第二師団御用写真館の指定をうけ軍人の来客多く門前市をなす状況(「番丁詳伝」P31)
・ 村上屋餅店(戦前は柳町の大日横丁) 1877年(M10)、創業 / 兵隊さんに人気の店、学生たちの集まりや送別会などでもよく使われた / 大日様をお詣りしての帰りには、必ずお土産にするのが習いという郷土名物おはぎやダンゴが人気 / その後、北目町に移転した
・ やぶや本店(大町2丁目、蕎麦屋)「1890年(M23)に、大町2丁目に移る / 川内の兵舎から外出する兵隊も多く利用した」(「番丁詳伝」P37)
・ 大久そば(東一番丁)「東京風のそばで、旧制仙台二高生や軍人などなじみ客で賑わい、また七夕まつりの日などは客止めをするほど人気の店だった。」(仙台老舗百店史)
・ ブラザー軒(洋食)「特に第二師団関係者が多く利用した」(「番丁詳伝」P36)
・ 武田洋服店 明治初期、大町1丁目で軍の御用商人として、軍服、生地の卸業/M43年、新伝馬町へ/S10年、大町5丁目へ、既製服専門店(「おおまち」P209)
・ 東京屋カバン店 T9年、東一番丁北部で開業/S6年、新伝馬町70に移転(軍隊行李や軍用靴を第二師団や連隊に納入)/S20、戦災で山本丁21へ/S22、大町5丁目へ出店(「おおまち」P210)
・ 横山輪業商会 大正9年創業 / 北海道・東北を販路として東北唯一、全国でも五指に数えられる営業 / 戦前は軍御用となった(「番丁詳伝」P209)
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・「仙台市史 特別編4 市民生活」P46の図45(仙台市商工業連合会広告)
・「仙台市史 特別編4 市民生活」P47の図46(広告団扇)/「番丁詳伝」P31、P37、P81、P97、P209/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P209~210
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18-35(村上屋餅店)/61-14 (だい久そば店)/61-19(やぶや本店)/61-21(高新餅屋)/ 62-14(ブラザー軒、軍人客と仲居さんたち)/61-22(日進堂)
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軍用機献納 |
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「愛国号」は陸軍へ、「報国号」は海軍への献納機 / 昭和7年の「愛国機」1号、2号にはじまり、太平洋戦争中まで、全国の市民、企業、団体などから献納が相次いだ。
* 1932年(S7)4月24日、宮城県民の寄付による軍用機「愛国機2号」の命名式(宮城野原練兵場)
* 1939年(S14)8月20日、海軍への献納機、宮城水産号、命名式(仙台飛行場)
* 1941年(S16)10月5日、愛婦献納機、命名式
* 1944年(S19)2月11日、愛国機仙台市民号、献納
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「重訂 宮城県郷土史年表」P431/「仙台市史10 年表」P278、P296、P302、P307/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
参考:陸軍愛国号献納機調査 http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html
その1「愛国1号、2号」http://coah.pro.tok2.com/AvnHistory/article/KF_2011-10.pdf /
海軍報国号献納機調査http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Houkokugou_List1.html
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民間から献納された海軍機「とうふ号」 80-01
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軍服(陸軍) |
立襟 →立折襟に |
1938年(S13) |
* 1928年(S13)6月に、立襟から立折襟に、階級章は肩章から襟章となる(ただし、旧軍服との併用が認められていた)
・ 将校がもつ軍刀は1934年(S9)に、サーベルから太刀型に変わった
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S7以前は、87-01 /S7以後S12以前は28-01
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軍刀(陸軍) |
サーベル →太刀型へ |
1934年(S9) |
* 1934年(S9)、陸軍の将校と准士官用の軍刀はS9年に、サーベルから太刀型に変わった
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87-01
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軍事教練 |
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・ 青少年を対象とした軍事予備教育のうち、特に歩兵操典に基づく訓練をさす
* 1928年(S3)2月24日、陸軍省、教練及び青年訓練修了者検定規定公布、この結果、教練も成績に加え合否が判定される
* 1944年(S19)2月4日、文部省、軍事教育強化方針発表
<第2次世界大戦の敗戦で廃止>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P8、P35
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軍事教練 |
学校教練(中等学校) |
1925年(T14)~1945年(S20) |
<学校教練>
* 1925(T14)年の陸軍現役将校学校配属令に基づき、旧制中等学校以上の教育機関に配属将校を配置し実施された
・ 第1次世界大戦後の軍縮に伴う将校の失業を救済するとともに、思想教育を兼ねた
・ 射撃など武器の使い方や戦史などを教え、演習も行った
・ 軍国主義教育の中心となった
* 1939年(S14)、中学校から大学までの授業に軍事教練が義務化された
* 1940年(S15)10月24日、県下男子中学校生徒(33校の上級生)の紀元二千六百年奉祝記念演習会を仙台付近で行う
* 1942年(S17)11月6日、宮城県下中等学校連合演習(仙台市付近で)
<配属将校>
・ 中学校には尉官級(大尉、中尉、少尉)、旧制高校、大学には佐官級(大佐、中佐、少佐)が配属され、複数の将校がいる学校もあった。
・ 教練は、射撃訓練や長距離行軍、部隊訓練、指揮法、手旗信号、武器保存、救助法、毒ガス防毒面の装脱、手りゅう弾投げ、防空監視など(「戦争のころ 仙台、宮城」P93)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P478、P493/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93
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29-06、29-07、29-08、43-02、43-12、43-14/「新・目で見る仙台の歴史」P161(S11年頃、宮城県工業学校の軍事教練)
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軍事教練 |
大学も必須に |
1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)3月30日、文部省、大学の軍事教練を必修とする
* 1941年(S16)8月30日、大学学部にも軍事教練担当現役将校を配属
<東北帝国大学>
軍事教練を行わない学校だったが、昭和14年からの義務化に際し、全学部2000人に毎週2時間程度実施のための武器がなく、文部省の斡旋で481丁の小銃、軽機関銃を急いで入手。(「戦争のころ 仙台、宮城」P93)
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「週刊20世紀 1939年」P10/「仙台年表」P209/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P27/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93
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軍事教練 |
高等女学校 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)、高等女学校で軍事教練開始
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「日録20世紀 1941年」P33
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軍事教練 |
一般青年 |
1926年(T15)~1945年(S20) |
一般青年に対しては、
* 1926年(T15)、全国に青年訓練所を設立し実施
* 1935年(S10)以降は、青年学校に引き継がれ実施された
(S10年、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる)
<青年訓練所>(「日録20世紀 1926年」P42)
1926年(T15)7月1日、全国1万3842カ所に設置 約104万人が入学 前年、軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請した / 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった(4月20日、法令公布)
<青年学校>(「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)
1935年(S10)4月、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学)
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「日録20世紀 1926年」P42/「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11
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青年学校生は、06-06
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車両ナンバー |
変更 |
1988年(S63) |
* 1988年(S63)1月4日、車両ナンバーは、「宮」から「宮城」に変更
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「続・ 宮城県郷土史年表」P238
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身体障害者福祉モデル都市 |
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1973年(S48) |
* 1973年(S48)7月27日、仙台市が国から「身体障害者福祉モデル都市」の第1号に指定される
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「仙台市史 年表」P128
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買出し |
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戦時中、戦後 |
* 1942年(S17)11月14日、乗車日指定券を持たぬ者の、週末祭日の旅行を禁止(買出し防止)
* 1943年(S18)、この年の流行語「買い出し」
* 1947年(S22)、この年、飢える都会と農村をつなぐ買出し列車が超満員(「菅家年表」P41)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P29、P31、P41
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「目で見る仙台の歴史」P169に「買い出し列車の混雑」
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貞山運河(貞山堀) |
改修事業 |
1880年(M13)~1889年(M22) |
* 1880年(M13)、貞山運河を貞山堀と改称、改修事業の測量着手
* 1889年(M22)5月11日、貞山堀改修工事完了し、貞山堀を再び貞山運河と改称
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「仙台市史 年表」P83、P86
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08-06/「新・目で見る仙台の歴史」P154(貞山堀で舟遊び)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P524(S9年、七郷消防組が貞山堀で行った放水実験/貞山堀のシジミ採り)
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谷風の墓所 |
改修・公開 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)3月28日、霞目の谷風の墓地を改修し、小公園造成して公開
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「重訂 宮城県郷土史年表」P591
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警察署(戦前) |
仙台警察署 |
1876年(M9)~1944年(S19) |
<南町時代>
* 1876年(M9)12月、宮城県が「第一警察出張所」を南町に設置 / 翌1877年(M10)3月23日に「仙台警察署」と改称(「仙台市史 年表」P81、「仙台市史 本編2」P650)
<県庁内に移転>
* 1879年(M12)1月、仙台警察署を勾当台の県庁内に移転、南町は南町分署になる(「仙台市史 本編2」P650)
* 1981年(M14)、南町分署を廃し再び仙台警察署とする(「仙台市史 本編2」P650)
<国分町へ移転>
* 1882年(M15)5月20日、新庁舎が国分町48に完成し移転(「仙台市史 年表」P84、「目で見る仙台の歴史」P116、「仙台市史 本編2」P651) / 赤煉瓦造2階建、上に時計塔、玄関に懸魚をつけ和風を加味(昭和2年に取壊し)
<宮城県警察本署>
* 1886年(M19)、宮城県の管轄として警察本署がおかれる
* 1887年(M20)、警察本署が勾当台通りの県庁構内へ新築移転
<交番所>
* 1926年(T15)、芭蕉の辻が有志の寄付で開設され巡査派出所と呼ばれる
<仙台警察署が東三番丁へ移転>
* 1928年(S3)、東三番丁(定禅寺通り)に庁舎新築し、9月23日、国分町の旧庁舎から移転(「仙台市史 本編2」P652、「仙台市史10 年表」P272では10月18日、「重訂 宮城県郷土史年表」P413、「目で見る仙台の歴史」P163) / 鉄筋コンクリート3階建て
<北警察署となる>
* 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台北警察署、仙台南警察署開庁(「仙台市史 本編2」P653、「仙台市史10 年表」P307) / 仙台警察署庁舎を仙台北警察署が使用、南署は堰場に新設
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「仙台市史 本編2」P650~653/「仙台市史 年表」P81、P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P413/「仙台市史10 年表」P272、P307/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116、P163
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「目で見る仙台の歴史」P116(M15、国分町に完成した仙台警察署)/同P163(S3年竣工の庁舎)
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警察署 |
仙台北警察署 |
1944年(S19)~ |
<東三番丁時代>
* 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台警察署(東三番丁)が仙台北警察署になり、仙台南警察署(若林区堰場)開庁(「仙台市史 本編2」P653、「仙台市史10 年表」P307)
<荒巻へ移転>
* 1966年(S41)4月、従来の仙台北警察署の建物は仙台中央警察署となり、仙台北警察署は荒巻に新設移転した(「仙台市史 年表」P124、「重訂 宮城県郷土史年表」P625)
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「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807/Wikipedia「仙台中央警察署」(2020年7月)
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18-10、44-41、44-31/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807に、仙台中央警察署庁舎(元、北警察署)/同P803に、「中央署の新設に伴い新築した北署」(昭和41年4月)
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警察署 |
仙台中央警察署 |
1966年(S41)~ |
<東三番丁時代>
* 1966年(S41)4月1日、勾当台地区(定禅寺通り北側に面して)あった仙台北警察署の建物を仙台中央警察署(新発足)とし、仙台北警察署は荒巻に新設移転
<一番町4丁目へ移転>
* 1970年(S45)3月25日、仙台中央警察署が、現・一番町4丁目に新庁舎を建設(旧・仙台北税務署跡、森徳横丁と東二番丁通り交差点南西角)
* 1973年(S48)6月、仙台中央警察署で、東北初の交通管制システム始動
<五橋ヘ移転>
* 2005年(H17)、青葉区五橋1丁目(JR仙台病院の跡地の一部)に新築移転
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「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P20/Wikipedia「仙台中央警察署」(2020年7月)
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警察署 |
仙台南警察署 |
1944年(S19)~ |
<新設され、堰場に開庁>
* 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台警察署が仙台北警察署になり、仙台南警察署(若林区堰場)開庁
<舟丁へ移転>
* 1962年(S37)9月12日、新庁舎、舟丁に落成
<長町へ移転>
* 1993年(H5)、庁舎を長町(太白区長町6丁目)に移転
* 2019年(H31)4月1日、仙台市若林区を新設の若林警察署に移管
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Wikipedia「仙台南警察署」/「重訂 宮城県郷土史年表」P606
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P780に、「改築後の仙台南警察署」
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警察署 |
若林警察署 |
2019年(H31)~ |
* 2019年(H31)4月1日、仙台南警察署から分離し、若林警察署が開署
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Wikipedia「若林警察署」(2020年5月)
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警察署 |
仙台東警察署 |
1956年(S31)~ |
* 1956年(S31)9月1日、発足(原町苦竹/宮城野区南目館21)
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「仙台市史 年表」P119/「重訂 宮城県郷土史年表」P582/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798に、「仙台東警察署庁舎」
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警察学校 |
東北管区警察学校 |
1956年(S31)~1975年(S50)3月 |
場所は、現在(2018年)の榴ケ岡公園内の一角で、かつては(明治時代~昭和20年まで)陸軍第二師団の歩兵第4連隊兵営だったが、戦災にあわず、戦後は進駐軍(米軍)基地(キャンプ・ファウラー)となり、米軍から返還された後に東北管区警察学校が置かれた / 高等部は旗立から、普通部は玉浦から移転
* 1956年(S31)11月30日、開校式
* 1975年(S50)3月、多賀城に移転
* 1975年(S50)5月、跡地(国有地)が、仙台市緑の拠点として払い下げが決まり、榴ヶ岡公園の一部となった
* 移転後の1975年(S50)1月13日から、戦前からの旧・歩兵第4連隊兵舎は解体されたが、一棟だけ残された兵舎が、仙台市歴史民俗資料館となった(S54年11月3日開館)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P800/東北管区警察学校HP/「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P41
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34-47
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警察学校 |
宮城県警察学校 |
1954年(S29) |
* 1954年(S29)、宮城県警察学校着工きまる(木造2階建て)、/ 場所は台原(荒巻杉添)の米軍射撃場跡地で、県警察学校は川内から台原(ダイノハラ)に移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P788、P795
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警察(戦後) |
自治体警察 |
1948年(S23)2月~1954年(S29)6月 |
<戦後の警察官>
* 1920年(S20)秋~1946年(S21)11月、警察官は識別を容易にするため、上部に「警察」、下部に「POLICE」と書かれた白布腕章をつけたが、1年有余後に汚損等外観上不体裁ということで廃止(「番丁詳伝」P151)
* 1946年(S21)1月、GHQ覚書により、警察官、佩刀とりさられて丸腰に(かわりに警棒) / 特別に拳銃形態の場合あり(「仙台市史」本編2」P654)
* 1946年(S21)12月24日、仙台北警察署に初の婦人警察官11名配属(「番丁詳伝」P151)
<自治体警察>
* 1947年(S22)12月17日、警察法公布(地方分権化・民主化を目的に国家地方警察・自治体警察設置)(岩波ブックレット「年表 昭和史」P26)
* 1947年(S22)12月22日、宮城県警察部の機構改正 / 従来の警察署が、「地区警察署」と「市町村警察署」の2本立てとなる / 地区警察署は、仙台地区警察署以下19ケ署 / 市町村自治体署は、仙台市北署以下41ケ署を新設(重訂 宮城県郷土史年表P523)
* 1948年(S23)2月11日、自治体警察発足(重訂 宮城県郷土史年表P525)
* 1948年(S23)3月7日、新警察制度発足、仙台市警察開庁(仙台市史10年表、岩波ブックレット「年表 昭和史」P27、「仙台あのころこのころ八十八年」P250)
* 1948年(S23)3月7日、自治体警察である仙台市警察本部を設立
* 1950年(S25)1月17日、仙台市警察本部庁舎新築落成移転
* 1954年(S29)6月8日、警察法改正公布(国家地方警察と自治体警察を、都道府県警察に一元化、中央集権化を強める)
* 1954年(S29)7月1日、仙台市警察が廃止され宮城県警察に引き継がれる
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「番丁詳伝」P151/「仙台市史」本編2」P654/岩波ブックレット「年表 昭和史」P26、P27、P33/「仙台市史 年表」P115、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P523、P525/「仙台市史10 年表」P318、P323/「仙台あのころこのころ八十八年」P250
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「目で見る仙台の歴史」P182(仙台市警察本部)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(仙台市警察本部旗)/「市民の戦後史(仙台市)」P80(S29年6月、仙台地区警察署閉庁式看板)
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警察(戦後) |
宮城県警察 |
1954年(S29)7月~ |
* 1954年(S29)7月1日、新警察法施行に伴い、国家地方警察宮城県本部と、仙台市警察などの自治体警察が統合し宮城県警察が発足
(2020年現在、宮城県警察本部庁舎は、宮城県庁舎に隣接)
* 1973年(S48)5月11日、県警にヘリコプター「あおば」配備
* 1975年(S50)2月7日、ヤングテレホン設置
* 1985年(S60)5月21日、県警、少年相談電話スタート
* 1986年(S61)4月11日、県警、仙台市内の交差点にセンター・ブロック埋設
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「仙台市史」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P37、P191、P204
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