項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
藤崎(戦前期) |
創業/大町4丁目へ進出 |
1819年(文政2年)/1879年(M12) |
* 1819年(文政2年)、得可壽屋(えびすや、現・藤崎)、(旧)大町2丁目1番地の地に太物商として創業
・ 当時の屋号はエビスヤ(「えべすや」と発音していたと伝えられている)
・ 〇にエの字を配し至誠一貫の意を表す横棒を入れて店印とした
* 1879年(M12)、大町4丁目(東一番丁北西角)に進出、小売部を開店(M15年より、正札販売) / 大町2丁目を本店(ほんだな)、大町4丁目の店を出店(さきだな)と呼ぶ / 木綿から絹織物までを扱う呉服店
|
「藤崎170年のあゆみ」P22、P42/同P196~197に、創業~1989年(H元年)までの年表あり/「東一番丁創立五十周年」P8/「番丁詳伝」P42~43/「重訂 宮城県郷土史年表」P266/「番丁詳伝」P40
|
|
藤崎(戦前期) |
東一番丁角に出店(土蔵造り店舗) |
1896年(M29)~明治末年 |
* 1896年(M29)4月、(旧)大町5丁目3番地の470坪(一力健次郎氏より購入)に新店舗建築を開始(場所は大町通り・東一番丁南東角)
* 1897年(M30)2月11日、(旧)大町5丁目に「土蔵造り瓦葺座売式店舗」を完成、卸部・小売部を移転し、紀元節をもって移転開業
(跡地に、1932年(S7)11月3日に西館(3階洋館建)オープン)
* 1910年(M43)2月、藤崎三郎助がドイツ製二人乗り幌型自動車を3千円で自家用として入手(宮城県内第1号)
* 1912年(M45)2月、株式会社設立、「株式会社藤崎呉服店」とする、資本金70万円
|
「藤崎170年のあゆみ」P253/「東一番丁物語」(柴田量平著)P214~217/「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台市史 年表」P90/「重訂 宮城県郷土史年表」P307/「仙台年表」P171、P187/「番丁詳伝」P41、P110、
|
「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に、「(旧)大町5丁目の藤崎呉服店」/「藤崎170年のあゆみ」P199に、「土蔵造り店舗の絵と写真」
|
藤崎(戦前期) |
洋風木造館(2階建て)建設~焼失 |
大正期~1945年(S20) |
場所は大町・東一番丁角の敷地のうち東側の部分で、(旧)大町5丁目通りの南側に面す
* 1919年(T8)11月3日、「洋風木造館」開店
・ 創業百年を記念し近代的な洋風二階建木造館(200坪)の陳列式店舗を建て百貨店化、藤崎マーケットと称する(座売式店舗を廃止した)、西隣(大町・東一番丁南東角)には土蔵造りの卸部があった
・ 店内にブロックを敷き詰め、歩道と同じように歩けるようにした陳列式店舗で、水洗便所、暖房装置、索道金銭運搬機(キャッシュキャリー)を設備 / 近代設備は当時の仙台名物のひとつ
・ 呉服、綿布、洋反物、洋品雑貨、洋服誂えで呉服と雑貨を主力とする
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
|
「藤崎170年のあゆみ」P92、P254/「番丁詳伝」P43
|
98-014、98-015、98-016、20-37、99-042
/「藤崎170年のあゆみ」P199~200(洋風木造館外観イラストと写真、売場写真、内部配置図)
|
藤崎(戦前期) |
改称 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)5月1日、株式会社藤崎呉服店、株式会社藤崎と改称
|
「仙台市史 年表」P105/藤崎170年のあゆみ」P255
|
|
藤崎(戦前期) |
西館 開店 |
1932年(S7) |
S8年の三越進出(東一番丁)を視野に、先手をうって本館横に西館を建設
* 1932年(S7)4月5日、地鎮祭
* 1932年(S7)11月3日、「西館」開店
・ オープン後は西館が藤崎の主力店舗となった
・ 東一番丁・大町交差点(南東角)で、T8年建設の洋風木造本館の西に隣接、それ以前この場所には土蔵造り瓦葺平屋店舗(M30年建設)があった
・ 鉄筋コンクリート造地下1階地上3階、一部4階建、ルネッサンス式総タイル張り、一部4階建て、のべ614坪
・ 大食堂(3階)、催事場(2階)、屋上には遊園地、エレベーターを設置
新設されたエレベーターと、それを操縦するエレベーターボーイ(紺の詰襟服、金ボタンに赤線の入ったズボン姿)が人気を博した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P39)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で建物は焼け残る
* 1945年(S20)8月3日、空襲後の営業再開
|
「藤崎」の店舗の変遷(増改築)は「藤崎170年のあゆみ」P196~209の年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P39、P40/「仙台市史 年表」P113
|
20-37、20-38、18-22、98-016、64-03、53-33、53-46、22-27、98-019、20-23、53-100、20-26、20-31、72-02
|
藤崎(戦前期) |
北売場 開店~焼失 |
1935年(S10)~1945年(S20) |
* 1935年(S10)12月14日、「藤崎北売場」開店
・ 東一番丁・大町角(北西角)の梅川漆器店舗跡地に建設
・ 木造、地下1階地上3階建
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
|
「藤崎170年のあゆみ」P203
|
53-33、64-03/七夕飾りは20-32、20-48/「藤崎170年のあゆみ」P203に全景写真/「番丁詳伝」P43/地図は98-110
|
蔵王エコーライン |
開通 |
1962年(S37) |
* 1960年(S35)1月7日、着工
* 1962年(S37)7月14日、開通
* 1962年(S37)11月9日、全線開通(全長26キロ)
* 1967年(S42)8月4日、全線の舗装完成
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P605、P606、P633
|
「市民の戦後史(仙台市)」P143
|
花火大会 |
|
|
* 1967年(S42)8月、広瀬河畔の花火大会、交通事情などでこの年限りで廃止
* 1970年(S45)8月5日、仙台七夕で、花火大会初開催
|
「市民の戦後史(仙台市)」P201/仙台市史 年表」P127
|
「市民の戦後史(仙台市)」P201(S42年、広瀬河畔の花火大会)
|
芭蕉の辻商館 |
建築~焼失 |
1891年(M24)~1900年(M33) |
<芭蕉の辻(北東角)>
* 1890年(M23)5月25日、北東角(若松屋)焼失
* 1891年(M24)9月19日、北東角に「芭蕉の辻商館」完成、落成式(木造2階建外部漆喰塗でドーム屋根の塔)
* 1892年(M25)11月27日、芭蕉の辻勧工場(芭蕉の辻商館)内に、宮城県物産陳列場開設
* 1900年(M33)4月10日、「芭蕉の辻商館」焼失
* 1903年(M36)8月1日、跡地に「七十七銀行本店」が竣工(洋館)、落成披露宴開催
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P285/「仙台市史 年表」P87、P88/「仙台市史10 年表」P202、P218、P225/「明治の洋風建築~宮城県~」P113/粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P3/「目で見る仙台の歴史」P135
|
「明治の洋風建築~宮城県~」P113(芭蕉の辻商館)/「目で見る仙台の歴史」P135(芭蕉の辻商館と、同火災図)/「新・目で見る仙台の歴史」P133(火災図)
|
芭蕉の辻の洋館 |
七十七銀行本店 |
1903年(M36)~1929年(S4) |
・1900年(M33)に焼失した「芭蕉の辻商館」(芭蕉の辻・東北角)の跡地に七十七銀行が建設
・ ドイツ・ルネッサンス式純洋風建築で地下室付き2階建て、2本の3階建て塔屋をもつ
<「わしが国さ」第29号(昭和5年12月、仙台協賛会発行)P2掲載、小倉強著「仙台に於ける建築の変遷」(下)>
「明治35年2月起工、36年8月1日竣工。松崎という技師がドイツへ留学し習って帰って建てた。ドイツ風のルネッサンス式を模した純洋風建築。大体は石造りで、一部煉瓦を用い、屋根にはスレートを葺いてある。八角形の尖塔と四角錘の塔が屋根に変化を与え、ベランダあり塔あり、形の変化に苦心しております。特徴は屋根裏に室を有することと地下室があることであります。」
* 1902年(M35)2月、起工
* 1903年(M36)8月1日、竣工
七十七銀行が(旧)大町1丁目から本店を移転
* 1929年(S4)7月10日まで使用
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P328/「仙台市史 年表」P92/「わしが国さ」第29号(昭和5年12月、仙台協賛会発行)P2掲載の小倉強著「仙台に於ける建築の変遷」(下)
|
99-021、99-022、99-024、99-025、53-49、43-27
|
芭蕉の辻の洋館 |
精養軒が使用 |
1929年(S4)~1941年(S16) |
* 1929年(S4)~1941年(S16)、精養軒(洋食レストラン)が使用
|
|
99-026、22-33、64-05、99-028/地図は98-110
|
芭蕉の辻の洋館 |
日本銀行が使用 |
1941年(S16)10月~ |
* 1941年(S16)10月10日~ 日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(外観もかなり損傷)
* 1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に営業所再建
|
「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
|
16-01/S20年戦災で損傷→53-77、35-13
|
芭蕉の辻の城櫓風建物(4棟) |
4棟の向き |
|
<特徴> 城櫓風2階建て白壁の店舗(商家)で、屋根棟には二つの竜が這い、屋根の四隅には唐獅子が踊っている
<屋根の向き> 芭蕉の辻の北東角と南東角は東西方向に長く、北西角と南西角は南北方向に長い
|
|
98-022
|
芭蕉の辻の城櫓風建物 |
4棟の焼失年 |
1890年(M23)~1945年(S20) |
藩政時代以来芭蕉の辻の四隅を占めていた城櫓風の建物(白壁の櫓屋敷)は、明治年間に3棟が焼失、昭和20年の仙台空襲で残りの1棟も失われた
<芭蕉の辻の建物の焼失>
「重訂 宮城県郷土史年表」より
* 1890年(M23)1月14日、南東角(近江屋馬渕善吉商店)焼失
* 1890年(M23)5月25日、北東角(若松屋)焼失
* 1902年(M35)2月3日、南西角(田中時計店)焼失
「仙台市史10 年表」より
* 1890年(M23)1月14日、芭蕉の辻、東南部焼失
* 1890年(M23)5月25日、芭蕉の辻、東北部16棟焼失
* 1902年(M35)2月3日、芭蕉の辻、南西部焼失
<北西角焼失>
* 1945年(S20)7月10日、北西角(安田生命)は仙台空襲で焼失
<参考> 「仙台あのころこのころ八十八年」P21~23の「芭蕉の辻は悲し」(三原良吉)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P285、P324/「仙台市史10 年表」P200、P201、/「仙台あのころこのころ八十八年」P238
|
98-022
|
芭蕉の辻の城櫓風建物 |
北西角の入居者、変遷 |
|
芭蕉辻北西角の建物は、
* 奥田金物店 →1911年(M44)に共済生命保険 →1929年(S4)に社名改称し、安田生命保険
* 1887年(M20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1971年(S46)2月3日、芭蕉の辻北西角に安田生命保険相互会社が、仙台ビルを建設するにあたり、かつての「芭蕉の辻道標」と「棟の竜屋根瓦」を再現し除幕式
|
粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P15/「重訂 宮城県郷土史年表」P668
|
98-023、44-22、99-023、99-024、44-06、99-027、99-028、20-18、53-52
|
芭蕉の辻の交番 |
屯所設置/巡査派出所/建替 |
1884年(M17)/1889年(M18)/1926年(T15) |
* 1884年(M17)3月、芭蕉の辻など仙台区内8カ所に屯所を置く / 1889年(M18)年6月、屯所の名称を巡査派出所とする(「仙台市史 本編2」P650~651)
* 1926年(T15)3月20日、附近有志の寄付により芭蕉の辻巡査立番所を改築、同巡査派出所と改めた(「仙台市史 本編2」P652、「仙台市史10 年表」P267) / 陸屋根コンクリート造りに建替えられた(粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P21)
|
「仙台市史 本編2」P650~652/「仙台市史10 年表」P267/粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P21(河北新報T15年1月18日の記事)
|
16-01(右下の建物)
|
芭蕉の辻 |
|
|
<芭蕉の辻、名称の初見>(矢島玄亮編著「仙台年表」P32より)
「1668年(寛文8)4月、岩城の俳諧執行者松山房仙台に再遊し芭蕉の辻を詠む。句に『聞よるやはせおをが辻をほととぎす』。これが芭蕉の辻の初見。」
【昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」より】
・ 藩政時代は、仙台城下町の中心(町の区画の中心)で札番所(ふだばんどころ)がおかれ、忠孝条目のほかキリシタン捨馬の制札が掲げてあったので、札の辻(ふだのつじ)と呼ばれた。辻の四隅には城郭風の櫓があった。
【写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻】
・ 「芭蕉の辻」は、藩政時代から商人町の中心として栄えた国分町(旧・奥州街道)と、青葉城大手門へ通じる大橋へむかう大町の通りが交わる交差点で、明治時代までは仙台で最も繁華だった場所。
・ 辻の四隅に建つ城櫓風(2階建て白壁)の建物(商家)が城下仙台のシンボル的な景観だったが、明治半ばに三隅(北東角、南西角、南東角)を焼失した。
・ その後は、残る北西角の城櫓風建物と、向いあう北東角の洋館(明治36年竣工のドイツルネッサンス式純洋風建築、七十七銀行本店)が、仙台の代表的な景観の1つとして絵葉書やアマチュア写真の対象となったが、いずれも1945年(S20)7月の仙台空襲で周辺一帯と共に灰燼に帰した。
<明治初期の地価>
(「重訂 宮城県郷土史年表」P244、明治6~7年の項より)
「この頃政府は土地の整理を開始し、地籍を設け、地価を定め地券を発行す。 当時仙台の中心地芭蕉の辻は一反に付き三百六十円即ち一坪壱円二十銭。 今の東一番丁は僅かに一反三十円即ち一坪十銭、田地の価格が一反歩金十円乃至二十円なりき」
|
矢島玄亮編著「仙台年表」P32/昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」/「写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻」/「重訂 宮城県郷土史年表」P244
|
「写真データベースの分類A-03 「芭蕉の辻」の全写真(98-020、77-18-01、99-022、22-33、20-03など)/「目で見る仙台の歴史」P189(S30年前後の芭蕉の辻)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図5~7(S10年頃、S36年、H8年)
|
興亜奉公日/大詔奉戴日 |
興亜奉公日 |
1939年(S14)9月~ |
* 1939年(S14)9月から毎月1日実施 / 酒不買、ネオン消灯、禁酒禁煙、一汁一菜、など / S16年末で廃止、大平洋戦争開戦後のS17年1月からは、毎月8日を「大詔奉戴日」とする
・ 仙台市では、朝5時にサイレンを鳴らして市民に早起きをさせ、全市民に皇居や伊勢神宮への遙拝、戦没者などへの黙祷、日の丸弁当の強制、護国神社の工事に関して働くことや市内の清掃などへの奉仕活動が義務付けられた
|
岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P23/「仙台市史 特別編4 市民生活」P313
|
|
興亜奉公日/大詔奉戴日 |
大詔奉戴日 |
1942年(S17)1月~ |
* 1942年(S17)1月2日、興亜奉公日を廃止し、以降毎月8日を「大詔奉戴日」とし、職場での詔書奉戴式、国旗掲揚、必勝祈願の日とする
|
岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28
|
|
自警団 |
発足 |
1922年(T11) |
<「番丁詳伝」P71より>
・ 自警団は、消防組の補助機関として町内につくられた民間組織で、犯罪予防、災害防止、衛生・交通思想の普及を担う / 大正11年頃から結成され、1934年(S9)末には市内で135にのぼる / 火事の時には現場に出て非常線の警戒援助、傷病者の救護、家財道具などの搬出援助、その盗難予防警戒にあたる / 特に町の催し物の時には提灯を下げて交通整理にあたった / 日中戦争期には防護団、さらに警防団となった
・ 市中心部の各自警団名と設立年一覧表(「番丁詳伝」P71)
* 1922年(T11)10月9日、仙台市自警団が発足
|
「番丁詳伝」P71、P130/「仙台市史 年表」P101
|
22-35 (大正10年の藩祖政宗公三百年祭の奉祝アーチに立町自警団の字)
|
自衛隊 |
宮城県内(警察予備隊、保安隊時代) |
1950年(S25)8月~1954年(S29) |
<警察予備隊>
* 1950年(S25)8月10日、警察予備隊令公布 / 隊員募集に志願者殺到、宮城県内でも応募者1000人を超える / 8月20日までに県内で7575名が応募、365名合格(第1次入隊)
* 1950年(S25)8月23日、東北6県の第1次合格者1194名が仙台管区警察学校に入る
* 1950年(S25)、その後の入隊者を含め、創設当時の警察予備隊員、東北地方からの約7000人が、米軍苦竹キャンプに4か月間駐屯、米軍顧問機関の指導や訓練を受ける(朝鮮戦争開戦で、米軍第一空挺師団が去り、一時的に空いていた / その後米第一騎兵師団が交代駐屯) / その後、宮城県船岡、山形県神町、青森県八戸などの米軍キャンプ内に隊舎がつくられ、隊員は一時そこに分駐するが、そのほとんどは後に関東や北陸での任務にまわされたという
<保安隊>
* 1952年(S27)7月、警察予備隊と新設の海上警備隊を統合的に指揮する、保安庁設置 / 警察予備隊を「保安隊」、海上警備隊を「警備隊」とし改編 / 保安隊発足当初、東北地方の駐屯地は、宮城県の船岡、青森、秋田の3か所 / その後、郡山、福島、大湊が加わる
* 1954年(S29)、保安庁が改組され防衛庁になり、「保安隊が「陸上自衛隊」に、警備隊が「海上自衛隊」になる
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333
|
34-47 (東北管区警察学校)
|
自衛隊 |
宮城県内(自衛隊) |
1954年(S29)~ |
<陸上自衛隊>
* 1954年(S29)、保安隊から「陸上自衛隊」への改編にあわせ、第六管区(東北6県と新潟県を管轄)を新設(総監部は暫定的に福島) / S31年に、青森と岩手は管轄外に
* 1954年(S29)12月5日、陸上自衛隊多賀城駐屯地創設
* 1955年(S30)3月19日、第六管区総監部駐屯各部隊の主力が福島から多賀城駐屯地に移動(宮城県内は、多賀城に総監部、普通科連隊、武器・通信・補給部隊、船岡に補給整備支援群部隊、大和に特車と偵察部隊を配置)
* 1955年11月1日、米軍松島キャンプ跡に自衛隊第二操縦学校を開設
* 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設
* 1958年(S33)3月25日、原町苦竹(旧苦竹米軍キャンプ)に陸上自衛隊南仙台駐屯地を設置
* 1958年(S33)6月、原町苦竹に北仙台駐屯地設置
* 1960年(S35)1月13日、仙台駐屯地に東北方面総監部が発足(全国を5つの方面管区制に移行、東北地方は東北方面隊が統括)
* 1960年(S35)、仙台南と仙台北駐屯地を統合し、「仙台駐屯地」に
* 1962年(S37)、第六管区隊を第六師団、第九混成隊を第九師団と改称)、第六管区隊の総監部は、山形県東根市の神町(じんまち)に移され、多賀城には第22普通科連隊が残る
****************************
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P452の表207に「東北方面隊の部隊配置表」(S35年頃?) → 宮城県内には、第6師団が多賀城(第22普通科連隊・第1教育大隊ほか)と大和(第6戦車大隊ほか)/ 霞の目に東北方面航空隊ほか、船岡に第2施設団ほか、岩沼に航空学校岩沼分校ほか
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333
|
「市民の戦後史(仙台市)」P123(自衛隊東北総監部設置関連映像)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P331(S32年、苦竹キャンプ跡地に自衛隊の看板をかける)
|
自衛隊 |
仙台市への協力工事、災害派遣 |
1958年(S33)~ |
<協力工事、災害派遣>
・ 1960年代、火災や断水時の出動が多かった
・ 仙台第三高等学校や葛巻墓園の造成・整備を受託
・ 仙台七夕への支援
・ 苦竹駐屯地東側広場を東北博覧会(S42年)の会場に提供
**********************************
・ 自衛隊の仙台市に対する協力工事一覧表(S33~42年度)→ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P854の表208(学校敷地造成、葛岡墓園造成、公園敷地整備など8件)
・ 自衛隊の仙台市に対する災害派遣一覧表(S33~41年)→「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P855(火災、チリ地震津波、人命救助、給水など9件)
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P332~333/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P854、P855
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P333の図332(県立盲学校に植物円園造成で自衛隊員が作業奉仕)
|
自動車専用道 |
東北自動車道 |
|
→ 項目「東北自動車道」参照
|
|
|
自動車専用道 |
山形自動車道 |
|
→ 項目「山形自動車道」参照
|
|
|
自動車専用道 |
仙台西道路 |
1983年(S58)/1987年(S62) |
青葉区を東西に走る自動車専用道路(国道48号)で、仙台市都心部と仙台都市圏環状自動車専用道路とを結ぶ唯一の自動車専用道路(5.15km)
* 1978年(S53)5月20日、青葉山トンネル貫通式
* 1980年(S55)8月、新仲ノ瀬橋下り車線完成
* 1983年(S58)5月14日、部分供用開始(暫定2車線、4.9km) / 仙台宮城IC入口交差点(折立IC)~立町交差点(西公園通と広瀬通との交差点)の区間(延長4.9 km)
* 1984年(S59)9月1日、立町トンネル開通(「続・ 宮城県郷土史年表」P184では、12月20日開通)
* 1987年(S62)11月30日、全線4車線で全面供用開始
|
「仙台市史 年表」P131、P133、P135/「続・ 宮城県郷土史年表」P81、P116、P162、P184、P233/Wikipedia「仙台西道路」(2020年7月)
|
|
自動車専用道 |
三陸自動車道(旧・仙台松島有料道路) |
1982年(S57)/1993年(H5)/2002年(H14) |
<仙台松島有料道路>
* 1982年(S57)10月1日、初原~根廻間、開通(のちの松島大郷IC・松島北IC間に当たる)
* 1986年(S61)9月27日、利府中IC~松島大郷IC間(11.5km)開通(これにより仙台松島有料道路が全線開通)
<三陸自動車道>
* 1993年(H5)3月25日、松島北IC~鳴瀬奥松島IC間開通 / 同時に、従来の仙台松島有料道路を含む、利府中IC~鳴瀬奥松島ICを、三陸自動車道に改名
* 1997年(H9)3月27日、仙台港北IC~利府中IC間開通
* 1998年(H10)3月20日、鳴瀬奥松島IC~石巻河南IC間開通
* 2001年(H13)6月6日、利府塩釜IC供用開始
* 2001年(H13)8月1日、仙台港北ICで仙台東部道路と接続
* 2002年(H14)5月19日、利府JCT開通により仙台北部道路と接続
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P151、P211/Wikipedia「三陸自動車道」(2020年7月)
|
|
自動車専用道 |
仙台北部道路 |
2002年(H14)/2013年(H25) |
* 2002年(H14)5月19日、利府JCT~利府しらかし台IC間 (5.2km) 開通
* 2005年(H17)10月1日、日本道路公団の民営化により、東日本高速道路株式会社に承継
* 2010年(H22)3月27日、利府しらかし台IC~富谷JCT間 (6.6km) 開通
* 2013年(H25)12月22日、富谷JCT~富谷IC間 (1.7km) 開通に伴い全線開通(利府JCT~富谷JCT、13.5km)
|
Wikipedia「仙台北部道路」(2020年7月)
|
|
自動車専用道 |
仙台南部道路(旧・仙台南有料道路) |
1981年(S56)/2001年(H13)
|
<仙台南有料道路>
* 1981年(S56)1月31日、仙台南有料道路として、山田料金所(現・山田IC)付近~長町出入口間開通 / 当初の制限速度は50km/h
<仙台南部道路>
* 1994年(H6)3月30日、仙台若林JCT~山田仮出入口間開通 / 同時に、長町仮出入口を廃止し、今泉IC・長町IC供用開始 / 仙台南部道路に路線名改称 / 制限速度は60km/h
* 1995年(H7)8月、地域高規格道路(都市圏自動車専用道路等)の「整備区間」に指定
* 2001年(H13)8月1日、仙台南IC~山田IC間開通 / 同時に、山田仮出入口廃止し、山田ICおよび山田TB(本線料金所)供用開始 / 制限速度を従来の60km/hから70km/hに引き上げ / 東北自動車道に接続(これで、仙台南IC~若林JCT間12.2kmが全通)
* 2013年(H25)7月1日、宮城県道路公社から東日本高道路株式会社に有償移管
|
「仙台市史 年表」P132/Wikipedia「仙台南部道路」(2020年7月)
|
|
自動車専用道 |
仙台東部道路 |
1994年(H6)/2012年(H24) |
* 1994年(H6)3月30日、仙台東部道路の仙台空港IC~仙台東IC間開通
* 1995年(H7)7月27日、岩沼IC~仙台空港IC間開通
* 2001年(H13)8月1日、亘理IC~岩沼IC間、仙台東IC~仙台港北IC間開通(これで、全線開通) / 4車線区間の制限速度を80km/hから100km/hに引き上げ
* 2005年(H17)10月1日、日本道路公団の分割民営化により東日本高速道路株式会社に承継
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災により全線通行止(地震・津波により甚大な損傷を受ける) / 同年3月30日、東日本大震災による通行止は全て解除
* 2012年(H24)12月1日、仙台港IC供用開始(これで、仙台港IC~亘理IC間24.8kmは全線開通) / 仙台港IC以北は、三陸自動車道
|
Wikipedia「仙台東部道路」(2020年7月)
|
|
自動車など発売年 |
戦後 |
|
* 1951年(S26)、本田技研、4サイクル・オートバイ
* 1952年(S27)、本田技研、原付自転車
* 1952年(S27)、鈴木式織機(のちのスズキ自働車)、バイクエンジン車
* 1955年(S30)、トヨタ、トヨペット・クラウン(100万円以上)
* 1957年(S32)、ダイハツ工業、軽三輪トラック(3000キロ積) / 農家が農事用として購入はじめる
* 1957年(S32)、トヨタ、小型乗用車「コロナ」
* 1959年(S34)、富士精密(にちのプリンス自動車)、グロリア
* 1959年(S34)、富士重工、軽自動車「スバル360セダン」(通称、テントウムシ)
* 1959年(S34)、日産自動車、ブルーバード
*************************
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~417「三種の神器」には、乗用車のほか、各種の家庭電化製品の発売時期の記載、昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率(グラフ)あり
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~416
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P416(昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率グラフ)
|
自動車など各種車両台数 |
自動車台数(宮城県内) |
1912年(T1)/1918年(T7)/1925年(T14)/1926年(T15) |
* 1912年(T1)10月、仙台市内で初めて乗合自動車の営業始まる(「仙台あのころこのころ八十八年」P242)
* 1918年(T7)、宮城県内で、自動車6台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
* 1925年(T14)、宮城県に168台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
* 1926年(T15)、宮城県に455台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P215)
|
「仙台あのころこのころ八十八年」/P242「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P215
|
|
自動車など各種車両台数 |
自動車台数(仙台市内) |
1926年(S1)~1985年(S60) |
* 仙台の車(昭和10年頃)(「仙台の産業と観光」P27)
・ 自動車695台(乗用572台、貨物123台)
・ サイドカー35台、オートバイ109台
* 仙台の自動車台数(出典調査中)
→数字は、自動車台数(乗用車台数、貨物自動車等台数)
・1926年(S1)、 256台(221、35)
・1935年(S10)、 704台(578、126)
・1945年(S20)、1350台(436、914)
・1955年(S30)、4348台(920、3428)
・1965年(S40)、2万3602台(8302、1万5300)
* 終戦前後、仙台市内にあった自動車台数(「仙台市史 続編1」P88)
→数字は(乗用車台数、貨物自動車等台数)
・1943年(S18)、自動車(496、804)
・1944年(S19)、自動車(448、606)
・1945年(S20)、自動車(436、914)
・1946年(S21)、自動車 (23、376)
* 仙台市内、乗用車保有台数(「仙台市史 特別編4 市民生活」P217)
・1975年(S50)、 6万8000台
・1985年(S60)、15万3000台
|
「仙台の産業と観光」(S10年、仙台市役所刊)P27/「仙台市史 続編1」P88/「仙台市史 特別編4 市民生活」P217
|
S11~15年頃は、53-88、53-92、34-08
/ 戦後は、20-07(S38)、22-13(S43)
|
自動車など各種車両台数 |
自動車と人力車(全国)大正・昭和の台数 |
T1、T4、S3 |
<「生活の変わりようをみる昭和の年表」P9>
・ 全国の自動車台数
1922年(T1)、760台
1928年(S3)、6万台
・ 全国の人力車
1922年(T1)、12万7千台
1928年(S3)、 6万2千台
<「日録20世紀 1915年」P35>
・ 全国の自転車
1915年(T4)年末、62万台、
・ 全国の人力車
1915年(T4)年末、12万台
|
【菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P9/「日録20世紀 1915年」P35
|
|
自動車など各種車両台数 |
人力車台数(仙台市/宮城県内) |
|
→ 項目「人力車」参照
|
|
|
自動車など各種車両台数 |
自転車(仙台市/宮城県内) |
1889年(M22)~1935年(S10)頃/1918年(T7) |
<仙台市内>
* 1889年(M22)、5台(「番丁詳伝」P63)
* 1897年(M30)、30台(「番丁詳伝」P63)
* 1905年(M38)、213台(「番丁詳伝」P63)
* 1916年(T5)、1652台(「番丁詳伝」P63)
* 1935年(S10)頃、2万1978台(「仙台の産業と観光」P27)
<宮城県内>
* 、1万台を越える(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
|
「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)/「仙台の産業と観光」P27/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193
|
、
|
自動車など各種車両台数 |
馬車(仙台市) |
明治・大正 |
* 1889年(M22)、二頭立、8輌
* 1897年(M30)、一頭立、2輌
* 1905年(M38)、一頭立、1輌
* 1916年(T5)頃、12輌
|
「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)
|
|
自動車など各種車両台数 |
荷馬車、牛車、荷車(仙台市) |
1935年(S10)頃 |
* 仙台の車(昭和10年頃)
荷馬車826台、牛車24台、荷車2299台
|
「仙台の産業と観光」P27
|
<荷馬車> 20-08、18-21、22-46、22-03、44-35
<牛車> 09-06
|
自動車 |
宮城県に登場 |
1903年(M36)/1909年(M42)/1910年(M43) |
* 1903年(M36)、この年、仙台市内に初めてオートバイが走る(「仙台あのころこのころ八十八年」P240)
* 1909年(M42)9月、有栖川宮、帝国水難救済会宮城県支部発会式で来県の際、幌付きフォードで仙台、松島を訪問(「仙台市史 特別編4 市民生活」P215)
* 1910年(M43)2月12日、藤崎呉服店、宮城県内で初めて二人乗り幌型自動車(ドイツ製、時速37キロ、3000余圓)を購入し、仙台を走る(「仙台市史 年表」P95、「仙台市史 特別編4 市民生活」P215)
|
「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 特別編4 市民生活」P215/「仙台市史 年表」P95
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P215(藤崎の宮城県第1号の乗用車)/「目で見る仙台の歴史」P139に、宮城県第1号の藤崎の自動車(背景は物産陳列所」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P215(M43、運転する藤崎三郎助)
|
臥竜梅 |
国の天然記念物に指定 |
1942年(S17) |
<仙台市HPより「仙台市内の指定・登録文化財」より>
臥竜梅(朝鮮ウメは、伊達政宗が文禄2年(1593)に朝鮮から持ち帰り仙台城に植えた後、晩年の居城である若林城内に移植したと伝えられる。現在の朝鮮ウメは,政宗が持ち帰ったものを接木した二代目であると言われる。臥龍梅としては稀有な品種で,国内最大級の大きさである。かつて中央部にあった樹高9m,幹周1.52mの主木は、昭和51年(1976)の台風で倒れ枯れてしまったものの、3株に分かれていた樹幹がその後良好な樹勢を保ち、春には香り高い白一重の大輪の花を咲かせる。 樹種ウメ(バラ科) 幹周1.3m 樹高約8.0m 枝張 東西約17m,南北約22m 推定樹齢360年
* 1942年(S17)9月19日、「臥竜梅」(若林区古城2丁目)が、国の天然記念物に指定
* 1954年(S29)5月、強風で宮城刑務所(旧若林城址)の「臥竜梅」折れる
|
「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」/「市民の戦後史(仙台市)」P81
|
「市民の戦後史(仙台市)」P81
|
老人福祉 |
老人福祉手帳(豊齢手帳) |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)9月、仙台市が老人福祉手帳を65歳以上の市民に交付
* 1989年(H1)、老人福祉手帳を「豊齢手帳」と改称
|
「仙台市史 年表」P128、P136
|
|
老人福祉 |
老人福祉センター |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)7月20日、仙台市老人福祉センター、亀岡に開所
* 2018年9月現在の仙台の老人福祉センターは、8か所(亀岡、台原、小鶴、高砂、沖野、大野田、郡山、泉中央)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P633/仙台市HPの「老人福祉センター一覧」(2018年9月現在)
|
「市民の戦後史(仙台市)」P197(老人福祉センター外観、和室で将棋盤を囲む老人たち、踊りの練習)
|
翼賛壮年団 |
仙台市で結成 |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)1月16日、大日本翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月16日(3月16日?)、宮城県翼賛壮年団結成、
|
岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P304/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P488
|
|
義務教育期間 |
小学校令/国民学校令/6・3制 |
1907年(M40)/1941年(S16)/1944年(S19)/1947年(S22) |
* 1907年(M40)3月21日、小学校令改正により、尋常小学校の義務教育期間が、4年から6年へ変更(「仙台市史 年表」P94)
* 1941年(S16)4月1日、国民学校令施行、小学校を国民学校と改称(義務教育8年間に)(「重訂 宮城県郷土史年表」P482)
* 1944年(S19)2月16日、国民学校令等戦時特例公布(就学義務を満12歳までに引き下げるなど)(岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21)
* 1947年(S22)4月1日、六・三制の学校制度開始、国民学校を小学校と改称、義務教育期間は小学校・中学校の9年間に(「仙台市史 年表」P114)
|
「仙台市史 年表」P94、P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P482/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/
|
|
練兵場 |
追廻練兵場 |
明治~1945年(S20) |
・ 追廻練兵場(おいまわしれんぺいじょう)は、陸軍第二師団の練兵場で、宮城野練兵場とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 兵士の軍事訓練のほか戦没者慰霊祭会場ともなった
・ 場所は、広瀬川西岸沿いで、仙台市川内の師団司令部と各連隊兵営に隣接
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市名家及実業家一覧図」(地図、明治34年4月24日印刷)には、「追廻練兵場」と記載あり
<戦後は>
・ 戦後は戦災者・引揚者用住宅が建てられ、その後住宅地となった → 項目「戦災者・引揚者用住宅の小項目「住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅)」を参照
|
「仙台市名家及実業家一覧図」(明治34年)
|
99-011-1、22-02-01、53-101/位置図は、98-111,98-112、98-114
|
練兵場 |
宮城野練兵場 |
1878年(M11)頃~1945年(S20) |
* 1878年(M11)、「この年ころ、宮城野原及び講武所跡などに練兵場を、また、台原に射撃場を設く」(「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256)
・ 宮城野練兵場(みやぎのれんぺいじょう)は、仙台鎮台(明治21年からは第二師団)の練兵場で、追廻練兵場(おいまわし)とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 場所は、仙台市街地東方の宮城野原で、学生・生徒の軍事教練や小学生の遠足の場でもあった
<戦後は>
* 戦後(S25)、跡地が県営宮城野原公園総合運動場用地となり、S27までに県営宮城野原蹴球場、県営宮城球場、県営宮城野原陸上競技場、県営宮城野原総合運動場庭球場が順次開設された → 項目「県営宮城野原公園総合運動場」参照
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256
|
99-126、99-160、99-163、69-06/位置図は、 98-111、98-113、98-115
|
練兵場 |
講武所練兵場 |
1878年(M11)頃~廃止年不明 |
* 1878年(M11)、「この年ころ、宮城野原及び講武所跡などに練兵場を、また、台原に射撃場を設く」(「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256)
・ 講武所練兵場(こうぶしょ)は、仙台鎮台(明治21年からは第二師団)の練兵場
・ 場所は、川内の各兵営と広瀬川を挟んで対岸にあった
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市全図」(大正元年)には、「追廻練兵場」とともに「講武所練兵場」の記載あり
用地」と記載
・ 「仙台市全図」(昭和11年)には、「追廻練兵場」は記載あるが、「講武所練兵場」の記載はなし
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256
|
位置図は、98-112
|
緑の団地条例(仙台市) |
指定第1号 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)11月9日、第1号に茂庭台1丁目~5丁目を指定
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P153
|
|
緑と花いっぱい運動 |
開始 |
1963年(S38) |
目標「ビルがならぶ都心には、工夫をこらして緑と花を、郊外や一般家庭にはできるだけ植樹をし、潤いのある環境を」
* 1963年(S38)、仙台市が「緑と花いっぱい運動」開始
* 1963年(S38)3月、市民ラジオ体操祭、参加者に花の種1万袋配布
・ 宣言記念式店出席者に苗木1500本配布
・ 園芸協会の協力で、苗木即売会、地域・職域団体による花壇づくり
・ 健康都市協議会直営の公園を、榴ヶ岡公園下と国道4号線土樋三角地帯の2か所に開設
* 1964年(S39)4月、フラワーポット町角に登場
・ 1965年(S40)月日、消防局の花いっぱい運動が、日本花いっぱい協会の最優秀賞受賞
* 1967年(S42)~、市民記念植樹実施(入学、卒業、長寿、転勤など記念し、市が指定する場所に記念植樹)
・篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
|
仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P249~250/ 「市民の戦後史(仙台市)」P158
|
「市民の戦後史(仙台市)」P158(街角のフラワーポット)
|
総進軍大会 |
開催 |
1943年(S18)/1944年(S19) |
* 1943年(S18)7月8日、仙台市主催、米英撃滅総進軍大会
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
* 1944年(S19)7月30日、滅敵強行宮城県総進軍大会
|
「仙台市史10 年表」P306、P307、P308
|
|