項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
電話 |
仙台の市内局番 |
1954年(S29)/1963年(S38) |
* 1954年(S29)4月29日、仙台市内の電話番号に「局番」がつく (「2」と「3」局誕生) / 東北初
* 1960年(S35)、局番「5」新設
* 1961年(S36)、局番「6」新設(榴ヶ岡に東分局開局)
* 1962年(S37)8月、仙台の市外局番が「0222」となる / 仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1963年(S38)1月20日、仙台市内の電話局番が「2桁」になる(22・32・42・52・65局などに)
* 1963年(S38)、長町分局開局、局番「48」新設
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局、局番「34」新設
* 1963年(S38)11月~1968年(S43)1月、局番9つ新設(設置順に、57,29,21,58,33,86,88,24,27)
************************************
* 1986年(S61)7月1日、仙台地区の電話「市外局番022」となる / 同日、仙台・岩沼・大河原・古川地区の市外電話局番3桁実施
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P575~578/「仙台年表」P230/「重訂 宮城県郷土史年表」P607/「続・ 宮城県郷土史年表」P207
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電話 |
車椅子用電話ボックス |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)3月23日、設置(丸光前と藤崎前)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P38
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電話 |
ダイヤル即時化 |
1964年(S39)/1979年(S54) |
* 1962年(S37)8月、仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1964年(S39)11月、ダイヤルで東京、秋田、青森へ即時通話
* 1965年(S40)、ダイヤル市外通話、全国の360局と連絡可能に
* 1979年(S54)3月14日、電話、全国ダイヤル即時化実施
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仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P577~578/「重訂 宮城県郷土史年表」P616/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P73
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電話 |
テレホンカード |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)12月、テレホンカードの使用開始
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P76
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電話 |
自動車電話 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)3月25日、仙台地区で自動車電話スタート
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「続・ 宮城県郷土史年表」P160
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電話 |
公衆電話 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)10月19日、丸光デパートにカード専用公衆電話設置(東北初)
* 1986年(S61)4月30日、マイクとスピーカーつき新型公衆電話を仙台市一番町買物公園に設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P204
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電気開始(仙台) |
市内に供給 |
1894年(M27)7月15日 |
<試験点灯>
(1-1)「1886年(M19)、三居沢の紡績工場に点火 / 本県における電灯使用の初見なり」
(1-2)「1888年(M21)7月1日、宮城紡績会社、三居沢工場において水力発電による電灯の試験点灯を行う」
<市内に供給>
* 1894年(M27)、宮城紡績会社、合併により宮城水力紡績製紙株式会社に改称 / 出力30KWの三居沢発電所を建設、発電事業開始 / この電力を昼間は紡績工場の動力として使用し、夜間は、同年に設立された仙台電灯株式会社に売り、仙台市内の需要者に供給(「仙台市史 特別編4 市民生活」P350)
(2-1)「1894年(M27)7月15日、宮城紡績会社、宮城水力紡績株式会社と改称、この日開業した仙台電灯株式会社を通じて供給し、大町と国分町に365灯の電灯が灯る」
(2-2)「1894年(M27)7月、三居沢紡績会社の水力発電を利用して、仙台市中に電灯をはじめて点ず(当時の点灯数365灯)、のちの仙台電灯株式会社」
* 1912年(T1)、電灯事業を仙台市が買収
(以降は、→ 項目「発電事業」参照)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/(1-1)「重訂 宮城県郷土史年表」P275/(1-2)「仙台市史 年表」P86/(2-1)同P88、「新・目で見る仙台の歴史」P124/(2-2)「重訂 宮城県郷土史年表」P298
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「目で見る仙台の歴史」P129に、「三居沢宮城紡績会社」と、「山居沢発電所(スケッチ)/「新・目で見る仙台の歴史」P124(三居沢発電所)
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電力ホール |
オープン |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)8月4日、東北電力ビル(地上9階建)が東二番丁70に完成 / 電力ホールのほか、グランドホテル仙台、貸室、市民図書館分室を併設 / 電力ホールは7~9階で、各種催しに活用
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P596~597
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電信開始(仙台) |
電信局開設 |
1874年(M7) |
* 1872年(M5)、日本縦貫電信線の東京・青森線架設工事開始
<電信局>
* 1973年(M6)、仙台国分町に「電信局」を開設す / 東京との間に1本の電線を引き、また電柱は市内のみにて、郊外は樹木等を利用して架設す(「重訂 宮城県郷土史年表」P243、「仙台年表」P147)
* 1974年(M7)、仙台伝信局開設され、のち仙台電信局となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、P350)
* 1974年(M7)9月25日、仙台電信分局設置、業務開始(「仙台市史10 年表」P176)
* 1974年(M7)9月25日、仙台市国分町2丁目(戦後の瀬戸勝パーキングの場所)に仙台電信分局(3階建、ペンキ塗り、西洋式構造)を設置(「仙台年表」P147)
* 1893年(M26)10月、仙台郵便電信局を設置 / 宮城・福島・山形を管轄(「仙台あのころこのころ八十八年」P239)
<電信線>
* 1874年(M7)9月15日、仙台・東京間に「電信線」架設(「仙台市史 年表」P80)
* 1874年(M7)12月15日、仙台・一関間に電信線架設(「仙台市史 年表」P81)
* 1892年(M25)、宮城より山形県まで電信を架設(「仙台年表」P167、「宮城町史」)
<以下は、「仙台老舗百店史P142~143「仙台電信局」より>
* 1874年(M7)9月25日、仙台の「電信局」、国分町の瀬戸勝旅館の辺りに2階建で建築、東京との間に電信線が開通し、公衆電報の取り扱い開始
(S40年、この地に、「仙台電信局創立記念の碑」建立)
* のちに南町に移転し、郵便電信局から郵便局に組織が変わる(<編者注>明治36年に移転)
* 1947年(S22)、また電信局に分離し、東二番丁の青葉通り角へ移る(<編者注>昭和24年に、仙台電報局に名称変更)
* 1963年(S38)、東二番丁の逓信病院の隣へ新庁舎を建設、6月22日に移転と同時に「中央電報局」に昇格
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P243、P623/「仙台市史 年表」P80、P81、P123/「仙台市史10 年表」P176、P147/「仙台老舗百店史P142~143「仙台電信局」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579~580/「仙台あのころこのころ八十八年」P239
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77-18、77-22に電信用の柱が写る
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障害者福祉 |
施設完成など |
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* 1968年(S43)6月16日、宮城県総合福祉センターの合同庁舎を本町1丁目に建設し、業務開始
* 1983年(S58)4月、仙台市幸町の県障害者福祉センター完成
* 1984年(S59)4月28日、仙台市河原町に自閉症児専用施設「南材ホーム」完成
* 1984年(S59)4月、西多賀に仙台市精神薄弱者育成会福祉作業所開設
* 1985年(S60)4月13日、仙台市人来田に、県内初の障害者更生センター完成
* 1988年(S63)3月28日、テクノプラザみやぎ発足(宮城県の委託で「みやぎ障害者ITサポート事業」を実施する第三セクター、2019年に解散)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P641/「続・ 宮城県郷土史年表」P161、P176、P190、P241
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隅櫓 |
国宝指定 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)12月14日、大手門脇の隅櫓が国宝に指定された(大手門、霊屋にある瑞鳳殿、感仙殿とともに)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P428
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99-081、65-08、08-02、53-44、73-01/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P249
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隅櫓 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大手門と共に焼失
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仙台市HP
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隅櫓 |
復元 |
1967年(S42) |
昭和35年頃、仙台市の民生委員をしていた野口増蔵氏が大手門と隅櫓の復元を目指し、一般に呼びかけた / 膨大な資金を要するのでとりあえず隅櫓を復元 / 野口自身棟梁だったので、私財をなげうち乏しい資金に苦しみながらも工事を進め、S42年11月ついに完成(「仙台市史 続編第2巻」P185~186)
* 1963年(S38)2月上旬、隅櫓の復元工事着手
* 1965年(S40)8月、着工の運びとなる(木造漆喰塗込み)
* 1967年(S42)12月25日、隅櫓が民間(仙台城大手門並に隅櫓復興期成会)により外観復元され、復興期成会より仙台市に寄付された
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「重訂 宮城県郷土史年表」P607、P620、P636/「仙台市史 年表」P125/仙台市HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185~186/「仙台あのころこのころ八十八年」P257
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P186の写真52(復元された隅櫓)/「市民の戦後史(仙台市)」P202(復元された隅櫓)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P71(S39、工事中断中の隅櫓)
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍地方幼年学校/仙台陸軍幼年学校 |
1897年(M30)/1920年(T9)~1924年(T13) |
幼年学校は、年少段階から陸軍の幹部将校候補を養成する教育機関(場所は榴ヶ岡)
* 1897年(M30)9月1日、「仙台陸軍地方幼年学校」が榴ケ岡に開校 / 14~15歳の少年が受験
* 1920年(T9)8月10日、「仙台陸軍幼年学校」に改称
* 1924年(T13)、軍備縮小計画により廃止
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」が復活、開校式(場所は、三神峯)
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「仙台市史 年表」P90、P99/「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 特別編4 市民生活」P298
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地図は、98-111,98-113/「新・目で見る仙台の歴史」P135(仙台陸軍地方幼年学校の門標)
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍幼年学校、三神峯に復活 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」復活、開校式
榴ケ岡にあった「仙台陸軍幼年学校」は1924年(T13)に廃止されるが、S13に復活(校舎は三神峯に設置)
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「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 年表」P99、P109
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍教導学校 |
1927年(S2)~1943年(S18) |
* 1927年(S2)7月1日、「陸軍教導学校令」(勅令)制定、歩兵科の下士官候補者を養成する陸軍教導学校を、仙台、豊橋、熊本に設置、歩兵科以外の下士官養成は従来どおり各部隊で行われた
* 1927年(S2)7月1日、仙台陸軍教導学校(陸軍下士官の教育機関)を、川内の元歩兵第29連隊兵舎におく
* 1938年(S13)8月13日、教導学校内に仙台予備士官学校を併設、開校式(S14年3月に盛岡近郊へ移転、1943年8月2日に廃止)
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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「重訂 宮城県郷土史年表」P207/Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍予備士官学校 |
1938年(S13)~1939年(S14)/1943年(S18)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)8月13日、仙台市川内の陸軍教導学校内に「仙台予備士官学校」設置、開校式 / 1939年(S14)3月に盛岡近郊へ移転
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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陸海軍の工場(宮城県内) |
第一海軍火薬廠 |
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<海軍火薬廠>
* 1938年(S13)1月9日、海軍火薬廠を柴田郡船岡町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1938年(S13)1月9日、海軍軍需部特殊工場、柴田郡船岡村に設置 (「仙台年表」P208)
* 1939年(S14)8月1日、船岡村に海軍火薬支廠設置 (「仙台年表」P209)
* 1939年(S14)、船岡の第一海軍火薬廠完成。 2万坪(約6.6ha)あり東北最大の火薬製造工場(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
・ 海軍は、平塚に第二、舞鶴に第三火薬廠を持っていた
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)
・ 跡地は、陸上自衛隊、仙台大学が使用(2020年現在)(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157、P173)
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「仙台年表」P208、P209
/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P704/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156~157、P173
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陸海軍の工場(宮城県内) |
多賀城海軍工廠 |
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<海軍工廠>
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠、開庁式(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠開庁式 (「重訂 宮城県郷土史年表」P492)
* 旧多賀城村のほぼ4分の1に当たる500haを強制買収して建設
南地区の機銃部は、ゼロ戦の20ミリ機銃弾、北地区の火工部では爆弾、焼夷弾、親子爆弾、照明弾など
* 1945年(S20)3月から、松島町高城地区の丘陵地に地下分工場を建設中に敗戦(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P173)
「戦争のころ 仙台、宮城」P159~160に、土地所有者からの強制的な用地取得と移転の強要、土木作業員には宮城刑務所の服役囚や強制連行された朝鮮半島からの労働者(728人)も含むこと、残酷な強制労働につき記述あり
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P711/「重訂 宮城県郷土史年表」P492/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P159~160、P173
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陸海軍の工場(宮城県内) |
陸軍造兵廠(東京第一陸軍造兵廠仙台製造所) |
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<陸軍造兵廠>
* 1941年(S16)4月5日、陸軍造兵廠を仙台市原町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
<編者注>陸軍造兵廠の正式名称は「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」(場所は、戦後の陸上自衛隊苦竹駐屯地)
* 1941年(S16)4月5日、原町陸軍工廠の新設と呼応し、原町工業都市建設土地区画整理(520ha)認可 (「重訂 宮城県郷土史年表」P432)/ ただし整備は戦後に持ち越された / 関連して、S16年に仙塩街道(仙台~塩釜)開通(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365)
* 1942年(S17)から稼働、4つある工場では戦闘機の銃弾や薬きょうの箱詰、旋盤、プレス加工。 のち幸町にも第二工場を建設(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、最盛期にはそれぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P706/「重訂 宮城県郷土史年表」P432/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P173
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陸奥国分尼寺跡 |
国の史跡に指定 |
1948年(S23) |
【宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」より】「陸奥国分尼寺は陸奥国分寺と同じく、聖武天皇の詔により法華滅罪の寺として建立された。国分寺の東600mに位置する。市街化が著しく、寺域や伽藍配置などは良くわかっていないが、昭和39年に実施された発掘調査で、版築された基壇上に建てられた東西5間、南北4間の金堂が発見された。基壇内には、金箔の入った土師器の菱が鎮壇のため埋納されていた。金堂には国分寺の創建瓦と同種の瓦が使われているので、国分寺とほぼ同時期に創建されたと考えられている。」
* 1948年(S23)12月18日、古代の寺院跡が国の史跡に指定
* 1964年(S39)、発掘調査(東北大学伊東信雄教授ら)
<参考文献>
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P224~225(国分尼寺の概要、発掘調査など)
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宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P224~225
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「目で見る仙台の歴史」P20
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陸奥国分寺跡 |
薬師堂、国重要文化財に指定 |
1903年(M36) |
【宮城県HPの「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗が泉州(大阪府)の工匠駿河守宗次等を招いて再建したもので、慶長12年(1607)に竣工した。屋根は入母屋造、本瓦葺。法5間、向拝をつけ廻縁をまわす。妻飾りには素木造の簡潔・雄勁な構成美がみられる。内部は内陣と外陣とを峻別して、奥の須弥壇上に宮殿形の厨子が安置されている。厨子は巧緻な架構で、豊かな装飾により燦然たる光彩を放っている。
大崎八幡宮社殿とともに、仙台市における桃山建築の双璧である。「造立慶長十二年丁未十月廿四日」の棟札がある。」
【公益財団法人仙台観光国際協会仙台観光情報サイト「陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗公の命により再建された陸奥国分寺の金堂です。慶長12(1607)年落慶した現存する仙台最古の木造建築物の一つで、国指定重要文化財です。本尊薬師如来に因み薬師堂と通称されています。 天平年間に聖武天皇の勅願に基づいて建立された金光明四天王護國之寺のうち最北に位置する奥州鎮護の根本道場です。」
* 1607年(慶長12年)、国分寺薬師堂の再興造営なる
* 1903年(M36)4月15日、薬師堂、国の重要文化財に指定(文化庁、文化財データベース)/ 桃山時代の堂宇、白木造り / 明治36年以来国宝(史跡)に指定されていたが、戦後文化財保護法により改めて、重要文化財に指定(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216)
* 発掘調査(S30~33年、毎年8月に発掘)
<参考資料>
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216(薬師堂の堂宇の特徴など)、P223~224(国分寺跡の概要説明、発掘踏査など)
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宮城県公式HP「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」/「仙台市史年表」P25/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216、P223~224/「目で見る仙台の歴史」P195
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216の写真63(薬師堂)/同P223(発掘調査)/「目で見る仙台の歴史」P19(国分寺跡、金堂跡)/同P190(薬師堂ごまたき)/同P195(国分寺跡発掘調査)/同P38~39(薬師堂の社殿、厨子、護摩壇」、仁王門)/「市民の戦後史(仙台市)」P83(国分寺跡一帯空撮、出土した瓦、発掘現場)/「市民の戦後史(仙台市)」P225(2月13日の薬師堂ごま焚き)
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陸奥国分寺跡 |
国の史跡に指定 |
1922年(T11) |
【宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分寺跡」より】
「陸奥国分寺は、聖武天皇の詔により全国に建てられた国分寺の一つである。多賀城から約10km南にあり、広瀬川が形成した最下段の河岸段丘に立地している。昭和30年から5年間の発掘調査によって、方242.4mと推定される寺域に南門・中門・金堂・講堂・僧房が南北中軸線上に並んでいること、中門と金堂は複廊式の回廊で結ばれていること、さらに塔は金堂の東にあり、単廊で囲まれていることなど、大規模な伽藍配置が明らかになった。また、文献にある「貞観11年(869)の大地震」や「承平4年(934)の落雷」による被害の痕跡も確かめられている。現在、寺域には陸奥国分寺薬師堂および白山神社が建つ。」
* 1922年(T11)10月12日、陸奥国分寺跡が国の史跡に指定
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宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」
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防空演習(防空訓練) |
宮城県で初の防空演習 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)11月4日、第二師団司令部、仙台市を中心に1市4町18カ村で防空演習を実施させる(仙台で初の防空演習)/ NHK仙台放送局が防空演習を中継放送
(* 1931年(S6)9月18日、満州事変勃発)
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「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台放送局60年のあゆみ」P3/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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防空演習(防空訓練) |
灯火管制訓練 |
1935年(S10) |
<訓練>
* 1935年(S10)3月9日、仙台市で全市一斉の灯火管制を実施
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「仙台市史 年表」P107
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防空演習(防空訓練) |
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1936年(S11)~1938年(S13) |
<防護団>
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1936年(S11)8月17日、仙台中央街防空演習
* 1936年(S11)9月18日、仙台市で大防空演習(満州事変5周年記念)
(* 1937年(S12)7月7日、日中戦争勃発)
* 1937年(S12)
4月5日、防空法公布(10月1日施行)/9月15日、宮城県灯火管制規程公布/9月17日、仙台市防空演習/10月1日、仙台市役所に防空係設置/11月16日、関東東北地方防空訓練
<家庭防火群>
「1937年(S12)10月頃から、家庭防火群組織開始。5~20戸で1ブロック、数ブロックで町家庭防火団を結成、防護分団がこれを統制する。家庭には防火担当者、群には群長を選任、工場やアパートなど特殊建物には特別家庭防護群をおく / 各家庭は常時防水用として水槽やたらい、バケツ、ホースなどを備え、戸外には防火土砂を用意。訓練警戒警報が出ると婦人はモンペ姿でバケツ・リレーの演習に引っ張り出された。」(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1938年(S13)
3月、仙台市防空委員会設置/ 8月27日、防空訓練/9月13日、東部防空訓練/11月26日、東部防衛司令部防空演習
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P37~39/「仙台放送局60年のあゆみ」P12/「仙台市史10 年表」P289、P290、P291、P294/「重訂 宮城県郷土史年表」には防空訓練関連記述なし
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防空演習(防空訓練) |
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1939年(S14) |
* 1939年(S14)5月18日、第一次防空訓練開始
* 同年7月24日、第二次防空訓練(5日間実施)
* 同年8月24日、内務省、家庭防空隣保組織要綱通牒(町内防空業務を隣組へ統合)
* 同年10月22日、第三次防空訓練(一週間実施)
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* 同年7月22日~一週間、仙台を中心とする防空演習(仙台駅が爆撃をうけたという想定で消火避難訓練)(「ものがたり東北本線史」P510)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台市史 10 年表」P295、P296/「ものがたり東北本線史」P510/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39
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防空演習(防空訓練) |
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1940年(S15) |
* 1940年(S15) 東部特別防空訓練
第1次開始6月7日、第2次開始9月2日(20日か?)、第3次実施10月1日(5日間)
* 1940年(S15)11月、仙台市は公会の設置に伴い、家庭防空業務規程制定(翌16年5月から町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39/「仙台市史10 年表」P298~P299
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防空演習(防空訓練) |
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1941年(S16) |
* 1941年(S16)5月1日、仙台市家庭防空業務規程公布(町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
* 1941年(S16)
8月15日、特別防空訓練実施(17日間)
10月12日、総合防空訓練、仙台市で実施
(* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦)
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「仙台市史10 年表」P301、P302/「仙台市史 年表」P111
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防空演習(防空訓練) |
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1942年(S17) |
* 1942年(S17)
4月18日、本土初空襲
(米空軍B25、16機により東京、横浜、川崎、名古屋、四日市、神戸)(「重訂 宮城県郷土史年表」P488、岩波ブックレット「年表昭和史」P19)
6月、防空指導員に対する防空講習会3回
8月1日、特別防空訓練 6日間
9月28日、総合防空訓練 3日間
12月9日、大東亜戦一周年記念防空強化運動実施
・ S17年9月、仙台市東二番丁国民学校で行われた総合訓練には、本物の焼夷弾が持ち込まれ、東二番丁警防分団、育英中学の生徒が消火訓練。
しかし、繁華街で訓練しているそばのビアホールに長い列ができて訓練どこ吹く風だった。太平洋戦争翌年で日本軍が勝ち進んでいたころで、まだ空襲の現実味がなかった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P151)
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「仙台市史10 年表」P304~P305/「「重訂 宮城県郷土史年表」P488/岩波ブックレット「年表昭和史」P19/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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防空演習(防空訓練) |
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1943年(S18) |
* 1943年(S18)6月、防空警報伝達当直規程を設け、警報を受けたときに市内各変電所とも連絡して一斉にサイレンを鳴らす
* 1943年(S18)
3月15日、仙台市特別防空訓練 6日間
7月10日、仙台市第1期防空訓練 3日間
8月25日、仙台市臨時特別防空訓練(東久邇宮稔彦王殿下が防空状況視察)
10月11日、仙台市第2期防空訓練開始
12月14日、仙台市防空講習所開設
戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P40/「仙台市史10 年表」P305~P307/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152
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防空演習(防空訓練) |
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1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月26日、東京15カ所・名古屋8カ所に改正防空法による初の疎開命令、指定区域内の建物強制取壊し
・仙台市でもS19年初めに防空壕用材木を配給(「新・目で見る仙台の歴史」P162)
* 1944年(S19)8月31日、仙台市防衛課設置
* 1944年(S19)
4月23日、仙台市全市一斉退避訓練
5月11日、臨時特別防空訓練 2日間
9月8日、仙台市総合防空訓練
10月6日、仙台衛戍地総合防空訓練
<防空壕>(「戦争のころ 仙台、宮城」P152~153)
・ 1944年(S19)、内務省の指示で、県内の市部(仙台、石巻、塩釜)に、防空壕設置。
・ 仙台市内には資材として丸太20万本配給
・ 「知事引継書」には、「仙台は、市内繁華街に157カ所、全市では575カ所に公共待避所、横穴防空壕15カ所、一般待避所5万5000完成。 塩釜、石巻両市と女川町(海軍基地があった)にも横穴防空壕と一般待避所がつくられ、県内合計で6万4507か所。
・ 塩釜には横穴防空壕が55カ所あり、2000人収容や1600人収容の超大型もあった。
・ 仙台の横穴防空壕は、広瀬川河畔や段丘崖で、評定河原に13か所(706m)、西公園西側に12か所(480m)のほか、北山輪王寺、青葉神社付近、蟹子沢、中島丁、愛宕橋付近にもあった。青葉区八幡手島貞一(東北大名誉教授)宅のは今も健在で入口を石で囲み、コンクリートで覆った本格的な防空壕。
しかし、仙台で作られた豪の大半は、庭や畑、空き地に穴を掘って木材やトタン板で蓋をし、土盛りした簡単な竪穴豪だった。竪穴式防空豪の基本は爆弾の爆風除けなので、仙台空襲のように油脂焼夷弾など焼夷弾が多くばらまかれた地区では、豪の中に火がついた焼夷弾が流れ込んできて犠牲者を増やした。
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32/「仙台市史10 年表」P307、P308/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152~153
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457(S19年、炊き出し訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P322の図323(退避所の設計図)
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防空演習(防空訓練) |
甘かった認識 |
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『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より「甘かった認識」
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。
<防火貯水槽>「戦争のころ 仙台、宮城」P154)
・ 仙台市では310カ所 江戸時代につくられた四ツ谷用水の水路を改修したり、道路わきや神社仏閣の境内に、隣組総出で数多くの貯水槽を設置した。南町には17カ所、土橋通りには10か所。空襲時に消火活動に役立ったという話はあまり聞かず、熱風の中を逃げ回る人たちが顔や体を防火用水に浸け、かぶっていた布団や毛布を水で浸して難を避けた。
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P154
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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闇市 |
仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけ望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
戦後、仙台市内で強制撤去された、ヤミ市を含む場所の一覧(S23年3月~27年12月)は、当サイト内「写真データベース」、写真(画像)番号98-034にあります
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「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158
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98-034/「新・目で見る仙台の歴史」P171(ヤミ市の風景)
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閖上大橋 |
開通 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)9月14日、「閖上大橋」(ゆりあげおおはし)開通 / 県道10号線(塩釜亘理線)の名取川に架かる橋
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「仙台市史 年表」P128
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長町駅(秋保電鉄) |
開業 |
1914年(T3) |
<秋保電鉄・長町駅>
* 1914年(T3)12月23日、秋保石材軌道(のちの秋保電気鉄道)の駅が開業
* 1961年(S36)5月8日、秋保電気鉄道線廃止(7日にさよなら運転)
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「仙台市史 年表」P122/「仙台市史 年表」P97/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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長町駅(仙台市電) |
開業 |
1936年(S11) |
<仙台市電・長町駅前停留所>
* 1936年(S11)12月19日、仙台市電「長町駅前」できる
* 1976年(S51)4月1日、仙台市電廃止
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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長町駅(仙台地下鉄) |
開業 |
1987年(S62) |
<仙台地下鉄南北線・長町駅>
* 1987年(S62)7月15日、仙台市営地下鉄南北線の長町駅が開業
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「仙台市史 年表」P135/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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長町駅(JR) |
開業 |
1896年(M29) |
<JR東北本線・長町駅>
* 1894年(M27)10月、日本鉄道の長町駅完成
* 1894年(M27)10月30日~11月3日、第2師団が長町から出征(日清戦争)(「仙台市史 年表」P89)
* 1896年(M29)2月21日、一般営業(民用の駅として)開業(「仙台市史 年表」P89)
* 1923年(T12)、2代目駅舎に改築
* 2006年(H18)9月18日、JR駅が高架化(翌日から、2代目駅舎撤去開始)
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「仙台市史 年表」P89/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?)
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長町駅貨車操車場 |
完成 |
1925年(T14) |
* 1925年(T14)6月11日、東北本線の長町駅貨車操車場(長町ヤード)が完成
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「仙台市史 年表」P102
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鐘景閣 |
開館 |
1985年(S60) |
* 1984年(S59)10月15日、茂庭荘で、旧伊達邸復元起工式
* 1985年(S60)10月8日、鐘景閣(しょうけいかく/旧伊達邸)を復元・落成
* 1985年(S60)10月10日、茂庭荘の敷地内に移築・復元された一本杉の旧伊達邸、鐘景閣として開館
* 1987年(S62)5月31日、仙台市の保存樹木、明和学院(錦町2丁目)の松・臥竜松(樹齢300年)を茂庭荘に移植
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P195
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錦章堂ビル |
竣工 |
1957年(S32) |
東一番丁通りに面し、三越の南手前にある小ビル(印舗の錦章堂ビル)はS32年に竣工
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錦章堂主人談
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22-61
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銀行(都市銀行) |
日本銀行 |
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→ 内容は、項目「日本銀行」参照
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銀行(都市銀行) |
日本興業銀行 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)8月、日本興業銀行東北支店を福島市より仙台市東一番丁に移転
* 1951年(S26)10月、仙台支店と改称
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「重訂 宮城県郷土史年表」P502
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P730(日本興行銀行仙台支店)
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銀行(都市銀行) |
住友銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)2月17日、住友銀行仙台支店を新伝馬町に開業
* 1948年(S23)10月1日、株式会社大阪銀行に商号変更
* 1952年(S27)12月1日、商号を株式会社住友銀行に復帰
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「住友銀行」2020年9月13日版
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銀行(都市銀行) |
三和銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)5月1日、三和銀行仙台支店を東二番丁元寺小路角に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516
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銀行(都市銀行) |
三菱銀行 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)2月17日、三菱銀行仙台支店を東一番丁に開業
* 1948年(S23)10月、 持株会社整理委員会より「三菱」商号使用禁止を命じられ、株式会社千代田銀行に商号変更
* 1953年(S28)7月、再び商号を株式会社三菱銀行に変更
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「三菱銀行」2020年9月版
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銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/帝国銀行/第一銀行/第一勧業銀行 |
1937年(S12)/1947年(S22)/1971年(S46) |
<日本勧業銀行仙台支店>
* 1937年(S12)3月、日本勧業銀行が宮城県農工銀行を合併、東二番丁80(1984年現在、小田急ビルの場所)に仙台支店を開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台支店が仙台空襲で被災、引き続き同地で営業
* 1950年(S25)、特殊銀行から普通銀行へ転換
* 1952年(S27)6月、現・一番町3丁目1-26に支店新築(鉄筋コンクリート3階建)し移転
<帝国銀行仙台支店→第一銀行仙台支店>
* 1879年(M12)3月、第一国立銀行仙台出張所を仙台支店と改称し、一般営業を開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P256) / M29年に第一銀行となる
* 1947年(S22)2月24日、帝国銀行仙台支店を東三番丁南通り角に開業(帝国銀行は、S18年太平洋戦争戦時下の国策により第一銀行と三井銀行と合併した銀行)
* 1948年(S23)10月 、第一銀行設立(帝国銀行より営業譲渡を受け開業)
* 1948年(S23)10月1日、第一銀行仙台支店と改称し、東一番丁82(青葉通りに面し、東一番丁角のやや西)に新築移転
<第一勧業銀行仙台支店、青葉通支店>
* 1971年(S46)10月1日、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が発足 / 勧銀仙台支店は仙台支店に、第一銀行仙台支店は青葉通支店に
* 1974年(S49)11月、仙台支店?を新築
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「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P256、P516、P529/Wikipedia「第一銀行」/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
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22-07、58-03/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー)/「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208
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銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/第一勧業銀行 |
1952年(S27)/1971年(S46) |
* 1952年(S27)6月13日、日本勧業銀行仙台支店を東二番丁・大町角に新築移転
* 1971年(S46)10月1日、第一勧業銀行発足(日本勧業銀行が株式会社第一銀行を合併)
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/「重訂 宮城県郷土史年表」P556/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
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銀行(都市銀行) |
不動貯蓄銀行/日本貯蓄銀行/協和銀行 |
1912年(T9)/1945年(S20)/1948年(S23) |
<協和銀行仙台支店>
* 1912年(T1)8月1日、不動貯蓄銀行仙台代理店を南町通り36に開業
* 1945年(S20)5月13日、9大貯蓄銀行合同し、日本貯蓄銀行と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P504 / ただし、同P353では、9大貯蓄銀行合同は、1947年5月15日)
* 1948年(S23)7月15日、日本貯蓄銀行を普通銀行に転換して、協和銀行と改称
* 1953年(S28)12月、仙台支店を東一番丁南通り北西角に新築(仙台ビルヂング)し、東二番丁通りより移転(6階建て、仙台初の本格的な貸事務所ビル / 1階は東二番丁から移転した協和銀行が入居したほか、銀行協会、仙台手形交換所、弁護士事務所、会計士事務所、中央出先会社が入居 / この場所にあった飯田信七商店(小間物、化粧品の卸小売)は、卸町に移る(「番丁詳伝」P210)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P353、P504、P528/「仙台市史 年表」P118/「番丁詳伝」P210/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194
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東二番丁の協和銀行は、22-25、22-26、南町通移転後の協和銀行36-08 /「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(仙台ビルディング)
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