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出典/参考資料 |
関連映像 |
戦時下の学園 |
仙台工業学校(市立) |
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★「仙台工業学校」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校」
・「昭和18年1月、修業年限が5年から4年に短縮され、英語は1、2学年のみが必修、また生徒教育は配属将校の意思によって決定され「青少年に賜りたる勅語」は絶対的なものとして“奉唱”させられた。」
・「昭和19年木材工芸科は廃止され、戦局の激烈化とともに学校は全く軍隊教育の場と化し、生徒による門衛・ラッパ隊の編成・動員強化・授業停止の道をたどった。」
・「昭和13年6月文部省通達によって、全国的に勤労奉仕作業が実施され、同14年12月機械科5年生は授業を打ち切り「技術者(軍需品製作に関する)使用制限令」によって、割り当てられた就職内定会社に勤務し、個人の希望による就職は制限された。」
・「同16年以降勤労奉仕作業はますます盛んとなり、製炭作業による木材供出、食糧増産、家庭菜園作業などに動員された。また同機械科3年生は少年運転手として市電を運転、そのまじめな作業は市民に深い感銘を与えた。19年、戦争が激烈になるにつれて、建築科、土木科の5年生は、横須賀海軍工廠深沢分工場に、機械化4、5年生は東北金属、その他は萱場製作所、苦竹造兵廠、第二師団経理部等に動員され、機械科3年生は東北金属に動員のまま学校工場で軍需品の製作に当たり、1、2年生は、授業の全く行われない日が続いた。」
・「20年8月の終戦により、我が国は連合軍の占領下におかれ、戦時中4年制に短縮されていた修業年限が21年度から5年制に復帰し、さらに6・3・6制への学制改革が進められていった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台工業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P489~490
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戦時下の学園 |
仙台工業学校専修科(市立) |
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★「仙台工業学校専修科」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校第二部」、40年以降は独立して「仙台第二工業高等学校」
・「夜間過程としての本校は、昼働き夜に学業を修めていたので勤労動員はなかったが、(中略)生徒たちは古新聞を利用してフスマを作り(暗幕の代用)灯火管制を強化して空襲警報に備えたり、教室の照明は電球1個(100W)という最悪の状態で頑張り通したのである。」
・「雨天体操場では教員、全生徒が一丸となって、夜遅くまで軍事教練やその学科に打ち込み、非常時体制は教育のすべてをおおいつくした。また工業人の育成は国家の急務だったから、戦争たけなわの昭和19年3月には仙台工業学校第二部と改称し、高小卒・修業年限4年間の夜間甲種工業学校に昇格、そのため生徒の志気(ママ)は盛んとなり、卒業後は大陸に雄飛しようと闘志に燃え、一人の落後者もなかった。」
・「しかし、昭和20年の空襲、そして敗戦による荒廃、疲弊、インフレーション等の混乱が、生徒数の減少に拍車をかけ、その結果各学年が10数人に減り、一時は第二部廃止論まで話題にのぼった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台第二工業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P492~493
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戦時下の学園 |
吉田高等女学校(私立) |
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★「吉田高等女学校」は、昭和23年に「聖和学園吉田高等学校、昭和61年に「聖和学園高等学校」と改称
・「太平洋戦争によって食糧事情が窮迫、これに対処し学園の将来を考慮して名取郡秋保村に農場を借り、戦後も耕作に従事したが、この土地は22年に県に買収されたため、約2年にして経営を放棄した。」
▲ 同校専門部の沿革は、キーワード“聖和学園高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第一中学校 |
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★「宮城県仙台第一中学校」は、昭和23年度以降の「宮城県仙台第一高等学校」
・「昭和12年夏、「日華事変(日中戦争)」が始まってから、自由でのびのびとした学窓にも新体制の影響が出始め、太平洋戦争に入って、学徒勤労令、戦時教育令の波がひたひたと打ち寄せた。 生徒は原町の陸軍造兵廠へ、校舎の一部(西校舎)も軍の兵舎に使用されるなど最悪の事態にまでなった。」
・「しかし冬夏を問わず素足で構内をかけ回るなど質実剛健、自主自律の“茶畑精神”につちかわれた生徒を委縮させることなく、昭和15年、17年にも野球部は甲子園大会へ、また剣道、蹴球も全国大会へ出場して、一中健児の意気を発揮した。」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第二中学校(県立) |
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★「宮城県仙台第二中学校」は、昭和23年以降の「宮城県仙台第二高等学校」
・「1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた。」⇒この項、要検証
・「1943年(S18)からは生徒の電車通学は禁止され、勤労動員が始まり、校舎の一部が軍に使用された。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)では、木造倉庫2棟焼失にとどまり、やがてスポーツの振興とともに対一中野球戦が復活、昭和22年には甲子園全国野球大会出場の覇権を得て準決勝まで進み岐阜商に惜敗したが、荒れ果てた世相にさいなまれていた当時の市民の血をわきたたせた。」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506
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戦時下の学園 |
宮城県第一高等女学校(県立) |
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★「宮城県第一高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第一女子高等学校」
・「戦時中は他校同様、軍事教練や勤労奉仕に駆り出されたが、19年11月ついに4年生(一高女は当時は4年制)の半数約100人が、神奈川県逗子市の横須賀海軍工廠造兵部と久木火薬工場へ勤労動員され、20年3月の卒業式も現地で行った。しかし空襲が激しくなってきた同年6月、軍命令を無視して引き揚げてきた。その数日後に久木工場は爆撃されている。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で校舎は全焼、この空襲で市内在住の生徒2人が死亡した。とりあえず連坊小路の第二高女と連坊国民学校、県立盲学校(の校舎を借りて)授業を再開したが・・・・(以下略)」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P519
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戦時下の学園 |
宮城県第三高等女学校(県立) |
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★「宮城県第三高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第三女子高等学校」
・「太平洋戦争中は多くの集団勤労奉仕にかり出されたが、昭和19年11月には宮城県学徒勤労義勇隊第三高女隊として、4年生約50人が横須賀海軍工廠に動員され、帰るに帰れず卒業式も工廠の寮の食堂で挙行した状態であった。」
・「校舎は戦災にはあわなかったが、仙台空襲で生徒3名が死亡した。」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P522
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校(私立) |
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★「宮城高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城学院高等学校」
・「日華事変(日中戦争)が始まったころからキリスト教主義教育に圧力が加えられ、教育勅語に立脚した教育を強要され、5年生は宮城外苑整備の勤労奉仕にも動員された。昭和16年12月日米が開戦した翌9日、米人教師全員が辞任、帰国した。かくて宮城学院の経営はアメリカン・ボードの手を離れ一個の私立学校となり、聖書専攻科は廃止、ミッションハウスは“敵産”として接収された。」
・「昭和17年7月24日には「御真影」を奉戴、同日から奉安庫に奉安することになった。そして“敵性語”の英語は随意科とされた。このころから、教職員生徒に対する軍事教練が開始され、勤労動員も激しくなった。」
・「19年には新設の調理実習室を軍の工場に転用、また家政科教室は生徒の作業場に、専攻科校舎は仙台連隊区司令部庁舎に接収された。同年11月、4、5年生は全員横須賀海軍技術廠へ動員、20年3月、ここでささやかな卒業式を行った。
・「同年7月10日の仙台空襲により校舎の大半を焼失。精気にあふれる学園復活運動は21年から始まり、校舎復旧も大いに進行した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P523~524
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校専攻科(私立) |
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★「宮城高等女学校専攻科」は、昭和21年に「宮城学院女子専門学校、昭和24年以降は「宮城学院女子大学」と改称
・「昭和11年に聖書専攻科は廃止(中略)、太平洋戦争末期の19年8月、家政科の教室は専攻科生が勤労する軍需工場の作業場に当てられ、校舎の半分は仙台連隊区司令部に徴用されるなど受難の日が続いた。」
・「やがて20年8月終戦をむかえると、専攻科は翌9月、いち早く授業を再開した。そして同年10月、占領政策に基づき文部省訓令で宗教教育の自由が回復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院女子大学”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P541~542
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戦時下の学園 |
仙台中学校(市立) |
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★「市立仙台中学校」は、昭和23年以降の「市立仙台高等学校」
・「太平洋戦争勃発後も施設、設備の拡充は勧められていたが、国家総動員体制の下、生徒は勤労動員され、勉学に時間は極度に制約されていた。敵性語である英語の廃止論も盛んであったが、校長の信念でこのような意見に耳をかさなかったという。」
・「第1回(昭和15年)入学生は苦竹造兵廠に、第2回入学生は川崎市の軍需工場に動員され、それぞれ動員先で卒業式を行うという変則的なことも行われた。」
・「戦局が不利となるにつれ本土空襲は頻繁となり、ついに昭和20年7月10日未明、仙台市も空襲を受け、第一波爆撃による数発の直撃弾で校舎、校具のいっさいを焼失した。」
・「戦災後さしあたり片平丁国民学校に一時、間借りした。その後20年7月末にも、荒町、南材木町国民学校および斎藤記念館に再び借家ずまいすることとなったが、生徒数が多いため二部授業を行わざるを得なかった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P486~487
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戦時下の学園 |
東北学院中学校(私立) |
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★「東北学院中学校」は、昭和23年以降の「東北学院高等学校」
・「昭和6年、満州事変が起きてから軍事思想の涵養、精神訓練がやかましくいわれ、昭和8年に柔道場、13年には剣道場が新設された。」
・「18年には中学の2年生以上が勤労奉仕作業に従事、さらに校舎も軍や鉄道局に接収されたため高等部での間借り授業が続いた。校舎正面の学院の標語「LIFE LIGHT LOVE」が削り取られ、礼拝堂ステンドグラスのキリスト昇天図が幕で蔽い隠され、日の丸の国旗がはりつけられた
・ 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、普通教室、特別教室、柔剣道場など12棟を焼失、からくも焼失をまぬがれた本館、礼拝堂もコンクリートに亀裂を生じた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“東北学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513
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戦時下の学園 |
東北学院高等学部(私立) |
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★「東北学院高等学部」は、前身が「東北学院専門部」、戦後は昭和21年に「東北学院専門学校」、昭和24年に大学にに昇格して「東北学院大学」となった。
・「昭和16年12月の太平洋戦争突入と同時にキリスト主義学校の受けた苦痛の例は、終戦まで枚挙にいとまがなかった。昭和17年に文科は廃止され高等学部は商科一本となり高等商業部と改称、さらに19年には航空専門学校を設置するなど維持経営に苦しみながら敗戦を迎えた。」
・「昭和21年4月、英文科、経済科を含む東北学院専門学校を開設、米国ミッション・ボードとの提携を回復した。」
▲ 同校の沿革は、項目“東北学院大学”に記載
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537
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子ども会など(子供の団体) |
戦前期 |
大正~昭和初期 |
☆ 大正末期から戦後にかけての子供対象の組織(団体)について、「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~447「子供の組織」に記載あり
・ 1914年(T3)8月、片平丁尋常小学校が夏期林間教養所を向山に開設
・ 1921年(T10)、「おてんとさん社」、仙台で結成(大正7年児童雑誌「赤い鳥」発行で起こった児童芸術運動に共鳴)
・ 1923年(T12)~1931年(S6)、仙台児童倶楽部(県の図書館内)結成(毎月、童謡・童話会・子供むけ音楽会・自由画展覧会など開催)
・ 1923年(T12)前後に結成されたのは、北星少年少女会、空堀丁のヤマバトの家、新寺小路東秀院内に宮城野コドモ会、荒町に皎林寺コドモ会、東二番丁に仙教婦人会少年部、南町のたんぽぽコドモ会、川内山屋敷の山屋敷童謡童話会、鈎取尋常小学校分教場の会
・ 1923年(T12)8月3日~10日、東一番丁教会が桂島で桂島海浜学校開催 / 1940年(S15)まで継続して開催
・ 1924年(T13)4月、「七ツの子供社」(影絵・童謡劇・童話劇などで組織) / 1927年(S2)8月上旬に伊勢堂山で夏期林間学校に58名児童参加、10年間続くが、日中戦争で中止
・ 1926年(T15)4月3日、コドモ花祭り(出演団体は、北稜日曜童園、皎林寺日曜教林、仙台仏教日曜会、東本願寺日曜学校、仏教婦人会少女部、龍宝寺コドモ会、宮城野コドモ会、西本願寺日曜学校など)
<ボーイスカウト>
・ 1922年(T11)、少年赤十字団、発足
・ 1924年(T13)、少年赤十字団宮城県支部ができ、最初に榴岡小学校が加盟
・ 1924年(T13)、宮城少年団結成され、仙台ではYMCA少年団、仙台少年団、仙台中央少年団が加盟 / これらの団体を中心に少年団宮城連盟結成(1941年に戦時体制強化のため、大日本青少年団に統合され、解散)
<昭和初期>
・ 1928年(S3)、NHK仙台放送局、ラジオ放送開始 / 「子供の時間」が組まれ、各種の児童文化団体が成立 / 上杉山通の児童中心にNHK子供会、仙台児童学芸協会(児童劇・童話会劇など子供の劇場グループ)
・ 1928年(S3)、舞踏研究会「お人形社」(5・6歳以上の子ども対象)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~444
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧事情悪化で米配給減 |
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☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
☆ 戦中戦後の「深刻な食糧難」については、【「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248】に記述あり
・ 戦後、米は大人1日2合3勺配給予定だったが、遅配欠配でヤミに頼らざるを得ず / 仙台では米配給が2週間も遅れ、コメの代わりにトウモロコシや砂糖だったこともあった / 食糧難は戦後の方がひどかった
<主食配給減や欠配>
* 1946年(S21)5月中旬、宮城県でも主食配給量を2.1合→1.8合に減量/しかし、欠配日数が増加し栄養失調者が続出、職場では欠勤者増加の一方だった
<米よこせメーデー>
* 食糧メーデー、東京で5月19日
* 食糧メーデー、仙台では5月31日/木町、榴ヶ岡、南材木町、東北学院専門部の4カ所に、革新政党、労働組合など18団体代表や市民が参加、空腹をこらえて、“米よこせ”と気勢をあげた
<色の黒い代用食パン>
* 1946年(S21)6月半ばから、危機突破用として、代替パンを月に1人当たり1~3個づつ主食がわりに配給/小麦粉5割、こぬか2.5割、雑粉2.5割で、少し塩味がつけてあり、1個(36匁)36銭、色の黒い丸形のパンだった
<主婦たちが嘆願書>
アメリカの放出物資も続いたが深刻さ解消にはならず、市内連坊地区の七つの公会の主婦たち代表8人が県庁に押しかけ嘆願書を千葉三郎知事に提出
「手持ち金はなくなりタンスの中もカラになりました。児童の犯罪が増え体力が低下してきました。ヤミ商人が増え買出し時間や燃料・調理時間の空費で教育ができません。思想の悪化で家庭の円満さえ懸念されます。以上のように私たちは、不安と暗黒の中に追われています。これはただただ主食の不足によるものです。なにとぞ主食配給の即時実施をお願いします・・・・」
<昭和22年正月の配給>
「もち米1人7合、清酒1世帯5合、ビール1世帯1本、サッカリン各家庭1個、かずのこ見込みなし・・・」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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「新・目で見る仙台の歴史」P174(食糧難で労働者の提灯デモ)/同P170(食糧難で食物支給される人たち)/同P172(中田町の青年団、食糧難に市民に野菜類を贈る)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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子ども会など(子供の団体) |
日中戦争・太平洋戦争期 |
1937年(S12)~1945年(S20) |
☆ 戦争拡大に伴い、子供会の目的が変化し、戦時色が前面に
* 1937年(S12)ころから、子供会が戦傷者慰問
* 1941年(S16)、既存少年団は、戦時体制強化のため1941年(S16)に大日本青少年団に統合され解散
・ 1943年(S17)、図書館童話会のプログラム / 朗読「錦のみはた」、童謡「潜水艦」、童話「地底戦車兵の冒険」など
・ 開催された会のタイトル:「建国こども祭」「愛国童話大会」「興亜童話大会」「戦捷祝賀童話大会」「出征家族児童慰安会」「大東亜戦争記念童話大会」など
・ 東六番丁国民学校少年団(児童を軍隊組織と同様のものに編成)
本団(団長・副団長は、校長・教頭、役員は教職員が分担)
団員(三年生以上の全児童 / 二年生以下を準団員)
学年ごとに三年隊、四年隊・・・と呼び、
学年を男女各一中隊、学級を一小隊に編成
一・二年生を準団員とし、幼年隊と呼ぶ
分団を町内会単位におき、分団内に40人位で班、
10人以内を標準に組に分け、
いずれも各学年にわたり異なった学年の児童で組織
分団に分団長、班に班長、組に組長を置く
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P444~445
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(昭和16年 少国民新聞付録「こども隣組双六」)
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(1) |
1937年(S12)~1938年(S13) |
☆ 戦時中の主食配給量の変遷は → 項目「主食配給量」参照
<1937年(S12)7月7日、日中戦争開戦>
* 1937年(S12)12月27日、商工省、綿製品にスフ等混入(30%)規則を公布
* 1938年(S13)3月1日、綿糸配給統制規則を公布施行
* 1938年(S13)5月1日、東京の自動車のガソリンは切符制となる
* 1938年(S13)5月9日、商工省に臨時物資調整局設置(岩波「年表 昭和史」)
* 1938年(S13)5月20日、綿糸販売価格取り締まり規則公布
* 1938年(S13)7月1日、靴を除いた革製品の製造を禁止
* 1938年(S13)7月14日、たばこの銀紙を廃止しパラフィン紙で代用とする
* 1938年(S13)7月、東京の青バスで木炭車に改造開始
* 1938年(S13)7月15日、バリカン以外の鉄器の製造を禁止
* 1938年(S13)8月4日、乗用車の新規製造を禁止
* 1938年(S13)8月、入れ歯に陶材を使用
* 1938年(S13)9月1日、商工省、新聞用紙の使用制限開始、12%削減
* 1938年(S13)9月19日、石油配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1938年(S13)10月1日、商店法を改正、夜10時以降の商品販売を禁止(料飲店を除く)
* 1938年(S13)、陶製なべ、竹製スプーン、鮭皮ハンドバッグなど代用品が登場
* 1938年(S13)、スフの衣料が多くなり、純綿が姿を消しはじめる
* 1938年(S13)、ゴム配給統制規則で、「コンドーム」が軍需品に
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P18、P20、P21/岩波ブックレット「年表 昭和史」P15
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駐留軍(米軍) |
進駐軍から駐留軍へ |
1952年(S27) |
☆ 駐留軍以前の「進駐軍時代」は → 項目「進駐軍(米軍)」参照
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、対日講和条約発効し、連合国軍(米軍)の日本占領終る / 占領軍(進駐軍)だった米軍は、以後は駐留軍として日本に基地を置く
* 1955年(S30)4月15日、駐留米軍、労務者250人を解雇し社会問題化
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「重訂 宮城県郷土史年表」P578
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仙台市の工業 |
戦後期 |
1945年(S20)秋~1969年(S44)頃 |
☆「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
「敗戦直後の仙台市の工業は、ゴムや金属などの一部を除いて、代表とさるべき業種が見当たらない。朝鮮戦争の特需ブームは、国内経済の復興に寄与することになったが、工業の立遅れていた仙台地域の経済にとって物価高という悪影響の方が強く現れている。
☆「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697の記載項目
<昭和20年代> P665~
・ 1946年(S21)12月の市内工業統計(分野別の工場数、従業員数、出荷額)
・ 1947年(S22)、1948年(S23)の市内地区別工場分布
・ 1948年(S23)当時の主要工場名一覧
・ 県総合3か年計画
・ 1950年(S25)末、市内の工場(工員規模)、500人以上は専売公社工場のみ、200人以上は6工場、市内540の工場は大部分が工員数人(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705)
・ 1954年(S29)、仙台市工場設置奨励条例(既存工場を助成し、中小工場の新設増設を支援)
<昭和30年代> P675~
・ 1960年(S35)4月、専売公社仙台工場(たばこ)完成
・ 1961年(S36)、仙台市工場誘致条例(P670~)
<新産業都市指定> P675~
・ 新産業都市指定にむけた運動
* 1963年(S38)7月、仙台湾地区が、他の12地区と共に新産業都市に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区、新産業都市建設区域に指定
・ 新産都市予定地区内に進出立地した新規工場一覧(S36年~44年に操業開始)
・ 仙台周辺住宅用地造成計画表(計画年次はS39~S45)
・ 工業用水道計画(S50)
<新都市計画> P684~
* 1966年(S41)3月、新都市計画(建設大臣より認可)
この計画は、新産都市・広域行政など時代に即応し、市に隣接した泉町、宮城町、秋保町の一部もエリアとした、20年後の都市づくり総合構想で、工業面では、新産都市計画が進行するにあたって、仙台バイパス沿いに内陸工業地帯を、苦竹に流通センターを配置 / 工業地域は、長町・郡山の市内南部、小田原など東仙台地区、仙台新港につづく市東部の3か所、準工業地域として仙台バイパス沿いに鉄鋼団地・自動車団地・印刷団地 / 流通センターは、卸売団地(卸商センター)、トラックターミナル、倉庫団地など
・ 1966年(S41)の市内工業統計
・ 1969年(S44)年4月現在の主要工場一覧
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P368/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697、P705/「市民の戦後史(仙台市)」P90
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「目で見る仙台の歴史」P192(小田原折沢の専売公社仙台工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P90(S30年4月、専売公社仙台工場空撮)/同P201(印刷団地空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P197(印刷・機械金属・自動車の工業団地空撮、カラー)
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自動車専用道 |
山形自動車道 |
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→ 項目「山形自動車道」参照
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自動車専用道 |
東北自動車道 |
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→ 項目「東北自動車道」参照
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銀行(地域の銀行) |
七十七銀行 |
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→ 内容は、項目「七十七銀行」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
SENDAI光のページェント |
1986年(S61)~ |
→ 項目「SENDAI光のページェント」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
ひとにやさしいまちづくり条例 |
1996年(H8) |
→ 項目「ひとにやさしいまちづくり条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
スパイクタイヤ対策条例(宮城県) |
1986年(S61) |
→ 項目「スパイクタイヤ対策条例」(宮城県)参照
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医療機関 |
仙台オープン病院(旧・鶴ケ谷オープン病院) |
1976年(S51)/1986年(S61) |
→ 項目「仙台オープン病院」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
仙台市民の消費生活を守る条例 |
1975年(S50) |
→ 項目「仙台市民の消費生活を守る条例」参照
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博覧会・フェア |
仙台復興祭グランドフェア |
1949年(S24) |
→ 項目「仙台復興祭グランドフェア」参照
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映画館(戦前・戦後) |
仙台東宝劇場 |
1922年(T11)~ |
→ 項目「仙台東宝劇場」参照
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲 |
1945年(S20)7月10日未明 |
→ 項目「仙台空襲」を見よ
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医療機関 |
仙台赤十字病院 |
1924年(T13) |
→ 項目「仙台赤十字病院」へ
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映画館(戦前) |
仙集館 |
1909年(M42)~1933年(S8) |
→ 項目「仙集館」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
健康都市宣言 |
1962年(S37) |
→ 項目「健康都市宣言」参照
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野球場 |
八木山球場 |
1929年(S4) |
→ 項目「八木山球場」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
公害市民憲章 |
1970年(S45) |
→ 項目「公害市民憲章」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
公害防止条例 |
1971年(S46) |
→ 項目「公害防止条例」参照
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幹線道路 |
南町通り |
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→ 項目「南町通り」参照
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医療機関 |
国立仙台病院 |
1945年(S20) |
→ 項目「国立仙台病院」へ
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幹線道路 |
定禅寺通り |
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→ 項目「定禅寺通り」参照
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バス |
宮城交通 |
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→ 項目「宮城交通」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
広瀬川の清流を守る条例 |
1974年(S49) |
→ 項目「広瀬川の清流を守る条例」参照
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幹線道路 |
広瀬通り |
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→ 項目「広瀬通り」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
彫刻のあるまちづくり事業 |
1977年(S52) |
→ 項目「彫刻のあるまちづくり事業」参照
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映画館(戦前・戦後) |
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 |
1925年(T14)~戦後 |
→ 項目「文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場」参照
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映画館(戦前・戦後) |
日乃出映画劇場 |
1935年(S10)~ |
→ 項目「日乃出映画劇場」参照
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バス |
木炭バス |
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→ 項目「木炭バス」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
杜の都の環境をつくる条例 |
1973年(S48) |
→ 項目「杜の都の環境をつくる条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
杜の都の風土を育む景観条例 |
1995年(H7) |
→ 項目「杜の都の風土を育む景観条例」参照
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幹線道路 |
東二番丁通り |
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→ 項目「東二番丁通り」参照
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医療機関 |
東北大学医学部付属病院/東北大学病院 |
1947年(S22)~ |
→ 項目「東北大学医学部付属病院/東北大学病院」参照
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大学・短大 |
東北学院大学 |
1949年(S24) |
→ 項目「東北学院専門学校/東北学院大学」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537~538
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