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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
戦後教育・仙台 |
道徳の時間/特殊教育/視聴覚教育 |
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<道徳の時間>
* 1958年(S33)月日、学校教育法一部改訂、小中学校に「道徳の時間」特設
<特殊教育>
* 1955年(S30)~1956年(S31)、七郷地区小・中学校に精薄学級開設
・ 仙台市の特殊学級設置経過一覧表(S30~S44)、精神薄弱、肢体不自由、言語障害、病弱、難聴の5種
→ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P350
<視聴覚教育>
・ 戦後まもなく、アメリカ文化センターの所有のUSIS映画の活用、16ミリ映写機の全学校配布
* 1959年(S34)、仙台市小学校フィルム・ライブラリー設置
・ 学級にテレビ導入し、NHK学校放送番組を活用
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P348~350、361~362
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「市民の戦後史(仙台市)」P88(七郷小学校の特殊学級)
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東北帝国大学 |
沿革(3)~各学部・研究所設置~ |
1941年(S16)~1947年(S22)9月 |
<選鉱製錬研究所>
* 1941年(S16)3月、選鉱製錬研究所、設置
* 1946年(S21)7月7日、選鉱製錬所、開所式
<抗酸菌病研究所> * 1941年(S16)12月、設置
<科学計測研究所> * 1943年(S18)1月、設置
<高速力学研究所> * 1943年(S18)10月、設置
<航空医学研究所>
* 1943年(S18)10月、設置 → 1946年(S21)1月、廃止
<非水溶液化学研究所> * 1944年(S19)1月、設置
<硝子研究所> * 1945年(S20)1月、設置
<その他>
* 1941年(S16)10月31日、本多記念館竣工、献堂式(玄関の松は、乃木希典が第二師団長当時、その邸内にあった松を移植)
<戦後>
* 1947年(S22)4月、農学部設置
* 1947年(S22)10月1日、東北帝国大学を東北大学に改称(全国の帝国大学の名称を廃止) / ただし、国立大学設置法に基づく東北大学設置は、1949年(S24)5月31日
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東北大学HP「沿革図」
/「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P115/「目で見る仙台の歴史」P164
設置年などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした
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「目で見る仙台の歴史」P164に、「抗酸菌病研究所」(S18年、北四番丁に完成)と「本田記念館」
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敗戦後の諸相・仙台 |
「新円」騒動 |
1946年(S21) |
<金融緊急措置令 旧円の預貯金封鎖と新円への切り替え>
・ 戦後の極度なインフレ高進を抑制するため通貨流通量の収縮をはかるのが目的
・ 昭和21年2月中旬には、旧円で618億円あった日銀発行残高が、新円で152億円に激減(「仙台市史 続編第2巻」P728)
* 1946年(S21)2月17日、預金してある金はこの日限りで封鎖、流通している10円以上の紙幣は3月6日までで廃止し、7日以降は、新発行の札(新円)しか使えない(「仙台市史 続編第1巻」P76)
* 2月25日以降、新円と旧円の交換開始、3月3日以降は旧円の流通を禁止(「仙台市史 続編第2巻」P728)
* 封鎖預金からの現金払い戻しは、月に世帯主300円、家族は1人につき100円、給料も現金は500円まで、それ以上は封鎖預金にされる / 預金のない人は月最大500円の給料のみの生活
* タンス預金は紙くず同然になるので、旧円最後の日の金融機関は預け入れる人で大混雑、商店街は使えなくなる心理から、品物、食べ物が飛ぶように売れ、映画館も満員だったと当時の新聞は伝える
* 封鎖預金は、第一封鎖と第二封鎖に分離され、第二封鎖部分は凍結・棚上げされることになった(中略)そうした強硬策でもインフレの収束に至らず、9月に生産の上昇も伸び悩みとなり、インフレはますます高進(「仙台市史 続編第2巻」P729)
* インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきることはできなかった。そのため市民が戦前に持っていた現金資産は、日本国債等債券同様にほぼ無価値になった(Wikipedia「新円切替」2019年2月版)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P76/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P728~729/Wikipedia「新円切替」2019年2月版
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「新・目で見る仙台の歴史」P173(新円切替で新円と交換)
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空襲(釜石艦砲射撃) |
釜石製鉄所を攻撃、市街地壊滅 |
1945年(S20)7月14日、8月9日 |
<釜石に艦砲射撃、773人が犠牲>
・ 岩手県釜石の日本製鉄釜石製鉄所が2度の艦砲射撃を受け、市街地は壊滅し、773人が死亡 / 昭和20年7月14日は米軍艦隊から、8月9日は米英両艦隊から5000発以上の砲弾を撃ち込まれた / 気仙沼(釜石から40キロの距離)でも、ドーンドーンと鈍い不気味な音が何度も聞こえ、大地がぐらぐら地響きをたてて揺れた(「戦争のころ 仙台、宮城」P236~237)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236~237
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(3) 小牛田、亘理 / 女川湾の海戦 |
1945年(S20)8月9日~10日 |
<鉄道への攻撃 小牛田、亘理>
8月9日、東北線小牛田駅に停車中の列車が襲われ、機関士と乗客1人が死亡 / 亘理の空襲(8月10日朝、グラマン2機が常磐線の線路に急降下して機銃掃射で6人死亡、8人負傷、空襲警報で急停車した列車から降りて土手のくぼ地に隠れた乗客が犠牲) (「戦争のころ 仙台、宮城」P232)
<女川湾の海戦>
海軍防備隊(横浜港から函館、室蘭むけの船団を三陸沖で護衛、および遭難船救助を担当)が拠点にした女川港に入港中の、標的艦「大浜」、海防艦「天草」など20数隻が攻撃を受ける
・ 8月9日、第1波は朝5時半、空母「ペニントン」の艦上爆撃機と艦載機4機が攻撃、霧に邪魔されたが、中型商船2隻が沈没 / 第2波は、58機が、日本軍の駆逐艦、護衛艦に投弾し沈める / 第3波は29機がドックに停泊中の小型艦船を攻撃するなど、午後5時の第8波まで続く / 攻撃には英国艦隊も参加し、英軍の記録では、駆逐艦3隻、哨戒艇1隻撃沈 /
・ 8月10日、攻撃は10日も続き、湾内の艦艇のほとんどと、関連ある軍の施設も破壊された / 米軍の被害は、撃墜3機(日本側は、「大浜」「天草」の高角砲、陸上からの高角砲部隊などが対空砲火で応戦) / 「天浜」は、グラマン機の爆撃と掃射で転覆沈没、乗組員が船を出て防空壕に退避途中で機銃掃射を受け30人位が倒れる / 「天草」は艦の周辺に爆弾20個くらい投下され、間もなく艦首を先に数分で沈没 / 2日間で158人が戦死
・ 昭和41年、海軍防備隊通信科の神田義男兵曹長夫妻が湾を望む崎山公園に私財を投じて慰霊碑を建設、毎年慰霊祭が営まれている / 近くには英軍機に乗って戦死したカナダ人のグレー大尉慰霊碑もある / 神田さん夫妻は東日本大震災で亡くなった
<女川の町内も被害>
・ 海戦のとばっちりを受けて、国鉄女川駅倉庫、造船所のほか、民家70戸焼失、犠牲者24人
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232、P234~235
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国鉄(鉄道省時代) 1 |
日本鉄道 →国有化(鉄道省) |
1906年(M39)11月~1945年(S20)8月 |
<鉄道省・運輸逓信省時代>
日本鉄道は、M39年公布の鉄道国有法により、
* 1906年(M39)11月1日、国有化された
* 1944年(S19)11月15日、東北本線岩切駅から分岐する「海線」(岩切~品井沼)開通
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「仙台市史 年表」P93/Wikipedia「日本鉄道」/「重訂 宮城県郷土史年表」P503
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大日本国防婦人会 |
仙台支部結成 |
1937年(S12) |
<銃後女性の組織化>
* 1935年(S10)頃から、国防婦人会分会が、多くは在郷軍人会仙台市分会の区域内の女性で組織された
・小学校女教員、市街自動車、女給矯風会員など職場ごとの分会もできた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)
* 1937年(S12)2月、大日本国防婦人会仙台支部結成、小学校通学区域ごとに分会が設置されている(「仙台市史 特別編4 市民生活」P456) / 青年団や青年訓練所とあわせ、戦勝祈願祭や出征兵士歓送迎などの動員を支える御三家が揃う(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)
* 1937年(S12)3月16日、大日本国防婦人会仙台支部結成(「仙台市史 年表」P109)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P310、P456/「仙台市史 年表」P109
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P456(大日本国防婦人会の女性たち)
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仙台市武道館 |
開館 |
1974年(S49)/1998年(H10) |
<錦町公園内>
* 1974年(S49)7月3日、仙台市武道館が錦町に開館
* 1998年(H10)6月、同館閉鎖
<堤町に新武道館>
* 1998年(H10)6月、青葉区堤町1丁目の本山製作所跡地に、「仙台市青葉体育館・武道館」が開館
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「仙台市史 年表」P129/Wikipedia「錦町公園」/Wikipedia「仙台市青葉体育館・仙台市武道館」(2020年2月)
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「新・目で見る仙台の歴史」P194(錦町の武道館、剣道場)
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(1)宮城県物産陳列場 |
1901年(M34)~1921(T10) |
<開設年>
* 1901年(M34)11月7日、宮城県物産陳列場が開場
・ イ →「物産陳列場は、M34年11月7日開場式、陸軍東北大演習御統監のため明治天皇来仙にあわせた」
・ ロ →「宮城県物産陳列場はM34年建設」
・ ハ →「M34年11月7日設置」
・ ホP91 →「M34年11月7日、宮城県物産陳列場、県庁南隣に新築開場」
<参考>
「近代日本〈陳列所〉研究」
(三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)(国立国会図書館蔵)には、
・ M25年~31年3月に芭蕉の辻商館3階におかれた「物産陳列場」
・ 勾当台の「物産陳列場」「商品陳列所」につき記述
(原典は仙台市史)
・ 各写真と「商品陳列所の平面図」あり
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」/ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P323 /ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)/ホ「仙台市史 年表」P91/「近代日本〈陳列所〉研究」 (三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)
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改築前の「物産陳列場」は、99-090/ 「東宮行啓記念宮城県写真帖」1908年にもある
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市場 |
仙台中央公設市場(戦後の中央マーケット) |
1946年(S21) |
<開設>
1946年(S21)5月か8月、「仙台中央公設市場」開設、場所は、東一番丁の南部(旧・大通り)、藤崎より南で道の東側
*「仙台中央市場」開設は、
・「市民の戦後史」P30のキャプションではS21年5月
・ 同P7の年表では、S21年8月
・「仙台市史特別編4 市民生活」P91ではS21年8月 →「S21年8月、仙台露天商実業睦組合が、東一番丁から南光院丁に向けて建設した仙台中央公設市場が156店の出店で正式に開場した」
・仙台睦商業協同組合は中央マーケットと呼ばれてコマ店110が軒を並べ、生鮮食品からは舶来ものの高級品までなんでもそろう市場であった(「番丁詳伝」P210)
<火災>
*1948年(S23)2月10日
・ S23年2月、東一中央公設市場92戸焼失(「市民の戦後史」P9)
・ S23年2月10日、東一番丁中央市場で火災、95戸焼失(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818)
・ S23年2月20日、東一番丁に昼火事あり、東一中央公設市場及南松竹映画館等焼失す(「重訂 宮城県郷土史年表」P525)
*1948年(S23)5月27日
・ S23年5月、東一番丁仙台中央市場72戸焼失(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818)
・ S23年5月27日、仙台市東一番丁公設市場、火災で61戸を焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P526)
・ S23年5月27日、約70戸焼失(「仙台市史 年表」P115)
・ 仙台中央市場62戸全焼(「仙台市史10 年表」P318)
*1951年(S26)2月5日
・ 午後1:40頃、東一番丁火事、東一マーケットに延焼す(「仙台年表」P221 / 「重訂 宮城県郷土史年表」には記述なし)
*1961年(S36)12月25日、東一番丁中央市場で、3棟17戸焼失(「仙台市史10 年表」P318、「重訂 宮城県郷土史年表」P602)
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<開設>
「市民の戦後史」P7、P9、P30 /「仙台市史特別編4 市民生活」P91/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818/「仙台年表」P221/「番丁詳伝」P210/「仙台市史 年表」P115/「仙台市史10 年表」P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P526、P602
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22-55(の右端に写る)/98-013
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防空演習(防空訓練) |
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1936年(S11)~1938年(S13) |
<防護団>
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1936年(S11)8月17日、仙台中央街防空演習
* 1936年(S11)9月18日、仙台市で大防空演習(満州事変5周年記念)
(* 1937年(S12)7月7日、日中戦争勃発)
* 1937年(S12)
4月5日、防空法公布(10月1日施行)/9月15日、宮城県灯火管制規程公布/9月17日、仙台市防空演習/10月1日、仙台市役所に防空係設置/11月16日、関東東北地方防空訓練
<家庭防火群>
「1937年(S12)10月頃から、家庭防火群組織開始。5~20戸で1ブロック、数ブロックで町家庭防火団を結成、防護分団がこれを統制する。家庭には防火担当者、群には群長を選任、工場やアパートなど特殊建物には特別家庭防護群をおく / 各家庭は常時防水用として水槽やたらい、バケツ、ホースなどを備え、戸外には防火土砂を用意。訓練警戒警報が出ると婦人はモンペ姿でバケツ・リレーの演習に引っ張り出された。」(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1938年(S13)
3月、仙台市防空委員会設置/ 8月27日、防空訓練/9月13日、東部防空訓練/11月26日、東部防衛司令部防空演習
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P37~39/「仙台放送局60年のあゆみ」P12/「仙台市史10 年表」P289、P290、P291、P294/「重訂 宮城県郷土史年表」には防空訓練関連記述なし
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自衛隊 |
宮城県内(自衛隊) |
1954年(S29)~ |
<陸上自衛隊>
* 1954年(S29)、保安隊から「陸上自衛隊」への改編にあわせ、第六管区(東北6県と新潟県を管轄)を新設(総監部は暫定的に福島) / S31年に、青森と岩手は管轄外に
* 1954年(S29)12月5日、陸上自衛隊多賀城駐屯地創設
* 1955年(S30)3月19日、第六管区総監部駐屯各部隊の主力が福島から多賀城駐屯地に移動(宮城県内は、多賀城に総監部、普通科連隊、武器・通信・補給部隊、船岡に補給整備支援群部隊、大和に特車と偵察部隊を配置)
* 1955年11月1日、米軍松島キャンプ跡に自衛隊第二操縦学校を開設
* 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設
* 1958年(S33)3月25日、原町苦竹(旧苦竹米軍キャンプ)に陸上自衛隊南仙台駐屯地を設置
* 1958年(S33)6月、原町苦竹に北仙台駐屯地設置
* 1960年(S35)1月13日、仙台駐屯地に東北方面総監部が発足(全国を5つの方面管区制に移行、東北地方は東北方面隊が統括)
* 1960年(S35)、仙台南と仙台北駐屯地を統合し、「仙台駐屯地」に
* 1962年(S37)、第六管区隊を第六師団、第九混成隊を第九師団と改称)、第六管区隊の総監部は、山形県東根市の神町(じんまち)に移され、多賀城には第22普通科連隊が残る
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・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P452の表207に「東北方面隊の部隊配置表」(S35年頃?) → 宮城県内には、第6師団が多賀城(第22普通科連隊・第1教育大隊ほか)と大和(第6戦車大隊ほか)/ 霞の目に東北方面航空隊ほか、船岡に第2施設団ほか、岩沼に航空学校岩沼分校ほか
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333
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「市民の戦後史(仙台市)」P123(自衛隊東北総監部設置関連映像)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P331(S32年、苦竹キャンプ跡地に自衛隊の看板をかける)
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陸海軍の工場(宮城県内) |
陸軍造兵廠(東京第一陸軍造兵廠仙台製造所) |
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<陸軍造兵廠>
* 1941年(S16)4月5日、陸軍造兵廠を仙台市原町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
<編者注>陸軍造兵廠の正式名称は「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」(場所は、戦後の陸上自衛隊苦竹駐屯地)
* 1941年(S16)4月5日、原町陸軍工廠の新設と呼応し、原町工業都市建設土地区画整理(520ha)認可 (「重訂 宮城県郷土史年表」P432)/ ただし整備は戦後に持ち越された / 関連して、S16年に仙塩街道(仙台~塩釜)開通(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365)
* 1942年(S17)から稼働、4つある工場では戦闘機の銃弾や薬きょうの箱詰、旋盤、プレス加工。 のち幸町にも第二工場を建設(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、最盛期にはそれぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P706/「重訂 宮城県郷土史年表」P432/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P173
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本土決戦体制 |
(2)陸軍(七十二師団、百四十二師団 ほか) |
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<陸軍>
・ 全国を5ブロックに編成(東北、関東甲信越、中部北陸、中国四国、九州) / 東北担当は、第十一方面軍
・ 第十一方面軍
司令部は、仙台市青葉山に地下防空壕、7月までに兵力整備、10月以降は速やかに行動できるよう計画したが、途中で敗戦(8月) / 地下壕の場所は特定できず(2015年に、東北大学付属植物園がけ下(傾斜地)に本格的な地下壕発見、幅1.8mの3本のトンネルや30坪ほどの広い部屋、排水溝もあり)
仙台市川内には、第二師団(仙台師団と改称)の各部隊、防空担当の東北軍管区司令部、など三つの管理、監督機関を設置
・ 第十一方面軍の指揮下に、
☆ 第七二師団(通称:伝部隊 / 福島、宮城両県) 宮城県内では、岩沼・名取・亘理・山元などの学校や公共施設、民家に兵隊が宿泊して作業 / 名取郡では、山間部にトンネルやタコツボ(個人用の小さな塹壕)の陣地構築や道路建設 / 亘理吉田海岸では、杉の丸太を伐採して海岸線に上陸阻止のくいを立てる / 逢隈国民学校では、常磐線の鉄道を守るため高射機関砲の射撃訓練 / 大河原町には野戦病院を設置
☆ 第一四二師団(通称:護仙部隊 / 仙台中心) 司令部は仙台の旧制二高校舎におく / 宮城、福島、山形三県出身者で構成 / 石巻海岸を中心に志津川町から七ヶ浜まで要所要所に壕を掘り機関銃を据え、主要道路には戦車爆破用のタコツボを多くつくる / 訓練内容は、敵戦車に向かって爆弾や地雷を抱いて突っ込む、敵戦車に速射砲発射訓練、小牛田では鉄道空襲に対する防空訓練 / 鹿島台には野戦病院 / 仙台市内の学校、寺には小規模部隊が駐屯し、八木山に壕を掘る、町内の婦人に消防訓練、戦車への体当たり自爆訓練、白兵戦用の短剣術などを教えた
☆ 第一五七師団(八戸)に配置
・ 第十一方面軍の指揮下にはさらにS20年6月に、第二二二師団、第三二二師団、独立混成一一三旅団、独立混成十二連隊を編制
・ 第一四二師団(護仙部隊)入隊者の体験談(武器・装備不足、作業や訓練内容、乏しい食事や寝具)あり(「戦争のころ 仙台、宮城」P195,196)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P193~197
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敗戦後の諸相・仙台 |
隠匿物資の摘発 |
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<隠匿物資> 終戦のどさくさに紛れて、旧軍隊や軍需工場、官庁などでひそかに確保していた物資、それらを無償に近い安値でかき集め倉庫などに保管し、小出しでヤミで売るさばいていた物資を、公正な配給ルートに乗せるべきと摘発
(1) 市会戦後対策委員会が「隠匿摘発監視隊」を編成、各公会や警察とも連絡、場合によっては進駐軍の手を借りて摘発 / 1946年(S21)1月21日、CIC(米第9軍指令部特務機関)が、仙台鉄道局東七番丁材料品倉庫に隠してあった大量の米や酒、大量の貴金属を押収
(2) 1946年(S21)2月、日本共産党宮城地方委員会が、東北戦災者更生団、仙台民主主義連盟と共同で、隠匿物資摘発隊を組織、20数人で南材木町の某倉庫から、警察官立ち合いで、もめん、缶詰など多量の物資を摘発 / 警察は、「不正に隠匿されると思われるものはない」、摘発が住居侵入罪、脅迫罪を構成しかねない点を警告
(3) 1946年(S21)2月、宮城地方生活擁護同盟結成準備会が摘発した物資は、米1723俵(仙台市民2日分の配給量に相当)、小麦770俵、あずき、メリケン粉、ウーメン、乾パン、その他各種の食糧、衣料、燃料などおびただしい量にのぼった
(4) 仙台地方検察局が、日通仙台支店長町営業所の12の倉庫から、水銀など時価1億円相当の隠匿退蔵物資を摘発
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P83~84
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電話 |
戦後~公社化以前 |
1945年(S20)7月~1952年(S27)7月 |
<電信・電話>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、南町にあった仙台郵便局、仙台電話局が焼失 / 仙台郵便局内に、電信課があったが、仙台空襲で本局が焼失後、電信課、電話課は東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、「仙台非常措置局」として業務再開
* 1946年(S21)2月、郵便局から独立し、仙台電信局と名称変更、南町の仙台電話局3階に間借り
* 1947年(S22)2月、仙台電信局開設し、電信、電報、電話の各業務を一体化
* 1947年(S22)5月、仙台電信局、東二番丁・青葉通り北東角に新庁舎建築(木造2階建)へ移転
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 東北電気通信局設置(清水小路・五橋脇)
関連して、仙台電報局(東二番丁・青葉通角/仙台電信局を改称)、仙台電話局(東二番丁)、国際電話通話所開設(東二番丁) → 項目「仙台電報局」参照
<電話>
南町の仙台郵便局北隣にあった仙台電話局は、仙台空襲で焼失後、東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、電信課とともに「仙台非常措置局」として業務再開 / その後、南町へ戻る(同3階に電信課が同居) /
* 1947年(S22)6月10日、東京~仙台間電話開通
* 1948年(S23)2月24日、アメリカとの国際電話開通
* 1948年(S23)7月、仙台~札幌間の電話線完成
* 1949年(S24)4月、国際電話通話所開設(背景に、米占領軍の強い指導)
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 仙台電話局(南町から東二番丁に移転?)
* 1950年(S25)3月1日、仙台電話局、度数制通話に切替え
* 1951年(S26)9月、仙台市内の電話が自動式になる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P573~574、P579/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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「市民の戦後史(仙台市)」P202(改築前の電話局赤レンガ庁舎)/20-07(青葉通り・東二番丁角の仙台電報局)
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空襲(宮城県内) |
霞目陸軍飛行場を爆撃 / 米軍機、蔵王山中に墜落 |
1945年(S20)3月10日~11日 |
<霞目陸軍飛行場(仙台)>
* 1945年(S20)3月10日夜、米軍機が霞目陸軍飛行場(仙台)と太白区四郎丸地区を爆撃、ほとんど被害なし / 霞目には仙台少年飛行学校があり、油脂焼夷弾1371発投下、うち248発は不発弾、西風が強く、焼夷弾は目標を外れて周辺の田んぼに落ち燃え上がる
・ この夜(3月10日)、東北地方では、いわき市、盛岡市、青森県上北郡もB29が空襲 / いわき市で16人、盛岡市で4人死亡
<米軍機、蔵王山中に墜落>
・ この夜(S20年3月10日)、吹雪の蔵王連峰不忘岳に3機の米軍B29が間をおいて激突、34人の乗員全員が死亡 / 時刻は、午後9時50分ころ、その1時間後、翌11日午前2時頃 / 翌日、地元七が宿村横川集落の警防団十数人が吹雪と積雪1mのなか現場へ向かい墜落した1機と死亡した搭乗員を発見
・ 1945年(S20)5月、仙台の藤崎百貨店で、不忘岳に墜落した機内から回収した救命具、携行食品などを展示
・ 1961年(S36)9月、登山グループ「不忘会」が呼びかけ、地元婦人会、キリスト協会、仏教会、航空自衛隊などが協力し、現地にB29搭乗員の慰霊碑「不忘の碑」を建立
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P191~192
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国民登録/勤労報国隊 |
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1940年(S15)~ |
<青年国民登録>
* 1940年(S15)9月、実施 / 満16歳以上徴兵適齢期以下の男子全部に職能申告を義務付け
<青壮年国民登録>
* その後に範囲拡大し、満16歳~40歳の一般男子、満16歳~25歳の一般女子(未婚)にも適用
<未婚女子の勤労報国隊>
* 1941年(S16)12月、仙台市では、“浮動労力”といわれた未婚女子の勤労報国隊が結成され、第1陣として隊員150人が12月15日、東京の陸軍被服本廠へ送り出され、1年間の長期作業に従事した
* 1943年(S18)、女子勤労報国隊員、仙台市内の女性70人が東京赤羽の陸軍被服本廠に入廠(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
<勤労報国隊>
* 1943年(S18)8月、政府、報国隊整備要綱と実施指導要領を通達 / 「男子は14歳以上50歳まで、女子(未婚)は14歳以上25歳までは、必ず、各職域、地域、団体ごとに編成する報国隊のいずれかに、また在学中の学生・生徒は各学校の報国隊に参加を義務付け / 報国隊を総合・一元的に指導訓練し動員その他を企画するため大政翼賛会県支部に県勤労報国隊本部、各市町村にも本部を置き、各本部長、役職員を置く / 全市民が翼賛体制のワク内にはめ込まれて、軍需産業その他の統制産業、農業、国防土木業、公務などへ動員され、1945年(S20)3月には本土決戦に備える国民義勇隊に移行していった。」
<青壮年国民登録を拡大>
* 1944年(S19)2月、さらに範囲拡大され、男子12歳~60歳、女子12歳~40歳までとなり、無職未婚の女子を残らず動員体制に組み入れた
(以上は、「仙台市史 続編第1巻」P44~45)
<国民義勇隊> → 参照:項目「国民義勇隊」
* 1945年(S20)3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された(「日録20世紀 1945年」P16)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P44~45/「仙台市史 特別編4 市民生活」P366/「日録20世紀 1945年」P16
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姉妹都市(仙台市) |
国内姉妹都市 |
1967年(S42)~ |
<音楽姉妹都市>
* 1967年(S42)1月18日、仙台市(土井晩翠生地)が、大分県竹田市(滝廉太郎生地)と音楽姉妹都市に(「荒城の月」の縁) / S42年11月18日には、中山晋平生地の長野県中野市も加わり、三姉妹都市の縁を結ぶ
<観光姉妹都市>
* 1970年(S45)4月15日、徳島市と、七夕・阿波踊りという全国に誇る代表的な祭りをもつ縁で、観光姉妹都市に
<歴史姉妹都市>
* 1975年(S50)11月3日、宇和島市と歴史姉妹都市締結
* 1981年(S56)5月8日、北海道白老町と歴史姉妹都市調印
<参考> 詳細(各都市との提携動機など)は、仙台市ホームページの「仙台市の国内姉妹都市」に記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230/仙台市HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P636/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P128
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軍需工場(宮城県内) |
工場疎開 |
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<首都圏から宮城県へ>
「首都圏の軍需工場など98企業から宮城県へ疎開希望あり、すでに53工場が操業中、残りも対応中」(「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月)より)
<仙台市内の軍需工場の疎開>
東北臨時生産防衛対策委員会、仙台市内の10工場を、空襲に備えて疎開決定
・東北特殊鋼 仙台市長町 → 山形県西村山郡西郷村の国民学校へ
・三馬弘進ゴム 仙台市行人塚 → 鳴子町川端へ
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P211
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(4) 首都圏の軍需工場へも動員 / 卒業後も動員 |
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<首都圏の軍需工場へ学徒勤労動員>
・ 「昭和19年以降、仙台市内の生徒のうち神奈川、茨城両県に限っても、川崎、横浜、横須賀、湘南、日立などの工場に、男子638人、女子946人の計1584人が動員された」(宮城県教育委員会発行『宮城県教育百年史』)
・ 首都圏に動員された県内の高等女学校は、宮城県第一、宮城県第二、宮城県第三、宮城、尚絅、吉田、朴沢、角田、石巻、石巻実業、白石の11校945人(宮城学院女子大学大平聡教授調べ)、これに旧制の中学校、高等学校生が加わる
・ 首都圏に動員された仙台市内の学校は、仙台一中、仙台二中、仙台中、仙台育英中、栴檀中、県工業学校、仙台工業学校、仙台商業学校、旧制第二高等学校、仙台工業専門学校、県女専、東北学院専門部、東北帝国大学(『仙台市史』)
・ 動員中の死亡例
日立製作所(茨城県)で、県工業学校生徒5人が米艦からの艦砲射撃で
・ 横須賀海軍工廠へ動員された宮城県第一高等女学校(4年生100名)は、逗子の寮から通い、高角砲の砲弾の弾頭部に火薬を入れたり、航空特攻兵器「桜花(おうか)」の部品づくりに従事
・ 尚絅高等女学校(4年生)約200人は、農家や国民学校に泊まり込んで神奈川県(その前は東京鎌田)の東京計器で飛行機の部品づくり
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P176~177
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仙台七夕 |
戦時中の休止 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
~ 出典は、右欄の1)2)3)4)に ~
1) 1938年(S13年)から、戦前の仙台七夕は中止となった(日中戦争の本格化により)
2) 仙台七夕祭、S13年に自粛、翌年から廃止
3) 1939年(S14)8月6日、仙台七夕の飾りつけを廃止す
4) 1939年(S14)、8月6日から始まる仙台の七夕は廃止と決定した
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1) 阿南透 都市祭礼「仙台七夕まつり」の成立と変容 P8/
2)「仙台市史 年表」P109/
3)「仙台年表」P209 (その出典は「河北新報」)/
4)「ものがたり東北本線史」(鉄道弘済会東北支部)P510
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