項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
霊屋橋(広瀬川) |
木造吊り橋新設完工 |
1916年(T5) |
* 以前は“粗末な有料三文渡し”があった
* 1908年(M41)5月24日、越路橋架橋(今の霊屋橋より100m程下流に)
* 再三水害にあい、1910年(M43)に流失
* 1915年(T4)8月20日、越路橋を霊屋橋と改称
1916年(T5)、木造吊り橋新設完工(霊屋橋と命名)
* 1934年(S9)8月、市失業対策事業として架け替え起工
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P410/「仙台年表」P190/「重訂 宮城県郷土史年表」P362/「仙台市史 年表」P94/「仙台市史10」年表P247、P283
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木造吊り橋は、99-109、43-29/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図52(木造吊り橋)
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愛宕橋(広瀬川) |
吊り橋開通 |
1901年(M34) |
* 古くは誓願寺渡し
* 1901年(M34)に吊り橋(仙台初)
* 1903年(M36)2月11日、架設
* 1912年(M45)に大水害で流失、 その後は、幅1間の板渡し
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 年表」P92
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「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図100(つり橋)
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東北電力 |
戦後の電気事業再編成 |
1951年(S26) |
* 戦後、日本発送電が解体され、1951年(S26)には発電から配電までを一貫して行う電力会社が全国9地区に誕生 / 東北では東北電力が設立され、日本発送電東北支店所管の施設と東北配電の施設および供給区域を継承した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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発電事業 |
戦後の電気事業再編成(東北電力に一本化) |
1951年(S26) |
* 戦後、日本発送電が解体され、1951年(S26)には発電から配電までを一貫して行う電力会社が全国9地区に誕生 / 東北では東北電力が設立され、日本発送電東北支店所管の施設と東北配電の施設および供給区域を継承した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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丸光 |
平屋の店 |
1947年(S22)ころ |
* 戦後、昭和天皇仙台行幸時の写真(S22年8月5日)では、木造平屋
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27-01
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NHK仙台放送局 |
ラジオ放送開始 |
1928年(S3) |
* 日本放送協会は、1927年(S2)年6月9日、仙台に東北支部を設置
* 1927年(S2)8月11日、原町の送信アンテナ設置のための小作地取り上げ反対町民大会 / 農民と住民が反対運動 / ビラに、「町会議員は殆んど皆弱腰になったぞ!」「彼らの陰謀をたたき潰せ! 一萬円寄付には絶対に反対しろ!」
* 1928年(S3)6月16日、東北地方で初めてのラジオ放送が仙台放送局から開始された
<初期のラジオ中継放送>
* 1929年(S4)8月14~15日、「野外納涼盆踊り大会」中継(桜ケ岡公園から)
* 1929年(S4)9月22~23日、ミシガン大学との野球戦中継(八木山県営グラウンド)
* 1934年(S9)5月16日、NHK仙台中央放送局と改称
<戦後>
* 1945年9月23日、進駐軍放送のため施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始
* 1946年(S21)6月9日、仙台復興祝賀街頭音楽大会、放送
* 1946年(S21)7月29日、東北初の放送討論会開催(会場は仙台南松竹劇場)(「重訂 宮城県郷土史年表」P512)
* 1948年(S23)6月、仙台局開局20周年、NHKラジオ番組「二十の扉」公開放送
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「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P1、P9、P21/「仙台市史 年表」P104/「重訂 宮城県郷土史年表」P512/「仙台市史10 年表」P313/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260/「新・目で見る仙台の歴史」P148
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44-11、25-01、25-06など「写真データベース」分類F-24の写真全部/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234(S3、リーフレット「NHK仙台放送局開局」)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234/「目で見る仙台の歴史」P160に、本放送開始時のNHK仙台局舎/「新・目で見る仙台の歴史」P148(アンテナ反対町民大会ビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P509(同ラジオ送信アンテナ)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260の写真84(二十の扉公開放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P69(のど自慢、三つの歌、二十の扉各公開放送ステージ)/「新・目で見る仙台の歴史」P175(NHK街頭録音)/「市民の戦後史(仙台市)」P42(放送討論会ステージ、NHK放送慰問団トラック、のど自慢会場東北劇場前の看板)/同P70(S27年、楽器店前でラジオ五輪実況を聞く人々)
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冷害・凶作 |
明治38年(その2) |
1905年(M38) |
* 明治38年凶作
(2)「仙台市史 特別編4 市民生活」P358の「出稼ぎと身売り」より
<凶作、農村の窮乏>
・ 「明治35年の凶作の痛手を回復しえないまま、明治38年に、天明・天保以来の大凶荒と言われた凶作が東北地方を襲い、特に宮城・福島・岩手の3県で大きな被害を出した。米収穫高平年に比べ、福島は24%、宮城14%、岩手34%」
・ (明治三十八年宮城県凶荒誌)「盛夏尚綿布を着け気候の異常に一種の畏怖の念懐きて憂慮せしもの、九月下旬に至りては至る処収穫皆無を唱え、米価の騰貴甚だしき加ふると共に、窮民の惨状は見るに忍びざるものありき」
・ 下級農民の多くは、米の収穫どころか、労働の途も絶たれ、飢餓寸前に追い込まれるという状態であった / 特に山間の村落の住民は、木の実を拾い草の根を掘って食糧とするが、積雪の季節に入るとそれもままならず、救いを待つしかなかったのである
・ 中産農家の土地家屋に身分不相応の負債が生じると、移住者として郷里を捨てる動きがみられる。 / 働く場を求めて、宮城県内から県外への移住件数が明治38年に5220人、39年に1万3312人、40年に1万6212人(3年間計、3万4744人) / 仙台市でも、65人、315人、837人
・ M35年の仙台市内貧民調査表
<救済事業>は、耕地整理や土木工事の執行、里道改修、ため池修繕、用水路改修、上水工事および廃沼田地開墾、町有林開墾、河川改修、堤防修繕、道路改修
<児童救済>では、岡山孤児院石井十次来仙し養育困難児143人を一時引き取りや、メソジスト教会のフェルプスらが「東北育児院」を開設(同年11月3日に、仙台育児院と改称)
<身売り>
・ 凶作地に於ては、婦人を欺き連れ出し、あるいは本人が知らないうちに職工や売春婦にされ、不本意な労働を強いられるということが起きている
・ 日露戦争下での経済不況は賃金の低落が著しく(中略)職を失った場合には、生活の困窮は目も当てられないというありさまがこのような事態をも生じさせたといえる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P358~359
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冷害・凶作 |
明治38年(その3) |
1905年(M38) |
* 明治38年凶作
(3)「仙台市史 年表」P93より
* 1905年(M38)8月28日、仙台市、大凶作のため臨時米穀売買事務所を開設
* 1905年(M38)11月18日、凶作救済県民大会、挹翠館(ゆうすいかん)で開催
* 1905年(M38)11月29日、宮城県凶作救済会結成
* 1905年(M38)11月29日、仙台市内のキリスト教各派の外国人宣教師ら、外国人救済会結成
* 1905年(M38)12月6日、仙台市、臨時救済事務所を開設
* 1906年(M39)1月、仙台市内のキリスト教各派の日本人牧師ら、東北凶作救済会を結成
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「仙台市史 年表」P93
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仙台市の消防 |
自治体消防以前 |
明治~昭和21年 |
* 明治初期、町火消組織化
* 1919年(T8)、南町大火で700戸焼失
<常備消防>
* 1924年(T13)、国分町の仙台警察署内に消防車2台、班員8人を常置
* 1927年(S2)、第二常備班(荒町)開設
* 1935年(S10)、常備消防部設置 / 第一常備部を「仙台常備消防本部」へ、第二(荒町)、第三(原町)、第四(長町)の各常備班を「分遣所」へ改称
<警防団の常備消防部となる>
* 1939年(S14)、警防団令公布 / 消防組は、民間防空組織の「防護団」と合して「警防団」と改称され、「仙台警防団常備消防部」となる
* 1944年(S19)4月、仙台南警察署開設とともに「南警防団常備消防部」設置
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、北常備消防部と狐小路分遣所が消失
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P814~815
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ビル建設 |
4階以上のビル |
終戦前/1958年(S33) |
* 昭和20年の終戦前、4階以上は、東北電力、市立病院、三越、富国ビル、簡易保険局、明治生命など
* 1957年(S32)頃
・4階 仙台電話局、興銀ビルなど
・5階 徳陽相互銀行
・6階 仙台ビル、山口ビル、郵政ビル
・8階 丸光デパート、日乃出会館(工事中)
S32年頃に建設計画中(東宝ビル、七十七銀行)
(以上、出典調査中)
* 1958年(S33)1月、仙台市内で4階建以上のビルは17(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286
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森天祐堂 |
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昭和初期~ |
* 昭和はじめ、文化横丁で開店(店主・森権五郎氏は明治34年生) / 文化キネマ(大正14年に開館した映画館)に隣接し、ブロマイド専門店だった
* 1933年(S8)、東一番丁大通りへ移転
* 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
* 1945年(S20)夏、空襲後、いちはやく東一番丁で店再建(バラック → 木造)
* 青葉通り開通(S25)後、店は東一番丁・青葉通り北東角になった
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森天祐堂(森つきサン)談/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197
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戦前は53-28 / 戦後は、53-05、53-06、53-07、53-10
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博覧会・フェア |
満州事情展覧会 |
1932年(S7)~1934年(S9)頃 |
* 東北帝国大学報国会が、満州事変勃発(昭和6年9月18日)記念日頃に開催 / 開催場所は県商品陳列所か?(後援が県商品陳列所)/ 会場垂れ幕に満州皇軍慰問金バザー、音楽童謡舞踊の会の字 / 開催年は、昭和7年~10年の間の9月(根拠:宮城県商品陳列所は昭和10年11月11日に「宮城県商工奨励館」に改称なのでそれ以前)
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「新・目で見る仙台の歴史」P160/当サイト内「写真データベース」の「商工奨励館」
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「新・目で見る仙台の歴史」P160
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年中行事(まつり) |
仙台七夕 |
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* 毎年8月6日~8日開催 → 項目「仙台七夕」を参照
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写真分類E「仙台七夕」の全写真
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新聞社(明治) |
創刊年 |
明治年間 |
*「宮城新聞」 創刊 1973年(M6)4月3日、仙台初の新聞
*「東北新聞」 創刊 1973年(M6)5月8日
→M10年1月「仙台新聞」と改称(仙台初の隔日刊紙となる)
→M11年1月に「仙台日日新聞」(仙台初の日刊紙)
→M13年に「陸羽日日新聞」(M13年に3度の発行停止処分)
→M16年に「奥羽日日新聞」
→M37年に「奥羽新聞」と改称
* 自由党系の「自由新報」「東北自由新報」
1882年(M15)、言論機関への統制・弾圧が強まり、発行停止処分
*「東北新聞」(松田常吉ら) 創刊 1892年(M25)1月
*「東北日報」(秋葉忠七ら) 創刊 1892年(M25)2月15日
*「河北新報」創刊 1897年(M30)1月17日、 一力健治郎が「東北日報」を買収し創刊 → 以下、項目「河北新報社」へ
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「仙台市史 年表」P80、P82、P90
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満蒙開拓 |
宮城県関連(2)満蒙開拓団リスト |
1932年(S7)~ |
<(戦争のころ 仙台、宮城」P164~165より転記>
・ 宮城県は長野県、山形県に次いで全国で3番目に開拓団を多く送り出した県といわれ、国策の名のもと38地点に1万2000人の開拓団や義勇隊が渡満した
・ 宮城県知事引継書(昭和17年10月7日 林信夫知事→加藤於兎丸知事)の記述
「北海道自作農や、南米、南洋方面への移住希望者はほとんどなく、目下満州開拓民の創出に全力を挙げている。特に(南郷村のような)分村計画を樹立したところもあり移民業務は円滑に行われている」
・宮城県から渡満開拓団のリスト
昭和7年、第1次弥栄村37人 8年、第2次千振郷39人 9年、第3次瑞穂村17人 10年、第4次城子河、吟達河44人 11年、第5次大安屯、朝陽卍、黒台南郷、自警村移民168人 12年、第6次湯原、第7次先遣隊304人 13年、第7次本隊拉林、安井、第8次先遣隊420人 14年、第8次本隊横泰、青葉、韓家、第9次先遣隊173人 15年、第8次、第9次補充、第10次先遣隊137人 16年、第8、9、10次補充210人 17年、第8、9、10次補充216人 (以上、昭和17年知事引継書より)
以降は昭和19年まで続き、沙河子仙台657人、三裸樹北方村34人、三竜津久毛45人、吟達村南郷122人が移住(以上、鈴木文雄編著「宮城県開拓団の記録」)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P164~165
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大学紛争 |
仙台(1) |
1968年(S43)~1969年(S44)前半 |
<1968年(S43)>
・ 1月22日、東北学院大学、授業料値上げをめぐり学生の反対運動
・ 2月8日、東北学院大学、新入生の学費値上げをめぐり大学内紛争、12日から期末試験を中止
・ 11月16日、東北大学、大学本部が学生によって封鎖
<1969年(S44)前半>
(1月19日、機動隊、東大安田講堂の封鎖解除、631人逮捕)
・ 5月23日、東北大学、大学立法に反対し、教養部で2週間スト
・ 6月2日、東北大学に学生により構内に引きずり込まれた私服警官を救出するため、機動隊出動して救出
・ 6月5日、東北大学、事務局封鎖解除をめぐり、学生同士が乱闘、二百数十人負傷
・ 6月25日、東北大学、反代々木系学生等、同大学理科実験棟を封鎖
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P49/「重訂 宮城県郷土史年表」P637、P638、P644、P649、P650/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、仙台市の中央通りに座り込む学生たち、大学講義棟封鎖)
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大学紛争 |
仙台(2) |
1969年(S44)後半 |
<1969年(S44)後半>
・ 7月1日、宮城教育大学、反代々木系学生が、同大学人文棟を封鎖
・ 7月7日、東北学院大学に機動隊出動し、封鎖中の押川記念館を解除
・ 9月18日、東北大学、教養部無期限スト、大学側は19日より前期試験を無期延期
・ 9月19日、宮城教育大学、反代々木系学生が講義棟封鎖、大学側は19日より前期試験を無期延期
・ 10月10日、「十月十日統一行動日」、仙台においてはじめてデモ隊が乗用車に放火、路上にバリケードを築き街頭闘争、学生9人逮捕
・ 10月16日、東北大学工学部管理棟、全共闘学生が封鎖
・ 10月19日、仙台市で、反代々木系学生宮城県反戦青年委員会のデモ、94人逮捕
・ 10月21日、国際反戦デー、東北は7万人参加、仙台では反代々木系学生74人逮捕
・ 10月29日、東北大文学部、教育学部を全共闘派封鎖
・ 11月14日、東北大学の臨時評議会において封鎖解除のため機動隊導入を決定
・ 11月22日、本川東北大学長、県警察本部に文書で学内封鎖解除のため機動隊導入を要請
・ 11月23日、宮城県警察機動隊、東北大学構内に出動、封鎖されていた教養部理科実験棟など5つの建物全部の封鎖を解除
・ 11月27日、東北大学、法・経・理の3学部授業再開
・ 12月1日、東北大学教養部ロックアウト解除、文学部・教育学部も授業再開
(12月17日、文部省、大学紛争白書を発表、紛争大学合計124校)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P650、P652、P653、P654、P655
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、学生が大学講義棟を封鎖、
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大学紛争 |
仙台(3) |
1970年(S45)~1976年(S51) |
<1970年(S45)>
・ 3月9日、宮城教育大学、教授会で卒業式中止を決める
・ 3月30日、東北大学、臨時評議員会で、この年の入学式中止決定
・ 6月19日、仙台三高にゲバ装備の高校生十数人乱入、職員室や窓ガラスなどを破壊
<1972年(S47)>
・ 東北大学学費値上げに抗議した全学ストが長時間続き、2年生全体の3分の2にあたる1500名が新旧単位不足で留年
・ 6月12日、学生が東北大学教養部講義棟封鎖
<1976年(S51)>
・ 2月10日、東北大学教養部、紛争のため講義棟破壊
・ 3月25日、東北大学、卒業式で、演壇占拠事件
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「重訂 宮城県郷土史年表」P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P11、P50、P52/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538
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仙台空襲 |
空襲の概要 |
1945年(S20)7月10日 |
<7月10日未明の仙台大空襲>
* 1945年(S20)7月10日未明、米軍第58航空団のB29、123機、2時間にわたって仙台市街地を空襲 / 先導機12機に誘導され高度3000~3200mで市南西部から侵入、事前設定した爆撃中心点に焼夷爆弾投下、目標区域周辺に反復し投下 / 爆撃の範囲は市電循環線の内側と、陸軍施設が集中する川内地区 / 3~5機が編隊で爆撃、何分か後に別の編隊が攻撃を繰り返す / 午前0時3分~2時5分までの2時間に25回周辺に反復し投下
* 避難で市民が向かった避難先は、広瀬川河畔、評定河原、大年寺山、愛宕神社、西公園、大崎八幡、北山、北仙台、台原、東照宮、宮城野原、遠くでは根白石、落合
・ 空襲の夜、軍管区副官部の将校たち、料亭で飲酒、2~3人が焼夷弾の直撃で亡くなった(「戦争のころ 仙台、宮城」P212~213)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P212~213、P214~216、P218
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長町駅(JR) |
開業 |
1896年(M29) |
<JR東北本線・長町駅>
* 1894年(M27)10月、日本鉄道の長町駅完成
* 1894年(M27)10月30日~11月3日、第2師団が長町から出征(日清戦争)(「仙台市史 年表」P89)
* 1896年(M29)2月21日、一般営業(民用の駅として)開業(「仙台市史 年表」P89)
* 1923年(T12)、2代目駅舎に改築
* 2006年(H18)9月18日、JR駅が高架化(翌日から、2代目駅舎撤去開始)
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「仙台市史 年表」P89/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?)
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映画館(戦後) |
仙台東映 |
1956年(S31) |
<Wikipedia「仙台東映」沿革 および「仙台映画大全集」P458より>
* 1948年(S23)7月3日、東一番町29(現在の広瀬通り一番町南東角)に開業した「公共会館」(文化教室、実演劇場)が前身で、主に演劇を上演していた
* わずか半年後の1949年(S24)1月29日に「国際劇場」と改称し東映封切館となる
* その後、1954年(S29)2月3日に「仙台新東宝映画劇場」となり、新東宝の封切館として再出発するも、ビル建て替えのため閉館
(「番丁詳伝」P218では、S29年仙台新東映映画劇場として衣替えし、さらに31年秋にビルを建て直し、地下を東映パラス、1階を東映劇場とし表通りには東映シューズ、コセキ、洋服はコンノが出店)
* 1956年(S31)9月、東映の直営館として再建され、「仙台東映」(邦画系)「仙台東映パラス」(洋画系)となった
* 1994年(H6)6月11日、現在地に飲食店などの商業施設を含んだビル「仙台東映プラザ」がオープン。同ビルの6階に「仙台東映」「仙台メルローズ」が入り、新たなスタート
* 2001年(H13)以降、市内に開業したシネマコンプレックスの影響で次第に業績が低下
* 2005年(H17)4月15日、閉館し、「公共会館」時代から数えて57年の歴史に幕を下ろした。跡地は料亭「寧々家」、居酒屋「いろはにほへと」となった
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「仙台映画大全集」P458/Wikipedia「仙台東映」〈2020年7月13日版)/「番丁詳伝」P218
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201-45、201-43 /「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33年、空撮)、P50(S34年)
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西本願寺別院(東一番丁) |
東一番丁に落成/元常盤町へ移転 |
1883年(M16)~1954年(S29) |
<Wikipedia「本願寺仙台別院」より>
・ 戦前期は、仙台陸軍病院に近いこともあり、仙台の陸軍第二師団の殉職者のうち無援仏を慰霊する役割も担った
・ 1933年(S8)、近くに三越が開店、本堂は東一番丁から参道を通って奥まった場所にあったため、東一番丁に面する参道両側の土地は、庶民に貸し出して商売をさせた
・ 戦後、仙台市が戦災復興事業によって中心市街地から寺院や墓地を移転させる方針を採ったため元常盤町(のちの支倉町)へ移転した(Wikipedia「本願寺仙台別院」では、昭和29年移転)
<主に、「本願寺仙台別院」HPより>
* 1877年(M10)、仙台・南町に、本願寺東京事務所宮城支局設置、6県下の事務取扱を行う / 同時に、東一番丁に本堂新築開始
* 1878年(M11)、仙台説教所設立、宮城小学校を設置
* 1880年(M13)、仙台説教所を別院とする
* 1883年(M16)、仙台区東一番丁に仮本堂落成
* 1910年(M43)、洋風の本堂が落成
* 1929年(S4)、無優樹幼稚園開園(S12に、あそか幼稚園と改称)
* 1938年(S13)、戦没者追悼法要(日中戦争)
* 1945年(S20)7月、仙台空襲により本堂など焼失、幼稚園休園
* 1947年(S22)、仮本堂新築落成
* 1950年(S25)、元常盤町(現・仙台市青葉区支倉町)を移転復興の地と定め、仮本堂庫裡を新築
* 1954年(S29)、元常盤町へ移転
* 1956年(S31)、幼稚園舎を新築、「あそか幼稚園」再開
* 1959年(S34)、新本堂新築落成
* 2011年(H23)、東日本大震災で、本堂など被災、幼稚園閉園
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「本願寺仙台別院」HP/Wikipedia「本願寺仙台別院」 (出典: 「本願寺仙台別院 沿革」)/参考「東一番丁物語」(柴田量平著)P205~206によれば、最初の本堂落成は、M15年/「番丁詳伝」P64
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西本願寺別院(東一番丁)の位置は、98-122/西本願寺がつくり商店を入居させた長屋は、47-06
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冷害・凶作 |
明治35年 |
1902年(M35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P358より>
「明治35年は春からヤマセ(北東の冷たい風)が吹き、7月中旬から8月中旬にかけて雨が多く気温の低い日が続いた。 米の収穫高は予想を上回る減収で、1897年から1901年に至る過去5年間の平均収穫高の32%にすぎなかった。」
* 1902年(M35)、冷害のため凶作となる
(仙台市会、凶作のため外国米売渡手続を決議)
(外国米を698戸に配布)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P305、P358/「仙台市史 年表」P92
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新常盤町(遊郭) |
(2)移転開業 |
1894年(M27) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391より>
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
・ 遊廓の土地整備は、米ケ袋の集治監(監獄)の囚人を使用
・ 建築は東京の大工やとび職を招き、吉原の建築様式をそのまま模倣し、文字通り東北一の遊郭をつくる / 南側には「大門」、道は南北に走り、その道を挟んで妓楼が連なり、大門を入ると軒が見えるようになっていた / 大門に入る前に四ツ谷堰に注ぐ川があり、その川にかかった橋を吉原と同じように思案橋と名付けた
・ 大門と対極の道路の北端に、娼妓たちの教育をする「女紅場」
・ それに隣接して彼女たちのための病院(梅毒院)があった
・ 各年度別の娼妓数・貸座敷数
1892年(M25)、192人・21軒
1900年(M33)、325人・32軒
1901年(M34)、363人・35軒
・ 軍人の利用には、割引があった
・ 1926年(T5)6月、妓楼は32軒 / 安積楼(あさか)、中正楼(ちゅうせい)、新竹楼(しんちく)、昌平楼(しょうへい)、千州楼(せんしゅう)、若松楼(わかまつ)、永明楼(えいめい)、甲子楼(こうし)、宝来楼(ほうらい)、吉辰楼(よしたつ)、など / 娼妓総数273人(宮城県出身202人、うち仙台市出身29人、県外出身71人)
<娼妓>
・ 年季が空けるまですべてが警察の取り締まりの対象になった
・ 外出先はもちろんのこと、病気による休業、懐妊のための休業も警察の許可が必要 / 生理で仕事を休むこともできなかった
・ 取り締まりの業務のために、郭の近くに交番が建てられていた
<娼妓の生活収支>
・ 稼ぎは、楼主4割、娼妓6割 / 娼妓収入のうち、賦金(税金)・食費・席料・衣類・寝具損料・その他を引くと、むしろマイナスになり、前借金に足されて借金は増えてゆく仕組みになっていた
<娼妓になる原因>
・ 借金などによる家の貧困を救うため / 父母兄弟の病気や死亡により医療費と生活費を稼ぐため / 事業失敗による家の没落を救うため / 子供の養育費のため / 多くは、上記のような理由による芸妓や酌婦の時の自分の借財を整理するため
・ 貧しい東北地方の農村では、冷害や飢饉などの凶作のため口減らしを目的とした人身売買によって遊廓に連れてこられる者も多かった
<宮城県内の娼妓、なる前の職業(昭和11年、県警察部調)>
・ 農業29.4%、酌婦19.6%、無職19.4%、女中11.4%、女工9.0%、雑役4.9%
* 太平洋戦争期 戦時体制強化により、遊郭は急速に衰退
* 1946年(S21)1月、GHQ指令で公娼制度廃止により一斉に閉店 / 旅館や料理屋・飲食店などに転業することになった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391
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目で見る仙台の歴史」同P129に「新常磐町遊郭全景と妓楼」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P386(M31年、新常盤町の図)/同P390(S8年、遊客人名簿)
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実業補習学校 |
仙台補習学校 |
1915年(T4) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P450~451>
1893年(M26)から、小学校のみの義務教育を終えるが、あるいはしばしばそれも家庭の事情によって満足に履修できず、社会に出ることが多かった青年たちに、国家の富国強兵の方針に応じて職業教育や一般補習教育を施す必要が唱えられ、実業補習学校の制度が実現した。農村ではかなりの普及をみたが、仙台補習学校が発足するのは遅れて1915年(T4)のことである。
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P450~451
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人力車 |
仙台人力車挽子組合 |
1920年(T9)~1925年(T14) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P503>
* 1920年(T9)10月、仙台人力車挽子組合、青年自由革新党幹事の渡辺保蔵の指導で組織
* 1923年(T12)8月、仙台人力車挽子組合、再建総会 / 賃金改善と特に個人営業の自由を阻むすべての制限撤廃が運動方針 / 800余名の挽子全員を組織化
* 1925年(T14)9月、人力車挽子組合大会と値上撤廃期成大演説会(東三番丁の電気館 ☆末尾の注参照) / 人力車借用料値上反対した仙台停車場構内人力車挽子のストライキが口火となる / 800余名全員のストライキも辞さないという態度に、営業者側は無条件で値上案を撤回 / その後、個人営業の権利獲得運動を継続
・ これに自信を得た仙台停車場構内の挽子は、雇入れ・解雇は営業人と挽子合議の上で決定し、車体破損弁償は実費分を挽子と営業人が合議の上で決定することなどの要求で交渉し、全面勝利
<仙台市史 特別編4 市民生活」P193>
・ 1925年(T14)9月3日、仙台人力挽子組合臨時緊急集会(於:国分町の電気館) / 歯代(仙台駅構内の挽子80余名が営業者に収める額)1か月で18円から30円に引上げに反発
☆注: 電気館は、「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236によれば、国分町にあり、前身は大正3年4月開館の世界館で、その後日本館、帝国館、キネマ館と改称し、大正11年5月27日に電気館と改称した / 東三番丁ではない)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P503
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P503(T14年、人力車挽子組合大会・値上げ撤廃期成大演説会)
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安保反対闘争(1970年) |
70年安保闘争・仙台の動き |
1970年(S45) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対運動」より転記>
* 1970年(S45)6月23日、安保破棄県民集会(仙台市錦町公園)、社会・共産両党、労働組合、学生など125団体1万1000人参加 / 安保破棄を目指す宮城県学生総決起集会(東北大学構内)には在仙台各大学の学生3000人が集会・デモ行進後、県民集会に合流 / 6・23仙台学労総決起集会(全共闘系、仙台ベ平、反戦青年委員会など2800人)
・このほか、大学のストや討論集会も盛ん
・6月23日、安保条約は自動延長となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P541
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安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・仙台の動き |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対闘争」より転記>
* 1959年(S34)3月、安保改定阻止国民会議結成
* 1959年(S34)4月、第1次全国統一行動 / 翌年10月まで23回にわたる統一行動
宮城県、仙台市での日米安全保障条約改定反対闘争
・ 宮城県安保廃棄、改定阻止県民会議結成
* 1959年(S34)11月27日の第8次全国統一行動では、宮城県庁前広場大集会とデモ行進
* 1960年(S35)4月23日、東北大学川内と東分校両自治会が、安保問題討論集会(800人規模)、400人の学生が仙台市内で反対署名運動
* 1960年(S35)5月16日、仙台で、衆議院安保問題特別委員会の公聴会 / 県庁前で安保阻止県民会議(労組員、学生ら4000人集会)、安保条約批准反対の請願署名
* 1960年(S35)5月19日、20日未明、衆議院で強行採決
・ 翌20日から強い反対運動展開、宮城県民会議では、国会解散と岸内閣打倒を重点に、総決起大会(6000人)とデモ行進 / 各労働組合が職場集会、東北大学生総決起集会(1500人)とジグザクデモ
* 1960年(S35)6月4日、第17次統一行動 / 「安保条約阻止、岸内閣打倒、国会即時解散県民会議」総決起集会(政党・労組・仙台商工業者連合会・婦人団体・文化団体など1万5000人参加)/仙台市役所前で、安保婦人抗議集会(安保反対婦人協議会)/東北大学では、学生デモと有志教官団(250名)デモが大学本部から県庁前広場まで行進
* 1960年(S35)6月11日、第18次統一行動では、地区ごとの労組や婦人団体による抗議集会後に、県庁前広場に89団体、6500人
* 1960年(S35)6月17日、樺美智子さん県民追悼集会と追悼行進 / 6月18日、「安保批准阻止、岸内閣打倒、国会解散要求県民集会」、東北大学教養部ではストが続き、片平丁本部の学生も授業放棄して集会とデモ、一部学生が自民党県連事務所前に座り込み / 宮城学院女子大・短大有志が県民集会に参加
* 1960年(S35)6月19日、国会で自然承認され、23日に批准書交換 / 7月15日、岸内閣退陣
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P540~541
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P537(S35年、60年安保闘争で広瀬通りをゆくデモ隊、宮城県庁前での統一スト)/同541(安保反対を訴えるマッチラベル)
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安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・学生たちの抗議 |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536より転記>
「1960年(S35)の日米安全保障条約改定反対闘争(安保闘争)では、学生が労働者や市民と広く合流して運動を盛り上げた。特に自民党による国会での強行採決に対する抗議行動には、立場の違いを超えて多くの学生が参加した。仙台では、学生ともに東北大学の教官が抗議デモに参加したことでも注目された。6月15日の国会周辺デモ隊と警官隊との衝突で女子学生樺美智子さんが死亡した事件への抗議デモでは、青葉通りに3000名の学生が集まった。」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P536
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新寺小路地区都市改造事業(区画整理) |
計画公示~完了 |
1960年(S35)
~2000年(H12) |
<「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」(昭和44年9月発行)P388より>
「新寺小路地区第一工区土地区画整理事業=寺院と墓地によって相当部分が占められており、仙台駅に隣接してしているにもかかわらず市街地としての環境整備が遅れているので、市中心部と東部地区を連絡する都市計画街路を築造し、駅前広場(東口)を拡張して交通の円滑化を図るとともに、区画街路、公園などを設置、墓地を整理して総合的に近代市街地化する。このため墓地は別途事業で造成中の葛岡墓園に移転改葬し跡地は宅地として利用する計画。事業認可面積は約60.3haで、昭和35年から5か年計画で着工したが、墓地の所有権をめぐる訴訟事件などのため事業は進まなかったが、同地区の10カ寺との話し合いがつき、昭和44年一部墓地の移転が開始されたので、清水小路多賀城線の拡張工事は軌道に乗り始めた。」
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127>
「新寺小路の区画整理は、区域内約1100戸を交換分合するほか、約30カ寺の墓地を整理、3万基近い墓を葛岡墓地公園に移転。そして道幅を7.5mから25mに広げ、都心部と仙台バイパスを結ぶ最短路線にしようというもの。」
* 1960年(S35)6月、新寺小路地区都市改造事業計画公示(施行年度は、2000年度(H12)まで / 施行面積60.4ha)
* 1960年(S35)9月、新寺小路地区の33カ寺、墓地所有をめぐり市を相手に訴訟
* 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始(新寺小路地区の都市改造事業=区画整理による移転墓地) / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成
* 1965年(S40)1月、新寺小路墓地問題で11カ寺と市が和解
* 1969年(S44)3月、移転第1号として応瑞寺の墓碑50基を移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P388/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127、P744/「同書」末尾年表P871、P888/「仙台市史 年表」P123/「市民の戦後史(仙台市)」P110、P113
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「市民の戦後史(仙台市)」P211(葛岡墓地公園)
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学徒勤労動員 |
アウトラインと宮城県内の状況 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314>
・ 労働力不足に対応するための中等学校生徒以上に対する集団勤労は昭和13年、文部省の「集団勤労作業に関する訓令」に始まるがこれが激しくなったのは昭和16年秋ごろから
・ 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」により、「1年を通じて30日以内、授業を廃して増産運動に協力すること」を命じられる
・ 1943年(S18)10月、閣議決定「教育に関する戦時非常措置」により、「在学期間中1年につき3分の1に相当する部分が学徒動員にあてられる」 / この傾向はさらに強化されて、「工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」(昭和19年?)、「学徒勤労の徹底強化に関する件」(昭和19年7月)などにより、「国民学校高等科生徒の動員や、中等学校3年生以上の深夜労働が認められる」ようになる
・ 仙台市においても、昭和16~17年は主として近郊農家の田畑の除草、収穫の手伝いなどだったが、18年になると男子は開墾、湿田の暗渠排水、製炭作業のほかに、原町の陸軍造兵廠、玉浦飛行場(仙台空港の前身)などの整地作業が加えられ、女子は被服廠の縫製作業に動員され、農家の手伝いには低学年を動員
・ 昭和19年にはいると、上級学年は主として日立、川崎、逗子など県外の軍需工場に動員され、低学年生徒は市内の軍需品関連工場に動員されるという状態で、仙台貯金局に動員された仙台女子商業や宮城県第一高等女学校生徒はむしろ恵まれたものとして、うらやまれた。
<編者注>
(1) 上記「閣議決定」「要綱」などの年月は、編者が補足、ただし、工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」は年月不詳
(2) 仙台の中等学校等の勤労動員の具体例 → 当データベース<仙台よみとき用語年表>の項目「戦時下の学園」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P49~50に、昭和18年春と夏の農繁期に農作業支援で動員された学徒や職域の団体(報国隊)別の動員人数、学徒が動員された軍需工場名など記述あり
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婦人の社会活動(戦後・仙台) |
仙台の婦人団体 |
1945(S20)~1994年(H6) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439「仙台市婦人のあゆみ」>
・ 昭和20年~43年頃までの運動と団体の動向を記述
・ 市内の婦人団名(昭和40年)~市教委把握数は45団体
・ 活動内容が記述された団体は、日本キリスト教婦人矯風会仙台支部、日本婦人有権者同盟仙台支部、仙台市主婦連合会、仙台婦人懇談会、宮城婦人問題連絡会、仙台市婦人会議、地域婦人会、みやぎ草の実、高砂むつみ会、葉月会、PTA、社会学級、仙台市母子福祉連合会、仙台市農業協同組合婦人部、労働組合婦人部、婦人公務員、仙台教職員組合婦人部 / そのほかに、民間婦人の職場、パートタイマー、公職進出についても触れている
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459>にも、婦人会をはじめ、戦後の女性たちの社会活動組織について記述あり(昭和63年位まで)
* 日本基督教婦人矯風会仙台支部、戦後すぐ活動再開(街娼撲滅運動、平和運動)
* 1946年(S21)、稲村キクエの呼びかけで新日本婦人同盟仙台支部、結成(1950年に、日本婦人有権者同盟仙台支部と改称)
* 1947年(S22)ころ、国鉄労働組合婦人部、日本教職員組合婦人部、農業協同組合婦人部など、活動開始
* 1947年(S22)、仙台市主婦連合会発足(各種団体や労働組合の女性たち、地域の主婦も多数結集)
* 1949年(S24)2月、仙台婦人懇談会結成
* 1959年(S34)、宮城県婦人問題連絡会結成
* 1966年(S41)、仙台市婦人会議発足(55グループが参加)
・ 1960年代以降、婦人防火クラブ誕生(S37、萩の台婦人防火クラブ/S38、高砂戌区婦人消火隊など) / 1978年(S53)の宮城県沖地震後には町内会単位で結成が進む
・ 1975年(S50)、国際婦人年を契機に、仙台では、新たに女性問題・社会問題の学習グループ、消費者グループ、育児および育児ボランティアグループ、高齢者介護など福祉のボランティアサークルなど発足
・ 1987年(S62)3月、エルパーク仙台(仙台婦人文化センター)オープン / 記念して「女たちのメッセージ」開催(参加団体:当初は29 → 1994年(H6)には40団体以上)
・ 「女たちのメッセージ'94」の参加団体名一覧表 / 福祉・ボランティア活動、育児支援活動、学習活動など41団体(「仙台市史 特別編4 市民生活」P459)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459
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「市民の戦後史(仙台市)」P186と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P458に、「S41年10月、仙台市婦人会議結成大会」
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(1) |
昭和20年終戦~昭和24年頃 |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732>
・ 昭和20年は明治38年以来の凶作で米が大減収、農家は供出よりも自家飯米の確保に忙殺された。
・ 昭和21年には米をはじめ水産業でも収穫が急速に回復、その上、インフレと食料不足にもとづくヤミ取引の横行により生産県である宮城県の農家経済は異常な現金収入に恵まれ、昭和22年、23年と連続して台風被害による米の減収があったとはいえ、全体として農家はヤミ取引による現金収入で潤い、戦後という異常な時期の特色を示していた。
・ 終戦から昭和24年ごろまでの特徴は、戦争による経済の破壊は大きかったが、仙台の経済が農村に依存していたために、農家のインフレ景気に支えられて、都市部の疲弊にもかかわらず相対的には商業を中心に活動が開始されていた。特に金融は農村からの預金の集中があったために、それを貸し出しに回すことができた。
・ 昭和24年のドッジ・ライン以降、デフレへの経済転換の中で、農村の景気が終わりを告げ、そのために経済が沈滞し金融面にも大きく影響した。
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P368>
・ 第二次大戦後の仙台市の経済は、ほとんど休眠の状態に陥ったといえる。産業は沈滞を極め、農業も労働力の絶対的不足で農地は荒れ、食糧事情は窮迫していた。
しかし、都市部の経済がまだ混乱が続く中で、米の生産量は増加し、仙台近郊の農家は、現金収入を増加させていった。 農村景気の出現である。この農村の余剰資金が仙台に集中し、それが産業復興の資金としての役割の一部をになったといえる。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732の「第九章第三節 景気と金融の一 復興のあゆみ」から、農業にかかわる部分のみを抜粋/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
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定禅寺通り |
彫刻のあるまちづくり |
1979年(S54)~ |
<「仙台市彫刻のあるまちづくり」事業で、中央分離帯(定禅寺通緑地)に彫刻配置>
* 1979年(S54)10月3日、イタリアのエミリオ・グレコ作、踊り子像「夏の想い出」除幕(第1期作品のひとつ)
* 1982年(S57)9月22日、イタリア彫刻家ブェナンツォ・クロツェッティー作「水浴の女」、除幕
* 1986年(S61)10月17日、マンズー作、彫刻「オデュッセウス」除幕
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「続・ 宮城県郷土史年表」P102、P151、P224
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宮城の塔(沖縄) |
落成式 |
1968年(S43) |
<「公益財団法人沖縄県平和祈念財団」HP(2020年10月現在)」より抜粋>
《合祀戦没者》 今次大戦において海外で戦没した宮城県出身の勇士45,500余柱の霊をこの塔にお祀りしたものであります。なお、沖縄方面で戦没した宮城県出身者は582名であります。
《塔の由来》 碑文の建立に当たっては、戦没者の故郷宮城県阿武隅川のほとりから 石を選び、「宮城之塔」と名付けて石へ刻み、戦没者の追悼の誠を捧げるに、世界の恒久平和を祈念したものである。
《塔の位置》 東経127度北緯25度沖縄本島最南端糸満市摩文仁の丘、太平洋に面し、塔の向きは南南東に向いている。
* 1967年(S42)9月11日、沖縄に「宮城の塔」建設決定
* 1968年(S43)2月20日、「宮城の塔」完成し、現地で落成式
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「公益財団法人沖縄県平和祈念財団」HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P634、P638
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「市民の戦後史(仙台市)」P210
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県営宮城野原陸上競技場 |
宮城県営/仙台市営 |
1951年(S26)/2009年(H21) |
<「宮城百科事典P1007」より>
・ 戦前の宮城野原練兵場跡地の宮城野原公園総合運動場にある陸上競技場
・ 特に陸上競技場の走路はアンツーカー舗装で、当時東洋一といわれた程、整備された施設であった
・ オープン早々、S27年の第7回国体秋季大会の会場の1つとなった
* 1951年(S26)8月10日、宮城県営宮城野原陸上競技場開場
* 1951年(S26)8月16日、日米陸上仙台大会開催
* 1952年(S27)10月19日~23日、第7回国民体育大会、宮城・福島・山形県で開催、宮城野原総合運動場が、宮城県の主会場となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P559では、10月20日から5日間)
・ 開会入場式終了後、市内の女子高校生600人がマスゲーム「荒城の月」を披露 / その前夜、土井晩翠が晩翠草堂で永眠を場内アナウンスで伝える(「仙台市史 続編第2巻」P271)
* 1956年(S31)10月6日、第40回全日本陸上競技大会開催
* 1988年(S63)7月16日、陸上競技場改築落成
<仙台市陸上競技場となる>
* 2009年(H21)4月1日、仙台市に譲渡され、「仙台市陸上競技場」となる
* 2017年(H29)4月、弘進ゴムが命名権を取得し、愛称が「弘進ゴム アスリートパーク仙台」となる
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「仙台市史10 年表」P326/「仙台市史 年表」P117、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P547、P551、P559、P583/「続・ 宮城県郷土史年表」P249/「宮城百科事典P1007」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271/Wikipedia「仙台市陸上競技場」2020年6月7日版
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14-06、14-04/「目で見る仙台の歴史」P189(グラウンドで女子生徒たちのマスゲーム)
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(2) 生徒動員数 |
1945年(S20)4月現在 |
<「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月 丸山鶴吉知事→生悦住(いけずみ)求馬(もとめ)知事)より>
・ 「宮城県としては学徒動員本部を設置し、専任視学員を置いて事業所の受け入れ態勢、作業状況、厚生施設、給与、保健の改善に努めている」
・ 動員数(昭和20年4月、宮城県) 農業・商業を含め男子中学校1万1616人、女子中学校1万953人
・ 動員先 多くは陸軍造兵廠(仙台市苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)だが、民間工場へも動員
<動員先の例>
・ 仙台中学 5年生(仙台の陸軍造兵廠)、4年生(川崎市の東芝 →のちに、仙台の東北特殊鋼)、3年生(作並製炭所)、2年生(仙台近郊農家の手伝い)
<参考文献>
・ 『戦時下女学校の学徒勤労動員』(宮城学院発行) 宮城県内の39旧制高等女学校卒業生の271人に聞き取り(2000年 大平聡教授と学生たち調べ)
・ 『旧制男子中学校の勤労動員実態調査』(2001年 宮城学院大学院生鈴木洋子)
・ 『海鳴りの響きは遠く』(草思社) 宮城県第一高等女学校生徒の軍需工場動員記録
・ 『太平洋戦争に生きた少女たち』(高津計以編 私家版) 尚絅高等女学校卒業生による記録と追想
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P173
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警察(戦前) |
特別高等警察(特高) |
1928年(S3)~1945年(S20)10月 |
<「戦争のころ 仙台、宮城」P17~18より>
・ 特高警察は、内務省警保局を頂点に各府県の警察署特高係までを網羅した組織で、各県の特高、外事課長は内務省の人事で赴任した。 少数のエリートとその下で働く大勢の特高警官という構図。
・ 宮城県警察部は旧県庁2階の一角にあり7課(警務、警防、保安、刑事、工場、衛生、特高)85人体制
・ 特高課は刑事課と並ぶ20人の大世帯で、県内22警察署に100人以上の特高係が置かれ、職務は左翼、右翼、労働農民、内鮮宗教、検閲、外事、時局対策の7セクションにわかれていた
・ 1945年8月15日、戦争に負けると、内務省は全国の「特高警察」に捜査書類を一切焼却するよう指示(このため、宮城県公文書館に特高関係資料がない)
・ その50日後、GHQは政治的、宗教的自由を制限する治安維持法を廃止し、政治犯も釈放
・ 内務省と特高は解散を命じられ、内務大臣や警察首脳部、すべての特高警察官は休職扱いとなって後に罷免される / その数、全国では5000人、宮城県警察部では特高課長のほか一線署員も含めて90人が対象になった
*******************************************
* 1928年(S3)、「特別高等警察」(特高)、全国一律に未設置県にも設置された
* 1928年(S3)7月、宮城県警察部に特別高等警察課設置
<言論検閲も担当>
「宮城県特高課には、検閲係4人が専従、河北新報社本館1階には特高課用の部屋があって警官がしょっちゅう出入りしていたとの話もあります。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P111)
* 1945年(S20)8月末日、宮城県特高課廃止(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747)
* 1945年(S20)10月5日、宮城県特別高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
* 1945年(S20)10月11日、宮城県特高警察官91名の休職の臨時措置
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「宮城県史7 警察」P243/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P17~18、P111
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99-125(左下に宮城県特高課検閲済の字あり)
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青年訓練所 |
設置 |
1926年(T15)7月1日 |
<「日録20世紀 1926年」P42>
1925年(T14)に軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請/ 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P451>
1926年(T15)、文部省が管轄し、市町村に設置させた / 16歳~20歳までの男子の勤労青年に、修身・公民・職業・普通学科の教育と、主に在郷軍人による軍事教練を課すもので、兵卒の養成を目的にしたもの / これを終了すると兵隊になった時の在営期間が短縮された
***************************************
1926年(T15)4月1日、青年訓練所令及同規則公布 / 同年7月1日、青年訓練所を仙台市内12か所に設置
1931年(S6)7月5日、青年訓練所5周年記念一市三郡連合野外演習(宮城野原で)
1932年(S7)7月13日、青年訓練所連合演習
* 1935年(S10)4月、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる
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「日録20世紀 1926年」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451/「仙台市史 年表」P103/「仙台市史10 年表」P267、P276、P278/「番丁詳伝」P123
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自動車など各種車両台数 |
自動車と人力車(全国)大正・昭和の台数 |
T1、T4、S3 |
<「生活の変わりようをみる昭和の年表」P9>
・ 全国の自動車台数
1922年(T1)、760台
1928年(S3)、6万台
・ 全国の人力車
1922年(T1)、12万7千台
1928年(S3)、 6万2千台
<「日録20世紀 1915年」P35>
・ 全国の自転車
1915年(T4)年末、62万台、
・ 全国の人力車
1915年(T4)年末、12万台
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【菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P9/「日録20世紀 1915年」P35
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自警団 |
発足 |
1922年(T11) |
<「番丁詳伝」P71より>
・ 自警団は、消防組の補助機関として町内につくられた民間組織で、犯罪予防、災害防止、衛生・交通思想の普及を担う / 大正11年頃から結成され、1934年(S9)末には市内で135にのぼる / 火事の時には現場に出て非常線の警戒援助、傷病者の救護、家財道具などの搬出援助、その盗難予防警戒にあたる / 特に町の催し物の時には提灯を下げて交通整理にあたった / 日中戦争期には防護団、さらに警防団となった
・ 市中心部の各自警団名と設立年一覧表(「番丁詳伝」P71)
* 1922年(T11)10月9日、仙台市自警団が発足
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「番丁詳伝」P71、P130/「仙台市史 年表」P101
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22-35 (大正10年の藩祖政宗公三百年祭の奉祝アーチに立町自警団の字)
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青年学校 |
発足 |
1935年(S10) |
<「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)>
1935年(S10)4月1日、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学)
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311>
・普通科(尋常小学校卒対象)は2年間(科目は、修身および公民科、普通学科、職業科、体操科、女子にはこのほかに家事および裁縫科)
・本科(高等小学校卒対象)は男子5年間(体操の代わりに教練)、女子3年間 / 土地の事情により1年短縮可
・昭和14年から義務化され、第1期検閲までの訓練を入営前に完了が目標で、実業補修の影が薄れ、教練のみが強化された
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P452>
・ 陸軍省の強い要請に基づき、在郷軍人会・青年団・青年学校を軍事的な統一組織にしてゆくためのものだったことを物語っている
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* 1935年(S10)7月31日、デパート藤崎に私立藤崎青年学校(男子38人)、片倉製糸工場内に私立片倉仙台青年学校(男子30人、女子570人)設置
* 1935年(S10)8月1日、仙台市青年学校16校開校(16あった実業補修学校や青年訓練所を所在の町名の青年学校とする、補習学校と青年訓練所の両方があったのは、南小泉・長町・西多賀・原町の4つで、原町以外の3つには青年学校となってからも女子部があった) / 仙台市工業専修学校が仙台市工業青年学校に、仙台市商業専修学校が仙台市商業青年学校になる(工業青年学校、商業青年学校は、S16年3月10日廃止)
* 1939年(S14)4月26日、青年学校、男子のみが義務制になる
* 1942年(S17)3月31日、仙台市立青年学校、17校廃止
* 1942年(S17)4月1日、仙台市立独立青年学校4校設置
* 1947年(S22)、青年学校廃止(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452)
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「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451~452/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史10 年表」P286、P304/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/
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06-06/仙台市史 特別編4 市民生活」P451(秋保村青年学校の旗、カラー)
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JR東日本 |
発足 |
1987年(S62) |
<これ以前は、項目「国鉄」へ>
* 1987年(S62)4月1日、国鉄の分割民営化、JR東日本旅客鉄道株式会社発足
* 1989年(H1)1月25日、JR東日本、県内初の駅舎内コンビニ出店(東北線白石駅)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P221、P258
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国鉄(仙石線) |
国有化以降 |
1944年(S19)5月~ |
<これ以前は、項目「宮城電鉄」参照>
* 1944年(S19)5月1日、宮城電鉄が国有化され、仙石線となる
・ 戦時中、沿線にある原町苦竹の陸軍造兵廠や多賀城の海軍工廠への通勤者で大混雑(いずれも従業員が1万人あり24時間稼働)、電車はフル稼働して対応、国策により1944年(S19)に国鉄が買収した(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
<戦後>
* 1952年(S27)、仙石線東七番丁駅の廃止
* 1956年度(S31)、赤字2億3000万円
* 1964年(S39)5月8日、東京国電並みの混雑緩和のため、時差出勤呼びかけ
* 1966年(S41)1月20日、苦竹踏切、立体交差完成
* 1966年(S41)3月15日、陸前原町~西塩釜間、複線化工事起工式
* 1968年(S43)3月22日、陸前原町~多賀城間の複線が完成 / ラッシュ時の電車運転が6分間隔に
* 1975年(S50)2月15日、新型電車始発式
* 1980年(S55)11月24日、ドカ雪で、仙石線戦後初めて不通
* 1983年(S58)10月2日、仙石線に特別快速列車
* 1985年(S60)10月24日、仙台~苦竹間(3.9キロ)の地下化工事起工式
* 1986年(S61)3月20日、多賀城駅の新駅舎完成
* 2000年(H12)、仙石線地下新線開業・あおば通駅開設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P563、P567/「重訂 宮城県郷土史年表」P614、P623、P624、P638/「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P37、P120、P166、P196、P203/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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「新・目で見る仙台の歴史」P173(S21年10月頃、鈴なりの満員電車)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P99(S50年、カラー、走行する電車)/同P121(H12、走行する電車、カラー)
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学徒勤労動員 |
その他の文献、年表より(1) ~勤労奉仕を義務付け~ |
1938年(S13)開始~1943年(S18) |
<その他の文献、年表より>
* 1938年(S13)6月9日、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒
→ この年から各学校で夏休みの勤労奉仕が義務付けられる
* 1939年(S14)12月、青年団、中学生の「炭焼勤労奉仕」を準正課へ(菅家年表)
* 1940年(S15)10月20日、東北帝大生、八木山で第一回炭焼勤労奉仕(「重訂 宮城県郷土史年表」P477)
* 1941年(S16)1月14日、農繁期の学徒動員が始まる(菅家年表)
* 1941年(S16)12月1日、国民勤労報国協力令施行
* 1942年(S17)1月9日、国民勤労報国施行規則による学徒出動命令
* 1943年(S18)6月25日、学徒戦時動員体制確立要綱決定
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「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269「学都の戦時体制」/「仙台市史 年表」P109/「Wikipedia「学徒勤労動員」などを参考にした/
「仙台年表」P212/「仙台市史10 年表」P302、P303、P306、/「重訂 宮城県郷土史年表」P477、P486/「仙台年表」P10/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P15/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P23、P26/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313
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98-089
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ガダルカナル戦 |
戦闘 |
1942年(S17)8月~1943年(S18)2月 |
<ガダルカナル戦> ガダルカナル島は西太平洋ソロモン諸島の島。太平洋戦争で昭和17年8月~18年2月7日、この島の奪取をめぐって日本軍と連合国軍が戦った。 ミッドウェー海戦と共に日米両軍の攻守の転換点となった戦い。この戦いで、第二師団の多くの将兵が戦死 / 昭和18年7月、遺骨が仙台に帰還した。(「無言の凱旋」)
* 1942年(S17)8月7日、米軍ガダルカナル島上陸
* 1942年(S17)12月31日、大本営、ガダルカナル島撤退を決定
* 1943年(S18)2月1日、日本軍、ガダルカナル島撤退開始
<第二師団、ガダルカナル戦>
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103より)
・ 日本の南約5500キロ、英国領ソロモン諸島の1つで岩手県の半分ほどの島。
* 1942年8月、海軍の設営隊が飛行場を建設(敵の飛行機の出撃基地ニューギニアとオーストラリアの間にクサビを打ち込む目的)
* 飛行場完成後、米軍が進攻(艦砲射撃と海兵隊約2万人の海兵師団上陸)し、飛行場を占領
* 日本軍は陸軍部隊を投入
8月16日、先遣隊の旭川第七師団一木支隊、900人が上陸し飛行場突撃し全滅
9月、第十八師団川口支隊6500人、飛行場突入寸前に発見され死者700人以上
10月、第二師団(ジャワ島占領後に警備中、帰国輸送船待ち)と第三十八師団(スマトラ島警備中)の一部、計1万5000人投入
10月23日、第二師団歩兵第4連隊第2大隊、飛行場牽制攻撃、戦傷者続出、マタウ川渡河攻撃の独立戦車隊戦車10両全部撃破される
10月24日、第二師団歩兵29連隊(会津若松)敵陣突入し消息絶つ
10月25日、総攻撃、第二師団左翼攻撃隊長の那須弓雄少将、歩兵16連隊の広安寿郎大佐が戦死。作戦は事前に察知されて失敗。歩兵第4連隊将兵2千数百人は一夜にして壊滅状態。
日本の輸送船団(重砲8門、弾薬20万発、食糧20日分)撃沈される、日本海軍は、空母ホーネット、空母エンタープライズ大破させたが、輸送船団を軽視し敵の補給路を絶てず。
・ 米軍は飛行場南方に電流鉄条網と数多くのトーチカを配し、ジャングルには無数のマイクロホン、米軍に協力する現地民を潜ませていた。日本軍は強力な武器を持たず何回も懲りずに同じ戦法で突撃し犠牲を大きくした。
・ 第十七軍参謀の電報「島に残された兵士たちは食料も武器弾薬もない。木の根、草の葉もつき、川底のミズゴケまで食い尽くした。 動ける者はなく、壕に座ったまま銃剣で最後の戦いの準備をしている。」
・上陸した総兵力約3万1000人のうち死亡者約2万人(戦闘でなくなったのは約5000人、残る1万5000人は食料不足による栄養失調、マラリアによる)、1万1000人が救出される(昭和18年2月上旬、駆逐艦20隻で脱出)
・第二師団は、1万318人のうち、戦死・戦病死が7671人(生存者は4人にひとり)、同師団歩兵第4連隊は、2458人のうち1906人が戦没。
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19、P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103
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進駐軍(米軍) |
宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地) |
1945年(S20)9月~ |
<キャンプ・センダイを除き、1945年(S20)4月から>
キャンプ・センダイ(川内/第二師団司令部と各種の連隊跡)、キャンプ・ファウラー(榴ケ岡/歩兵第4連隊跡)、キャンプ・シメルフィニヒ(苦竹/陸軍造兵廠跡)、キャンプ・ローパー(多賀城/海軍工廠跡)、レニア・フィールド(南小泉霞ノ目/霞ノ目飛行場跡)、など
<キャンプ・センダイは、1946年(S21)4月から>
・ 川内の第二師団跡のキャンプ・センダイ用地は、1946年(S21)4月、第9軍団司令部(北海道・東北・東京横浜除く関東・甲信越が担当地域)が札幌から仙台への移転にあわせ、接収される / 川内の旧陸軍用地約110万坪は仙台空襲で兵舎など8割が焼失、仙台市は戦災復興事業で公園など緑地帯にする予定だったが、米軍の要求で計画は急きょ外された / 昭和21年末には、15ブロック総数246棟の建物が完成、県は物資不足の中、建設資材、作業員の調達に追われた / 東北地方最大の米軍施設となった(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
・ キャンプ・センダイには、第9軍団司令部のほか、将校用宿舎、下士官用宿舎、映画館、野球場、教会、図書館、体育館、電話局、消防、ゲストハウス2棟、ゴルフ場(中島池を埋め立てた)があった /
川内地区は日本人の立ち入りが禁止され、4か所の検問所で日本人従業員は出入りのたびにパスを提示 / 青葉山には強力な通信施設がつくられた(「戦争のころ 仙台、宮城」P244~245)
・「昭和22年、前年の暮から新しい年へかけて、積雪の中に、川内の旧陸軍の兵舎あとには占領軍の瀟洒な住宅が建設されていた。」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244~245/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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キャンプ・センダイの写真は、98-097、98-098、63-07/計画図は98-117/「新・目で見る仙台の歴史」P168(川内キャンプ全景)/「市民の戦後史(仙台市)」P37(川内キャンプ俯瞰)
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定禅寺通り |
ケヤキ植樹 |
1958年(S33) |
<グリーンベルトの樹種決定まで>(「戦争のころ 仙台、宮城」P254~255)
・ 両側歩道にはケヤキを植樹したが、中央分離帯(幅12mのグリーンベルト)の樹種は、高橋陣也市助役と鈴木光三公園課長の意見が相違
・ 助役は、サルスベリかモミジを指示、課長は「大きい街路樹によって勾当台公園と西公園を結ぶ緑のトンネル」にしたい
・ 岡崎市長時代には結論が出ず、次の島野市長時代にケヤキと決まった
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1958年(S33)に初当選した島野市長の「西公園と勾当台公園を結ぶ大樹林帯にしよう」という意向で、定禅寺通りにケヤキ植樹
* 1958年(S33)、ケヤキ植樹を開始(中央分離帯に76本、歩道を含めて計157本)
* 1958年(S33)末までに植え終わる
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P254~255/「仙台市史 年表」P120/「戦災復興余話」P87
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22-06/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(S29~33年頃)/「目で見る仙台の歴史」P188(中央分離帯に植木植樹したばかりの頃)
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戦勝祝賀行事 |
大平洋戦争中 |
1942年(S17) |
<シンガポール陥落>
* 1942年(S17)2月15日、日本軍がシンガポール占領
* 1942年(S17)2月15日、シンガポール島要塞の敵軍、皇軍に無条件降伏す、17日に昭南島と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P487)
* 1942年(S17)2月18日、シンガポール陥落戦捷第一次祝賀会開催(「仙台市史10、年表」P303)
/ 仙台でも祝賀行事が行われた / 河北新報記事「歓喜と日章旗のうずまき、感激を軍歌に乗せて、軍都仙台に音楽大行進がくりひろげられた」(「仙台市史 続編第1巻」P36)
・「シンガポール陥落を祝って仙台では提灯行列が行われました。お父さんたちには清酒2合、家庭には砂糖、小豆が特配されました。5月になると児童たちに、そのころ貴重品になっていたゴムまりが配られました。占領地のマレー半島はゴムの産地です。武器弾薬を届けた輸送船が帰りにゴムの材料を積んで帰ってきたのです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P66~67)
* 1942年(S17)3月12日、戦捷第二次祝賀記念式典(「仙台市史10年表」P304)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争一周年記念県民大会(「仙台市史10 年表」P305)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争第一周年記念県民大会を開催、この日、武道大会を挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P493/「仙台市史10 年表」P303~304(出典:河北新報)、同P305/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P66~67)
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シンガポール陥落祝捷行列(仙台)は、16-05
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(1)仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
<バラック建ての仙台駅周辺>
・ 終戦直後いちはやくヤミ市が出現、物流はもっぱらこの“まちの卸屋”で行われ、「東北の上海」などといわれた
* 1945年(S20)9月、露店にヤミ市が並ぶ(「仙台あのころこのころ八十八年」P250)
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋(エックスバシ)間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけに望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
・ 名掛丁には、通称“浅草楽天地”と呼ばれたバラックのマーケット街が出現、軍物資、ヤミたばこ、覚醒剤などが密売され、夜の女や不良の温床でもあった(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
・ 「仙台でのやみ市は、仙台駅前地区、東一番丁地区に10カ所あまりの青空市場ができたが、そば、ウドン、パン、いもなどの食べ物を中心に、食料品、衣料品、雑貨など統制物資までをも加えて法外な値をつけていた。市(いち)とまではならないが、東一番丁の空き地、大道に露天商が並び、戦後しばらく定職をもたないものはヤミ商人になったとまでいわれるようになる。(中略) 昭和21年5月の一斉取締りで仙台北警察署は東一番丁、仙台駅前、大学病院前の3か所から45名を検挙」(番丁詳伝」P159)
・ 仙台駅前(西側)のヤミ市(「戦災復興余話」P45~49より)
青葉通りなどの新設道路予定地や不在者宅地内にできたヤミ市で、ビッグ・スリーは、駅前マーケット(東五番丁/昭和24.10.10~31に市が代執行し80戸を強制撤去)、新興マーケット(仙台駅前/昭和25.3に14戸撤去)、国際マーケット(裏五番丁/昭和25.7に、28戸強制撤去) / 国際マーケット(203坪)の所有者は野路清蔵市会議員
【参照】 ヤミ市など不法建築物の強制撤去は、
項目「戦災復興事業」の小項目「不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺」、小項目「不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町」に詳述
<青空市場>
・ ヤミ市には、クツみがき、輪タク、街の女がたむろし、スイトン、しるこ、カストリ焼酎などは引っ張りダコ、なんとか飢えをしのごうという人たちで食べ物屋は大繁盛した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196/「戦災復興余話」P45~49/「わが心の仙台駅前史」P38/「仙台あのころこのころ八十八年」P250(年表)/「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158~159
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P772に、「町を行くやみ屋の列」(S25年3月、仙台駅前付近)
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