項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
霊屋橋(広瀬川) |
コンクリート橋に |
1935年(S10) |
仙台市の失業救済事業で架け替えられた
* 1934年(S9)8月20日、起工式
* 1935年(S10)4月17日、鉄筋コンクリートのアーチ橋が竣工(「仙台年表」では8月)、橋長65.2m、橋幅8m
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P410/「仙台市史10 年表」P283、P285/「仙台市史 年表」P107/「仙台年表」P206
|
コンクリート橋は、34-29、53-108/「目で見る仙台の歴史」P167/「新・目で見る仙台の歴史」P208/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図53(H8年)
|
仙台オープン病院(旧・鶴ケ谷オープン病院) |
開院/名称変更 |
1976年(S51)/1986年(S61) |
仙台市と仙台市医師会が協力して設立した、公益財団法人仙台市医療センターが運営する全国初の公設民営方式の病院
* 1976年(S51)2月1日、「鶴ケ谷オープン病院」診療開始
* 1980年(S55)6月6日、新館病棟完成
* 1986年(S61)3月、救急センター竣工(6月、診療開始)
* 1986年(S61)4月1日、「鶴ケ谷オープン病院」を「仙台オープン病院」と改称
* 1998年(H10)9月、地域医療支援病院承認(全国第一号承認)
* 2018年(H30)2月、新救急センター棟竣工
|
「仙台市史 年表」P130、P134、/「続・ 宮城県郷土史年表」P50、P113、P193/仙台オープン病院HP
|
|
青葉山公園 |
開設 |
1925年(T14)/1954年(S29) |
仙台市が管理している都市公園 / 青葉山の東端から広瀬川右岸にかけての40.6haで、仙台城(青葉城)の跡地の一部やその堀であった五色沼、長沼を園内に含む
* 1925年(T14)10月、第二師団より大手門等を含む2,957坪を借地し、仙台市青葉山自然公園とし、大手門への出入り自由となる(「仙台城」P233、「重訂 宮城県郷土史年表」P399) / 旧青葉城の大手門は、明治期から昭和戦前期には陸軍第二師団の正門だった
* 1925年(T14)10月、仙台市が、仙台城の大手門を含む2957坪を青葉山公園として開設(「仙台市史 年表」P103)
* 1937年(S12)9月3日、多門将軍銅像、青葉公園に建設、除幕式(「仙台市史10 年表」P291) (注)多門将軍は、満州事変当時の第二師団長多門二郎中将
<戦後>
* 1945年(S20)、連合国軍(米軍)が第二師団の敷地を接収(キャンプ・センダイ)したために青葉山公園は事実上の休園状態
・ 川内の旧軍跡地の接収は、第9軍団司令部が札幌から仙台に移転した、1946年(S21)(「戦争のころ 仙台、宮城」P224)
・ 米軍が二の丸跡に、米軍人軍属の住宅、クラブなど建築、二の丸遺跡は徹底的に破戒され、三の丸巽門(櫓門)破却、中島池、奥方庭園池泉、藩主居間前庭の瓢箪池、中奥外の濠、筋違橋付近深谷みな埋め立てらる(「仙台城」P235)
・ 中島池は埋め立てられゴルフ場に(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
* 1950年(S25)10月、護国神社が、本丸一帯の国有地の払い下げを受ける(「仙台城」P235)
* 1954年(S29)2月、護国神社所有地本丸の一部、2万0933坪を仙台市管理に移し、五色沼、長沼一帯国有地1万2643坪を加え、3万3576坪を公園地とす(「仙台城)」P236)
* 1954年(S29)4月1日、青葉山公園が川内に開園(再開)
* 1955年(S30)、追廻を公園地に編入(「仙台城)」P236)/ 旧第二師団の練兵場だった追廻地区は、戦後、米軍の接収をまぬがれ、住宅営団が戦災者・引揚者用の応急簡易住宅団地(追廻住宅 / 賃貸約620戸)を建設、その後居住者に払い下げられていた(追廻地区住民は、同地区の公園化に反対した)
* 1957年(S32)9月、仙台市が五色沼、長沼を浚渫(「仙台城)」P236)
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1960年(S35)6月10日、仙台郷土博物館建設(翌年10月10日開館)=博物館第1期工事
* 1961年(S36)10月、仙台市博物館開館(三の丸跡に)
→ 詳細は、項目「仙台市博物館」参照
* 1964年(S39)8月18日、宮城県スポーツセンターが青葉山公園内に開館(1万人収容、東北一の規模)
* 1965年(S40)7月、元東北大学教授山田孝雄先生の碑を建設期成会が護国神社裏に建立
* 1991年(H3)月日、仙台国際センターが開館
→ 詳細は、項目「仙台国際センター」参照
* 2015年(H27)、仙台市地下鉄東西線国際センター駅開業
|
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233、P235、P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P571、P621/「仙台市史 年表」P103、P118、P123/Wikipedia「青葉山公園」(2019年6月)/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
|
* 1960年(S35)3月13日、川内追廻住宅地(おいまわし)に火災、49戸焼失
|
霊園/墓園 |
北山霊園 |
1948年(S23)/1951年(S26) |
仙台市が、市北部北山町の高台に面積5.3haの霊園を造成し、戦災を受けた元寺小路地区の4寺社の墓地(0.86ha)を移転するとともに、同墓園周辺地区を拡張し市営墓地として市が経営
* 1948年(S23)10月、仙台市が、元寺小路や東三番丁の墓地を移転させるため造営開始
* 1951年(S26)10月に一部完成し、墓地移転が始まる / 戦災復興整理区域内の11寺院のうち、区域内に墓地をもつ社寺(満願寺、光円寺、大聖寺、宮城県神職会)に、新造成した北山霊園の一部を、墓地用地(5.7ha)として配分
* 1952年(S27)までに、4社寺の有縁墓地1648基移転終了、無縁墓地600基は各墓地内に万霊塔を建て納骨
* 1956年(S31)6月、残りの用地(7.8ha)は市営墓地とし、市民に開放
・霊園東の入り口に戦災死亡者の記念碑がある
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P331~333、P743~744/「仙台市史 年表」P115、P117
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P743(北山霊園)/「目で見る仙台の歴史」P171(北山霊園の空襲犠牲者慰霊供養碑)/同P178(霊園)
|
政令指定都市 |
仙台市 |
1989年(H1)4月1日 |
仙台市が、全国11番目の政令指定都市となる / 区制施行(青葉区、宮城野区、若林区、太白区、泉区)
|
「仙台市史 年表」P135
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
主要事件 |
昭和20・30年代 |
仙台地方裁判所・仙台高等裁判所関連では、平事件(S24)、松川事件(S24)、東北大学イールズ事件(S25)、浜旋風事件(S26、魚のヤミ取引事件400件を一挙に処分)、朝鮮人部落集団暴行事件(S27)、小繋事件(高裁S28)、穴ぼこ事件(地裁S35、高裁S37、原付自転車で酒気を帯び市道走行中、道路の穴ぼこで転倒、死亡)、仙台高裁ピケ事件(S35)、智行ちゃん誘拐事件(S40)、労働争議にかかわるものでは、瀬峰事件(S30)、新松島駅事件(S31)、仙台駅事件(S33)、仙台南郵便局事件(S33)、長町駅事件(S33)、全国税事件(S34)、小牛田駅事件(S36)など
* 1961年(S36)8月8日、松川事件差戻し裁判、仙台高裁で全員無罪判決(「仙台市史 続編第2巻」P291)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P811~813/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P291
|
「市民の戦後史(仙台市)」P111(松川事件無地判決で裁判所前の支援者たち)
|
仙台の裁判所 |
仙台区裁判所 |
1876年(M9) |
仙台地方裁判所に併設されていた
・ 地方裁判所は宮城県全体を管轄
・ 区裁判所は、仙台市と周辺部の郡を管轄し、民・刑事の比較的罪の軽い事件や和解、調停や、刑事の略式手続、登記と戸籍などを扱う
* 1876年(M9)4月13日、「仙台区裁判所」設置
* 翌1877年(M10)、東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成
* 1881年(M14)10月6日、「治安裁判所」に改称
* 1890年(M23)11月1日、再び「区裁判所」に改称
* 1924年(T13)区裁判所は、仙台地方裁判所とともに、片平に移転(片平の宮城控訴院と合同庁舎となった)
☆ 東二番丁の「木造2階建庁舎」(写真99-096) は、地方裁判所・区裁判所が、1924年(T13)に片平丁に新築された「宮城控訴院」との合同庁舎(赤タイル張り洋館)に移転した後に改造され、1930年(S5)~1939年(S14)の間、仙台市立病院が使用 / 1939年(S14)にこの地に市立病院が鉄筋コンクリートの病院を新築する際に取り壊された
|
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城百科事典」P577、P597/「明治の洋風建築~宮城県~」P28~29/「新・目で見る仙台の歴史」P122
|
99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117(東二番丁時代の庁舎)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(仙台区裁判所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P139(仙台区裁判所)
|
仙台偕行社 |
初代建物竣工 |
1886年(M19) |
仙台偕行社(かいこうしゃ)は、陸軍将校の倶楽部で、戦前は天皇行幸の際は宿舎にもなった / 場所は、桜ケ岡公園(西公園)に隣接、現在(1996年)の仙台市図書館のあたり
* 1886年(M19)8月3日、仙台偕行社竣工(洋風建築)
* 1925年(T14)10月18日、陸軍大演習の間、大本営が仙台偕行社におかれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P399)
|
「明治の洋風建築~宮城県~」P39/「仙台市史7(警察)」の仙台部隊年表P691/「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P399
|
「明治19年落成の偕行社」は、98-060、「新・目で見る仙台の歴史」P134、「市民の戦後史(仙台市)」P22/門柱の形が異なるのは、98-061、99-095
|
ホテル |
仙台市内でオープン |
1973年(S48)~1975年(S50) |
仙台ホテルは、項目「仙台ホテル」参照
* 1960年(S35)8月、グランドホテル仙台が、同年竣工の東北電力ビルの7~9階にオープン
* 1973年(S48)8月4日、ニューシティーホテルがオープン(国分町2丁目)
* 1973年(S48)10月1日、東京第一ホテル仙台、完成
* 1973年(S48)12月7日、ホテルオーツカがオープン(鉄砲町)
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* 1973年(S48)12月19日、仙台チサンホテルがオープン(仙台駅前)
* 1974年(S49)2月20日、ビジネスホテルのニューホッタがオープン
* 1974年(S49)9月20日、仙台ワシントンホテルがオープン(青葉通り)
* 1975年(S50)3月16日、仙台プラザ・ホテル、オープン(本町2丁目)
* 1975年(S50)4月20日、ホテルリッチ、オープン(国分町2丁目
|
「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45/「続・ 宮城県郷土史年表」P22、P23、P25、P27、P32、P38、P39、
|
「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(グランドホテル仙台)
|
仙台バイパス |
開通 |
1964年(S39)~ |
仙台バイパスは、仙台都市圏を南北に縦断するバイパス道路 / 柴田町四日市場~泉町(のちの泉区)七北田間の33.8キロ / 国道4号・国道6号・国道47号の一部であり、途中、苦竹ICで国道45号と接続する4車線(一部6車線)道路
* 1941年(S36)10月13日、仙台バイパス工事着手(四日市場~市名坂間34キロ)
* 1962年(S37)、仙台バイパス着工
* 1964年(S39)4月、岩沼~仙台市郡山(籠ノ瀬)間(10.3㎞)の供用開始
* 1966年(S41)3月4日、千代大橋(広瀬川)開通、橋長310m、橋幅19.5m
* 1966年(S41)4月6日、籠ノ瀬~苦竹間(7.4km)、供用開始 / これにより、柴田町四日市場~仙台市苦竹間(24km)使用開始(苦竹は、国道45号線との交差点)
* 1970年(S45)4月24日、苦竹~七北田間、暫定2車線で供用開始
* 1974年(S49)11月1日、苦竹~七北田間、4車線で開通
* 1974年度(S49年度)、苦竹ICの立体交差完成により、岩沼(梶橋交差点)~泉区(泉交差点)間(26.6km)、4車線で供用開始
* 1982年度(S57年度)南有料取付 - 苦竹IC間 (8.0 km) を6車線で供用開始
* 2007年(H19)3月20日、苦竹IC~山崎交差点間(2.2km)を6車線で供用開始
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P155、P295/「仙台市史 年表」P123、P124、P127、P129/「重訂 宮城県郷土史年表」P602、P625、P660/Wikipedia「仙台バイパス」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P408
|
「市民の戦後史(仙台市)」P192~193(S41年4月仙台バイパス市内中田付近空撮、国道45号線とのインター予定地空撮、車行き交うバイパス空撮)
|
一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<概要> |
概要(平成20年頃) |
中央通り角から南町通角の間のアーケード街 / 一番町二丁目、および三丁目の一部に跨る
現在のアーケードは1986年(S61年)に設置された高さ13.7mのもので、当時は日本で最も高さのあるアーケードであった / 天井付近に仕掛け時計が設置されており、時間になると人形が動く / 「文化横丁」や「壱弐参(いろは)横丁」などの横丁がある
|
Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より抜粋
|
|
海岸公園 |
全面復旧オープン |
2018年(H30) |
七北田川~名取川までの貞山運河沿線の自然風致を生かし、既存の松原の保全をはかる
* 2011年(H23)、東日本大震災による津波で甚大な被害
* 2011年(H23)4月~2014年(H26)3月、震災がれきの搬入場となる
* 2014年(H26)4月、海岸公園4地区(岡田、荒浜、井土、藤塚)で復旧工事開始
* 2016年(H28)10月、4地区に避難の丘が完成、一部の施設利用再開(テニスコート、運動広場)の利用再開
* その後2度にわたり順次利用再開
* 2018年(H30)7月8日、全面利用再開
<施設内容>
避難の丘(4か所)、野球場(4面)、ソフトボール場(2面)、テニスコート(10面)、パークゴルフ場、運動広場、冒険広場、遊具広場、デイキャンプ場、馬術場
<仙台市HP「海岸公園整備事業」より>
「海岸公園の再整備は、津波防災機能や、震災の記憶を継承するという新たな役割を持たせながら、自然と人がつながり、新たなにぎわい・交流を創る海岸公園の再生を目指すとともに、地区ごとに公園を訪れた利用者や周辺住民に対して、緊急時の一時避難場所とする「避難の丘」をあわせて整備し、平成30年7月に全面利用再開しました。」
|
仙台市HP「海岸公園整備事業」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P385
|
|
軍事教練 |
一般青年 |
1926年(T15)~1945年(S20) |
一般青年に対しては、
* 1926年(T15)、全国に青年訓練所を設立し実施
* 1935年(S10)以降は、青年学校に引き継がれ実施された
(S10年、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる)
<青年訓練所>(「日録20世紀 1926年」P42)
1926年(T15)7月1日、全国1万3842カ所に設置 約104万人が入学 前年、軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請した / 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった(4月20日、法令公布)
<青年学校>(「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)
1935年(S10)4月、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学)
|
「日録20世紀 1926年」P42/「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11
|
青年学校生は、06-06
|
一番町(旧・東一番丁)全域 |
総説 |
|
一番町は南から北へ、1~4丁目まであるが、商店街としての一番町は2丁目以北で、3つの商店街で構成されている。 武家の町だった東一番丁が、明治期以降は次第に商店がつらなる繁華街となり、仙台を代表する商店街「東一番丁」となった。 1970年(S45)2月の新住居表示で、「一番町」となる。
|
<参照>旧町名と新住居表示実施後の新町名の対比、実施年月日は、仙台市HPの 「旧町字名(地区名)一覧表と旧・新住所対照表(五十音順)」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/ichiran.html
|
|
東邦生命ビル |
進駐軍が接収(CIDなど) |
1946年(S21) |
・第一徴兵保険が戦後、東邦生命と改称され、仙台支店ビルは、「第一徴兵館」から「東邦生命ビル」に名称変更
・南町(芭蕉の辻の南)にあった
青葉通り開通後は、青葉通りと南町(国分町通り)の東南角になった
* 仙台空襲(1945年7月)で焼け残る
* 1946年(S21)2月、米軍が接収(当初はAmrican post officeが使用)
* 1947年(S22)6月頃からは、進駐軍のCID(軍事犯罪捜査機関 Criminal Investigation Command)が規模拡大により、東邦生命ビルに移転、
* 1952年(S27)7月、接収解除
|
「宮城県警察史 第二巻」P30
|
44-37、18-21、22-07
|
東照宮(仙台) |
|
1654年(承応3年)~ |
・伊達政宗公が、将軍家光からの許しを受けて創建
・二台藩主忠宗の創建、1654年(承応3年)落成
・祭神は徳川家康 ・本殿などが国の重要文化財
<藩政期>
* 1654年(承応3年)、江戸から神霊を迎えて遷座祭を行ったと伝えられている(「宮城県百科事典」P741)
* 1654年(承応3年)3月16日、宮城郡小田原の東照宮造営なる(「仙台年表」P34)
<昭和戦前期の火災>
* 1935年(S10)8月6日、放火で拝殿、進せん所、宝物三六歌仙を焼失 / 同23日に再度出火、神殿一部消失(「重訂 宮城県郷土史年表」では、拝殿は半焼)
* 1944年(S19)、浮浪者の放火あり、拝殿を半焼す
<戦後>
* 1948年(S23)アイオン台風、1959年(S34)伊勢湾台風で、参道両側の杉110本倒壊
* 1952年(S27)1月31日、本殿、唐門、楼門を宮城県重要文化財に指定(「仙台市史10 年表」P327、「重訂 宮城県郷土史年表」P554)
* 1952年(S27)1月31日、随身門、宮城県需要文化財に指定 / 同年3月31日、本殿、唐門透塀鳥居、宮城県重要文化財に指定(「仙台年表」P223~224 ← 出典:毎日新聞)
* 1953年(S28)3月31日、本殿、唐門、透塀、鳥居が、国の重要文化財に指定
* 1980年(S55)1月26日、随身門が国の重要文化財に指定
<復旧・修理工事>
* 1962年(S37)11月17日、拝殿(昭和27年に焼失)復旧工事開始
* 1979年(S54)2月、倒壊鳥居復旧
* 1979年(S54)4月20日、12年ぶりの東照宮春祭、伊達政宗の木像先頭に武者行列
* 1980年(S55)10月、社殿修理工事終了
* 1983年(S58)4月17日、唐門・透塀・本殿の一部修理完了
|
「宮城県百科事典」P741/「仙台年表」P34、P206、P223~224/「仙台市史10 年表」P286、P327/「重訂 宮城県郷土史年表」P447、P503、P554/「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P94、P118、P161、/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123~124、216~217/文化庁「国指定文化財データベース」
|
99-130、99-131/「目で見る仙台の歴史」P55~56(本殿、本殿厨子、唐門、薬師仏、神輿など)/同P99(東照宮祭礼絵巻)
|
大学・短大 |
聖和学園短期大学 |
1951年(S26)~ |
・一宗一派にかたよらない一般的仏教主義を教育の根本方針とする
* 1951年(S26)4月1日、開校(国文科・被服科)
* 1957年(S32)、被服科を家政科に科名変更
* 1962年(S37)、保育科増設
* 1976年(S51)、木ノ下校地に新校舎完成
* 1987年(S62)、泉区南中山に新校舎完成、キャンパス移転
* 1993年(H5)、被服科を生活文化科に科名変更
* 1997年(H9)、保育科が保母養成所に指定認可
* 2003年(H15)、人間コミュニケーション学科を設置
* 2005年(H17)、キャリア開発総合学科を設置
* 2007年(H19)、保育福祉学科を設置
* 2016年(H28)、保育学科を設置
|
「聖和学園短期大学」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/「続・ 宮城県郷土史年表」P246/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P544
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P544
|
南町通り(多門通り) |
概要 |
|
・「南町通り」は、仙台駅前から裁判所(戦前は宮城控訴院、戦後は仙台高等裁判所)へ向かう通りで、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路だった
・ 仙台で初めて街路樹が植栽され、歩車道の区別が設けられるなど、大正期から昭和期にかけ整備がすすんだ(「番丁詳伝」P81)
・ 仲見世(南町通り) 大正年間、毎年年末25日頃より、道路真ん中に一間くらいに仕切った板囲いの小屋が両側にできた。(露天商が東京など全国からやってきた)
・ 戦前から、コンクリート舗装されていた
・ 1933年(S8)1月、第二師団(多門師団長)が満州事変から「凱旋」し、これを機に「多門通り」と改称され、1945年(S20)日本敗戦後、再び「南町通り」となった
* 1926年(T15)11月、仙台初の市電が、「仙台駅前」から南町通りを経由し、大橋や川内の第二師団への入口である「大町一丁目」まで開通した
* 1933年(S8)1月、 第二師団(師団長の名を関して、通称多門師団)が「凱旋行進」 / 「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを行進
* 1933年(S8)1月、「多門通り」と改名(「凱旋」を記念して、仙台市会が当時の師団長の名を冠した改名を決議)
* 1945年(S20)7月、 仙台空襲で南町通り周辺一帯も焼失し壊滅的な被害
* 戦後は「南町通り」に復名
* 1953年(S28)月日、南町通り・西公園線の一部の舗装が、日米行政協定による事業として、一気にすすむ
* 1963年(S38)、仙台初の地下ケーブルの水銀灯点灯、歩道の舗装も完成、街路樹もヤナギから唐カエデに植え替えられた(「仙台市史 続編第2巻」P167)
* 1976年(S51)3月、仙台市電廃止
|
「番丁詳伝」P81/「わが心の仙台駅前史」P43/「仙台市史 年表」P103、P106、P130/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167
|
53-91、65-01-01、20-02など分類A-05-06「南町通り」の全写真 / 戦災焼失後の様子は、63-04/「目で見る仙台の歴史」P198(南町通り東五番丁交差点、朝のラッシュ、S30年代前半)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P100(S51、東一番丁角以東、カラー)
|
日本生命館 |
取壊し |
1968年(S43) |
・「S43.11 消えるレンガ館 仙台日生館」の写真あり(「市民の戦後史」P202)
・ 解体はS42年(か?)(「仙台クロニクル」P89)
|
「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202
|
「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202の写真/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P88~89(カラー、S42年、解体中)
|
高等学校(新制) |
|
|
・ 高等学校は、1948年(S23)4月の学制改革を境に「旧制」と[新制」に区分される
・「旧制」は宮城県内では、(旧制)第二高等学校があったが、1949年(S24)4月に、(新制)東北大学に併合される
・ 1948年(S23)4月の学制改革で誕生する(新制)高等学校は、多くは戦前からの中等学校(旧制中学校、高等女学校、商業学校、工業学校、農業学校などの実家学校)が移行したもので、市立、県立、私立がある
・ 旧制中等学校在校生は、1948年(S23)4月時点の4~5年生が新制高等学校生に移行した
<参考 ~旧制中等学校、戦時中の修業年限短縮~>
* 1943年(S18)1月21日公布、4月施行の中等学校令により修業年限4年間 / 従来の中学校、高等女学校、実業学校の修業年限が5年から4年に短縮された(「仙台市史 続編第2巻」P312) / ただし高等女学校の修業年限を2年、実業学校の修業年限を男子3年・女子2年に短縮することができる
(Wikipedia「中等学校令」2020年5月版)
* 1946年(S21)2月23日、中等学校を5年生に、(旧制)高等学校と大学予科を3年生に復活(「菅家年表」P36)
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P312/Wikipedia「中等学校令」/「仙台年表」P213/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P36
|
|
埋木細工 |
|
|
・ 青葉山・八木山一帯の亜炭層から掘り出される資材を、盆・皿・置物・ブローチなどに加工 / 手工業として藩政時代からつづく
|
「新・目で見る仙台の歴史」P152
|
「新・目で見る仙台の歴史」P152(製作風景)
|
軍事教練 |
|
|
・ 青少年を対象とした軍事予備教育のうち、特に歩兵操典に基づく訓練をさす
* 1928年(S3)2月24日、陸軍省、教練及び青年訓練修了者検定規定公布、この結果、教練も成績に加え合否が判定される
* 1944年(S19)2月4日、文部省、軍事教育強化方針発表
<第2次世界大戦の敗戦で廃止>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
|
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P8、P35
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
敗戦直後の学校 |
1945年(S20) |
・ 進駐軍の軍政府民間情報局(国分町の富国生命ビル)による学校巡検にそなえ各学校は、教室に掲示してある大東亜共栄圏地図、国史年表、国史掛図、軍事教練や武道に関する用具類を校外に搬出したり、焼却したりした
・ 国民学校へ食糧増産学校開墾学徒動員に関する宮城県内務部長通達「午前は児童が校庭を耕起、午後は職員が校庭を整地播種、5年生以上の児童は、土日に野草や山菜を採取」 / これは、昭和21年もかなり長期にわたり実施された
・ 児童実態調査(昭和21年7月2日の南小泉国民学校日誌):在籍1548名のうち、欠席177名、衰弱甚だしき者189名、前日1食欠く者261名、前日2食欠く者33名
・ 国民学校では文部書の指示で国定教科書の削除部分を検討し、黒塗りや切り取り作業(黒塗り教科書)
・ 昭和20年の明治節遙拝式(11月3日)は、旧来の式次第通り実施 / 宮城遙拝、明治神宮遙拝、勅語奉読(教育勅語、青少年学徒ニ賜ハリタル勅語)、唱歌明治節
・ 同年12月以降は教育現場が一変(GHQの教育四大改革指令で文部省の教育方針は実効性を失う) / 軍国主義や極端な国家主義教育の禁止、それらに関する教科書の削除、ふさわしくない教員の追放、神社崇拝をはじめとする国家神道を学校教育から排除、軍国主義や極端な国家主義思想を植えつけるために利用された修身・国史・地理の三教科書の使用禁止
・ 12月以降、仙台市の中等学校でも教科書黒塗り(その作業と点検のため、正規授業を2~3日間中断)/修身・国史・地理教科書の教科書、教授参考書、教材類が学校ごとに回収され、三教科の授業も停止
・ 21年1月、天皇の人間宣言 / 伊勢神宮・明治神宮の遙拝禁止、、校内の神社・神棚の撤去/ 同年3月までに、市内各学校の奉安殿を取壊し / 同年10月、教育勅語奉読廃止通達
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P271~273
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P272(黒塗り教科書)/同P273(国民学校の小神殿)
|
仙台の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(3) |
1960年(S35)~1968年(S43)頃 |
・ 連続の豊作記録と、消費の拡大によって、S34年のはじめから拡大をはじめていた東北の経済は、35年も引き続き高水準の成長を示し、民間企業317工場の設備投資額が、S33~35年には、毎年2倍くらいずつ伸び、事業所得も順調に伸長した。このような景気上昇を支えていたのは、いぜんとして農村を中心とする消費需要であった。
・ 昭和37年は、東北は全体として鉱工業生産の若干の伸び悩みがみられたものの、米の連続豊作や底堅い消費によってささえられている仙台の経済活動はますます活発になったのであり、その中で中央資本と結びついた大型スーパーの進出が相次いだ。
・ 日本経済は、昭和39年~40年に戦後最大の不況を迎えるが、当初は影響はそう大きくなく、昭和38年もまた連続豊作が続き農村での堅調な消費が、年末から再び行われた金融引き締めによる鉱工業生産の出荷のびなやみを大幅にカバーすることになった。
・ しかし、工業製品の出荷や在庫の動きを手始めに、次第に景気後退があらわれ、39年秋には企業倒産が深刻、不渡り手形も激増、市内百貨店の売り上げ増も39年12月は前年同月の8%増にとどまり、米代金の流入停滞や漁業不振も重なり、東北にも不況の波が押し寄せた。
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P745~762の「第九章第三節 景気と金融の三 飛躍への道」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
|
|
練兵場 |
追廻練兵場 |
明治~1945年(S20) |
・ 追廻練兵場(おいまわしれんぺいじょう)は、陸軍第二師団の練兵場で、宮城野練兵場とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 兵士の軍事訓練のほか戦没者慰霊祭会場ともなった
・ 場所は、広瀬川西岸沿いで、仙台市川内の師団司令部と各連隊兵営に隣接
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市名家及実業家一覧図」(地図、明治34年4月24日印刷)には、「追廻練兵場」と記載あり
<戦後は>
・ 戦後は戦災者・引揚者用住宅が建てられ、その後住宅地となった → 項目「戦災者・引揚者用住宅の小項目「住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅)」を参照
|
「仙台市名家及実業家一覧図」(明治34年)
|
99-011-1、22-02-01、53-101/位置図は、98-111,98-112、98-114
|
大手門 |
国宝指定/焼失 |
1931年(S6)/1945年(S20) |
・ 豊臣秀吉が朝鮮役で肥前名護屋に陣営を築いた時の城門を、政宗が拝領して仙台に移築したものと伝えられる
・ 仙台城(青葉城)の「大手門」で、西公園側から大橋の先に見えたが仙台空襲で脇にあった隅櫓とともに焼失した/(写真に大橋が写れば、S20年7月以前の撮影)
・ 菊花桐葉の金紋は後水尾天皇から賜ったもの(「仙台の産業と観光 1936年刊」P53、P61)
* 1871年(M4)以降、仙台城二の丸跡に東北鎮台(M6年仙台鎮台、M21年に第二師団と改称)がおかれ、大手門は明治期から師団司令部の正門だった
* 1889年(M22)、この頃、師団司令部の経理部が大手門を破壊せんとす / 師団長佐久間左馬太これを却け、大蔵省に修理予算を請求し、金具の鍍金(めっき)復元等により外観を一新す(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)
* 1931年(S6)12月14日、「大手門」と脇にある「隅櫓」がともに旧国宝に指定される
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(「隅櫓」も)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除
* 1967年(S42)、隅櫓のみ、民間の寄付により外観が再建された
|
「目で見る仙台の歴史」P50/「重訂 宮城県郷土史年表」P284、P428 /「仙台城」(昭和42年 仙台市教育委員会発行)P234~P235/「仙台の産業と観光」P53、P61/「仙台年表」P201/「仙台市史10 年表」P322
|
99-080、64-02など「写真データベース」分類D-12-01の写真全部/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P247に大手門正面(東面)詳細、南面/同P248に門扉詳細/「目で見る仙台の歴史」P50~51(大手門の正面と背面)
|
戦災者・引揚者用住宅 |
市営住宅・県営住宅 |
1945年度(S20)など |
・ 西公園の一角に、戦後、戦災応急住宅として建設した市営住宅があったが、公園整備のため、他へ移転した
・ 上杉山通りの仙台商業学校の空襲跡地に戦後、戦災応急住宅として建設した市営住宅があったが、のちに他へ移転した(以上、「仙台市史 続編第1巻」P350)
* 市営住宅建設戸数
(「仙台市史第2巻本編1」P601~602の102表より)
・1945年度(S20)、元柳町(西公園)104戸、上杉山通(仙台商業跡地)53戸、仲ノ町18戸、良覚院丁49戸、花壇49戸、北一番丁6戸、計250戸
・1946年度(S21)、北六番丁40戸、花壇60戸、計100戸
・1947年度(S22)、長者町100戸
・1948年度(S23)、荒巻、長者町、南小泉、新寺小路に計110戸
・1949年度(S24)~1951年度(S26)に、計529戸]
(以下は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P424~426より)
・空襲焼け残りの鉄筋コンクリート建築物を地方長官の権限で開放
・一般遊休住宅の開放
・仙台市 引揚者住宅 448戸(うち新設288,改造転用160)
・住宅営団 600戸(追廻住宅)
・1953年(S28)、市営の鉄筋コンクリートのアパート
・1955年(S30)~、簡易耐火構造
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P185より>
* 1950年(S25)ころより、戦災者、引揚者、戦災復興土地区画整理による立退き者などを対象に、市営・県営の住宅建設
・市営庶民住宅(西の平に約200戸)
・県営庶民住宅(荒巻・西多賀など)
・1949年(S24)、市内同心町に中層県営アパート建設 / 引き続き、小田原団地・新坂通団地・支倉通団地にも中層アパート建設
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P350、P424~426/「仙台市史第2巻本編2」P601~602
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P185(同心町の県営アパート)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P427(S25年ころ、長者町につくられた市営住宅)
|
仙台市電 |
原の町線 開通 |
1948年(S23)5月 |
・ 花京院~原町間、3.3キロ
* 1946年(S21)冬、東六番丁の国鉄専用鉄橋完工し、花京院~榴ヶ岡公園前間、1.6キロ開通
* 1948年(S23)5月5日、榴岡公園~原町終点まで開通し、原の町線(原町線)全線開通(単線)
* 1952年(S27)、花京院の東北本線立体高架橋完成
* 1952年(S27)8月1日、全線複線化完成し、市内循環線への乗り入れ可能(10月の国体開催時の輸送に効果あり)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510、P512/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P115/「番丁詳伝」P115
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P211
|
幹線道路 |
|
|
・ 自動車専用道(高速自動車道など)→ 項目「自動車専用道」参照
・ 国道は → 項目「国道45号線」、項目「国道48号線」
|
|
|
女子挺身隊 |
結成 |
1944年(S19) |
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P177)
* 1944年(S19)
3月、仙台市内の女学校で女子挺身隊の結成が相次ぐ
3月10日、県下女子挺身隊、各工場に配置
3月12日、県下女子中等学校挺身隊壮行式(宮城県第一高女で)
8月23日、女子挺身勤労令公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)
11月2日、宮城県女子学徒勤労義勇隊壮行式(宮城県第一高女で)
11月10日、厚生省、女子徴用実施、女子挺身隊の期間1年延長通牒
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P177/仙台市史 年表」P113/「仙台年表」P213/「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P500/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P316(婦人も軍需工場で弾丸検査)
|
戦時中の物資統制、使用規制 |
概説 |
|
・ 経済統制の結果、食糧・衣料などは統制会社ができて割当制となった。宮城水産株式会社も魚市場を東七番丁に移して魚類配給の元締めをした。衣料も統制会社ができた。
・ 終戦間近には青物も不充分で、市民は野に野草を摘み、南瓜や甘藷のつるまで配給された。買出しに田舎へ出ても物と交換でなければ手に入らなかった。
・ この現象は終戦後も続いた。物資不足のため配給で足りぬ人々は農山漁村へ買出しに出かけた。郊外から物資を買い集めてきてさばく人々もあらわれた。また、衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
|
「目で見る仙台の歴史」P170
|
「目で見る仙台の歴史」P170(「家庭用食糧通帳」と「衣料切符」)/同169(買出し列車に必死に乗り込む)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P52(S9年、衣料切符、カラー)/同P53(S18年改正衣料点数早見表、カラー)/同P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
|
産業組合 |
仙台(市街地/農村部) |
1903年(M33)~ |
・ 産業組合は、事業の内容によって、信用組合(組合員の貯金を預かるとともに必要な資金の貸し付けを行う)・販売組合(組合員の生産物を共同で有利に販売する)・購買組合(組合員の生産に必要な資材や生活必需品を共同で購入し安価で提供する)・生産組合(機械・道具・施設などの共同利用を行う)の4種があったが、信用組合以外は兼営も認められた。しかし、のちには信用組合との兼営も可能になり、また、生産組合は利用組合と改められた
* 1900年(M33)、産業組合法施工(産業組合には、のちの農業協同組合・漁業協同組合・信用金庫・労働金庫・信用組合すべてを含む)
<仙台市内の産業組合>
・ 市街地では、1903年(M36)~1909年(M42)に、毛筆販売原料購買組合、製本販売購買組合、漆器販売購買組合、陶器販売原料購買組合、織物原料購買生産販売組合、下駄類製造販売原料購買組合、農具鍛冶業製造販売原料購買組合、埋木製作品販売原料購買組合、城南信用組合、仙台湾漁業信用組合など設立 / 1918年(T7)~1924年(T13)に、信用組合仙台市民金庫など8つの組合設立
・ 農村部では、1907年(M40)3月に生出村信用販売購買生産組合 / 1909年(M42)2月に六郷村信用販売購買生産組合、中田村信用購買組合、七郷村信用販売購買組合 / 1911年(M44)~1930年(S5)の間に、高砂、西多賀、根白石、諏訪、生出村折立、大沢村、中田村、岩切村、秋保村、名取にも設立 / 1934年~1939年(S14)に、七北田、西多賀、高砂村、広瀬村、生出村、六郷村すべてに四種事業兼業の信用販売購買利用組合設立
* 1910年(M43)9月、産業組合中央会宮城支会結成 / 参加98組合、事務所は宮城県商工課内
* 1930年(S5)5月、宮城県販売購買組合連合会、設立
* 1935年(S10)、産業組合中央金庫仙台支所開設
* 1935年(S10)、市街地信用組合協会設立
* 1940年(S15)8月、産業組合は農会と統合されることになり、1943年(S18)、農業界として発足
|
「仙台市史 年表」P95/「仙台市史 特別編4 市民生活」P514~517
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P515(大正3年現在、県内産業組合名簿)
|
仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園閉園 |
1945年(S20) |
・ 猛獣の処分(S19年3月)で空き家になった建物には、市議会の建議通りブタ15頭が飼われ、花壇や通路では野菜を栽培、動物舎付近はカボチャ畑になった。閉園までは猛獣ぬきで営業(「戦争のころ 仙台、宮城」P143)
* 1945年(S20)4月1日、休園(そのまま再開せず)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
|
「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P504/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P143
|
|
満蒙開拓 |
宮城県関連(6)満蒙開拓青少年義勇軍 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
・ 満蒙開拓青少年義勇軍は、満州現地では「満蒙開拓青少年義勇隊」と称す
・ 1938年(S13)、満15歳~18歳の希望者が、各地の連隊区司令部で口頭試問や身体検査を受け、茨木県にある内原訓練場で2か月、満州で3年間訓練された後、本格的な活動に入る
・ 開拓団の組織内には警備隊もあって軍事的性格があった
・ 国内の訓練所は、その後、全国に拡大、山形県大高根道場、岩手県六原道場などでも入植訓練
・ 1942年(S17)時点で、宮城県から1548人が渡満していた
・ ソ連国境近くの満蒙開拓青少年義勇隊の東寧訓練所の大一中隊(宮城県出身者)の回想録「嗚々東吟達湾」では、隊員は開拓民の仕事のほかに、関東軍と連動した軍事行動(軍需物資、食料品の運搬、無線傍受して広報用文書作成など)も行った / 1944年(S19)秋になると、隊員が続々軍に召集され入隊、敗戦後ソ連軍により、シベリア抑留生活を送った人が多かった / 1969年(S44)8月、松島・瑞巌寺で物故者50人の慰霊祭
|
/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168~169
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
食糧買い出し |
|
・ 欠配続きで、農村へ食糧買出しのため列車は連日超満員 / 仙鉄局が無蓋貨車を臨時運転し人を運ぶ
・ 子どもも買出しに動員されたため、県は国民学校、中学校に対し校長の自由裁量で午前授業だけで打ち切るよう通達
・ 郊外から物資を買い集めてきてさばくカツギ屋とよばれる人々もあらわれた。
・ 衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
・ 1953年(S28)10月、凶作によりヤミ米横行、菓子工場、旅館など一斉取締り(「仙台あのころこのころ八十八年」P252)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72/「仙台あのころこのころ八十八年」P252
|
「仙台市史 続編第1巻」P72の写真(満員の買出し列車)/「新・目で見る仙台の歴史」P173(仙山線ホームのカツギ屋の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P104(仙台駅で押収されたヤミ米の山)/同105(列車で買出しに行く「カツギ屋」たち)
|
軍馬の銅像 |
金属回収で供出 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
・ 桜ケ岡公園(西公園)にあった
・ 軍馬の銅像は当時の公園の平面図に「日露役殉死軍馬銅像」と表記されている
・ 戦時中の金属回収でS18年か19年に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた
|
「仙台市史 本編2」P371
|
99-120、53-63 /桜ケ岡公園(西公園)の公園の平面図は、98-074
|
軍需工場(宮城県内) |
民間工場 |
|
・ 東北金属(現・太白区諏訪) →マグネット通信機器、機関砲部品
・ 東北特殊鋼(現・太白区長町八幡前) →銃の中心部分となる銃身鋼
・ 三馬弘進護謨 →軍用地下たび、被服など
・ 大日本航空 →新型ジェット機「秋水」の訓練用グライダー
・ 萱場製作所(のちのカヤバ工業)仙台工場(現・太白区八本松) →戦闘機や偵察機の油圧緩衝機、陸軍の依託で着弾観測用のオートジャイロ(カ号観測機)の組立作業
・このほか、日本電気、東北ゴム、本山製作所、仙台発動機、塩釜ドック、東北ドックでも軍需品を製造
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P158~159
|
|
東北振興/農村更生 |
1 |
1926年(T15)~1930年(S5) |
・ 東北は、1931年(S6)、1934年(S9)とつづく大冷害や、農業恐慌(生糸や米価の暴落)、1930年(S5)からの昭和恐慌が重なり、疲弊した苦難の時代が続いた
・ 「東北振興」が重要な政策課題となり、農村経済更生が叫ばれた
・ 「東北興業会社」(S11年秋創設)が中心となって諸事業を手掛けたが、1937年(S12)夏からの日中戦争拡大とともに先細りの傾向を示した
* 1926年(T15)12月18日、生糸相場が暴落
* 1928年(S3)、不景気で農村からの出稼ぎ増える
* 1929年(S4)10月24日、ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌始まる
* 1930年(S5)、世界恐慌が日本に波及(昭和恐慌)、不況状態1932年(S7)頃まで続く
* 1930年(S5)3月3日、生糸大暴落、この日大正5年以来の最安値となる
* 1930年(S5)秋の豊作で農産物価格が下落
* 1930年(S5)、東北では「娘身売りの際は相談してください」と村の掲示板に張り紙が出される/農村には現金がなく、米との交換が始まる
* 1930年(S5)、農業大恐慌、全般的に繭、野菜などが大暴落、農家の負債700~800円に
|
「宮城県百科事典」P754/岩波ブックレット「年表 昭和史」P7/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P6、P8、P10、P11、/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356
|
|
東二番丁通り(拡幅) |
概要(戦後) |
|
・ 東二番丁通りは、定禅寺通角~五橋通角までの周辺一帯が仙台空襲(S20年7月)で焼失したが、戦後の戦災復興事業により(それまでの)幅員8mから50mに拡幅され、市中心部を南北に貫く幹線道路となった
・ その際、拡幅予定線上にあった堅ろう建物(三井生命、商工会議所、市立病院表玄関、協和銀行、逓信病院、東北学院中学校、宮城学院)の移転や撤去に時間がかかり、建物が拡幅された道路上にはみ出した状態がしばらく続いたが、1958年(S33年)7月までにすべて移転、撤去が完了し、幅50mの全線が完成した
・ 北の起点に近い三井生命はビルごと移転させた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132)
・ 両側には歩道(幅9m)と、車道内には2本の側方分離帯(幅3m)が設けられ、車道は側方分離帯にはさまれた中央の15m幅に片側2車線ずつと、2本の側方分離帯と歩道との間に5.5m幅の停車帯および低速車線が両側に設置された
・ 戦災で失われた緑を復活させて杜の都を復興する目的があり、側方分離帯と歩道には並木が設けられた
* 1975年(S50)4月1日、五橋通り角からさらに南へ延伸されて当時の仙台市立病院前交差点(*)までの区間が開通、この時期に全線の側方分離帯を廃止して中央分離帯を設け、片側4車線の道路へと改修された <* 注> 仙台市立病院はその後、2014年(H26)11月1日に長町へ移転した
* 1986年(S61)、クランク型につながっていた東二番丁通りと勾当台通りが、勾当台公園の端を削ってゆるいカーブで繋がった
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345、P349/「続・ 宮城県郷土史年表」P39/Wikipedia「東二番丁通り」(2018年現在)を参考にした
|
拡幅中の東二番丁通りは、22-24">22-24、53-20、22-25">22-25、22-26、36-06、22-23、36-05、36-04、36-03、98-028">98-028、36-06-01、22-24">22-24、22-25">22-25、201-03、98-028">98-028
/「市民の戦後史(仙台市)」P66(無電柱の東二番丁通り)/同P77(拡幅部分にはみ出した宮城学院校舎)/同P76(S28、拡幅中の東二番丁・中央通り交差点付近)/「目で見る仙台の歴史」P177(拡幅部分にはみ出した協和銀行)/「「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P133の写真33(東二番丁通り俯瞰、側方分離帯にも街路樹あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図39~40(S32年拡幅中、H8年カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年 空撮 北端のクランク状態がわかる)、同P39(S33年空撮、河北新報付近)、同P60(S38、北端)
|
逓信関連 |
仙台逓信局 |
戦前期 |
・ 東二番丁・南町通り交差点の南東角にあった / 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1910年(M43)4月1日、仙台逓信管理局を仙台市に設置
* 1913年(T2)6月、北部逓信局と改称
* 1919年(T8)5月、仙台逓信局と改称
・ 終戦後、焼け跡に通称「仙台銀座」(木造6棟のマーケット、建坪3000坪)ができたが、S27年1月22日の仙台銀座大火で140戸焼失
|
「仙台市史第2巻本編2」P717~718/「重訂 宮城県郷土史年表」P345、P554
|
53-53/「目で見る仙台の歴史」P144/「市民の戦後史(仙台市)」P22
|
斎藤報恩会博物館(斎藤報恩館) |
博物館竣工~取壊し |
1933年(S8)~2015年(H27) |
・ 東三番丁の元貞(げんてい)坂上にあった
・ 鉄筋コンクリート3階建て、秋保石張り、ドームのある建物として親しまれた / 設計は小倉強
* 1933年(S8)11月1日、東三番丁に斎藤報恩会会館完成、併置した博物館を開設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れる
戦後は、
* 1948年(S23)年5月27日~S27年5月、「仙台CIE図書館」(GHQの民間情報教育局管轄)が同居 → 項目「仙台CIE図書館」参照
* 1952年(S27)、「仙台アメリカ文化センター」(米国務省管轄)が館内に同居 → 項目「仙台アメリカ文化センター」参照
* 1953年(S28)11月3日、終戦後閉館中だった自然史博物館を再開(化石、動物はく製品等を展示)
* 1972年(S47)9月、解体
* 1973年(S48)~74年(S49)に改築のために取り壊し
* 建替え後、自然史博物館を継続
* 2015年(H27)3月末、斎藤報恩会博物館を閉館(所蔵資料は仙台市に寄贈された)
|
「仙台年表」P204/「仙台市史10 年表」P437/Wikipedia「斎藤報恩会」/「仙台市史 年表」P115、P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P437、P569/「続・ 宮城県郷土史年表」P14/「古写真にみる仙台の建築」P46
|
戦前は、53-110、99-101、「目で見る仙台の歴史」P165/「新・目で見る仙台の歴史」P151/空襲焼け跡に立つのは、35-14、62-04、53-71、35-09、35-10 /戦後は53-50、07-01-04
|
文化横丁 |
新設 |
1924年(T13)12月12日 |
・ 東一番丁南部(通称・大通り)と西側の南町を結ぶ横丁
・ 開設当初の名称は「東南横丁」だが、翌1925年(T14)に活動写真の「文化キネマ」ができて文化横丁と呼ばれるようになった
【「東一番丁物語」P219】「大正13年、阿部太助が所有地を開放して東一番丁と南町を貫通し、両側に百軒店街を開設すべく貸家を建築し東南横丁と名づける。12月12日に開通式」
* 1924年(T13)12月12日、文化横丁が新設される(「仙台市史 年表」P102)
* 1925年(T14)12月11日、阿部太助が、界隈の発展を目的に映画常設館「文化キネマ」を、文化横丁の南側中央に新築開設 / 阿部太助、昭和2年他界後、遺志は子息の阿部来太郎に引き継がれ、文化キネマ経営、文化横丁の新興がはかられた(「番丁詳伝」P119)
(「仙台年表」P206には、昭和10年開館とあるが間違い)
* 1936年(S11)12月、「文化キネマ」が東一番丁(大通り)・文化横丁角へ新築移転し「文化映画劇場」と改称
<参照> 項目「文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場」
|
「東一番丁物語り」(柴田量平著)P219/「仙台市史 年表」P102/「仙台映画大全集」P450/「重訂 宮城県郷土史年表」P395/「番丁詳伝」P119
|
61-24/98-134(大正末~昭和初期の商店配置図に、文化横丁と文化キネマの位置が記載)/98-135(S32年の店舗配置図に、東一番丁・文化横丁角の文化劇場記載) / 昭和30年代初め頃は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P28
|
映画館(戦前) |
仙台の映画館一覧 |
大正末期~昭和初期
|
・ 東一番丁(北部) 森徳座(昭和6年閉館)
・ 東一番丁(中央部) 日活パテー館
同 仙集館(昭和8年閉館)
・ 東一番丁(文化横丁) 文化キネマ
・ 東三番丁 読売会館(洋画中心)
→項目「仙台東宝劇場」参照
・ 国分町 世界館(大正3年4月開館、
その後日本館、帝国館、キネマ館
と改称、大正11年5月に電気館
・ 河原町 第二パテー館
・ 南鍛冶町 栄楽館(第二仙集館)
・ 長町 長町劇場(昭和3年開場)
無声映画時代の弁士
「番丁詳伝」P113に、大正末期~昭和にかけ活躍した、各映画館(仙集館、日活松島座、文化キネマ、世界館、パテー館)の弁士名が記載されている
入場料(昭和4~5年頃) 大人一人、20~30銭
(かけそば、ゴールデンバット(たばこ)が5銭、火鉢や座布団の賃料が5銭)
|
「番丁詳伝」P108、P112~113/「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236
|
|
東一マーケットと中央マーケット |
|
|
・ 東一マーケットは、「仙台東一公設市場」のことで、戦後しばらく、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道東側に面してあった
( → キーワード「仙台東一公設市場」または「東一マーケット」で検索)
・ 一方、東一番丁通り南部(藤崎より南)には、「仙台中央公設市場」(中央マーケット)が道東側に面してあった
( → キーワード「仙台中央公設市場」または「中央マーケット)」で検索)
|
「市民の戦後史」P50、P30
|
東一マーケットは、16-38、16-39 /中央マーケットは、98-013、22-55(右端に写る)
|
金の星(カフェ) |
焼失 |
1941年(S16) |
・ 昭和初期、東一番丁の三越やや南にあった「金の星」は仙台一のカフェといわれた
・ 東久邇宮稔彦王殿下も第二師団長時代に通った伝えられる
・ 女給たちで結成した「金の星楽団」もあり、日中戦争では兵士慰問のため中国大陸に派遣された(「番丁詳伝」P111)
* 1936年(S11)、河北新報主催「麗人同乗のシボレー県下南北早回り競争には、紅組「金の星」の玲子とミチル、白組「エー・ワン」(国分町)のすみ子とたき子が同乗・・・」(河北新報、昭和41年「東一番丁企画シリーズ」より)
当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみに、金の星楽団につき記述あり
* 1941年(S16)、焼失 (その跡地で印舗の錦章堂が営業)
|
「番丁詳伝」P111/焼失年は、東一番丁の錦章堂主人談
|
22-53、98-110、47-06、53-34、20-57、44-76
|
五色沼 |
スケート |
|
・ 日本のフィギュアスケート発祥の地と言われる
・ 昭和11年現在、仙台スケート協会が管理 / 会員制度だが、臨時使用する場合は20銭
* 1905年(M38)、五色沼で旧制二高生中心のスケート研究行わる(「仙台年表」P181)
* 1909年(M42)、当時(旧制)第二高等学校ドイツ語教授ウィルヘルの指導のもとに、二高生の佐藤幸三、田代三郎、河久保四朗らが五色沼で滑ったのが始まり
* 1922年(T11)1月、第二高等学校(旧制)主催、第1回スケート大会開催
* 1931年(S6)1月14日、五色沼で(初の?)スケート競技会(「宮城県の百年」掲載年表)
|
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73/「仙台年表」P181(出典:佐々久監修「仙台の散策」S49刊)/「宮城県百科事典」P543/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「宮城県の百年」掲載年表
|
2-08、53-19、29-03、73-02/「いつか見た街・人・暮らし」P4(五色沼スケート、大正13年)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図8~10/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P83(S39、カラー)
|
戦災復興(応急対策) |
住宅応急対策 |
|
・ 戦災者を、焼け残った学校その他の施設に収容(縁故先や他町村へも疎開も多かった)
・ 建築は規模に関係なく知事の許認可を要したが、S21年3月末までで1139戸(平均建坪29坪)、無許可で752戸(同18坪)
・ 県が越冬対策で簡易住宅(6畳、3畳、組み立て式)2000戸計画し実物見本を展示したが、申し込みは約800戸、実際に建ったのはごくわずかだった
・ S21年5月、簡易住宅(賃貸)完成(市営住宅250戸、日本住宅営団750戸
・ S22年5月現在、民間自力建築2073戸、市営住宅350戸、営団住宅1814戸、同胞援護会関係138戸、計4375戸
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P313~314
|
|
仙台市電 |
戦後(昭和20年代) |
1945年(S20)~ |
・ 戦時中運転した急行電車廃止、停留所を適正間隔に復活
・ 戦時中、軌道、車両、機械などを酷使した結果、輸送力低下し、使用可能車両は30両
・ S21年2月~、乗降口を一方口に
・ 悪性インフレの進行で料金値上 S21年4月(10銭)からS24年までに7回値上げ
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510
|
|
仙台市公会堂(戦後) |
落成~取壊し |
1950年(S25)~1971年(S46) |
・ 戦後、音楽、演劇、集会など仙台市民の文化活動はこの公会堂を中心に展開され、各種の文化団体が育っていった
・ 大ホールは1300席、集会室、展示場などもあり、結婚式にも利用された
* 1946年(S21)10月、西公園緑地内(元常盤町)に建設(収容1500人)(「重訂 宮城県郷土史年表」P514)→<編者注>計画ということか?
* 1949年(S24)11月、着工(「仙台市史10 年表」P322)
* 1950年(S25)12月17日、元常盤町(西公園内)に完成、落成式(大ホール2000人収容、展示室、集会室) / 鉄筋鉄骨コンクリート2階建て、913坪 / 仙台市公民館が同公会堂内に移転
・こけら落としは、仙台市能楽協会が寄付した組み立て式能舞台を使って、仙台藩の流派であった喜多流家元一行による演能で、喜多六平太が「羽衣」を舞った
* 1951年(S26)春、アメリカのピアニスト・メニューヒンが外国人演奏家として戦後最初に来仙し演奏
* 1956年(S31)2月2日、ウィーン少年合唱団公演
* 1957年(S32)11月21日、ベルリン交響楽団公演
* 1971年(S46)、取壊し
* 1973年(S48)、跡地に仙台市民会館完成
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P514、P546/「仙台市史10 年表」P322、P324/「目で見る復興 まちの今昔」P57/「新・目で見る仙台の歴史」P179/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P202/「目で見る仙台の歴史」P184
|
18-07-01、18-07-02/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P274の写真87/「目で見る仙台の歴史」P184(公会堂と、公演したウイーン少年合唱団、ベルリン交響楽団)/「市民の戦後史(仙台市)」P68(公会堂)/「新・目で見る仙台の歴史」P179(公会堂)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P267
|
戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
戦後 1946年(S21)~1950年(S25) |
・ 戦後、繊維製品も進駐軍の統治下におかれたいたが、1946年(S21)9月、GHQが復旧を認める
・ 1945年(S20)、繊維製品1人あたり消費量は、1930年(S5)~1934年(S9)の12.6%
・ 1946年(S21)3月、衣料切符制度廃止し、4月から割当購入制度
・ 1947年(S22)4月1日、国内向け繊維に一応の見通しが得られ、衣料点数切符制度を復活 / 一人1年12点(背広1着が70点)
・ 1929年(S24)6月、衣料切符1人30点に(10点は純綿生地、20点は人絹スフ)、絹製品は自由販売に
・ 1930年(S25)1月、繊維製品の価格統制撤廃(衣料事情が急速に好転)
・ 1930年(S25)9月、衣料切符制廃止
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P54~55
|
|