項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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霊園/墓園 | 葛岡墓園(葛岡墓地公園) | 1969年(S44) |
新寺小路地区の都市改造事業(区画整理)による移転墓地 / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成 * 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始 * 1969年(S44)3月、第一期工事分(約38.2ha)がほぼ完成し一部墓碑の移転開始 * 1972年(S47)、仙台市葛岡斎場が開場 * 1978年(S53)4月、仙台市葛岡墓園が一般に開放 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P386、P744/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127/「仙台市史 年表」P123/Wikipedia「仙台市葛岡墓園」/「続・ 宮城県郷土史年表」P80 | 「市民の戦後史(仙台市)」P211(造成すすむ葛岡墓地公園) |
仙台の裁判所 | 宮城上等裁判所/宮城控訴裁判所/宮城控訴院/仙台高等裁判所 | 1875年(M8)/1881年(M14)/1886年(M19)/1947年(S22) |
控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所 ・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称 ・ 戦後の高等裁判所に相当する <宮城上等裁判所> * 1876年(M9)9月13日、大審院が「宮城上等裁判所」を仙台に設置 * 1879年(M12)、片平丁に、宮城上等裁判所建築(ルネッサンス式、漆喰塗) / <編者注> 出典の「新・目で見る仙台の歴史」P122キャプションには、仙台上等裁判所となっているが、「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表によれば、仙台上等裁判所と称した時代はなく、宮城上等裁判所が正しいと思われる <宮城控訴裁判所/宮城控訴院> * 1881年(M14)10月6日、「宮城控訴裁判所」に改称(ルネッサンス式2階建て) * 1886年(M19)5月4日、「宮城控訴院」に改称 * 1904年(M37)11月15日、片平丁の宮城控訴院構内を焼失 * 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て) * 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」 <仙台高等裁判所> * 1947年(S22)5月3日、「仙台高等裁判所」設置(裁判所法、検察庁法成立 / それまでの宮城控訴院に付属していた検事局を分離し、仙台高等検察庁設置 * 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・ 宮城県郷土史年表」P44) * 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎)(「続・ 宮城県郷土史年表」P74) |
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P274、P331、P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807 | 「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-01、13-02、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館) |
宮城控訴院(赤タイル庁舎) | 落成/解体 | 1924年(T13)/1975年(S50) |
控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所 ・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称 ・ 戦後の高等裁判所に相当する * 1879年(M12)、宮城上等裁判所(宮城控訴院の前身)の庁舎(ルネッサンス式、漆喰塗)が片平丁に完成 / 宮城控訴院は、発足時(M19年)にその庁舎を引き継ぐ <赤タイル張り庁舎落成> * 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て) * 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」 <同庁舎、解体> * 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・宮城県郷土史年表」P44) |
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807 | 「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-01、13-02,、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館) |
東二番丁通り(拡幅) | はみ出し建物撤去 | 1958年(S33年)7月 | 拡幅予定地にかかり、街路にはみ出していた、逓信病院、宮城学院、東北学院中学校は、S33年3月~7月末に取り壊し完了(東北学院中学校赤レンガ校舎の道路側部分はS33年4月撤去) | 「仙台市史 続1」P349 | 98-027、98-109、22-23、36-03、36-04、36-06 |
発電事業 | 電力の国家統制(日本発送電/東北配電) | 1939年(S14)/1942年(S17) |
戦時体制の下、電力は国家管理となる <日本発送電> * 1939年(S14)、日本発送電株式会社設立(国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づき、東京電燈・日本電力など全国の電力会社の現物出資や合併によって設立された半官半民の特殊会社) / これにより、東北地方は仙台にある日本発送電(株)東北支店の所管となる <昭和17年、東北地方は東北配電に一本化> * 1941年(S16)8月30日、配電統制令が公布、即日施行 ・ 全国各地の配電事業者は統合を余儀無くされ、五大電力会社を含めて全て解散 ・ 1942年(S17)には全国9ブロック(北海道・東北・関東・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州)に新たな配電会社が設立され、この9配電事業体制の下で日本発送電と連携した配電事業が行われた ・ 東北送電(株)は解散し県営の3発電所とともに日本発送電に強制移管される → 仙台市電事業を除き、仙台市営と宮城県営のすべての施設が「東北配電」に移行 ・ 仙台では当時、長町・原町周辺を中心に工場が増え始め、特に軍需関係産業には優先的に電力とガスの供給が行なわれた |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P142 | |
街灯(南町通り) | 戦後 2灯型 |
戦後> 柱から左右へ2灯(アームが直線) / 昭和26年にはまだ無かった(写真 20-02 、 16-45 ) |
18-14、36-08 | ||
街灯(旧・大町五丁目) | 戦後 3灯型 | 戦後> 旧・大町5丁目の街灯は1基3灯型だが、戦前とは形が違う | 16-44 | ||
街灯(東一番丁中央部) | 戦後 3灯型 | 1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後> * 1947年(S22)、街灯が復活(1基3灯型) ・ 戦前に「番街」の名物でもあったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)を取りつけた ・ 同じスズラン灯型であったが、広瀬通角(立町通)以北と、広瀬通り角~大町通角間では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている * 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去 |
「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)/「番丁詳伝」P166 | 16-41、16-43、18-12 |
街灯(東一番丁南部 | 戦後 3灯型 | 1947年(S22)?~1954年(S29) |
戦後> * 1947年(S22)?、街灯が復活(1基3灯型) * 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去 |
「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28) | 16-42、98-013、55-04、55-03、20-01-01、18-34、18-04、18-08 |
街灯(東一番丁北部 | 戦後 3灯型 | 1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後> * 1947年(S22)、戦後のスズラン灯建つ(「仙台年表」P217) ・ 戦前に「番街」の名物であったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱) ・ 同じスズラン灯の形であったが、立町通(広瀬通)角以北と、立町通(広瀬通り)角~大町通(中央通)角では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている * 1954年(S29)にアーケード設置のため撤去 |
「番丁詳伝」P166/「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28) | 16-38、16-39、16-40、18-16 |
市場 | 駅前マーケット |
戦後のヤミ市からできたマーケットの1つでバラック小屋が集まっていた / 場所は東五番丁・南町通り交差点北側 / 経営は仙台駅前商業組合 <火災> * 1949年(S24)3月16日、46戸焼失 * 1949年(S24)10月10日、駅前マーケット(青葉通り)67戸に撤去代執行(「仙台市史 別冊2」P382) |
「番丁詳伝」P168/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818 | ||
定禅寺通り |
戦後、戦災復興事業で勾当台公園角~西公園通り間が幅46mに拡幅され、中央分離帯(12m幅)には、欅を2列に植え、その間に遊歩道をもうけた街路公園として整備された。青葉通りとならび杜の都仙台を代表する街路となった * 1957年(S32)から、西公園までの480mに計158本の欅を植樹 |
「仙台市史 続編1」P462 | |||
街灯(芭蕉の辻) | 戦前 | ~1945年(S20) | 戦前> 道両側に街路灯 / 芭蕉の辻の四隅は1基5灯型、その北(国分町方向)は道路の両側に1基4灯型(四方に4灯、上にはなし)、辻の南側は1基2灯型/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失 | 22-33、20-18、99-026、53-52、99-028、16-01、44-06、99-027 | |
街灯(芭蕉の辻) | 戦前 5灯型 | 戦前> 道の両側に真新しい(白い柱の)街灯が建てられた / 昭和3~4年頃の写真53-49「芭蕉の辻と市電芭蕉の辻線」には写る / 1基5灯型(四方へ4灯、上に1灯) | 53-49 | ||
街灯(芭蕉の辻) | 戦前 1灯型 | 戦前> 辻の西南角側に洒落た街灯が1本(明治40年代) | 99-022 | ||
街灯(旧・大町一、二、三丁目) | 戦前 2灯型 | 1928年(S3)?~1945年(S20) | 戦前> 旧大町1,2,3丁目の街灯は1基2灯型(柱から両側に突き出でたアームに1灯ずつ、アームは道に平行) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」に1基2灯型が写る / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失 | 東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」 | |
街灯(旧・大町五丁目) | 戦前(2) 3灯型 | 1935年(S10)頃~1945年(S20) | 戦前> 旧・大町五丁目の街灯は、1基1灯型から1基3灯型になった/ 昭和10年か11年の写真では1基3灯型 / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失 | 20-51、20-55、53-100、22-52 | |
街灯(旧・大町五丁目) | 戦前(1) 1灯型 | 1928年(S3)?~1935年(S10)頃 | 戦前> 旧・大町五丁目の街灯は、1基1灯型 / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町四五丁目」に1基1灯型が写る / 昭和7年の絵葉書、昭和10年のスタンプがある絵葉書では1基1灯型 | 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町五丁目」、20-47、22-27 | |
街灯(旧・大町四丁目) | 戦前 2灯型 | 1928年(S3)?~1945年(S20) | 戦前> 旧・大町4丁目の街灯は1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ、アームは道に直角)/ T14年頃の写真 43-25 には街灯はなかった / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失 | 53-46、22-52、20-46、20-47 | |
街灯(新伝馬町) | 戦前 2灯型 | 1928年(S3)?~1945年(S20) | 戦前> 1期2灯型(柱から道方向に突き出たアームに2灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町」に1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失 | 東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町] | |
街灯(南町通り) | 戦前 2灯型 | 1928年(S3)?~1945年(S20) | 戦前> 1期2灯型(柱から左右へ2灯、アームが曲線) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」には1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失 | 東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」、53-91、43-30 | |
街灯(停車場前通り) | 戦前 2灯型 | 戦前> 1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ) | 99-020、44-10、44-09、64-04 | ||
街灯(南町) | 戦前 1灯型 | 1928年(S3)?~1945年(S20) | 戦前> 1基1灯型(柱の上に1灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」に1基1灯型が写る/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失 | 東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」、53-95、44-90-01 | |
街灯(東一番丁・南町通角以南) | 戦前 5灯型 | 設置年不詳~1945年(S20) |
戦前> * 設置年不詳 ・ 1基5灯のスズラン灯は東一番丁(立町角以北)のとよく似ているが、上部アームのデザインが異なる * 仙台空襲(S20年7月)で焼失 |
53-89 | |
仙台市公会堂(戦前) | 設置~空襲焼失 | 1909年(M42)~1945年(S20) |
戦前は、桜ケ岡公園(西公園)にあった * 1909年(M42)、市が公園内にあった木造の割烹・挹翠館(ゆうすいかん)を買収し仙台市公会堂とした → 項目「挹翠館」参照 * 1908年(M41)10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)(「重訂 宮城県郷土史年表」P341) * 1909年(M42)2月11日、憲法発布20周年記念として桜ケ岡(公園)に公会堂を建立(「宮城百年」毎日新聞社刊 年表) * 1916年(T5)9月、洋館の新館(ルネッサンス式、木造2階建)が竣工、挹翠館を公会堂本館、洋館を新館とした / マンサード屋根スレート葺、モルタル塗り * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で公会堂本館、新館ともに焼失 |
「重訂 宮城県郷土史年表」P273、P341、P364/「仙台市史 年表」P97/「宮城百年」毎日新聞社刊 年表/「古写真に見る仙台の建築」P44/「仙台あのころこのころ八十八年」P242 | 挹翠館は、98-058、98-059/ 新館(洋館)は、99-092-1、99-093-1、53-94、53-99/「いつか見た街・人・暮らし」P14(公会堂講堂内部が写る、在郷軍人大会、大正13年)/「新・目で見る仙台の歴史」P144(カラー、挹翠館と公会堂新館) |
愛宕大橋(広瀬川) | 開通 | 1975年(S50) |
愛宕上杉通り(国道286号)の広瀬川にかかる橋 / 青葉区土樋(つちとい)と太白区越路(こえじ)とを結ぶ / 橋の南詰が愛宕上杉通りと広瀬河畔通りとの境目 * 1975年(S50)10月1日、開通(交通渋滞緩和のため、愛宕橋のやや上流に建設、長さ228m、幅26m) |
「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P45/Wikipedia「愛宕大橋」 | |
愛国婦人会 | 宮城支部創設 | 1901年(M34) |
愛国婦人会は、1901年(M34)に軍事援護と社会奉仕、報国運動を目的に、内務省・陸軍省の後援を得て結成された半官制の全国組織(「仙台市史 特別編4 市民生活」P454) * 1901年(M34)12月12日、宮城支部創設、事務所を日本赤十字社宮城支部内に併置 / 初代支部長は、県知事夫人の小野田安子 / 1904年(M37)の日露戦争勃発で、第二師団所在地として軍事援助事業に動員され、これを通して愛国婦人会の組織が大きく拡充(会員数:創立当初は全県下で100余名→1905年に1万4000余名) * 1904年(M37)1月6日、愛国婦人会宮城支部は、日本赤十字社篤志看護婦人会など5つの民間団体と合同で、宮城県連合婦人会を結成 / 第二師団への衣類寄贈や出征軍人家族、戦病死者の慰問、寄付金募集などを開始 * 1931年(S6)12月14日、宮城支部主催「満蒙婦人公演会」開催 * 1937年(S12)の市内会員数、1万4882人 * 1938年(S13)、小学校通学区域ごとに支部の分会 / 1939年(S14)に各分会の連絡統制のために仙台市連合分会を組織 * 1939年(S14)3月6日、愛国婦人会宮城支部に於て、婦人報国の赤誠を宣揚す * 1941年(S16)4月1日、愛国婦人会仙台市連合会、市役所内に事務所を設ける <大日本婦人会に統合> * 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P454、P456/「重訂 宮城県郷土史年表」P323、P467/「仙台市史 年表」P91、P92/「市史10年表」P277、P301 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P455(愛国婦人会秋保村分会の旗、カラー) |
仙台市役所庁舎 | 市制以前(仙台区役所庁舎) | 1885年(M18)~1926年(T15) |
建物は、勾当台通表小路(1996年現在の市役所の前庭)にあり、平屋建てではあるが重厚な感じの木造で親しまれた * 1878年(M11)7月22日、旧仙台城下は仙台区となる * 1885年(M18)10月24日、区役所新庁舎、表小路に完成 * 1889年(M22)4月1日の市制施行後も1926年(T15)まで使用 * 昭和初期に取り壊し(1929年(S4)に完成した3階建て市庁舎建設を前に) |
「仙台市史 年表」P82、P85/「宮城県の百年」P9の掲載写真の「説明文」 | 98-056/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116/「新・目で見る仙台の歴史」P121 |
一番町(旧・東一番丁)中央部 | 一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」<概要> | 平成20年時点 |
広瀬通り角と中央通り角の間、一番町三丁目にあるアーケード街 1993年(H5)、高さ19.5mの高層アーケードに建て替えられた / この新アーケードは、旧車道部の上を覆う中央ドーム部が5階建て程度、両脇の旧歩道部の上が4階建て程度の高さになっており、ミラノのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアを模した |
Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より抜粋 | |
水害 | アイオン台風 | 1948年(S23)9月16日~17日 | 広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / 堤防決壊28か所、橋梁流失15か所、道路損壊32か所、仙台鉄道七北田鉄橋の流失を受け代行バス輸送 | 「仙台市史 年表」P115 | 「市民の戦後史(仙台市)」P38(洪水被害)/「新・目で見る仙台の歴史」P174(水害の太子堂付近) |
愛宕堰 | 完成 | 1954年(S29) | 広瀬川の河川改修にともない完成 / 愛宕堰は広瀬川から、七郷堀(農業用などの幹線水路)への取水口 | 「仙台市史 年表」P119 | |
水害 | 大雨 | 1883年(M16)5月7日 | 広瀬川が氾濫し、牛越橋が流失 (1905年(M38)11月20日に架設) | 「仙台市史 年表」P85、P93 | |
水害 | 大雨 | 1889年(M22)9月10日~11日 | 広瀬川が氾濫し、澱橋・大橋・広瀬橋が流失 / 仙台で、死者17名、家屋流出40戸、倒壊39戸、浸水1012戸 | 「仙台市史 年表」P87 | |
水害 | 台風 | 1884年(M17)9月15日 | 広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失 / この台風被害により、野蒜築港工事が中止される | 「仙台市史 年表」P85 | 「新・目で見る仙台の歴史」P124(野蒜築港設計図) |
水害 | 大雨 | 1908年(M41)9月30日 | 広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失 | 「仙台市史 年表」P94 | |
水害 | 暴風雨 | 1885年(M18)11月24日 | 広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失 | 「仙台市史 年表」P85 | |
仙台駅(戦後) | 第4代駅舎中間竣工 | 1949年(S24)7月 |
広い庇とその下の大時計(直径2m)が特徴で、S47年まで23年間にわたり仙台市のシンボルであった * 1948年(S23)、着工 * 1949年(S24)7月、第4代駅舎(中間竣工)、木造2階建て / 駅前広場はアスファルト舗装、東五番丁まではコンクリート舗装 * 1950年(S25)5月18日、第4代駅舎完成 * 1950年(S25)11月5日~12月末、駅前の舗装(「仙台駅百年史」P49) |
「仙台駅百年史年表」P224/「戦災復興余話」P54/「仙台市史 年表」P116/「わが心の仙台駅前史」P86の「年表」/「仙台駅百年史」P49 | 05-02、16-17、16-18、16-19、16-20、16-24、18-01、20-09、22-13、22-14、37-02、37-05 |
陸軍の学校(宮城県内) | 仙台陸軍地方幼年学校/仙台陸軍幼年学校 | 1897年(M30)/1920年(T9)~1924年(T13) |
幼年学校は、年少段階から陸軍の幹部将校候補を養成する教育機関(場所は榴ヶ岡) * 1897年(M30)9月1日、「仙台陸軍地方幼年学校」が榴ケ岡に開校 / 14~15歳の少年が受験 * 1920年(T9)8月10日、「仙台陸軍幼年学校」に改称 * 1924年(T13)、軍備縮小計画により廃止 * 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」が復活、開校式(場所は、三神峯) |
「仙台市史 年表」P90、P99/「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 特別編4 市民生活」P298 | 地図は、98-111,98-113/「新・目で見る仙台の歴史」P135(仙台陸軍地方幼年学校の門標) |
市町村合併 | 平成の大合併 | 平成の合併は、「宮城県の市町村合併誌」https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/sichouson/sityouson-gappeishi.html | |||
仙台市の花・木・鳥・虫 | 決定 | 1971年(S46)9月1日 | 市花はハギ、市木はケヤキ、市鳥はカッコウ、市虫はスズムシ | 「仙台市史 年表」P127 | |
市民のつどい | 第1回 | 1967年(S42) |
島野市長時代に始まり、毎年定期的に会合 * 1967年(S42)11月9日、第一回市民のつどい |
「市民の戦後史(仙台市)」P204~205 | 「市民の戦後史(仙台市)」P204~205 |
テレビアンラジオ | 発売開始 | 1936年(S11)7月1日 | 山中電機が発売した、時計つきのラジオ | 「日録20世紀 1936年」P30 | 53-14に「テレビアンラジオ」の広告看板あり |
県営宮城野原公園総合運動場 | 各施設の開場 |
宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン、昭和20年代半ばに以下のスポーツ施設が完成 * 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場開場 * 1951年(S26)5月、県営宮城野原蹴球場完成 * 1951年(S26)8月10日、県営宮城野原陸上競技場開場 * 1952年(S27)10月21日、県営宮城野原総合運動場庭球場落成(「重訂 宮城県郷土史年表」P557では、8月21日落成) * 1952年(S27)、県営宮城自転車競技場開場 * 1973年(S48)4月28日、宮城野原公園に総合運動場の標識除幕 |
「仙台市史」P117/「仙台市史10 年表」P323、P328/「仙台市史 年表」P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P542、P551、P557/「続・ 宮城県郷土史年表」P19/Wikipedia「宮城自転車競技場」2020年1月版 | 「目で見る仙台の歴史」P189(運動公園全域空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(同空撮)/「市民の戦後史(仙台市)」P62(S25年5月、空撮) | |
県営宮城野球場(宮城球場) | 開場 | 1950年(S25) |
宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン <開場式、記念のプロ野球戦試合> * 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場グランド開き / 5月5日、観客殺到し、圧死3名、重軽症23名(「仙台市史10 年表」P323) * 1950年(S25)5月3日、開場式 / 5月5日、仙台初のプロ野球公式戦(毎日対大映、毎日対南海)(「仙台市史 年表」P116) * 1950年(S25)5月3日、球場開きの際、入場者殺到し、作ったばかりの金網の柵が倒れ、死者3人、負傷者23人という惨事(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P204、P266) * 1950年(S25)5月5日、開場式(記念試合として、毎日・大映・南海の公式試合あり)(「重訂 宮城県郷土史年表」P542) * 1951年(S26)10月25日、日米親善野球米選抜軍対巨人軍 * 1973年(S48)4月20日、照明塔6基点灯式 * 1973年(S48)5月22日、ナイター開幕 * 1974年(S49)1月、プロ野球ロッテ球団が、宮城県営野球場を本拠地とする * 1974年(S49)4月6日、東北初のプロ野球開幕試合(ロッテ対阪急) * 1977年(S52)9月13日、ロッテ球団、本拠地を川崎ヘ移す * 1985年(S60)6月18日、県営宮城球場、大改造完成 * 2004年(H16)、全面改修され、プロ野球団東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となる(施設は宮城県が所有し、東北楽天ゴールデンイーグルスの運営法人・株式会社楽天野球団が都市公園法に基づく管理許可制度により運営管理) |
「仙台市史 年表」P116、P129/「仙台市史10 年表」P323、P326/「重訂 宮城県郷土史年表」P542/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P20、P71、P192/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P204、P266/「仙台あのころこのころ八十八年」P251 | 20-06、25-15、25-16 |
幹線道路 | 宮城県道22号仙台泉線 | 1985年(S60) |
宮城県道22号仙台泉線(元寺小路~七北田線)は、青葉区本町から、仙台市泉区将監に至る県道(主要地方道)で、青葉区と泉区を結ぶ幹線 * 1953年(S28)、広瀬通り角から北にイチョウ91本植栽(以降、計240本に) * 1985年(S60)12月25日、拡幅完了し開通(「続・ 宮城県郷土史年表」P198) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P468?/「続・ 宮城県郷土史年表」P198 | |
一番町(旧・東一番丁)北部 | 一番町四丁目買物公園<概要> | 平成20年時点 |
定禅寺通角~広瀬通角間の商店街(アーケード街) 道の両脇にのみアーケードがかかり、晴れた日には太陽光が直に差し込み、青空を望める明るい雰囲気となる / 降雨時の開口部からの横雨の入りを少なくするため、アーケードの高さは「1階分+看板分」程度の高さになっており、一番町の他のアーケード街と比べると低い / この街区と交差する定禅寺通の西洋風煉瓦造りの中央緑地帯の雰囲気にあわせ、旧車道部の舗装は石畳、旧歩道部は煉瓦風カラー舗装となっている 冬季には、旧車道の開口部に豆電球のイルミネーション装飾をいくつも渡し、日没後は北欧の街路のような雰囲気となる / 1982年(S57)から2003年(H15)7月まで、「水時計」と呼ばれる落水で動くからくり時計が街区の南東端に設置されていた |
Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より要約 | |
仙台高等工業学校 | 開校 | 1907年(M40)~1951年(S26) |
官立の仙台高等工業学校は、(旧制)中学校卒業者が入学した3年制の専門学校 ・「SKK」は校名の略称(仙台、高等、工業の頭文字を並べた) ・「SSKと萩の葉」を組み合わせ校章とした * 1906年(M39)3月29日、文部省直轄学校一つとして設置 * 1907年(M40)4月20日、仙台高等工業学校開校(敷地,校舎は、南六軒丁の宮城県立仙台第一中学校を充当) / 名古屋、熊本につぎ3番目 / 土木、機械、電気の3工学科と採鉱冶金学科 * 1912年(M45)3月29日~1921年(T10)3月31日の間、東北帝国大学に包摂され、東北帝国大学工学専門部と改称 * 1921年(T10)4月、再び仙台高等工業学校として独立、再発足 * 1939年(S14)3月29日、工業化学科を新設(定員35名) * 1944年(S19)4月、仙台工業専門学校に改称 * 1948年(S23)6月25日、同盟休校(教育防衛闘争) * 1949年(S24)、東北大学に包摂された(工学部に合併され、東北大学仙台工業専門学校と改称) * 1951年(S26)3月:東北大学仙台工業専門学校、廃止。 「写真53-120」の校舎は、1908年(M41)竣工~1926年(T15)6月全焼 「写真18-03」の校舎は、東北大学発足後は、第二教養部校舎となり、その後は、東北大学通信研究所が使用した |
「重訂 宮城県郷土史年表」P335、P337、P467/「宮城県百科事典」P579『仙台工業専門学校』 /「明治の洋風建築-宮城県-」 P69とP78『仙台高等工業学校』 /「仙台市史 年表」P94、P100、P113/「仙台市史10 年表」P318/Wikipedia「仙台高等工業学校」(2020年3月) | 53-120、18-03/「新・目で見る仙台の歴史」P141/「新・目で見る仙台の歴史」P141(校門と校舎)/「市民の戦後史(仙台市)」P39(仙台工業専門学校) |
水害 | 大雨 | 1874年(M7)7月20日 | 大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失 | 「仙台市史 年表」P81 | |
明治生命館 | 竣工~解体 | 1920年(T9)~1977年(S52) |
大町通り(旧・大町五丁目)にあった明治生命館(明治生命仙台支店)は、鉄筋コンクリート地上3階・地下1階、ロマネスク様式、赤レンガの壁にみかげ石が張られていた * 1898年(M31)8月28日、明治生命仙台支店を(旧)大町5丁目に開設 * 1919年(T7)、明治生命館(ロマネスク様式)着工(2年3か月間工事) / 設計は曽根達蔵、中条精一郎 * 1920年(T9)7月旧、竣工 * 戦後、進駐軍に接収された * 1947年(S22)11月1日、明治生命宮城支部と改称 * 1953年(S28)4月1日、仙台外務部と改組 * 1977年(S52)6月、明治生命館(ロマネスク様式)解体 (5年後のS57年9月、跡地に「藤崎リビング館」がオープン) |
「重訂 宮城県郷土史年表」P313/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P131/「藤崎 170年のあゆみ]P95/「番丁詳伝」P215 | 16-44、22-28、43-25/「目で見る仙台の歴史」P151 |
一番町(旧・東一番丁)中央部 | 一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」<商店街組織> | 大町角(中央通り角)以北の東一番丁は、戦前から「東一振興会」の名称が使われていたことが、[写真 49-04 で確認できる / S29、「東一振興会」を「東一一番街」に改称 (ただし、写真 77-02 (S31)ではまだ「東一振興会」の字が確認できる) / S45.7.27、一番町一番街商店街振興組合設立 | 「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9 |
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