項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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仙台市電 | 仙台駅前~光禅寺 開通 | 1927年(S2)11月 |
・ 0.7キロ ・ 駅から駅前電車通りを北へ向かう路線/環状線(循環線)の一部区間 * 1927年(S2)11月24日、開通 |
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表 | 99-020/「市民の戦後史(仙台市)」P73(戦後20年代後半?の駅前電車通り) |
仙台市電 | 芭蕉の辻線(南町支線) 開通~廃止 | 1928年(S3)4月~1944年(S19)3月 |
・ 0.3キロ / 市電南町支線(通称・芭蕉の辻線) ・ 「芭蕉の辻」が終点 * 1928年(S3)4月8日開業 * 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表) / 軌道(レール)は戦時供出(金属回収)のため撤去「仙台市史 特別編4 市民生活」P92) / 資材は、他の路線の補修用にまわした(「戦争のころ 仙台、宮城」P163) * 1944年(S19)12月10日に休止(「仙台市史 年表」P113) → <編者注> この日付は間違いと思われる 「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95 市電「芭蕉の辻線」は昭和3年の東北産業博覧会開催を目途に開通(314m) / 大正12年の案では、芭蕉の辻が終点ではなく、さらに北へ延ばし国分町・二日町を経て北鍛冶町に至る計画だったが結局は実現せず、「芭蕉の辻線」は太平洋戦争中の昭和19年3月末に廃止された |
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)/「仙台市史 年表」P104、P113/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163 | 22-33、53-49/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる芭蕉の辻線のレール)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(終点芭蕉の辻俯瞰) |
ブラザー軒 | 概要 |
ブラザー軒は、仙台初の本格的な西洋料理店(高級レストラン) 1) 1901年(M34)か1902年(M35)、新国町で創業 2) 1910年(M43)、東一番丁通りに新築移転するが3年後に焼失 3) その後は森徳横丁で営業 第二師団の将校たちがよく利用したほか、東北帝国大学や仙台高等工業学校の学生たちも送別会や歓迎会などで利用した |
「東一番丁物語」(柴田量平著)P112/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352 | 62-14 | |
ヒトラーユーゲント一行が来県 | 来県 | 1938年(S13)9月 |
ドイツから日独親善のため来日したヒトラーユーゲント一行が宮城県に来県 * 1938年(S13)9月11日、ヒトラーユーゲント派遣団歓迎招待会開催 |
「仙台市史10 年表」P294/「重訂 宮城県郷土史年表」P464 | 19-01/「新・目で見る仙台の歴史」P160 |
仙台アメリカ文化センター | 開館~閉館 | 1952年(S27)~1971年(S46) |
サンフランシスコ講和条約発効(1952年)に伴い GHQ/SCAP は解散し、全国23か所にあったCIE図書館は廃止、このうち仙台など13都市にあったCIE図書館が米国国務省に移管され、1952年(S27)5月1日から「アメリカ文化センター 」(ACC) と改称 →参照 項目「仙台CIE図書館」 * 1952年(S27)5月、仙台CIE図書館が、「仙台アメリカ文化センター」(ACC)と名称変更し、引き続き斎藤報恩会館内に置かれた * 1968年(S43)、東二番丁の長期信用銀行ビル4階に移転 * 1971年(S46)3月31日、閉館(「重訂 宮城県郷土史年表」P677では、「6月末閉館」) |
石原眞理「岐阜女子大学紀要 第47号 (2017.10.)「CIE 図書館及びアメリカ文化センター資料に関する研究:仙台アメリカ文化センター及び横浜アメリカ文化センター 旧所蔵資料の調査を基に」/「仙台市史 年表」P117、P126、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P677 |
「市民の戦後史(仙台市)」P63 |
カルトン食堂 | 竣工 | 1925年(T14) |
カルトン食堂は、旧・大町5丁目通りの北側に面す * 1925年(T14)、竣工 / 桜井常吉が建設 * 1925年(T14)、開業(「番丁詳伝」P36) ・ 鉄筋コンクリート造、地下1階、地上3階一部4階建で、エレベーターを設置 / 屋上の展望楼からは、市内を一望、太平洋が見える ・ 1階に写真機、同材料販売、宴会場があり、和・洋食店と喫茶店を兼ねた / 化粧品部もある <「カルトン月報 大正14年12月」より>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P85) ・ 食堂(3階)に定食(洋食コース料理 午餐2円65銭、晩餐3縁45銭)、4階にカフェ ・ 各階 スチーム装置にて春日和のよう ・ 毎週土曜日曜は、東北唯一のピアノトリオ開催 ・ 料理法は最も新しく、肉は神戸から直通 |
「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P131/「重訂 宮城県郷土史年表」P400/「番丁詳伝」P36/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85 | 22-28、98-029/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85(T14年、カルトン月報) |
大型店・量販店 | エンドーチェーン | 1958年(S33) |
エンドーは、かつて、スーパーマーケット「エンドーチェーン」を東北地方を中心に展開した会社 * 1957年(S32)12月、市内に初のスーパーマーケット誕生(「市民の戦後史(仙台市)」P102) * 1958年(S33)11月20日、仙台市内初のスーパーマーケット「遠藤」を開設(宮町)(「重訂 宮城県郷土史年表」P590)/ エンドーチェンの第1号店 * 1964年(S39)3月、エンドー仙台駅前店、開業 * 1987年(S62)7月15日、新エンドー仙台駅前店開店 |
「市民の戦後史(仙台市)」P102/「重訂 宮城県郷土史年表」P590/「続・ 宮城県郷土史年表」P226/「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「わが心の仙台駅前史」年表 | 「市民の戦後史(仙台市)」P102(市内初のス-パーマーケット)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P108(S53、仙台駅前店 |
アート・スミスの宙返り飛行 | 宮城野原で公開 | 1916年(T5)6月14日 |
アメリカ人飛行士アート・スミスが宙返り飛行で話題をよび来日 仙台でも大正5年6月13日、追廻練兵場で有料公開の予定となり人を集めたが雨天中止 / 翌日、宮城野原で無料公開した |
「新・目で見る仙台の歴史」P155/「仙台はじめて物語」P203/「目で見る仙台の歴史」P157 | 44-14、44-15、44-16 |
ひらつか(東一番丁) | 焼失 | 1960年(S35) | ひらつかは、S35年暮れの火事で焼失 / その後再建 | ||
医療機関 | 宮城第一・第二病院 | 1956年(S31)/1946年(S21) |
ともに、社会保険連合会による病院 <宮城第一病院> * 1956年(S31)1月、名掛丁に開院(現地にあった個人病院を買収、10床) * 1959年(S34)に、150床 * 1960年(S35)、病棟新築(地下1階、地上4階、200床) * 1963年(S38)、第2病棟(地下1階、地上5階)完成 <宮城第二病院> * 1946年(S21)、長町西浦に開院(20床) * 1961年(S36)?、病棟新築(鉄筋コンクリート5階建て、200床) |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P732~733 | |
東北大学医学部付属病院/東北大学病院 | 改称/設置 | 1947年(S22)/2003年(H15) |
これ以前は → 項目「東北帝国大学医学部附属病院」参照 * 1947年(S22)9月30日、東北帝国大学医学部附属病院が、東北大学医学部付属医院と改称 * 1959年(S34)3月1日、がんセンター開設 * 1965年(S40)3月、東病棟完成(6階建、9742㎡) * 1965年(S40)10月、西病棟完成(9階建、1万3000㎡) * 1969年(S44)3月、第一臨床研究棟(14,080㎡)完成/塔屋まで高さ57.1m、鉄筋コンクリート12階建(当時仙台一の高層ビル) * 1979年(S54)9月、外来診療棟(15,640㎡)完成/12月17日、診察開始 * 1980年(S55)3月、長町分院廃止 * 1984年(S59)4月、中央診療棟(7,567㎡)完成 * 1985年(S60)4月、救急部設置 * 1988年(S63)3月、第二臨床研究棟(7,960㎡)完成 * 1994年(H6)6月、鳴子分院廃止 * 2000年(H12)4月、加齢医学研究所附属病院と統合 * 2003年(H15)10月、東北大学病院創設(歯学部附属病院と統合) |
「宮城県百科事典」P759「東北大学医学部付属病院」/「重訂 宮城県郷土史年表」P591、P647/「続・ 宮城県郷土史年表」P105/東北大学病院HPの「沿革」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P727 | 16-37、77-20、22-16/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図31~32(医学部付属病院S36年、H8年カラー) |
大学・短大 | 大学紛争 | 1969年(S44) | この年、東北大学、宮城教育大学、東北学院大学で大学紛争が盛んになる → 項目「大学紛争」参照 | 「仙台市史 年表」P126 | |
陸奥国分寺跡 | 薬師堂、国重要文化財に指定 | 1903年(M36) |
【宮城県HPの「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗が泉州(大阪府)の工匠駿河守宗次等を招いて再建したもので、慶長12年(1607)に竣工した。屋根は入母屋造、本瓦葺。法5間、向拝をつけ廻縁をまわす。妻飾りには素木造の簡潔・雄勁な構成美がみられる。内部は内陣と外陣とを峻別して、奥の須弥壇上に宮殿形の厨子が安置されている。厨子は巧緻な架構で、豊かな装飾により燦然たる光彩を放っている。 大崎八幡宮社殿とともに、仙台市における桃山建築の双璧である。「造立慶長十二年丁未十月廿四日」の棟札がある。」 【公益財団法人仙台観光国際協会仙台観光情報サイト「陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗公の命により再建された陸奥国分寺の金堂です。慶長12(1607)年落慶した現存する仙台最古の木造建築物の一つで、国指定重要文化財です。本尊薬師如来に因み薬師堂と通称されています。 天平年間に聖武天皇の勅願に基づいて建立された金光明四天王護國之寺のうち最北に位置する奥州鎮護の根本道場です。」 * 1607年(慶長12年)、国分寺薬師堂の再興造営なる * 1903年(M36)4月15日、薬師堂、国の重要文化財に指定(文化庁、文化財データベース)/ 桃山時代の堂宇、白木造り / 明治36年以来国宝(史跡)に指定されていたが、戦後文化財保護法により改めて、重要文化財に指定(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216) * 発掘調査(S30~33年、毎年8月に発掘) <参考資料> ・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216(薬師堂の堂宇の特徴など)、P223~224(国分寺跡の概要説明、発掘踏査など) |
宮城県公式HP「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」/「仙台市史年表」P25/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216、P223~224/「目で見る仙台の歴史」P195 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216の写真63(薬師堂)/同P223(発掘調査)/「目で見る仙台の歴史」P19(国分寺跡、金堂跡)/同P190(薬師堂ごまたき)/同P195(国分寺跡発掘調査)/同P38~39(薬師堂の社殿、厨子、護摩壇」、仁王門)/「市民の戦後史(仙台市)」P83(国分寺跡一帯空撮、出土した瓦、発掘現場)/「市民の戦後史(仙台市)」P225(2月13日の薬師堂ごま焚き) |
陸奥国分尼寺跡 | 国の史跡に指定 | 1948年(S23) |
【宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」より】「陸奥国分尼寺は陸奥国分寺と同じく、聖武天皇の詔により法華滅罪の寺として建立された。国分寺の東600mに位置する。市街化が著しく、寺域や伽藍配置などは良くわかっていないが、昭和39年に実施された発掘調査で、版築された基壇上に建てられた東西5間、南北4間の金堂が発見された。基壇内には、金箔の入った土師器の菱が鎮壇のため埋納されていた。金堂には国分寺の創建瓦と同種の瓦が使われているので、国分寺とほぼ同時期に創建されたと考えられている。」 * 1948年(S23)12月18日、古代の寺院跡が国の史跡に指定 * 1964年(S39)、発掘調査(東北大学伊東信雄教授ら) <参考文献> ・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P224~225(国分尼寺の概要、発掘調査など) |
宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P224~225 | 「目で見る仙台の歴史」P20 |
陸奥国分寺跡 | 国の史跡に指定 | 1922年(T11) |
【宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分寺跡」より】 「陸奥国分寺は、聖武天皇の詔により全国に建てられた国分寺の一つである。多賀城から約10km南にあり、広瀬川が形成した最下段の河岸段丘に立地している。昭和30年から5年間の発掘調査によって、方242.4mと推定される寺域に南門・中門・金堂・講堂・僧房が南北中軸線上に並んでいること、中門と金堂は複廊式の回廊で結ばれていること、さらに塔は金堂の東にあり、単廊で囲まれていることなど、大規模な伽藍配置が明らかになった。また、文献にある「貞観11年(869)の大地震」や「承平4年(934)の落雷」による被害の痕跡も確かめられている。現在、寺域には陸奥国分寺薬師堂および白山神社が建つ。」 * 1922年(T11)10月12日、陸奥国分寺跡が国の史跡に指定 |
宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」 | |
国民義勇隊 | 宮城県関連 | 1945年(S20) |
【出典記載あるものを除き、「戦争のころ 仙台、宮城」P198~200より転記】 * 1945年(S20)5月、国民義勇隊の兵役法公布 ・ 全国の国民学校初等科卒業 (12歳)以上で、男子は65歳未満、女子は45歳以下を強制的に隊員に加入させ、防空、被害復旧、疎開輸送、食糧増産に動員、「状況急迫した場合には必要地域の国民義勇隊を戦闘などに移転させること」(国民義勇戦闘隊) ・ 敵の本土上陸作戦が始まったら、男子(15~60歳)、女子(17~40歳)を「国民義勇戦闘隊」に編入し、陸海軍の司令官の指揮に従い戦いに参加させる ・ 従来の大政翼賛会や隣組は解散し、国民義勇隊に組み入れられた * 1945年(S20)5月31日、刈田郡連合国民義勇隊結成(県内初) / 6月9日までに、全県下3市194町村で国民義勇隊結成(「宮城県知事事務引継書」昭和20年6月10日) * 1945年(S20)6月1日、仙台市国民義勇隊結成(「仙台市史年表」P113) * 1945年(S20)7月5日、護国神社前で「仙台市国民義勇隊」結成、市長が全市民に向かって「火の玉となって敵撃滅の戦列に参加しよう」と呼びかけた(「仙台市史 続編第1巻」P53) * 1945年(S20)7月5日、仙台市国民義勇隊、宮城県護国神社で結成式 / 丸山知事(国民義勇隊宮城県本部長)は「郷土防衛の組織体として訓練と活動をなすのみならず、事態急迫して軍の要請あらば戦闘隊として戦線にでて軍務に服すのであり、これが従来の国民運動と大きく異なるところであります」と談話を発表(「戦争のころ 仙台、宮城」P199) ・ 宮城県の義勇隊副本部長は一力次郎河北新聞社社長と佐藤正在郷軍人会県支部副長(陸軍少将)、事務局長は長門頼三宮城県商工経済会事務局長 ・ 国民義勇隊は、国民学校初等科修了以上で男子は65歳以下、女子は45歳以下で編制、隣組を単位として分隊を,公会単位で小隊、戦闘部隊に移行する場合は中隊を編制する、本隊は市長が隊長となって統率、本部は市役所内に置く 「大本営陸軍部は「国民抗戦必携」「国民築城必携」を刊行して国民に配布、国民義勇戦闘隊の教育参考書として敵と戦う方法を教えた / 河北新報は、10回にわたって、仙台連隊区司令部の解説つきで「国民抗戦必携」を連載したが、それはまさに殺人のやり方教授法でした。 / 狙撃、手りゅう弾の投げ方、戦車肉薄攻撃、ガス、火災防護などとともに「白兵戦闘格闘」の項目もあり、刀、やり、出刃包丁や玄能(金槌)などでの戦い方を挿絵入りでこまごまと説明。」 * 1945年(S20)9月1日、仙台市国民義勇隊解散(「仙台市史年表」P113~P114、「仙台市史10 年表」P309) |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P198~200/「仙台市史年表」P113~114/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P53/「仙台市史10 年表」P309 | |
仙台七夕 | 明治・大正期/七つ道具 |
【「番丁詳伝」P94~95】 ・ 藩政期の諸文書にみる七夕と七夕流しに関する記述あり ・ 仙台七夕が7月6日にからに固定したのは、18世紀中期(六代藩主宗村の時代)からで、月遅れ(8月6日)ながら今日まで継承されている ・ 明治維新の大変革や、日露戦争後の明治30年代末以降、全国的に七夕行事が衰退するが、仙台では女子・家族のまつりとして、町家、屋敷町に守られてその火を消すことはなかった ・ 1894年(M27)、仙台市内に電柱がたてられるようになってから竹飾りは斜めに立てられるようになった、明治40年以降は電気照明もだいぶ利用されている <七つ道具> ・ 仙台独自の飾りつけ「七つ道具」が確立するのは明治期 ・ 七夕線香を飾るのは、昔は遊郭や芸妓屋のあった町に特にみられ、線香を三段に吊るすところもあった (1)短冊 梶の葉のならいから。シメの変化とも考えられ、歌や願いごとを書き、歌や書の上達を願う。 (2)吹流し 五色の糸の変形。機織りの上達を願うが、この日そうめんを食べ供えた故事からかえられたとも考えられる。願いの糸にかけた願いは3年のうちに叶うという (3)千羽鶴 吉兆として延命長寿を願う。家族の最年長者の数だけ折られた。 (4)紙衣 一般には白石紙子を使用するが、小袖がそのまま吊るされることもある。病災を身代わりに流す形代の意味をももち、タナバタツメの信仰から生まれた裁縫の上達と、子どもが丈夫に育つようにと祈りながら一番先端に吊るされる。 (5)巾着 富貴を祈りつくられる。 (6)投網 海の幸の豊漁を願い感謝のしるしをあらわす。 (7)屑籠 倹約と始末することの大切さを教える。 |
「番丁詳伝」P94~95 | ||
ひらつか(東一番丁) | 戦後、進駐軍専用店を経営 | 1948年(S23) |
【「番丁詳伝」P152より】 * 1918年(T7)、平塚長蔵氏、塩釜で「ひらつか製菓舗」創設 * 戦時中は、多賀城にある海軍工廠の御用商人として自由に農産物を入手でき、漬物などを大量に生産 * 戦後、仙台・東一番丁(大通り)の一力邸の焼け跡を取得 * 1948年(S23)、敷地内に50m幅の青葉通りが造成しつつあった当時、敷地はヤミ市商人の密集中心地であったが、撤去後、「コックドール」(2階建ての洋風店舗)を建築、開業 / アメリカ進駐軍家族専用の店舗(レストランとフードマーケット)で日本人はオフリミット / 子息の長治氏が英語が話せたことから、進駐軍民生部に日参し、ヤミ市撤去と米軍関係者の利用施設を実現 / 進駐軍専用施設なので原材料の入手に困ることはなかった ・ 1950年(S25)の朝鮮戦争開始により在仙台米軍の大半が引上げ後は、方針を日本人向けに転換した ・ 仙台市高砂に最新技術を取り入れた東北初のオートメーション工場を建設 ・ 一番町店舗の改築を行い、和・洋・中の総合レストランビルを完成 ・ 平塚製パン、平塚物産、ひらつか、平塚販売等を展開 ***************************************** ・ 昭和26年の絵葉書(写真20-01-01)でも、「ひらつか」は表示塔に「ON LIMITS RESTAURANT」とあるように、進駐軍専用のフードマーケット(1階)とレストラン(2階)だった ・ 昭和28年からは、パン・洋菓子販売と日本人むけに喫茶・レストランを経営 |
「番丁詳伝」P152/昭和26年発売の絵葉書20-01-01の内容から | 20-01-01、22-07、58-01、58-03 |
仙台七夕 | 昭和初期、復活させた商人たち |
【「番丁詳伝」P124】 「昔から仙台の代表的なまつりの一つとして有名であった仙台七夕まつりは、明治以降はほそぼそとその伝統を守ってきたもののその衰退はどうしようもなく、特に大正期から昭和にかけての不況の時代、ますます淋しいものとなっていた。仙台七夕の伝統を生かしながら下火になったこの七夕行事に活を入れたのは大町五丁目の人々である。(以下略)」 【「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100】 ・ 「昭和に入ってすぐ、その伝統を生かしながら、下火になった七夕行事に喝をいれたのは大町の人々である。 当時大町五丁目共同会会長の佐々木重兵衛は、町内の桜井常吉、三原庄太らに相談。 『不景気退散』の合言葉で、仙台商人の意気をみせようと町内一斉に七夕を飾りつけて、市民から喜ばれたのは昭和2年のことである。」 ・ 「昭和3年6月、東北産業博覧会終了後、昨年の七夕を一層盛大にしようと、佐々木重兵衛の提唱を取り上げた仙台協賛会は、連合協議会の案をもって商工会議所に建議し、共同開催で実施することとした。 参加町内を募ったところ、仙台駅前、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、東一番丁、虎屋横丁、立町通り、五丁目新丁、元櫓町など11町会が参加し、八月六日夕四時一斉に飾付けがはじまり仕掛物が披露され、三日二夜にわたる祭典が開幕した。(以下略)」 【「番丁詳伝」P125】 ・ 「昭和3年は、11か町会が参加し3日間2夜にわたる復活七夕が開幕、8月6日夕4時から一斉に飾り付けが始まり仕掛け物が披露され3日2夜にわたる復活七夕が開幕、この日は霧さえ立ちこめて今にも雨の降りそうな空模様のなか、しばしば通行整理と交通禁止が行なわれるほどの盛況を呈した。 飾りつけの審査(1~5等)が行われ、大町五丁目が優勝。」 ・ 「昭和4年は、8月6日夜を本祭り、7日夜を後祭りとし、前年より4町多い15町会が参加。審査1等には、銀カップの優勝杯と賞金20円、・・・4等5等は5円授与」 ・ 「昭和5年には、菖蒲田の外人村、東京、水戸、福島、森岡、青森から団体の繰りこみがあった。道路ごとに南進、北進の一方通行とした。見物客が年毎に増加し臨時列車の運行も」「東一番丁の東一振興会(第一区)では個人審査も行い、軒並み仕掛け物(仕掛け飾り)を飾って話題をまいた。(昭和5年の仕掛け物の具体記述あり)」 |
「番丁詳伝」P124~125/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100 | 戦前・戦後の仙台七夕の写真は、写真分類E-15、E-16、E-17、E-18、E-19 | |
奉安殿 | 撤去指示 | 1946年(S21) |
【「日本大百科全書(ニッポニカ)」の用語解説】 学校に下賜された「御真影(ごしんえい)」や教育勅語など勅語類を安置する建物。天皇・皇后の写真である「御真影」と勅語の諸学校への下賜は1890年(明治23)に始まるが、その下賜数がしだいに増加するとともにその管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるに至った。「御真影」などは当初校舎内の奉安所に安置されていたが、学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まった。奉安殿の建設は1935年(昭和10)以降全国的に実施され、「御真影」はますます神格視された。敗戦後、「御真影」は焼却され奉安殿は取り壊された。 ************************************** * 1946年(S21)7月4日、奉安殿の撤去を指示(教育民生部長通牒) * 1946年(S21)10月8日、文部省、教育勅語の奉読を廃止(菅家年表) |
「重訂 宮城県郷土史年表」P512/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37 | 54-01、73-04 |
戦災復興事業 | 公園緑地造成 | ~1961年(S36) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P252~253】 ・ 当初計画は、11万坪(市中心部の1割) ・ 予算の関係で、14か所から9か所(計8万5000坪)に変更 ・ 実現しなかったのは、県庁周辺の大公園化(勾当台通り-錦町-外記丁-北一番丁)と勾当台公園と西公園を結ぶ60m幅の緑地帯構想 ・ 定禅寺通は幅員46mとし、中央に12m幅の緑地帯が設置された 【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330】 ・ 戦災復興区画整理事業により13の公園・緑地が造成された / 勾当台公園(2.4ha)、西公園(11.4ha)、青葉山公園(50.3ha)、錦町公園(1.7ha/旧育英中学や大聖寺などの寺院跡地)、定禅寺通緑地(0.8ha)など(一覧は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P329) ・ 1961年(S36)3月の戦災復興事業完了までに、復興区域内では、西公園の拡張整備のほか11の公園・緑地(20.6ha)が造成され、戦前からあった公園を合わせ約30haとなり、面積、数とも大幅に拡大した |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P252~253/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330 | |
満蒙開拓 | 宮城県関連(4-2)仙台村(つづき) | 1942年(S17)~1945年(S20) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P166~167】にも、「仙台村」開拓団の記述あり ・ 農作業は4戸1組となり、水田3ha、畑7haを共同経営、米、大豆、小豆、大麦、小麦、コーリャン、馬鈴薯、家畜として牛38頭、馬60頭、ニワトリ50羽 ・ 朝6時起床、朝食7時、作業は8時~夕方5時、朝食だけは、共同炊事場で作ったものを皆で食べる ・ 開拓団本部は東西500m、南北800mの土塁で囲まれ、これを二分して半分が日本人、残る半分に満州国民、朝鮮人が住んでいた ・ 国策として入植した仙台村には、激励を兼ねて宮城県や仙台市の職員が視察、河北新報記者も取材し現地ルポを記事にした <敗戦時>(「戦争のころ 仙台、宮城」P170) 「敗戦時、「仙台村」では周囲を囲んでいた土塁を破って数百人の暴徒が侵入、立ちはだかる者に容赦なく大きな鳶口が振り下ろされました。 男たちだけでなく婦女子、赤ちゃんも殺され、それだけでなく、逃亡の途中にも栄養失調で餓死したり、絶望の果てに自殺したりした人もいました。 「子供を売れ」と言われて従った人、生きるために中国人の妻になった人もいました。この結果、「仙台村」に入植した約250戸、1000人のうちで、帰国できたのは209人(仙台市史)とか、657人中、引き揚げたのは396人(「宮城県開拓団の記録」)との説もあります。」 |
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P166~167、P170 | |
進駐軍(米軍) | 宮城県知事事務引継書(昭和20年)より |
【「宮城県知事事務引継書」(昭和20年 生悦住求馬知事→千葉三郎知事)】より <進駐した米軍部隊> ・ 第8軍第14師団、同砲兵隊、第11空挺師団第187連隊、東部122部隊、第6工作隊 ・ 司令官は空挺師団長のスウィング少将 <進駐先> 仙台市、塩釜市、石巻市、松島町、古川町、大河原町、多賀城村 <警備体制> ・ 宮城県警察部655人、応援として岩手県から50人、秋田県から30人 ・ 県内28か所に検問所設置、373人を動員して警戒した <接収された施設> ・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)、歩兵第4連隊(仙台市榴岡)、陸軍飛行場(仙台市霞目)、陸軍飛行場(岩沼)、海軍松島飛行隊(矢本)などのすべての軍施設 ・ 仙台の尚絅女学院、日銀社宅、塩釜の二つの学校、倉庫15棟、仙台市内の富国生命、安田生命、明治生命の各ビル ・ 仙台地方簡易保険局(仙台市北一番丁)は、東北6県の占領行政を監視する第8軍第14軍団司令部がおかれた ・仙台市内の民間住宅60戸(将校用宿舎に) <編者注> ・この時点では、のちにキャンプ・センダイとなる、第二師団司令部と各部隊兵営(仙台市川内)用地が接収対象に記載されていないようだ 【「戦争のころ 仙台、宮城」P244】に、仙台市川内のキャンプ・センダイ用地(第二師団司令部と各部隊兵営跡)の接収関連の記述あり → 項目「進駐軍(米軍)の小項目「宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地)」参照 ************************************** 占領軍に建物を円滑に引き渡すために、仙台市内の中学生、旧制高等学校生、大学生が大勢集められ、「机、いすなどの備品は今日中に市内の郵便局に移すよう」命令された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242) |
/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240~242 | ||
進駐軍(米軍) | 宮城県に進駐 | 1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 続編第1巻」P67】より * 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)仙台到着 * 9月16日、仙台に本格進駐開始(第8軍指揮下の第14軍団第11空挺師団)/ロード准将ら将兵106人がジープで仙台到着 ・ 特別列車と、海路塩釜から上陸して仙台、塩釜、石巻、松島、大河原、古川、多賀城など7市町村に計1万人が分駐 ・ ドン准将以下幹部は、松島海岸のパークホテルに宿営 ・ 第14軍団司令部は北一番丁の仙台簡易保険局庁舎に設置 ・ 空挺隊員は、原町の陸軍造兵廠と多賀城海軍工廠に駐屯 【「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240】より * 1945年(S20)9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 内務省からの連絡で案内役を仰せつかった宮城県職員矢野栄作さんは「福島県境の山下村(現・山元町)の望楼から半鐘が鳴った。米軍の到着である。案内車と英語で書いた乗用車から米軍のジープをのぞくと、2門の機関銃を手に完全武装したした米軍兵が緊張した面持ちでこちらを見ている」と『せんだいあこころ八十八年』(宝文堂)に書いています 【毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション】より * 9月15日、仙台に司令部をおいた第14軍団、塩釜に上陸 * 9月16日、仙台には第11空挺師団が進駐開始 ・ (陸軍)幼年学校、尚絅女学院、安田生命(国分町)、富国生命、日銀仙台支店を宿舎として接収 <編者注:疑問> 日銀は仙台空襲(S20年7月)で焼失したのに接収対象にできたのか? 「日銀支店社宅」が正しいと思われる(宮城県知事事務引継書(昭和20年)には、日銀社宅と記載あり=「戦争のころ 仙台、宮城」P241) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P67/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~241/毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション/「仙台市史 年表」P114 | 63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P327(接収された仙台地方簡易保険局庁舎) |
敗戦後の諸相・仙台 | 浮浪児/戦災孤児/ホームレス |
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757】より ・ 仙台駅周辺や地下道を根城にして、通行人に金銭やタバコをねだる ・ 人数は40~50人、取締りがあると5、6人に減る / 東京ノガミ(上野)で浮浪児狩りがあると100人、200人に増えることもあった ・ 警察調べ(S23年6月17日午前2時) 計104人、このうち16歳未満が49人、40歳以上も11人 / 各年齢層とも女性が2割だった ・ このほかに、かつぎ屋やいなか回り(集団こじき)で出先に泊まる者が100人以上 ・ 夜12時すぎの最終列車のあと、駅の待合室は浮浪児などのねぐらになり、持ち物は茶碗2個とモクヤ(拾ったたばこ)を入れた風呂敷のみだった ・ 香具師、博徒、ヤミ屋の手先に使われ小遣銭を稼ぎ、ゆすり、万引き、スリ、野荒しなどの犯罪を犯し、施設に収容されても、毛布などを失敬して脱走するものが多かった 【「戦争のころ 仙台、宮城」P249】より ・ 仙台駅や駅に近いX橋(エックス橋)脇の東北線名掛丁地下道には戦災で家を失った大人や子供たちがたむろし、通行人に金銭やタバコをねだっていた ・ <仙台市内のホームレス>(昭和23年6月、仙台北警察署調べ)104人で、18歳未満が半数を占め、このうち2割は女性 / ほかにもかつぎ屋や田舎を集団を回るこじきなどが100人以上いた ・ <戦災孤児>(厚生省調べ) 空襲で両親を失ったり、満州から帰還する途中で両親が死亡したりした戦災孤児が、全国で12万2300人、宮城県は1559人 ・ 宮城県内では、戦災孤児が231人(仙台空襲で両親死亡や宮城県に学童疎開中に東京大空襲で肉親を失った子など)、引揚げ孤児232人(満州などから引揚途中で両親が死亡)、一般孤児(この意味は不明)1074人、捨てられた孤児22人 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P249 | 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P748と「新・目で見る仙台の歴史」P170に、「たむろする浮浪児たち」の写真 | |
進駐軍(米軍) | 第14軍団司令部 →第9軍団司令部 | 1945年(S20)9月/1946年(S21)4月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」】 ・ 占領初期、東日本の占領は米軍第8軍が担当 / 新潟を含む東北地区は、第8軍指揮下の第14軍団が進駐し、司令部は仙台 / 宮城県に進駐は、第8軍団に属する第11空挺師団 * 1945年(S20)9月、仙台に第14軍団司令部が置かれたが、S20年暮に14軍団は廃止された(札幌に司令部を置く第9軍団に統合) * 1946年(S21)4月、第9軍団司令部が札幌から仙台に移された(これ以降、第9軍団軍政部が関東以北の占領に責任をもつ) 「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」 に、宮城県に進駐した米軍の軍団名、連隊名、その変遷の一部が記述されている ********************************** 【(「戦争のころ 仙台、宮城」P244】 「仙台に米軍が進駐してから3か月もたたない昭和20年12月、東北地方の占領行政を監視する第8軍は突如、北海道に移転、第9軍団と統合 / その3か月後には再び仙台に戻った(第9軍団司令部が仙台へ移転)しかも担当地域は従来の北海道、東北に加えて、東京、横浜を除く関東、甲信越を含む地域に拡大 / 米英とソ連の冷戦は激化しており、ソ連領に近い北海道に司令部を置くことを敬遠したのでしょう」「仙台の拠点性が高まり、米軍の大規模駐屯地の建設が急がれ米軍の要求で、仙台の旧陸軍用地を提供、キャンプ・センダイとなる」 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244 | |
敗戦後の諸相・仙台 | 赤線地帯(特殊飲食街)・青線地帯 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392】 * 1946年(S21)1月、GHQ指令により「公娼制度」廃止 ・ 廃止以前から、酌婦・カフェー女給などが私娼として、飲食店、料理屋、飲食店などで売春を行っていた ・ 仙台市では、細横丁や東八番丁に私娼街ができた <赤線地帯> ・ 警察は、「社会上やむを得ない悪としてこの種の行為について、特殊飲食店などを指定して警察の特別の取締りにつかせ、かつ特殊飲食店などは風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置すること」(「宮城県警察史」第二巻)と、例外的に特殊飲食店での売春を認めた / いわゆる「赤線地帯」 / 特殊飲食店街は、仙台市の東八番丁や元寺小路にあった / 表面上はあくまで特殊飲食店の女給として正業についていた / 建前上は、あくまで本人の意思に基づき、客との交渉の結果自分で契約した金額であり、4割~6割を自分の収入とし残金を主人に渡した / 特殊飲食店でそれぞれ一室をもらい、寝具を貸与される以外は衣装ほかは自弁で、建前上は自らの意思によって売春を営むという形態に切り替えられた <青線地帯> ・ 終戦直後の米軍の進駐とともに、内務省指示により、米兵を対象とした「特殊慰安施設(RAA)」が、国分町・芭蕉の辻界隈のビルの中に作られたが、その後閉鎖され、街頭に立ち米兵を相手とするようになった / 仙台駅近くのX橋周辺、榴ヶ岡などに集まる傾向があり、俗称「青線地帯」とよばれた * 1956年(S31)4月1日、売春防止法施行 / 赤線、青線の灯は消えた 【「番丁詳伝」P159より】 ・ 戦前の公娼はGHQ指令でその制度はなくなったが、内務省は通達で特殊飲食店を認め、娼婦の自由意志での営業を許可した ・ 警察は特殊飲食街のある地域を地図上に赤線で囲ったところから赤線と呼ばれる ・ 仙台には、東八番丁、元寺小路の特飲街があった ・ その後、昭和33年4月売春禁止法の実施により赤線の灯は消える |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392/「番丁詳伝」P159 | ||
進駐軍(米軍) | 宮城県に進駐 | 1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324】より <先遣隊> * 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)到着 / 横浜からジープ38台に分乗した先遣隊106名が、同日未明に陸路松島に到着し、松島パ-クホテルに分宿 /知事はじめ県首脳部と会見(進駐軍宿舎や物資集積所のための施設・建物の接収を決める) / 「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240では、「宮城県には9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 翌日から、米軍と宮城県の間で宿舎、施設利用、警備について協議が始った」 ・ 進駐軍との事務的交渉窓口「渉外事務処理本部」は、この会談を機に、知事直結の窓口として「知事官房渉外課」を設置 <海上から> * 9月15日、東北地区進駐軍最高幹部らが塩釜港に上陸し、松島に入る / 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月15日、塩釜港に6席の艦船から約3800人の兵士が上陸用舟艇を使ってまるで敵前上陸のように進駐してきました」 <列車で到着> * 19月16日、2本の特別列車で約1000名、仙台駅到着 / 塩釜港には艦艇で着いた約3800名上陸 / 仙台(原町苦竹の造兵廠)、多賀城(海軍工廠)、松島に分駐 / 将校以上の幹部たち、ジープで国道6号線経由仙台に到着し、そのまま松島に入る * 9月17日、1200名、特別列車で仙台着 * 9月18日、2580名、特別列車で仙台着 / 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月16日朝には東北線、常磐線の特別列車で1100人の兵士が仙台駅に到着したのを皮切りに26日迄に、列車と船舶、ジープ、トラックで合計1万95人が宮城県内に展開しました」 ・ 9月26日までに、計約1万名が宮城県に進駐 ・ 仙台、多賀城、松島のほか、塩釜石巻、古川、船岡などに駐屯(兵士数は造兵廠と海軍工廠に駐屯が圧倒的に多い) ・ 仙台では、霞ノ目飛行場や榴ケ岡の東部122部隊地にも小部隊が入った <簡易保険局庁舎接収し、中枢機能を置く> ・ 第14軍団司令部(その後の第9軍団司令部も)、第11空挺師団司令部、宮城県を管轄する軍政団司令部、MP(憲兵隊)本部など |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324、P327 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~240 | 63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍) |
仙台空襲 | 空襲被災者への救援・収容・配給 | 1945年(S20)7~8月 |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P323より <罹災者収容先> 片平丁、八幡、東六番丁、連坊小路、上杉山通、五橋、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁、荒巻の各国民学校、巡査派出所など <救援物資>(市配給課書類「配給・罹災関係」) 7月10日~11日、各地からの救援物資 ・ 握り飯差し入れ 村田・燕沢・吉岡・塩釜・富谷・七北田・高砂・大沢・増田・大河原・根白石の各市町村、及び南警察署を通じて計2万2249個 ・ 食糧営団から、米5俵と乾パン3万2250食 ・ 山形県から、乾パン1万4000食 ・ 漬物組合や納豆組合から、沢庵・納豆 ・ 大崎地方事務所などから、むしろや縄 ・ 気仙沼や桃生郡・牡鹿郡内から、米飯や干魚、サバ、マグロ <罹災証明書> 被災者に公布され、非常用の米や味噌・醤油の配給券が配布された <被災者への配給> ・ 7月10日、米・味噌・醤油 ・ 7月14日、乾のり・焼きのり・コンニャク・下駄・石鹸 ・ 7月15日、塩・下駄・草履・ろうそく・マッチ ・ 7月19日、タバコ、納豆・中古衣料品 ・ 7月20日、ネル・タオルや縫い糸・縫い針・茶 ・ 7月24日、ちり紙 ・ 7月31日、傘 ・ 8月初めになって、重要な工場・事業所の寄宿舎や全焼の被災家族に、鍋や食料品を配布 <病院や救護所へ> ・ 医薬品や冷凍魚、缶詰など配布 <乳幼児の死亡> ・ 救援物資は十分とはいえず、特に乳幼児の消化不良・栄養失調による死亡が増加 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P323 | |
防空演習(防空訓練) | 甘かった認識 |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より「甘かった認識」 ・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。 ・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。 ・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。 <防火貯水槽>「戦争のころ 仙台、宮城」P154) ・ 仙台市では310カ所 江戸時代につくられた四ツ谷用水の水路を改修したり、道路わきや神社仏閣の境内に、隣組総出で数多くの貯水槽を設置した。南町には17カ所、土橋通りには10か所。空襲時に消火活動に役立ったという話はあまり聞かず、熱風の中を逃げ回る人たちが顔や体を防火用水に浸け、かぶっていた布団や毛布を水で浸して難を避けた。 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P154 | 16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練) | |
仙台空襲 | 被災した区域/身元不明遺体/甘かった認識 | 1945年(S20) |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P318~319より ・ 全焼は13公会の区域(東一番丁、東二・三番丁、元寺小路、新伝馬町、多門通、東二・四番丁、二日町、大町、国分町、立町、肴町、本櫓丁、北目町) ・ 半焼は37公会の区域(勾当台通、外記丁通、杉山通、上杉山通、光禅寺通、錦町、東六番丁、小田原中部、宮城野橋西部、新屋敷、八塚、二十人町、南町、元柳町、清水小路、土樋、田町、米ケ袋、花壇・枇杷首、霊屋下、向山東部、向山西部、鹿野、西多賀、川内、荒巻、八幡町、伊勢堂、春日、北六番丁中部、支倉、土橋、本材木町、木町通中部、木町通南部、北鍛冶町、北堤通) 『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より ・ 「9月28日現在身元不明とされた遺体は、その埋葬にあたった半子町の寿徳寺、北山火葬場と大願寺、新寺小路の松音寺の3か所で213体(一時仮に土葬されたが、身元判明し引き取られた遺体を除く) / なかには発掘したものの、ほかの遺体との区別が判然とせず、やむなく埋葬した土を持ち帰る遺族もあった / 医療も埋葬も人手や資材の不足に悩まされ、人間としての満足な処遇を与えられなかったのである」 ・ 甘かった認識「『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵(むしろ)をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。」 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P318~319 | <仙台空襲焼失区域図> 98-092(「仙台市史 特別編4 市民生活」319の図320をスキャン)/98-147(「仙台市史 第二巻本編2」P680~681掲載の第24図「戦災焼失地域図」をスキャン) |
仙台空襲 | 空襲の状況 | 1945年(S20)7月9日~10日 |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P318~319より <空襲時の状況> ・警戒警報サイレン(7月9日に3回) 午前9:38(5時間後に解除) / 午後9:30頃、米空軍爆撃機B29(2機)松島湾上空を旋回 / 午後10:56(このころ松島湾上空にマリアナ基地発進のB29結集しはじめていた) ・空襲(7月10日) 午前0時ごろ、120機以上が3機ないし5機の編隊で、仙台上空へ到達し焼夷弾投下 / 空襲警報サイレンは(7月10日)午前0時5分から4回鳴らした時点で電力線断絶 仙台北警察署の記録(警察望楼台から当番警察官と学生挺身隊員が観測)では、米機来襲は、午前0:03~2:03の間に、2分~12分以内の間隔で波状攻撃を25回繰り返し、焼夷弾は、最初は市中心部に、後半は東部と南部地域に集中して投下されたように見えたという ・気象状況(10日午前0時~1時)は、快晴、気温15.7度、湿度79%、北西から0.9mの風 / 以後、夜明けまで、風は東2.7m→北北東2.3m→北北西1m→北西1.3m→北北西3.7mと変化、湿度はまず82%まで上がり、その後火災の中で68%まで低下 ・「戦災関係綴り」によると、投下されたのは油脂(ナパーム)性焼夷弾50㎏級と100kg級、小型エレクトロン焼夷弾が混用されていた <米軍の被害 日米の発表比較> ・ 東北軍管区司令部発表(7月11日):来襲した米軍機70機のうち、5機を撃墜、12機を撃破(これは事実ではなかった) ・ 米側の資料(米国立公文書館提供):(B29)6機損傷のみで、迎撃した日本軍機は1機のみ ・ 米軍資料には、「対空砲火で5~6%の損害をうけた」「帰還時に小破した6機と事故、損傷機あわせて13機が中継基地の硫黄島に不時着した」(「戦争のころ 仙台、宮城」P226) |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P318~319/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P226 | |
精養軒 | 芭蕉の辻の洋館で営業 | 1929年(S4)~1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、 (1)七十七銀行(M36年~S4年7月18日)のあと (2)精養軒(S4年~) (3)日本銀行仙台支店(S16年10月10日~)が使用し、 仙台空襲(S20年7月)で焼失した ・ サービスガールは、紺の着物にエンジの帯を締め、白いエプロン姿(「仙台市史 特別編4 市民生活」P85) / 注:この精養軒は東京の支店で、明治初年に東一番丁に開業した「精養軒」(牛鍋・洋食)とは関係が無い(「東一番丁物語 明治編」P157) |
柴田量平著「東一番丁物語 明治編」P157/「仙台市史10 年表」P302/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85 | 99-026、22-33、64-05、99-028/地図は98-110 |
日本銀行 | 仙台支店(芭蕉の辻)開設 | 1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、 (1)1903年(M36)~1929年(S4)7月18日、七十七銀行本店 (2)1929年(S4)~、精養軒仙台支店 (3)1941年(S16)10月10日~、日本銀行仙台支店が使用 * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失 * 戦後、1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に再建 |
「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302 | 戦前は、16-01/戦災焼失は、35-13、53-74/戦後は、20-03(S26年、部分)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P748(戦後改築後) |
土井晩翠 | 晩翠草堂 | 1949年(S24) |
「晩翠は戦災で本荒町の自宅と共に、50年にわたって集めた3万巻余の蔵書や貴重な美術品を焼失、一時は「天われを滅ぼせり」と嘆息し、花壇川前町の仮寓で生活していた。しかし晩翠を慕う旧制二高同窓会や市民有志が昭和23年、晩翠会をつくり、当時の岡崎栄松市長が会長となって募金し、約40万円をもって本荒町の土井邸跡に、東北大学名誉教授小倉博の設計で晩翠草堂を建て晩翠に贈呈した。」(「仙台市史 続編第2巻」P189) * 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置 * 1952年(S27)10月19日、詩人土井晩翠〈81歳)晩翠草堂において逝去(「重訂 宮城県郷土史年表」P559) * 1978年(S53)7月1日、一般公開(大町1丁目)/ 仙台市出身の詩人・英文学者の土井晩翠が最晩年に過ごした邸宅を、一般開放(「続・ 宮城県郷土史年表」P83) * 1989年(H1)7月、晩翠草堂周囲改装 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189/「重訂 宮城県郷土史年表」P559/「続・ 宮城県郷土史年表」P83、P261/「市民の戦後史(仙台市)」P41 | 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271の写真86/「目で見る仙台の歴史」P191(草堂と詩碑「天地有情」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(草堂と詩碑) |
宅地造成ブーム | 1960年(S35)頃~ | 「昭和35年頃から始まった(仙台の)宅地造成ブームは、この頃(昭和40年代)頂点に達し、仙台市北部や南西部一帯の一帯の丘陵地帯は、緑をはぎ取られ、瞬く間に住宅地に化けていった。これは、仙台の膨張を如実に示すものだが、一方、無計画な宅地造成や粗悪な住宅地、杜の都の破壊、上下水道の問題など大きな都市問題となりつつあり、発展期にある仙台にとって、「住」の解決が最大の課題となっている。」(昭和44年発行の「市民の戦後史(仙台市)」P190) | 「市民の戦後史(仙台市)」P190 | 「市民の戦後史(仙台市)」P190~191(八木山地区、旭ヶ丘地区、南光台地区、北部丘陵地帯に広がる住宅団地群、危険な石垣、がけの上の家) | |
木炭バス(国有鉄道バス) | 仙鉄局管内 | 1938年(S13) | 「昭和13年、仙鉄局管内のバス、62台中、木炭バスが15台 / 13年秋木炭は大幅に値上がりし品不足となり、バス用木炭は5割から7割も配給を削減された。ついにたきぎを燃料とするバスが出現した。16年9月1日からガソリンの使用は一切禁止された。」 | 「ものがたり東北本線史」P509 | |
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 | 弁士/トーキー | 「文化キネマは東京浅草から弁士を招致して新風を吹き込んだという / 日本初のトーキー映画「マダムと女房」もここで上映 / トーキーが盛んになるにつれ、文化キネマ説明部の弁士は職を失うとストライキを行い、これを他館の弁士たちが応援した」 | 「番丁詳伝」P113 | ||
大日本婦人会 | 発足 | 1942年(S17)2月2日 |
「愛国婦人会」と「大日本国防婦人会」「大日本連合婦人会」がS17年に全国的に統合されて「大日本婦人会」になった * 1942年(S17)4月28日、大日本婦人会仙台支部結成(東二番丁国民学校講堂で結成式、仙台連隊区司令官、仙台師団長、仙台地方海軍人事部長などの軍関係者が祝辞、仙台師団兵務部長が銃後を守る「婦道」の精神発揚を講演) * 1942年(S17)6月14日、大日本婦人会宮城県支部結成 * 1945年(S20)6月13日、大日本婦人会解散、同年3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より 「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」 |
岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P489/「仙台年表」P212/「仙台市史 年表」P112/「日録20世紀 1945年」P16 | 16-06/「新・目で見る仙台の歴史」P162(大日本婦人会のタスキ) |
軍用機献納 |
「愛国号」は陸軍へ、「報国号」は海軍への献納機 / 昭和7年の「愛国機」1号、2号にはじまり、太平洋戦争中まで、全国の市民、企業、団体などから献納が相次いだ。 * 1932年(S7)4月24日、宮城県民の寄付による軍用機「愛国機2号」の命名式(宮城野原練兵場) * 1939年(S14)8月20日、海軍への献納機、宮城水産号、命名式(仙台飛行場) * 1941年(S16)10月5日、愛婦献納機、命名式 * 1944年(S19)2月11日、愛国機仙台市民号、献納 |
「重訂 宮城県郷土史年表」P431/「仙台市史10 年表」P278、P296、P302、P307/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310 参考:陸軍愛国号献納機調査 http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html その1「愛国1号、2号」http://coah.pro.tok2.com/AvnHistory/article/KF_2011-10.pdf / 海軍報国号献納機調査http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Houkokugou_List1.html |
民間から献納された海軍機「とうふ号」 80-01 | ||
広瀬通り | 戦後新設 |
「広瀬通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、青葉通りとともに市中心部を東西に貫く幹線道路として、仙台空襲(S20年7月)の焼失地域に新設された ・ 幅員36メートル ・ 旧立町通り、旧玉澤横丁、立町を拡幅、その他は空襲焼け跡に造成した * 1952年度(S27)、車道の中央部分の舗装開始 * 1953年(S28)、大部分が、日米行政協定による事業として、一気に舗装すすむ 旧・「玉沢横丁」は1907年(M40)に拡幅され、東一番丁の中心的存在に(娯楽街として仙台第一の地位)(昭和41年河北新報記事による) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404 | 22-19、22-20、22-21、22-22/「市民の戦後史(仙台市)」P59(S25年の東一番丁角付近、元寺小路付近) | |
仙台市電 | 実現しなかった予定路線 | 「大正十五年版・仙台市全図」(川名文明堂)によれば、市電の予定路線として、定禅寺通り~北鍛冶町~青葉神社下、長丁~宮町~東照宮下などの計画もあったことがわかる | 「番丁詳伝」P118 | ||
アーケード | 一番町四丁目買物公園 | 1954年(S29)ほか |
「四丁目買物公園」は、一番町商店街のうち、一番北の「定禅寺通り角から広瀬通り角まで」 <第1代以前> * 1953年(S28)?、「ズック布張り」のアーケードが、三越南~森徳横丁角の東一番丁東側のみに完成(「番丁詳伝」P178) <第1代> * 1954年(S29)7月、第1代アーケード完成(定禅寺通角~広瀬通り角) * 同年12月11日、定禅寺通角~南町通り角までを含めた東一番丁通り全体に統一デザインの第1代アーケードが完成(東北初の商店街アーケードだった) 奥行4.5m、屋根は一部可動式、銀色の柱、ジュラルミン製、天井に二列の蛍光灯(第1代の特徴は、天井の蛍光灯が道路に対し直角) * 翌12月12日、完成祝賀仮装行列挙行 <第2代> * 1970年(S45)12月2日、北振会(森徳横丁角以北)アーケード改築完成(高さ5.5m、照明に水銀灯を使いさらに明るくなる)(「番丁詳伝」P179では、定禅寺通~虎屋横丁間に完成) * 1971年(S46)、中央会(森徳横丁角~広瀬通り角)のアーケード改築完成(「番丁詳伝」P179では、虎屋横丁間~広瀬通り間に完成) <第3代> * 1982年(S57)10月2日、四丁目商店街「アーケードのある買物公園」完成(高さ7mの透明なアーケード、茶系統を基調にした路面、12種約70本の街路樹、広瀬通角には噴水付き時計塔で世界の姉妹都市5都市の民族衣装人形つき) ・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり |
「番丁詳伝」P178~179、P201、P203~205 /「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10 | <ズック布張り> 「市民の戦後史(仙台市)」P73の左側(S28年頃) <第1代>は、99-014、22-61 / 第1代完成祝賀仮装行列は、51-01、51-02/「新・目で見る仙台の歴史」P178(蛍光灯が点灯したアーケード街)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33、空撮) |
一番町(旧・東一番丁)北部 | 一番町四丁目買物公園<商店街組織> | 「北振会」の名称は戦前から使われてぃた / S26.1.1、北振会発足(S28.7、仙台東一北振繁華街協同組合設立認可) / S38.8.9、「仙台東一北振繁華街協同組合」を「仙台東一北振商店街振興組合」に改組 / S54、「仙台東一北振商店街振興組合」が「東一中央会」を吸収(北振会は森徳横丁以北、中央会は森徳横丁~広瀬通り間) / S55.6.16、「東一北振商店街振興組合」を「一番町四丁目商店街振興組合」に改称 | 「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9 | ||
戦災復興(応急対策) | 空襲跡の状況 | 1945年(S0) |
「仙台空襲(S20年7月10日)では、市内の中枢部500haが焼き払われ、わずかに土蔵、鉄筋コンクリート建物などが焦土の中に残されただけで、当時の全市民の26%が被災し2590人の死傷者を出すという惨状に市民はただ茫然自失、立ち上がる気力を失った。やがて終戦(8月15日)を迎えて幾月たっても民有地の焼け跡の整理が進まず、瓦や石ころが散乱するにまかせ手の施しようがなかった。 理由の主なものは、復興計画が確定していない、建築の制限、建築資材の入手難、大工不足、焦土の処理難、費用の増嵩などのほか、地主が土地を貸したがらず、電灯の復旧もはかばかしくなかったことなど、当時としてはやむを得ない事情が重なっていた。」 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P311 | |
高等学校(新制) | 仙台市内の高校一覧 | 1969年(S44)現在 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482~531に、以下の各高校について、概要、沿革などを紹介(昭和45年時点) <仙台市立> 仙台商業高校(P482~485)、仙台高校(P485~489)、仙台工業高校(P489~492)、仙台第二工業高校(P492~494)、仙台女子商業高校(P494~497)、仙台女子高校(P497~500)、仙台図南高校(P500~501) ・ 「仙台市立7高校の系譜図」→「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P502~503 <宮城県立> 宮城県仙台第一高校(P504~505)、宮城県仙台第二高校(P506~507)、宮城県仙台第三高校(P507~508)、宮城県農業高校(P508~509)、宮城県工業高校(P509~510)、宮城県第二工業高校(P510~511)、県立盲学校(P517~518)、県立聾学校(P518)、宮城県第一女子高校(P518~520)、宮城県第二女子高校(P520~521)、宮城県第三女子高校(P522~523) <私立> 東北工業大学電子工業高校(P511)、東北学院高校(P512~513)、東北高校(P513~514)、仙台育英学園高校(P514~515)、栴檀学園高校(P516)、宮城学院高校(P523~524)、仙台白百合学園高校(P524~525)、常盤木学園高校(P525~526)、尚絅女学院高校(P526~527)、三島学園女子高校(P527~528)、聖和学園吉田高校(P528~529)、朴沢女子高校(P529~530)、聖ウルスラ学院高校(P530~531)、聖ドミニコ学院高校(P531) <国立> 仙台電波高校(P516~517) |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482~531 | |
軍都・仙台 | 「軍都」と地元経済 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P298より ・ 新聞の広告などによると、軍の食料品や馬糧を主にして、燃料、衣料、軍靴などの購入調達が、入札による納入や指定御用達商店を通す方法で行われ、仙台の経済と深くかかわっていた ******************************************* 「仙台市史 特別編4 市民生活」P334(「軍都」と経済より要約) <兵士や将校の個人的な消費> ・ 日曜祭日、慰労休暇、褒賞休暇などの外出(飲食・映画などの娯楽 / 娯楽は軍人半額料金が多い) ・ 面会人や除隊兵士向けの土産品・記念品の店(菓子店、漆器店、木盃製造販売店などが大町1・2丁目と、鉄砲町方面から仙台駅前に向かって並んでいた) ・ 軍服・軍帽・軍靴・軍鞄・軍用腕時計・双眼鏡など(将校は自前で準備する必要) <軍による調達> ・ 各隊兵士の食糧、軍馬用飼料(大麦・わら・干し草など) ・ パンや酒・缶詰などの陸軍御用商人もあった (御用商人は定められた額の保証金を出した) ・ 軍馬の購入(川内の追廻や、扇坂、古川で) ・ 馬丁、調教師、蹄鉄工など募集 <軍による払下げ> ・ 外套・軍服などの古着、廃馬、各隊の下肥などの汲み取り、馬糞などの入札競売 ・ 残飯などの払い下げを受ける業者 → 貧民に売る ・ 戦時には、生活に苦しむ軍人留守家族救済のため、軍服類の縫製や修繕を、留守家族が働く施設に発注 ☆ 地元商工業界からは軍に、地元産業育成のため地元製品のより積極的な買上げを要望する声が絶えなかったが、その成果は上がらず、昭和期の軍工廠の設立を待つことになる |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P298、P334 | ||
発電事業 | その他の発電事業 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P141には、宮城紡績電灯、仙台電力、仙台市営電気事業のほかに、以下の発電事業の記述 * 「T12年から宮城県営電気事業開始/T6年設立の秋保電気、T8年の名取川水力発電、T10年の冠川電気(根白石村)は、T13年に東北電灯に合併/T10年開業の仙台電気工業、広瀬電力はT15年に二本松電気に合併/これら仙台市周辺地域の会社はS4年~5年に県営事業に移る」 * 1936年(S11)、東北振興策の1つとして、東北振興電力(株)設立されたが、1941年(S16)に日本発送電(株)に統合 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P141 | ||
二十人町 | 戦前 |
「二十人町」は東北線の東側にある商店街 (仙台駅東口がなかった1952年(S27)夏までは)仙台駅からは、駅西側の駅前通りを北へゆき、すぐの名掛丁角の交差点を東へ右折し、線路を宮城野橋(通称・X橋エックスバシ)で越えるのが経路だった ・ 藩政時代に、仙台城大手筋をそのまま東へ延ばした要の場所に、鉄砲組二十人衆を配し城を守らせたのが町の始まりといわれる ・ 戦前は、釈迦堂の門前町として、また花見で有名な榴ケ岡公園へゆく行楽客で賑わい、明治時代から榴ケ岡に置かれた歩兵第4連隊の兵隊さんや連隊に出入りの人々相手の商売(入隊・除隊時の記念品、食料品、飲食店、菓子屋など)が多く、近くの片倉製糸仙台工場(明治38年開設、昭和31年1月閉鎖)に大勢いた女工さんもお得意さんで、庶民的な町として栄えた ・ 1937年(S12)の日中全面戦争以降は、次第に戦時色が強まるなかで軍事優先の統制経済による物資不足でやむなく店を閉鎖したり、太平洋戦争期には商店主たちが軍需産業へ強制動員されるなど苦難の時代が続いた ・ 1945年(S20)7月の仙台空襲では、商店街の一部を焼失 <二十人町と鉄砲町> ・「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121に、両町の由来、沿革の記述あり |
「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121 | 写真分類A-05-07二十人町の全写真(34-05、34-06、34-04、75-04、98-142など)/16-04、16-10ほか/「目で見る仙台の歴史」P138に「二十人町教会堂」 | |
アーケード | 一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」 | 1954年(S29)ほか |
「一番町一番街」は、一番町商店街のうち、「広瀬通り角~中央通り(旧・大町通り)角まで」 ・ 大正時代、「大内ビルアーケード街」があった(大町角の大内屋、西内楽器店、玉沢総本店、家庭金物の岡元、銘仙専門店の大丸などが長さ15mほどが広い庇でつながる)(「番丁詳伝」P169) <第1代> * 1954年(S29)1月14日、大町通り~広瀬通り間、第1代アーケード完成 (「仙台年表」P229=出典:毎日新聞) * 1954年(S29)1月、大町通り~広瀬通り間、アーケード新設(長さ26間完成)(「重訂 宮城県郷土史年表」P571) <第2代> * 1972年(S47)、一番街アーケード改築(高さ5.2m) <第3代> * 1979年(S54)9月1日、「一番街買物公園」完成 街路樹・ストリートファニチャーを設置、歩行者専用道路 / 時計塔2基(モチーフは支倉常長のローマ法王謁見、文字盤盤に世界古地図) ・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり <第4代> * 1993年(H5)7月、一番街アーケード完成 (高さ18mの全天候型高層アーケード「ぶらんどーむ一番町」 がオープン) |
「番丁詳伝」P169、P200、P203~205/「仙台年表」P229/「重訂 宮城県郷土史年表」P571/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P127、P128 | <第1代>は、22-58、18-09、22-01/ 「仙台一番町一番街商店街ぶらんど~むのHP」に、第1代、第2代のアーケードの写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P80(第1代アーケード) |
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