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砂塵舞い上がる 青葉通り・東一番丁通り交差点 (昭和29年)
砂塵舞い上がる 青葉通り・東一番丁通り交差点 (昭和29年)

分類項目 青葉通り 
タイトル 砂塵舞い上がる 青葉通り・東一番丁通り交差点 (昭和29年) 
写真番号 22-07 
場所 仙台市
映像内容 道は「青葉通り」(奥が西) / 人々が横断するのが、東一番丁通りとの交差点 / 車道の中央部分(幅9m)のみ舗装されているが、風が吹くと砂塵が舞って「仙台砂漠」といわれた / 両側歩道に植樹あり(関連情報欄参照) 

<米軍に接収された「東邦生命」>
道左側のビル「東邦生命仙台支社」(もと、第一徴兵保険 / 南町35)は、青葉通り・国分町通り(以前の南町)南東角で、仙台空襲(1945年7月)では焼け残る / 昭和21年2月~27年9月は進駐軍に接収され、この間22年6月頃からCID(米陸軍犯罪捜査司令部)が使用した(関連情報欄参照) / 東邦ビル看板「東邦生命」がまだ右から書かれている

<第一銀行、ひらつか>
/ 右側に、「第一銀行」、その右は東一番丁角の「ひらつか」(戦後しばらくは「SENDAI MARKET]として、進駐軍専用のレストランとフードストアを経営した /  20-01-02 の左端の店)
撮影年代 1954年(S29)春? 
撮影年代判定根拠 「市民の戦後史」P80のキャプション / 東邦生命の看板の字が右からなので、もう少し前の可能性あり
関連情報/参考文献 <青葉通りの舗装、植樹>
・ 【「戦災復興余話」 P50~51】 青葉通り1.5kmの築造は昭和22年初め~25年末で完了したが、車道中央部分の9m幅だけのコンクリート舗装完了は28年度末
・ 【「戦災復興余話」P51~52】 青葉通りの街路樹は、東五番丁~西公園間の両側歩道に計180本のケヤキを植えたが、このうち50本は市会議員全員により市に寄付され、東三番丁~国分町間の歩道に植えられた。

<米軍に接収された東邦生命>
・ 【「東邦生命八十年史」P933、P934】 第一徴兵保険は、戦後は昭和20年10月8日に「新日本生命保険」、22年12月1日に「東邦生命保険相互会社」に社名変更
・ 【「東邦生命保険相互会社五十年史」(昭和27年刊?)グラビア写真「仙台支社」の説明文】 「連合軍進駐により、南町35の社屋を昭和21年2月に接収され、1952年(S27)9月22日に接収解除」
・ 小野寺義男氏(CIDに派遣され勤務した警察官)談(1996年)「東邦生命ビルは当初はAmrican post officeが使用したがこれを川内に移し、大町五丁目の明治生命ビルにおいたCICとCIDのうち、CIDを東邦ビルに移した。」
・  CID(Criminal Investigation Division)は、米陸軍犯罪捜査司令部
・ 【「宮城県警察史 第二巻」P30】 「仙台に置かれた進駐軍CID(軍事犯罪捜査機関で進駐軍関係の凶悪犯罪捜査を担当)には、日本側も警官を派遣した。この後、捜査対象業務の増大に伴って、昭和22年6月以降警察官が逐次増派され、CIDは仙台市南町の東邦ビル内に移転独立した」
・ 渡邊慎也氏談(1995年)「南町・青葉通り角のCIDでは、日本人の信書の閲覧も行っていた(全数と抜き取りがあった)」

<第一銀行>
 【 Wikipedia「第一銀行」】 「1948年(昭和23)10月 - 株式会社第一銀行設立。帝国銀行より営業譲渡を受け開業」
備考
<「東邦生命保険相互会社五十年史(旧徴兵保険株式会社社史)」より>
・大正8年8月、仙台支部として開設、大正14年6月支店に昇格
・開設当時は仙台市国分町63、昭和5年4月仙台市南町35に移転
・昭和21年2月、連合国軍(米軍)進駐により支社社屋が接収され、片平国民学校へ一時的に移転
・昭和21年6月、同市弓ノ町37に移転、さらに21年10月国分町63に移転し、社屋は22年7月新築落成
・昭和27年9月、接収解除により、接収前の場所(同市南町35)に移転 
カラー/モノクロ モノクロ 
分類内の通し番号
画像ファイル名 sendai3032 
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