項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
こけし塔(仙台駅前) |
設置 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)、仙台駅前広場のこけし塔、仙台復興祭グランドフェア(S24年4月20日~5月31日)の歓迎用に建てられ、その後も広告塔として使われた
・ S26年当時の写真にも写る
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「戦災復興余話」P101~102に、グランド・フェアーにつき記述あり
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16-20、16-18、16-19、20-08
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宮城県武道館 |
設置 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)4月25日、宮城県武道館落成(宮城県第二総合運動場とともに根岸の宮城県農業学校跡地に設置)
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「仙台市史 年表」P132/「続・ 宮城県郷土史年表」P127
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宮城県理科教育センター |
設置 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)8月10日、宮城県教育委員会が、向山に設置
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「仙台市史 年表」P124
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宮城集治監 |
設置 |
1879年(M12) |
* 1879年(M12)4月1日、宮城郡南小泉村(若林城跡)に設置
* 1973年(S48)、改造のため解体
・ 政府が、若林城跡に、西南戦争の国事犯を収容するため設置
・ 中央に見張り所の4階建ての塔がそびえ、6棟の2階建ての雑居房・独居房が放射状に突き出す(雪形六出の構え)
・ 木造ペンキ塗り、和洋折衷で、玄関に唐破風、塔頂の宝珠形など
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「仙台市史 年表」P83/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P143/「目で見る仙台の歴史」P109/「新・目で見る仙台の歴史」P123
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「目で見る仙台の歴史」P109(明治12年建設の集治監)/同P44(若林城跡の土塁)
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仙台専売支局/仙台地方専売局/日本専売公社仙台地方局 |
設置/改称 |
1913年(T2)/1921年(T10)/1950年(S25) |
* 1913年(T2)6月、仙台専売支局、清水小路に設置
* 1921年(T10)7月1日、仙台専売支局が仙台地方専売局と改称
* 1924年(T13)12月1日、仙台地方専売局は山形地方専売局を併合し、東北6県を管掌することになる
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* 1950年(S25)6月1日、日本専売公社法公布に伴い、仙台地方専売局を解消して日本専売公社仙台地方局として発足
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宮城縣郷土史年表 P356、P395、P543/「仙台市史 年表」P100
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99-097/「いつか見た街・人・暮らし」P42の写真144
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東北鎮台 →仙台鎮台 →第二師団 |
設置/改称/改称 |
1871年(M4)/1973年(M6)/1888年(M21) |
* 1871年(M4)11月12日、東北鎮台を国分町より二の丸跡に移す(「仙台城」P231)
* 1871年(M4)11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月9日、「仙台鎮台」と改称
* 1888年(M21)5月14日、「第二師団」と改称
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「仙台城」(仙台市教育委員会 昭和42年刊)P231/「宮城県百科事典」P638/「宮城県史(兵事)」P685からの「仙台部隊関係年表」参照/「仙台市史 年表」P79、P80、P86
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仙台市公会堂(戦前) |
設置~空襲焼失 |
1909年(M42)~1945年(S20) |
戦前は、桜ケ岡公園(西公園)にあった
* 1909年(M42)、市が公園内にあった木造の割烹・挹翠館(ゆうすいかん)を買収し仙台市公会堂とした
→ 項目「挹翠館」参照
* 1908年(M41)10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)(「重訂 宮城県郷土史年表」P341)
* 1909年(M42)2月11日、憲法発布20周年記念として桜ケ岡(公園)に公会堂を建立(「宮城百年」毎日新聞社刊 年表)
* 1916年(T5)9月、洋館の新館(ルネッサンス式、木造2階建)が竣工、挹翠館を公会堂本館、洋館を新館とした / マンサード屋根スレート葺、モルタル塗り
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で公会堂本館、新館ともに焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273、P341、P364/「仙台市史 年表」P97/「宮城百年」毎日新聞社刊 年表/「古写真に見る仙台の建築」P44/「仙台あのころこのころ八十八年」P242
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挹翠館は、98-058、98-059/ 新館(洋館)は、99-092-1、99-093-1、53-94、53-99/「いつか見た街・人・暮らし」P14(公会堂講堂内部が写る、在郷軍人大会、大正13年)/「新・目で見る仙台の歴史」P144(カラー、挹翠館と公会堂新館)
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青葉神社 |
認可/本殿完成、鎮座祭 |
1874年(M7) |
* 1973年(M6)、藩祖政宗公の霊を敬うため旧家臣が中心になり願い出て、M7年1月認可、M7年6月25日に県社となる
* 1874年(M7)11月11日、本殿拝殿などが完成、11月16日に鎮座祭
* 1927年(S2)、社殿新築完成
* 1935年(S10)、政宗公三百年祭が盛大に行われた
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「青葉神社」HP/「宮城県百科事典」P5~6/「仙台市史 年表」P80、P81/「目で見る仙台の歴史」P166
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99-132、99-133/「目で見る仙台の歴史」P166/「いつか見た街・人・暮らし」P26(大正14年5月24日青葉神社祭典)/「目で見る仙台の歴史」P109と「新・目で見る仙台の歴史」P132に「明治15年の青葉神社大祭典神幸式之図」
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養賢堂 |
講堂 建築~焼失 |
1817年(文化14年)~1945年(S20) |
養賢堂は仙台藩の学問所
* 1760年(宝暦10)、北一番丁・勾当台通りの一角に移り養賢堂と名付けられた
* 1817年(文化14年)、講堂を建築
(木造平屋・東西24間南北24間・桟瓦葺=サンカワラブキ)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「宮城県百科事典」P1076「養賢堂」 /「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P41/「仙台市史 年表」P79、P100
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53-54/「目で見る仙台の歴史」P77~79(門、講堂、孔子廟、構内略図、絵図)/「新・「目で見る仙台の歴史」P110~111(養賢堂俯瞰図、講堂)/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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養賢堂 |
講堂を県庁舎として使用 |
1871年(M4)~ |
* 1871年(M4)7月14日、廃藩置県、仙台藩が廃止され、仙台県となる
* 1871年(M4)11月4日、仙台県庁を、養賢堂講堂に設置
* 1872年(M5)1月8日、仙台県を宮城県と改称
* 1915年(T4)の県庁新庁舎建設以降も(県庁の一部として)使われた
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「宮城県の百年」(宮城県企画部編集)P5/「仙台市史 年表」P79/「重訂 宮城県郷土史年表」P237、P239
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98-051、98-052、53-54/地図が98-055
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練兵場 |
講武所練兵場 |
1878年(M11)頃~廃止年不明 |
* 1878年(M11)、「この年ころ、宮城野原及び講武所跡などに練兵場を、また、台原に射撃場を設く」(「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256)
・ 講武所練兵場(こうぶしょ)は、仙台鎮台(明治21年からは第二師団)の練兵場
・ 場所は、川内の各兵営と広瀬川を挟んで対岸にあった
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市全図」(大正元年)には、「追廻練兵場」とともに「講武所練兵場」の記載あり
用地」と記載
・ 「仙台市全図」(昭和11年)には、「追廻練兵場」は記載あるが、「講武所練兵場」の記載はなし
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「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256
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位置図は、98-112
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警察(戦後) |
警察官 |
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<全国>
* 1946年(S21)1月16日、警官がピストル携行となる
* 1946年(S21)3月16日、婦人警官(65人が入所式)、4月27日から街頭へ
* 1946年(S21)7月20日、警官のサーベルを廃止
* 1950年(S25)1月10日、警官の拳銃常時携行となる
<宮城県>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P367)
* 1946年(S21)10月、宮城県でも婦人警察官21人採用
(応募は、17~39歳まで、大陸から引揚げてきた未亡人も含め96人が応募) / 12月24日に仙台北警察署に11名、南警察署に6名配属 / 青少年補導が主な活動の場
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P36、P44/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367
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水害 |
豪雨 |
1910年(M43)8月2日~11日 |
* 1910年(M43)8月2日~11日、宮城県内の諸河川で大洪水が起こる / 家屋流失・浸水、田畑冠水、地崩れ、橋損壊など被害多数
仙台市内では広瀬川が氾濫し、床上浸水347戸、床下浸水1109戸
* 1983年(S58)11月6日、荒井保子(鳴子町里沼)は、明治43年の水害死亡者79人の慰霊地蔵尊建立、開眼
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「仙台市史 年表」P95/「仙台あのころこのころ八十八年」P241/「続・ 宮城県郷土史年表」P168
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水害 |
豪雨 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月6日、豪雨で河川氾濫、床下浸水140戸
* 1952年(S27)9月28日夜から29日にかけ、宮城県一帯に50~70ミリ程度の豪雨、各地で洪水
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「仙台市史10 年表」P328
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斎藤報恩会 |
財団法人認可 |
1923年(T12) |
* 1923年(T12)2月20日、斎藤報恩会、宮城県前谷地村(のちの河南町)の大地主、斎藤善右衛門が財団法人として設立 / 学術研究、産業開発、社会福祉の事業を行ってきた
* 1923年(T12)2月、斎藤善右衛門、300万円を基金に斎藤報恩会を創設(「仙台あのころこのころ八十八年」P244)
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「仙台市史 年表」P101/「仙台あのころこのころ八十八年」P244
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フジビール |
販売開始 |
1921年(T10) |
<東洋醸造>
* 1919年(T8)、仙台の福島揁蔵が仙台市小田原長丁通に、東洋醸造を開業、フジビールを売り出す(「仙台市史 特別編4 市民生活」P78、P347)
* 1921年(T10)9月23日、東洋醸造開業(小田原長丁通)(「仙台市史 年表」P100、「新・目で見る仙台の歴史」P153)
<麒麟ビール仙台工場>
* 1923年(T12)8月に麒麟ビール株式会社に買収され、その仙台工場となる / 従業員224名(「仙台市史 特別編4 市民生活」P347、「仙台市史 年表」P102、「新・目で見る仙台の歴史」P153)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P78、P347/「仙台市史 年表」P100、P102/「新・目で見る仙台の歴史」P153
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「目で見る仙台の歴史」P151と「新・目で見る仙台の歴史」P153に、「東洋醸造工場」(大正10年開業)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P347(大正11年ころ、東洋醸造工場内部)/「仙台はじめて物語」口絵写真(フジビール工場)
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敗戦後の諸相・仙台 |
赤線地帯(特殊飲食街)・青線地帯 |
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【「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392】
* 1946年(S21)1月、GHQ指令により「公娼制度」廃止
・ 廃止以前から、酌婦・カフェー女給などが私娼として、飲食店、料理屋、飲食店などで売春を行っていた
・ 仙台市では、細横丁や東八番丁に私娼街ができた
<赤線地帯>
・ 警察は、「社会上やむを得ない悪としてこの種の行為について、特殊飲食店などを指定して警察の特別の取締りにつかせ、かつ特殊飲食店などは風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置すること」(「宮城県警察史」第二巻)と、例外的に特殊飲食店での売春を認めた / いわゆる「赤線地帯」 / 特殊飲食店街は、仙台市の東八番丁や元寺小路にあった / 表面上はあくまで特殊飲食店の女給として正業についていた / 建前上は、あくまで本人の意思に基づき、客との交渉の結果自分で契約した金額であり、4割~6割を自分の収入とし残金を主人に渡した / 特殊飲食店でそれぞれ一室をもらい、寝具を貸与される以外は衣装ほかは自弁で、建前上は自らの意思によって売春を営むという形態に切り替えられた
<青線地帯>
・ 終戦直後の米軍の進駐とともに、内務省指示により、米兵を対象とした「特殊慰安施設(RAA)」が、国分町・芭蕉の辻界隈のビルの中に作られたが、その後閉鎖され、街頭に立ち米兵を相手とするようになった / 仙台駅近くのX橋周辺、榴ヶ岡などに集まる傾向があり、俗称「青線地帯」とよばれた
* 1956年(S31)4月1日、売春防止法施行 / 赤線、青線の灯は消えた
【「番丁詳伝」P159より】
・ 戦前の公娼はGHQ指令でその制度はなくなったが、内務省は通達で特殊飲食店を認め、娼婦の自由意志での営業を許可した
・ 警察は特殊飲食街のある地域を地図上に赤線で囲ったところから赤線と呼ばれる
・ 仙台には、東八番丁、元寺小路の特飲街があった
・ その後、昭和33年4月売春禁止法の実施により赤線の灯は消える
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392/「番丁詳伝」P159
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
身体障害者福祉モデル都市 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)7月27日 国から「身体障害者福祉モデル都市」第1号に指定される
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「仙台市史 年表」P128
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体育館 |
身障者体育センター |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)1月27日、原町小田原桝江に開館
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「続・ 宮城県郷土史年表」P36
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電話 |
車椅子用電話ボックス |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)3月23日、設置(丸光前と藤崎前)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P38
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青葉通り(舗装) |
車道中央部分の舗装 |
1949年度(S24)~1953年(S28) |
* 1949年度(S24)、車道の中央部分(幅9m)の舗装、失業対策事業で開始
* 1950年度(S25)、国庫補助で本格的な舗装開始
* 1954年(S29)年3月、中央部分のコンクリート舗装(幅9m)が完了
* 1958年(S33)現在、緩行車線は未舗装(「仙台クロニクル」P23の写真)/ 当時車道は、2本の分離帯で3つの部分に分けられており、分離帯の両外側が緩行車線だった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「戦災復興余話」P50~51
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98-048、98-030、22-07/仙台クロニクル(風の時編集部 2020年刊)P9(S29年、駅前)、P10(S29、東五番丁角から西、俯瞰)、P12(S29、藤崎より東、俯瞰)、P23(S33、東一番丁より駅方向)
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仙台空襲 |
軍隊、学徒動員して遺体収容 |
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<軍隊、学徒動員して遺体収容>
・ 軍隊や警察、消防団、市内の中学校、女学校の生徒も動員される
・ 平貞次郎さん談(当時・歩兵第4連隊 榴ケ岡の兵舎から出向いて5日間遺体収容作業)「仙台駅から西の方は焼け野原で、特に元寺小路から現在の錦町公園にかけての道路に遺体が多くあった。井戸の中に遺体が折り重なっていたり、大きな防空壕では沢山の人が亡くなっていた。 お棺がないので、焼けトタンに1体ずつ遺体を乗せて運び、軍のトラックで新寺と北山の火葬場に運んだ。 あまりに数が多くていつになるか分からないといわれて、自分で火葬にした人もいた。」
・ 室田六郎さん(当時北山火葬場勤務)談「上半身とか片手、片足というのもあって大半は焼死体だが、防空壕で亡くなった人は衣服も体も無傷だった。 釜は16基あったが、燃料不足で1体焼くのに5時間はかかる。一番困ったのは燃料で、新坂通りの街路樹を切ってナマ木のまま使用した。」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P225~226
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金属回収 |
軍馬銅像 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
* 1943年(S18)か1944年(S19)、桜ケ岡公園(西公園)にあった軍馬の銅像「日露役殉死軍馬銅像」が、S18年か19年に供出された
・ 戦後しばらくは台座のみが残っていた
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99-120、53-63
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北山五山 |
輪王寺 |
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<輪王寺>
藩祖政宗に従って米沢~会津若松~岩出山~仙台と移動した伊達家の一門寺
・ 4代藩主綱村治下に、大造営
・ 1876年(M9)、山火事で焼失
・ 焼け残った山門(仁王門)は、元禄盛期の建築
北山五山は、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、光明寺
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125~126
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「目で見る仙台の歴史」P155(輪王寺)、P71(輪王寺山門)
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農地解放(農地改革) |
1946年(S21)~1952年(S27)頃 |
* 1945年(S20)12月9日、GHQが農地改革を指令
<仙台市内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点の小作地面積は、2591町歩
(2) 1950年(S25)8月時点の小作地面積は、399町歩
(3) 市内田畑総耕地面積に占める小作地割合の変遷
S20年(48.6%)→S24年(12.1%)→S26年(7.2%)→S27年(3.5%)
(4) 農地を買収された地主戸数は、3719戸
(個人地主3490戸、法人地主229)
(在村地主1665戸、不在地主2054戸)
(10町歩以上買収された地主、個人17戸、法人2)
売り渡しを受けた戸数は、4524戸
<宮城県内の田畑農地解放>
(1) 1945年(S20)11月時点で、自作地40%、小作地59.4%
(2) 改革完了後には、自作地89.5%、小作地10.5%
(3) 自作小作農家の割合変化
小作農 41.6%→3.9%
自作農 19.4%→61.1%
自小作農 15.1%→24.8%
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P606~611、P726
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農業・農村地帯の変化 |
引用した参考資料 |
<参考>
(1)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658の「第八章 農業」は、戦後~昭和43年頃までの、仙台の農業の変遷につき記述。
・ 内容は、農地解放の経緯(S21年~27年ころ)、他産業との所得格差、兼業化、都市拡大に侵食される農用地、農地の基盤整備事業、畜産の推移、林業の変化、農畜産物流通、中央卸売市場開設、農協合併、戦後開拓地(緊急開拓事業)、仙台市育種園など
(2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P605~658、P723~762
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(1) |
昭和20年終戦~昭和24年頃 |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732>
・ 昭和20年は明治38年以来の凶作で米が大減収、農家は供出よりも自家飯米の確保に忙殺された。
・ 昭和21年には米をはじめ水産業でも収穫が急速に回復、その上、インフレと食料不足にもとづくヤミ取引の横行により生産県である宮城県の農家経済は異常な現金収入に恵まれ、昭和22年、23年と連続して台風被害による米の減収があったとはいえ、全体として農家はヤミ取引による現金収入で潤い、戦後という異常な時期の特色を示していた。
・ 終戦から昭和24年ごろまでの特徴は、戦争による経済の破壊は大きかったが、仙台の経済が農村に依存していたために、農家のインフレ景気に支えられて、都市部の疲弊にもかかわらず相対的には商業を中心に活動が開始されていた。特に金融は農村からの預金の集中があったために、それを貸し出しに回すことができた。
・ 昭和24年のドッジ・ライン以降、デフレへの経済転換の中で、農村の景気が終わりを告げ、そのために経済が沈滞し金融面にも大きく影響した。
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P368>
・ 第二次大戦後の仙台市の経済は、ほとんど休眠の状態に陥ったといえる。産業は沈滞を極め、農業も労働力の絶対的不足で農地は荒れ、食糧事情は窮迫していた。
しかし、都市部の経済がまだ混乱が続く中で、米の生産量は増加し、仙台近郊の農家は、現金収入を増加させていった。 農村景気の出現である。この農村の余剰資金が仙台に集中し、それが産業復興の資金としての役割の一部をになったといえる。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732の「第九章第三節 景気と金融の一 復興のあゆみ」から、農業にかかわる部分のみを抜粋/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(2) |
1950年(S25)~1959年(S34) |
・ 全国的には、昭和25年勃発した朝鮮戦争による特需が、停戦により景気後退が始まる中で、26年は米の大豊作、豊漁、27年も農水産物好調で、仙台の商業も活況、第一次産業の堅調にもっぱら依存しながら、仙台の経済は本格的な復興の段階にはいる。
・ 昭和28年の冷害凶作、29年の米価切下げによるデフレ浸透のあと、30年は空前の豊作で農家経済は一挙に好転(宮城県内の稲作収入は前年比46%増)、ナタネ、麦、繭なども豊作、サンマ中心に水産業の水揚実績は戦前戦後通じて最高を記録、このため工業も食品加工業が活況、他の工業は中央の動向を反映し依然不況ではあったが、東北では工業の比重が低いため他の先進地に比べ不況の程度は少なく、東北の全体経済には影響が少なかった。
・ 仙台のデパートは、29年末の売上から戦後最高を記録、東一番丁や中央通りの商店街の増改築が目立って増え始める
・ 昭和31~32年も、米作3年続きの豊作、水産業はサンマ漁獲減にもかかわらず比較的順調で、消費需要の堅調に支えられ商業中心に伸長を続けた(全国的にはこの時期の景気は重化学工業の発展による消費需要だったが、仙台や東北はそれに直接依存するものではなかった。31年の工業出荷額、全国は前年比23%増、宮城はわずか5%と自然増程度。)
・ 昭和30年代は、食管制度に支えられて、ともかくも安定している米作を中心とする第一次産業へ流れ込んだ資金が、農村を背景とする消費の堅調を通じて第三次産業を媒介にしながら、仙台を中軸とする都市の金融機関に集中する。この資金が都市銀行に集められて、太平洋ベルト地帯などの先進地域における重化学工場の成長資金として利用された。
・ 先進地帯の重化学工業中心の経済成長のために、東北は農業、特にコメを中心とする食糧の供給、次に東北開発の一環として行われた各種自然資源の供給、さらに農村からの労働力の供給、そして金融面では成長資金の供給をも担当することになったのであり、仙台はそれらの供給業務に伴う管理中枢の機能を集積していくことになるわけである。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P732~745の「第九章第三節 景気と金融の二 再建の足取り」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
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仙台の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(3) |
1960年(S35)~1968年(S43)頃 |
・ 連続の豊作記録と、消費の拡大によって、S34年のはじめから拡大をはじめていた東北の経済は、35年も引き続き高水準の成長を示し、民間企業317工場の設備投資額が、S33~35年には、毎年2倍くらいずつ伸び、事業所得も順調に伸長した。このような景気上昇を支えていたのは、いぜんとして農村を中心とする消費需要であった。
・ 昭和37年は、東北は全体として鉱工業生産の若干の伸び悩みがみられたものの、米の連続豊作や底堅い消費によってささえられている仙台の経済活動はますます活発になったのであり、その中で中央資本と結びついた大型スーパーの進出が相次いだ。
・ 日本経済は、昭和39年~40年に戦後最大の不況を迎えるが、当初は影響はそう大きくなく、昭和38年もまた連続豊作が続き農村での堅調な消費が、年末から再び行われた金融引き締めによる鉱工業生産の出荷のびなやみを大幅にカバーすることになった。
・ しかし、工業製品の出荷や在庫の動きを手始めに、次第に景気後退があらわれ、39年秋には企業倒産が深刻、不渡り手形も激増、市内百貨店の売り上げ増も39年12月は前年同月の8%増にとどまり、米代金の流入停滞や漁業不振も重なり、東北にも不況の波が押し寄せた。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P745~762の「第九章第三節 景気と金融の三 飛躍への道」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
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練兵場 |
追廻練兵場 |
明治~1945年(S20) |
・ 追廻練兵場(おいまわしれんぺいじょう)は、陸軍第二師団の練兵場で、宮城野練兵場とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 兵士の軍事訓練のほか戦没者慰霊祭会場ともなった
・ 場所は、広瀬川西岸沿いで、仙台市川内の師団司令部と各連隊兵営に隣接
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市名家及実業家一覧図」(地図、明治34年4月24日印刷)には、「追廻練兵場」と記載あり
<戦後は>
・ 戦後は戦災者・引揚者用住宅が建てられ、その後住宅地となった → 項目「戦災者・引揚者用住宅の小項目「住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅)」を参照
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「仙台市名家及実業家一覧図」(明治34年)
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99-011-1、22-02-01、53-101/位置図は、98-111,98-112、98-114
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銀行(地域の銀行) |
通商貯蓄銀行 |
1899年(M32)~1905年(M38) |
* 1899年(M32)、通商貯蓄銀行、開業
* 1905年(M38)、通商貯蓄銀行、休業
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350
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映画館(戦後) |
連坊映画劇場 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)2月、連坊小路61に開設(双葉興行、200席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P561
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政党県支部など(戦後) |
進歩党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月20日、進歩党宮城県支部を結成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507/「仙台市史10 年表」P310
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駐留軍(米軍) |
進駐軍から駐留軍へ |
1952年(S27) |
☆ 駐留軍以前の「進駐軍時代」は → 項目「進駐軍(米軍)」参照
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、対日講和条約発効し、連合国軍(米軍)の日本占領終る / 占領軍(進駐軍)だった米軍は、以後は駐留軍として日本に基地を置く
* 1955年(S30)4月15日、駐留米軍、労務者250人を解雇し社会問題化
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「重訂 宮城県郷土史年表」P578
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東邦生命ビル |
進駐軍が接収(CIDなど) |
1946年(S21) |
・第一徴兵保険が戦後、東邦生命と改称され、仙台支店ビルは、「第一徴兵館」から「東邦生命ビル」に名称変更
・南町(芭蕉の辻の南)にあった
青葉通り開通後は、青葉通りと南町(国分町通り)の東南角になった
* 仙台空襲(1945年7月)で焼け残る
* 1946年(S21)2月、米軍が接収(当初はAmrican post officeが使用)
* 1947年(S22)6月頃からは、進駐軍のCID(軍事犯罪捜査機関 Criminal Investigation Command)が規模拡大により、東邦生命ビルに移転、
* 1952年(S27)7月、接収解除
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「宮城県警察史 第二巻」P30
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44-37、18-21、22-07
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進駐軍(米軍) |
進駐軍専用列車 |
1945年(S20)10月~1952年(S27)2月 |
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46
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敗戦後の諸相・仙台 |
進駐軍相手の「特殊慰安施設」 |
1945年(S20)秋~1946年3月 |
<特殊慰安施設>
「特殊慰安施設」(RAA)は、占領軍向け性的慰安施設で、内務省の指令で警察が中心となって仙台や県内各地につくられた
・仙台では、小田原の公娼貸座敷業11軒、東八番丁の私娼料理屋11軒が、進駐軍の「性的慰安」に対応させられた
・小田原中江南にあった造兵廠の挺身隊寮が改造され特殊慰安施設とバー・キャバレー、ビリヤード場、ダンス・ホールを一体化した巨大な料理店兼遊興場となった / ここには、酌婦300名、女給・ダンサー100名がいたというが、警察の資料では100名が慰安婦だったという
・ 「特殊慰安施設」は、施設に出入りした兵士に性病が急増したことや米国本土の世論の反発によって、1946年(S21)3月にすべて廃止となった (以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 仙台料理店組合では「国際料理店」(有志でバー、キャバレー、球つき場、特殊慰安所を総合した施設)の敷地選定を急ぎ、仙台市小田原に設けられた(酌婦300人、女給・ダンサー100人)(以上、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68)
・ 進駐軍将校のパーティーへ芸者派遣要請あるも、応じる女性なく、責任者が謝りに会場へ / 翌日米軍から警察部長に出頭命令(「番丁詳伝」P158)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P326/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68/「番丁詳伝」P158
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郵便馬車 |
運行開始 |
1884年(M17) |
* 1884年(M17)12月、仙台~東京間の運行開始
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「仙台市史 年表」P85
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仙台臨海鉄道 |
運行開始 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)10月、貨物専用線の私鉄「仙台臨海鉄道」営業開始 / 陸前山王始発、駅は仙台港・仙台北港・仙台埠頭・仙台西港
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「仙台市史 年表」P150/Wikipedia「仙台臨海鉄道」(2020年6月)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201
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戦後教育・仙台 |
道徳の時間/特殊教育/視聴覚教育 |
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<道徳の時間>
* 1958年(S33)月日、学校教育法一部改訂、小中学校に「道徳の時間」特設
<特殊教育>
* 1955年(S30)~1956年(S31)、七郷地区小・中学校に精薄学級開設
・ 仙台市の特殊学級設置経過一覧表(S30~S44)、精神薄弱、肢体不自由、言語障害、病弱、難聴の5種
→ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P350
<視聴覚教育>
・ 戦後まもなく、アメリカ文化センターの所有のUSIS映画の活用、16ミリ映写機の全学校配布
* 1959年(S34)、仙台市小学校フィルム・ライブラリー設置
・ 学級にテレビ導入し、NHK学校放送番組を活用
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P348~350、361~362
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「市民の戦後史(仙台市)」P88(七郷小学校の特殊学級)
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宮城県旗の図案 |
選定 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日、県旗図案を全国的に公募、みやぎの「み」を図案化した作品が当選
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「重訂 宮城県郷土史年表」P626~627
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医療機関 |
避病院/仙台市伝染病院 |
1881年(M14)/1895年(M28)/1899年(M32) |
* 1881年(M14)、仙台市に腸チフス流行、外記丁の宿舎にチフス患者を収容する避病院開設
* 1882年(M15)、コレラ大流行し、台原にも避病院開設
* 1890年(M23)、コレラ発生し、北山称覚時に患者を隔離
* 1895年(M28)、日清戦争帰還兵が持ち込んだコレラが全国的に流行、仙台でもコレラ罹患した兵隊を小田原避病院(宮城野原につらなる原野の一角に避病院設置)に収容、軍では鷺ヶ森にも避病院つくり、善応寺、仙岳院も避病院として使用
* 1899年(M32)4月1日、仙台市、東九番丁の孝勝寺裏の伊達家の土地1800坪に「仙台市避病院」を整備し患者を収容 / のち、1922年(T11)に「仙台市伝染病院」と改称
→ 項目「医療機関」の小項目「仙台市立榴ケ岡病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P395/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P717/「仙台市史 年表」P90
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山形自動車道 |
部分開通 |
1988年(S63)~ |
* 1981年(S56)4月15日、国道286号笹谷トンネル(笹谷IC ~ 関沢IC)開通(3,385m)
/ 山形自動車道の笹谷IC~ 関沢IC間は、開通当初は国道286号のバイパス有料道路(笹谷トンネル)として供用されたが、4車線化後、1998年(H10)に高速自動車国道に格上げされて、山形自動車道に繰り入れられた
* 1988年(S63)10月13日、村田JCT~宮城川崎間、開通(110.4キロ)
* 1989年(H1)7月26日、山形北~寒河江間、開通
* 1990年(H2)10月4日、宮城川崎~笹谷峠間、開通
* 1991年(H3)7月31日、関沢~山形北(14キロ)開通(これで、村田JCT~寒河江間が全通)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P126、P252、P268、P270
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東北自動車道 |
部分開通/全線開通 |
1973年(S48)/1986年(S61) |
* 1970年(S45)5月20日、東北縦貫自動車道、起工式(蔵王町で)
* 1973年(S48)11月27日、仙台南~白石間、開通
* 1975年(S50)4月1日、仙台南インターチェンジ~岩槻間、開通
* 1975年(S50)11月28日、仙台南~泉インターチェンジ間、開通、同日に仙台宮城インターチェンジ開業
* 1976年(S51)12月9日、泉~古川インターチェンジ間、開通(29キロ)
* 1977年(S52)11月15日、古川~築館間開通(16.1キロ)
* 1978年(S53)12月2日、築館~一関間開通(岩槻~盛岡間全面開通)
* 1982年(S57)3月29日、若柳金成インターチェンジ完成
* 1986年(S61)7月30日、十和田~碇ヶ関間使用開始(浦和~青森間開通)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P660/「仙台市史 年表」P129、P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P24、P39、P47、P61、P74、P89、P93、P95、P208/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P72
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「新・目で見る仙台の歴史」P198(東北自動車道上下線、カラー)
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戦災復興事業 |
都市計画道路 |
1946年(S21)~ |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P251~252】
* 1946年(S21)11月、中心部の19本の都市計画道路、国の復興院が承認
・ 当初計画は、青葉通り、広瀬通りともに幅員50m → 予算の関係で、50m幅は青葉通りの仙台駅前から東二番丁まで、それ以西の青葉通りと広瀬通りは幅36mに変更(これまでの最大幅員は南町通りの23mだった)
・ 都市計画道路での正式名称は、青葉通りは「仙台駅-川内二の丸隅櫓線」、広瀬通りは「元寺小路-立町・川内線」
* 1947年1月、河北新報社が愛称を募集し、応募6000通以上から、「青葉通」「広瀬通」「西公園」「中央公園」と決定 / 中央公園は定着せず、「勾当台公園」が定着
* 1950年(S25)、青葉通り、広瀬通り完成したが、まだ未舗装で、強風に砂塵舞い上がり、雨降れば泥んこ道となるので「青葉砂漠」「広瀬たんぼ」と悪口を言われた
・ 東二番丁通りも幅員50m(江戸時代以来幅員は8mだった) 6倍以上に拡張したのは防火帯とするため(江戸時代から昭和30年代まで市中心部で、蔵王おろしの西北風邪が吹く12月~3月の間にたびたび大火があった)
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324】
<幹線街路計画>
* 1946年(S21)11月決定、25路線、幅員(50~15m)、延長5万894m(うち、復興事業関係は23線)
* 1954年(S29)、16路線(1万9103m)に計画変更
→写真データベースの98-026に「一覧表と一覧地図」(路線名、起点、終点、幅員など記載)
* 16路線中、清水小路光禅寺線以外は、S35年度までに完了
・ その後、清水小路光禅寺線は起点部分221mを除外
<グリーンベルト設置>
・ 幅員27m以上の街路に植樹帯造成
・ 7路線(青葉通、東二番丁線、細横丁線、長町堤町線、定禅寺錦町線、狐小路連坊小路線)は車道の両側または中央にグリーンベルト(木と芝生)
・ 11路線の一部歩道に街路樹植栽(上記7路線+多門通常盤丁線、北目町通線、北二番丁線、勾当台通)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P251~252/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324
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・S29年に決定した「戦災復興事業の都市計画街路一覧表と一覧図」 →写真98-026
/「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅された細横丁(晩翠通り)
/「市民の戦後史(仙台市)」P60(拡幅工事中の細横丁)
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軍馬の銅像 |
金属回収で供出 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
・ 桜ケ岡公園(西公園)にあった
・ 軍馬の銅像は当時の公園の平面図に「日露役殉死軍馬銅像」と表記されている
・ 戦時中の金属回収でS18年か19年に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた
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「仙台市史 本編2」P371
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99-120、53-63 /桜ケ岡公園(西公園)の公園の平面図は、98-074
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空襲(釜石艦砲射撃) |
釜石製鉄所を攻撃、市街地壊滅 |
1945年(S20)7月14日、8月9日 |
<釜石に艦砲射撃、773人が犠牲>
・ 岩手県釜石の日本製鉄釜石製鉄所が2度の艦砲射撃を受け、市街地は壊滅し、773人が死亡 / 昭和20年7月14日は米軍艦隊から、8月9日は米英両艦隊から5000発以上の砲弾を撃ち込まれた / 気仙沼(釜石から40キロの距離)でも、ドーンドーンと鈍い不気味な音が何度も聞こえ、大地がぐらぐら地響きをたてて揺れた(「戦争のころ 仙台、宮城」P236~237)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236~237
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大橋(広瀬川) |
鉄橋架橋 |
1892年(M25) |
* 1892年(M25)8月24日、大橋の鉄橋竣工す(「仙台城」P233)
* 1892年(M25)8月、木橋流失後に第二師団の強い要請で鉄橋に架け替え(M23年9月起工、ハウトラス式鉄橋)
「仙台はじめて物語」P289では、鉄材ベルギー製の鉄橋完成、1895年(M28)8月24日と記載
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233/「重訂 宮城県郷土史年表」P292/「仙台年表」P167/「仙台あのころこのころ八十八年」P239/「宮城県の百年」 P11/「新・目で見る仙台の歴史」P134/「仙台市史 年表」P88
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鉄橋は、99-102、99-103、44-23、99-104、99-105、64-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図56
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澱橋(広瀬川) |
鉄橋架橋/新たな橋架設 |
1892年(M25)/1951年(S26)? |
* 1889年(M22)9月10日・11日、大雨で広瀬川が氾濫し澱橋・大橋・広瀬橋が流失
* 1892年(M25)10月11日、大橋とともに鉄橋に架け替えられる
* 1951年(S26)11月、新たな橋に架け替え / 橋長137m、橋幅12m
* 1961年(S36)11月28日、新たな澱橋が完成、渡り初め式
(「重訂 宮城県郷土史年表」P602 / S26年架け替えの橋と混同か?)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412~413/「仙台市史 年表」P87、P88/「重訂 宮城県郷土史年表」P602
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「目で見る仙台の歴史」P130に、「澱橋」(撮影年代不詳)
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文字・漢字の表記 |
鉄道駅 |
1940年(S15)/1945年(S20) |
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P35
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