仙台よみとき用語年表
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日米野球 米大リーグ選抜対全日本選抜  1934年(S9)  * 1934年(S9)11月9日、八木山球場で、「米大リーグ選抜と全日本選抜」が対戦、ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ  「仙台市史 年表」P107   
日米野球 米大リーグ選抜対巨人軍  1951年(S26)  * 1951年(S26)10月25日、日米親善野球、米大リーグ選抜対巨人戦、宮城県営野球場で開催 / オドール監督以下ディマジオ兄弟ら  「仙台市史10年表」P326/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469   
日米野球 米大リーグ選抜対明治大学  1931年(S6)  * 1931年(S6)11月10日、八木山球場で、「アメリカ大リーグ選抜(グローブ投手やゲーリッグら)対明治大学チーム」の日米野球試合(米13-明治2)が行われた
 (【「仙台はじめて物語」P235~241】に詳述あり) 
「仙台はじめて物語」P235~241/「重訂 宮城県郷土史年表」P428/「仙台年表」P202   98-064 (「新・目で見る仙台の歴史」P155の米チーム一行記念撮影と同じ) 
霞目飛行場(仙台飛行場) 米軍接収、自衛隊基地  1945年(S20)9月/1957年(S32)12月  <戦後は一時、進駐軍(米軍)が進駐・使用>
 * 1945年(S20)9月、米軍が接収し、飛行場として使用(レニアフィールドと称す)
 ・落下傘部隊の駐屯地になった(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
 * 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還

<接収解除後は自衛隊>
* 1957年(S32)12月10日、陸上自衛隊の飛行場として使用開始(「仙台市史 年表」P120) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「重訂 宮城県郷土史年表」P585/「仙台市史 年表」P120/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155  戦後の接収時代は、62-0662-07 
仙台空襲 米軍機、テニアン島を発進 / 警報発令  1945年(S20)7月9日  <仙台空襲(米軍機発進)> 
* 1945年(S20)7月9日午後5時14分、マリアナ諸島テニアン島の西基地から、第58航空団B29爆撃機123機が離陸(1機は離陸に失敗し離脱) / 午後11時半すぎ、千葉県房総半島沖に到達、福島県相馬市松川浦上空からやや西に転じ亘理、岩沼を経て仙台へ

<警報発令> 
* 1945年(S20)7月9日午後9時30分、東北南地区(宮城、福島両県)に警戒警報発令、10時22分に解除(仙台周辺の天候、風向き観測のため飛来したB29(1機)に対応した警報だった) 
* 大編隊に対しては空襲警報発令が遅れた
午後10時56分警戒警報発令、10日午前零時5分に空襲警報発令され、仙台では市役所屋上からのサイレンが4回鳴ったところで途絶える(すでに空襲始まっており、爆撃で電線が切断されたため) / 警報が遅れたのはこの夜の当番の判断ミス 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210~212   
仙台空襲 米軍機が偵察 / 米軍が空襲予告 / 空襲前日に高射砲陣地構築 / 警報発令の体制  1945年(S20)5月~7月9日  <仙台空襲の前触れ>
* 1945年(S20)5月25日、米軍F13A(写真偵察機)、仙台市街地を撮影
* 米軍が事前に空襲予告(日本むけ米軍短波放送で「7月9日、仙台にお邪魔しますから疎開するように」と繰り返し放送 / 空襲予告ビラを投下「仙台よい町森の町 七月十日は灰の町」など / 空襲前日にも上空からビラを撒き予告

<前日に高射砲陣地構築>
* 1945年(S20)7月9日朝早く、仙台駅に軍用列車で高射砲21門、探照灯18基と、高射砲隊(2個大隊)が到着 / 列車は長町操車場へ回送、長町諏訪と広瀬川河畔の飯田団地、原町の現NHKアンテナ付近に高射砲陣地を構築(「戦争のころ 仙台、宮城」P210)

<警報発令の体制> 
・ 東北軍管区司令部防空作戦室(仙台市川内)が新潟を含む東北7県の防空を担当 / 軍人や女子防空通信隊ら100人が交代で勤務 / 各県の防空監視哨から警察を通じて敵機の動静が電話で入ると、空襲警報が作成され、隣の部屋に待機している日本放送協会のアナウンサーに渡され、ラジオで警報が放送される仕組み(「戦争のころ 仙台、宮城」P212) 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P207~P210、P212   
進駐軍(米軍) 米軍鉄道輸送司令部(RTO仙台)  1945年(S20)~1952年(S27)  米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務

仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
→ 項目「RTO(仙台)」参照 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P328  16-2298-09944-52/「目で見る仙台の歴史」P173 
芭蕉の辻の洋館 精養軒が使用  1929年(S4)~1941年(S16)  * 1929年(S4)~1941年(S16)、精養軒(洋食レストラン)が使用    99-02622-3364-0599-028/地図は98-110 
祝賀行事 紀元2600年  1940年(S15)    → 項目「紀元2600年」参照     
博覧会・フェア 紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会  1940年(S15)  * 1940年(S15)4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)  「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15   
仙台七夕 終戦直前、1本の七夕飾り/戦後復活七夕第1号  1945年(S20)/1946年(S21)  <終戦直前、1本の竹飾り>
* 1945年(S20)8月5日、「広島へ原爆が投下されたその前日、(仙台空襲で焼け残った)一番丁三越前に一本の青竹が風に吹かれていた。近寄ってみると、それは申し訳のように、五色の細く切った紙がつるしてある。仙台に育った私に、いままでこれほど美しいと思ってみた七夕竹はまだなかった。」(一番丁一丁目の瀬川善太郎氏の回顧 / 「番丁詳伝」P156より)

<敗戦翌年、東一番丁で七夕復活>
* 1946年(S21)8月5日、敗戦の翌年夏に東一番丁通りの森権五郎さん(森天祐堂)が仙台で一番早く自分の店の前に七夕飾りを出した
* 1946年(S21)8月6日~7日、東一番丁で商店52軒が一斉に七夕飾りをあげる
・ 戦争が続いて仙台七夕は昭和12年を最後に途絶えていた。
・ S20年7月、仙台は米軍による空襲で市中心市街地500ヘクタールが灰燼に帰すが、敗戦翌年のS21年8月、東一番丁の焼け跡に戻って商売を再開した商店主たち52戸(当時の全戸)が、バラック建ての商店街で市内のトップをきっていち早く七夕飾りを掲げ、多くの市民が見に訪れた / 森さんがトラックで近郊から竹を手に入れ運び、52軒に配った / 市民による戦後復興の狼煙となった
【「番丁詳伝」P156】より 「昭和21年は、新円切換えや農地改革が行われ、食糧事情は極度に悪化して生きることに汲々としていた混乱の時であった。(空襲の)焼け跡がまだだいぶ残り、歯の抜けたようにまだ軒並みも続かない東一番丁だった。 (8月)7日付けの河北新報は「十年ぶりの七夕祭り涙の出るほど懐かしい」の見出しで紙面をさいたが、これは復興に活を入れるとの心意気で東一番丁の人々が相はかって企画したので、荒れすさんだ生活となにもない欠乏時代の市民に一抹の清涼剤となった。(中略)52本の七夕飾りが取り去られた8月中旬、東一番丁旧一力邸跡で盆踊り、また広瀬川に5年振りで灯篭流しが行なわれるというように、この年の夏の行事は平和をとりもどした喜びの祭りとなった。」

<参照> 仙台七夕の概要は、当サイト内、写真データベースの【解説】E 「仙台七夕」
 
「森権五郎さんの手記」/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史年表 10 年表」P313/「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「番丁詳伝」P156

 
53-12(森さんが掲げた戦後七夕第1号) /「市民の戦後史(仙台市)」P33(東一番丁・戦後復活した七夕に集まった人々) /戦前・戦後の七夕は、写真分類E「仙台七夕」の全写真 
大日本連合婦人会 結成  1931年(S6)  * 1931年(S6)、文部省系の大日本連合婦人会、結成
* 1931年(S6)2月7日、宮城県連合婦人会、結成

<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された)  →項目「大日本婦人会」参照 
「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P202(出典:毎日新聞)   
女子挺身隊 結成  1944年(S19)  ・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P177)  

* 1944年(S19)
   3月、仙台市内の女学校で女子挺身隊の結成が相次ぐ
   3月10日、県下女子挺身隊、各工場に配置
   3月12日、県下女子中等学校挺身隊壮行式(宮城県第一高女で)
   8月23日、女子挺身勤労令公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)
   11月2日、宮城県女子学徒勤労義勇隊壮行式(宮城県第一高女で)
   11月10日、厚生省、女子徴用実施、女子挺身隊の期間1年延長通牒 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P177/仙台市史 年表」P113/「仙台年表」P213/「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P500/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21  「仙台市史 特別編4 市民生活」P316(婦人も軍需工場で弾丸検査) 
仙台専門店会/日専連仙台会 結成/改称  1935年(S10)/1957年(S32)  * 1935年(S10)6月24日、仙台市内の有力専門店が、百貨店に対抗し任意組合「仙台専門店会」を結成
* 1936年(S11)10月8日、日本専門店連盟(日専連)発足し、仙台専門店会も加盟
* 1938年(S13)5月、日専連第2回全国大会、仙台で開催
* 1940年(S15)、日専連解散(戦時中断)/8月29日、仙台専門店会も解散
* 1950年(S25)5月、日専連再結成
* 1951年(S26)11月16日、仙台専門店会、日専連に再加盟
* 1957年(S32)5月、第12回日専連全国大会、仙台で開催
* 1957年(S32)8月29日、協同組合日専連仙台会と改称(「宮城県百科事典」P818では、昭和33年6月に改称)
* 1959年(S34)、日専連仙台会、東一番丁にデパート式の総合店舗を開店(中小企業の集団協業化として注目される)
* 1981年(S56)6月、第36回日専連全国大会を仙台で開催 
「JA宮城中央会」HPの「宮城野協同組合略史」(年表)/「仙台市史10 年表」P286、P299/「仙台市史 年表」P108/「宮城県百科事典」P818/「重訂 宮城県郷土史年表」P594/「市民の戦後史(仙台市)」P98  「市民の戦後史(仙台市)」P98(S32年日専連全国大会、東一番丁通りでのイベント)  
国民義勇隊 結成~解散  1945年(S20)  Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」

* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)(岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21)
竹槍は1945年(S20年)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた

* 1945年(S20)3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された(「日録20世紀 1945年」P16)

* 1945年(S20)6月22日、国民義勇兵法施行(男15~60歳、女17~40歳に義勇兵役の義務)(「仙台市史10 年表」P309)

* 1945年(S20)8月15日、天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)、第二次世界大戦終る (岩波P24)
* 1945年(S20)8月21日、国民義勇隊を解散(「菅家年表」P34)
 
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21、P24/仙台市史10年表」 P309/「菅家年表」P34/「日録20世紀 1945年」P16   
釜房湖(ダム) 給水開始  1970年(S45)  釜房ダムは貯水量4500万トン、仙台市と周辺市町村に飲料水1日20万トンと工業用水10万トン供給、洪水調節、発電などの多目的ダム

* 1966年(S41)、釜房ダム建設開始
* 1970年(S45)7月10日、川崎町の釜房ダム、給水開始
* 1973年(S48)12月、釜房湖畔に、レジャーランドのバリハイセンターがオープン
* 1976年(S51)6月22日、湖畔に「鎮魂の碑」除幕
* 1978年(S53)10月15日、釜房湖畔公園誕生
* 1984年(S59)9月15日、湖畔で国営公園起工式 
「市民の戦後史(仙台市)」P219/「重訂 宮城県郷土史年表」P662/「続・ 宮城県郷土史年表」P25、P86、P181  「市民の戦後史(仙台市)」P219(工事現場俯瞰、導水路トンネル) 
一番町(旧・東一番丁)全域 総説    一番町は南から北へ、1~4丁目まであるが、商店街としての一番町は2丁目以北で、3つの商店街で構成されている。 武家の町だった東一番丁が、明治期以降は次第に商店がつらなる繁華街となり、仙台を代表する商店街「東一番丁」となった。 1970年(S45)2月の新住居表示で、「一番町」となる。  <参照>旧町名と新住居表示実施後の新町名の対比、実施年月日は、仙台市HPの 「旧町字名(地区名)一覧表と旧・新住所対照表(五十音順)」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/ichiran.html    
仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 緑の団地条例  1982年(S57)   → 項目「緑の団地条例」参照     
大型店・量販店 緑屋  1959年(S34)~1982年(S57)  * 1959年(S34)、緑屋東一番丁店がオープン(青葉区一番町4-5-13 サンシャインビル内)、S57年に閉店
* 1967年(S42)3月、東北ビル完成し、緑屋仙台駅前店が開店(「わが心の仙台駅前史」年表)
* 1977年(S52)5月20日、仙台駅前店オープン(「続・ 宮城県郷土史年表」P68)(青葉区中央1-9-1新東北ビル内) / Wikipediaでは、1967年(S42)開店 - 1982年(S57)閉店
* 1982年(S57)3月8日、西部クレジットが、緑屋東一番丁店と仙台駅前店を閉鎖(「続・ 宮城県郷土史年表」P143) 
「わが心の仙台駅前史」年表/Wikipedia「緑屋」/「続・ 宮城県郷土史年表」P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P143  東一番丁店は、31-16(マークのみ見える) 
第三十三師団 編制  1939年(S14)3月~1945年(S20)  * 1939年(S14)3月、仙台市で編制、通称号は「弓兵団」

【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より要約】1939年3月編成完結、武漢地区警備などに従事していたが、太平洋戦争開戦後は南方に転用。1942年2月ビルマ作戦、1944年3月インパール作戦、1945年1月イラワジ会戦などに参加。1945年5月中旬以降テナデリゥム地区の守備に従事。
* 敗戦時は、ビルマのタンザビア(「仙台市史 続編第1巻」P64) 

<「戦争のころ 仙台、宮城」P31~32、P68>
「日中戦争で、中国に派遣された郷土部隊は第二師団、第十三師団、第三十三師団の三個師団。第三十三師団(甘粕重太郎師団長)は中国中部に派遣、宇都宮と仙台の部隊で構成していました。」
「第三十三師団は太平洋戦争では、1942年(S12)2月、第五十五、第五十六、第十八の各師団とともに、中国から国境を超えてビルマ(現ミャンマー)に進撃。6月までに全土から敵を掃討しました。英国の植民地だったビルマの北部は連合国が中国国民党政府へ戦略物質を送る輸送路になっており、遮断と英国植民地のインドを英国から離反させるもくろみがありました。 最初のうちは火砲、弾薬も十分でないまま戦闘が続き、分厚い装甲の英国戦車に悩まされましたが、得意の夜襲、航空部隊の空襲、それにビルマ人の協力もあって、数十倍の英国軍、インド軍を破ることができました。」 
国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P31~32、P68   
第四十二師団 編制  1944年(S19)2月~1945年(S20)  * 1944年(S19)2月1日、第四十二師団(通称号は勲兵団)、仙台において編制

【Wikipedia「第42師団」】 留守第二師団と第62独立歩兵団を基幹に仙台に於て編制
 
【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より転記】 1944年2月、仙台において臨時編成。その後、中千島の得撫島(ウルップトウ)に移動し同地の防衛に任ずる。1945年4月、稚内に移駐し当地の防衛を担当しそのまま終戦を迎えた。1945年9月17日稚内にて復員
* 終戦時は、主力は北海道宗谷、一部は南千島(「仙台市史 続編第1巻」P64)

・ 千島からシベリア抑留 / 昭和17年6月に新潟県高田で編成され、のち仙台榴ヶ岡連隊兵舎に入った歩兵第130連隊が、昭和19年に第四十二師団に編入されて千島のウルップ(得撫)島に出動、その後北海道に転進したが、このうち第三大隊がウルップ島に残っていたため、ソ連軍にシベリアに連行された / 第三大隊はウルップ島に向かう途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、生存者が残留を命じられたもの(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
・ 歩兵第130連隊はソ連軍によってシベリアに連行され、5年後に帰国 / シベリア抑留中に死亡し身元が確認された宮城県出身者は806人(「戦争のころ 仙台、宮城」P238) 
「仙台市史 年表」P113/Wikipedia「第42師団」/国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P238   
第十三師団 編制  1937年(S12)9月~1945年(S20)  * 1937年(S12)9月9日、日中戦争勃発(同年7月7日)により急きょ、仙台において編制される(第二師団留守部隊を根幹とする十三師団=青葉師団)
* 1937年(S12)9月24日、宮城県人を中心に編制された歩兵第104連隊(十三師団隷下)が仙台から「出征」

・出動に際し仙台に集まる将兵は市内の民家に分宿した
・第十三師団は、上海上陸、南京攻略、徐州占領、大別山越え、宣昌作戦、大陸打通作戦と、日中戦争・太平洋戦争期を通して中国大陸を転戦、敗戦時は華南にあった(「仙台市史 続編第1巻」P64)

・大陸打通作戦は、1944年(S19)4月~45年2月。兵力50万を投入、第十三師団も組み込まれた。作戦距離1500キロ。ねらいは、中国の華北から華南までの鉄道を確保し南方からの資源輸送を船舶から鉄道へ切換え、かつ沿岸の大都市、長沙、衡陽、桂林を占領し、周辺に建設された米軍基地をたたき、北九州地区への空襲を防ぐもくろみだった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P136~137)
* 1945年(S20)8月敗戦時には、中国華南に駐屯(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)

   → 項目「歩兵第104連隊」参照

* 1939年(S14)12月9日、荻洲立平中将(オギス リッペイ)、仙台市公会堂で講演会(荻洲中将の十三師団長在任期間は、昭和12年9月10日~14年8月1日なので、師団長離任後になる)

<「戦争のころ 仙台、宮城」P30~31>
「第十三師団は日露戦争末期に編成され樺太を占領した師団ですが軍縮により廃止されました。日中戦争開戦2か月後に復活、仙台に司令部、仙台、会津若松、新潟県高田に部隊が置かれ、仙台は歩兵104連隊です。」
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P2、P8、P64/「仙台市史 年表」P109/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P184/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P30~31、P136~137、P238   
商店など 繁田園(茶舗)/お茶の井ケ田  1920年(T9) 
* 1920年(T9)、繁田園が国分町で茶舗創業
* 1928年(S3)、東一番丁通りへ移転(住所は大町5丁目)
* 1948年(S23)、『お茶の井ケ田』に改称

ただし、[写真16-41](S25年頃撮影)には、まだ「繁田園」の看板がある 
「お茶の井ケ田」社長の井ケ田徳治氏談/「番丁詳伝」P98  49-0149-0249-03 
老人福祉 老人福祉センター  1967年(S42)  * 1967年(S42)7月20日、仙台市老人福祉センター、亀岡に開所
* 2018年9月現在の仙台の老人福祉センターは、8か所(亀岡、台原、小鶴、高砂、沖野、大野田、郡山、泉中央) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P633/仙台市HPの「老人福祉センター一覧」(2018年9月現在)  「市民の戦後史(仙台市)」P197(老人福祉センター外観、和室で将棋盤を囲む老人たち、踊りの練習) 
老人福祉 老人福祉手帳(豊齢手帳)  1973年(S48)  * 1973年(S48)9月、仙台市が老人福祉手帳を65歳以上の市民に交付
* 1989年(H1)、老人福祉手帳を「豊齢手帳」と改称 
「仙台市史 年表」P128、P136    
高等学校(新制) 聖ウルスラ学院高等学校/聖ウルスラ学院英智高等学校  1959年(S34)/2005年(H17)  <前史>
* 1936年(S11)、カナダから来仙した修道女が北四番丁で家庭学校の前身を創設
* 1940年(S15)、市内木ノ下に修道院を開設
* 太平洋戦争中、修道女たちは拘束され、修道院は軍の無線通信講習所として接収、戦後は戦災を受けた白百合学園に貸与
* 終戦後、修道女たちは一旦カナダに帰国、1947年(S22)に再来日
* S23年に木ノ下に家庭学校、S24年に幼稚園、S25年に小学校開設 / S30年に、一本杉の旧伊達伯爵邸跡に中学校創設

<高等学校>
* 1959年(S34)、学校法人聖ウルスラ学院が高等学校を開校(一本杉の旧伊達伯爵邸跡に)
* 2003年(H15)、一般と特別志学のコース制を導入
* 2005年(H17)、高校の新校舎完成
<校名変更>
* 2005年(H17)、校名を、聖ウルスラ学院英智高等学校に変更 / 特別志学コースを男女共学制とする
* 2007年(H19)、特別志学コースType2を新設し、特別志学コースType1、尚志コースの3コースとする
* 2012年(H24)、校舎一体型の小・中学校と併設型高等学校の一貫教育(4・3・2+3)の実現
* 2017年(H29)、南小泉総合グラウンド完成

 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P530~531   
高等学校(新制) 聖ドミニコ学院高等学校  1960年(S35)  <前史>
* 1931年(S6)、聖ドミニコ女子修道会本部より5人の修道女が来日、仙台に修道院を設立
* 1933年(S8)、 暁の星学院(外国語教育)を設立
* 1937年(S12)、暁の星幼稚園(のちの、聖ドミニコ学院幼稚園)を開園 / 戦争のため一時休園

<戦後>
* 1949年(S24)、私立北仙台幼稚園(のちの、聖ドミニコ学院北仙台幼稚園)を開園
* 1953年(S28)、学校法人聖ドミニコ学院創立、聖ドミニコ学院小学校設立、暁の星幼稚園を聖ドミニコ学院幼稚園と改名
* 1959年(S34)4月、聖ドミニコ学院中学校を開校(S56年、生徒数の減少により休校 / H21年、中学校再開)

<高等学校>
* 1960年(S35)4月、聖ドミニコ学院高等学校を設立(北五十人町、のちの角五郎丁6丁目)
* 1983年(S58)、学院創立30周年 / 新校舎落成
* 2003年(H15)、学院創立50周年
* 2008年(H20)、高等学校のコース制再編(2コースより、特別進学コース、総合進学コース、幼児保育進学コース、キャリアデザインコースの4コースとなる)
 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P531/Wikipedia「聖ドミニコ学院中学校・高等学校」   
高等学校(新制) 聖和学園吉田高等学校/聖和学園高等学校  1948年(S23)/1986年(S61)  <前史>
* 1930年(S5)4月8日、宮城県仏教会が吉田高等女学校開設(東三番丁の東本願寺別院が仮校舎)
* 1930年(S5)9月、木ノ下旧国分寺薬師堂隣接地に新校舎建築し移転
* 1936年(S11)、財団法人吉田高等女学校認可

<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)、新制高等学校を設置、聖和学園吉田高等学校と改称し、吉田中学校も併設
* 1951年(S26)、学校法人聖和学園設立認可
* 1978年(S53)、創立時建設の高等学校木造校舎解体
* 1979年(S54)、中学校廃校
* 1980年(S55)、創立50周年記念式典挙行並びに講堂兼体育館及び管理棟落慶式
* 1986年(S61)、聖和学園高等学校と改称
* 2003年(H15)、薬師堂キャンパス竣工、三神峯キャンパス竣工、男女共学制開始、5コース制導入
* 2006年(H18)、全コース男女共学
* 2010年(H22)、創立80周年記念式典 
聖和学園高等学校HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529/聖和学園高等学校HP   
大学・短大 聖和学園短期大学  1951年(S26)~  ・一宗一派にかたよらない一般的仏教主義を教育の根本方針とする

* 1951年(S26)4月1日、開校(国文科・被服科)
* 1957年(S32)、被服科を家政科に科名変更
* 1962年(S37)、保育科増設
* 1976年(S51)、木ノ下校地に新校舎完成
* 1987年(S62)、泉区南中山に新校舎完成、キャンパス移転
* 1993年(H5)、被服科を生活文化科に科名変更
* 1997年(H9)、保育科が保母養成所に指定認可
* 2003年(H15)、人間コミュニケーション学科を設置
* 2005年(H17)、キャリア開発総合学科を設置
* 2007年(H19)、保育福祉学科を設置
* 2016年(H28)、保育学科を設置 
「聖和学園短期大学」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/「続・ 宮城県郷土史年表」P246/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P544  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P544 
スパイクタイヤ粉塵公害 脱スパイクタイヤ推進  1981年(S56)~1986年(S61)  * 1981年(S56)1月27日、「河北新報」への投書が発端
* 1982年(S57)、仙台弁護士会、道路粉塵問題小委員会が検討開始
* 1982年(S57)10月、仙台市消費者協会、粉塵公害追放運動展開 / 仙台など各都市でスパイクタイヤ自粛運動
* 1982年(S57)11月2日、仙台市宮町商店街は、粉塵公害スパイクタイヤ自粛決議
・ 中江商工振和会、仙台ゴミ追放婦人ロビー、環境運動団体などが脱スパイク運動
* 1982年(S57)11月22日、多賀城市はスパイクタイヤ使用自粛指示
* 1983年(S58)6月13日、仙台市、スパイクタイヤ対策本部を発足
* 1983年(S58)9月11日、宮城県がスパイクタイヤ対策本部発足
* 1983年(S58)11月18日、仙台市交通局、全車スパイクタイヤ廃止で労使双方合意
* 1983年(S58)12月、市民による「脱スパイクタイヤ推進モデル地区」で折立地区を指定(ピン抜きや積雪時の門前雪かき)
* 1984年(S59)1月20日、仙台市が、粉塵汚染で緊急事態宣言
* 1984年(S59)3月16日、名取市でタイヤのピン抜き所開設
* 1985年(S60)ころ、仙台市民によるスパイクタイヤのピン抜き活動が盛んになる
* 1985年(S60)8月22日、仙台タクシー協会、スパイクタイヤ全廃方針たてる
* 1985年(S60)10月、高橋栄(八木山本町)が、無公害スパイクピン実用化
* 1985年(S60)12月5日、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制)
* 1986年(S61)4月1日、宮城県脱スパイク条例施行 / 仙台市動物園など24施設で、脱スパイク無視車駐車禁止作戦
* 1988年(S63)6月2日、スパイクタイヤ、1990年12月までに製造を中止 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P543~544/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P58/「仙台市史 年表」P133、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P152、P153、P166、P168、P172、P174、P194、P196、P197、P198、P204/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P84
 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業) 
伝染病流行 腸チフス  1909年(M42)  * 1909年(M42)、仙台で流行  「仙台市史 年表」P94   
自動車など各種車両台数 自動車と人力車(全国)大正・昭和の台数  T1、T4、S3  <「生活の変わりようをみる昭和の年表」P9>
・ 全国の自動車台数 
    1922年(T1)、760台
    1928年(S3)、6万台
・ 全国の人力車
    1922年(T1)、12万7千台 
    1928年(S3)、 6万2千台

<「日録20世紀 1915年」P35>
・ 全国の自転車
    1915年(T4)年末、62万台、
・ 全国の人力車
    1915年(T4)年末、12万台  
【菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P9/「日録20世紀 1915年」P35   
自動車など各種車両台数 自動車台数(仙台市内)  1926年(S1)~1985年(S60)  * 仙台の車(昭和10年頃)(「仙台の産業と観光」P27)
  ・ 自動車695台(乗用572台、貨物123台)
  ・ サイドカー35台、オートバイ109台  

* 仙台の自動車台数(出典調査中)
 →数字は、自動車台数(乗用車台数、貨物自動車等台数)
  ・1926年(S1)、 256台(221、35)
  ・1935年(S10)、 704台(578、126)
  ・1945年(S20)、1350台(436、914)
  ・1955年(S30)、4348台(920、3428)
  ・1965年(S40)、2万3602台(8302、1万5300) 

* 終戦前後、仙台市内にあった自動車台数(「仙台市史 続編1」P88)
→数字は(乗用車台数、貨物自動車等台数)
  ・1943年(S18)、自動車(496、804)
  ・1944年(S19)、自動車(448、606)
  ・1945年(S20)、自動車(436、914)
  ・1946年(S21)、自動車 (23、376)

* 仙台市内、乗用車保有台数(「仙台市史 特別編4 市民生活」P217)
  ・1975年(S50)、 6万8000台
  ・1985年(S60)、15万3000台   
「仙台の産業と観光」(S10年、仙台市役所刊)P27/「仙台市史 続編1」P88/「仙台市史 特別編4 市民生活」P217  S11~15年頃は、53-8853-9234-08 / 戦後は、20-07(S38)、22-13(S43) 
自動車など各種車両台数 自動車台数(宮城県内)  1912年(T1)/1918年(T7)/1925年(T14)/1926年(T15)  * 1912年(T1)10月、仙台市内で初めて乗合自動車の営業始まる(「仙台あのころこのころ八十八年」P242)
* 1918年(T7)、宮城県内で、自動車6台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
* 1925年(T14)、宮城県に168台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
* 1926年(T15)、宮城県に455台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P215) 
「仙台あのころこのころ八十八年」/P242「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P215   
電話 自動車電話  1983年(S58)  * 1983年(S58)3月25日、仙台地区で自動車電話スタート  「続・ 宮城県郷土史年表」P160   
仙台市の消防 自治体消防以前  明治~昭和21年  * 明治初期、町火消組織化
* 1919年(T8)、南町大火で700戸焼失

<常備消防>
* 1924年(T13)、国分町の仙台警察署内に消防車2台、班員8人を常置
* 1927年(S2)、第二常備班(荒町)開設
* 1935年(S10)、常備消防部設置 / 第一常備部を「仙台常備消防本部」へ、第二(荒町)、第三(原町)、第四(長町)の各常備班を「分遣所」へ改称

<警防団の常備消防部となる>
* 1939年(S14)、警防団令公布 / 消防組は、民間防空組織の「防護団」と合して「警防団」と改称され、「仙台警防団常備消防部」となる
* 1944年(S19)4月、仙台南警察署開設とともに「南警防団常備消防部」設置
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、北常備消防部と狐小路分遣所が消失 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P814~815   
警察(戦後) 自治体警察  1948年(S23)2月~1954年(S29)6月  <戦後の警察官>
* 1920年(S20)秋~1946年(S21)11月、警察官は識別を容易にするため、上部に「警察」、下部に「POLICE」と書かれた白布腕章をつけたが、1年有余後に汚損等外観上不体裁ということで廃止(「番丁詳伝」P151)
* 1946年(S21)1月、GHQ覚書により、警察官、佩刀とりさられて丸腰に(かわりに警棒) / 特別に拳銃形態の場合あり(「仙台市史」本編2」P654)
* 1946年(S21)12月24日、仙台北警察署に初の婦人警察官11名配属(「番丁詳伝」P151)

<自治体警察>
* 1947年(S22)12月17日、警察法公布(地方分権化・民主化を目的に国家地方警察・自治体警察設置)(岩波ブックレット「年表 昭和史」P26)
* 1947年(S22)12月22日、宮城県警察部の機構改正 / 従来の警察署が、「地区警察署」と「市町村警察署」の2本立てとなる / 地区警察署は、仙台地区警察署以下19ケ署 / 市町村自治体署は、仙台市北署以下41ケ署を新設(重訂 宮城県郷土史年表P523)
* 1948年(S23)2月11日、自治体警察発足(重訂 宮城県郷土史年表P525)
* 1948年(S23)3月7日、新警察制度発足、仙台市警察開庁(仙台市史10年表、岩波ブックレット「年表 昭和史」P27、「仙台あのころこのころ八十八年」P250)
* 1948年(S23)3月7日、自治体警察である仙台市警察本部を設立
* 1950年(S25)1月17日、仙台市警察本部庁舎新築落成移転
* 1954年(S29)6月8日、警察法改正公布(国家地方警察と自治体警察を、都道府県警察に一元化、中央集権化を強める)
* 1954年(S29)7月1日、仙台市警察が廃止され宮城県警察に引き継がれる 
「番丁詳伝」P151/「仙台市史」本編2」P654/岩波ブックレット「年表 昭和史」P26、P27、P33/「仙台市史 年表」P115、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P523、P525/「仙台市史10 年表」P318、P323/「仙台あのころこのころ八十八年」P250  「目で見る仙台の歴史」P182(仙台市警察本部)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(仙台市警察本部旗)/「市民の戦後史(仙台市)」P80(S29年6月、仙台地区警察署閉庁式看板) 
自動車など各種車両台数 自転車(仙台市/宮城県内)  1889年(M22)~1935年(S10)頃/1918年(T7)  <仙台市内>
* 1889年(M22)、5台(「番丁詳伝」P63)
* 1897年(M30)、30台(「番丁詳伝」P63)
* 1905年(M38)、213台(「番丁詳伝」P63)
* 1916年(T5)、1652台(「番丁詳伝」P63)
* 1935年(S10)頃、2万1978台(「仙台の産業と観光」P27)

<宮城県内>
* 、1万台を越える(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)   
「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)/「仙台の産業と観光」P27/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193  、 
興亜奉公日/大詔奉戴日 興亜奉公日  1939年(S14)9月~  * 1939年(S14)9月から毎月1日実施 / 酒不買、ネオン消灯、禁酒禁煙、一汁一菜、など / S16年末で廃止、大平洋戦争開戦後のS17年1月からは、毎月8日を「大詔奉戴日」とする
・ 仙台市では、朝5時にサイレンを鳴らして市民に早起きをさせ、全市民に皇居や伊勢神宮への遙拝、戦没者などへの黙祷、日の丸弁当の強制、護国神社の工事に関して働くことや市内の清掃などへの奉仕活動が義務付けられた 
岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P23/「仙台市史 特別編4 市民生活」P313   
ビル建設 興和ビル  1979年(S54)  * 1979年(S54)、青葉通りに面した興和ビル完成 / 地上15階建て、高さ63.8mで、当時は仙台3番目の高さ / 日本興業銀行がある / 建物南側の滝と緑の「フラタニテ・パーク」が市民に開放されている  「番丁詳伝」P211   
精養軒 芭蕉の辻の洋館で営業  1929年(S4)~1941年(S16)  「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
 (1)七十七銀行(M36年~S4年7月18日)のあと
 (2)精養軒(S4年~)
 (3)日本銀行仙台支店(S16年10月10日~)が使用し、
仙台空襲(S20年7月)で焼失した

・ サービスガールは、紺の着物にエンジの帯を締め、白いエプロン姿(「仙台市史 特別編4 市民生活」P85)

 / 注:この精養軒は東京の支店で、明治初年に東一番丁に開業した「精養軒」(牛鍋・洋食)とは関係が無い(「東一番丁物語 明治編」P157) 
柴田量平著「東一番丁物語 明治編」P157/「仙台市史10 年表」P302/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85  99-02622-3364-0599-028/地図は98-110 
仙台市電 芭蕉の辻線(南町支線) 開通~廃止  1928年(S3)4月~1944年(S19)3月  ・ 0.3キロ / 市電南町支線(通称・芭蕉の辻線)
・ 「芭蕉の辻」が終点
  
* 1928年(S3)4月8日開業
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表) / 軌道(レール)は戦時供出(金属回収)のため撤去「仙台市史 特別編4 市民生活」P92) / 資材は、他の路線の補修用にまわした(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
* 1944年(S19)12月10日に休止(「仙台市史 年表」P113)
   → <編者注> この日付は間違いと思われる

「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
 市電「芭蕉の辻線」は昭和3年の東北産業博覧会開催を目途に開通(314m) / 大正12年の案では、芭蕉の辻が終点ではなく、さらに北へ延ばし国分町・二日町を経て北鍛冶町に至る計画だったが結局は実現せず、「芭蕉の辻線」は太平洋戦争中の昭和19年3月末に廃止された 
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)/「仙台市史 年表」P104、P113/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163  22-3353-49/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる芭蕉の辻線のレール)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(終点芭蕉の辻俯瞰) 
明治製菓仙台売店 芭蕉の辻/東一番丁  1927年(S2)~1945年(S20)  <芭蕉の辻>
* 1927年(S2)12月5日、仙台明治製菓売店、芭蕉の辻南西角に開店(出典:「明治製菓40年小史」)
* 1932年7月の七夕写真 99-046 には、芭蕉の辻南西角の明治製菓が確認できる  
(編者注:芭蕉の辻南西角にあった「明治製菓」が昭和10年頃になくなったが、店を東一番丁にだけにした可能性がある)

<東一番丁>
* 1932年7月の東一振興会(東一番丁中央部の商店会)仙台七夕の描写に「明治製菓店の海水浴は自働式に波の上に人が現れたりチョコレートが現れたりするので、子供をよろこばせる事頗る非常」(「わしが国さ」昭和7年8月号P9)→ 遅くとも昭和7年には東一番丁に店があったことがわかる
* 1934年(S9)、仙台明治製菓売店開業(「番丁詳伝」P147)
* 1934年(S9)頃、東一番丁の明治製菓(喫茶)の思い出(→<参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」のID146)  
* 1939年(S14)、明治商事(菓子、食料品、砂糖)東一番丁76に開業(重訂 宮城県郷土史年表P471)」         
* 1945年(S20)7月9日、戦災(仙台空襲)により東一番丁の店を焼失 
粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P33(出典:「明治製菓40年小史」)/「わしが国さ」昭和7年8月号P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「番丁詳伝」P147  芭蕉の辻の店は、53-4999-04622-3399-02664-0599-02898-110 / 東一番丁の明治製菓→「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P64(右の建物) 
勧工場・商館 芭蕉辻勧業場 → 芭蕉の辻商館  1882年(M15)/1891年(M24)~1900年(M33)  <芭蕉辻勧業場>
* 1882年(M15)7月16日、大町四丁目13に開設
* 1890年(M23)1月14日、火災焼失

<芭蕉の辻商館>
* 1891年(M24)9月19日、芭蕉辻勧業場が「芭蕉の辻商館」と改称して再建
* 1900年(M33)4月、焼失
* 1901年(M34)1月、再建中に再度出火し閉鎖 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P36~37/「仙台市史 年表」P84、P87/「古写真にみる仙台の建築」P122  「仙台市史 特別編4 市民生活」P37(芭蕉の辻商館、同火災図) 
住宅団地 花園ニュータウン  1986年(S61)  * 1986年(S61)5月、利府町の大型団地花園ニュータウン造成工事起工  「続・ 宮城県郷土史年表」P206   
仙台七夕 花火大会  1970年(S45)  * 1970年(S45)8月5日、仙台七夕で、花火大会初開催(仙台青年会議所主催)  「仙台市史 年表」P127/「番丁詳伝」P187   
音楽コンクール 若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール  1995年(H7)  * 1995年(H7)、第2回、若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール、仙台で開催 /  チャイコフスキー国際コンクールの姉妹コンクール、ジュニア部門で、2~5年間隔で会場は各国もちまわりで開催  仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」(2020年5月)   
警察署 若林警察署  2019年(H31)~ 
* 2019年(H31)4月1日、仙台南警察署から分離し、若林警察署が開署 
Wikipedia「若林警察署」(2020年5月)   
敗戦後の諸相・仙台 英語標識設置    ・ 仙台駅、占領軍の要請で駅名をローマ字表示(写真16-16)
・ 西公園前・南町通はメープル街、南町・国分町はエルバリ街、光前寺通・駅前はインディアナポリス街などの標識設置 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68~69  16-4216-4416-4616-3616-2316-1625-1453-3144-4544-29-0125-1099-148 
住宅団地 茂庭住宅団地  1978年(S53)  * 1978年(S53)10月16日、仙台市茂庭で起工式(鶴ケ谷団地に次ぐ規模)
* 1984年(S59)6月、団地内に中央公園完成
* 1987年(S62)5月7日、団地に茂庭台診療所開所 
「続・ 宮城県郷土史年表」P86、P178、P224   

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ガダルカナル戦
学校教練
渇水
勝山公園
河北新報社
河北遊園地
釜房湖(ダム)
紙芝居
亀岡八幡神社
臥竜梅
カルトン食堂
簡易保険保養センター
環境基本条例
がん検診センター
勧工場・商館
幹線道路
紀元2600年
気象台
北山五山
切手代(ハガキ)
木町通小学校
義務教育期間
キリンビアホール
禁煙
銀行(地域の銀行)
銀行(都市銀行)
錦章堂ビル
金属回収
金の星(カフェ)
金富士(料理店)
勤労青少年ホーム
空襲
国見浄水場
軍事教練
軍需工場
軍都・仙台
軍刀(陸軍)
軍馬の銅像
軍服(陸軍)
軍用機献納
蛍光灯
警察
警察署
競馬
敬老乗車証
下水処理
血液センター
県営宮城野原公園総合運動場
県営宮城野球場(宮城球場)
県営宮城野原硬式庭球場
県営宮城野原蹴球場
県営宮城野原陸上競技場
県営宮城自転車競技場
元気フィールド仙台
健康都市宣言
県立学校、名称変更
県令 → 知事
興亜奉公日/大詔奉戴日
公会と隣組
公害・環境問題
公害市民憲章
公害防止条例
光化学スモッグ
公職追放/追放解除
公設浴場
交通監視用テレビ
高等学校(新制)
勾当台公園
工兵第二大隊 /工兵第二連隊
公民館
江陽会館
国際反戦デー
国定公園
国鉄
国道45号線
国道48号線
国民学校
国民義勇隊
国民金融公庫
国民勤労動員令
国民健康保険
国民精神総動員運動
国民登録/勤労報国隊
国民徴用令
国立仙台病院
国民服
国民帽
こけし塔
五色沼
国旗掲揚
子ども会など
午砲
米騒動
在外同胞救出仙台学生同盟
在郷軍人会
在住朝鮮人大会
斎藤報恩会
蔵王エコーライン
桜ケ岡公園(西公園)
桜ケ岡大神宮
サマータイム
産業組合中央会
三居沢交通公園
三陸自動車道
JR東日本
自衛隊
市街化区域
市街地住宅
自警団
時差出勤
思想弾圧/共産党員検挙
四大節
七十七銀行
市町村合併
輜重兵第二大隊 /輜重兵第二連隊
実業補習学校
自動車
自動車専用道
シネマスコープ
師範学校
紙幣・硬貨(戦後)
姉妹都市
市民の家
市民のつどい
市民福祉会館
市民土曜音楽会
市民利用施設
社会教育(戦後)
釈迦堂
車両ナンバー
週休二日制
住居番号表示制
住宅団地
柔道・剣道
祝賀行事
主食配給量
殉国勇士の家
障害者福祉
鐘景閣
松根油
定禅寺通り
昭忠碑
商店など
常磐線
消費者団体
消防組/防護団/警防団/消防団
昭和三陸大地震津波
食糧メーデー
女子挺身勤労令
女子挺身隊
シルバー人材センター
新憲法
新国丁
震災遺構
新産業都市
新住居表示制度
親切運動
新仙台港
身体障害者福祉モデル都市
仁丹マーク
進駐軍(米軍)
新寺小路地区都市改造事業(区画整理)
新伝馬町商店街
新常盤町(遊郭)
新聞社
人力車
水害
水道事業
瑞鳳殿
スパイクタイヤ
スポーツ少年団
スポーツセンター
スポーツ大会
隅櫓
青少年団
清掃事業(行政)
清掃工場
政党県支部など(戦後)
青年訓練所
青年学校
青年団
税務署
精養軒
政令指定都市
セコイヤの化石
戦後開拓
戦後教育・仙台
戦後の物資・価格統制撤廃
戦後復員/引揚げ
戦災記録
戦災者・引揚者用住宅
戦災復興
仙山線
戦時衣料
戦時下の学園
戦時中の勤労動員/就労規制
戦時中の疎開者受入れ
戦時中の物資統制、使用規制
仙集館
戦勝祝賀行事
仙石線
仙台朝市
仙台アメリカ文化センター
仙台育児院
仙台駅
仙台オープン病院
仙台卸商センター
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仙台簡易保険局
仙台軌道(仙台鉄道)
仙台郷土研究
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仙台空襲
仙台空襲後の空襲
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仙台市(名称変遷)
仙台CIE図書館
仙台市営地下鉄
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仙台市ミートプラント
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仙台市民図書館
仙台市民の消費生活を守る条例
仙台市民文化センター
仙台市紋章
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仙台商業会議所/仙台商工会議所
仙台城二の丸焼失
仙台庶民金庫
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仙台信用金庫
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仙台赤十字病院
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仙台七夕
仙台鎮台
仙台鉄道管理局
仙台電報局
仙台東部道路
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仙台トラック輸送センター
仙台南部道路
仙台西道路
仙台の裁判所
仙台バイパス
SENDAI光のページェント
仙台美術館
仙台平
仙台フィルハーモニー管弦楽団
仙台復興祭グランドフェア
仙台物産陳列所
仙台北部道路
仙台ホテル
仙台陸奥館
仙台郵便貯金会館
仙台臨海鉄道
戦没者遺骨調査・収集
戦没者慰霊
創価学会会館
総進軍大会
体育館
体外受精
大学・短大
大学紛争
大政翼賛会/新体制/公会/報国会
第二高等学校(旧制)
第二師団
第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会
第十三師団
第三十三師団
第四十二師団
大日本国防婦人会
大日本婦人会
大日本連合婦人会
台原森林公園
台風被害(戦後)
多賀城跡
高橋是清
タクシー
宅地造成ブーム
竹槍訓練
立町小学校
谷風の墓所
多門師団凱旋
多門通り
男女共学
地価狂乱
乳銀杏
ちびっこ広場
駐留軍(米軍)
彫刻のあるまちづくり事業
鳥獣特別保護区
朝鮮館
朝鮮人移入労働者
朝鮮戦争
樗牛瞑想の松
チリ地震津波
榴ケ岡公園
堤人形
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン
デイケアー
貞山運河(貞山堀)
逓信関連
停電
出稼ぎ者相談所
テレトピア構想
テレビアンラジオ
テレフォンカード
電気開始(仙台)
電球
電信開始(仙台)
天神社
伝染病流行
伝統町名保存
天皇、仙台行幸
電力ホール
電話
電話開始(仙台)
土井晩翠
東一マーケットと中央マーケット
洞雲寺
灯火管制
東京オリンピック(昭和)
東照宮(仙台)
東部復興道路
同胞援護会
東邦生命ビル
東北学院
東北産業博覧会
東北自動車道
東北新幹線
東北振興/農村更生
東北大学
東北大学病院
東北鎮台 →仙台鎮台 →第二師団
東北帝国大学
東北電力
東北本線
東北楽天ゴールデンイーグルス
東北歴史資料館
東北六魂祭
東北絆まつり
遠見塚古墳
特別調達庁
都市型CATV
特急はつかり
特急ひばり
トラックターミナル
名掛丁商店街
仲の瀬橋(広瀬川)
長町駅
奈良原式鳳号
西内楽器店
西公園(桜ケ岡公園)
西本願寺別院(東一番丁)
二十人町
日米野球
ニッカウイスキー工場
日本銀行
日本生命館
日本鉄道
日本農民組合
ネオンサイン
年賀郵便
年中行事(まつり)
乗合馬車
敗戦後の諸相・仙台
廃藩置県(仙台県誕生)
バカンス(流行語)
爆弾三勇士の歌
博覧会・フェア
芭蕉の辻
芭蕉の辻商館
芭蕉の辻の城櫓風建物
芭蕉の辻の洋館
バス
バスプール
バス優先レーン
支倉常長(記念碑/銅像)
発電事業
パテー館
花火大会
針久旅館支店(仙台駅前)
ハリストス正教会堂
藩祖政宗公三百年祭
藩祖政宗公の記念祭
東一番丁(商店街)
東一番丁大火
東一番丁百年祭大仮装行列
東二番丁尋常小学校
東二番丁通り(拡幅)
東日本大震災
光ヶ丘天使園
飛行船「雄飛号」
飛行大会
ひとにやさしいまちづくり条例
ヒトラーユーゲント一行が来県
日乃出映画劇場
ひらつか(東一番丁)
ビル建設
広瀬川の清流を守る条例
広瀬通り
広瀬橋(広瀬川)
プール
フェリー
俯瞰撮影禁止など
福祉ボランティアのまちづくり事業
富国生命館(国分町)
藤崎
フジビール
婦人参政権獲得運動
婦人の社会活動(戦後・仙台)
婦人標準服
普通選挙要求運動
物価上昇
二日町大火
復興盆踊り
仏舎利塔
ブラザー軒
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場
文学碑など(仙台)
文化勲章
文化財指定
文化横丁
兵役制度
米軍進駐
兵事義会/銃後奉公会
ベガルタ仙台
ペデストリアンデッキ
ヘレンケラー女史
奉安殿
防空演習
ポケットベル
歩行者天国(東一番丁)
ホテル
歩兵第4連隊
歩兵第104連隊
本土決戦体制
政宗卿騎馬像
政宗卿平服像
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場
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松永正敏中将
松原街道
マナスル登頂成功
丸光
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満蒙開拓
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南町大火
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三原時計店
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