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出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台空襲 |
空襲の概要、被害規模 |
1945年(S20)7月10日 |
(1) 『仙台市戦災復興誌』(仙台市開発局 1981年)では、「1945年7月10日、仙台市は米軍のB29、100機による空襲をうけ、中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失。 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」
(編者注: 死者901人、負傷者1689人、行方不明者の数もあるが、空襲間もなくの統計で正確でないと思われる)
(2) 『仙台はフェニックス』(1995年発行 P341)では、「死者は 約1400名近い(確認1064名、身元不明など335名)」
/ ただし、7月17日午前5:30頃の高砂駅停車中列車と周辺民家への機銃掃射、福田町付近爆弾投下による、死者6名、重軽傷者9名、および8月9日の仙台飛行場・原町陸軍造兵廠など銃撃による死者4~5名を含む)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P320)
(3) 『重訂 宮城県郷土史年表』P505では、「仙台市、米空軍の空襲を受く。9日深夜より10日(午前0時5分頃より約2時間30分)未明にかけ前後約3時間に亘り、B29爆撃機7・80機の波状的来襲により無差別焼夷弾攻撃を受け、市の中心部及び川内地帯焦土と化す。この日の戦災により、行政・教育・商業・軍事・金融・交通等の中枢部殆ど焼失、死者911名、罹災戸数11,642、罹災人口57,321、被害面積150万坪に達す。喪失したる史跡、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿、青葉城大手門、養賢堂講堂、芭蕉の辻等の古建築物」
(4) 『仙台市史 続編第2巻(経済文化編)』(1969年発行)P763では、「昭和20年7月10日、B29、100機の爆撃によって、仙台市の中心部は壊滅的な打撃を受けた。被災面積約500ha、全焼家屋1万1650戸、半焼252戸、死傷者約2600人に及び、被災人口の総数は5万7000人、全人口の26%にも達した。」
同書P315では、「房総沖、鹿島灘を北上して、仙台湾に集結したB29約100機は、午前零時5分から約2時間半にわたって仙台市中心部に対して波状的爆撃を加えてきた。このため、特に商業、行政の中心をなす繁華街や川内をはじめ各所にあった軍事施設の大部分が破壊され、家屋その他の建物はほとんど焼失し焦土と化し、その惨状は目をおおうばかりであった。」
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「仙台市戦災復興誌」(仙台市開発局) /「仙台はフェニックス」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P320/「重訂 宮城県郷土史年表」P505 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P315、P763
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仙台空襲の焼失区域図は、98-092、98-147
/空襲被害は、35-15、35-14、35-13など「写真データベース」分類G-28の全写真
/「新・目で見る仙台の歴史」P164~167(炎上する市内、焼け野原、座り込む市民、焼け跡整理作業、市民に呼びかける警官)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P61(焼け跡に建つ女性)/「市民の戦後史(仙台市)」P18(焼け跡整理作業など)/同P166(仙台空襲20年追悼式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図42(S20年空襲後、天守台より一面焼け野原の仙台市街俯瞰)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270(敗戦後の焼け跡整理)
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仙台空襲 |
空襲被害の状況 |
1945年(S20)7月10日 |
(5) 『仙台市史 続編第1巻(行政建設編)』P56~62より
<仙台空襲>
・仙台空襲時には、全市5万1630余世帯の約35%が疎開中
・「昭和20年、仙台市内には、本土決戦に備え東北軍司令部など数々の司令部が設置され、形の上の迎撃態体制は一応つくられていたが、それに伴うべき武器弾薬に乏しく、軍司令部所在地たる仙台に一門の高射砲もなく、木造の模擬高射砲がむなしく空をにらんでいたのである。」
・「7月10日深夜から早暁の仙台空襲では、B29の小編隊(2~5機)が20数回波状的に来襲、投下された焼夷弾は、油脂50キロ、100キロ、小型エレクトロン1号、2号混用などで、市内各所に火災発生後は50mもの烈風となり火勢はたけり狂った。」
・「市電環状線内は見るかげもなく壊滅、地をはいからっみあった電線、トタン、カワラ、ガラスの破片、まちかどにうずくまる重軽傷者、わが子を探し求める母親、性別もわからぬほどに焼けただれた遺体、焼け落ちたビルの残骸からはなお煙と異臭を吐き出す。都心のビルが焼き払われたため、仙台駅前から県庁方面が一望できる始末であった。」
・「死傷者の多くは防空壕内でやられたのである。都心のある防空壕では、ここに避難した老若男女20人が、外の熱気のためむごたらしく死んでいた。東一番丁北端と定禅寺通交差点では、家財を背負って避難途中の市民が折り重なって死んでいた。」
・その他、全焼・半焼した地域(公会別)、焼失した古建築などの記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P56~62
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仙台空襲の焼失区域図は、98-147
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八木山開発 |
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八木山は、もとは仙台藩士の共有財産だったが、明治初めに国有化され、大正年間に八木久兵衛氏の所有となった
八木山開発は、昭和初期、八木久兵衛氏が私費を投じて、自身が所有する仙台市八木山で行った一連の観光開発
<八木久兵衛(第4代)> 仙台の味噌醤油製造業「紅久」の経営者、「紅久」は藩政時代から、紅・小間物商、明治に入りみそ醸造開始、仙台市会議員、宮城貯蓄銀行、七十七銀行頭取、仙台商業会議所会頭(明治38年6月~大正7年9月)、大正7年6月貴族院議員(多額納税議員)、大正12年11月29日没(「重訂 宮城県郷土史年表」の該当年の記述より抜粋)
<八木久太郎(第5代久兵衛)> 八木山開発(昭和15年11月26日没)は第5代の手による / 私費を献じて仙台市電「芭蕉の辻線」を開通させた。
* 1929年(S4)6月23日、「野球場」を建設(同日、宮城県に寄付)
→項目「八木山球場」参照
* 1930年(S5)4月、「遊園地」と「公園」を開設(S11年5月28日、八木山遊園地を仙台市に寄付)
→項目「八木山遊園地」参照
* 1931年(S6)8月、竜の口渓谷に、「八木山橋」(木製鉄索、吊り橋)架橋、仙台市に寄付
→項目「八木山橋」参照
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」を仙台市に寄付
* 1936年(S11)11月、土居光知、薄田清が発起人となり、島崎藤村の詩碑(草枕)を建立(「番丁詳伝」P34) / 昭和42年、藤村詩碑を青葉城址へ移転
* 1937年(S12)、仙台芸妓置屋組合、芸妓の同意を得て寄付を募り、八木山遊園地に枝垂れ柳276本、沿道、紅葉ケ谷に、吉野桜524本を植栽し仙台市に寄付、動物園付近に桜樹植栽記念碑を建立(「仙台 あのころこのころ八十八年」P70、「番丁詳伝」P34)
* 1964年(S39)12月、八木山地区整理組合が発足し、宅地造成に入った
このほか、八木氏が仙台市に寄贈した土地に、
* 1965年(S40)に市が「八木山動物公園」を開園
→キーワード「八木山動物公園」で検索
<「仙台老舗百店史」P194~195「紅久」の記述>G1496
「天明3年(1783)から芭蕉の辻にあった紅・小間物商「紅久」が、明治16年、味噌醤油の醸造、販売も始め繁盛して得た資金で八木山を入手、八木山橋、野球場を建設し市に寄贈、また寄贈した土地に八木山動物園が建設された」
「番丁詳伝」P34~35にも、「紅久」「八木久兵衛」「八木山開発」について記述あり
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「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり/「仙台市史 年表」P105、P106、P108/「仙台 あのころこのころ八十八年」P70/「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「仙台市史10 年表」P283/「番丁詳伝」P34~35
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藩祖政宗公三百年祭 |
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1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日~26日、仙台藩祖伊達政宗公没後300年にあたり、仙台市を挙げて盛大に「藩祖政宗公三百年祭」が行われた
・ 伊達政宗は、1636年(寛永13)5月24日没
・ これに先立ち、同年5月14日に、宮城県青年団により「政宗卿騎馬像」が青葉山の天守台に建てられ、5月23日に除幕式
<関連行事>
・ 5月、伊達家贓品展覧会(斎藤報恩会館)
・ 5月10日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が、「政宗公300年祭記念放送」(子供の時間、琵琶演奏、座談会「政宗公を語る」)
・ 5月12日、三百年祭記念産業観光博覧会
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「重訂 宮城県郷土史年表」445/「仙台市史10 年表」P285/「仙台城)」P234/「NHK仙台放送局~60年のあゆみ~」P9
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三百年年祭仮装行列は、44-68、44-69、44-70、44-89、44-90、「目で見る仙台の歴史」P159と、「新・目で見る仙台の歴史」P155に「仮装行列」/花電車は、44-84、44-85、44-86、44-87、44-88 /青年団による騎馬像運搬は、44-77、44-78、44-79、44-80、44-81、44-95、44-82、44-83
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紀元2600年 |
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1940年(S15) |
1940年(S15)
* 2月11日、紀元二千六百年奉祝建国祭
* 4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)
* 6月19日、紀元二千六百年奉祝銃後奉公祈誓大会
* 11月5日、紀元二千六百年奉祝銃後奉公展
* 11月10日、皇紀二千六百年奉祝式典(宮城外苑)祝賀行事5日間(この日、宮城県をはじめ、各市町村、官衙、銀行、会社銀行等において一斉に挙行 / 午前11時25分、全国民が宮城遙拝、駅待合室やホームでは駅長の指揮で、列車の中では車掌の通報と汽笛の合図で全員が起立して遙拝し万歳を三唱した)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15/「仙台市史 年表」P110/「仙台市史10 年表」P297~299/佐々久「近代みやぎの歩み」P107/「ものがたり東北本線史」P512
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東一番丁(商店街) |
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→ 項目「一番町(旧・東一番丁)」参照
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市民の家 |
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* 1975年(S50)4月14日、仙台市で初の市民の家、オープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P39
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東一番丁大火(一番丁大火) |
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1933年(S8) |
* 1933年(S8)3月20日早暁、東一番丁の活動写真館仙集館付近より出火し52戸を焼く
* 仙集館→白崎写真館へ延焼→飛び火して、新国町界隈→国分町へ(51戸焼失、罹災戸数35)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「番丁詳伝」P131
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宅地造成ブーム |
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1960年(S35)頃~ |
「昭和35年頃から始まった(仙台の)宅地造成ブームは、この頃(昭和40年代)頂点に達し、仙台市北部や南西部一帯の一帯の丘陵地帯は、緑をはぎ取られ、瞬く間に住宅地に化けていった。これは、仙台の膨張を如実に示すものだが、一方、無計画な宅地造成や粗悪な住宅地、杜の都の破壊、上下水道の問題など大きな都市問題となりつつあり、発展期にある仙台にとって、「住」の解決が最大の課題となっている。」(昭和44年発行の「市民の戦後史(仙台市)」P190)
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「市民の戦後史(仙台市)」P190
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「市民の戦後史(仙台市)」P190~191(八木山地区、旭ヶ丘地区、南光台地区、北部丘陵地帯に広がる住宅団地群、危険な石垣、がけの上の家)
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竹槍訓練 |
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* 1943年(S18)2月~9月、大日本婦人会が、竹ヤリ訓練などの国防訓練を全国27支部で展開
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)
竹槍は1945年(S20)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた
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「昭和・平成家庭史年表」P138/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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16-08
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立町小学校 |
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* 1945年(S20)、仙台空襲で焼失
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「市民の戦後史(仙台市)」P22(戦前の校舎)
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地価狂乱(バブル) |
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1987年(S62)~1991年(H3) |
* 1987年(S62)1月、東京で地上げが始まって地価上昇
* 1987年(S62)4月、東京の地価狂乱、53.9%上昇
* 1987年(S62)9月30日、東京の地価、1年で85.7%上昇
* 1988年(S63)9月14日、大都市の地価、狂乱高騰
<仙台>
* 1988年(S63)4月1日、国土庁発表地価公示で、仙台市は29%上昇
* 1989年(H1)1月27日、仙台国税局が最高路線価格発表、平均17.8%上昇
* 1989年(H1)1月27日、東北初の億マンション「サンライズ東照宮ロイヤル別館」入居開始
* 1991年(H3)7月1日、都道府県地価(基準地価)は、仙台で、住宅地6.7%、商業地8.5%上昇
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P82、P83、P85/「続・ 宮城県郷土史年表」P242、P258、P272
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樗牛瞑想の松 |
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⇒「瞑想の松」参照
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08-07、53-112
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榴ケ岡公園 |
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1902年(M35)~ |
仙台市街地東部の榴岡にあり、西の桜ケ岡公園(西公園)とともに仙台を代表する公園のひとつで、藩政時代からつづく桜の名所
「仙台市史 本篇2」P373~374 →「榴ケ岡(つつじがおか)は、藩政時代から、仙台の桜の名所。伊達綱村の時代に園内に枝垂れ桜を植栽し、演劇を許し四民遊覧の地とした。」
「目で見る仙台の歴史」P119 →「元禄8年、釈迦堂の建立と同時に馬場・的場を設け、そのまわりに枝垂桜を植え、士民遊楽の地にした。」
・ 名所の釈迦堂が近く、戦前は隣接して陸軍歩兵第4連隊の兵営があった
・ 戦後は旧四連隊跡地が一時米軍キャンプとして接収、返還後は県警察学校用地となったが、のちにここも榴ケ岡公園の一部となった
* 1902年(M35)4月18日、宮城県が設置
* 1924年(T13)12月9日、園内の桜が国の名勝に指定
* 1942年(S17)2月27日、県営から仙台市に移管
* 1949年(S24)12月、野外音楽堂完成
* 1960年(S35)、園内に「歩兵第4連隊之跡」碑を建立
* 1968年(S43)3月14日、枯死により榴ヶ岡(桜)の名勝指定解除
* 1976年(S51)~1987年(S62)、旧歩兵第4連隊跡地(その後、米軍基地、県警察学校用地)を公園に組み込むための整備(広場や緑地、野外音楽堂、集会所を設置)
* 1976年(S51)1月13日、旧歩兵第4連隊兵舎解体始まる
* 1979年(S54)11月3日、仙台市歴史民俗資料館、榴ケ岡公園内の旧歩兵第4連隊跡に残された兵舎を利用して開館
* 1981年(S56)4月22日、噴水彫刻「杜のうた」設置
* 1984年(S59)4月17日、花見の復興記念碑建立
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「仙台市史 本篇2」P373~374/ 「仙台市史 通史編」8(現代1)528頁/「仙台市史 年表」P92、P102、P111/「仙台市史 続編1」P463/「仙台市史10 年表」P303/「重訂 宮城県郷土史年表」P599、P638/「続・ 宮城県郷土史年表」P50、P127、P175/Wikipedia「榴岡公園」/「市民の戦後史(仙台市)」P41/「仙台あのころこのころ八十八年」P244/「宮城百年」(毎日新聞社刊)年表
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98-078、99-121など、写真分類D-13-03「榴ケ岡公園」の全写真/「戦前期の公園平面図」は」、98-077 /「いつか見た街・人・暮らし」P6(公園の桜、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P119と「新・目で見る仙台の歴史」(H1年刊)P131に、明治20年代の「榴ヶ岡の花見」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(野外音楽堂)/同210(枯れ死した桜古木)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P233(「仙台名所」より榴ヶ岡の図、カラー)
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堤人形 |
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・ 市内堤町で17世紀末から作られたといわれる
・ 明治末には芳賀佐四郎家のみとなる
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「新・目で見る仙台の歴史」P152
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「新・目で見る仙台の歴史」P152(窯場と製作風景)
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イールズ事件 |
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1950年(S25) |
GHQのイールズ博士による「大学制度についての講演会」開催に反対抗議しデモなど行う(「目で見る仙台の歴史」P186)
* 1950年(S25)5月2日、東北大学生、イールズ博士演説反対闘争開始 / GHQ宮城県軍支部が仙台市警察に対し、職務執行妨害の疑いで、学生4人の逮捕を命じる / 6月5日、学生14名処分(3名は退学、停学、譴責あり)/ 7月6日、学生2名追加処分
・ 連合国総司令部CIE教育顧問のイールズ博士は全国各地で「赤色教授は学問の自由に反する。学問と学園の自由のために大学は共産主義思想を持つ教授を追放する権利をもつ」と講演してまわった。東北大学での講演には600名参集、学生と押し問答あり、公演中も妨害あり中断、流会となった。」(「番丁詳伝」P171)
<参照> 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98に、イールズ事件の詳述あり
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「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P542~543/「番丁詳伝」P171/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98
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・「目で見る仙台の歴史」P186(学内の掲示を見る学生たち)
/・「東北大学本部前で学生たち座り込み」は、「市民の戦後史(仙台市)」P62と「仙台市史 特別編4 市民生活」P535と「新・目で見る仙台の歴史」P179に
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遺児の日 |
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1939年(S14) |
<戦争遺児代表が靖国参拝 ~軍人援護会、厚生省主催の「遺児の日」~>
* 1939年(S14)8月6日、第1回対面、仙台市からは立町、榴岡、南材木町小学校の遺児6名が選ばれ靖国神社に参拝 / 感想文「社頭に額づく」あり(「仙台市史 続編第1巻」P11~12) / 全国からは戦没者遺児代表(1324人)が父の英霊と対面するため上京、靖国神社へ(日録20世紀1939年)
* 1940年(S15)3月29日、第2回、仙台市から31名、宮城県内から124名が参加 / 全国からは、3191名(男子1634名 女子1557名) 宮城遙拝(聖寿の万歳三唱)、皇后陛下の御下賜品の伝達、朝香宮殿下の御言葉、靖国神社参拝(週刊20世紀1940年)
* その後も回を重ねるごとに人数が増えた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P11~12/「日録20世紀 1939年」P30/「週刊20世紀 1940年」P23
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停電 |
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昭和20年代 |
* 1951年(S26)9月26日、県内一帯に緊急停電続く
* 1952年(S27)3月17日、北海道を除き電力制限解除(「菅家年表」P46)
<編者注> このほか、戦後(昭和20年代)には、全国的に停電が珍しくなかった / * 1946年(S21)3月6日、電力制限のため4日に1日停電(菅家年表) / * 1947年(S22)1月、全国的に隔日停電を実施
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「仙台年表」P222/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P40、P46
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勤労青少年ホーム |
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* 1964年(S39)12月、新築された東二番丁小学校内に、勤労青少年ホームが発足
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「市民の戦後史(仙台市)」P160
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「市民の戦後史(仙台市)」P160(茶室やスポーツ室を利用する青年男女)
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殉国勇士の家 |
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日中戦争以降 |
仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
<参照> → 項目「兵事義会/銃後奉公会」
「誉輝く軍国の家」(河北新報) 「河北新報は中国と戦争を始めてから5年目の昭和17年7月、1家族で2人以上の戦死者を出した宮城県内の12家族を「誉輝く軍国の家」として取り上げています。・・・「お国のために散ったこと、親としてこんなうれしいことはありません」・・・・肉親を戦争で失った家族には、涙と絶望が数多くありましたが、人々はそれを平静というオブラートに包んで冷静を装っていました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12/「仙台市史 特別編4 市民生活」P315/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P79
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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定禅寺通り |
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戦後、戦災復興事業で勾当台公園角~西公園通り間が幅46mに拡幅され、中央分離帯(12m幅)には、欅を2列に植え、その間に遊歩道をもうけた街路公園として整備された。青葉通りとならび杜の都仙台を代表する街路となった
* 1957年(S32)から、西公園までの480mに計158本の欅を植樹
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「仙台市史 続編1」P462
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軍事教練 |
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・ 青少年を対象とした軍事予備教育のうち、特に歩兵操典に基づく訓練をさす
* 1928年(S3)2月24日、陸軍省、教練及び青年訓練修了者検定規定公布、この結果、教練も成績に加え合否が判定される
* 1944年(S19)2月4日、文部省、軍事教育強化方針発表
<第2次世界大戦の敗戦で廃止>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P8、P35
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一銭橋(広瀬川) |
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→「宮沢の一銭橋」参照
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レッドパージ |
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1950年(S25) |
<全国>
* 1948年(S23)1月6日、米陸軍長官ロイヤル、サンフランシスコで日本を反共の防壁にすると演説
* 1950年(S25)5月3日、マッカーサー元帥、憲法記念日の声明で共産党の非合法化を示唆
* 1950年(S25)6月6日、マ元帥、共産党中央委員24人全員の追放を指令
* 1950年(S25)6月26日、マ元帥、「アカハタ」の30日間発行停止を指令 / 7月18日、無期限停止
* 1950年(S25)7月24日、企業のレッドパージ始まる
* 1950年(S25)9月1日、閣議、公務員のレッドパージの基本方針を正式決定
<宮城の事例>
* 1950年(S25)8月26日、レッドパージで、東北配電、日本発送電東北支店従業員433人が解雇される
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/「仙台年表」P220
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軍用機献納 |
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「愛国号」は陸軍へ、「報国号」は海軍への献納機 / 昭和7年の「愛国機」1号、2号にはじまり、太平洋戦争中まで、全国の市民、企業、団体などから献納が相次いだ。
* 1932年(S7)4月24日、宮城県民の寄付による軍用機「愛国機2号」の命名式(宮城野原練兵場)
* 1939年(S14)8月20日、海軍への献納機、宮城水産号、命名式(仙台飛行場)
* 1941年(S16)10月5日、愛婦献納機、命名式
* 1944年(S19)2月11日、愛国機仙台市民号、献納
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「重訂 宮城県郷土史年表」P431/「仙台市史10 年表」P278、P296、P302、P307/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
参考:陸軍愛国号献納機調査 http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html
その1「愛国1号、2号」http://coah.pro.tok2.com/AvnHistory/article/KF_2011-10.pdf /
海軍報国号献納機調査http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Houkokugou_List1.html
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民間から献納された海軍機「とうふ号」 80-01
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婦人標準服 |
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⇒ 項目「戦時衣料」参照
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普通選挙要求運動(仙台) |
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1919年(T8)~ |
* 1919年(T8)2月12日、仙台普通選挙期成同盟会結成協議会(メンバーの大部分は、憲政会所属の県会議員と弁護士)
* 1919年(T8)2月15日、仙台普通選挙期成同盟会(仙台普選同盟会)の結成大会・演説会(開明座) / 伊藤彪・新妻胤嘉らの演説後、市中を提灯行列(国分町の開明座~東一番丁~大町4丁目角~新伝馬町・名掛丁~停車場前広場~南町通~南町~芭蕉の辻~大町1丁目~西公園)
* 1919年(T8)4月、普選要求大会(開明座、聴衆2000人余) / 労働党組織宣言可決
* 1920年(T9)2月、普選実行期成大演説会(仙台座)/憲政会宮城支部、仙台普選同盟会主催 / 尾崎行雄、新妻胤嘉、村上亀一郎らの演説に聴衆熱狂 / 雪の中、「国民一般に選挙権を与えよ」などスローガンかかげた旗を押し立て、「普選促進歌」(賀川豊彦作詞)を歌い乍ら、停車場前からデモ行進 / 会場の仙台座は有料にもかかわらず大入り満員、入場できなかった者多数
* 1920年(T9)5月、総選挙(前年度改正した小選挙区制で実施)宮城県内の憲政会候補は全滅
* 総選挙直後、布施辰治が、官権選挙干渉糾弾・金権横暴政治撲滅・普通選挙宣伝のための大演説会開催(開明座)を仙台警察署が中止・解散を命じる / 抗議の大会も普通選挙促進示威提灯行列も治安警察法によって、中止・解散させられる
* 1920年(T9)6月、普選促進・現内閣糾弾県民大会(仙台座) / 聴衆2000人余 / 地方代表も参加し、運動を全県下に拡大するため、名称を普通選挙促進期成同盟会と改称(会長に村上亀一郎) / 普選実現まで運動は続けられた
* 1920年(T9)8月、青年自由革新党結成(仙台普選同盟会の中心メンバーの三浦端・長谷川陸郎や百数十名) / 五城館で発会式、九項目の綱領を確定(満20歳以上の男子に一律に選挙権、婦人参政権の理を認め実現を期す、営業自由の原理、八時間労働制、治安警察法第17条撤廃、司法省廃止し裁判権の独立、陪審制度確立、官僚思想打破、財閥学閥を排撃)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P500~503「普選運動のころ」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P501(大正14年、普選案の帝国議会通過を祝う提灯行列)
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東一マーケットと中央マーケット |
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・ 東一マーケットは、「仙台東一公設市場」のことで、戦後しばらく、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道東側に面してあった
( → キーワード「仙台東一公設市場」または「東一マーケット」で検索)
・ 一方、東一番丁通り南部(藤崎より南)には、「仙台中央公設市場」(中央マーケット)が道東側に面してあった
( → キーワード「仙台中央公設市場」または「中央マーケット)」で検索)
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「市民の戦後史」P50、P30
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東一マーケットは、16-38、16-39 /中央マーケットは、98-013、22-55(右端に写る)
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灯火管制 |
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1935年(S10)~1945年(S20)8月 |
* 1935年(S10)3月9日、仙台市で全市一斉の灯火管制を実施
* 1937年(S12)9月15日、宮城県灯火管制規程公布
* 1945年(S20)8月20日、灯火管制、3年8か月ぶりに解除、町に灯、2日後には映画演劇娯楽放送も自由になる(「重訂 宮城県郷土史年表」P505、「仙台年表」P214、「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
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「仙台市史 年表」P107/「仙台市史10 年表」P291/「重訂 宮城県郷土史年表」P505/「仙台年表」P214(出典:毎日新聞)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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物価上昇 |
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1975年(S50)
~1979年(S54) |
* 1975年(S50)2月、不況が深刻化、完全失業者100万人を突破
* 1975年(S50)3月7日、前年のGNP初のマイナスとなる、1.8%減
* 1975年(S50)7月、仙台市のタクシー料金は初乗り270円に、迎え料金100円実施
* 1975年(S50)9月1日、仙台市営バス、均一区間料金、50円から70円に値上げ
* 1975年(S50)10月、仙台市で汲取り料金1人120円に改定
* 1975年(S50)12月5日、11月は戦後最高の企業倒産となる、1315件
* 1975年(S50)12月13日、宮城交通バスは、最低料金50円に改訂
* 1976年(S51)、この年、国鉄、電話、郵便、電気、ガスなど公共料金一斉値上げ
* 1976年(S51)2月1日、牛乳は52円(前は47円)
* 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ)
* 1977年(S52)12月1日、宮城交通バス運賃値上げ(塩釜~利府が220円)
* 1978年(S53)9月8日、仙台市バス、市内均一料金を10円値上げし90円に
* 1979年(S54)1月17日、第2次オイルショック
* 1979年(S54)3月10日、国鉄運賃、近距離大幅アップ、(仙台~石巻間590円申請)
* 1979年(S54)4月1日、ふろ代、大人150円・小学生80円に値上げ
* 1979年(S54)5月27日、ガソリンスタンド、日曜祝日全面休業
* 1979年(S54)12月12日、仙台市のタクシー代値上げ
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「続・ 宮城県郷土史年表」P43、P44、P46、P48、P50、P73、P74、P85、P93、P94、P104/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P69、P70、P73
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物価上昇 |
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1980年(S55)~1989年(H1) |
* 1980年(S55)1月9日、冬野菜が高値、白菜、キャベツが10倍、大根5倍
* 1980年(S55)、この年、電気・ガス料金大幅値上げ
* 1981年(S56)3月、宅地高騰、仙台市は9.8%アップ
* 1981年(S56)11月28日、仙台市営バス運賃は、1区間120円(10円値上げ)
* 1982年(S57)6月1日、東北自動車道料金、仙台~盛岡間2700円から3200円に値上げ
* 1983年(S58)12月2日、仙台市内タクシー、初乗り運賃、小型400円から440円にアップ改訂
* 1986年(S61)4月1日、仙台市のハイタク初乗りが460円に改訂
<ガス・電気は値下げ>
* 1986年(S61)7月1日、東北の24社が、ガス料金値下げ
* 1987年(S62)1月、東北電力、電気料金を引き下げ
* 1987年(S62)2月、仙台市ガス局など料金再値下げ
* 1988年(S63)1月6日、仙台市ガスは平均6.22%引き下げ
<消費税>
* 1989年(H1)4月1日、初の消費税導入(3%)
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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「続・ 宮城県郷土史年表」P125、P136、P147、P169、P204、P207、P219、P220、P238、P242、P258、P259/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P74
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東照宮(仙台) |
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1654年(承応3年)~ |
・伊達政宗公が、将軍家光からの許しを受けて創建
・二台藩主忠宗の創建、1654年(承応3年)落成
・祭神は徳川家康 ・本殿などが国の重要文化財
<藩政期>
* 1654年(承応3年)、江戸から神霊を迎えて遷座祭を行ったと伝えられている(「宮城県百科事典」P741)
* 1654年(承応3年)3月16日、宮城郡小田原の東照宮造営なる(「仙台年表」P34)
<昭和戦前期の火災>
* 1935年(S10)8月6日、放火で拝殿、進せん所、宝物三六歌仙を焼失 / 同23日に再度出火、神殿一部消失(「重訂 宮城県郷土史年表」では、拝殿は半焼)
* 1944年(S19)、浮浪者の放火あり、拝殿を半焼す
<戦後>
* 1948年(S23)アイオン台風、1959年(S34)伊勢湾台風で、参道両側の杉110本倒壊
* 1952年(S27)1月31日、本殿、唐門、楼門を宮城県重要文化財に指定(「仙台市史10 年表」P327、「重訂 宮城県郷土史年表」P554)
* 1952年(S27)1月31日、随身門、宮城県需要文化財に指定 / 同年3月31日、本殿、唐門透塀鳥居、宮城県重要文化財に指定(「仙台年表」P223~224 ← 出典:毎日新聞)
* 1953年(S28)3月31日、本殿、唐門、透塀、鳥居が、国の重要文化財に指定
* 1980年(S55)1月26日、随身門が国の重要文化財に指定
<復旧・修理工事>
* 1962年(S37)11月17日、拝殿(昭和27年に焼失)復旧工事開始
* 1979年(S54)2月、倒壊鳥居復旧
* 1979年(S54)4月20日、12年ぶりの東照宮春祭、伊達政宗の木像先頭に武者行列
* 1980年(S55)10月、社殿修理工事終了
* 1983年(S58)4月17日、唐門・透塀・本殿の一部修理完了
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「宮城県百科事典」P741/「仙台年表」P34、P206、P223~224/「仙台市史10 年表」P286、P327/「重訂 宮城県郷土史年表」P447、P503、P554/「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P94、P118、P161、/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123~124、216~217/文化庁「国指定文化財データベース」
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99-130、99-131/「目で見る仙台の歴史」P55~56(本殿、本殿厨子、唐門、薬師仏、神輿など)/同P99(東照宮祭礼絵巻)
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東部復興道路 |
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2019年(R1) |
* 2019年(R1)11月30日、仙台市の東部復興道路(かさ上げ道路、総延長10.2㎞)が全線開通
仙台市が東日本大震災で被災した沿岸部に整備 / 約6メートル盛り土をして堤防機能を持たせた / 30日、若林区の震災遺構荒浜小学校で記念式典
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河北新報記事(2019年12月1日)
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同胞援護会 |
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1946年(S21)~ |
* 1946年(S21)4月18日、恩賜財団同胞援護会宮城県支部創立(事務所は宮城県庁内)/ 4月から、奨学事業開始(156名、主として母子家庭の高等学校卒業生に奨学金500円)
* 1946年(S21)4月25日、同胞援護会仙台更生寮設立
* 1946年(S21)12月1日、同胞援護会小田原更生寮設立
* 1947年(S22)1月20日、小田原母子寮設立
* 1949年(S24)8月10日、恩賜財団宮城県同胞援護会と改名
* 1953年(S28)9月、外記丁に竣工した社会福祉会館に移転
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「重訂 宮城県郷土史年表」P510、P516、P567/「仙台市史10 年表」P312、P315
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身体障害者福祉モデル都市 |
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1973年(S48) |
* 1973年(S48)7月27日、仙台市が国から「身体障害者福祉モデル都市」の第1号に指定される
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「仙台市史 年表」P128
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埋木細工 |
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・ 青葉山・八木山一帯の亜炭層から掘り出される資材を、盆・皿・置物・ブローチなどに加工 / 手工業として藩政時代からつづく
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「新・目で見る仙台の歴史」P152
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「新・目で見る仙台の歴史」P152(製作風景)
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東北学院(専門科/専門部/高等学部) |
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1904年(M37)~1944年(S19) |
<専門部の校舎>
・ 大正11年9月、南町通り→東二番丁の仮校舎へ(中学部の)
・ 大正15年9月、東二番丁仮校舎→南六軒丁の新校舎へ
<専門科→専門部>
* 1904年(M37)、全校を普通科(5年)と専門学校令による専門科(3年)とに分け、専門科に文学部と神学部とを置く
* 1905年(M38)、専門科を専門部と改称(文学部を文科、神学部を神学科と改称)
* 1925年(T14)、神学科を専門部より分離し、神学部(第一科・第二科)とする。専門部は文科、師範科、商科となる
<土樋キャンパス(南六軒丁)>
* 1926年(T15)、南六軒丁に専門部校舎完成(のちの土樋本館)、9月より使用 / 鉄筋コンクリート3階建
<専門部→高等学部>
* 1929年(S4)、専門部を高等学部と改称
* 1932年(S7)3月19日、礼拝堂献堂式、高等学部の講堂落成式
* 1942年(S17)9月、高等学部の文科と師範科廃止
* 1943年(S18)、高等学部商科を高等商業部と改称(S20年に廃止)
<航空工業専門学校>
* 1944年(S19)、航空工業専門学校設置
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「東北学院創立七十年写真誌」末尾年表
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「目で見る仙台の歴史」P149と「東北学院創立三十年写真誌」P37に、「専門部校舎(大正15年竣工)」
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米軍進駐 |
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⇒ 項目「進駐軍」参照
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ベガルタ仙台 |
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1999年(H11)~ |
仙台市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ / 1988年(S63)創部の東北電力サッカー部が前身 / ホームスタジアムは、1997年(H9)6月に泉区七北田にオープンした「仙台スタジアム」(2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」に改称)
* 1995年(H7)、Jリーグ準会員
* 1999年(H11)からのJリーグの2部制開始とともにJ2に参加
* 1999年(H11)~2001年(H13)、J2
* 2002年(H14)~2003年(H15)、JI
* 2004年(H16)~2009年(H21)、J2
* 2010年(H22)以降、J1 (2020年現在)
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Wikipedia「ベガルタ仙台」2020年7月18日版
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公職追放/追放解除 |
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1946年(S21)~1947年(S22) / 1950年(S25)~1951年(S26) |
* 1946年(S21)1月4日、GHQ、軍国主義者等の公職追放および超国家主義団体27の解散を指令
* 1947年(S22)1月4日、公職追放令改正、財界・言論界・地方公職に拡大
**********************************
* 1950年(S25)11月10日、旧軍人初の追放解除、3250人
* 1951年(S26)6月20日、政府、第1次追放解除発表、石橋湛山、三木武吉や政財界人2958人
* 1951年(S26)8月6日、政府、第2次追放解除を発表、鳩山一郎ら各界1万3904人
* 1951年(S26)8月16日、政府、旧陸海軍正規将校1万11885人の追放解除を発表
* 1951年(S26)9月8日、政府、GHQの承認を得て、旧特高警察関係336人の追放解除を発表(この日、対日講和条約・日米安全保障条約調印)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P25、P26、P29、P30
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高等学校(新制) |
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・ 高等学校は、1948年(S23)4月の学制改革を境に「旧制」と[新制」に区分される
・「旧制」は宮城県内では、(旧制)第二高等学校があったが、1949年(S24)4月に、(新制)東北大学に併合される
・ 1948年(S23)4月の学制改革で誕生する(新制)高等学校は、多くは戦前からの中等学校(旧制中学校、高等女学校、商業学校、工業学校、農業学校などの実家学校)が移行したもので、市立、県立、私立がある
・ 旧制中等学校在校生は、1948年(S23)4月時点の4~5年生が新制高等学校生に移行した
<参考 ~旧制中等学校、戦時中の修業年限短縮~>
* 1943年(S18)1月21日公布、4月施行の中等学校令により修業年限4年間 / 従来の中学校、高等女学校、実業学校の修業年限が5年から4年に短縮された(「仙台市史 続編第2巻」P312) / ただし高等女学校の修業年限を2年、実業学校の修業年限を男子3年・女子2年に短縮することができる
(Wikipedia「中等学校令」2020年5月版)
* 1946年(S21)2月23日、中等学校を5年生に、(旧制)高等学校と大学予科を3年生に復活(「菅家年表」P36)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P312/Wikipedia「中等学校令」/「仙台年表」P213/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P36
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衛戍病院(陸軍病院) |
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1871年(M4)/1890年(M23)/1936年(S11) |
資料によって、改称年がことなっている
【「重訂 宮城県郷土史年表」P250】
* 1976年(M9)11月、仙台鎮台病院、仙台に創設
* 1981年(M14)3月、仙台陸軍病院と改称
* 1898年(M21)5月、仙台衛戍病院
* 1940年(S15)、仙台第一陸軍病院と改称
【Wikipedia「国立病院機構仙台医療センター」】
* 1871年(M4)、仙台鎮台病院設置(仙台城二の丸北西の亀岡御殿辺り)
* 1877年(M10)12月、外記丁の定禅寺跡地に移転
* 1890年(M23)、仙台衛戍病院に改称、のち、仙台陸軍病院に改称。
<衛戍病院 → 陸軍病院>
* 1936年(S11)、仙台陸軍病院に改称
(編者注) 東京などの衛戍病院は、昭和11年に陸軍病院に改称しているので、仙台衛戍病院も同時と思われる
* 1937年(S12)、日中戦争が始まった昭和12年、仙台第一陸軍病院と改称、負傷者が急増したので、宮城野原に臨時の分院が建てられました。それだけでは病院が足りず、現大崎市、川渡ホテルを譲りうけ、鳴子臨時病院を開設して対応しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P37~38)
* 1938年(S13)4月16日、朝香宮鳩彦殿下、仙台陸軍病院慰問(「仙台市史10 年表」P293)
* 1945年(S20)7月10日、仙台陸軍病院、仙台空襲で焼失
<陸軍病院宮城野原分院 → 仙台第一陸軍病院>
* 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院宮城野分院、開設 / 昭和12年日中戦争勃発により激増した傷病兵を収容 / 宮城野原練兵場の片隅に応急的に建設 /(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
* 1939年(S14)1月12日、仙台陸軍病院榴ケ岡分院開設(「仙台市史10」年表P295)
* 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
<地図では>
・「改正仙臺市明細全圖](明治22年5月印刷)では、「陸軍病院」
・「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)と、「最新仙臺市全地圖」(昭和11年5月現在 仙臺市土木課)では「衛戍病院」
* 1945年(S20)、終戦とともに厚生省に移管され、国立仙台病院となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
→ 以下、大項目「国立仙台病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「重訂 宮城県郷土史年表」P250/「仙台市史10 年表」P293、P295/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P37~38/「改正仙臺市明細全圖」(明治22年5月印刷)/「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)
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仙台衛戍病院は、53-18、「市民の戦後史(仙台市)」P21/仙台衛戍病院伝染病棟は、99-158/仙台陸軍病院は、53-122/仙台陸軍病院宮城野原分院は、53-118
<関連映像> 98-111(仙台の兵営配置図 明治44年)と98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、衛戍病院の場所がわかる
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防空演習(防空訓練) |
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1936年(S11)~1938年(S13) |
<防護団>
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1936年(S11)8月17日、仙台中央街防空演習
* 1936年(S11)9月18日、仙台市で大防空演習(満州事変5周年記念)
(* 1937年(S12)7月7日、日中戦争勃発)
* 1937年(S12)
4月5日、防空法公布(10月1日施行)/9月15日、宮城県灯火管制規程公布/9月17日、仙台市防空演習/10月1日、仙台市役所に防空係設置/11月16日、関東東北地方防空訓練
<家庭防火群>
「1937年(S12)10月頃から、家庭防火群組織開始。5~20戸で1ブロック、数ブロックで町家庭防火団を結成、防護分団がこれを統制する。家庭には防火担当者、群には群長を選任、工場やアパートなど特殊建物には特別家庭防護群をおく / 各家庭は常時防水用として水槽やたらい、バケツ、ホースなどを備え、戸外には防火土砂を用意。訓練警戒警報が出ると婦人はモンペ姿でバケツ・リレーの演習に引っ張り出された。」(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1938年(S13)
3月、仙台市防空委員会設置/ 8月27日、防空訓練/9月13日、東部防空訓練/11月26日、東部防衛司令部防空演習
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P37~39/「仙台放送局60年のあゆみ」P12/「仙台市史10 年表」P289、P290、P291、P294/「重訂 宮城県郷土史年表」には防空訓練関連記述なし
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防空演習(防空訓練) |
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1939年(S14) |
* 1939年(S14)5月18日、第一次防空訓練開始
* 同年7月24日、第二次防空訓練(5日間実施)
* 同年8月24日、内務省、家庭防空隣保組織要綱通牒(町内防空業務を隣組へ統合)
* 同年10月22日、第三次防空訓練(一週間実施)
********************
* 同年7月22日~一週間、仙台を中心とする防空演習(仙台駅が爆撃をうけたという想定で消火避難訓練)(「ものがたり東北本線史」P510)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台市史 10 年表」P295、P296/「ものがたり東北本線史」P510/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39
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防空演習(防空訓練) |
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1940年(S15) |
* 1940年(S15) 東部特別防空訓練
第1次開始6月7日、第2次開始9月2日(20日か?)、第3次実施10月1日(5日間)
* 1940年(S15)11月、仙台市は公会の設置に伴い、家庭防空業務規程制定(翌16年5月から町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39/「仙台市史10 年表」P298~P299
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防空演習(防空訓練) |
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1941年(S16) |
* 1941年(S16)5月1日、仙台市家庭防空業務規程公布(町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
* 1941年(S16)
8月15日、特別防空訓練実施(17日間)
10月12日、総合防空訓練、仙台市で実施
(* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦)
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「仙台市史10 年表」P301、P302/「仙台市史 年表」P111
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防空演習(防空訓練) |
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1942年(S17) |
* 1942年(S17)
4月18日、本土初空襲
(米空軍B25、16機により東京、横浜、川崎、名古屋、四日市、神戸)(「重訂 宮城県郷土史年表」P488、岩波ブックレット「年表昭和史」P19)
6月、防空指導員に対する防空講習会3回
8月1日、特別防空訓練 6日間
9月28日、総合防空訓練 3日間
12月9日、大東亜戦一周年記念防空強化運動実施
・ S17年9月、仙台市東二番丁国民学校で行われた総合訓練には、本物の焼夷弾が持ち込まれ、東二番丁警防分団、育英中学の生徒が消火訓練。
しかし、繁華街で訓練しているそばのビアホールに長い列ができて訓練どこ吹く風だった。太平洋戦争翌年で日本軍が勝ち進んでいたころで、まだ空襲の現実味がなかった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P151)
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「仙台市史10 年表」P304~P305/「「重訂 宮城県郷土史年表」P488/岩波ブックレット「年表昭和史」P19/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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防空演習(防空訓練) |
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1943年(S18) |
* 1943年(S18)6月、防空警報伝達当直規程を設け、警報を受けたときに市内各変電所とも連絡して一斉にサイレンを鳴らす
* 1943年(S18)
3月15日、仙台市特別防空訓練 6日間
7月10日、仙台市第1期防空訓練 3日間
8月25日、仙台市臨時特別防空訓練(東久邇宮稔彦王殿下が防空状況視察)
10月11日、仙台市第2期防空訓練開始
12月14日、仙台市防空講習所開設
戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P40/「仙台市史10 年表」P305~P307/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152
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防空演習(防空訓練) |
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1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月26日、東京15カ所・名古屋8カ所に改正防空法による初の疎開命令、指定区域内の建物強制取壊し
・仙台市でもS19年初めに防空壕用材木を配給(「新・目で見る仙台の歴史」P162)
* 1944年(S19)8月31日、仙台市防衛課設置
* 1944年(S19)
4月23日、仙台市全市一斉退避訓練
5月11日、臨時特別防空訓練 2日間
9月8日、仙台市総合防空訓練
10月6日、仙台衛戍地総合防空訓練
<防空壕>(「戦争のころ 仙台、宮城」P152~153)
・ 1944年(S19)、内務省の指示で、県内の市部(仙台、石巻、塩釜)に、防空壕設置。
・ 仙台市内には資材として丸太20万本配給
・ 「知事引継書」には、「仙台は、市内繁華街に157カ所、全市では575カ所に公共待避所、横穴防空壕15カ所、一般待避所5万5000完成。 塩釜、石巻両市と女川町(海軍基地があった)にも横穴防空壕と一般待避所がつくられ、県内合計で6万4507か所。
・ 塩釜には横穴防空壕が55カ所あり、2000人収容や1600人収容の超大型もあった。
・ 仙台の横穴防空壕は、広瀬川河畔や段丘崖で、評定河原に13か所(706m)、西公園西側に12か所(480m)のほか、北山輪王寺、青葉神社付近、蟹子沢、中島丁、愛宕橋付近にもあった。青葉区八幡手島貞一(東北大名誉教授)宅のは今も健在で入口を石で囲み、コンクリートで覆った本格的な防空壕。
しかし、仙台で作られた豪の大半は、庭や畑、空き地に穴を掘って木材やトタン板で蓋をし、土盛りした簡単な竪穴豪だった。竪穴式防空豪の基本は爆弾の爆風除けなので、仙台空襲のように油脂焼夷弾など焼夷弾が多くばらまかれた地区では、豪の中に火がついた焼夷弾が流れ込んできて犠牲者を増やした。
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32/「仙台市史10 年表」P307、P308/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152~153
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457(S19年、炊き出し訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P322の図323(退避所の設計図)
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歩行者天国(東一番丁) |
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1970年(S45)/1972年(S47)/1977年(S52)/1979年(S54) |
* 1970年(S45)10月10日から、東一番丁通り、土・日・祝日の歩行者天国始まる
* 1972年(S47)、歩行者天国を全面実施
* 1977年(S52)12月3日~25日、全面歩行者天国(午後0時~6時)
* 1979年(S54)、東一番丁通りが歩行者専用道路となる
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「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9/「仙台市史 年表」P127、P128、P131/「仙台あのころこのころ八十八年」P256
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22-58
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