項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
住宅団地 |
中山ニュータウン |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)、中山ニュータウンの造成開始
* 1979年(S54)7月7日、中山商店街で100基の街路灯完成
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仙台市立中山小学校HP/「続・ 宮城県郷土史年表」P98
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戦時衣料 |
中等学校以上の制服 |
1935年(S10)~1944年(S19) |
* 1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506)⇒ この項、S10年が正しいのか要検証
* 1941年(S16)4月、中等学校以上の制服を統一、国防色の制服に戦闘帽となる(「菅家年表」P25)
* 1943年(S18)6月4日閣議決定「戦時衣生活簡素化実施要項」で、新規仕立ては、
<男子学生生徒>は、「国民服乙号」、外套は「国民服用外套」に限定
<女子学生生徒> 装飾部分の除去に考慮し、専門学校以上は、「婦人標準服」
* 1944年(S19)2月8日、女学生の戦時型制服決定、下衣(ズボン式)の膝、足首を皮紐で締める(菅家年表P32)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506/国立国会図書館リサーチ・ナビで「戦時衣生活簡素化実施要綱」/「仙台市公報 第198号 昭和18年7月1日」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P32
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スポーツ大会(戦後復興期) |
中等学校野球全国大会 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)8月、旧制仙台二中が「夏の甲子園」に東北代表で出場、浪花商業、下関商業を破り、ベスト・フォーに残る
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P94
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商店など |
丹六 |
創業年不詳 |
<戦前>
・ 場所は、仙台駅前広場西側に面し、裏五番丁角にあった
(店舗配置図 98-044 、 98-045 、 98-046 参照)
・ 1928年(S3)の写真 98-047 の説明文に「仙台にたった一軒の夜通食堂。和定食は三十銭より、洋定食は壱圓より、そば、すし、丼類一式、階上大広間は宴会に団体に、午前六時より御入浴御随意。店主菊地粂五郎」
・ 仙台空襲(昭和20年7月10日)で焼失
<戦後>
・ 場所は、仙台駅前広場西側に面し青葉通り角にあった
・ 菓子の量り売り(安売り)で人気があった店
* 1961年(S36)12月、火災
<参照> 丹六人気 → 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」の分類項目「F-4 丹六」
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S36年火災は、「わが心の仙台駅前史」年表
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戦前は、98-047、53-92/戦後は、20-08、 53-82、98-049 、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P24~25(S30年代初め頃、夜間)、同P73(S39、カラー)
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敗戦後の諸相・仙台 |
主要事件 |
昭和20・30年代 |
仙台地方裁判所・仙台高等裁判所関連では、平事件(S24)、松川事件(S24)、東北大学イールズ事件(S25)、浜旋風事件(S26、魚のヤミ取引事件400件を一挙に処分)、朝鮮人部落集団暴行事件(S27)、小繋事件(高裁S28)、穴ぼこ事件(地裁S35、高裁S37、原付自転車で酒気を帯び市道走行中、道路の穴ぼこで転倒、死亡)、仙台高裁ピケ事件(S35)、智行ちゃん誘拐事件(S40)、労働争議にかかわるものでは、瀬峰事件(S30)、新松島駅事件(S31)、仙台駅事件(S33)、仙台南郵便局事件(S33)、長町駅事件(S33)、全国税事件(S34)、小牛田駅事件(S36)など
* 1961年(S36)8月8日、松川事件差戻し裁判、仙台高裁で全員無罪判決(「仙台市史 続編第2巻」P291)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P811~813/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P291
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「市民の戦後史(仙台市)」P111(松川事件無地判決で裁判所前の支援者たち)
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進駐軍(米軍) |
予備軍団(第16軍団) |
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* 1951年(S26)4月13日、GHQ、仙台に予備軍団設置を発表(総司令官アーレン少将)
* 1951年(S26)5月12日、仙台所在の総司令部予備軍団を、第16軍団と改称
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「仙台市史10 年表」P325/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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「市民の戦後史(仙台市)」P74(16軍団長と岡崎市長)
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仙台空襲 |
事前に防火帯づくり |
1945年(S20) |
<事前に防火帯づくり(仙台)>
・ 鉄道沿線や込み入った住宅街などが指定され、建物を取り壊す
・ 第1次分 対象は1067戸
「重要施設周辺」=清水沼、長町八本松など
「消防道路」=南光院丁西側
「鉄道沿線」=元寺小路X橋(エックスバシ)からキリンビール工場までと、五橋、専売局前から南染師町までの2地区
・ 解体作業は建設業者や、隣組を母体に編成された国民義勇隊、学徒勤労動員の学生生徒 / 仙台駅付近は7月9日が完了予定
・ 第2次分を7月9日に指定(仙台市中心部約2万4000坪、2063戸、8294人を指定し、細横丁、元寺小路など狭い道路に面した家屋を第二師団の工兵隊が取り壊す予定だったが、翌日(7月10日未明)の空襲で対象地域は全焼
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210
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下水処理 |
事業決定 |
1957年(S32)~ |
* 1957年(S32)2月、仙台市、下水道処理事業決定
* 1963年(S38)9月、南蒲生の下水週末処理場一部運転開始
* 1964年(S39)2月、下水の南蒲生幹線貫通
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「市民の戦後史(仙台市)」P152~153
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P151(建設中の南蒲生下水処理場)/「市民の戦後史(仙台市)」P152~153(南蒲生下水道終末処理場、下水道清掃車、下水幹線工事完成で握手、澱ポンプ場)
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火災(地域) |
二日町大火 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821)
* 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325)
* 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549)
/「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221
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40-01、40-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所)/「市民の戦後史(仙台市)」P64(市役所付近の焼け跡)
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国道45号線 |
二級国道指定/一級国道に格上げ |
1953年(S28)/1963年(S38) |
国道45号は、仙台市から太平洋沿岸を経て青森市に至る一般国道
<111号 →45号>
* 1953年(S28)5月、仙台・八戸線が二級国道111号に
* 1962年(S37)5月、二級国道の111号(八戸・仙台間)を含む仙台・青森間が国道45号に
* 1963年(S38)4月、二級国道45号線を一級国道に格上げ
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「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P608、P644
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国道48号線 |
二級国道指定/一級国道に格上げ |
1953年(S28)/1963年(S38) |
国道48号は、仙台市青葉区から山形市に至る一般国道
<110号 →48号>
* 1953年(S28)5月、仙台・山形線(旧関山街道)が 二級国道110号に
* 1962年(S37)5月、仙台・山形間が、二級国道110号 →国道48号に
* 1963年(S38)6月4日、国道48号線(仙台~山形)を一級国道に指定
* 1968年(S43)11月21日、国道48号線の新関山トンネル完成(仙台~山形間が車で1時間半となる)
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「仙台市史 年表」P118、P122、P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P644
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仙台市立病院 |
五橋に新築・移転 |
1980年(S55) |
* 1979年(S54)1月19日、上棟式
* 1980年(S55)3月30日、竣工
* 1980年(S55)7月1日、五橋地区(清水小路)の三島学園移転跡地に、地上10階、地下1階建ての新病院を建設、移転
* 1991年(H3)4月24日、市立病院救急センター開設(鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階、地上7階) / 8,428㎡、病床数36床
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「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P113/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P132/仙台市立病院HP
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「新・目で見る仙台の歴史」P195(五橋に移転した仙台市立病院、カラー)
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仙台合同庁舎 |
五輪1丁目 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)9月4日、五輪1丁目に仙台合同庁舎落成、仙台管区気象台も入る
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「続・ 宮城県郷土史年表」P133
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敬老乗車証 |
交付 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)10月15日、仙台市が70歳以上の市民に交付
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「仙台市史 年表」P129
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自動車など各種車両台数 |
人力車台数(仙台市/宮城県内) |
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→ 項目「人力車」参照
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七十七銀行 |
他行を合併 |
1927年(S2)、1932年(S7) |
<他行を合併>
* 1927年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409)
* 1931年(S6)11月27日、東北実業銀行、五城銀行と合併仮契約書(「仙台市史10 年表」P277)
* 1932年(S7)1月31日、七十七銀行が、東北実業銀行、五城銀行と合併し、七十七銀行に(「重訂 宮城県郷土史年表」P429)
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P356」より>
「七十七銀行は、第一次大戦後は、『米の七十七、繭の商銀』とうたわれ、宮城商業銀行とともに、県内各地に支店網を形成していった。 しかし(片倉製糸などの器械製糸工場におされて、取引先の)座繰製糸の不振によって、宮城商業銀行は大きな不良貸し付けを抱えることになり、1927年(S2)の金融恐慌をきっかけとして、仙台興業銀行ともに七十七銀行に合併されることになった。 さらに、七十七銀行は金融恐慌のさなかの1932年(S7)に東北実業銀行と五城銀行を合併し、仙台を中心とした地方の金融機関として生き残っていくことになる。」
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「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P429/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356
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ライオンズクラブ |
仙台 |
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* 1960年(S35)5月、支倉常長記念碑を仙台城址三の丸に、仙台ライオンズクラブが建立(「重訂 宮城県郷土史年表」P596)
* 1967年(S42)、市民記念植樹実施(篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈)(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
* 1968年(S43)4月13日、勾当台公園内に、仙台ライオンズクラブ寄贈の野外音楽堂完成し、寄贈式(「重訂 宮城県郷土史年表」P639)
* 1970年(S45)6月5日、全国大会を仙台で開催(「重訂 宮城県郷土史年表」P661)
* 1978年(S53)5月2日、「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」を、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建(「続・宮城県郷土史年表」P81) / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている →「政宗卿騎馬像」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P639、P661/「続・宮城県郷土史年表」P81
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シルバー人材センター |
仙台 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)12月13日、仙台市シルバー人材センター開所式
* 1985年(S60)4月1日、仙台駅東のスカイビルに移転
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「続・ 宮城県郷土史年表」P120、P190
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ポケットベル |
仙台 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)2月、仙台市にポケットベルの東北通信サービス会社設立
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「続・ 宮城県郷土史年表」P17
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在郷軍人会 |
仙台 |
1901年(M34)~1945年(S20) |
* 1901年(M34)3月21日、仙台市在郷軍人団結成
* 1910年(M43)1月1日、帝国在郷軍人会仙台支部結成
* 1933年(S8)12月3日、在郷軍人東北大会(追廻練兵場) / 第二・第八師団管下在郷軍人大会をNHK仙台放送局がラジオ中継放送
* 1936年(S11)9月25日、帝国在郷軍人会令公布、軍の公的機関となる(10月1日施行)
* 1940年(S15)4月3日、第二師団管下郷軍大会(追廻練兵場)
* 1945年(S20)8月31日、在郷軍人会解散
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「仙台市史 年表」P91、P95/「仙台市史10 年表」P282、P289/「仙台放送局60年のあゆみ」P77/「重訂 宮城県郷土史年表」P474、P506/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P17
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「いつか見た街・人・暮らし」P7と「仙台市史 特別編4 市民生活」P309に、「T13年、仙台市公会堂での在郷軍人大会」
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大学紛争 |
仙台(1) |
1968年(S43)~1969年(S44)前半 |
<1968年(S43)>
・ 1月22日、東北学院大学、授業料値上げをめぐり学生の反対運動
・ 2月8日、東北学院大学、新入生の学費値上げをめぐり大学内紛争、12日から期末試験を中止
・ 11月16日、東北大学、大学本部が学生によって封鎖
<1969年(S44)前半>
(1月19日、機動隊、東大安田講堂の封鎖解除、631人逮捕)
・ 5月23日、東北大学、大学立法に反対し、教養部で2週間スト
・ 6月2日、東北大学に学生により構内に引きずり込まれた私服警官を救出するため、機動隊出動して救出
・ 6月5日、東北大学、事務局封鎖解除をめぐり、学生同士が乱闘、二百数十人負傷
・ 6月25日、東北大学、反代々木系学生等、同大学理科実験棟を封鎖
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P49/「重訂 宮城県郷土史年表」P637、P638、P644、P649、P650/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、仙台市の中央通りに座り込む学生たち、大学講義棟封鎖)
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大学紛争 |
仙台(2) |
1969年(S44)後半 |
<1969年(S44)後半>
・ 7月1日、宮城教育大学、反代々木系学生が、同大学人文棟を封鎖
・ 7月7日、東北学院大学に機動隊出動し、封鎖中の押川記念館を解除
・ 9月18日、東北大学、教養部無期限スト、大学側は19日より前期試験を無期延期
・ 9月19日、宮城教育大学、反代々木系学生が講義棟封鎖、大学側は19日より前期試験を無期延期
・ 10月10日、「十月十日統一行動日」、仙台においてはじめてデモ隊が乗用車に放火、路上にバリケードを築き街頭闘争、学生9人逮捕
・ 10月16日、東北大学工学部管理棟、全共闘学生が封鎖
・ 10月19日、仙台市で、反代々木系学生宮城県反戦青年委員会のデモ、94人逮捕
・ 10月21日、国際反戦デー、東北は7万人参加、仙台では反代々木系学生74人逮捕
・ 10月29日、東北大文学部、教育学部を全共闘派封鎖
・ 11月14日、東北大学の臨時評議会において封鎖解除のため機動隊導入を決定
・ 11月22日、本川東北大学長、県警察本部に文書で学内封鎖解除のため機動隊導入を要請
・ 11月23日、宮城県警察機動隊、東北大学構内に出動、封鎖されていた教養部理科実験棟など5つの建物全部の封鎖を解除
・ 11月27日、東北大学、法・経・理の3学部授業再開
・ 12月1日、東北大学教養部ロックアウト解除、文学部・教育学部も授業再開
(12月17日、文部省、大学紛争白書を発表、紛争大学合計124校)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P650、P652、P653、P654、P655
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、学生が大学講義棟を封鎖、
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大学紛争 |
仙台(3) |
1970年(S45)~1976年(S51) |
<1970年(S45)>
・ 3月9日、宮城教育大学、教授会で卒業式中止を決める
・ 3月30日、東北大学、臨時評議員会で、この年の入学式中止決定
・ 6月19日、仙台三高にゲバ装備の高校生十数人乱入、職員室や窓ガラスなどを破壊
<1972年(S47)>
・ 東北大学学費値上げに抗議した全学ストが長時間続き、2年生全体の3分の2にあたる1500名が新旧単位不足で留年
・ 6月12日、学生が東北大学教養部講義棟封鎖
<1976年(S51)>
・ 2月10日、東北大学教養部、紛争のため講義棟破壊
・ 3月25日、東北大学、卒業式で、演壇占拠事件
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「重訂 宮城県郷土史年表」P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P11、P50、P52/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538
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ネオンサイン |
仙台では・・・ |
1928年(S3)~ |
* (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降
* カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。
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「番丁詳伝」P197
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奈良原式鳳号 |
仙台で飛行を披露 |
1913年(T2) |
* 1913年(T2)11月15~16日、「大正2年、宮城野原に於いて飛行機(奈良原式)はじめて滑走しわずかに地上を離れたる程度なりき これを見物する為、数萬の群衆宮城野原に殺到す」
/「仙台市史 年表」P96には「大正2年9月22日、宮城野原練兵場で飛行大会開催」とあるが、日付が異なるので別の大会か?
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「重訂 宮城県郷土史年表」P356
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99-160、99-161、99-162
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ロシア兵捕虜 |
仙台に収容 |
1905年(M38) |
日露戦争で捕虜となったロシア軍将兵を仙台でも収容
* 1905年(M38)3月30日、仙台に到着
この後、宮城野原の捕虜収容所に約2000名を収容
* 1905年(M38)11月27日、ロシア兵捕虜の送還始まる平屋の収容所に移りました。初めて外国人を見る人が多く、寺のまわりは、毎日見物人で混雑したそうです。(「仙台市史 年表」P93)
・「仙台には、2252人の捕虜がやってきました。37人の将校は割烹や旅館に、他の大多数の兵士は寺院に収容され、後に宮城野原の国立病院機構仙台医療センターの場所に建設した平屋の収容所に移りました。捕虜たちは朝の点呼を受けると後は何もやることがなく、散歩したり読書、雑談をして一日は終わりました。将校には貴族の子弟が多く、白いズボン、白靴という姿で芸妓を連れて夜の街に繰り出すものもいました。宮城野原ではドラム缶で風呂をわかして入浴させようとしたところ、入浴の習慣はないようで、殺されると思ったのか逃げまわる兵もいたそうです。
帰国前日、リャポノフ中将は第二師団を通じて平穏、友好的だった市民に感謝の書簡を贈りました。仙台ハリストス正教会には、仙台で病死した捕虜3人の資料が残っています。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P70~71)
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「仙台市史 年表」P93/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P70~71
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都市型CATV |
仙台に登場 |
1989年(H1) |
* 1989年(H1)11月、仙台市に都市型CATV(有線テレビ)開局
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「続・ 宮城県郷土史年表」P264
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飛行船「雄飛号」 |
仙台に飛来 |
1917年(T6) |
* 1917年(T6)7月22日、飛行船「雄飛号」、仙台に飛来
埼玉県所沢から夜間飛行し、5時間40分かけ、深夜0時10分に仙台・宮城野原練兵場に到着した
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99-163、99-164、99-165、99-166
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リサイクル |
仙台の事例 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)5月25日、仙台市に、空き缶空き瓶選別センター発足
* 1984年(S59)6月、使用済み乾電池の回収箱、店頭に設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P177、P178
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婦人の社会活動(戦後・仙台) |
仙台の婦人団体 |
1945(S20)~1994年(H6) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439「仙台市婦人のあゆみ」>
・ 昭和20年~43年頃までの運動と団体の動向を記述
・ 市内の婦人団名(昭和40年)~市教委把握数は45団体
・ 活動内容が記述された団体は、日本キリスト教婦人矯風会仙台支部、日本婦人有権者同盟仙台支部、仙台市主婦連合会、仙台婦人懇談会、宮城婦人問題連絡会、仙台市婦人会議、地域婦人会、みやぎ草の実、高砂むつみ会、葉月会、PTA、社会学級、仙台市母子福祉連合会、仙台市農業協同組合婦人部、労働組合婦人部、婦人公務員、仙台教職員組合婦人部 / そのほかに、民間婦人の職場、パートタイマー、公職進出についても触れている
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459>にも、婦人会をはじめ、戦後の女性たちの社会活動組織について記述あり(昭和63年位まで)
* 日本基督教婦人矯風会仙台支部、戦後すぐ活動再開(街娼撲滅運動、平和運動)
* 1946年(S21)、稲村キクエの呼びかけで新日本婦人同盟仙台支部、結成(1950年に、日本婦人有権者同盟仙台支部と改称)
* 1947年(S22)ころ、国鉄労働組合婦人部、日本教職員組合婦人部、農業協同組合婦人部など、活動開始
* 1947年(S22)、仙台市主婦連合会発足(各種団体や労働組合の女性たち、地域の主婦も多数結集)
* 1949年(S24)2月、仙台婦人懇談会結成
* 1959年(S34)、宮城県婦人問題連絡会結成
* 1966年(S41)、仙台市婦人会議発足(55グループが参加)
・ 1960年代以降、婦人防火クラブ誕生(S37、萩の台婦人防火クラブ/S38、高砂戌区婦人消火隊など) / 1978年(S53)の宮城県沖地震後には町内会単位で結成が進む
・ 1975年(S50)、国際婦人年を契機に、仙台では、新たに女性問題・社会問題の学習グループ、消費者グループ、育児および育児ボランティアグループ、高齢者介護など福祉のボランティアサークルなど発足
・ 1987年(S62)3月、エルパーク仙台(仙台婦人文化センター)オープン / 記念して「女たちのメッセージ」開催(参加団体:当初は29 → 1994年(H6)には40団体以上)
・ 「女たちのメッセージ'94」の参加団体名一覧表 / 福祉・ボランティア活動、育児支援活動、学習活動など41団体(「仙台市史 特別編4 市民生活」P459)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459
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「市民の戦後史(仙台市)」P186と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P458に、「S41年10月、仙台市婦人会議結成大会」
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学童疎開 |
仙台の学童 |
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・ 仙台市の学校は、強制疎開の指定地ではなかったが、縁故疎開は着々と進められていた。
・ 宮城師範付属国民学校では、疎開できる縁故のない3年生以上の学童60余人を、仙台空襲のあとに加美郡宮崎村に疎開させた。借用予定だった宮崎国民学校が陸軍予備士官学校生徒に占領されたので、やむなく村内の洞雲寺と長泉院や付近の農家に収容した。
<「戦争のころ 仙台、宮城」P150)>
宮城県でただ1校、仙台空襲(S20年7月10日)の18日後に集団疎開
* 1945年(S20)7月28日、宮城師範男子部付属国民学校129人が、仙台軽便鉄道仙台駅から乗車、宮崎村(東町洞雲寺、柳町長泉寺と近所の農家)に疎開
・ 129人は、全校生の25%で、親が転勤族などで地元に縁故がない児童
・ 学校では、地元の婦人12人に炊事作業を頼み、寺にはトイレが増設された。風呂はそういうわけにはいかず、多くの子は近くを流れる田川に毎日のように泳ぎに行きました。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P317/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P150
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電話 |
仙台の市内局番 |
1954年(S29)/1963年(S38) |
* 1954年(S29)4月29日、仙台市内の電話番号に「局番」がつく (「2」と「3」局誕生) / 東北初
* 1960年(S35)、局番「5」新設
* 1961年(S36)、局番「6」新設(榴ヶ岡に東分局開局)
* 1962年(S37)8月、仙台の市外局番が「0222」となる / 仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1963年(S38)1月20日、仙台市内の電話局番が「2桁」になる(22・32・42・52・65局などに)
* 1963年(S38)、長町分局開局、局番「48」新設
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局、局番「34」新設
* 1963年(S38)11月~1968年(S43)1月、局番9つ新設(設置順に、57,29,21,58,33,86,88,24,27)
************************************
* 1986年(S61)7月1日、仙台地区の電話「市外局番022」となる / 同日、仙台・岩沼・大河原・古川地区の市外電話局番3桁実施
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P575~578/「仙台年表」P230/「重訂 宮城県郷土史年表」P607/「続・ 宮城県郷土史年表」P207
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映画館(戦前) |
仙台の映画館と劇場一覧 |
昭和11年頃 |
<映画館>
・ 東一番丁(中央部) 日活館(日活契約、椅子席)
・ 同(日の出横丁) 日乃出映画劇場(P.C.L特約、椅子席)
・ 東一番丁(南部) 文化キネマ(松竹特約、椅子席)
・ 東三番丁 読売会館(新興契約)
・ 河原町 (第二)パテー館(大都契約)
・ 国分町 世界館(大都特約)
・ その他 公園館(大都特約)
廣瀨座(新興契約)
<このころから、映画に対する統制が強まる>
・ 1934年(S9)、内務省、映画統制委員会を中央に設置 / 映画は国策の一環に組み入れられ制約をうけてゆく
・ 1936年(S11)夏、これまで自由配給されていた欧米映画に対する干渉が高まり、検閲が苛烈になってゆく
<劇場>
・ 仙台歌舞伎座(国分町、大正9年開座、収容力1200)→ 項目「仙台歌舞伎座」参照
・ 仙台座(南町通・東四番丁角、明治23年開座、収容力1800) → 項目「仙台座」参照
・ 東一館(収容力500 / 東一番丁、大正6年開業)
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P72/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352(東一館の開業年)
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映画館(戦前) |
仙台の映画館一覧 |
大正末期~昭和初期
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・ 東一番丁(北部) 森徳座(昭和6年閉館)
・ 東一番丁(中央部) 日活パテー館
同 仙集館(昭和8年閉館)
・ 東一番丁(文化横丁) 文化キネマ
・ 東三番丁 読売会館(洋画中心)
→項目「仙台東宝劇場」参照
・ 国分町 世界館(大正3年4月開館、
その後日本館、帝国館、キネマ館
と改称、大正11年5月に電気館
・ 河原町 第二パテー館
・ 南鍛冶町 栄楽館(第二仙集館)
・ 長町 長町劇場(昭和3年開場)
無声映画時代の弁士
「番丁詳伝」P113に、大正末期~昭和にかけ活躍した、各映画館(仙集館、日活松島座、文化キネマ、世界館、パテー館)の弁士名が記載されている
入場料(昭和4~5年頃) 大人一人、20~30銭
(かけそば、ゴールデンバット(たばこ)が5銭、火鉢や座布団の賃料が5銭)
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「番丁詳伝」P108、P112~113/「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236
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ラジオ体操会 |
仙台の発会式 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)8月1日、全国ラジオ体操会始まり、仙台では東六番丁小で発会式
* 1951年(S26)5月6日、NHK、戦後につくられた新ラジオ体操初放送
* 1954年(S29)5月、宮城県ラジオ体操の会発足
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「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/[NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P30
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医療機関 |
仙台オープン病院(旧・鶴ケ谷オープン病院) |
1976年(S51)/1986年(S61) |
→ 項目「仙台オープン病院」参照
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スポーツ大会 |
仙台カップ・国際ユースサッカー大会 |
2003年(H15) |
* 2003年(H15)、第1回仙台カップ・国際ユースサッカー大会、開催 / 2010年(第8回大会)まで開催、2011年大会は東日本大震災の影響で開催が中止、以後も休止状態 / 会場は「仙台スタジアム」(2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」) /
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台カップ・国際ユースサッカー大会」(2020年4月)
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トラックターミナル |
仙台トラックターミナル開業 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)11月20日、仙台トラックターミナル、仙台市苦竹に開業、16業者参加
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「仙台市史 年表」P122 /「重訂 宮城県郷土史年表」P606
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スポーツ大会 |
仙台ハーフマラソン大会 |
1991年(H3) |
* 1991年(H3)3月17日、第1回仙台ハーフマラソン大会
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「続・ 宮城県郷土史年表」P271
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ビル建設 |
仙台ビルヂング |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)、仙台初の高層建築物となる地上6階建ての「仙台ビルヂング」が東一番丁と南町通りの交差点角に完成
(仙台の本格的貸ビル第1号)
<編者注> S28年12月完成し協和銀行が入居
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「仙台市史 年表」P118/「市民の戦後史(仙台市)」P75/ 「番丁詳伝」P210
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36-08/「市民の戦後史(仙台市)」P75 /「仙台市史 特別編4 市民生活」P181
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仙台ホテル |
仙台ホテル開業 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)5月15日、仙台ホテル開業式挙行(「仙台市史10年表」P210)
<編者注> 大泉旅館が仙台駅前に、大泉支店の建物とは別に、「仙台ホテル」を仙台駅前広場に面した場所に建築し、開業
* 1896年(明治29年)、「仙台ホテル」を仙台駅前広場に面した場所に開業 / 2階建ての和洋折衷建築であり、東北地方初の洋式ホテルであった(Wikipedia「仙台ホテル」)
* 1903年(M36)6月、洋食開始(この年、陸奥ホテルは洋食を廃業)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P84)
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「仙台市史10年表」P210/「仙台はじめて物語」P90/Wikipedia「仙台ホテル」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P84
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98-062(「仙台市老舗百店史」P129のスケッチ画)と「目で見る仙台の歴史」P124に『明治29年建築の仙台ホテル』 <編者注>両書とも説明文に明治28年頃とあるが、明治29年完成のホテル第1代
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伝染病流行 |
仙台・戦後流行 |
昭和20年代以降 |
<昭和20年代>
* 1945年(S20)、腸チフス・パラチフス555人、ジフテリア480人、
* 1946年(S21)、腸チフス・パラチフス313人、ジフテリア293人、発疹チフス383人、戦後引き揚げ者とともに持ち込まれ流行した痘瘡が50人
* 赤痢は、S21~22年に仙台で約1000人、S25~S27には連続して爆発的に発生し、榴岡病院(仙台市立の伝染病専門病院)は、畳敷きの部屋まで病室に転用
・ 結核、社会各層に蔓延、S27年ころから目に見えて患者数、死亡率とも減少
・ 戦後、生活環境がもっとも悪化した時期で、ノミ、シラミ、ハエ、蚊、ダニなどが、S24年頃まで広範囲に発生、その後減少、ノミ、シラミ、ダニの類は全く姿を消した
<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったという / 同年冬には仙台駅頭で撒布
<昭和30年代以降>
・ 小児マヒ 1959年(S34)に34人、1960年(S35)に18人 / 生ワクチン普及で発生激減
・ 赤痢、S35年の赤痢患者・保菌者の収容数は696人(前年度の倍)/ 以後、患者ふたたび多く発生(原因は抗生物質耐性菌の出現、学校・職場を中心の大量集団発生)、S37年11月名掛丁に集団赤痢発生、S41年4月の集団赤痢216人
・ 腸チフス・パラチフス、29年以降は年間10人以下だったが、1967年(S42)9月、市内で集団発生あり患者57人
<榴ヶ岡病院(伝染病専門病院)・病名別収容患者数>
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P720に、「S20~42年度の伝染病別収容患者一覧表」 ・・・ S24年以降は、赤痢患者数が全伝染病のトップ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81、P672~676、P682、P718~721
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年中行事(まつり) |
仙台七夕 |
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* 毎年8月6日~8日開催 → 項目「仙台七夕」を参照
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写真分類E「仙台七夕」の全写真
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市場 |
仙台中央公設市場(戦後の中央マーケット) |
1946年(S21) |
<開設>
1946年(S21)5月か8月、「仙台中央公設市場」開設、場所は、東一番丁の南部(旧・大通り)、藤崎より南で道の東側
*「仙台中央市場」開設は、
・「市民の戦後史」P30のキャプションではS21年5月
・ 同P7の年表では、S21年8月
・「仙台市史特別編4 市民生活」P91ではS21年8月 →「S21年8月、仙台露天商実業睦組合が、東一番丁から南光院丁に向けて建設した仙台中央公設市場が156店の出店で正式に開場した」
・仙台睦商業協同組合は中央マーケットと呼ばれてコマ店110が軒を並べ、生鮮食品からは舶来ものの高級品までなんでもそろう市場であった(「番丁詳伝」P210)
<火災>
*1948年(S23)2月10日
・ S23年2月、東一中央公設市場92戸焼失(「市民の戦後史」P9)
・ S23年2月10日、東一番丁中央市場で火災、95戸焼失(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818)
・ S23年2月20日、東一番丁に昼火事あり、東一中央公設市場及南松竹映画館等焼失す(「重訂 宮城県郷土史年表」P525)
*1948年(S23)5月27日
・ S23年5月、東一番丁仙台中央市場72戸焼失(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818)
・ S23年5月27日、仙台市東一番丁公設市場、火災で61戸を焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P526)
・ S23年5月27日、約70戸焼失(「仙台市史 年表」P115)
・ 仙台中央市場62戸全焼(「仙台市史10 年表」P318)
*1951年(S26)2月5日
・ 午後1:40頃、東一番丁火事、東一マーケットに延焼す(「仙台年表」P221 / 「重訂 宮城県郷土史年表」には記述なし)
*1961年(S36)12月25日、東一番丁中央市場で、3棟17戸焼失(「仙台市史10 年表」P318、「重訂 宮城県郷土史年表」P602)
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<開設>
「市民の戦後史」P7、P9、P30 /「仙台市史特別編4 市民生活」P91/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818/「仙台年表」P221/「番丁詳伝」P210/「仙台市史 年表」P115/「仙台市史10 年表」P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P526、P602
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22-55(の右端に写る)/98-013
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警察署 |
仙台中央警察署 |
1966年(S41)~ |
<東三番丁時代>
* 1966年(S41)4月1日、勾当台地区(定禅寺通り北側に面して)あった仙台北警察署の建物を仙台中央警察署(新発足)とし、仙台北警察署は荒巻に新設移転
<一番町4丁目へ移転>
* 1970年(S45)3月25日、仙台中央警察署が、現・一番町4丁目に新庁舎を建設(旧・仙台北税務署跡、森徳横丁と東二番丁通り交差点南西角)
* 1973年(S48)6月、仙台中央警察署で、東北初の交通管制システム始動
<五橋ヘ移転>
* 2005年(H17)、青葉区五橋1丁目(JR仙台病院の跡地の一部)に新築移転
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「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P20/Wikipedia「仙台中央警察署」(2020年7月)
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郵便局 |
仙台中央郵便局 |
1965年(S40) |
<改称>
* 1965年(S40)11月26日、南町通りの仙台郵便局が仙台中央郵便局と改称
* 1968年(S43)7月1日、郵便番号制、実施
* 1969年(S44)11月25日、郵便番号自動読み取り機、稼働(東北初)
<北目町に移転>
* 1973年(S48)9月15日、南町通から北目町に新築移転
* 1975年(S50)8月24日、仙台中央郵便局で、日曜配達休止実施
* 1987年(S62)4月23日、中央郵便局に、自動引受機登場
* 1987年(S62)7月21日、東北初の郵便貯金ATMを、藤崎デパートに設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P582/「仙台市史 年表」P124、P128/「重訂 宮城県郷土史年表」P654/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P223、P227/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62
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戦時下の学園 |
仙台中学校(市立) |
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★「市立仙台中学校」は、昭和23年以降の「市立仙台高等学校」
・「太平洋戦争勃発後も施設、設備の拡充は勧められていたが、国家総動員体制の下、生徒は勤労動員され、勉学に時間は極度に制約されていた。敵性語である英語の廃止論も盛んであったが、校長の信念でこのような意見に耳をかさなかったという。」
・「第1回(昭和15年)入学生は苦竹造兵廠に、第2回入学生は川崎市の軍需工場に動員され、それぞれ動員先で卒業式を行うという変則的なことも行われた。」
・「戦局が不利となるにつれ本土空襲は頻繁となり、ついに昭和20年7月10日未明、仙台市も空襲を受け、第一波爆撃による数発の直撃弾で校舎、校具のいっさいを焼失した。」
・「戦災後さしあたり片平丁国民学校に一時、間借りした。その後20年7月末にも、荒町、南材木町国民学校および斎藤記念館に再び借家ずまいすることとなったが、生徒数が多いため二部授業を行わざるを得なかった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P486~487
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人力車 |
仙台人力車挽子組合 |
1920年(T9)~1925年(T14) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P503>
* 1920年(T9)10月、仙台人力車挽子組合、青年自由革新党幹事の渡辺保蔵の指導で組織
* 1923年(T12)8月、仙台人力車挽子組合、再建総会 / 賃金改善と特に個人営業の自由を阻むすべての制限撤廃が運動方針 / 800余名の挽子全員を組織化
* 1925年(T14)9月、人力車挽子組合大会と値上撤廃期成大演説会(東三番丁の電気館 ☆末尾の注参照) / 人力車借用料値上反対した仙台停車場構内人力車挽子のストライキが口火となる / 800余名全員のストライキも辞さないという態度に、営業者側は無条件で値上案を撤回 / その後、個人営業の権利獲得運動を継続
・ これに自信を得た仙台停車場構内の挽子は、雇入れ・解雇は営業人と挽子合議の上で決定し、車体破損弁償は実費分を挽子と営業人が合議の上で決定することなどの要求で交渉し、全面勝利
<仙台市史 特別編4 市民生活」P193>
・ 1925年(T14)9月3日、仙台人力挽子組合臨時緊急集会(於:国分町の電気館) / 歯代(仙台駅構内の挽子80余名が営業者に収める額)1か月で18円から30円に引上げに反発
☆注: 電気館は、「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236によれば、国分町にあり、前身は大正3年4月開館の世界館で、その後日本館、帝国館、キネマ館と改称し、大正11年5月27日に電気館と改称した / 東三番丁ではない)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P503
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P503(T14年、人力車挽子組合大会・値上げ撤廃期成大演説会)
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商店など |
仙台会館 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、仙台会館、旧・大町五丁目20で創業 / 洋食・カフェー
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あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P107
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20-49
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バス |
仙台初 |
1912年(T1) |
* 1912年(T1)10月18日、仙台初のバスが営業開始
清水小路(現・五橋五丁目)の菊地道三郎所有のもの
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逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P96/「仙台あのころこのころ八十八年」P242/「仙台市史 特別編4 市民生活」P202
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