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仙台駅前から青葉通りを望む(昭和26年)
仙台駅前から青葉通りを望む(昭和26年)

分類項目 青葉通り 
タイトル 仙台駅前から青葉通りを望む(昭和26年) 
写真番号 20-08 
場所 仙台市
映像内容 絵葉書「[復興の仙台] 復興の都市計畫に依り新に出来た青葉通りは将来表通りになる予定」を複写 / 仙台駅から見た駅前 / 縦が開通間もない頃の「青葉通り」(幅50m、仙台駅から西へ向かう幹線)、横が「駅前通り」(通称、旧停車場前通り)
/ 一帯は仙台空襲(昭和20年7月)で焼失 35-20 したが、写真は、空襲から6年過ぎた頃 / 市電、トレーラーバス、荷馬車、オート三輪、乗用車、自転車、と当時の多種多様な乗り物が行き交う / 中央の市電の前では、警官が手信号で交通整理中 / 右下には籠を背負った行商のおばさん(二人連れ) / 右端は「丸光」、右上角は「丹六」(菓子)
/ 左の「こけし塔」は、仙台復興祭グランドフェア(昭和24年4月~5月、会場は西公園)の歓迎塔として建てられ、駅前に10年以上置かれていた / マツダランプの広告は写真 20-09 (昭和26年)にも写る)
/ 青葉通りの車道は、未舗装のようだが、2本の分離帯で区切られ、歩道との間が緩速車線、分離帯にはまだ植栽が見られない
撮影年代 1951年(S26) 
撮影年代判定根拠 絵葉書[復興の仙台]は昭和26年発行
関連情報/参考文献 <参照> 当サイト内の「仙台よみとき用語年表」の項目「青葉通り」

絵葉書提供者・渡邊慎也氏のコメント「ここは開通間もない青葉通の入り口。この“別世界”こそタイムトンネルをくぐった、ありし日の仙台駅前周辺の実景である。 右、オート三輪車の後ろには馬車が続き、トレーラーバスの手前には、角帽姿の大学生や着物に下駄ばきのご婦人。それにカゴを背負った行商のおばさんの二人連れなどが通る。 左、こけし塔前の二台の車は初期のダットサンか? 中央、市電の前では交通巡査が、米軍MP仕込みの手さばきで交通整理に励んでいる。しかし、人々は青葉通りの中央をゆうゆうと歩くなど、全体にのんびりとした雰囲気がただよう。 右手前「丹六」の看板を掲げた建物は、終戦直後から「菓子の安売り」で県内外から大勢の客を集めた「丹六商会」の大店舗。右端の丸光デパート(のちのビブレ)を圧倒していた。左手にはいくつかの旅館が並んでいた。」
備考 写真展入場者の記入票に「写真右下のおばちゃんたちは、多分閖上から仙台に魚を売りに来たのだと思います。背負ったガン箱には魚や焼きガレイが入っていた。」(記入者不詳)

<参照> 丹六人気 → 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」の分類項目「 F-4 丹六」

<宮城野区・田中徳一郎さん(大正9年生まれ)の思い出 「丹六」> 「1955年(昭和30年)、はじめて仙台に来て、仙台駅前の丹六の「あめ」と「お菓子」は安くておいしくて飛ぶように売れていた。 近所の分までたのまれて買った。/ 「丹六」のあめとお菓子で育った子供たちも50歳となった。(1995年記)」

<村上貞子さんの思い出 「丹六」> 「昭和33年4月、桜の散る頃、鋏と物差し1本を持って、仙台という西も東もわからぬ大都会へ出てきた。/ 丹六は大変な賑わいで、いろいろな菓子類、特に甘納豆が美味でした。/ 昭和33年6月、父の死の知らせを受けて無い金をはたいて丹六で甘納豆類を買い求め、仏前に供えたのを鮮明に覚えています。/ 乗り物は古川まで汽車、さらに実家まではバスで、2~3時間の道程でした。」

<青葉区・熊澤勝江さん(昭和25年生まれ)の記憶「トレーラーバス」> 「写真右端、市電の下にあるトレーラーバスを、昭和32年頃、南小泉線の三角公園前(保春院前丁)を曲がってきたところを見て驚いたことを思い出した。曲がった煙突から黒い煙が出ていた。」 
カラー/モノクロ モノクロ 
分類内の通し番号
画像ファイル名 sendai3030 
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