項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
ひとにやさしいまちづくり条例 |
1996年(H8) |
→ 項目「ひとにやさしいまちづくり条例」参照
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住宅団地 |
みやぎ台ニュータウン |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)、宮城町に、みやぎ台住宅団地造成
* 1987年(S62)4月6日、みやぎ台簡易郵便局完成
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「続・ 宮城県郷土史年表」P221
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消費者団体 |
みやぎ生協 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)1月12日、宮城県民生活協同組合とみやぎ学校生活協同組合合併し、宮城生活協同組合誕生
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「続・ 宮城県郷土史年表」P140
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商店など |
よろづ園(茶舗) |
1829年(文政12年) |
* 1829年(文政12年)、創業
* 1897年(M30)、藤崎と土地を交換
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「番丁詳伝」P99
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77-19 、77-17 / よろづ園の七夕飾り物(77-10 ほか)
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台風被害(戦後) |
アイオン台風 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)9月16日~17日、広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / (仙台で?)堤防決壊28か所、橋梁流失15か所、道路損壊32か所、仙台鉄道七北田鉄橋の流失を受け代行バス輸送 / (県内で)家屋流失121戸、倒壊254戸、浸水家屋3万3000余戸、田畑被害も甚大
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「仙台市史10 年表」P319/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P529
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水害 |
アイオン台風 |
1948年(S23)9月16日~17日 |
広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / 堤防決壊28か所、橋梁流失15か所、道路損壊32か所、仙台鉄道七北田鉄橋の流失を受け代行バス輸送
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「仙台市史 年表」P115
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「市民の戦後史(仙台市)」P38(洪水被害)/「新・目で見る仙台の歴史」P174(水害の太子堂付近)
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学徒勤労動員 |
アウトラインと宮城県内の状況 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314>
・ 労働力不足に対応するための中等学校生徒以上に対する集団勤労は昭和13年、文部省の「集団勤労作業に関する訓令」に始まるがこれが激しくなったのは昭和16年秋ごろから
・ 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」により、「1年を通じて30日以内、授業を廃して増産運動に協力すること」を命じられる
・ 1943年(S18)10月、閣議決定「教育に関する戦時非常措置」により、「在学期間中1年につき3分の1に相当する部分が学徒動員にあてられる」 / この傾向はさらに強化されて、「工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」(昭和19年?)、「学徒勤労の徹底強化に関する件」(昭和19年7月)などにより、「国民学校高等科生徒の動員や、中等学校3年生以上の深夜労働が認められる」ようになる
・ 仙台市においても、昭和16~17年は主として近郊農家の田畑の除草、収穫の手伝いなどだったが、18年になると男子は開墾、湿田の暗渠排水、製炭作業のほかに、原町の陸軍造兵廠、玉浦飛行場(仙台空港の前身)などの整地作業が加えられ、女子は被服廠の縫製作業に動員され、農家の手伝いには低学年を動員
・ 昭和19年にはいると、上級学年は主として日立、川崎、逗子など県外の軍需工場に動員され、低学年生徒は市内の軍需品関連工場に動員されるという状態で、仙台貯金局に動員された仙台女子商業や宮城県第一高等女学校生徒はむしろ恵まれたものとして、うらやまれた。
<編者注>
(1) 上記「閣議決定」「要綱」などの年月は、編者が補足、ただし、工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」は年月不詳
(2) 仙台の中等学校等の勤労動員の具体例 → 当データベース<仙台よみとき用語年表>の項目「戦時下の学園」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P49~50に、昭和18年春と夏の農繁期に農作業支援で動員された学徒や職域の団体(報国隊)別の動員人数、学徒が動員された軍需工場名など記述あり
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大型店・量販店 |
アムス西武 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)4月15日、ams西武仙台店、仙台駅前の再開発ビルにオープン / 西武クレジット(元緑屋、のちのクレディセゾン)の仙台市内の緑屋2店舗(東一番丁店、仙台駅前店)を統合し、駅前再開発ビルに入店することで開業 / 2003年(H15)に業態変更し、仙台ロフト
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「続・ 宮城県郷土史年表」P145/「わが心の仙台駅前史」掲載年表
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P112(S59、カラー)
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敗戦後の諸相・仙台 |
アルコール添加で三倍増醸 |
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<米不足で、酒造高も減>
・ 県酒造組合仙台支部では、1945年度(S20年度)5696石(1石=180リットル)、21年度4438石、22年度2585石
・ 政府、清酒をアルコール添加で増量する“三倍増醸”を認めたが、それでも酒造高は終戦前(S19年度)の半分以下で、時たまあった配給は1合か2合だった
<横行する密造酒>
・ 市内に流れた濁り酒は、市内小田原周辺や塩原の第三国人地域や、仙北地方の農村からが多かった
・ 仙台駅前のヤミ市で取引された、別名”白馬(ドブロク)”は、1升に米1升のバーター制、屋台の“仙台カストリ”(しょうちゅう)は1杯60円で、飛ぶように売れた
<連日報道されたメチル禍>
・ 薬店やヤミ商人から買ったメチルアルコールを飲んで、悶死や失明 / アルコールはかつての軍需物資がはっきりした表示がないままヤミに流れたもの
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72~73
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大型店・量販店 |
イトーヨーカドー |
1992年(H4) |
* 1992年(H4)7月、イトーヨーカドー仙台泉店開店
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41
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藤崎(戦後期) |
エクスポート・バザー 開設 |
1949年(S24)~1951年(S26) |
* 1949年(S24)8月10日~1951年(S26)12月、「西館」の地下1階に、外人専用売り場「エクスポートバザー」開設
・ 進駐軍(米軍)将兵と家族が対象
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「藤崎170年の歩み」P256/同P205の写真(S27年8月)とP140の写真(S26年11月)にエクスポートバザーの表示あり
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55-01、55-02、55-03、55-04
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大型店・量販店 |
エスパル |
1978年(S53) |
*1978年(S53)3月18日、仙台駅ビル内にS-PAL(エスパル)開店 / ファッション・雑貨・食品・おみやげ・レストランなどが揃うショッピングセンター
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「続・ 宮城県郷土史年表」P79/「わが心の仙台駅前史」年表/「エスパル仙台」HP
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P106~107(S53、カラー)
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民間放送(仙台) |
エフエム仙台 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)12月1日、東北で民間初のFMラジオ仙台、スタート(全国で8番目) / コールサインはJOJU-FM
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「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P154
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大型店・量販店 |
エンドーチェーン |
1958年(S33) |
エンドーは、かつて、スーパーマーケット「エンドーチェーン」を東北地方を中心に展開した会社
* 1957年(S32)12月、市内に初のスーパーマーケット誕生(「市民の戦後史(仙台市)」P102)
* 1958年(S33)11月20日、仙台市内初のスーパーマーケット「遠藤」を開設(宮町)(「重訂 宮城県郷土史年表」P590)/ エンドーチェンの第1号店
* 1964年(S39)3月、エンドー仙台駅前店、開業
* 1987年(S62)7月15日、新エンドー仙台駅前店開店
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「市民の戦後史(仙台市)」P102/「重訂 宮城県郷土史年表」P590/「続・ 宮城県郷土史年表」P226/「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「わが心の仙台駅前史」年表
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「市民の戦後史(仙台市)」P102(市内初のス-パーマーケット)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P108(S53、仙台駅前店
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ネオンサイン |
オイルショック後復活 |
1975年(S50) |
* 1973年(S48)10月25日、石油ショック発生
* 1973年(S48)11月5日、石油ショックで東京など大都市のネオンが消える(「菅家年表」P67)
* 1974年(S49)1月16日、電力の使用制限始まる(16年ぶり)、ネオン、広告塔、テレビ放送時間短縮(深夜放送禁止)(「菅家年表」P68)
* 1974年(S49)10月6日、東京・銀座にネオンが復活(「菅家年表」P68)
* 1975年(S50)11月、オイルショック以来消えていた仙台のネオンが点灯復活(「続・ 宮城県郷土史年表」P47)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P67、P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P47
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電力ホール |
オープン |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)8月4日、東北電力ビル(地上9階建)が東二番丁70に完成 / 電力ホールのほか、グランドホテル仙台、貸室、市民図書館分室を併設 / 電力ホールは7~9階で、各種催しに活用
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P596~597
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元気フィールド仙台 |
オープン |
2007年(H19) |
* 2007年(H19)6月開設 / 元気フィールド仙台(別称、仙台市新田東総合運動場)は、宮城県仙台市宮城野区にある運動場で、宮城野体育館、仙台市民球場の他、温水プール、アーチェリー場、ボルダリング室、スケートボードパークを備える
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「元気フィールド仙台」(2019年11月)
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仙台スタジアム |
オープン |
1997年(H9) |
* 1997年(H9)6月、「仙台スタジアム」が、泉区七北田にオープン / 2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」
サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールの専用公式競技場として誕生 / サッカーのベガルタ仙台のホームスタジアム
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Wikipedia「仙台スタジアム」(2019年9月)
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松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場 |
オープンとその後の経緯 |
1885年(M18)~1975年(S50) |
松島座(パテー館、仙台日活館)は、東一番丁の立町通り角のすぐ南にあった映画館(戦後は立町通りが拡幅されて広瀬通り角になった)
<明治・大正・昭和前期>
* 1885年(M18)2月、東一番丁28に、松島座開座(芝居小屋)
* 1892年(M25)、洋風に改装
* 1912年(M45)3月13日、仙台パテー館(映画常設館)となる
エムパテー会社取締役の内山梅吉が入手し、電飾輝く洋館仕上げに大改造し、M45年3月、仙台パテー館と改称し映画常設館となる
* 1919年(T8)7月、再び松島座と改称し、歌舞伎でオープン
* 1924年(T13)12月、失火焼失し1年間休座
* 1925年(T14)12月、再建し日活パテー館と改称
<編者注>[写真20-44][写真99-018]では、松島座名ののぼり旗で、T14年6月設立の「マキノプロダクション映画」上映や、『修羅八荒』(T15)上映が確認できるので、T14年12月再建後もしばらくは「松島館」だったことが確認できる
* 1932年(S7)12月、仙台日活館に改称、一部改装して初の椅子席に(「番丁詳伝」P214によれば、仙台初の椅子席映画館)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失し閉館
<戦後復活し、仙台日活劇場に>
~場所は、広瀬通り・東一番丁通り交差点の南東角~
* 1946年(S21)12月、仙台日活劇場として、東一番丁26に再オープン(「仙台映画大全集」)
* 1947年(S22)1月、日活映画劇場、東一番丁27に開設(530席)(「重訂 宮城県郷土史年表」P516)
* 1975年(S50)5月、閉館 / 跡地にジャスコ開店(1984年(S59)2月に、
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「目で見る仙台の歴史」P146/「仙台映画大全集」仙台映画館変遷史 / <参考>「東一番丁物語」(柴田量平著)P90~106、P235/「重訂 宮城県郷土史年表」P516/「番丁詳伝」P214
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仙台パテー館は、99-015、20-43、20-40/同スケッチ画は98-005/ 松島座は99-016、20-44
/ 戦後は、16-43、18-12、22-01
/「新・目で見る仙台の歴史」P146(パテー館のビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P228(仙台日活週報、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40の右角(S33年、俯瞰、仙台東映と向き合う)
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水害 |
カスリーン台風 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、県内に水害
* 1947年(S22)9月、カスリン台風で、県内はさらに大きな被害をうけ、物資はいっそう不足した
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702
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「市民の戦後史(仙台市)」P35(流失した根岸橋)
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台風被害(戦後) |
カスリーン台風(カスリン台風) |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)9月14日、カスリーン台風で宮城県下の冠水田畑7000町歩(「仙台年表」P217)
* 1947年(S22)9月16日、カスリン台風で広瀬川氾濫、架替え直後の宮沢橋(根岸橋)が流失(「仙台市史年表」P115)
* 1947年(S22)9月16日、カスリーン台風で県内被害、死者10名、負傷者3人、流失家屋106戸、田畑被害6万町歩(「重訂 宮城県郷土史年表」P521)
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「仙台年表」P217/「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P521
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ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン |
カフェ・クレーン |
1912年(M45)~1933年(S8) |
* 1912年(M45)7月27日、新式洋菓子コーヒー店カフェ・クレーン開店(一品料理と喫茶)
【「仙台はじめて物語」P74~75】
・ ツルヤ洋菓子店2階の喫茶「カフェクレーン」は、季節の花を飾った大理石張りのテーブル10余りが並び、天井には扇風機が回り、オルガンもあった
・ コーヒー、紅茶が5銭、特製アイスクリーム10銭、ライスカレー、チキンライス、ハムライスが15銭均一
・ 12~13歳の女給仕は水色の洋服とエプロン姿
・ 仙台では、「カフェクレーン」「ブラザー軒」「カルトン食堂」が知識人や学生のたまり場だった
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「仙台はじめて物語」P74~75
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22-56、45-02、45-03、98-07/「いつか見た街・人・暮らし」P38(T5年、カフェクレーレストラン内部)/「新・目で見る仙台の歴史」P146
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台風被害(戦後) |
キティー台風 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)9月1日、宮城県下の被害甚大
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「仙台年表」P220/「重訂 宮城県郷土史年表」P537
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バス |
キャブオーバー型 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)、キャブオーバー型バスが仙台市では初登場
・ 車体前部にエンジンを置いた箱型バスで、エンジンの上に運転台がある
・ 外観的には車体正面にグリルがあり、車内運転席横にエンジンの張り出しがあるのが特徴
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P91
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98-106
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青葉通り(築造) |
グリーンベルト撤去開始 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)10月5日、交通量激増のため青葉通りの車道の2本の側方分離帯(グリーンベルト)を撤去開始 / 新たに中央分離帯1本のみとした
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「仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P621
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・側方分離帯2本があった頃は、「市民の戦後史(仙台市)」P240(国分町通り交差点付近の青葉通り)/
・中央分離帯1本のみは、22-05
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定禅寺通り |
ケヤキ植樹 |
1958年(S33) |
<グリーンベルトの樹種決定まで>(「戦争のころ 仙台、宮城」P254~255)
・ 両側歩道にはケヤキを植樹したが、中央分離帯(幅12mのグリーンベルト)の樹種は、高橋陣也市助役と鈴木光三公園課長の意見が相違
・ 助役は、サルスベリかモミジを指示、課長は「大きい街路樹によって勾当台公園と西公園を結ぶ緑のトンネル」にしたい
・ 岡崎市長時代には結論が出ず、次の島野市長時代にケヤキと決まった
***********************************
1958年(S33)に初当選した島野市長の「西公園と勾当台公園を結ぶ大樹林帯にしよう」という意向で、定禅寺通りにケヤキ植樹
* 1958年(S33)、ケヤキ植樹を開始(中央分離帯に76本、歩道を含めて計157本)
* 1958年(S33)末までに植え終わる
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P254~255/「仙台市史 年表」P120/「戦災復興余話」P87
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22-06/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(S29~33年頃)/「目で見る仙台の歴史」P188(中央分離帯に植木植樹したばかりの頃)
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伝染病流行 |
コレラ |
1882年(M15)/1895年(M28) |
* 1882年(M15)7月19日、仙台区でコレラ患者発生、大流行となる
・ 7月24日に宮城郡荒巻村台原に避病院設置
・ 罹病者数930名のうち410人が死亡
(当時の仙台市人口は5万4585人)
* 1895年(M28)7月19日~9月、小田原の考勝寺に収容されていた日清戦争復員軍人からコレラが発生し流行
・ 9月5日に東十番丁裏に避病院設置
・ 仙台市の死亡者数365名
(当時の仙台市人口は6万3952人)
<参考文献> 「仙台あのころこのころ八十八年」P18~19「コレラ猛威を振う」
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「仙台市史 年表」P84、P89/「仙台市史 特別編4 市民生活」P384
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西内楽器店 |
コロンビア・マーク |
1932年(S7)~1935年(S10)5月の間に設置された |
西内楽器店の最上層についていた「コロンビアマーク」
* 藤崎西館開店した1932年(S7)11月にはまだなかった(写真53-20)
* 1935年(S10)5月(藩祖公300年祭仮装行列時)にはついている(写真44-69)
・ 従って、S7年11月~S10年5月の間についた
・ 空襲(S20)焼失までついていたかは不明
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44-69 (S10年5月)/22-52、20-46は、S10年12月以降、
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木町通小学校 |
コンクリート校舎建設 |
1954年(S29) |
北四番丁通りに面する
* 1954年(S29)9月、 木町通り小学校に、仙台市内の小学校では初めて鉄筋コンクリート校舎が完成
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「新・目で見る仙台の歴史」P181
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22-16、53-60/「目で見る仙台の歴史」P181/「市民の戦後史(仙台市)」P79(鉄筋校舎落成運動会)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(市内初の鉄筋コンクリート校舎)
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八木山橋 |
コンクリート橋 |
1965年(S40) |
* 1962年(S37)2月、八木山橋着工(「仙台城」P237)
* 1965年(S40)4月15日、新八木山橋成る / 全長117m、幅8.5m、高さ60m、旧橋より18m長く7m高し(「仙台城」P237)
* 1965年(S40)4月16日、コンクリート橋完成(全長117m、幅8.5m、デビダーク工法)(「重訂 宮城県郷土史年表」P619)
* 1971年(S46)10月1日、橋にネットを張る
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P619/「続・ 宮城県郷土史年表」P2/「番丁詳伝」P35
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「市民の戦後史(仙台市)」P171(建設中の八木山橋、完成開通した橋)/「新・目で見る仙台の歴史」P188/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図21~22(S40空撮、H9空撮カラー)
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愛宕橋(広瀬川) |
コンクリート橋 |
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日、上部を失対事業でコンクリート橋に架け替え / 橋長93.42m、橋幅8.9m、歩車道の区別あり / 「仙台市史10 年表」P285では、S10年5月20日架換工事竣工、式典挙行(出典:仙台市報)と記載
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述 /「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史10 年表」P285
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06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図101~102(S40年、H8年カラー)
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霊屋橋(広瀬川) |
コンクリート橋に |
1935年(S10) |
仙台市の失業救済事業で架け替えられた
* 1934年(S9)8月20日、起工式
* 1935年(S10)4月17日、鉄筋コンクリートのアーチ橋が竣工(「仙台年表」では8月)、橋長65.2m、橋幅8m
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「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P410/「仙台市史10 年表」P283、P285/「仙台市史 年表」P107/「仙台年表」P206
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コンクリート橋は、34-29、53-108/「目で見る仙台の歴史」P167/「新・目で見る仙台の歴史」P208/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図53(H8年)
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大橋(広瀬川) |
コンクリート橋開通 |
1938年(S13) |
* 1938年(S13)9月22日、落成式
鉄橋の腐食がすすみ、コンクリート橋(和風の勾欄・灯籠)に架け替えられた / 橋長113.2m、橋幅10m
・戦後、川内地区に進駐軍の司令部がおかれ、橋と大手門の間に歩哨が立っていて、川内地区に自由に入れない時期があった
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「仙台年表」P208/「仙台市史10」年表P294/「仙台あのころこのころ八十八年」P248/「仙台大橋の変遷」(山本晃 著)/写真99-106の説明文/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P411
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コンクリート橋は、53-102、53-101、99-106、99-107、06-04、08-03、34-30、53-36、53-37、53-106/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図57(H8年カラー)
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広瀬橋(広瀬川) |
コンクリート橋/鋼桁橋 |
1909年(M42)/1959年(S34) |
・ 広瀬川に架かり、長町から旧市内へ入る国道の橋
(M42に長町橋を架け替えて「広瀬橋」に名称変更)
<流失相次ぐ>
* 明治年間(長町橋の時代)に、広瀬川の氾濫で以下の年に橋が流失 →1884年(M17)9月15日、1889年(M22)9月11日、1908年(M41)9月30日
<鉄筋コンクリート橋>
* 1909年(M42)11月25日、広瀬橋竣工
・地元では日本の鉄筋コンクリート橋の第1号といわれるが、異説あり / 橋長127m、橋幅10.3m / 両側に当時としては珍しく歩道がつけられていた(写真99-111)
* 1935年(S10)、上流側に市電の専用橋ができた
(長町までの市電が開通し使われたのは翌S11年から)
<戦後、かけ替え>
* 1959年(S34)8月4日、老朽化で架け替え、渡り初め式 / 橋長127m、橋幅22mの鋼桁橋 / 市電専用橋は橋の中央に複線の軌道として入れられた
* 1988年(S63)4月21日、広瀬橋~長町駅前までの「杜のみち歩道」完成
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P408/「仙台市史 年表」P85、P87、P94、P96/「仙台市史10 年表」P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P593/「続・ 宮城県郷土史年表」P244
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99-111/「目で見る仙台の歴史」P143(コンクリト橋)/同P199(広瀬橋の拡張工事)/「新・目で見る仙台の歴史」P131(コンクリート橋)/「市民の戦後史(仙台市)」P100(S32年8月、架け替え工事)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図14~18(M42年架橋工事中、S40年、H9年)
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午砲(午報) |
サイレンで |
1929年(S4)~ |
* 1929年(S4)1月16日に完成した仙台市役所新庁舎(白亜の市庁舎)の屋上にサイレンを設置
* 同年2月1日から、サイレンで正午を報せた(午報)
(これにともない、川内の第二師団内で大砲を打って報せた「午砲」は廃止)
* 1945年(S20)9月25日、戦時中中止していた仙台市の午報を3年5か月ぶりに復活
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89
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一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<商店街組織> |
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S23.4、一番町大通り親和会発足 S57.11.8、「一番町大通り商店街振興組合」設立 / H2.5.28、「一番町大通り商店街振興組合」を「サンモール一番町商店街振興組合」に改称 / H3.8.6、ドイツ・ハンブルグ「ハンブルガーシュトラーゼ」と姉妹商店街提携調印
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P269
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一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<年表> |
明治期~平成10年 |
M30.2.11、藤崎が東一番丁に進出 / T8.3、南町大火 / 南町大火後の道路改修計画(T9~S2)で、東一番丁では大町角の「藤崎」以南が拡幅され、通称「大通り」となった / T14.12、大映文化シネマがオープン / S23.2.20、東一番丁に昼火事あり、東一中央市場と南松竹映画全焼 / S29.12.2、第1代アーケード完成 /S50.11.20、大通りアーケード改築完成、藤崎以南にクリスタル製シャンデリア点灯 / S52、大通りアーケード改築 / S53、大通り30周年記念行事 / S61.11.29、電動式全蓋(ドーム型)アーケード完成 / H9.11.19、藤崎アネックス開店
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「番丁詳伝」P166/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「仙台市史 年表」P115、134、218 / 「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P526、P575
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20-45、22-55、22-59、53-117、20-01-01、64-03など写真分類A-02-03(東一南部)の全写真
/ 戦後間もない東一番丁南部は、「目で見る仙台の歴史」P172、「市民の戦後史(仙台市)」P25
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一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<概要> |
概要(平成20年頃) |
中央通り角から南町通角の間のアーケード街 / 一番町二丁目、および三丁目の一部に跨る
現在のアーケードは1986年(S61年)に設置された高さ13.7mのもので、当時は日本で最も高さのあるアーケードであった / 天井付近に仕掛け時計が設置されており、時間になると人形が動く / 「文化横丁」や「壱弐参(いろは)横丁」などの横丁がある
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Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より抜粋
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軍刀(陸軍) |
サーベル →太刀型へ |
1934年(S9) |
* 1934年(S9)、陸軍の将校と准士官用の軍刀はS9年に、サーベルから太刀型に変わった
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87-01
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住宅団地 |
シーアイタウン利府団地 |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)6月16日、利府町のシーアイタウン利府団地、造成着工
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「続・ 宮城県郷土史年表」P207
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日米野球 |
シールズ対六大学選抜 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)秋、サンフランシスコ・シールズ(オドール監督)対六大学選抜(評定河原球場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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大型店・量販店 |
ジャスコ/フォーラス |
1975年(S50)/1984年(S59) |
* 1975年(S50)5月、仙台店進出(一番町の仙台日活の跡地)
* 1984年(S59)、ジャスコ仙台店からの業態転換「仙台フォーラス」開業 / イオングループのファッションビル「フォーラス」の第1号店
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/ウィキペディア「仙台フォーラス」2021年1月24日版
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火災(地域) |
ジャンジャン横丁 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)11月8日、中央1丁目のジャンジャン横丁で火災、7店焼失
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「続・ 宮城県郷土史年表」P15
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五色沼 |
スケート |
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・ 日本のフィギュアスケート発祥の地と言われる
・ 昭和11年現在、仙台スケート協会が管理 / 会員制度だが、臨時使用する場合は20銭
* 1905年(M38)、五色沼で旧制二高生中心のスケート研究行わる(「仙台年表」P181)
* 1909年(M42)、当時(旧制)第二高等学校ドイツ語教授ウィルヘルの指導のもとに、二高生の佐藤幸三、田代三郎、河久保四朗らが五色沼で滑ったのが始まり
* 1922年(T11)1月、第二高等学校(旧制)主催、第1回スケート大会開催
* 1931年(S6)1月14日、五色沼で(初の?)スケート競技会(「宮城県の百年」掲載年表)
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73/「仙台年表」P181(出典:佐々久監修「仙台の散策」S49刊)/「宮城県百科事典」P543/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「宮城県の百年」掲載年表
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2-08、53-19、29-03、73-02/「いつか見た街・人・暮らし」P4(五色沼スケート、大正13年)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図8~10/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P83(S39、カラー)
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仙台朝市 |
スタート |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)、青空市場、通称“朝市”から始まる(「仙台朝市商店街振興組合」HP)
* 1978年(S53)10月31日、新仙台駅前ビル(通称「仙台朝市アメ横ビル」)、オープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P87
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
スパイクタイヤ対策条例(宮城県) |
1986年(S61) |
→ 項目「スパイクタイヤ対策条例」(宮城県)参照
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野球場 |
スポーツマン球場 |
1929年(S4)~1933年(S8) |
* 1929年(S4)6月、杉村多利治氏(のちの日乃出映画劇場社長)が国分寺薬師堂北隣につくる / ライトの塀外は薬師堂の杉木立でファンは木に登って見物した
* 1929年(S4)6月(7月)、スポーツマン球場設立(宮城野原南部、国分寺薬師堂北隣)
* 1933年(S8)、廃止
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「仙台市史 年表」P105/「重訂 宮城県郷土史年表」P416/「仙台あのころこのころ八十八年」P70
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大型店・量販店 |
ダイエー/イオン |
1975年(S50)/2016年(H28) |
* 1975年(S50)9月9日、仙台店を東二番丁・青葉通り北東角にオ-プン(地上8階、地下2階)
* 1988年(S63)11月、ダイエー仙台泉ショッピングセンター開店
* 2016年(H28)3月8日、仙台店閉店 / 同年3月12日、同建物で、イオン仙台店としてオープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P4/「仙台市史 特別編4 市民生活」P41
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P119(S63、カラー)
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電話 |
ダイヤル即時化 |
1964年(S39)/1979年(S54) |
* 1962年(S37)8月、仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1964年(S39)11月、ダイヤルで東京、秋田、青森へ即時通話
* 1965年(S40)、ダイヤル市外通話、全国の360局と連絡可能に
* 1979年(S54)3月14日、電話、全国ダイヤル即時化実施
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仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P577~578/「重訂 宮城県郷土史年表」P616/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P73
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丸光 |
ダックシティー丸光/ビブレ/さくら野百貨店/店舗閉鎖 |
1985年(S60)/1991年(H3)/2002年(H14)/2017年(H19) |
* 1975年(S50)、ニチイ傘下に (「続・ 宮城県郷土史年表」P72では、1977年(S52)9月、スーパー・ニチイと業務提携)
* 1982年(S57)9月30日、百貨店連合と丸光(仙台)・武田山田(青森)・小美屋(川崎市)合併
* 1985年(S60)、「ダックシティー丸光仙台店」に改称
* 1991年(H3)、「ダックシティ丸光」から「仙台ビブレ」に改称
* 2002年(H14)10月、「さくら野百貨店仙台店」に変更、その後、一時休業
* 2003年(H15)、再オープン
* 2017年(H19)、倒産、売り場閉鎖
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「続・ 宮城県郷土史年表」P72、P151/Wikipedia「丸光」
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ダックシティー丸光は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P118(S62、カラー)
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