項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
国定公園 |
栗駒国定公園 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)7月22日、栗駒山を中心にする一帯を国定公園に指定(岩手県、宮城県、秋田県、山形県にまたがる大規模な山岳国定公園)
|
Wikipedia「栗駒国定公園
|
|
警察署 |
若林警察署 |
2019年(H31)~ |
* 2019年(H31)4月1日、仙台南警察署から分離し、若林警察署が開署
|
Wikipedia「若林警察署」(2020年5月)
|
|
蛍光灯 |
普及始まる |
1949年(S24) |
* 1941年(S16)、東芝が“マツダ蛍光ランプ”として、昼光色15Wと20Wを正式に発売
* 1949年(S24)、この年、白色蛍光灯(40W)、発売、商店、事務所に普及
|
Wikipedia「蛍光灯」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43
|
|
陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍予備士官学校 |
1938年(S13)~1939年(S14)/1943年(S18)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)8月13日、仙台市川内の陸軍教導学校内に「仙台予備士官学校」設置、開校式 / 1939年(S14)3月に盛岡近郊へ移転
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
|
Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
|
|
高橋是清 |
暗殺 |
1936年(S11) |
<仙台との縁> 1854年(嘉永7年)閏7月27日、江戸芝中門前町(現東京都港区)に幕府絵師川村庄右衛門の私生児として生まれ、間もなく仙台藩の足軽高橋覚治の家に里子に出され後養子となる(Wikipedia「高橋是清」より)
日銀総裁、蔵相、政友会総裁、首相を歴任
* 1936年(S11)2月26日、2・26事件で暗殺される
|
Wikipedia「高橋是清」
|
82-01
|
仙台専門店会/日専連仙台会 |
結成/改称 |
1935年(S10)/1957年(S32) |
* 1935年(S10)6月24日、仙台市内の有力専門店が、百貨店に対抗し任意組合「仙台専門店会」を結成
* 1936年(S11)10月8日、日本専門店連盟(日専連)発足し、仙台専門店会も加盟
* 1938年(S13)5月、日専連第2回全国大会、仙台で開催
* 1940年(S15)、日専連解散(戦時中断)/8月29日、仙台専門店会も解散
* 1950年(S25)5月、日専連再結成
* 1951年(S26)11月16日、仙台専門店会、日専連に再加盟
* 1957年(S32)5月、第12回日専連全国大会、仙台で開催
* 1957年(S32)8月29日、協同組合日専連仙台会と改称(「宮城県百科事典」P818では、昭和33年6月に改称)
* 1959年(S34)、日専連仙台会、東一番丁にデパート式の総合店舗を開店(中小企業の集団協業化として注目される)
* 1981年(S56)6月、第36回日専連全国大会を仙台で開催
|
「JA宮城中央会」HPの「宮城野協同組合略史」(年表)/「仙台市史10 年表」P286、P299/「仙台市史 年表」P108/「宮城県百科事典」P818/「重訂 宮城県郷土史年表」P594/「市民の戦後史(仙台市)」P98
|
「市民の戦後史(仙台市)」P98(S32年日専連全国大会、東一番丁通りでのイベント)
|
進駐軍放送局(仙台) |
開局~閉局 |
1945年(S20)~1953年(S28) |
* S20年9月23日、進駐軍放送局AFRS仙台(WLKE、1450kc/s 3KW)が開局(NHK仙台局に同居)
* キャンプ・センダイ(仙台城二の丸の旧第二師団跡地)に移転
* 1953年(S28年)10月3日閉局
「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19 →「昭和20年9月23日、進駐軍のために施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始」
|
「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19
|
25-01
|
NHK仙台放送局 |
ラジオ放送開始 |
1928年(S3) |
* 日本放送協会は、1927年(S2)年6月9日、仙台に東北支部を設置
* 1927年(S2)8月11日、原町の送信アンテナ設置のための小作地取り上げ反対町民大会 / 農民と住民が反対運動 / ビラに、「町会議員は殆んど皆弱腰になったぞ!」「彼らの陰謀をたたき潰せ! 一萬円寄付には絶対に反対しろ!」
* 1928年(S3)6月16日、東北地方で初めてのラジオ放送が仙台放送局から開始された
<初期のラジオ中継放送>
* 1929年(S4)8月14~15日、「野外納涼盆踊り大会」中継(桜ケ岡公園から)
* 1929年(S4)9月22~23日、ミシガン大学との野球戦中継(八木山県営グラウンド)
* 1934年(S9)5月16日、NHK仙台中央放送局と改称
<戦後>
* 1945年9月23日、進駐軍放送のため施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始
* 1946年(S21)6月9日、仙台復興祝賀街頭音楽大会、放送
* 1946年(S21)7月29日、東北初の放送討論会開催(会場は仙台南松竹劇場)(「重訂 宮城県郷土史年表」P512)
* 1948年(S23)6月、仙台局開局20周年、NHKラジオ番組「二十の扉」公開放送
|
「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P1、P9、P21/「仙台市史 年表」P104/「重訂 宮城県郷土史年表」P512/「仙台市史10 年表」P313/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260/「新・目で見る仙台の歴史」P148
|
44-11、25-01、25-06など「写真データベース」分類F-24の写真全部/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234(S3、リーフレット「NHK仙台放送局開局」)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234/「目で見る仙台の歴史」P160に、本放送開始時のNHK仙台局舎/「新・目で見る仙台の歴史」P148(アンテナ反対町民大会ビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P509(同ラジオ送信アンテナ)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260の写真84(二十の扉公開放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P69(のど自慢、三つの歌、二十の扉各公開放送ステージ)/「新・目で見る仙台の歴史」P175(NHK街頭録音)/「市民の戦後史(仙台市)」P42(放送討論会ステージ、NHK放送慰問団トラック、のど自慢会場東北劇場前の看板)/同P70(S27年、楽器店前でラジオ五輪実況を聞く人々)
|
NHK全国児童唱歌コンクールで連続優勝 |
東二番丁尋常小学校、2年連続優勝 |
1932年(S7)~1933年(S8) |
NHKのラジオ放送を通じて全国児童唱歌コンクールが毎年行われたが、仙台の小学校が第1回のS7年からS14年に間に7回全国優勝し大きな話題となった / 優勝校はS7年、8年が東二番丁尋常小学校
|
「NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P5/「重訂 宮城県郷土史年表」P432
|
69-03
|
NHK全国児童唱歌コンクールで連続優勝 |
材木町尋常小学校が5回優勝 |
1934年(S9)~1936年(S11)/1938年(S13)、1939年(S14) |
S7年、8年の東二番丁尋常小学校に続き、S9年、10年、11年、13年、14年は、南材木町尋常小学校が計5回全国優勝した
|
「NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P444
|
|
競馬 |
県営(市営)競馬復活/県営廃止、市に移譲/市営も廃止 |
1946年(S21)/1952年(S27)/1960年(S35) |
場所は仙台市長町郡山(のちの飯田団地と宮城自動車学校のところ)にあった
* 1946年(S21)11月16日、宮城県営仙台競馬復活(仙台市史 年表」P114、「仙台市史10 年表」P314)
* 1946年(S21)11月、仙台市営競馬(長町郡山の市営競馬場)が7年ぶりに復活、戦災復興事業の資金調達のため
* 1952年(S27)、仙台競馬場の県営競馬が廃止となり、競馬場が仙台市に移譲される(「仙台市史 年表」P118)
* 1960年(S35)3月13日、仙台市営競馬廃止を仙台市議会で決議(「仙台市史 年表」P121、「重訂 宮城県郷土史年表」P595では3月23日決議)
* 1960年(S35)3月、仙台市営競馬廃止(「仙台市史 続編第2巻」P200)
|
「「重訂 宮城県郷土史年表」P314、P514、P595/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 年表」P118、P121/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200の写真57(市営競馬)/「市民の戦後史(仙台市)」P44(S24年長町で市営競馬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P236(市営競馬のマッチラベル、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P42(S33頃)
|
銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/帝国銀行/第一銀行/第一勧業銀行 |
1937年(S12)/1947年(S22)/1971年(S46) |
<日本勧業銀行仙台支店>
* 1937年(S12)3月、日本勧業銀行が宮城県農工銀行を合併、東二番丁80(1984年現在、小田急ビルの場所)に仙台支店を開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台支店が仙台空襲で被災、引き続き同地で営業
* 1950年(S25)、特殊銀行から普通銀行へ転換
* 1952年(S27)6月、現・一番町3丁目1-26に支店新築(鉄筋コンクリート3階建)し移転
<帝国銀行仙台支店→第一銀行仙台支店>
* 1879年(M12)3月、第一国立銀行仙台出張所を仙台支店と改称し、一般営業を開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P256) / M29年に第一銀行となる
* 1947年(S22)2月24日、帝国銀行仙台支店を東三番丁南通り角に開業(帝国銀行は、S18年太平洋戦争戦時下の国策により第一銀行と三井銀行と合併した銀行)
* 1948年(S23)10月 、第一銀行設立(帝国銀行より営業譲渡を受け開業)
* 1948年(S23)10月1日、第一銀行仙台支店と改称し、東一番丁82(青葉通りに面し、東一番丁角のやや西)に新築移転
<第一勧業銀行仙台支店、青葉通支店>
* 1971年(S46)10月1日、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が発足 / 勧銀仙台支店は仙台支店に、第一銀行仙台支店は青葉通支店に
* 1974年(S49)11月、仙台支店?を新築
|
「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P256、P516、P529/Wikipedia「第一銀行」/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
|
22-07、58-03/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー)/「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208
|
商店など |
信用堂洋服店 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、信用堂洋服店、大町五丁目194で創業
|
「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P107
|
99-042/ 20-46に看板あり
|
カルトン食堂 |
竣工 |
1925年(T14) |
カルトン食堂は、旧・大町5丁目通りの北側に面す
* 1925年(T14)、竣工 / 桜井常吉が建設
* 1925年(T14)、開業(「番丁詳伝」P36)
・ 鉄筋コンクリート造、地下1階、地上3階一部4階建で、エレベーターを設置 / 屋上の展望楼からは、市内を一望、太平洋が見える
・ 1階に写真機、同材料販売、宴会場があり、和・洋食店と喫茶店を兼ねた / 化粧品部もある
<「カルトン月報 大正14年12月」より>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P85)
・ 食堂(3階)に定食(洋食コース料理 午餐2円65銭、晩餐3縁45銭)、4階にカフェ
・ 各階 スチーム装置にて春日和のよう
・ 毎週土曜日曜は、東北唯一のピアノトリオ開催
・ 料理法は最も新しく、肉は神戸から直通
|
「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P131/「重訂 宮城県郷土史年表」P400/「番丁詳伝」P36/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
|
22-28、98-029/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85(T14年、カルトン月報)
|
商店など |
繁田園(茶舗)/お茶の井ケ田 |
1920年(T9) |
* 1920年(T9)、繁田園が国分町で茶舗創業
* 1928年(S3)、東一番丁通りへ移転(住所は大町5丁目)
* 1948年(S23)、『お茶の井ケ田』に改称
ただし、[写真16-41](S25年頃撮影)には、まだ「繁田園」の看板がある
|
「お茶の井ケ田」社長の井ケ田徳治氏談/「番丁詳伝」P98
|
49-01、49-02、49-03
|
国鉄(鉄道省時代) 3 |
戦時輸送(決戦輸送) |
1944年(S19) |
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より)
* 1944年(S19) この年、国鉄は徴用者、一般疎開、工場疎開、学童疎開、北海道からの石炭輸送、戦時物資などの輸送を重点とした / 戦時貨物輸送増強のため、国鉄長町ヤードを強化 / 4月からは「決戦輸送」
<女性増加>
* 1月、国鉄現場に女性が急激に進出(仙台局管内の8%に) / 出札、改札、小荷物、車掌、列車掃除手、踏切警手など
* 3月、女性が、貨物掛、荷扱手など重労働の職種にも
<急行列車など廃止>
* 4月1日、急行半減、寝台車廃止、一等寝台、食堂車廃止
* 4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ
* 9月、唯一の急行列車も廃止(昭和20年11月20日、仙鉄の急行列車復活)
<疎開輸送>
* 3月28日、東北地方初の疎開輸送用臨時列車(常磐線まわり一関行き)
* 4月25日~6月10日、疎開輸送強化期間
<旅行制限>
* 4月1日、100キロ以上の長距離旅行制限 / 旅行者は、警察の「旅行証明書」が必要
<旅行制限:以下、Wikipedia「決戦非常措置要綱」より>
旅行制限では100km以下の乗車券の発売枚数の割当による数量の制限のほか、100km以上(乗車時間2時間以上)の遠距離列車の切符について居住地の警察署発行の旅行証明書がないと購入できないようにする措置(買い出しや遊興旅行の制限が目的)が東京都区内・横浜市内・川崎市内駅発に限り試行されたが、警察署の第一線事務増加からの反対から5ヶ月後に廃止され全国施行はされなかった。(上田卓爾「戦時下における旅行制限とガイドブックについて」)
<これ以降は、項目「国鉄(戦後)」へつづく>
<戦後の東北線関連は、項目「国鉄(東北本線)」へ>
|
「ものがたり東北本線史」P507~P532/Wikipedia「決戦非常措置要綱」
|
|
国鉄(鉄道省時代) 2 |
戦時輸送(貨物優先体制) |
1938年(S13)~1943年(S18) |
<戦時中>
(所管は鉄道省、S18年11月運輸通信省、S20年5月運輸省)
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より)
* 1938年(S13)6月、鉄道輸送は旅客より貨物重点方針決定、戦時輸送優先(全国鉄道局長会議)
* 1938年(S13)、仙台鉄道局内に第1鉄道輸送司令部仙台支部設置(司令官は大佐)、1943年(S18)に仙台地区司令部となり(司令官は大佐)、仙台駅、弘前駅には停車場司令部が置かれた
* 1938年(S13)10月1日、銑鉄局管内で「銃後弁当」売り出し(15銭)
* 1939年(S14)11月15日、ダイヤ改正、旅客を従、貨物列車を主とする
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語の表示が消える(菅家年表P25)
* 1942年(S17)10月6日、閣議、戦時陸運非常体制を決定、東北本線は石炭輸送第一(北海道の石炭を京浜の軍需工場へ輸送)
* 1943年(S18)2月28日、国鉄乗客指定制実施(厳しい旅行制限)、食堂車、寝台車完全廃止
* 1943年(S18)3月10日、仙鉄局、11本の貨物列車新設(3月11日、石炭専用列車スタート)
|
「ものがたり東北本線史」P507~P532/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25
|
|
木炭バス(国有鉄道バス) |
仙鉄局管内 |
1938年(S13) |
「昭和13年、仙鉄局管内のバス、62台中、木炭バスが15台 / 13年秋木炭は大幅に値上がりし品不足となり、バス用木炭は5割から7割も配給を削減された。ついにたきぎを燃料とするバスが出現した。16年9月1日からガソリンの使用は一切禁止された。」
|
「ものがたり東北本線史」P509
|
|
ビル建設 |
第一ビル(仙台駅前) |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)4月、第一ビル竣工
仙台駅前広場の北側に面して建設(9階建)
2018年現在は、「仙台マークワンビル」の場所
|
「わが心の仙台駅前史」P87
|
22-14/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P96
|
ビル建設 |
鳳月ビル |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)12月、青葉通り・東五番丁通り南西角に完成(5階建)
* 1988年(S63)10月、ほうげつビルがオープン
|
「わが心の仙台駅前史」P87、P91
|
99-031、22-17
|
ビル建設 |
日産生命ビル(解体) |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)5月、解体(仙台駅西口前)
|
「わが心の仙台駅前史」P90
|
22-14(の左下のビル)
|
ビル建設 |
マルカンビル(解体) |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)8月、解体
|
「わが心の仙台駅前史」P90
|
|
大型店・量販店 |
緑屋 |
1959年(S34)~1982年(S57) |
* 1959年(S34)、緑屋東一番丁店がオープン(青葉区一番町4-5-13 サンシャインビル内)、S57年に閉店
* 1967年(S42)3月、東北ビル完成し、緑屋仙台駅前店が開店(「わが心の仙台駅前史」年表)
* 1977年(S52)5月20日、仙台駅前店オープン(「続・ 宮城県郷土史年表」P68)(青葉区中央1-9-1新東北ビル内) / Wikipediaでは、1967年(S42)開店 - 1982年(S57)閉店
* 1982年(S57)3月8日、西部クレジットが、緑屋東一番丁店と仙台駅前店を閉鎖(「続・ 宮城県郷土史年表」P143)
|
「わが心の仙台駅前史」年表/Wikipedia「緑屋」/「続・ 宮城県郷土史年表」P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P143
|
東一番丁店は、31-16(マークのみ見える)
|
仙台ホテル |
戦後立て替え/閉業 |
1964年(S39)/2009年(H21) |
* 1964年(S39)5月10日、仙台駅西口前、青葉通り・愛宕上杉通り角(南東角)にオープン / 地上9階、地下2階
* 1964年(S39)、東京オリンピックに合わせ、9階建ての現在の建物が完成。仁王像一対は3階ロビーに移設
* 1985年(S60)、 ホテルを全面改装 / 同時に隣接して仙台ホテルアネックスビルを増築
* 1985年(S60)1月、ホテル5階に、「泉の庭園」設置
* 2009年(H21)12月31日、閉業
|
「わが心の仙台駅前史」年表/「仙台市老舗百店史P126」/Wikipedia「仙台ホテル」/「続・ 宮城県郷土史年表」P188
|
98-036、98-062/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P72(S39、カラー)
|
大型店・量販店 |
十字屋 |
1972年(S47)~2005年(H17) |
* 1972年(S47)4月20日、十字屋仙台店オープン(仙台駅西口前、百貨店)
* 1974年(S49)11月5日、増築オープン
* 2005年(H17)、閉店(当時はダイエーの100%子会社)
|
「わが心の仙台駅前史」年表/「続・ 宮城県郷土史年表」P8/「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「続・ 宮城県郷土史年表」P34
|
|
高等学校(新制) |
三島学園女子高等学校/東北生活文化大学高等学校 |
1948年(S23)/2003年(H15) |
<前史>
* 1903年(M36)10月27日、三島駒治・よし夫妻により「東北女子職業学校」、東三番丁に創立(本科・別科・高等研究科)
* 1913年(T2)9月、清水小路に移転
* 1924年(T13)、高等研究科廃止、専攻科と師範科設置
* 1926年(T15)、高等師範科設置
* 1928年(S3)、高等師範科研究科設置
* 1940年(S15)3月25日、財団法人三島学園設立認可
* 1944年(S19)、東北女子実業学校と改称
* 1947年(S22)、専門学校令による三島学園女子専門学校設立
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)3月、東北女子実業学校に「三島学園女子中学校」併設(S45年3月、廃止)
* 1948年(S23)4月、「三島学園女子高等学校」(普通科)設立し、女子実業学校を統合
* 1949年(S24)4月、高校別科として美容科設置(H7年廃止)
* 1952年(S27)、高校に二部(夜間4年制)新設
* 1967年(S42)、高校に附属研究科(1年)設置
* 1968年(S43)、商業科設置
* 2003年(H15)、「東北生活文化大学高等学校」と校名改称(普通科5コース、商業科2コース)、男女共学制となる
* 2008年(H20)、高校創立60周年
* 2013年(H25)、美術・デザイン科新設、普通科特別進学コース新設、商業科ライセンスコース改編
|
「三島学園」HP/「目で見る仙台の歴史」P134/「仙台市史 年表」P92/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P527~528
|
「目で見る仙台の歴史」P134に、「東北女子職業学校と学校長三島よし」/「新・目で見る仙台の歴史」P139(東北女子職業学校)
|
仙台市役所庁舎 |
第1代庁舎(木造平屋庁舎) |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)4月1日、市制施行
* 同年5月2日、市役所が開庁
庁舎(木造平屋)は仙台区役所時代の建物を転用し、1926年(T15)まで使用
* 1926年(T15)7月、庁舎新築のため、一時、旧仙台地方裁判所跡へ移転
|
「仙台あのころこのころ八十八年」(三原良吉監修 S53年刊)の口絵写真の説明文
|
98-057
|
仙台座 |
開場 |
1890年(M23) |
* 1890年(M23)11月22日、「仙台座」開場 / 南町通・東四番丁角にできた仙台初の本格的劇場 / 木造平屋建漆喰塗、外観は洋風であったが内部には幅十間の舞台と桝席・桟敷・花道を持っていた / 歌舞伎、のちには新劇、映画も上演され、政談演説会場にも利用された
* 1945年7月10日、仙台空襲で焼失
<仙台座で、仙台初の映画公開>
(「仙台はじめて物語」P218~2019『活動写真』より)
* 1897年(M30)、仙台座で、仙台初の映画公開 / 主催は東一番丁の白崎写真店主(白崎民治)
(1)4月28日~5月8日
映写機は、フランス・リュミエールのシネマトグラフ / 人物や風景など、毎夜30分上映 / 入場料10銭、しばしば電気が切れたため、少年音楽隊の演奏でつなぐ
(2)8月4日~10日(夜7時開演)「活動大写真会」
映写機は米国製ヴァイタスコープ / 入場料は大人8銭、軍人・学生4銭(当時、新聞1部が1銭2厘) / 「パリの風景や軍隊の行進」「衣装をさまざまに着替えて踊る少女」「日本美人の布ざらし」など100余本を毎晩取り替えて上映 / フィルムには部分的に赤、緑、褐色など彩色あり/ 7日には、第二師団将兵1600余人、9日に歩兵4連隊など1000余人が観覧 / 余興には音楽隊の吹奏や蓄音機で仙台芸妓連の唄を聞かせた / 事前に、円太郎馬車(乗合馬車)が旗なびかせ、賑やかな楽隊をのせて街を走り宣伝、各所でまいたチラシには「電気作用、活動着色大写真 発音器(蓄音機)付」と書かれていた
|
「仙台あのころこのころ八十八年」P238、P239/「仙台市史 年表」P87/「目で見る仙台の歴史」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P308/「仙台はじめて物語」P218~2019『活動写真』
|
「市民の戦後史(仙台市)」P22/「仙台市史 特別編4 市民生活」P227(仙台座、M25年芝居番付)
|
自動車 |
宮城県に登場 |
1903年(M36)/1909年(M42)/1910年(M43) |
* 1903年(M36)、この年、仙台市内に初めてオートバイが走る(「仙台あのころこのころ八十八年」P240)
* 1909年(M42)9月、有栖川宮、帝国水難救済会宮城県支部発会式で来県の際、幌付きフォードで仙台、松島を訪問(「仙台市史 特別編4 市民生活」P215)
* 1910年(M43)2月12日、藤崎呉服店、宮城県内で初めて二人乗り幌型自動車(ドイツ製、時速37キロ、3000余圓)を購入し、仙台を走る(「仙台市史 年表」P95、「仙台市史 特別編4 市民生活」P215)
|
「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 特別編4 市民生活」P215/「仙台市史 年表」P95
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P215(藤崎の宮城県第1号の乗用車)/「目で見る仙台の歴史」P139に、宮城県第1号の藤崎の自動車(背景は物産陳列所」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P215(M43、運転する藤崎三郎助)
|
メーデー(戦後) |
宮城県(戦後復活) |
1946年(S21)~ |
* 1946年(S21)5月1日、戦後復活第1回、宮城県庁前広場に2万人参加(11年ぶりに復活)
* 1947年(S22)5月1日、復活第2回メーデー、勤労大衆約3万結集
* 1949年(S24)5月1日、メーデー、反共系=仙台労協側、容共派=県労会議に分裂
* 1950年(S25)5月1日、宮城全労会議系、県労会議系の分裂メーデー
* 1951年(S26)5月1日、2年間の分裂メーデーをやめ、統一メーデー開催
* 1952年(S27)5月1日、県メーデー、西公園グランドに約4000名参加、学連系東北大学生150余名警官隊と衝突
|
「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史10 年表」P312、P316、P321、P323、P325、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P510、P534、P549
|
44-46(S22、戦後2回目)/「新・目で見る仙台の歴史」P179(S35年メーデー集会、宮城県庁前)/「市民の戦後史(仙台市)」P214(S43年5月メーデー集会)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P532(S36年、メーデー前夜祭のポスター)
|
新住居表示制度(仙台) |
実施 |
1965年(S40)~ |
* 1965年(S40)4月1日、旭ヶ丘地区で実施(仙台市初)
* 1965年(S40)11月1日、宮城野地区で実施
* 1966年(S41)5月1日、向山地区で実施
* 1967年(S42)2月1日、南材木町、南小泉地区で実施
* 1967年(S42)11月1日、八幡地区で実施
* 1968年(S43)2月1日、通町地区で実施
* 1968年(S43)8月1日、長町地区で実施
* 1970年(S45)2月1日、中央地区で実施(北は、柏木、昭和町、梅田町、南は、米ケ袋、土樋、五橋、西は広瀬町と広瀬川、東は宮町と仙台駅付近、に囲まれた市中央部で、上杉、中央、本町、一番町、立町、大町、など、計28町・44丁目)
(中央地区の該当範囲図は、http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/documents/s45chuuou.pdf)
* 1971年(S46)5月1日、東六番丁・原町地区で実施
* 1971年(S46)12月、露無地区の新町名公示後に異議申し立て(仙台市で初)
* 1972年(S47)5月、台原地区で実施
* 1973年(S48)5月1日、長町北地区で実施
* 1973年(S48)5月、土手内1・2・3丁目で実施
* 1974年(S49)5月1日、桜が丘地区で実施
* 1975年(S50)5月1日、若林区小泉地区と、太白区太白地区で実施
* 1976年(S51)7月5日、高松・幸町地区で実施
* 1976年(S51)9月1日、富谷町向陽台団地で実施
* 1977年(S52)2月1日、仙台港北側の港4・5丁目で実施
* 1977年(S52)7月4日、本澤・中山地区で実施
* 1978年(S53)7月3日、北根・荒町地区で実施
* 1979年(S54)7月1日、中田・西多賀地区で実施
* 1985年(S60)7月1日、六丁目地区、長町茂ケ崎地区で実施
* 1988年(S63)7月4日、榴ヶ岡1~5丁目、宮城野1丁目、八幡7丁目の新住居表示実施
|
「仙台あのころこのころ八十八年」P254/「重訂 宮城県郷土史年表」P619、P622、P626、P630、P635、P638、P641/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P10、P19、P20、P29、P40、P57、P64、P70、P71、P83、P96、P194、P248
/仙台市HPの「住居表示実施状況 実施地区名一覧《実施年降順》」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/kojun.html
|
「市民の戦後史(仙台市)」P167(市内初の旭ヶ丘新住居表示板」
|
戦時衣料 |
モンペ、防空頭巾、戦闘帽、ゲートル、髪型 |
1934年(S9)~1942年(S17) |
* 1934年(S9)6月21日、陸軍省が、陸軍軍服の色を「国防色」と命名し、被服統一運動を開始(菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P15 / 「日録20世紀 1934年」P16)
* 1938年(S13)1月、全国の女学校で生徒の断髪を禁止(菅家年表)
* 1938年(S13)、女子のモンペ姿が多くなる(菅家年表)
* 1938年(S13)、成年男子に国民服(国防色)が奨励され、流行(仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1938年(S13)7月15日、以後、男子は丸坊主、女子はパーマネントはできず(菅家年表)
* 1939年(S14)6月、中学生の金ボタンを禁止(菅家年表)
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会で生活改善刷新案決定(学生の長髪禁止、パーマネント禁止)(菅家年表)
* 1939年(S14)、この年、男はすべて国民服、カーキ色、5つボタンとなる(菅家年表)
* 1940年(S15)12月、この頃、時局の一反映として女学校生徒のモンペ姿が登校にみられ人の注目をひく(「重訂 宮城県郷土史年表」P479)
* 「昭和15年12月、女学校生徒のモンペ姿が通学にみられる」(「仙台あのころこのころ八十八年」掲載年表)
* 1940年(S15)9月6日、大日本理容連盟、標準髪型以外は受付を断ることにした(「菅家年表」P24)
* 1940年(S15)11月27日、中等学校以上の制服を統一、昭和16年4月から国防色の制服に戦闘帽となる(「菅家年表」P25)
* 1941年(S16)、この年、防空ずきん、もんぺ、ゲートルなどの非常時服装が目立つ(「菅家年表」P27)
* 1941年(S16)、女性のモンペ姿が急増(「仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1942年(S17)2月19日、婦人国民服(標準服)決定、6種(「菅家年表」P28)
|
「仙台あのころこのころ八十八年」掲載年表/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P15、P20~28、P31/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/仙台市史 特別編4の「市民生活」P27に「戦時中の衣服」につき記述あり/「仙台市史 特別編4 市民生活」P314
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P30(モンペ姿の女性たち/同P54(S18年、モンペ姿で電報配達奉仕に出発する女学生)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(婦人標準服カラー)
|
自動車など各種車両台数 |
自動車台数(宮城県内) |
1912年(T1)/1918年(T7)/1925年(T14)/1926年(T15) |
* 1912年(T1)10月、仙台市内で初めて乗合自動車の営業始まる(「仙台あのころこのころ八十八年」P242)
* 1918年(T7)、宮城県内で、自動車6台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
* 1925年(T14)、宮城県に168台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
* 1926年(T15)、宮城県に455台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P215)
|
「仙台あのころこのころ八十八年」/P242「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P215
|
|
自動車など各種車両台数 |
荷馬車、牛車、荷車(仙台市) |
1935年(S10)頃 |
* 仙台の車(昭和10年頃)
荷馬車826台、牛車24台、荷車2299台
|
「仙台の産業と観光」P27
|
<荷馬車> 20-08、18-21、22-46、22-03、44-35
<牛車> 09-06
|
自動車など各種車両台数 |
自動車台数(仙台市内) |
1926年(S1)~1985年(S60) |
* 仙台の車(昭和10年頃)(「仙台の産業と観光」P27)
・ 自動車695台(乗用572台、貨物123台)
・ サイドカー35台、オートバイ109台
* 仙台の自動車台数(出典調査中)
→数字は、自動車台数(乗用車台数、貨物自動車等台数)
・1926年(S1)、 256台(221、35)
・1935年(S10)、 704台(578、126)
・1945年(S20)、1350台(436、914)
・1955年(S30)、4348台(920、3428)
・1965年(S40)、2万3602台(8302、1万5300)
* 終戦前後、仙台市内にあった自動車台数(「仙台市史 続編1」P88)
→数字は(乗用車台数、貨物自動車等台数)
・1943年(S18)、自動車(496、804)
・1944年(S19)、自動車(448、606)
・1945年(S20)、自動車(436、914)
・1946年(S21)、自動車 (23、376)
* 仙台市内、乗用車保有台数(「仙台市史 特別編4 市民生活」P217)
・1975年(S50)、 6万8000台
・1985年(S60)、15万3000台
|
「仙台の産業と観光」(S10年、仙台市役所刊)P27/「仙台市史 続編1」P88/「仙台市史 特別編4 市民生活」P217
|
S11~15年頃は、53-88、53-92、34-08
/ 戦後は、20-07(S38)、22-13(S43)
|
五色沼 |
スケート |
|
・ 日本のフィギュアスケート発祥の地と言われる
・ 昭和11年現在、仙台スケート協会が管理 / 会員制度だが、臨時使用する場合は20銭
* 1905年(M38)、五色沼で旧制二高生中心のスケート研究行わる(「仙台年表」P181)
* 1909年(M42)、当時(旧制)第二高等学校ドイツ語教授ウィルヘルの指導のもとに、二高生の佐藤幸三、田代三郎、河久保四朗らが五色沼で滑ったのが始まり
* 1922年(T11)1月、第二高等学校(旧制)主催、第1回スケート大会開催
* 1931年(S6)1月14日、五色沼で(初の?)スケート競技会(「宮城県の百年」掲載年表)
|
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73/「仙台年表」P181(出典:佐々久監修「仙台の散策」S49刊)/「宮城県百科事典」P543/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「宮城県の百年」掲載年表
|
2-08、53-19、29-03、73-02/「いつか見た街・人・暮らし」P4(五色沼スケート、大正13年)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図8~10/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P83(S39、カラー)
|
野球場 |
昭和11年現在 |
|
昭和11年現在、仙台の野球場は、澱橋球場(収容1万人)、スポーツマン球場(収容1万人)、八木山球場(収容2万人) / (予定)東北帝国大学の球場
|
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
|
|
プール |
昭和11年現在 |
|
仙台市内のプール(昭和11年現在)
・ 愛宕プール(愛宕橋下)
・ 夏は、広瀬川上流に区域を定めて使用
・ 学校では、(旧制)第二高等学校、師範学校などに
|
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
|
|
映画館(戦前) |
仙台の映画館と劇場一覧 |
昭和11年頃 |
<映画館>
・ 東一番丁(中央部) 日活館(日活契約、椅子席)
・ 同(日の出横丁) 日乃出映画劇場(P.C.L特約、椅子席)
・ 東一番丁(南部) 文化キネマ(松竹特約、椅子席)
・ 東三番丁 読売会館(新興契約)
・ 河原町 (第二)パテー館(大都契約)
・ 国分町 世界館(大都特約)
・ その他 公園館(大都特約)
廣瀨座(新興契約)
<このころから、映画に対する統制が強まる>
・ 1934年(S9)、内務省、映画統制委員会を中央に設置 / 映画は国策の一環に組み入れられ制約をうけてゆく
・ 1936年(S11)夏、これまで自由配給されていた欧米映画に対する干渉が高まり、検閲が苛烈になってゆく
<劇場>
・ 仙台歌舞伎座(国分町、大正9年開座、収容力1200)→ 項目「仙台歌舞伎座」参照
・ 仙台座(南町通・東四番丁角、明治23年開座、収容力1800) → 項目「仙台座」参照
・ 東一館(収容力500 / 東一番丁、大正6年開業)
|
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P72/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352(東一館の開業年)
|
|
仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園猛獣射殺 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)3月25日、太平洋戦争末期の仙台市動物園で、猛獣12頭(熊4頭、シロクマ・ヒグマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ各1頭)が「空襲の際に危険」と射殺された(仙台市交通局五十年史)/ ただし仙台市史ではシロクマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ・ヒグマ・クマ各1頭の合計8頭 / 自然休園となる / 5月19日、銃殺動物慰霊塔建設
* 1944年(S19)5月19日、空襲にそなえ処分された動物たちの慰霊祭(「戦争のころ 仙台、宮城」P140)
|
「仙台はじめて物語」P104~105/「仙台市史10 年表」P307~308/仙台市史 年表」P113/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P140
|
|
日米野球 |
米大リーグ選抜対明治大学 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)11月10日、八木山球場で、「アメリカ大リーグ選抜(グローブ投手やゲーリッグら)対明治大学チーム」の日米野球試合(米13-明治2)が行われた
(【「仙台はじめて物語」P235~241】に詳述あり)
|
「仙台はじめて物語」P235~241/「重訂 宮城県郷土史年表」P428/「仙台年表」P202
|
98-064 (「新・目で見る仙台の歴史」P155の米チーム一行記念撮影と同じ)
|
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン |
カフェ・クレーン |
1912年(M45)~1933年(S8) |
* 1912年(M45)7月27日、新式洋菓子コーヒー店カフェ・クレーン開店(一品料理と喫茶)
【「仙台はじめて物語」P74~75】
・ ツルヤ洋菓子店2階の喫茶「カフェクレーン」は、季節の花を飾った大理石張りのテーブル10余りが並び、天井には扇風機が回り、オルガンもあった
・ コーヒー、紅茶が5銭、特製アイスクリーム10銭、ライスカレー、チキンライス、ハムライスが15銭均一
・ 12~13歳の女給仕は水色の洋服とエプロン姿
・ 仙台では、「カフェクレーン」「ブラザー軒」「カルトン食堂」が知識人や学生のたまり場だった
|
「仙台はじめて物語」P74~75
|
22-56、45-02、45-03、98-07/「いつか見た街・人・暮らし」P38(T5年、カフェクレーレストラン内部)/「新・目で見る仙台の歴史」P146
|
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン |
ツルヤ洋菓子店 |
1912年(M45)~1933年(S8) |
* 1912年(M45)7月27日、開店(1階がツルヤ洋菓子店、2階がカフェ・クレーン)
* 1915年(T4)、ツルヤ洋菓子店は、仙台ではじめてシュークリームを販売
* 1933年(S8)3月、付近の映画館「仙集館」から火災で類焼し閉店
【「仙台はじめて物語」P74~75】
・ 場所は戦後の靴店アピア満足屋のあたり / 開店は、年号が大正に代わる3日前 / 洋館造りは東北帝国大学の文部技官中島仙太郎の設計、夜はイルミネーションが点灯
・ 「ツルヤ洋菓子店」は、大正4年に仙台で初めてシュークリームを販売したり、ロバに曳かせた赤塗りの箱馬車で、焼きたてのパンや洋菓子を配達するなど、常に評判を呼ぶ店だった。 新製品「仙台豆」の袋入り(20銭)を買うと景品に「仙集館」の二等席の映画券1枚がついた
・ ツルヤ洋菓子店は、カフェクレーンの桜井常吉の妻はるの弟中林源助が経営
【座談会「みやぎの洋菓子60年」P21】
・「ツルヤ」のベビーシュー(シュークリーム)は有名だった。 トテ馬車と言って、箱馬車でパンを配達して有名でした。大正の頃のことです。
|
「仙台はじめて物語」P74~75/座談会「みやぎの洋菓子60年」P21(掲載誌は不詳)/「重訂 宮城県郷土史年表」P377
|
|
仙台陸奥館(陸奥ホテル) |
開業 |
1890年(M23) |
* 1890年(M23)、仙台駅前には、最初のホテルで日本鉄道経営の「仙臺陸奥館」ができるなど、明治年間に旅館やホテルの開業が相次いだ(「仙台はじめて物語」P90)
* 1894年(M27)、陸奥ホテル開業(「仙台市史 特別編4 市民生活」P83)
・日本鉄道が経営
・洋風木造3階建て、東北初の洋風ホテル
1階はビリヤードとロビー
2階は食堂、3階は客室(洋食)
|
「仙台はじめて物語」P90/「仙台市史 特別編4 市民生活」P83
|
06-23、16-57
/「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に「陸奥ホテル」(仙台停車場前)と陸奥ホテル支店(仙台停車場正面、西洋料理)の写真あり
|
ホテル |
仙台市内でオープン |
1973年(S48)~1975年(S50) |
仙台ホテルは、項目「仙台ホテル」参照
* 1960年(S35)8月、グランドホテル仙台が、同年竣工の東北電力ビルの7~9階にオープン
* 1973年(S48)8月4日、ニューシティーホテルがオープン(国分町2丁目)
* 1973年(S48)10月1日、東京第一ホテル仙台、完成
* 1973年(S48)12月7日、ホテルオーツカがオープン(鉄砲町)
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* 1973年(S48)12月19日、仙台チサンホテルがオープン(仙台駅前)
* 1974年(S49)2月20日、ビジネスホテルのニューホッタがオープン
* 1974年(S49)9月20日、仙台ワシントンホテルがオープン(青葉通り)
* 1975年(S50)3月16日、仙台プラザ・ホテル、オープン(本町2丁目)
* 1975年(S50)4月20日、ホテルリッチ、オープン(国分町2丁目
|
「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45/「続・ 宮城県郷土史年表」P22、P23、P25、P27、P32、P38、P39、
|
「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(グランドホテル仙台)
|
仙台の裁判所 |
仙台地方裁判所 |
1876年(M9) |
地方裁判所は宮城県全体を管轄 / 仙台区裁判所を併設していた
* 1876年(M9)3月2日、「宮城裁判所」開庁(仙台地方裁判所と仙台地方検察庁の前身)
* 同年9月13日、「宮城裁判所」を廃止し、「宮城上等裁判所」(宮城控訴院、宮城高等裁判所の前身)と「一ノ関裁判所」(宮城・岩手両県を管轄)を設置
* 同年11月24日、「一ノ関裁判所」を仙台に移し、「仙台裁判所」(仙台地方裁判所の前身)を設置
* 1877年(M10)に東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成(仙台区裁判所と仙台裁判所の庁舎)
* 1881年(M14)10月6日、「仙台裁判所」を「仙台始審裁判所」と改称
* 1890年(M23)11月1日、「仙台地方裁判所」に改称
* 1924年(T13)、「仙台地方裁判所」は、併設の「仙台区裁判所」とともに、片平丁に移転(宮城控訴院との合同庁舎がT13年竣工 / 秋保石積赤タイル張り洋館)
<戦後>
* 1947年(S22)5月3日、仙台地方裁判所、仙台簡易裁判所設置 / 裁判所法、検察庁法が成立し、それまでの裁判所に付属していた検事局を分離し、仙台地方検察庁設置
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎) / 旧庁舎(赤タイル張洋館)はS50年9月に解体開始
|
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「仙台市史 年表」「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
|
99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117に、『東二番丁時代の庁舎』
|
仙台の裁判所 |
仙台区裁判所 |
1876年(M9) |
仙台地方裁判所に併設されていた
・ 地方裁判所は宮城県全体を管轄
・ 区裁判所は、仙台市と周辺部の郡を管轄し、民・刑事の比較的罪の軽い事件や和解、調停や、刑事の略式手続、登記と戸籍などを扱う
* 1876年(M9)4月13日、「仙台区裁判所」設置
* 翌1877年(M10)、東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成
* 1881年(M14)10月6日、「治安裁判所」に改称
* 1890年(M23)11月1日、再び「区裁判所」に改称
* 1924年(T13)区裁判所は、仙台地方裁判所とともに、片平に移転(片平の宮城控訴院と合同庁舎となった)
☆ 東二番丁の「木造2階建庁舎」(写真99-096) は、地方裁判所・区裁判所が、1924年(T13)に片平丁に新築された「宮城控訴院」との合同庁舎(赤タイル張り洋館)に移転した後に改造され、1930年(S5)~1939年(S14)の間、仙台市立病院が使用 / 1939年(S14)にこの地に市立病院が鉄筋コンクリートの病院を新築する際に取り壊された
|
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城百科事典」P577、P597/「明治の洋風建築~宮城県~」P28~29/「新・目で見る仙台の歴史」P122
|
99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117(東二番丁時代の庁舎)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(仙台区裁判所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P139(仙台区裁判所)
|
仙台の裁判所 |
宮城上等裁判所/宮城控訴裁判所/宮城控訴院/仙台高等裁判所 |
1875年(M8)/1881年(M14)/1886年(M19)/1947年(S22) |
控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する
<宮城上等裁判所>
* 1876年(M9)9月13日、大審院が「宮城上等裁判所」を仙台に設置
* 1879年(M12)、片平丁に、宮城上等裁判所建築(ルネッサンス式、漆喰塗) / <編者注> 出典の「新・目で見る仙台の歴史」P122キャプションには、仙台上等裁判所となっているが、「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表によれば、仙台上等裁判所と称した時代はなく、宮城上等裁判所が正しいと思われる
<宮城控訴裁判所/宮城控訴院>
* 1881年(M14)10月6日、「宮城控訴裁判所」に改称(ルネッサンス式2階建て)
* 1886年(M19)5月4日、「宮城控訴院」に改称
* 1904年(M37)11月15日、片平丁の宮城控訴院構内を焼失
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」
<仙台高等裁判所>
* 1947年(S22)5月3日、「仙台高等裁判所」設置(裁判所法、検察庁法成立 / それまでの宮城控訴院に付属していた検事局を分離し、仙台高等検察庁設置
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・ 宮城県郷土史年表」P44)
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎)(「続・ 宮城県郷土史年表」P74)
|
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P274、P331、P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
|
「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-01、13-02、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館)
|
宮城控訴院(赤タイル庁舎) |
落成/解体 |
1924年(T13)/1975年(S50) |
控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する
* 1879年(M12)、宮城上等裁判所(宮城控訴院の前身)の庁舎(ルネッサンス式、漆喰塗)が片平丁に完成 / 宮城控訴院は、発足時(M19年)にその庁舎を引き継ぐ
<赤タイル張り庁舎落成>
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」
<同庁舎、解体>
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・宮城県郷土史年表」P44)
|
「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
|
「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-01、13-02,、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館)
|
仙台城二の丸焼失 |
焼失 |
1882年(M15) |
資料により、出火原因が異なっている
* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1882年(M15)9月7日、川内(旧仙台城跡)の仙台鎮台で火災発生、鎮台本営などの施設のほか、旧仙台城二の丸の建物のほとんどが焼失
* 1882年(M15)9月7日、旧仙台城二の丸(仙台鎮台本営)は雷火によりて火災を起こし、伊達家累代の建物等ことごとく焼失す。わずかに征韓の折、豊太閤より賜りたる大手門(名護屋にありし門)と巽門とのみを残したるに過ぎざりき / 二の丸遺構の9割、17~8棟焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P265)
* 1882年(M15)、追廻で行われた西南戦争の招魂祭の花火のため二の丸が全焼(「仙台市史 続編第2巻」P163)
|
「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232/「仙台市史 年表」P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P265/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P163
|
|