項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
住宅団地 |
中山ニュータウン |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)、中山ニュータウンの造成開始
* 1979年(S54)7月7日、中山商店街で100基の街路灯完成
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仙台市立中山小学校HP/「続・ 宮城県郷土史年表」P98
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発電事業 |
仙台愛宕下水力発電所 |
1921年(T10)~1929年(S4)頃 |
* 仙台市内の電気会社が1920年(T9)に建設し、翌年に開業
* 1929年(S4)頃には操業を停止、約10年間の短い歴史で幕を閉じた
「大橋の下流に築いた堰から取水した広瀬川の水を、約2キロメートルの導水トンネルを通して愛宕山の麓へ導き、そこに設けた反動水車で発電し、当時の名取郡六郷村(のち、昭和16年に仙台市に合併)へ電気を通して電灯などに運用されていたということです」
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仙台市役所関連の「広瀬川ホームページ」よりhttp://www.hirosegawa-net.com/
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銀行(地域の銀行) |
銀行一覧(明治34年時点/昭和10年時点) |
1901(M34)/1935年(S10) |
(1) 明治34年時点の仙台の銀行(仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図の裏面より) いずれも株式会社
・ 七十七銀行(大町1丁目33)
・ 宮城商業銀行(大町3丁目31)
・ 仙台銀行(大町2丁目)
・ 宮城貯蓄銀行(大町3丁目20)
・ 国民貯蓄銀行(大町5丁目)
・ 宮城銀行(大町4丁目10)
・ 通商貯蓄銀行(名掛丁)
・ 仙台貯蓄銀行(大町2丁目)
(2) 昭和9年度末の仙台の銀行(「仙台市大観」P19~20) 地名は本店所在地、数字は支店及び出張所数
<地元4行>
・ 七十七銀行(大町 / 84)
・ 宮城銀行(元寺小路 / 6)
・ 東北貯蓄銀行(大町 / 4)
・ 宮城県農工銀行(東二番丁 / 1)
<県外銀行の支店>
・ 安田銀行仙台支店(大町)
・ 常磐銀行仙台支店(元寺小路)
・ 安田貯蓄銀行仙台支店(大町)
・ 不動貯蓄銀行仙台支店(東二番丁)
(3) 昭和11年時点(「仙台の産業と観光」P22)
・地元銀行、県外銀行の支店とも、昭和10年と全く同じ
ただし、常磐銀行は常陽銀行と記載されている
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仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図~ / 「仙台市大観」(昭和10年刊)P19~20 / 「仙台の産業と観光」(仙台市役所 昭和11年刊)P22
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電話 |
ダイヤル即時化 |
1964年(S39)/1979年(S54) |
* 1962年(S37)8月、仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1964年(S39)11月、ダイヤルで東京、秋田、青森へ即時通話
* 1965年(S40)、ダイヤル市外通話、全国の360局と連絡可能に
* 1979年(S54)3月14日、電話、全国ダイヤル即時化実施
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仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P577~578/「重訂 宮城県郷土史年表」P616/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P73
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冷害・凶作 |
昭和9年 |
1934年(S9) |
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
<昭和9年>
* 1934年(S9)の凶作、米減収率、岩手県54.5%、青森県46.4%、山形県45.9%、宮城県38.3%、福島県33.4%、秋田県25.6%(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
* 1934年(S9)秋、台風・冷害のため大凶作となる
・「宮城県内、3分の1の減収」(佐々久「近代みやぎの歩み」P87)
・「この年、宮城県下農村は大冷害に見舞われ婦女子の身売り相次ぐ。東北からの女性出稼ぎは58,175人、うち半数は苦界に身を沈めた」(「仙台年表」P205)
・11月、仙台救世軍が「凶作地婦女売買救済運動本部」設置
・12月12日、皇后陛下より、凶作東北地方の乳幼児に対し、着衣1組づつ1万6000人分、御下賜(「仙台市史10 年表」P443)
・1934年(S9)10月26日、仙台市、凶作による仙台市内窮民救済のため、市吏員職員および市立学校職員の臨時救恤金拠出規定を制定
「仙台市史 特別編4 市民生活」P359~360より
・ 1934年9~11月の河北新報紙上に「娘の身売り」の記事が多い
・ 婦女子の出稼ぎ(昭和9年、警視庁管下の調査)、宮城県では1万962人(芸妓228人、娼妓520人、酌婦1264人、女給643人、女中・子守3860人、女工3346人、その他1101人)
・ 婦女子の紹介業者は地方の事情に通じ、または各地の「モグリ」業者と連絡をとり、生活に窮している婦女子のいる家庭をあらかじめ調査して機会を待っている。(中略)彼らは、窮民の貧困と無知とに乗じ若干の前渡金をエサとして、甘言を用いて誘い出すことを常套手段としている。紹介する業務内容を隠し、窮民の文盲に乗じて悪辣な契約書に捺印させ、あるいは白紙委任状を取って抱主と共謀の下に書類を偽造、変造するのも珍しいことではなかった
・ 婦女子の身売りの原因は、不況や凶作などによって生じた負債の重圧と、現実の生活難より逃れるために多額の金額を必要とするためなど、押し迫ってくる生活難を緩和する手段として家族の口数を減少させるためである
・ 売春婦に至るまでの経緯は、家庭より直ちに売春婦になる者、子守・女中あるいは女工などとして雇用され、その後各種の経路で売春婦に沈む者、売春の場を兼ねた料理店や飲食店などの雇女として働き、その後、売春婦になる者
・このような婦女子の身売りによって前借金の半額程度を得た家庭は、負債の返済、当面の生活費、病人の医薬代などに充てるが、生活の基盤は依然として不安定で、その後も婦女子からの送金を期待せずにはいられない状況が続いた
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仙台市史 特別編4 市民生活」P356~357、P359~360/「仙台市史 年表」P107/佐々久「近代みやぎの歩み」P87/「重訂 宮城県郷土史年表」P444
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P360(仙台に救世軍の凶作地婦女売買救済運動本部が設置されたことを伝える河北新報記事 昭和9年11月10日)
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冷害・凶作 |
昭和6年 |
1931年(S6) |
<昭和6年>
* 1931年(S6)、冷害
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4、昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
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仙台市史 特別編4 市民生活」P356~357
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P356(宮城県の米収穫高グラフ)/同P360(婦女売買救済運動本部設置をつたえる新聞記事)/同P361(窮民救済のため設けられた公益質屋)
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冷害・凶作 |
昭和戦前期 |
1935年(S10)/1941年(S16)/1945年(S20) |
* 1935年(S10)、冷害のため大凶作
* 1941年(S16)、冷害(宮城県内の米作、収穫半減)
* 1945年(S20)、冷害と水害のため凶作(明治42年以来の不作)
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
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仙台市史 特別編4 市民生活」P356/「仙台市史 年表」P108、P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P508/仙台年表」P211
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戦時衣料 |
国民服 制定 |
1940年(S15) |
* 1938年(S13)、成年男子に国民服(国防色)が奨励され、流行(仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1940年(S15)11月2日、「国民服令」(勅令)公布
・ 戦時下の衣装簡素化のため制定された
・ 男性用で、軍服をモデルにしたカーキ色(国防色)の服(5つボタン)
・ 「甲号」は、襟が立折襟式開襟で詰襟と開襟の両方で着られる/「乙号」は、襟が立折襟
・ 一着で仕事着、日常服、礼服を兼用できた(儀礼章をつければ礼服にも使用できた)
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仙台市史 特別編4 市民生活」P314/毎日新聞社「昭和史事典」P132/仙台市史 特別編4の「市民生活」P27
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60-40/乙号は、24-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P50(国民服、カラー)
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緑と花いっぱい運動 |
開始 |
1963年(S38) |
目標「ビルがならぶ都心には、工夫をこらして緑と花を、郊外や一般家庭にはできるだけ植樹をし、潤いのある環境を」
* 1963年(S38)、仙台市が「緑と花いっぱい運動」開始
* 1963年(S38)3月、市民ラジオ体操祭、参加者に花の種1万袋配布
・ 宣言記念式店出席者に苗木1500本配布
・ 園芸協会の協力で、苗木即売会、地域・職域団体による花壇づくり
・ 健康都市協議会直営の公園を、榴ヶ岡公園下と国道4号線土樋三角地帯の2か所に開設
* 1964年(S39)4月、フラワーポット町角に登場
・ 1965年(S40)月日、消防局の花いっぱい運動が、日本花いっぱい協会の最優秀賞受賞
* 1967年(S42)~、市民記念植樹実施(入学、卒業、長寿、転勤など記念し、市が指定する場所に記念植樹)
・篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
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仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P249~250/ 「市民の戦後史(仙台市)」P158
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「市民の戦後史(仙台市)」P158(街角のフラワーポット)
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釈迦堂 |
建立 |
1695年(元禄8年)/1968年(S43)移転 |
藩政時代(元禄8年)、伊達藩四代藩主伊達綱村が生母の冥福を祈るために建立した持仏堂
* 1948年(S23)7月、戦時供出された鐘が戻る
* 1968年(S43)、宮城県図書館建設のため、榴ケ岡4丁目の孝勝寺本堂脇に移された(「重訂 宮城県郷土史年表」P675では、「昭和46年に移転復元」)
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仙台市のHP/「市民の戦後史(仙台市)」P38/「重訂 宮城県郷土史年表」P675
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99-134、14-05/位置図は98-078/「目で見る仙台の歴史」P63(釈迦堂、二天門)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年に戻った鐘)
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金属回収 |
開始 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)2月16日、商工省、鉄製不急品の回収開始
* 1939年(S14)4月7日、宮城県内で金の提出運動始まる(各家庭は7月5日までに保有内容を申告)
* 1940年(S15)、米国などが、鉄くずや銅鉱石の日本向け輸出禁止
* 1941年(S16)9月1日、金属類回収令により金属回収開始
<仙台市では>
* 1941年(S16)10月1日(興亜奉公日)、仙台市では「戦争物資動員の日」と定め、回収強化 / 家庭の門扉、欄干、手すり、鉄瓶、傘立て、火鉢、洗面器、置物、花器、文房類まで回収
* 1942年(S17)1月20日、仙台市で一般家庭金属類特別回収(第2回特別回収、買上げ班が各戸を回り買上げ伝票に記入、財団法人・戦時物資活用協会が買上げ)
「1月20日、公会役員や中学生が14班に分かれて荷車やリヤカーに「金属特別回収訪問班」と書いた小旗を立てて各家庭をまわり供出を呼びかけました。 床の間の花瓶、仏壇に供えてあった花立て、大鍋、青銅の火鉢、傘立てなどの金属が提供されました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117)
* 1942年(S17)5月12日、工場、会社、商店、旅館、寺院などから金属回収が始まる(菅家年表)
* 1942年(S17)11月16日、ニッケル、銅貨も回収(10銭と5銭ニッケル貨、白銅貨)(菅家年表)
* 1942年(S17)11月~1943年(S18)2月、火の見櫓や家庭必需品を除く一切の銅鉄製品を回収
* 1943年(S18)8月、勅令改正で強化された
・「1943年8月、「金属類非常回収実施要領」が閣議決定され回収はより強化。 鉄製品では、門扉、鉄製ベッド、物干し、ストーブ、ロッカーなど、銅製品では新聞受け、シャンデリア、洗面機などが加えられ、公共物ではマンホール、交通標識、橋の欄干など。
仙台市立病院は昭和14年に鉄筋5階建てのビルに改修し、170台のベッドを購入したばかりでしたがこれも供出され木製に、片平の東北帝大キャンパスの周りを取り囲んでいた鉄製欄干もやはり木造に変わりました。
回収方法はよりシステム化され、隣組ごと日程を組み、会場では公会役員立ち合いのもと、買上げ者が物品を鑑定して値段をつけていきました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117~118)
* 1944年(S19)3月、仙台市電「芭蕉の辻線」のレールを回収
* 1944年(S19)9月15日、白金の強制買い上げ
* 1944年(S19)9月25日、銀の買上げ(まず、東京から始まる)
* 1944年(S19)、松島町字高城の松島橋、金属回収のため解体
* 1945年(S20)10月22日、金属回収令廃止
写真16-57と16-69は、金属回収で店の看板がなくなった仙台駅前
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仙台市での金属回収は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P25~27に記述あり
岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台年表」P209、P214/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28~29/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P117~118
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16-71、16-57、16-69/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール)/同P462(東裏丁公会の供出の様子、昭和17年)
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新伝馬町商店街 |
由来 ほか |
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<仙台市HPより 新伝馬町(しんてんまち)>
「城下町開府当初は日形町と称したが、延宝六~八年(1678~80)の仙台城下絵図からは新伝馬町となっている。国分町、北材木町、北目町と共に四伝馬町のひとつとして栄え、毎月二十六日から晦日までを担当、伝馬十匹を置いた。明治二十年の鉄道開通後も中心街をむすぶ商店街として発展を続けている。」
* 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成
* 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁の順にあとを追い、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116)
<編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に新伝馬町商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける
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仙台市HPの「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(新伝馬町通り)/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P102(S32年、中央通り新伝馬町商店街)
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市町村合併歴(仙台) |
仙台市 |
2020年(R2)現在 |
* 1889年(M22)、市制施行、仙台市誕生
* 1928年(S3)4月1日、長町、原町、七郷村の南小泉と蒲町を編入
* 1931年(S6)4月1日、七北田村荒巻,北根を編入
* 1932年(S7)10月1日、西多賀村を編入
* 1941年(S16)9月15日、中田村、六郷村、七郷村、岩切村、高砂村を編入
* 1956年(S31)4月1日、生出村を編入
* 1987年(S62)11月1日、宮城町を編入
* 1988年(S63)3月1日、泉市、秋保町を編入(市人口88万)
* 1989年(H1)4月1日、政令指定都市としてスタート(東北初、全国で11番目)、市制100周年 / 青葉・宮城野・太白・泉・若林の5区に
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仙台市HPの「仙台市のあゆみ」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P141/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
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海岸公園 |
全面復旧オープン |
2018年(H30) |
七北田川~名取川までの貞山運河沿線の自然風致を生かし、既存の松原の保全をはかる
* 2011年(H23)、東日本大震災による津波で甚大な被害
* 2011年(H23)4月~2014年(H26)3月、震災がれきの搬入場となる
* 2014年(H26)4月、海岸公園4地区(岡田、荒浜、井土、藤塚)で復旧工事開始
* 2016年(H28)10月、4地区に避難の丘が完成、一部の施設利用再開(テニスコート、運動広場)の利用再開
* その後2度にわたり順次利用再開
* 2018年(H30)7月8日、全面利用再開
<施設内容>
避難の丘(4か所)、野球場(4面)、ソフトボール場(2面)、テニスコート(10面)、パークゴルフ場、運動広場、冒険広場、遊具広場、デイキャンプ場、馬術場
<仙台市HP「海岸公園整備事業」より>
「海岸公園の再整備は、津波防災機能や、震災の記憶を継承するという新たな役割を持たせながら、自然と人がつながり、新たなにぎわい・交流を創る海岸公園の再生を目指すとともに、地区ごとに公園を訪れた利用者や周辺住民に対して、緊急時の一時避難場所とする「避難の丘」をあわせて整備し、平成30年7月に全面利用再開しました。」
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仙台市HP「海岸公園整備事業」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P385
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杜の都の風土を育む景観条例 |
制定 |
1995年(H7) |
* 1995年(H7)、「杜の都の風土を育む景観条例」制定
・ 景観計画区域内における建築物等の行為の制限
・ 景観地区に指定された区域内において、建築物を新築する場合には、認定申請が必要
定禅寺通景観地区(平成23年12月16日決定)
宮城野通景観地区(平成23年12月16日決定)
青葉通景観地区(平成27年12月1日決定)
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仙台市HP「杜の都の風土を育む景観条例」
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環境基本条例 |
制定 |
1996年(H8) |
* 1996年(H8)3月、仙台市環境基本条例、制定
杜の都・仙台の良好な環境を保全・創造し、次の世代に引き継いでゆくための基本となる考え方、市・市民・事業者の役割と責務、それぞれの取り組みの基本的な事項を定めるための条例 / 条例に基づき、仙台市における環境の保全と創造に関わる政策・施策の基本的な方向を、環境基本計画「杜の都環境プラン」で定めています
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仙台市HP「仙台市環境基本条例」
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龍宝寺の木造釈迦如来立像 |
国の重要文化財に指定 |
1903年(M36) |
<仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
木造釈迦如来立像は,京都嵯峨の清涼寺にある木造釈迦如来立像(国宝)の模刻像である。清涼寺の釈迦如来像は,東大寺の僧ちょう然が宋に渡り,釈迦の在世中にその姿を生き写しにして製作されたと伝えられる印度伝来の像を模して造らせ,寛和3年(987)に日本に持ち帰ったもので,いわゆる三国伝来の霊像である。鎌倉時代にはこの像を模刻して信仰することが全国的に盛んになった。龍宝寺の釈迦如来像もこうした模刻像の一つであるが,原像に忠実に倣ったものであり,鎌倉時代の早いころの作とされる。なお頭部内側に大永3年(1523)の修理銘がある。縄紐を同心円状に束ねたような頭髪,胸部の同心円的な衣文(えもん)の表現,両股の部分のY字型の扱いによくその異国風の特徴がみられる。この像は,もとは栗原郡金成の福王寺にまつられていたが,元禄年間(1688~1703)に四代藩主伊達綱村の命によって龍宝寺に移されたという記録がある。ヒノキ材 寄木造 像高160.3cm (龍宝寺所蔵)
* 1903年(M36)04月15日、国の重要文化財に指定
・ 「龍宝寺」は真言宗御室派別格本山で、青葉区八幡4丁目にある
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仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」
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「市民の戦後史(仙台市)」P87
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遠見塚古墳 |
国の史跡に指定 |
1968年(S43) |
<仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「遠見塚古墳は、仙台平野のほぼ中央部、広瀬川北岸に発達した標高約10mの自然堤防上に位置している。仙台市内では最大規模の前方後円墳であり、宮城県内においても雷神山古墳に次ぐ大型古墳である。1947年(S22)に駐留米軍の霞目飛行場拡張工事により後円部の北側半分が削られ、さらに仙台バイパスの計画路線に入る等破壊の危機にさらされたが、昭和43年に国の史跡に指定され、昭和55年には周辺部が追加指定となり、史跡公園として整備され、恒久的保存が図られた。昭和50年から昭和57年にかけて古墳の環境整備に伴って発掘調査が行われ、後円部から2基の割竹形木棺と副葬品として碧玉管玉(くだたま)、ガラス製小玉、竹製黒漆塗り竪櫛等が発見された。この古墳に埋葬されたのは、当時仙台平野一帯を支配した豪族と考えられ、構造や出土品から古墳時代末の4世紀末頃に築造されたものと考えられている。」
* 1968年(S43)、国の史跡に指定
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仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」
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「市民の戦後史(仙台市)」P86(古墳空撮)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図88~89(畑地時代空撮、H6空撮カラー)
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音楽コンクール |
若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール |
1995年(H7) |
* 1995年(H7)、第2回、若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール、仙台で開催 / チャイコフスキー国際コンクールの姉妹コンクール、ジュニア部門で、2~5年間隔で会場は各国もちまわりで開催
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」(2020年5月)
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東北六魂祭 |
第1回 |
2011年(H23) |
* 2011年(H23)、東北六魂祭(第1回)を仙台で開催
東北6県の各県庁所在地の代表的な6つの夏祭りを一同に集めた祭り / 2011年(平成23年)3月11日発生した東日本大震災の鎮魂と復興を願い、同年より2016年(H28)まで東北6県都で持ち回り開催された / 2017年(H29)より「東北絆まつり」へと引き継がれた
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「東北六魂祭」(2020年7月)
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LNG基地(仙台新港) |
完成 |
1997年(H9)/2016年(H28) |
LNG基地は、都市ガスや火力発電所に供給する液化天然ガス(LNG)の受入・貯蔵・気化を行う施設
* 1997年(H9)、仙台新港(仙台市ガス局港工場)にLNG基地完成、タンカー初入港 / 主な供給先は、仙台市ガス局
* 2016年(H28)7月、新仙台(東北電力)LNG基地完成 / 主な供給先は、 東北電力新仙台火力発電所
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「日本のLNG基地一覧」(2020年4月)
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「新・目で見る仙台の歴史」P197(ガス局港工場空撮、カラー)
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元気フィールド仙台 |
オープン |
2007年(H19) |
* 2007年(H19)6月開設 / 元気フィールド仙台(別称、仙台市新田東総合運動場)は、宮城県仙台市宮城野区にある運動場で、宮城野体育館、仙台市民球場の他、温水プール、アーチェリー場、ボルダリング室、スケートボードパークを備える
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「元気フィールド仙台」(2019年11月)
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仙台空港アクセス鉄道 |
開業 |
2007年(H19) |
* 2007年(H19)3月18日、仙台空港アクセス線 (通称、仙台空港アクセス鉄道)、開業
JR仙台駅と仙台空港とを最短17分で結ぶ鉄道路線で、次の2路線から構成される
・ 仙台駅~名取駅は、JR東日本東北本線
・ 名取駅~仙台空港駅は、仙台空港鉄道仙台空港線
JR東日本と仙台空港鉄道が、仙台駅~仙台空港間で相互乗り入れ
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台空港アクセス線」(2020年8月)
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仙台市営地下鉄 |
東西線開業 |
2015年(H27) |
八木山動物公園駅~ 荒井駅間、計13.9km
* 2005年(H17)4月25、地下鉄東西線工事施行が許可
* 2007年(H19)11月、本体工事着工
* 2015年(H27)12月6日、開業
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台市地下鉄」
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スポーツ大会 |
仙台カップ・国際ユースサッカー大会 |
2003年(H15) |
* 2003年(H15)、第1回仙台カップ・国際ユースサッカー大会、開催 / 2010年(第8回大会)まで開催、2011年大会は東日本大震災の影響で開催が中止、以後も休止状態 / 会場は「仙台スタジアム」(2006年から会場名が「ユアテックスタジアム仙台」) /
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台カップ・国際ユースサッカー大会」(2020年4月)
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震災遺構 |
公開 |
2017年(H29) |
* 2017年(H29)、東日本大震災の震災遺構として、仙台市立荒浜小学校公開
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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文化財指定(平成年間) |
国宝、史跡、ユネスコ記憶遺産、日本遺産 |
平成年間 |
* 2001年(H13)、「慶長遣欧使節関係資料」、国宝指定
* 2003年(H15)、「仙台城跡」、国史跡指定、
* 2006年(H18)、「仙台郡山官衙遺跡群」、国史跡指定
* 2012年(H24)、 国宝「慶長遣欧使節関係資料」がユネスコ記憶遺産登録
* 2016年(H28)、「政宗が育んだ“伊達”な文化」が、日本遺産認定
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
防災都市宣言 |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)、防災都市宣言(前年1978年(S53)6月12日に、宮城県沖地震)
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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東北絆まつり |
第1回 |
2017年(H29) |
* 2017年(H29)、東北絆まつり(第1回)を仙台で開催
東北六魂祭開催地が6年間(2011~2016年)で各県を一巡したあと、その後継のまつりとして2017年から開催 / 2020年(R2)は5月に山形で開催予定だったが、新型コロナウィルスの影響で、延期となる
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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音楽コンクール |
仙台国際音楽コンクール |
2001年(H13) |
* 2001年(H13)、第1回仙台国際音楽コンクール、開催
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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スポーツ大会 |
ねんりんピック |
2012年(H24) |
* 2012年(H24)、年輪ピック宮城・仙台2012、開催
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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ひとにやさしいまちづくり条例 |
制定 |
1996年(H8) |
* 1996年(H8)6月、仙台市が、「ひとにやさしいまちづくり条例」制定
・ 「公益的施設」(社会福祉施設、官公庁の施設、医療施設、宿泊施設、理容、飲食店、体育館、映画館等)は、工事の際、施行規則に定める整備基準に適合させる
・ 「指定施設」(公益的施設のうち特に福祉整備が必要となる施設)では、建築等の際に事前届出が必要
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仙台市HP「ひとにやさしいまちづくり条例」
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名誉市民 |
仙台市 |
1949年(S24)~ |
* 1949年(S24)5月2日、本多光太郎、志賀潔、土井林吉(晩翠)
* 1956年(S31)7月16日、熊谷岱蔵、槇有恒
* 1959年(S34)6月10日、村上武次郎、阿部次郎、増本量、野副鉄男
* 1961年(S36)6月10日、内ケ崎贇五郎
* 1964年(S39)6月10日、一力次郎、黒川利雄、
* 1969年(S44)6月10日、千嘉代子
以上の諸氏の経歴詳細は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230~244
* 1977年(S52)6月10日、菊池養之輔、加藤多喜雄
* 1984年(S59)6月10日、西沢潤一
* 1989年(H1)6月10日、石田名香雄
* 1996年(H8)7月1日、杉村惇、加藤陸奥雄
* 2004年(H16)7月5日、小田滋、一力一夫
* 2016年(H28)7月7日、岩崎俊一
~以上、2016年現在~
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仙台市HP(仙台市名誉市民一覧)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230~244/「仙台年表」P219/「仙台市史10 年表」P321/「重訂 宮城県郷土史年表」P534、P582、P592、P600、P614、P649/「続・ 宮城県郷土史年表」P69、P177
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「目で見る仙台の歴史」P174(昭和24年、第1回推戴の、志賀、土井、本多各氏)/同P187(第2回推戴の熊谷岱蔵博士)/同P197(第3回推戴の村上、増本、野副、阿部各氏)/「市民の戦後史(仙台市)」P135(第4回推挙の内ケ崎贇五郎氏)/同P155(第5回推挙の一力次郎、黒川利雄両氏)
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隅櫓 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大手門と共に焼失
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仙台市HP
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仙台国際センター |
開館 |
1991年(H3) |
<仙台国際センターHPより要約>
・ 仙台国際センターは「会議棟」「展示棟」で構成され、一体利用することで6,000人規模の大規模催事が開催可能 / 外観は、仙台城跡・脇櫓の近くという立地条件から城のイメージを現代風にアレンジ、各会議室内の天井も青葉山の山並みや仙台湾のさざ波などがイメージされている / 無柱の展示室(3000㎡)、1,000名収容の大ホールや展示・レセプションホール、大・中・小会議室、市民が自由に出入りできるフリースペースがある / 北側の「せんだい青葉山交流広場」は、イベント会場や駐車場として利用可能(約19,000㎡)
* 1991年(H3)9月、仙台国際センターが開館(川内の青葉山公園内に)(3月に会議棟完成)
* 2015年(H27)、展示棟が完成
* 2015年(H27)12月、仙台市営地下鉄東西線「国際センター駅」開業
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仙台国際センターHP「施設ガイド」
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三原時計店 |
戦後 |
1846年(S21)~ |
* 1846年(S21)6月、新築開店
* 1953年(S28)2月、株式会社三原本店と称し法人組織に
* 1968年(S43)12月、(旧)大町5丁目内で移転(現・一番町3丁目2-23に移転)、地下1階地上3階
* 1978年(S53)、増築
* 1987年(S63)3月、創業100周年
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三原本店HP/あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217
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三原時計店 |
大町の店、時計塔設置 |
1903年(M36) |
* 1903年(M36)、大町の店に時計台をあげる(三原本店HPの掲載写真記載メモ)
* 1903年(M36)、大町の店に時計塔設置(「古写真にみる仙台の建築」P43/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217)
* 1905年(M38)3月、店舗屋上に4面塔時計台を設置(三原本店HPの年表)<編者注>写真記載メモと設置年が違う
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三原本店HP/「東北大資料」P43/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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「いつか見た街・人・暮らし」P36(三原時計店内部、大正4年)
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三原時計店 |
国分町で創業 |
1887年(M20) |
<国分町の建物>
* 1887年(M20)3月、仙台市国分町(肴町角)に創業開店(三原本店HP)、戦後の徳陽シティー銀行の場所
* 1887年(M20)、三原時計店が国分町で時計塔付の建物を建設し開業(M22年開業説もある)(「目で見る仙台の歴史」P118では、明治18年)
* 1889年(M22)、国分町に時計塔のある洋風建築を建設(「古写真にみる仙台の建築」P43)
* (M29年に三原時計店が大町に移転後、建物は大正信託、第八銀行が使用した)
* 時計塔の文字盤には、1915年(T4)にはすでに針が無く、模様が描かれている
* 1921年(T10)、国分町の旧三原時計店の建物は取り壊された(「古写真にみる仙台の建築」P43)
<編者注> 「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217や「仙台老舗百店史の三原本店」の記述では、1896年(M29)に大町へ移転と記載されているが、「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)では、地図上も同裏面の実業家一覧表でも、三原時計店はまだ「国分町肴町角」となっている
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三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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77-21、44-19、99-022 /「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に当時の三原時計店(国分町五丁目)の写真あり
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三原時計店 |
(旧)大町5丁目へ移転 |
1896年(M29) |
<三原本店HP>
* 1896年(M29)3月28日、(旧)大町5丁目(現在一番町3丁目)に移転、建物もこの年に設置
<「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P218>
「初代三原庄太が米沢から仙台へ進出、M20国分町・肴町角に時計店開業。1896年(M29)に仙台駅寄りの人の流れや商店街の移り変わりを見越して、大町五丁目に移転。 1903年(M36)に土蔵の店舗の上に(国分町時代と同じく)時計塔をおいたが、1927年(S2)に取り壊し、さらにハイカラな時計塔ある店舗を新築したが、1945年(S20)の仙台空襲で焼失した」
<「仙台老舗百店史」P208、P217>
「時計の三原本店はM20年、山形県米沢から、国分町肴町角に進出開業、M29年3月28日に大町五丁目に移転した/ どちらでもそっくりの時計塔を造っている」
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三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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43-25、22-57
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三原時計店 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年7月10日、仙台空襲で、大町の店舗を焼失
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三原本店HP
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七十七銀行 |
本店の変遷 |
1878年(M11)~ |
1) 1878年(M11)、第七十七国立銀行、(旧)大町一丁目で創業
2) 1903年(M36)8月11日、芭蕉の辻東北角
(ドイツ・ルネッサンス式純洋風建築)
3) 1929年(S4)8月11日、芭蕉の辻西南角から南へ2軒目(大町4丁目75、旧宮城商業銀行跡)へ移転
・1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被害
・1947年(S22)11月26日、修理及び増築工事進行し第一新館落成
・1950年(S25)3月7日、第二新館落成
・1954年(S29)1月18日、第三新館落成
4) 1958年(S33)10月13日、東二番丁通・広瀬通東北角に新築移転 / S33年10月13日、芭蕉の辻支店を新設開業
5) 1977年(S52)9月、東二番丁通・青葉通東南角へ新築移転
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七十七銀行HP/「仙台市史10 年表」P273/「仙台市史 年表」P120、P131/「重訂 宮城県郷土史年表」P328、P416、P522、P589
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2)は、99-021、99-022/「仙台市史 特別編4 市民生活」P138/「目で見る仙台の歴史」P135に、「芭蕉の辻角の本店内部執務風景」
3)は、99-028(左端のビル)
4)東二番丁通・広瀬通東北角の本店は、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P737、「目で見る仙台の歴史」P193、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P33(昭和30年代初め頃)、同P87(S41)
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軍都・仙台 |
第二師団御用達の店(軍関係者、兵士がよく利用した店を含む) |
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<調査中 資料未完成>
<昭和3年刊「東北産業博覧会写真帳」掲載写真に「陸軍御用達」の記載ある店>
・ パリーヤ洋服店(元寺小路101) 看板に「第二師団、偕行社指定」/軍服
・ 高新もちや(南町) 創業1869年(M2)、第二師団各隊御用、宮城師範学校御用 / 「番丁詳伝」P97では、「東一番丁2丁目、創業は奥州街道に沿う南町で明治2年、片平丁に仙台第二高等学校が開校し、さらに仙台に多くの兵舎が建てられてからは多くの若い人たちが名物のお汁粉を求めての門前市をなし「軍隊餅屋」の名でしられており、昔のあんもちの味を続けている。」
・ 日進堂(南町、和洋菓子、パン製造) 陸軍、鉄道局、逓信局、東北大学各学校諸官衙御用達
・ 須賀川酒造仙台支店(荒町26) 陸軍御用
<「番丁詳伝」などから>
・ 大町(通り)は、川内に兵舎が多く並んでときには、兵隊さんの往来で賑わい、除隊記念品を販売する店も目を惹いた(「番丁詳伝」P81)
・ 製麺製造所 日進堂本店(名掛丁)、日進堂増設販売所(新伝馬町)
・ 大平商店(大町2丁目) 酒味噌醤油飴たばこ小間物
・ 大武写真館(東一番丁) 1903年(M36)開業、日露戦争の頃第二師団御用写真館の指定をうけ軍人の来客多く門前市をなす状況(「番丁詳伝」P31)
・ 村上屋餅店(戦前は柳町の大日横丁) 1877年(M10)、創業 / 兵隊さんに人気の店、学生たちの集まりや送別会などでもよく使われた / 大日様をお詣りしての帰りには、必ずお土産にするのが習いという郷土名物おはぎやダンゴが人気 / その後、北目町に移転した
・ やぶや本店(大町2丁目、蕎麦屋)「1890年(M23)に、大町2丁目に移る / 川内の兵舎から外出する兵隊も多く利用した」(「番丁詳伝」P37)
・ 大久そば(東一番丁)「東京風のそばで、旧制仙台二高生や軍人などなじみ客で賑わい、また七夕まつりの日などは客止めをするほど人気の店だった。」(仙台老舗百店史)
・ ブラザー軒(洋食)「特に第二師団関係者が多く利用した」(「番丁詳伝」P36)
・ 武田洋服店 明治初期、大町1丁目で軍の御用商人として、軍服、生地の卸業/M43年、新伝馬町へ/S10年、大町5丁目へ、既製服専門店(「おおまち」P209)
・ 東京屋カバン店 T9年、東一番丁北部で開業/S6年、新伝馬町70に移転(軍隊行李や軍用靴を第二師団や連隊に納入)/S20、戦災で山本丁21へ/S22、大町5丁目へ出店(「おおまち」P210)
・ 横山輪業商会 大正9年創業 / 北海道・東北を販路として東北唯一、全国でも五指に数えられる営業 / 戦前は軍御用となった(「番丁詳伝」P209)
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・「仙台市史 特別編4 市民生活」P46の図45(仙台市商工業連合会広告)
・「仙台市史 特別編4 市民生活」P47の図46(広告団扇)/「番丁詳伝」P31、P37、P81、P97、P209/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P209~210
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18-35(村上屋餅店)/61-14 (だい久そば店)/61-19(やぶや本店)/61-21(高新餅屋)/ 62-14(ブラザー軒、軍人客と仲居さんたち)/61-22(日進堂)
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ユニオンビール |
発売開始 |
1922年(T11) |
* 1922年(T11)4月3日、日本麦酒鉱泉が発売開始
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キリンHP「日本のビール歴史年表」
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ユニオンビール看板が、53-67、99-026、44-10、99-003に写る
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(3)宮城県商工奨励館 |
1935年(S10)~1941年(S16) |
<名称変更年>
* 1935年(S10)2月8日、宮城県商品陳列所を宮城県商工奨励館と改称(出典:「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」)
・イ →「昭和10年2月8日、宮城県商工奨励館と改称」
・その他の資料から
1) 宮城県商品陳列所があった位置に、昭和11年地図では「商工奨励館」がある
2)仙台市大観(東北産業協会 昭和10年4月印刷、5月発行)P5の市内官公衛一覧には「宮城県商品陳列所」
3)「仙台の産業と観光」(仙台市役所、昭和11年刊)P87の官公署其他の表に、宮城県商工奨励館(勾当台通)があり、商品陳列所がない
* 1941年(S16)2月、商工奨励館、物産陳列を廃止(「仙台市史10 年表」P300)
* 1944年(S19)12月10日、旧商工奨励館と日本発送電東北支店などが全焼(「仙台市史10 年表」P308)
<建物は>
・ 宮城県商品陳列所の建物を引継ぐ
「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)(国会図書館蔵)の記述「宮城県産業奨励館は県産品、発明品、参考品を多数陳列し、毎年観覧者12~13万人、東京、大阪に販売斡旋所を設置」 (編者注:商工奨励館の間違いと思われる)
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イ、「宮城県商工奨励館年報昭和10年度」(国会図書館蔵)/「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)」(国会図書館蔵)/昭和11年の「仙台市地図」/「仙台市大観」P5/「仙台の産業と観光」P87/「仙台市史10 年表」P300、P308
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(1)宮城県物産陳列場 |
1901年(M34)~1921(T10) |
<開設年>
* 1901年(M34)11月7日、宮城県物産陳列場が開場
・ イ →「物産陳列場は、M34年11月7日開場式、陸軍東北大演習御統監のため明治天皇来仙にあわせた」
・ ロ →「宮城県物産陳列場はM34年建設」
・ ハ →「M34年11月7日設置」
・ ホP91 →「M34年11月7日、宮城県物産陳列場、県庁南隣に新築開場」
<参考>
「近代日本〈陳列所〉研究」
(三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)(国立国会図書館蔵)には、
・ M25年~31年3月に芭蕉の辻商館3階におかれた「物産陳列場」
・ 勾当台の「物産陳列場」「商品陳列所」につき記述
(原典は仙台市史)
・ 各写真と「商品陳列所の平面図」あり
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」/ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P323 /ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)/ホ「仙台市史 年表」P91/「近代日本〈陳列所〉研究」 (三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)
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改築前の「物産陳列場」は、99-090/ 「東宮行啓記念宮城県写真帖」1908年にもある
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(2)宮城県商品陳列所 |
1921年(T10)~1935年(S10) |
<名称の変更年>
* 1921年(T10)11月11日、宮城県物産陳列場を宮城県商品陳列所に改称
(編者注: 以下のハの改称年は間違い)
・イ →「物産陳列場をT10年11月に商品陳列所と改称、発明部と図案部を設置」
・ロ → 「T10年11月に宮城県商品陳列所と改称」
・ハ → 「T14年11月に商品陳列所に改称」
・ホP100 → 「T10年11月11日、宮城県物産陳列場、宮城県商品陳列所に改称」
<建物の改築年><工業試験場併設年>
* 1923年(T12)か1924年(T13)、商品陳列所の建物を改築
* 1924年(T13)か1925年(T14)、宮城県工業試験場を併設
・イ → 「建物はT11年改築開始し、構内に「県工業試験場」併設しT13年落成」
・ニ → 「T12年建築、宮城県物産陳列所、木造2階建」
(編者注:商品陳列所の間違いと思われる)
・ホP103 → 「T14年8月8日、宮城県商品陳列所に設置された宮城県工業試験場の落成披露式」
<位置図>
「写真98-055」(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」
ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P382
ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)
ニ、「古写真に見る仙台の建築」のP42
ホ、「仙台市史 年表」P100、P103
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・「目で見る仙台の歴史」P139に、「県内初の自動車の背景に物産陳列所(明治末期)」
・改築後の建物は、
(1) 写真22-36
(2)「宮城県の百年」P36に、「宮城県図書館」と「改築後の物産陳列場」の写真
(3)「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P42
(4)「宮城県商品陳列所年報 昭和3年度」
(5)「市民の戦後史(仙台市)」P20
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三原時計店 |
大町の店、取壊し |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)、大町の店(時計塔のある土蔵造)を取り壊し、その跡にハイカラな時計塔のある店を新築
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あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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商店など |
仙台会館 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、仙台会館、旧・大町五丁目20で創業 / 洋食・カフェー
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あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P107
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20-49
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自動車など各種車両台数 |
自動車と人力車(全国)大正・昭和の台数 |
T1、T4、S3 |
<「生活の変わりようをみる昭和の年表」P9>
・ 全国の自動車台数
1922年(T1)、760台
1928年(S3)、6万台
・ 全国の人力車
1922年(T1)、12万7千台
1928年(S3)、 6万2千台
<「日録20世紀 1915年」P35>
・ 全国の自転車
1915年(T4)年末、62万台、
・ 全国の人力車
1915年(T4)年末、12万台
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【菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P9/「日録20世紀 1915年」P35
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青葉神社 |
認可/本殿完成、鎮座祭 |
1874年(M7) |
* 1973年(M6)、藩祖政宗公の霊を敬うため旧家臣が中心になり願い出て、M7年1月認可、M7年6月25日に県社となる
* 1874年(M7)11月11日、本殿拝殿などが完成、11月16日に鎮座祭
* 1927年(S2)、社殿新築完成
* 1935年(S10)、政宗公三百年祭が盛大に行われた
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「青葉神社」HP/「宮城県百科事典」P5~6/「仙台市史 年表」P80、P81/「目で見る仙台の歴史」P166
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99-132、99-133/「目で見る仙台の歴史」P166/「いつか見た街・人・暮らし」P26(大正14年5月24日青葉神社祭典)/「目で見る仙台の歴史」P109と「新・目で見る仙台の歴史」P132に「明治15年の青葉神社大祭典神幸式之図」
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