項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
火葬場 |
仙台市営火葬場 |
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* 1885年(M18)、市制施行前の仙台区が、北山の公営火葬場設置、間もなく民営移管
* 1924年(T13)、市直営で、新坂通りに設置
* 戦後の燃料不足(石炭、薪)で、月20トンの配給はしばしば欠配 / 手持ち石炭が2~3日分という状況が続く / 新寺小路の私営火葬場では燃料持参でないと火葬を受け付けない事態
* 1947年(S22)2月、電気炉5基設置
* 1962年(S37)7月、重油兼石炭炉3基、重油バーナー4基新設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P741~743
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P742と、「目で見る仙台の歴史」P182に、新坂通の市営火葬場の写真
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芭蕉の辻の城櫓風建物(4棟) |
4棟の向き |
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<特徴> 城櫓風2階建て白壁の店舗(商家)で、屋根棟には二つの竜が這い、屋根の四隅には唐獅子が踊っている
<屋根の向き> 芭蕉の辻の北東角と南東角は東西方向に長く、北西角と南西角は南北方向に長い
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98-022
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芭蕉の辻の城櫓風建物 |
北西角の入居者、変遷 |
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芭蕉辻北西角の建物は、
* 奥田金物店 →1911年(M44)に共済生命保険 →1929年(S4)に社名改称し、安田生命保険
* 1887年(M20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1971年(S46)2月3日、芭蕉の辻北西角に安田生命保険相互会社が、仙台ビルを建設するにあたり、かつての「芭蕉の辻道標」と「棟の竜屋根瓦」を再現し除幕式
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P15/「重訂 宮城県郷土史年表」P668
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98-023、44-22、99-023、99-024、44-06、99-027、99-028、20-18、53-52
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学校教練 |
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⇒ 項目「軍事教練」参照
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戦時下の学園 |
仙台商業学校(市立) |
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★「仙台商業学校」は、昭和23年以降の「仙台商業高等学校」
・「戦時中生徒は食料増産はおろか兵器増産のため勤労動員され、教師と生徒は、隊を組んで川崎の工場まで出勤する一方、少年航空兵として多くの生徒が志願していった。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で、上杉の校舎は一夜にして灰と化した。隣接の上杉山国民学校の一部を借り、小学生の机を使って二部授業を行ったが、ガラス窓が破損しても補充がつかず、紙や板をはってしのいだ。そのうちに戦場にあった教師たちが復員し、また若い教師も着任して、校内も次第に活気を取り戻していった」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台商業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482
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戦時下の学園 |
仙台中学校(市立) |
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★「市立仙台中学校」は、昭和23年以降の「市立仙台高等学校」
・「太平洋戦争勃発後も施設、設備の拡充は勧められていたが、国家総動員体制の下、生徒は勤労動員され、勉学に時間は極度に制約されていた。敵性語である英語の廃止論も盛んであったが、校長の信念でこのような意見に耳をかさなかったという。」
・「第1回(昭和15年)入学生は苦竹造兵廠に、第2回入学生は川崎市の軍需工場に動員され、それぞれ動員先で卒業式を行うという変則的なことも行われた。」
・「戦局が不利となるにつれ本土空襲は頻繁となり、ついに昭和20年7月10日未明、仙台市も空襲を受け、第一波爆撃による数発の直撃弾で校舎、校具のいっさいを焼失した。」
・「戦災後さしあたり片平丁国民学校に一時、間借りした。その後20年7月末にも、荒町、南材木町国民学校および斎藤記念館に再び借家ずまいすることとなったが、生徒数が多いため二部授業を行わざるを得なかった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P486~487
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バス |
仙台市街自動車 |
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→ 項目「仙台市街自動車」参照
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市町村合併 |
平成の大合併 |
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平成の合併は、「宮城県の市町村合併誌」https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/sichouson/sityouson-gappeishi.html
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戦時下の学園 |
仙台工業学校(市立) |
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★「仙台工業学校」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校」
・「昭和18年1月、修業年限が5年から4年に短縮され、英語は1、2学年のみが必修、また生徒教育は配属将校の意思によって決定され「青少年に賜りたる勅語」は絶対的なものとして“奉唱”させられた。」
・「昭和19年木材工芸科は廃止され、戦局の激烈化とともに学校は全く軍隊教育の場と化し、生徒による門衛・ラッパ隊の編成・動員強化・授業停止の道をたどった。」
・「昭和13年6月文部省通達によって、全国的に勤労奉仕作業が実施され、同14年12月機械科5年生は授業を打ち切り「技術者(軍需品製作に関する)使用制限令」によって、割り当てられた就職内定会社に勤務し、個人の希望による就職は制限された。」
・「同16年以降勤労奉仕作業はますます盛んとなり、製炭作業による木材供出、食糧増産、家庭菜園作業などに動員された。また同機械科3年生は少年運転手として市電を運転、そのまじめな作業は市民に深い感銘を与えた。19年、戦争が激烈になるにつれて、建築科、土木科の5年生は、横須賀海軍工廠深沢分工場に、機械化4、5年生は東北金属、その他は萱場製作所、苦竹造兵廠、第二師団経理部等に動員され、機械科3年生は東北金属に動員のまま学校工場で軍需品の製作に当たり、1、2年生は、授業の全く行われない日が続いた。」
・「20年8月の終戦により、我が国は連合軍の占領下におかれ、戦時中4年制に短縮されていた修業年限が21年度から5年制に復帰し、さらに6・3・6制への学制改革が進められていった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台工業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P489~490
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バス |
仙台市営バス |
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→ 項目「仙台市営バス」参照
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戦時下の学園 |
仙台工業学校専修科(市立) |
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★「仙台工業学校専修科」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校第二部」、40年以降は独立して「仙台第二工業高等学校」
・「夜間過程としての本校は、昼働き夜に学業を修めていたので勤労動員はなかったが、(中略)生徒たちは古新聞を利用してフスマを作り(暗幕の代用)灯火管制を強化して空襲警報に備えたり、教室の照明は電球1個(100W)という最悪の状態で頑張り通したのである。」
・「雨天体操場では教員、全生徒が一丸となって、夜遅くまで軍事教練やその学科に打ち込み、非常時体制は教育のすべてをおおいつくした。また工業人の育成は国家の急務だったから、戦争たけなわの昭和19年3月には仙台工業学校第二部と改称し、高小卒・修業年限4年間の夜間甲種工業学校に昇格、そのため生徒の志気(ママ)は盛んとなり、卒業後は大陸に雄飛しようと闘志に燃え、一人の落後者もなかった。」
・「しかし、昭和20年の空襲、そして敗戦による荒廃、疲弊、インフレーション等の混乱が、生徒数の減少に拍車をかけ、その結果各学年が10数人に減り、一時は第二部廃止論まで話題にのぼった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台第二工業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P492~493
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戦時下の学園 |
仙台女子商業学校(市立) |
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★「仙台女子商業学校」は、昭和23年度に「仙台商業高等学校女子部」と「仙台市立女子高等学校」に分かれ、前者は昭和32年9月に「仙台女子商業高等学校」となった。
・「当時のすべての学生生徒は勤労動員によって学業に専念することは不可能であった。幸いなことに本校の生徒全員が仙台貯金局に動員され、家庭から通勤することができ、犠牲者を出さなかった。」
・「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台女子商業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495
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バス |
木炭バス |
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→ 項目「木炭バス」参照
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瞑想の松 |
概説 |
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樗牛瞑想の松
・ 樹齢600年以上と伝えられる赤松
・ 明治20年代に旧制第二高等学校に在学した高山樗牛(のち、1年半ほど旧制二高教授)が、ここで瞑想にふけったといわれ、松は土井晩翠らの説得で伐採を免れたという
・ 場所は、台原天神山の東北医科薬科大学の構内
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08-07、53-112/「新・目で見る仙台の歴史」P150に「樗牛肖像、瞑想の松)
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紙芝居 |
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「新・目で見る仙台の歴史」P178(駅前・紙芝居を見る子供たち
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第一中学校 |
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★「宮城県仙台第一中学校」は、昭和23年度以降の「宮城県仙台第一高等学校」
・「昭和12年夏、「日華事変(日中戦争)」が始まってから、自由でのびのびとした学窓にも新体制の影響が出始め、太平洋戦争に入って、学徒勤労令、戦時教育令の波がひたひたと打ち寄せた。 生徒は原町の陸軍造兵廠へ、校舎の一部(西校舎)も軍の兵舎に使用されるなど最悪の事態にまでなった。」
・「しかし冬夏を問わず素足で構内をかけ回るなど質実剛健、自主自律の“茶畑精神”につちかわれた生徒を委縮させることなく、昭和15年、17年にも野球部は甲子園大会へ、また剣道、蹴球も全国大会へ出場して、一中健児の意気を発揮した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第一高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505
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バス |
ボンネット型 |
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日本では、1950年代頃までは大多数のバスがボンネットを持った形状(ボンネットバス)だったが、次第に輸送効率の良い箱型バスに置き換えられた。日本では、1971年に量産タイプのボンネットバスの製造が中止された
仙台市営バスでは、1965年(S40)当時、仙台市中心部でまだボンネットバスが使われていた → 写真 201-08 、 201-09
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Wikipedia「ボンネットバス」(2019年10月)/写真201-08、201-09のキャプション
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58-03、201-08、91-21、201-39、201-42
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第二中学校(県立) |
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★「宮城県仙台第二中学校」は、昭和23年以降の「宮城県仙台第二高等学校」
・「1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた。」⇒この項、要検証
・「1943年(S18)からは生徒の電車通学は禁止され、勤労動員が始まり、校舎の一部が軍に使用された。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)では、木造倉庫2棟焼失にとどまり、やがてスポーツの振興とともに対一中野球戦が復活、昭和22年には甲子園全国野球大会出場の覇権を得て準決勝まで進み岐阜商に惜敗したが、荒れ果てた世相にさいなまれていた当時の市民の血をわきたたせた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第二高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506
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戦時下の学園 |
宮城県第一高等女学校(県立) |
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★「宮城県第一高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第一女子高等学校」
・「戦時中は他校同様、軍事教練や勤労奉仕に駆り出されたが、19年11月ついに4年生(一高女は当時は4年制)の半数約100人が、神奈川県逗子市の横須賀海軍工廠造兵部と久木火薬工場へ勤労動員され、20年3月の卒業式も現地で行った。しかし空襲が激しくなってきた同年6月、軍命令を無視して引き揚げてきた。その数日後に久木工場は爆撃されている。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で校舎は全焼、この空襲で市内在住の生徒2人が死亡した。とりあえず連坊小路の第二高女と連坊国民学校、県立盲学校(の校舎を借りて)授業を再開したが・・・・(以下略)」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第一女子高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P519
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バス |
宮城交通 |
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→ 項目「宮城交通」参照
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戦時下の学園 |
宮城県第三高等女学校(県立) |
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★「宮城県第三高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第三女子高等学校」
・「太平洋戦争中は多くの集団勤労奉仕にかり出されたが、昭和19年11月には宮城県学徒勤労義勇隊第三高女隊として、4年生約50人が横須賀海軍工廠に動員され、帰るに帰れず卒業式も工廠の寮の食堂で挙行した状態であった。」
・「校舎は戦災にはあわなかったが、仙台空襲で生徒3名が死亡した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第三女子高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P522
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戦時下の学園 |
東北学院中学校(私立) |
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★「東北学院中学校」は、昭和23年以降の「東北学院高等学校」
・「昭和6年、満州事変が起きてから軍事思想の涵養、精神訓練がやかましくいわれ、昭和8年に柔道場、13年には剣道場が新設された。」
・「18年には中学の2年生以上が勤労奉仕作業に従事、さらに校舎も軍や鉄道局に接収されたため高等部での間借り授業が続いた。校舎正面の学院の標語「LIFE LIGHT LOVE」が削り取られ、礼拝堂ステンドグラスのキリスト昇天図が幕で蔽い隠され、日の丸の国旗がはりつけられた
・ 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、普通教室、特別教室、柔剣道場など12棟を焼失、からくも焼失をまぬがれた本館、礼拝堂もコンクリートに亀裂を生じた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“東北学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513
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自動車など各種車両台数 |
人力車台数(仙台市/宮城県内) |
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→ 項目「人力車」参照
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戦時下の学園 |
東北学院高等学部(私立) |
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★「東北学院高等学部」は、前身が「東北学院専門部」、戦後は昭和21年に「東北学院専門学校」、昭和24年に大学にに昇格して「東北学院大学」となった。
・「昭和16年12月の太平洋戦争突入と同時にキリスト主義学校の受けた苦痛の例は、終戦まで枚挙にいとまがなかった。昭和17年に文科は廃止され高等学部は商科一本となり高等商業部と改称、さらに19年には航空専門学校を設置するなど維持経営に苦しみながら敗戦を迎えた。」
・「昭和21年4月、英文科、経済科を含む東北学院専門学校を開設、米国ミッション・ボードとの提携を回復した。」
▲ 同校の沿革は、項目“東北学院大学”に記載
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校(私立) |
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★「宮城高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城学院高等学校」
・「日華事変(日中戦争)が始まったころからキリスト教主義教育に圧力が加えられ、教育勅語に立脚した教育を強要され、5年生は宮城外苑整備の勤労奉仕にも動員された。昭和16年12月日米が開戦した翌9日、米人教師全員が辞任、帰国した。かくて宮城学院の経営はアメリカン・ボードの手を離れ一個の私立学校となり、聖書専攻科は廃止、ミッションハウスは“敵産”として接収された。」
・「昭和17年7月24日には「御真影」を奉戴、同日から奉安庫に奉安することになった。そして“敵性語”の英語は随意科とされた。このころから、教職員生徒に対する軍事教練が開始され、勤労動員も激しくなった。」
・「19年には新設の調理実習室を軍の工場に転用、また家政科教室は生徒の作業場に、専攻科校舎は仙台連隊区司令部庁舎に接収された。同年11月、4、5年生は全員横須賀海軍技術廠へ動員、20年3月、ここでささやかな卒業式を行った。
・「同年7月10日の仙台空襲により校舎の大半を焼失。精気にあふれる学園復活運動は21年から始まり、校舎復旧も大いに進行した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P523~524
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校専攻科(私立) |
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★「宮城高等女学校専攻科」は、昭和21年に「宮城学院女子専門学校、昭和24年以降は「宮城学院女子大学」と改称
・「昭和11年に聖書専攻科は廃止(中略)、太平洋戦争末期の19年8月、家政科の教室は専攻科生が勤労する軍需工場の作業場に当てられ、校舎の半分は仙台連隊区司令部に徴用されるなど受難の日が続いた。」
・「やがて20年8月終戦をむかえると、専攻科は翌9月、いち早く授業を再開した。そして同年10月、占領政策に基づき文部省訓令で宗教教育の自由が回復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院女子大学”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P541~542
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戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校(私立) |
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★「仙台尚絅高等女学校」は、昭和23年に「尚絅女学院高等学部」、昭和36年からは「尚絅女学院高等学校」、平成20年から男女共学となり「尚絅学院高等学校」
・「昭和12年の日華事変(日中戦争)から苦難が続いた。15年にキリスト教系学校への県の通達で、御真影(ごしんえい)を奉戴すること、聖書を課外に用いることなどが要請された。」
・「このころ(昭和18年ころ?)からモンペ姿の登校も珍しくなく、軍需工場で働くことを求められ、上級生は遠く千葉の海軍航空庁(編者注:航空廠か?)や茅ケ崎の軍需工場へ行ったものもあった。」
・「20年7月の仙台空襲では陸軍糧秣支廠に占有されていた寄宿舎が全焼したほかは被害がなかったが、同窓生3人が被災死している」
・「戦後の昭和20年米軍の仙台進駐のあおりで全校舎が一時的に接収されるというさわぎもあったが、クリスマスまでに半分が解除された。それにしても物資・食糧不足に悩まされながら、授業は女子師範付属国民学校と八幡国民学校の一部を借りて継続することができた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
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勧工場・商館 |
仙台商館/仙台勧工場/東奥商館/改良勧工場/停車場勧工場/伊沢勧工場/共同商館/博品館/名掛丁勧工場/仙台物産陳列所/仙台織物陳 |
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* 1890年(M23)11月13日、「仙台商館」、東一番丁・定禅寺通り突き当りに開館
* 1890年(M23)11月21日、「仙台勧工場」、虎屋横丁に開場
* 1891年(M24)6月13日、「東奥商館」、新伝馬町に開設
* 1891年(M24)10月5日、「改良勧工場」、東一番丁に開設
* 1891年(M24)?または1895年(M28)?12月、「停車場勧工場」、仙台駅前(北向かい)に開設
* 1901年(M34)8月、「伊沢勧工場」(伊沢商館)、大町4丁目と東一番丁の交差点に開設(木造3階建で近代的な陳列法) / 1925年(T14)6月30日に焼失(「明治の洋風建築~宮城県~」P112)
* 1908年(M41)5月、「共同商館」、新伝馬町に開設
* 1909年(M42)5月、「博品館」、東一番丁に開設
(明治15年~42年の間に、東一番丁に4軒の勧工場ができた)
<「番丁詳伝」P38~39より>
・ このほかに、名掛丁勧工場、仙台物産陳列所、仙台織物陳列所(国分町)
・ 「番丁詳伝」P39に、「勧工場一覧表」
・ 火災にあうことも多く、明治40年には「伊沢勧工場」と「駅前陳列場」のほかは見るべき勧工場はない有様
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P37~38/「仙台市史 年表」P87/「明治の洋風建築~宮城県~」P112/「番丁詳伝」P38~39
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自動車など発売年 |
戦後 |
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* 1951年(S26)、本田技研、4サイクル・オートバイ
* 1952年(S27)、本田技研、原付自転車
* 1952年(S27)、鈴木式織機(のちのスズキ自働車)、バイクエンジン車
* 1955年(S30)、トヨタ、トヨペット・クラウン(100万円以上)
* 1957年(S32)、ダイハツ工業、軽三輪トラック(3000キロ積) / 農家が農事用として購入はじめる
* 1957年(S32)、トヨタ、小型乗用車「コロナ」
* 1959年(S34)、富士精密(にちのプリンス自動車)、グロリア
* 1959年(S34)、富士重工、軽自動車「スバル360セダン」(通称、テントウムシ)
* 1959年(S34)、日産自動車、ブルーバード
*************************
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~417「三種の神器」には、乗用車のほか、各種の家庭電化製品の発売時期の記載、昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率(グラフ)あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~416
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P416(昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率グラフ)
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戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校専攻部(私立) |
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★「仙台尚絅高等女学校専攻部」は、昭和25年に「短期大学」に移行
・「戦時中は専攻部生徒も勤労奉仕や軍需工場へ動員され、校舎は陸軍の糧秣廠に使用された。」
・「終戦を迎え再び登校できると喜んでいたが、一難去ってまた一難、今度は進駐軍から9月11日突如として72時間以内に校舎を進駐軍に開放せよとの命令が通達された。やむを得ず八幡国民学校と女子師範付属国民学校で授業を続けたが、11月になってやっと返還された。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院短期大学”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543
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幹線道路 |
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・ 自動車専用道(高速自動車道など)→ 項目「自動車専用道」参照
・ 国道は → 項目「国道45号線」、項目「国道48号線」
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自動車専用道 |
東北自動車道 |
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→ 項目「東北自動車道」参照
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戦時下の学園 |
吉田高等女学校(私立) |
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★「吉田高等女学校」は、昭和23年に「聖和学園吉田高等学校、昭和61年に「聖和学園高等学校」と改称
・「太平洋戦争によって食糧事情が窮迫、これに対処し学園の将来を考慮して名取郡秋保村に農場を借り、戦後も耕作に従事したが、この土地は22年に県に買収されたため、約2年にして経営を放棄した。」
▲ 同校専門部の沿革は、キーワード“聖和学園高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529
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幹線道路 |
定禅寺通り |
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→ 項目「定禅寺通り」参照
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幹線道路 |
青葉通り |
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→ 項目「青葉通り」参照
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発電事業 |
その他の発電事業 |
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141には、宮城紡績電灯、仙台電力、仙台市営電気事業のほかに、以下の発電事業の記述
* 「T12年から宮城県営電気事業開始/T6年設立の秋保電気、T8年の名取川水力発電、T10年の冠川電気(根白石村)は、T13年に東北電灯に合併/T10年開業の仙台電気工業、広瀬電力はT15年に二本松電気に合併/これら仙台市周辺地域の会社はS4年~5年に県営事業に移る」
* 1936年(S11)、東北振興策の1つとして、東北振興電力(株)設立されたが、1941年(S16)に日本発送電(株)に統合
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141
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幹線道路 |
広瀬通り |
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→ 項目「広瀬通り」参照
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幹線道路 |
南町通り |
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→ 項目「南町通り」参照
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幹線道路 |
東二番丁通り |
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→ 項目「東二番丁通り」参照
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パテー館 |
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→ 項目「松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場」参照
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幹線道路 |
東五番丁通り(長町堤町線) |
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* 1949年度(S24)、車道の中央部分の舗装、失業対策事業で開始
* 1952年度(S27)、国庫補助で本格的な中央部分舗装開始
* 1987年(S62)5月27日、東五番丁通(愛宕~上杉線)の中央分離帯に水銀灯設置
* 1987年(S62)7月10日、東五番丁通りにガス灯87基設置される
* 1988年(S63)4月、五番街ガス灯、110基完成
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「続・ 宮城県郷土史年表」P224/「仙台市史 年表」P135/「わが心の仙台駅前史」年表
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P165(S24年頃、東五番丁での強制代執行)/「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅工事前後の東五番丁通リ(堤町線)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年、拡幅工事中の東五番丁通り・南町通り交差点
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花火大会 |
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* 1967年(S42)8月、広瀬河畔の花火大会、交通事情などでこの年限りで廃止
* 1970年(S45)8月5日、仙台七夕で、花火大会初開催
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「市民の戦後史(仙台市)」P201/仙台市史 年表」P127
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「市民の戦後史(仙台市)」P201(S42年、広瀬河畔の花火大会)
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (2)日中戦争期 |
1337年(S12)~1939年(S14)3月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入
* 1337年(S12)7月17日、仙台では、市内の各種団体、在郷軍人会、農家組合、銀行などの代表者、市会議員、商工会議所議員が集会し、第二師団留守司令官、県や市の吏員が臨席して、戦時体制に備える「銃後」の物資動員懇談会を開催
* 1337年(S12)9月、仙台市兵事義会が国の軍事扶助法を補助するという趣旨で、3万8000円の募金計画 / 愛国婦人会・国防婦人会・女子青年団員らが街頭募金、新聞社の飛行機が5万枚のビラを撒き、小学児童も4万枚のビラを配布、交通整理員がメガホンで宣伝しながら自動車5台で3万枚のビラを配布、さらに各区長の指揮のもと、役員が各戸をまわって募金 / 9月1日からの「銃後週間」中に、すでに5万円に達しようとする勢いであった
・ このころから、兵事義会の活動は経済的援助に集中
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315
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大崎八幡宮 |
社殿落成 |
1604年(慶長9) |
<社殿落成年、資料により異なる>
* 伊達政宗が仙台開府の折、岩出山城から現在地に移し、1604年(慶長9)に社殿が落成(「宮城県百科事典」P115)
* 1604年(慶長9)9月、大崎八幡宮の造営に着手(「重訂 宮城県郷土史年表」P75)
* 1607年(慶長12年)8月12日、大崎八幡宮の造営なる(「仙台市史 年表」P25、「重訂 宮城県郷土史年表」P77)
* 1607年(慶長12)、藩祖政宗が創建(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125)
* 1903年(M36)4月15日、社殿が国の特別保護建造物に指定
* 1952年(S27)11月22日、本殿、石の間、拝殿が「文化財保護法」に基づく国宝に指定(文化庁、国指定文化財データベース) / 桃山時代の権現造の典型的な建築、入母屋造柿葺、内外とも漆塗り、胡粉彩色、彫刻、金具
* 1966年(S41)6月11日、長床(ながどこ)が国の重要文化財に指定(国指定文化財データベース)
* 1966年(S41)~1968年(S43)6月、修復工事、創建当時の華麗な姿を再現
* 1970年(S45)10月17日、石造の大鳥居、県の重要文化財に指定(亀岡八幡宮の石造大鳥居と鳥居額とともに)
* 1984年(S59)9月15日、神輿、20年振りに復活
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文化庁、国指定文化財データベース/「宮城県百科事典」P115 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125、P214~215/「重訂 宮城県郷土史年表」P75、P77、P560、P664/「仙台市史 年表」P25、P92、P118/「仙台年表」P225/「続・ 宮城県郷土史年表」P181
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99-128、99-129/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215の写真62(修復なった大崎八幡神社)/「目で見る仙台の歴史」P40~41(社殿、同千鳥破風鶴の彫刻)/同P190(どんと祭)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(どんと祭、カラー)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(修復がすんだ社殿)/同P225(1月14日のどんと祭)
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東照宮(仙台) |
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1654年(承応3年)~ |
・伊達政宗公が、将軍家光からの許しを受けて創建
・二台藩主忠宗の創建、1654年(承応3年)落成
・祭神は徳川家康 ・本殿などが国の重要文化財
<藩政期>
* 1654年(承応3年)、江戸から神霊を迎えて遷座祭を行ったと伝えられている(「宮城県百科事典」P741)
* 1654年(承応3年)3月16日、宮城郡小田原の東照宮造営なる(「仙台年表」P34)
<昭和戦前期の火災>
* 1935年(S10)8月6日、放火で拝殿、進せん所、宝物三六歌仙を焼失 / 同23日に再度出火、神殿一部消失(「重訂 宮城県郷土史年表」では、拝殿は半焼)
* 1944年(S19)、浮浪者の放火あり、拝殿を半焼す
<戦後>
* 1948年(S23)アイオン台風、1959年(S34)伊勢湾台風で、参道両側の杉110本倒壊
* 1952年(S27)1月31日、本殿、唐門、楼門を宮城県重要文化財に指定(「仙台市史10 年表」P327、「重訂 宮城県郷土史年表」P554)
* 1952年(S27)1月31日、随身門、宮城県需要文化財に指定 / 同年3月31日、本殿、唐門透塀鳥居、宮城県重要文化財に指定(「仙台年表」P223~224 ← 出典:毎日新聞)
* 1953年(S28)3月31日、本殿、唐門、透塀、鳥居が、国の重要文化財に指定
* 1980年(S55)1月26日、随身門が国の重要文化財に指定
<復旧・修理工事>
* 1962年(S37)11月17日、拝殿(昭和27年に焼失)復旧工事開始
* 1979年(S54)2月、倒壊鳥居復旧
* 1979年(S54)4月20日、12年ぶりの東照宮春祭、伊達政宗の木像先頭に武者行列
* 1980年(S55)10月、社殿修理工事終了
* 1983年(S58)4月17日、唐門・透塀・本殿の一部修理完了
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「宮城県百科事典」P741/「仙台年表」P34、P206、P223~224/「仙台市史10 年表」P286、P327/「重訂 宮城県郷土史年表」P447、P503、P554/「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P94、P118、P161、/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123~124、216~217/文化庁「国指定文化財データベース」
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99-130、99-131/「目で見る仙台の歴史」P55~56(本殿、本殿厨子、唐門、薬師仏、神輿など)/同P99(東照宮祭礼絵巻)
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天神社 |
移設 |
1667年(寛文7年) |
・ 市内榴岡にある。東照宮造営の際、その地にあった天神社を寛文7年、榴ヶ岡に移す。1795年(寛政7年)に丹塗の向唐門を残して焼失。 その後に社殿再建 / 筆塚、句碑が並ぶ
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「目で見る仙台の歴史」P59
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「目で見る仙台の歴史」P59
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釈迦堂 |
建立 |
1695年(元禄8年)/1968年(S43)移転 |
藩政時代(元禄8年)、伊達藩四代藩主伊達綱村が生母の冥福を祈るために建立した持仏堂
* 1948年(S23)7月、戦時供出された鐘が戻る
* 1968年(S43)、宮城県図書館建設のため、榴ケ岡4丁目の孝勝寺本堂脇に移された(「重訂 宮城県郷土史年表」P675では、「昭和46年に移転復元」)
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仙台市のHP/「市民の戦後史(仙台市)」P38/「重訂 宮城県郷土史年表」P675
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99-134、14-05/位置図は98-078/「目で見る仙台の歴史」P63(釈迦堂、二天門)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年に戻った鐘)
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養賢堂 |
講堂 建築~焼失 |
1817年(文化14年)~1945年(S20) |
養賢堂は仙台藩の学問所
* 1760年(宝暦10)、北一番丁・勾当台通りの一角に移り養賢堂と名付けられた
* 1817年(文化14年)、講堂を建築
(木造平屋・東西24間南北24間・桟瓦葺=サンカワラブキ)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「宮城県百科事典」P1076「養賢堂」 /「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P41/「仙台市史 年表」P79、P100
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53-54/「目で見る仙台の歴史」P77~79(門、講堂、孔子廟、構内略図、絵図)/「新・「目で見る仙台の歴史」P110~111(養賢堂俯瞰図、講堂)/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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藤崎(戦前期) |
創業/大町4丁目へ進出 |
1819年(文政2年)/1879年(M12) |
* 1819年(文政2年)、得可壽屋(えびすや、現・藤崎)、(旧)大町2丁目1番地の地に太物商として創業
・ 当時の屋号はエビスヤ(「えべすや」と発音していたと伝えられている)
・ 〇にエの字を配し至誠一貫の意を表す横棒を入れて店印とした
* 1879年(M12)、大町4丁目(東一番丁北西角)に進出、小売部を開店(M15年より、正札販売) / 大町2丁目を本店(ほんだな)、大町4丁目の店を出店(さきだな)と呼ぶ / 木綿から絹織物までを扱う呉服店
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「藤崎170年のあゆみ」P22、P42/同P196~197に、創業~1989年(H元年)までの年表あり/「東一番丁創立五十周年」P8/「番丁詳伝」P42~43/「重訂 宮城県郷土史年表」P266/「番丁詳伝」P40
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商店など |
よろづ園(茶舗) |
1829年(文政12年) |
* 1829年(文政12年)、創業
* 1897年(M30)、藤崎と土地を交換
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「番丁詳伝」P99
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77-19 、77-17 / よろづ園の七夕飾り物(77-10 ほか)
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