項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
レジャーセンター |
竣工 |
1952年(S27)~1998年(H10) |
* 1951年(S26)4月2日、起工式
* 1952年(S27)6月10日、仙台市レジャーセンター、錦町公園内(東三番丁62)に完成し落成式、あわせて同施設内にサイエンスルームが設置される / 競技場200坪、観覧席2000名(「重訂 宮城県郷土史年表」P556では、6月13日竣工)
* 1952年(S27)6月、東三番丁にレジャーセンター建設 / 2階に競技場、競技場中央にボクシングのためのせり上げ舞台を設置、1階に脱衣場やシャワー室 / ラジオ仙台の放送室、録音室も併設 / 各種の集会、展示場としても使用(「仙台市史 続編第2巻」P203)
* 1959年(S34)8月14日、大時計をレジャーセンター前に建設し除幕式(郵便友の会東北地連が皇太子ご成婚記念に)
* 1968年(S43)3月、サイエンスルームは新設される仙台市科学館(東二番丁・青葉通り角の日本長期信用銀行ビル地下に開設)へ移転統合
* 1998年(H10)6月、レジャーセンター閉館
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「重訂 宮城県郷土史年表」P556、P593/「仙台市史 年表」P117、P125/「仙台年表」P224/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P203
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53-50/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P203の写真58/「目で見る仙台の歴史」P184/「市民の戦後史(仙台市)」P68/「新・目で見る仙台の歴史」P179/「仙台市史 特別編4 市民生活」P287(S28年撮影)
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レッドパージ |
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1950年(S25) |
<全国>
* 1948年(S23)1月6日、米陸軍長官ロイヤル、サンフランシスコで日本を反共の防壁にすると演説
* 1950年(S25)5月3日、マッカーサー元帥、憲法記念日の声明で共産党の非合法化を示唆
* 1950年(S25)6月6日、マ元帥、共産党中央委員24人全員の追放を指令
* 1950年(S25)6月26日、マ元帥、「アカハタ」の30日間発行停止を指令 / 7月18日、無期限停止
* 1950年(S25)7月24日、企業のレッドパージ始まる
* 1950年(S25)9月1日、閣議、公務員のレッドパージの基本方針を正式決定
<宮城の事例>
* 1950年(S25)8月26日、レッドパージで、東北配電、日本発送電東北支店従業員433人が解雇される
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/「仙台年表」P220
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ロシア兵捕虜 |
仙台に収容 |
1905年(M38) |
日露戦争で捕虜となったロシア軍将兵を仙台でも収容
* 1905年(M38)3月30日、仙台に到着
この後、宮城野原の捕虜収容所に約2000名を収容
* 1905年(M38)11月27日、ロシア兵捕虜の送還始まる平屋の収容所に移りました。初めて外国人を見る人が多く、寺のまわりは、毎日見物人で混雑したそうです。(「仙台市史 年表」P93)
・「仙台には、2252人の捕虜がやってきました。37人の将校は割烹や旅館に、他の大多数の兵士は寺院に収容され、後に宮城野原の国立病院機構仙台医療センターの場所に建設した平屋の収容所に移りました。捕虜たちは朝の点呼を受けると後は何もやることがなく、散歩したり読書、雑談をして一日は終わりました。将校には貴族の子弟が多く、白いズボン、白靴という姿で芸妓を連れて夜の街に繰り出すものもいました。宮城野原ではドラム缶で風呂をわかして入浴させようとしたところ、入浴の習慣はないようで、殺されると思ったのか逃げまわる兵もいたそうです。
帰国前日、リャポノフ中将は第二師団を通じて平穏、友好的だった市民に感謝の書簡を贈りました。仙台ハリストス正教会には、仙台で病死した捕虜3人の資料が残っています。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P70~71)
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「仙台市史 年表」P93/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P70~71
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ロッテ球団 |
宮城県営球場を本拠地に |
1974年(S49)~1977年(S52) |
* 1973年(S48)1月10日、プロ野球ロッテオリオンズ、仙台を本拠にして25試合決定
* 1974年(S49)1月、プロ野球ロッテ球団が、宮城県営野球場を本拠地とする
* 1974年(S49)4月6日、東北初のプロ野球開幕試合(ロッテ対阪急)
* 1978年(S53)から、ロッテ球団、神奈川県の川崎球場を本拠地とする
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「続・ 宮城県郷土史年表」P17/「仙台市史 年表」P129/Wikipedia「千葉ロッテマリーンズ」
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ロータリー・クラブ |
再発足 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)1月18日、仙台ロータリー・クラブ再発足
* 1951年(S26)9月、青葉通りの仙台駅前の分離帯に、ロータリークラブから、栃の木、柳が寄付される(「戦災復興余話」P53)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540/「戦災復興余話」P53
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ワープロ |
役所で導入 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)3月、宮城県中田町役場で、ワープロ導入
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「続・ 宮城県郷土史年表」P160
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一番町(旧・東一番丁)中央部 |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」<概要> |
平成20年時点 |
広瀬通り角と中央通り角の間、一番町三丁目にあるアーケード街
1993年(H5)、高さ19.5mの高層アーケードに建て替えられた / この新アーケードは、旧車道部の上を覆う中央ドーム部が5階建て程度、両脇の旧歩道部の上が4階建て程度の高さになっており、ミラノのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアを模した
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Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より抜粋
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一番町(旧・東一番丁)中央部 |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」<年表> |
昭和初期~平成10年 |
S8.1.20、仙集館(活動写真館)付近焼ける / S29.1.14、第1代アーケード完成 (「仙台年表」P229) /S45、歩行者天国(土日)スタート / S47、歩行者天国(全面実施)/S47、一番街アーケード改築 / S50.5.2、ジャスコ開店(一番街) / S54.9.1、「一番街買物公園」完成、街路樹・ストリートファニチャーを設置 / S59.11.1、ジャスコがフォーラムに業態変更(テナント大幅入替え)し開店 / H5.7.14、一番街アーケード完成(H4に着手)
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「仙台市史 年表」P131/「仙台年表」P229/「重訂 宮城県郷土史年表」P571
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20-43、99-016、20-41、20-42、99-018、22-58など写真分類A-02-02(東一中央部)の全写真/「目で見る仙台の歴史」P188(東一中央部夜景)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13(S29、藤崎より北、俯瞰)
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一番町(旧・東一番丁)中央部 |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」<商店街組織> |
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大町角(中央通り角)以北の東一番丁は、戦前から「東一振興会」の名称が使われていたことが、[写真 49-04 で確認できる / S29、「東一振興会」を「東一一番街」に改称 (ただし、写真 77-02 (S31)ではまだ「東一振興会」の字が確認できる) / S45.7.27、一番町一番街商店街振興組合設立
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
総説 |
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一番町は南から北へ、1~4丁目まであるが、商店街としての一番町は2丁目以北で、3つの商店街で構成されている。 武家の町だった東一番丁が、明治期以降は次第に商店がつらなる繁華街となり、仙台を代表する商店街「東一番丁」となった。 1970年(S45)2月の新住居表示で、「一番町」となる。
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<参照>旧町名と新住居表示実施後の新町名の対比、実施年月日は、仙台市HPの 「旧町字名(地区名)一覧表と旧・新住所対照表(五十音順)」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/ichiran.html
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
年表 |
昭和初期~平成10年 |
S3.4.15、東北産業博覧会(55日間開催)にあわせ、東一番丁通りがアスファルト通りになり、街灯(スズラン灯)がつく、ただし、三区域ごとに独自の形 / S4.1.6、市庁舎新築落成 / S6.9.10、県庁舎竣工 / S17.8、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出 / S20.7.10、仙台空襲で、東一番丁一帯も壊滅的被害 / S20.12、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転 / S20.12.25、復興歳の市(東一番丁歳の市復活)、出店500軒 / S21.8、東一番丁に戻ったバラック店舗52軒がいっせいに七夕飾りをかかげる / S21.8.15、3夜連続で復興盆踊り大会開催(戦災焼け跡にヤグラを組む、東一が全市に先駆けて開催、毎夜数万人で賑わう) / S21、東一番丁通り(定禅寺通~柳町通り間)幅員15mに拡幅決まる(両側に4.2mの歩道、車道はアスファルト舗装、歩道はコンクリート製1尺角のブロック敷き詰め)/ S22.4.17~4.18、さくらまつり開催(新憲法施行記念の仮装行列) / S22.8.5~8.7、市内各商店街、戦後初の七夕まつり(8.5には昭和天皇仙台巡幸を七夕飾りで歓迎) / S22、戦後のスズラン灯建つ / 東一番丁全町に街路灯設置(広瀬通の南北でデザインに違い) / S28、アーケード設置を前に電柱撤去(南町通り角~定禅寺通り角、838m)/ 東北初のアーケード完成(北部は S29.7、中央部S29.1.14、南部=大通りはS29.12.11) / S29.12.12、アーケード完成祝賀仮装行列 / S34.3.4、青葉通りが全線開通 / S36.5.12、ネオンアーチ完成 / S40.12.8、夢のカラー歩道完成(定禅寺通り~南町通りまで、乳白色の人造大理石にグリーンのアクセサリー) / S41.7.15~7.17、東一番丁誕生百年祭を祝う(藩祖政宗公生誕400年と兼ねて実施) / S42.1.25、定禅寺通り、広瀬通りが全線開通(東一番丁付近完成はS29.4) / S45.2.1、住居表示変更(東一番丁 → 一番町) / S45.10.10~、歩行者天国実施(土日祝、320店) / S47年、歩行者天国を全面実施 / S51.3.31、仙台市電廃止 / S52.12.3~25、全面歩行者天国(午後0時~6時) / S53.6.12、宮城県沖地震 / S54.1.20、東一番丁通りが通行禁煙となる / S54、東一番丁通りが歩行者専用道路となる / S54.7,東一番丁通りカラー煉瓦に化粧 / S61.12、光のページェント始まる / S62.7.15、地下鉄南北線開通(勾当台駅できる)
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各商店街の年表は、「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9の「年表」による/「仙台市史 年表」P127、P128、P131、P134/「仙台市史10 年表」P311/「仙台市史 年表」P215/「重訂 宮城県郷土史年表」P571、P626/「続・ 宮城県郷土史年表」P91、P98/電柱撤去は、「番丁詳伝」P166/スズラン灯回収は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26/街路灯設置は「番丁詳伝」P178/「仙台あのころこのころ八十八年」P250、P256/「市民の戦後史」P185/15m拡幅は、「番丁詳伝」P164、P166
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61-16(S3,スズラン灯がついた東一番丁)、35-14(空襲被害)、53-08 (天皇巡行)、47-05 (東一番丁百年祭)22-58 (歩行者天国)など、写真分類A-02(東一番丁)の全写真/「市民の戦後史(仙台市)」P185(東一番丁百年祭祝う商店街)
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
商店街組織 |
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S23.2.20、東一連合会発足 / H10.11.11、東一連合会、50周年記念式典開催(記念誌発行)
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各商店街の年表は、「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9の「年表」による
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
一番町の年中行事 |
1987年(S62)現在 |
・ 初売り 1月3日
・ どんと祭 1月14日
・ 節分会(4丁目) 2月初旬(豆まき、厄払い)
・ 青葉くじセール 2月~3月
・ 春の売り出し(4丁目) 3月~4月
・ なんじゃもんじゃ広場(4丁目) 5月5日、昭和51年開始(屋台、ゲーム、音楽会やおどり、小イベント15~20種展開)
・ 三社まつり 7月 昭和55年開始(三社まつりは、大町のえびす神社、一番街の和合神社、大通りの野中神社の三社の神輿が一番町と中央通りを渡御 / 前夜祭の土曜は、一番街では夜店を出しうなぎつかみ、大通りはチャリティー・オークヨンとカラオケ大会、おおまちでは音楽祭と大町小町コンテスト)
・ 七夕まつり 8月6~8日
・ 金蛇水神社祭典(4丁目) 8月下旬(神輿渡御、夜店)
・ 体育まつり(一番街) 10月体育の日 S58年開始(体力測定、栄養相談など)
・ 市民まつり(一番街) 11月1日~3日
・ 青葉くじセール 12月
・ 年末チャリティー歳の市(一番街) 12月26~30日
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「番丁詳伝」P198~199
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一番町(旧・東一番丁)北部 |
一番町四丁目買物公園<概要> |
平成20年時点 |
定禅寺通角~広瀬通角間の商店街(アーケード街)
道の両脇にのみアーケードがかかり、晴れた日には太陽光が直に差し込み、青空を望める明るい雰囲気となる / 降雨時の開口部からの横雨の入りを少なくするため、アーケードの高さは「1階分+看板分」程度の高さになっており、一番町の他のアーケード街と比べると低い / この街区と交差する定禅寺通の西洋風煉瓦造りの中央緑地帯の雰囲気にあわせ、旧車道部の舗装は石畳、旧歩道部は煉瓦風カラー舗装となっている
冬季には、旧車道の開口部に豆電球のイルミネーション装飾をいくつも渡し、日没後は北欧の街路のような雰囲気となる / 1982年(S57)から2003年(H15)7月まで、「水時計」と呼ばれる落水で動くからくり時計が街区の南東端に設置されていた
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Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より要約
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一番町(旧・東一番丁)北部 |
一番町四丁目買物公園<年表> |
昭和初期~平成10年 |
S5、市立病院開院(S14.11.19、改築落成) →S55、清水小路に移転 / S6.1、森徳座焼失(仙台映画大全集) / S8.4.1、三越出店 / S29.7、第1代アーケード完成 /S38.11.1、三越、新館新装開店(地上7階、地下2階、屋上に3階の塔屋あり、S36.9~増改築工事) / S45.12.2、北振会アーケード改築完成(2代目) / S46、中央会アーケード改築完成(2代目) / S57.10.2、四丁目商店街「アーケードのある買物公園」完成(透明なアーケード、噴水式モニュメント、約70本の街路樹) / S58.10.6、記念誌「風雪三十年」完成 / S60.7.13、北の入口に「もみの木」植樹(光のページェントの原点) / S62.3.21、141(イチヨンイチ)が開店 / H4.10.25、三越増改築開店
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P151、P152
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61-16、22-53、18-16、99-014など写真分類A-02-01(東一北部)の全写真
/「仙台市史 特別編4 市民生活」P231(昭和初期、東一番丁北部森徳座付近)/「市民の戦後史(仙台市)」P73(S28年頃、東一番丁北部)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図37~38(S53年俯瞰、H8年141ビル)
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一番町(旧・東一番丁)北部 |
一番町四丁目買物公園<商店街組織> |
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「北振会」の名称は戦前から使われてぃた / S26.1.1、北振会発足(S28.7、仙台東一北振繁華街協同組合設立認可) / S38.8.9、「仙台東一北振繁華街協同組合」を「仙台東一北振商店街振興組合」に改組 / S54、「仙台東一北振商店街振興組合」が「東一中央会」を吸収(北振会は森徳横丁以北、中央会は森徳横丁~広瀬通り間) / S55.6.16、「東一北振商店街振興組合」を「一番町四丁目商店街振興組合」に改称
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9
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一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<概要> |
概要(平成20年頃) |
中央通り角から南町通角の間のアーケード街 / 一番町二丁目、および三丁目の一部に跨る
現在のアーケードは1986年(S61年)に設置された高さ13.7mのもので、当時は日本で最も高さのあるアーケードであった / 天井付近に仕掛け時計が設置されており、時間になると人形が動く / 「文化横丁」や「壱弐参(いろは)横丁」などの横丁がある
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Wikipedia「一番町」(仙台市)(2020年6月)より抜粋
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一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<年表> |
明治期~平成10年 |
M30.2.11、藤崎が東一番丁に進出 / T8.3、南町大火 / 南町大火後の道路改修計画(T9~S2)で、東一番丁では大町角の「藤崎」以南が拡幅され、通称「大通り」となった / T14.12、大映文化シネマがオープン / S23.2.20、東一番丁に昼火事あり、東一中央市場と南松竹映画全焼 / S29.12.2、第1代アーケード完成 /S50.11.20、大通りアーケード改築完成、藤崎以南にクリスタル製シャンデリア点灯 / S52、大通りアーケード改築 / S53、大通り30周年記念行事 / S61.11.29、電動式全蓋(ドーム型)アーケード完成 / H9.11.19、藤崎アネックス開店
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「番丁詳伝」P166/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「仙台市史 年表」P115、134、218 / 「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P526、P575
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20-45、22-55、22-59、53-117、20-01-01、64-03など写真分類A-02-03(東一南部)の全写真
/ 戦後間もない東一番丁南部は、「目で見る仙台の歴史」P172、「市民の戦後史(仙台市)」P25
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一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<商店街組織> |
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S23.4、一番町大通り親和会発足 S57.11.8、「一番町大通り商店街振興組合」設立 / H2.5.28、「一番町大通り商店街振興組合」を「サンモール一番町商店街振興組合」に改称 / H3.8.6、ドイツ・ハンブルグ「ハンブルガーシュトラーゼ」と姉妹商店街提携調印
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P269
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一銭橋(広瀬川) |
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→「宮沢の一銭橋」参照
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七十七銀行 |
開業 |
1878年(M11) |
<国立銀行>
* 1878年(M11)6月、第七十七国立銀行仮取扱所、勾当台通1番地に設置(「仙台年表」P151)
* 1887年(M11)12月、旧仙台藩士族の大部分が出資した第七十七国立銀行開業(「仙台市史 特別編4 市民生活」P349)
* 1878年(M11)12月9日、第七十七銀行国立銀行、大町1丁目に開業(「仙台市史 年表」P83)
<国立→私立>
* 1896年(M29)10月29日、国立から私立に移管(「仙台年表」P171)
* 1898年(M31)3月1日、株式会社七十七銀行となる(「仙台市史 年表」P90、「仙台老舗百点史」P106)
* 1898年(M31)3月1日、私立銀行に転換(「仙台市史 特別編4 市民生活」P350)
<本店、芭蕉の辻の洋館に>
* 1903年(M36)8月1日、新式店舗を芭蕉の辻東北角に新築移転 / 地下室付き2階建ドイツルネッサンス式準洋風建築 / 設計者松崎万長、工費は基礎工事3万円、上部構造等6万円(「重訂 宮城県郷土史年表」P328)
<本店移転>
* 1929年(S4)8月11日、大町4丁目75の旧宮城商業銀行本店跡に本店を移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P416)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P349、P350/「仙台市史 年表」P83、P90/「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P328、P416/「仙台年表」P151、P171/「仙台老舗百点史」P106
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P339(七十七銀行が明治12年に発行した壱圓紙幣)
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七十七銀行 |
他行を合併 |
1927年(S2)、1932年(S7) |
<他行を合併>
* 1927年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409)
* 1931年(S6)11月27日、東北実業銀行、五城銀行と合併仮契約書(「仙台市史10 年表」P277)
* 1932年(S7)1月31日、七十七銀行が、東北実業銀行、五城銀行と合併し、七十七銀行に(「重訂 宮城県郷土史年表」P429)
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P356」より>
「七十七銀行は、第一次大戦後は、『米の七十七、繭の商銀』とうたわれ、宮城商業銀行とともに、県内各地に支店網を形成していった。 しかし(片倉製糸などの器械製糸工場におされて、取引先の)座繰製糸の不振によって、宮城商業銀行は大きな不良貸し付けを抱えることになり、1927年(S2)の金融恐慌をきっかけとして、仙台興業銀行ともに七十七銀行に合併されることになった。 さらに、七十七銀行は金融恐慌のさなかの1932年(S7)に東北実業銀行と五城銀行を合併し、仙台を中心とした地方の金融機関として生き残っていくことになる。」
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「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P429/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356
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七十七銀行 |
本店の変遷 |
1878年(M11)~ |
1) 1878年(M11)、第七十七国立銀行、(旧)大町一丁目で創業
2) 1903年(M36)8月11日、芭蕉の辻東北角
(ドイツ・ルネッサンス式純洋風建築)
3) 1929年(S4)8月11日、芭蕉の辻西南角から南へ2軒目(大町4丁目75、旧宮城商業銀行跡)へ移転
・1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被害
・1947年(S22)11月26日、修理及び増築工事進行し第一新館落成
・1950年(S25)3月7日、第二新館落成
・1954年(S29)1月18日、第三新館落成
4) 1958年(S33)10月13日、東二番丁通・広瀬通東北角に新築移転 / S33年10月13日、芭蕉の辻支店を新設開業
5) 1977年(S52)9月、東二番丁通・青葉通東南角へ新築移転
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七十七銀行HP/「仙台市史10 年表」P273/「仙台市史 年表」P120、P131/「重訂 宮城県郷土史年表」P328、P416、P522、P589
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2)は、99-021、99-022/「仙台市史 特別編4 市民生活」P138/「目で見る仙台の歴史」P135に、「芭蕉の辻角の本店内部執務風景」
3)は、99-028(左端のビル)
4)東二番丁通・広瀬通東北角の本店は、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P737、「目で見る仙台の歴史」P193、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P33(昭和30年代初め頃)、同P87(S41)
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三原時計店 |
国分町で創業 |
1887年(M20) |
<国分町の建物>
* 1887年(M20)3月、仙台市国分町(肴町角)に創業開店(三原本店HP)、戦後の徳陽シティー銀行の場所
* 1887年(M20)、三原時計店が国分町で時計塔付の建物を建設し開業(M22年開業説もある)(「目で見る仙台の歴史」P118では、明治18年)
* 1889年(M22)、国分町に時計塔のある洋風建築を建設(「古写真にみる仙台の建築」P43)
* (M29年に三原時計店が大町に移転後、建物は大正信託、第八銀行が使用した)
* 時計塔の文字盤には、1915年(T4)にはすでに針が無く、模様が描かれている
* 1921年(T10)、国分町の旧三原時計店の建物は取り壊された(「古写真にみる仙台の建築」P43)
<編者注> 「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217や「仙台老舗百店史の三原本店」の記述では、1896年(M29)に大町へ移転と記載されているが、「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)では、地図上も同裏面の実業家一覧表でも、三原時計店はまだ「国分町肴町角」となっている
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三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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77-21、44-19、99-022 /「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に当時の三原時計店(国分町五丁目)の写真あり
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三原時計店 |
(旧)大町5丁目へ移転 |
1896年(M29) |
<三原本店HP>
* 1896年(M29)3月28日、(旧)大町5丁目(現在一番町3丁目)に移転、建物もこの年に設置
<「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P218>
「初代三原庄太が米沢から仙台へ進出、M20国分町・肴町角に時計店開業。1896年(M29)に仙台駅寄りの人の流れや商店街の移り変わりを見越して、大町五丁目に移転。 1903年(M36)に土蔵の店舗の上に(国分町時代と同じく)時計塔をおいたが、1927年(S2)に取り壊し、さらにハイカラな時計塔ある店舗を新築したが、1945年(S20)の仙台空襲で焼失した」
<「仙台老舗百店史」P208、P217>
「時計の三原本店はM20年、山形県米沢から、国分町肴町角に進出開業、M29年3月28日に大町五丁目に移転した/ どちらでもそっくりの時計塔を造っている」
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三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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43-25、22-57
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三原時計店 |
大町の店、時計塔設置 |
1903年(M36) |
* 1903年(M36)、大町の店に時計台をあげる(三原本店HPの掲載写真記載メモ)
* 1903年(M36)、大町の店に時計塔設置(「古写真にみる仙台の建築」P43/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217)
* 1905年(M38)3月、店舗屋上に4面塔時計台を設置(三原本店HPの年表)<編者注>写真記載メモと設置年が違う
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三原本店HP/「東北大資料」P43/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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「いつか見た街・人・暮らし」P36(三原時計店内部、大正4年)
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三原時計店 |
大町の店、取壊し |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)、大町の店(時計塔のある土蔵造)を取り壊し、その跡にハイカラな時計塔のある店を新築
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あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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三原時計店 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年7月10日、仙台空襲で、大町の店舗を焼失
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三原本店HP
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三原時計店 |
戦後 |
1846年(S21)~ |
* 1846年(S21)6月、新築開店
* 1953年(S28)2月、株式会社三原本店と称し法人組織に
* 1968年(S43)12月、(旧)大町5丁目内で移転(現・一番町3丁目2-23に移転)、地下1階地上3階
* 1978年(S53)、増築
* 1987年(S63)3月、創業100周年
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三原本店HP/あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217
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三居沢交通公園 |
開園 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)1月26日、三居沢動物公園跡地に開園
* 1977年(S52)9月7日、改装しオープン
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「仙台市史 年表」P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P630/「続・ 宮城県郷土史年表」P71
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「市民の戦後史(仙台市)」P198(三居沢交通公園)/「新・目で見る仙台の歴史」P192(南小泉の交通公園)
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三越(仙台店) |
開店 |
1933年(S8) |
<前史>
* 1930年(S5)6月、株式会社仙都ビルディング創設(東一番丁)
* 1931年(S6)、三越仙台進出阻止運動(「仙台年表」P203)
* 1932年(S7)8月、東一振興会と商業連合会、三越仙台店設置反対運動を展開
* 1932年(S7)8月18日、仙台進出阻止演説会(日比谷公会堂)
・ 三越進出阻止運動(昭和5年~7年)については、「番丁詳伝」P138~141に詳述あり
・ 三越店員を地元から採用が伝わると、300人の計画に対し、男女3500人の履歴書が出され、2月15日から8日間、市公会堂で採用試験実施
<東一番丁に開店>
* 1933年(S8)年4月1日、三越百貨店(鉄筋コンクリート5階建、地下1階)、東一番丁北部の仙都ビルに開店 / 「三越の開店は風があったとはいえ、穏やかな春日和の四月一日、宣伝飛行機は開店ビラをまきながら大売り出しで始まった」
【「番丁詳伝」P144~145】
・ 「三越開店前までは、東一番丁では初の商店街組織「北振会」が結成されていたが開発は遅かった。三越周辺は空き地が目立ち、桃季園病院の黒塀が20m程続き淋しいところで、夜は暗くまったく商売にならなかった」
・ 「三越が開店して東一番丁は急激に商店が増えてくる。これまで、立町通り、虎屋横丁角までの人の流れもにも変化が見えてくる」
・ 「開店当初の店内配置は、地下(食料品・家庭用品)、1階(化粧品・履物・薬品・紳士用品・帽子)、2階(紳士婦人子供服・傘・ハンドバッグ・靴・貴金属品)、3階(呉服)、4階(文化用品)、5階(和洋家具・小ホール)」
・ 「開店時、ホールでの芸能披露、目玉商品、十銭均一売り出しなど記述あり」
・ 「(仙台は)街行く婦人は着物姿、僅かにみられる男性の背広姿はツンツルテンのズボンであったから、東京から転勤した約30人の三越青年社員の東京仕込みの中折帽、編上靴、ステッキ姿は目立つ存在であった」
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、内部を全焼
* 1945年(S20)8月1日、空襲後の営業再開
* 1963年(S38)11月1日、新館新装開店
(地上7階、地下2階、屋上に3階の塔屋あり)
* 1992年(H4)10月25日、三越増改築開店(三越・ABビルが竣工)/ 北隣の141ビルとの間に上空連絡通路を設置
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「仙台年表」P203~204/「仙台市史10 年表」P279/「仙台市史 年表」P113/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「重訂 宮城県郷土史年表」P420、P435/「番丁詳伝」P138~145
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22-51、47-06、53-34、22-53、53-23、16-39、20-33/「目で見る仙台の歴史」P165
/三越の七夕飾りは20-22/仙台空襲焼け跡に立つ三越は35-14/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38、新館)、P66(S38、新館)
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下水処理 |
事業決定 |
1957年(S32)~ |
* 1957年(S32)2月、仙台市、下水道処理事業決定
* 1963年(S38)9月、南蒲生の下水週末処理場一部運転開始
* 1964年(S39)2月、下水の南蒲生幹線貫通
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「市民の戦後史(仙台市)」P152~153
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P151(建設中の南蒲生下水処理場)/「市民の戦後史(仙台市)」P152~153(南蒲生下水道終末処理場、下水道清掃車、下水幹線工事完成で握手、澱ポンプ場)
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丸光 |
雑貨店開店 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月1日、 仙台駅前の空襲焼け跡(裏五番丁15)に丸光合資会社として雑貨店を開き、「MARUMITU DEPT.STORE」の文字を掲げて営業を開始 / 木造平屋で50坪
* 1948年(S23)6月1日、株式会社に改組
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Wikipedia「丸光」/「仙台市史 年表」P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P511
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丸光 |
平屋の店 |
1947年(S22)ころ |
* 戦後、昭和天皇仙台行幸時の写真(S22年8月5日)では、木造平屋
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27-01
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丸光 |
3階建完成 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)
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16-27、98-048、53-82
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丸光 |
青葉通りへ進出(本館) |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月、青葉通りに新館落成 / 百貨店として営業開始(地下1階、地上3階建て)
* 1956年(S28)12月11日、この日から丸光屋上よりミュージックサイレン(荒城の月)を市内に放送開始(34年間続く)
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「重訂 宮城県郷土史年表」P570/わが心の仙台駅前史」P40
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丸光 |
旧館全焼 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)5月、丸光旧館全焼(増築中だった)
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Wikipedia「丸光」/わが心の仙台駅前史」年表
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丸光 |
8階建て本館ビル落成 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)10月、青葉通りに面して、丸光本館(8階建て)が落成(増築工事完成) / 地上8階、地下2階、地上12階に相当する展望台、4000坪)
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Wikipedia「丸光」/「仙台市史 別冊 市民生活」P41
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99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P22(S32、建設中)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮)、P73(S39、カラー)、P74~75(S39、カラー)
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丸光 |
仙台最大の売り場面積に |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)、藤崎や三越仙台店を上回る仙台最大の売場面積となる
* 1972年(S47)11月2日、新装オープン
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Wikipedia「丸光」 / あれから50年「戦争と丸光」(今泉清)/「続・ 宮城県郷土史年表」P14
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丸光 |
ダックシティー丸光/ビブレ/さくら野百貨店/店舗閉鎖 |
1985年(S60)/1991年(H3)/2002年(H14)/2017年(H19) |
* 1975年(S50)、ニチイ傘下に (「続・ 宮城県郷土史年表」P72では、1977年(S52)9月、スーパー・ニチイと業務提携)
* 1982年(S57)9月30日、百貨店連合と丸光(仙台)・武田山田(青森)・小美屋(川崎市)合併
* 1985年(S60)、「ダックシティー丸光仙台店」に改称
* 1991年(H3)、「ダックシティ丸光」から「仙台ビブレ」に改称
* 2002年(H14)10月、「さくら野百貨店仙台店」に変更、その後、一時休業
* 2003年(H15)、再オープン
* 2017年(H19)、倒産、売り場閉鎖
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「続・ 宮城県郷土史年表」P72、P151/Wikipedia「丸光」
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ダックシティー丸光は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P118(S62、カラー)
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主食配給量 |
変化 |
1940年(S15)~1948年(S23) |
* 1939年(S14)、戦争拡大と、秋には移入先の朝鮮米大減収が重なり需給ひっ迫、14年秋からは、全国一斉に7分搗き米、混食、代用食、かゆ食など奨励(「仙台市史 続編第1巻P13)
* 1940年(S15)、「この頃米は切符制となり、配給は2.6合となった」(佐々久「近代みやぎの歩み」P109)/ 宮城県では、東北でも一番遅れて、S15年12月17日から米穀商業組合発行の通帳で米配給実施、基準配給量は年齢別5段階の1日量平均2.574合(「仙台市史 続編第1巻」P19)
* 1941年(S16)4月、米穀配給通帳制(4月に6大都市で、12月までに全国に拡大)→(米1人、2.3合、330gに) / 仙台では7月から市長発行の通帳となり、配給量は年齢のほか、職業、男女別要素が加わる(「仙台市史 続編第1巻P20)
* 1941年(S16)12月、仙台で米穀類が配給制になる、成人1人あたり1日2合3勺(145g)配給 / 戦時中配給された米は白米ではなく、太平洋戦争が始まったころは七分つき米、1943年からは五分つき以下になり、玄米に近くなる(「戦争のころ 仙台、宮城」P179)
* 1945年(S20)7月4日、主食配給量減、7月~10月、10%減、労務特配停止決定(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)7月11日、主食の配給2.1合に(菅家年表)
* 1945年(S20)7月、主食配給量が10%減
河北新報は見出し「これを契機に食生活も決戦切り替えだ」で、祖先が飢饉のときに食べた草木の芽、皮、根、木の実も食料になると報じる(「戦争のころ 仙台、宮城」P180)
<戦後の食糧事情>
* 1946年(S21)5月16日、宮城県の米配給量、2.1合から1.8合へ減ず(「重訂 宮城県郷土史年表」P511) / 「買出し部隊」が農村へ向かう(「仙台市史 続編第2巻」P701)
* 1946年(S21)5月24日、天皇、食糧事情に関し放送
* 1946年(S21)6月2日、仙台市食糧危機突破対策委員会結成、対策要綱決定
* 1946年(S21)6月9日、食糧危機、2.1合配給を維持(「仙台年表」P216)
* 1946年(S21)11月1日、主食の配給、1日2.5合に増配(農林省発表)
* 1947年(S22)7月20日、主食の遅配、東京25.8日、北海道90日
* 1947年(S22)9月1日、パンの切符配給制を開始(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)11月1日、米配給量、1日2.7合
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戦時中の主食事情につき記述→「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P18~20、「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~182
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「仙台年表」P216/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P34、P37、P41、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、513/「仙台市史10 年表」P309、P312、P313/佐々久「近代みやぎの歩み」P109、P164/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701
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乗合馬車 |
開業 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)11月14日、仙里軒(国分町)が仙台(国分町)~岩沼間の乗合馬車を開業
* 1878年(M11)、萬里軒、開業 / 仙台~福島間2円30銭(「番丁詳伝」P29)
* 1881年(M14)4月21日、万里軒(萬里軒)が国分町に本店、仙台~白石間の乗合馬車を開業 / 同年12月15日から、仙台・福島間運行、仙台~福島間2円30銭(「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195)
* 1884年(M17)3月、万里軒が、福島(盛運社)と宇都宮(手塚舎)の業者と共同で、乗り継ぎ制で、仙台~東京間の乗合馬車を開業 / 仙台~福島間1円70銭、仙台~東京間7円67銭(「番丁詳伝」P29) / 料金については「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195にも詳述
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195によれば、、仙里軒、万里軒のほかに、この時期には、宝來軒(東一番丁)、盛運社(福島)、旅館菊平(国分町)、自由軒(国分町)と乗合馬車事業が競合関係にあった
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「仙台市史 年表」P82、P84、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194~195/「番丁詳伝」P29
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(万里軒の引札)
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乳銀杏(苦竹のイチョウ) |
国の天然記念物に指定 |
1925年(T15) |
<仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「苦竹のイチョウは巨木で,大きく枝を張り,幹から出た根の一種である気根がつらら状に乳房のように多数垂れ下がっている様子から「乳銀杏(ちちいちょう)」とも呼ばれる。気根の最大のものは,周囲が1.6mにもなり,端が地面に達するものも見られる。樹下にまつられている銀杏姥神には,母乳が良く出るようにとお参りする人々も多い。樹齢は千年を越え,奈良時代に聖武天皇の乳母紅白尼の遺言でその塚の上に植えられたとの言い伝えがある。イチョウは起源の古い植物で,今から1億年以上前の中生代に栄えた。針葉樹等と同じく裸子植物に属している。イチョウには雌株と雄株があり,この樹は雌株である。苦竹のイチョウは,天然記念物に指定されているイチョウの中でも全国的に著名で,町名もこのイチョウにちなみ「苦竹」から「銀杏(いちょう)町」に変えられた。 樹種イチョウ(いちょう科) 幹周 7.8m 樹高 約32m 推定樹齢 1200年」
* 1925年(T15)10月20日、国の天然記念物に指定
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「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」
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99-147 /「市民の戦後史(仙台市)」P86
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亀岡八幡神社 |
県重文指定 |
1970年(S45) |
伊達藩四代綱村が建立
* 1683年(天和3)落成、仙台東照宮や塩釜神社と並んで豪壮な神殿づくりで、仙台藩の氏神だった
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1966年(S41)、新社殿落成
* 1967年(S42)、境内の一部に、市の老人福祉センターが完成(大浴場、休養室、健康相談室)
* 1970年(S45)10月17日、石造大鳥居と鳥居額、県の重要文化財に指定(大崎八幡宮の石造大鳥居とともに)(「重訂 宮城県郷土史年表」P664)
* 1978年(S53)12月16日、境内に「輜重兵第二連隊の碑」建立
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187~188/「重訂 宮城県郷土史年表」P664/「続・ 宮城県郷土史年表」P89
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「仙台市史写真集 市民の戦後史」P21/「目で見る仙台の歴史」P65に社殿と内部
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二十人町 |
戦前 |
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「二十人町」は東北線の東側にある商店街
(仙台駅東口がなかった1952年(S27)夏までは)仙台駅からは、駅西側の駅前通りを北へゆき、すぐの名掛丁角の交差点を東へ右折し、線路を宮城野橋(通称・X橋エックスバシ)で越えるのが経路だった
・ 藩政時代に、仙台城大手筋をそのまま東へ延ばした要の場所に、鉄砲組二十人衆を配し城を守らせたのが町の始まりといわれる
・ 戦前は、釈迦堂の門前町として、また花見で有名な榴ケ岡公園へゆく行楽客で賑わい、明治時代から榴ケ岡に置かれた歩兵第4連隊の兵隊さんや連隊に出入りの人々相手の商売(入隊・除隊時の記念品、食料品、飲食店、菓子屋など)が多く、近くの片倉製糸仙台工場(明治38年開設、昭和31年1月閉鎖)に大勢いた女工さんもお得意さんで、庶民的な町として栄えた
・ 1937年(S12)の日中全面戦争以降は、次第に戦時色が強まるなかで軍事優先の統制経済による物資不足でやむなく店を閉鎖したり、太平洋戦争期には商店主たちが軍需産業へ強制動員されるなど苦難の時代が続いた
・ 1945年(S20)7月の仙台空襲では、商店街の一部を焼失
<二十人町と鉄砲町>
・「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121に、両町の由来、沿革の記述あり
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「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121
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写真分類A-05-07二十人町の全写真(34-05、34-06、34-04、75-04、98-142など)/16-04、16-10ほか/「目で見る仙台の歴史」P138に「二十人町教会堂」
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二十人町 |
戦後 |
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・ 戦後、昭和20年9月~31年6月に、近くの歩兵第4連隊兵営跡地に米占領軍が駐留(キャンプ・ファウラー)
・ 市中心部が戦災で壊滅した中で二十人町は戦災被害が比較的少なく、駅に近い下町は仙台では有数の活きた町で夜遅くまで活気にあふれたという
・ 商店数はS10年頃が54店、S30年頃が70店
しかし、
* 1952年(S27)、最寄駅の仙石線東七番丁駅(昭和19年に仙台東口駅と改称)が廃止
* 1956年(S31)6月、米軍キャンプ・ファウラーが返還
* 1956年(S31)、片倉工場閉鎖 などで
商店街はそれまでの存立基盤を失うが、S20年代半ば以降、仙台七夕に積極的に参加するなど商店主たちが結束、青年会もS32~35年には七夕仕掛物で毎年、全市商店街コンクールで2等賞を獲得などが明るい話題となった
* 1985年(S60)、再開発事業に着手(「仙台クロニクル」P120)
<二十人町教会>
商店街の真ん中に1895年(M28)年から二十人町教会があった
* 1982年(S57)6月、1909年(M42)建築の教会堂、取壊し始まる
* 1988年(S63)、教会が原町5丁目に移転
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「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120
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二十人町の七夕仕掛け物、75-01、75-02/「目で見る仙台の歴史」P189(戦後20年代の二十人町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図67~68(二十人町S32年、H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120(H5、カラー)
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二日町大火 |
大火 |
1951年(S26)4月22日 |
* 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821)
・ 二十日町大火は、市役所、県庁前周辺のバラック建てが再び変貌するきっかけとなった(「仙台市史 続編第2巻」P705)
* 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325)
* 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549)
/「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221
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40-01、40-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所)
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五色沼 |
スケート |
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・ 日本のフィギュアスケート発祥の地と言われる
・ 昭和11年現在、仙台スケート協会が管理 / 会員制度だが、臨時使用する場合は20銭
* 1905年(M38)、五色沼で旧制二高生中心のスケート研究行わる(「仙台年表」P181)
* 1909年(M42)、当時(旧制)第二高等学校ドイツ語教授ウィルヘルの指導のもとに、二高生の佐藤幸三、田代三郎、河久保四朗らが五色沼で滑ったのが始まり
* 1922年(T11)1月、第二高等学校(旧制)主催、第1回スケート大会開催
* 1931年(S6)1月14日、五色沼で(初の?)スケート競技会(「宮城県の百年」掲載年表)
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73/「仙台年表」P181(出典:佐々久監修「仙台の散策」S49刊)/「宮城県百科事典」P543/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「宮城県の百年」掲載年表
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2-08、53-19、29-03、73-02/「いつか見た街・人・暮らし」P4(五色沼スケート、大正13年)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図8~10/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P83(S39、カラー)
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交通監視用テレビ |
仙台市内 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)12月25日、原町坂下交差点に設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P5
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人力車 |
仙台人力車挽子組合 |
1920年(T9)~1925年(T14) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P503>
* 1920年(T9)10月、仙台人力車挽子組合、青年自由革新党幹事の渡辺保蔵の指導で組織
* 1923年(T12)8月、仙台人力車挽子組合、再建総会 / 賃金改善と特に個人営業の自由を阻むすべての制限撤廃が運動方針 / 800余名の挽子全員を組織化
* 1925年(T14)9月、人力車挽子組合大会と値上撤廃期成大演説会(東三番丁の電気館 ☆末尾の注参照) / 人力車借用料値上反対した仙台停車場構内人力車挽子のストライキが口火となる / 800余名全員のストライキも辞さないという態度に、営業者側は無条件で値上案を撤回 / その後、個人営業の権利獲得運動を継続
・ これに自信を得た仙台停車場構内の挽子は、雇入れ・解雇は営業人と挽子合議の上で決定し、車体破損弁償は実費分を挽子と営業人が合議の上で決定することなどの要求で交渉し、全面勝利
<仙台市史 特別編4 市民生活」P193>
・ 1925年(T14)9月3日、仙台人力挽子組合臨時緊急集会(於:国分町の電気館) / 歯代(仙台駅構内の挽子80余名が営業者に収める額)1か月で18円から30円に引上げに反発
☆注: 電気館は、「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236によれば、国分町にあり、前身は大正3年4月開館の世界館で、その後日本館、帝国館、キネマ館と改称し、大正11年5月27日に電気館と改称した / 東三番丁ではない)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P503
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P503(T14年、人力車挽子組合大会・値上げ撤廃期成大演説会)
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