項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
ATM |
普及 |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)7月21日、東北初の郵便貯金ATMを、藤崎デパートに設置
* 1988年(S63)5月18日、七十七銀行が、河北新報社前にATM設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P227、P246
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JR東日本 |
発足 |
1987年(S62) |
<これ以前は、項目「国鉄」へ>
* 1987年(S62)4月1日、国鉄の分割民営化、JR東日本旅客鉄道株式会社発足
* 1989年(H1)1月25日、JR東日本、県内初の駅舎内コンビニ出店(東北線白石駅)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P221、P258
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LNG基地(仙台新港) |
完成 |
1997年(H9)/2016年(H28) |
LNG基地は、都市ガスや火力発電所に供給する液化天然ガス(LNG)の受入・貯蔵・気化を行う施設
* 1997年(H9)、仙台新港(仙台市ガス局港工場)にLNG基地完成、タンカー初入港 / 主な供給先は、仙台市ガス局
* 2016年(H28)7月、新仙台(東北電力)LNG基地完成 / 主な供給先は、 東北電力新仙台火力発電所
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「日本のLNG基地一覧」(2020年4月)
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「新・目で見る仙台の歴史」P197(ガス局港工場空撮、カラー)
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MRI |
東北初 |
1988年(S63) |
* 1988年(S63)月日、東北初のMRI(永久磁石共鳴画像診断装置)、塩釜の掖済病院に導入
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「続・ 宮城県郷土史年表」P242
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NHK仙台放送局 |
ラジオ放送開始 |
1928年(S3) |
* 日本放送協会は、1927年(S2)年6月9日、仙台に東北支部を設置
* 1927年(S2)8月11日、原町の送信アンテナ設置のための小作地取り上げ反対町民大会 / 農民と住民が反対運動 / ビラに、「町会議員は殆んど皆弱腰になったぞ!」「彼らの陰謀をたたき潰せ! 一萬円寄付には絶対に反対しろ!」
* 1928年(S3)6月16日、東北地方で初めてのラジオ放送が仙台放送局から開始された
<初期のラジオ中継放送>
* 1929年(S4)8月14~15日、「野外納涼盆踊り大会」中継(桜ケ岡公園から)
* 1929年(S4)9月22~23日、ミシガン大学との野球戦中継(八木山県営グラウンド)
* 1934年(S9)5月16日、NHK仙台中央放送局と改称
<戦後>
* 1945年9月23日、進駐軍放送のため施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始
* 1946年(S21)6月9日、仙台復興祝賀街頭音楽大会、放送
* 1946年(S21)7月29日、東北初の放送討論会開催(会場は仙台南松竹劇場)(「重訂 宮城県郷土史年表」P512)
* 1948年(S23)6月、仙台局開局20周年、NHKラジオ番組「二十の扉」公開放送
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「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P1、P9、P21/「仙台市史 年表」P104/「重訂 宮城県郷土史年表」P512/「仙台市史10 年表」P313/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260/「新・目で見る仙台の歴史」P148
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44-11、25-01、25-06など「写真データベース」分類F-24の写真全部/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234(S3、リーフレット「NHK仙台放送局開局」)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234/「目で見る仙台の歴史」P160に、本放送開始時のNHK仙台局舎/「新・目で見る仙台の歴史」P148(アンテナ反対町民大会ビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P509(同ラジオ送信アンテナ)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260の写真84(二十の扉公開放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P69(のど自慢、三つの歌、二十の扉各公開放送ステージ)/「新・目で見る仙台の歴史」P175(NHK街頭録音)/「市民の戦後史(仙台市)」P42(放送討論会ステージ、NHK放送慰問団トラック、のど自慢会場東北劇場前の看板)/同P70(S27年、楽器店前でラジオ五輪実況を聞く人々)
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NHK仙台放送局 |
テレビ放映実験 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)7月、仙台駅構内で、東北初のテレビ放映実験が行われる
* 1953年(S28)6月24日、テレビジョン映写公開(レジャーセンターで1週間)
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「仙台市史 年表」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P565/「仙台年表」P227
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「市民の戦後史(仙台市)」P64(テレビ実験公開
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NHK仙台放送局 |
テレビ放送開始 |
1956年(S31) |
* 1955年(S31)3月1日、NHK仙台中央放送局、テレビ試験放送を開始
* 1956年(S31)3月22日、NHK仙台中央放送局、テレビ放送を開始(総合テレビ / 仙台市電がテレビ開局記念花電車運行)
* 1956年(S31)8月6日、仙台七夕を初のTV生中継(全国放送)
* 1961年(S36)7月25日、仙台放送会館落成
* 1964年(S39)9月24日、カラーテレビ本放送開始
* 1970年(S45)1月~12月、大河ドラマ「樅ノ木は残った」放送(山本周五郎原作 主演:平幹二朗)
* 1971年(S46年)7月1日、 組織改正で、NHK仙台中央放送局を東北本部に改称
* 1980年(S55)7月25日、 組織改革で地方本部制度を廃止、NHK仙台放送局に改称
* 1987年(S62)1月~12月、大河ドラマ「独眼竜政宗」放送(主演:渡辺謙)
* 2018年(H30)2月4日、青葉区本町二丁目20番1号に新設された放送会館に移転
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「重訂 宮城県郷土史年表」P581、P667/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P31、P35、P45、P55、P71/NHKのHP
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「目で見る仙台の歴史」P195(NHKテレビ塔)/NHKテレビが七夕全国中継(18-33 、「市民の戦後史(仙台市)」P92、「新・目で見る仙台の歴史」P180)/同P180(街頭でテレビ放送公開)/「市民の戦後史(仙台市)」P61(S31年、街頭テレビ前に集まった黒山の人、NHKテレビ送信アンテナ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P238(S27,大一楽器店の街頭テレビに集まる人々)
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NTT東北支社 |
民営化スタート |
1985年(S60) |
<これ以前は、項目「日本電信電話公社」に>
* 1985年(S60)4月1日、日本電信電話公社が民営化し、日本電信電話株式会社に / NTTは民営化以前から使われていた略称
* 1988年(S63)4月1日、NTT東北支社が、仙台周辺地区で、伝言ダイヤルサービス開始
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「仙台市史年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P242
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RTO(仙台) |
開所~廃止 |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
* 1945年(S20)9月20日、仙台のRTO開所(宮城、青森、岩手を管轄)
* 1946年(S21)6月21日以降は東北地方と新潟のRTOを管轄
* 1952年(S27)4月1日、廃止(国鉄の自主運行となる)
* 1957年(S32)10月まで、仙台駅北側(RTOの場所)を米軍が占拠 (「仙台市史 続編第1巻」P570)
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16-22(の内容欄、関連情報欄)参照/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P570
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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SENDAI光のページェント |
開催 |
1986年(S61)~ |
* 1986年(S61)12月12日~27日、第1回「SENDAI光のページェント」開催(定禅寺通りと青葉通り)
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P215
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「新・目で見る仙台の歴史」P207
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「仙台郷土研究」 |
創刊 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)1月10日、「仙台郷土研究」創刊(月刊)/末永勇四郎編、無一文館書店発行 / 小倉博(斎藤報恩会館)、阿刀田令造(旧制二高)らが中心
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「重訂 宮城県郷土史年表」P424/「目で見る仙台の歴史」P159
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「目で見る仙台の歴史」P159に、創刊号、小倉博氏と阿刀田令造氏肖像
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ありのまま舎 |
設立 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)、任意団体「ありのまま舎」設立
* 1975年(S50)、映画「車椅子の青春」制作/第1回日本赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞
* 1982年(S57) 映画「続・車椅子の青春(忘れられた一日)」完成
* 1986年(S61)、社会福祉法人「ありのまま舎」設立
* 1987年(S62)、身体障害者自立ホーム「仙台ありのまま舎」開所(西多賀4丁目) / 4月5日、入居式
* 1989年(S64)、付帯施設「障害者自立センター」開所
* 1999年(H11)、第1回「ありのまま舎自立大賞」設立(以後毎年開催)
* 2013年(H25)、県南ありのまま舎、名取ありのまま舎(相談支援事業)開設
このほか、製作映画、出版、受賞など多数あり
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「社会福祉法人ありのまま舎」ホームページhttp://www.arinomama.or.jp/menu1_2.html
/「続・ 宮城県郷土史年表」P153、P221
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いのちの電話 |
開始 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)11月、仙台市で「いのちの電話」開始
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「続・ 宮城県郷土史年表」P154
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がん検診センター(宮城県対がん協会) |
協会結成/検診センター完成 |
1958年(S33)/1968年(S43) |
* 1958年(S33)9月、宮城県対がん協会結成(北七番丁)
* 1960年(S35)、集団検診車登場、東北各地に出張診断
* 1963年(S38)8月、第1回がん対策推進全国大会、仙台で開催
* 1963年(S38)9月、第15回保健文化賞受賞(間接撮影装置の開発とその車両化、広範ながん対策推進の功績に対し)
* 1964年(S39)9月、婦人科がん検診車完成(農協婦人部中心に拠出)
* 1966年(S41)6月、検診車「第二きぼう号」稼働
* 1967年(S42)1月、河北文化賞受賞
* 1967年(S42)9月2日、宮城県対がん協会検診センター着工
* 1968年(S43)6月10日、宮城県がん検診センター完成(北六番丁、鉄筋コンクリート5階建て / 全国初)
* 1979年(S54)12月3日、乳がん検診車稼働
* 1981年(S56)5月11日、新らたながん検診センター(上杉6丁目)診療開始
* 1986年(S61)9月5日、対がん協会に、きぼう18号・しあわせ3号の検診車両配備
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P734~736/「重訂 宮城県郷土史年表」P634、P640/「続・ 宮城県郷土史年表」P104、P128、P210/「市民の戦後史(仙台市)」P146
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P735(がん検診車)/「市民の戦後史(仙台市)」P146(第1回がん対策推進全国大会)/「新・目で見る仙台の歴史」P195(胃の集団検診車「きぼう」、カラー)
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こけし塔(仙台駅前) |
設置 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)、仙台駅前広場のこけし塔、仙台復興祭グランドフェア(S24年4月20日~5月31日)の歓迎用に建てられ、その後も広告塔として使われた
・ S26年当時の写真にも写る
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「戦災復興余話」P101~102に、グランド・フェアーにつき記述あり
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16-20、16-18、16-19、20-08
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こけし塔(西公園) |
除幕式 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)3月27日、仙台市戦災復興都市計画事業完了、完工式(総額11億5千万円)、3月27日に完了記念の「こけし塔」を西公園に建設除幕式 / 鋳物製
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「仙台市史 年表」P122/「仙台あのころこのころ八十八年」P253/「宮城百年」(毎日新聞社刊)年表
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ちびっこ広場 |
第1号 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)11月3日、「ちびっこ広場」第1号を北七番丁に完成
民間から提供された敷地に、市が遊具などを貸しつける事業 / 子どもの健全育成、交通事故防止がねらい / S43年度までに108カ所誕生
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「重訂 宮城県郷土史年表」P628/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P251
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「市民の戦後史(仙台市)」P188(S41年11月、ちびっこ広場第1号オープンセレモニー、遊具で遊ぶ子ら)
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ひとにやさしいまちづくり条例 |
制定 |
1996年(H8) |
* 1996年(H8)6月、仙台市が、「ひとにやさしいまちづくり条例」制定
・ 「公益的施設」(社会福祉施設、官公庁の施設、医療施設、宿泊施設、理容、飲食店、体育館、映画館等)は、工事の際、施行規則に定める整備基準に適合させる
・ 「指定施設」(公益的施設のうち特に福祉整備が必要となる施設)では、建築等の際に事前届出が必要
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仙台市HP「ひとにやさしいまちづくり条例」
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ひらつか(東一番丁) |
戦後、進駐軍専用店を経営 |
1948年(S23) |
【「番丁詳伝」P152より】
* 1918年(T7)、平塚長蔵氏、塩釜で「ひらつか製菓舗」創設
* 戦時中は、多賀城にある海軍工廠の御用商人として自由に農産物を入手でき、漬物などを大量に生産
* 戦後、仙台・東一番丁(大通り)の一力邸の焼け跡を取得
* 1948年(S23)、敷地内に50m幅の青葉通りが造成しつつあった当時、敷地はヤミ市商人の密集中心地であったが、撤去後、「コックドール」(2階建ての洋風店舗)を建築、開業 / アメリカ進駐軍家族専用の店舗(レストランとフードマーケット)で日本人はオフリミット / 子息の長治氏が英語が話せたことから、進駐軍民生部に日参し、ヤミ市撤去と米軍関係者の利用施設を実現 / 進駐軍専用施設なので原材料の入手に困ることはなかった
・ 1950年(S25)の朝鮮戦争開始により在仙台米軍の大半が引上げ後は、方針を日本人向けに転換した
・ 仙台市高砂に最新技術を取り入れた東北初のオートメーション工場を建設
・ 一番町店舗の改築を行い、和・洋・中の総合レストランビルを完成
・ 平塚製パン、平塚物産、ひらつか、平塚販売等を展開
*****************************************
・ 昭和26年の絵葉書(写真20-01-01)でも、「ひらつか」は表示塔に「ON LIMITS RESTAURANT」とあるように、進駐軍専用のフードマーケット(1階)とレストラン(2階)だった
・ 昭和28年からは、パン・洋菓子販売と日本人むけに喫茶・レストランを経営
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「番丁詳伝」P152/昭和26年発売の絵葉書20-01-01の内容から
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20-01-01、22-07、58-01、58-03
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ひらつか(東一番丁) |
焼失 |
1960年(S35) |
ひらつかは、S35年暮れの火事で焼失 / その後再建
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やりなおし市長選挙 |
仙台市 |
1958年(S33) |
* 1955年(S30)4月30日仙台市長選、岡崎栄松4期目当選に対し、革新系島野武候補側が、市選管に異義申し立て / 市選管は票再点検の結果、却下(この過程で投票総数増加等の疑惑) / 仙台地検捜査開始 / 県選管も投票用紙点検し、選挙無効と裁定 / 岡崎派が行政訴訟
* 1956年(S31)12月25日、仙台高裁、選挙無効判決
* 1957年(S32)12月17日、最高裁が、仙台市長選挙無効の判決
* 1958年(S33)2月2日、やりなおし選挙で、島野武当選
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P116~118/「重訂 宮城県郷土史年表」P586、P587
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「市民の戦後史(仙台市)」P103と、「新・目で見る仙台の歴史」P182に「S33年2月、初当選し登庁する島野武市長」
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アインシュタイン |
来仙 |
1922年(T11) |
* 1922年(T11)12月3日、アルベルト・アインシュタイン博士が来仙、東北帝国大学金属材料研究所などを視察
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「仙台市史 年表」P101
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「目で見る仙台の歴史」P148に、「アインシュタイン博士と東北帝大理学部教授たち」
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アメリカシロヒトリ防除 |
防除開始 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)7月2日、防除本部設置し駆除開始(アメリカシロヒトリが、八木山、北山、東仙台など郊外にも広がる)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P633
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アーケード |
一番町四丁目買物公園 |
1954年(S29)ほか |
「四丁目買物公園」は、一番町商店街のうち、一番北の「定禅寺通り角から広瀬通り角まで」
<第1代以前>
* 1953年(S28)?、「ズック布張り」のアーケードが、三越南~森徳横丁角の東一番丁東側のみに完成(「番丁詳伝」P178)
<第1代>
* 1954年(S29)7月、第1代アーケード完成(定禅寺通角~広瀬通り角)
* 同年12月11日、定禅寺通角~南町通り角までを含めた東一番丁通り全体に統一デザインの第1代アーケードが完成(東北初の商店街アーケードだった) 奥行4.5m、屋根は一部可動式、銀色の柱、ジュラルミン製、天井に二列の蛍光灯(第1代の特徴は、天井の蛍光灯が道路に対し直角)
* 翌12月12日、完成祝賀仮装行列挙行
<第2代>
* 1970年(S45)12月2日、北振会(森徳横丁角以北)アーケード改築完成(高さ5.5m、照明に水銀灯を使いさらに明るくなる)(「番丁詳伝」P179では、定禅寺通~虎屋横丁間に完成)
* 1971年(S46)、中央会(森徳横丁角~広瀬通り角)のアーケード改築完成(「番丁詳伝」P179では、虎屋横丁間~広瀬通り間に完成)
<第3代>
* 1982年(S57)10月2日、四丁目商店街「アーケードのある買物公園」完成(高さ7mの透明なアーケード、茶系統を基調にした路面、12種約70本の街路樹、広瀬通角には噴水付き時計塔で世界の姉妹都市5都市の民族衣装人形つき)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「番丁詳伝」P178~179、P201、P203~205 /「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10
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<ズック布張り>
「市民の戦後史(仙台市)」P73の左側(S28年頃)
<第1代>は、99-014、22-61
/ 第1代完成祝賀仮装行列は、51-01、51-02/「新・目で見る仙台の歴史」P178(蛍光灯が点灯したアーケード街)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33、空撮)
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アーケード |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」 |
1954年(S29)ほか |
「一番町一番街」は、一番町商店街のうち、「広瀬通り角~中央通り(旧・大町通り)角まで」
・ 大正時代、「大内ビルアーケード街」があった(大町角の大内屋、西内楽器店、玉沢総本店、家庭金物の岡元、銘仙専門店の大丸などが長さ15mほどが広い庇でつながる)(「番丁詳伝」P169)
<第1代>
* 1954年(S29)1月14日、大町通り~広瀬通り間、第1代アーケード完成 (「仙台年表」P229=出典:毎日新聞)
* 1954年(S29)1月、大町通り~広瀬通り間、アーケード新設(長さ26間完成)(「重訂 宮城県郷土史年表」P571)
<第2代>
* 1972年(S47)、一番街アーケード改築(高さ5.2m)
<第3代>
* 1979年(S54)9月1日、「一番街買物公園」完成 街路樹・ストリートファニチャーを設置、歩行者専用道路 / 時計塔2基(モチーフは支倉常長のローマ法王謁見、文字盤盤に世界古地図)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
<第4代>
* 1993年(H5)7月、一番街アーケード完成 (高さ18mの全天候型高層アーケード「ぶらんどーむ一番町」 がオープン)
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「番丁詳伝」P169、P200、P203~205/「仙台年表」P229/「重訂 宮城県郷土史年表」P571/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P127、P128
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<第1代>は、22-58、18-09、22-01/ 「仙台一番町一番街商店街ぶらんど~むのHP」に、第1代、第2代のアーケードの写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P80(第1代アーケード)
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アーケード |
一番町・サンモール一番町商店街 |
1954年(S29)ほか |
「サンモール一番町」は、一番町商店街のうち、「中央通り(旧・大町通り)角~南町通り角まで」(戦前からの通称は、「大通り」)
<第1代>
* 1954年(S29)12月2日、第1代アーケード完成(これで、東一番丁3商店街すべてに、統一スタイルのアーケード完成)
<第2代>
* 1975年(S50)11月20日、大通りアーケード改築完成(高さ日本一)
* 1977年(S52)に大通りアーケード改築
<第3代>
* 1986年(S61)11月29日、開閉自由の全蓋アーケード完成(高さ13.7m、軒高8mで2階部分をショーウィンドウ化できる)、2つのカラクリ人形時計(テーマは遣欧使節/七夕物語) / 中央通りとの角には四辻ドーム(高さ20m)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「重訂 宮城県郷土史年表」P575/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P214/「番丁詳伝」P201、P203~205
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<第1代>は、58-01、53-11
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アーケード |
旧・大町五丁目 |
1965年(S40)ほか |
* 1965年(S40)3月、大町五丁目商店街で完成
<マ-ブルロードおおまち商店街>
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1982年(S57)6月27日、マーブルロードおおまち商店街ゲート除幕式
* 1987年(S62)、大理石舗道が完成、
* 1996年(H8)4月、2代目アーケード竣工(第3代か?)
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「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P148/「マ-ブルロードおおまち商店街」HP
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アーケード |
新伝馬町 |
1964年(S39)ほか |
* 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成
* 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁が順にあとを追って完成し、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116)
<編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける
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「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP
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22-30(S39年完成アーケード)/「市民の戦後史(仙台市)」P158(S39年12月、中央通りアーケード街)
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アーケード |
名掛丁 |
1965年(S40)ほか |
* 1965年(S40)12月、名掛丁商店街アーケード完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1993年(H5)、ハピナ名掛丁の新アーケード完成
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「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271
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アーケードがない時代は、22-29と「新・目で見る仙台の歴史」P184(カラー、手前が名掛丁、奥が新伝馬町)/22-30(S40完成名掛丁アーケード)
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アート・スミスの宙返り飛行 |
宮城野原で公開 |
1916年(T5)6月14日 |
アメリカ人飛行士アート・スミスが宙返り飛行で話題をよび来日
仙台でも大正5年6月13日、追廻練兵場で有料公開の予定となり人を集めたが雨天中止 / 翌日、宮城野原で無料公開した
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「新・目で見る仙台の歴史」P155/「仙台はじめて物語」P203/「目で見る仙台の歴史」P157
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44-14、44-15、44-16
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イズミティ21 |
開館 |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)11月1日、泉市文化創造センター(イズミティ21)開館
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「仙台市史 年表」P135
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イールズ事件 |
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1950年(S25) |
GHQのイールズ博士による「大学制度についての講演会」開催に反対抗議しデモなど行う(「目で見る仙台の歴史」P186)
* 1950年(S25)5月2日、東北大学生、イールズ博士演説反対闘争開始 / GHQ宮城県軍支部が仙台市警察に対し、職務執行妨害の疑いで、学生4人の逮捕を命じる / 6月5日、学生14名処分(3名は退学、停学、譴責あり)/ 7月6日、学生2名追加処分
・ 連合国総司令部CIE教育顧問のイールズ博士は全国各地で「赤色教授は学問の自由に反する。学問と学園の自由のために大学は共産主義思想を持つ教授を追放する権利をもつ」と講演してまわった。東北大学での講演には600名参集、学生と押し問答あり、公演中も妨害あり中断、流会となった。」(「番丁詳伝」P171)
<参照> 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98に、イールズ事件の詳述あり
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「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P542~543/「番丁詳伝」P171/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98
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・「目で見る仙台の歴史」P186(学内の掲示を見る学生たち)
/・「東北大学本部前で学生たち座り込み」は、「市民の戦後史(仙台市)」P62と「仙台市史 特別編4 市民生活」P535と「新・目で見る仙台の歴史」P179に
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エキスポートバザー |
開設期間 |
1949年(S24)~1951年(S26) |
* 1949年(S24)8月~1951年(S26)12月、藤崎デパートの地下にあった進駐軍専用売店(EXPORT BAZAAR)
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「藤崎170年の歩み」P130、P256
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55-01、55-02、55-04
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エル・パーク仙台 |
開館 |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)3月20日、エル・パーク仙台(仙台市婦人文化センターの愛称)が、141ビル内に開館
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P221/「仙台市史 特別編4 市民生活」P459
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カルトン食堂 |
竣工 |
1925年(T14) |
カルトン食堂は、旧・大町5丁目通りの北側に面す
* 1925年(T14)、竣工 / 桜井常吉が建設
* 1925年(T14)、開業(「番丁詳伝」P36)
・ 鉄筋コンクリート造、地下1階、地上3階一部4階建で、エレベーターを設置 / 屋上の展望楼からは、市内を一望、太平洋が見える
・ 1階に写真機、同材料販売、宴会場があり、和・洋食店と喫茶店を兼ねた / 化粧品部もある
<「カルトン月報 大正14年12月」より>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P85)
・ 食堂(3階)に定食(洋食コース料理 午餐2円65銭、晩餐3縁45銭)、4階にカフェ
・ 各階 スチーム装置にて春日和のよう
・ 毎週土曜日曜は、東北唯一のピアノトリオ開催
・ 料理法は最も新しく、肉は神戸から直通
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「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P131/「重訂 宮城県郷土史年表」P400/「番丁詳伝」P36/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
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22-28、98-029/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85(T14年、カルトン月報)
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ガス |
仙台瓦斯開業 |
1910年(M43) |
* 1910年(M43)11月3日、仙台瓦斯株式会社開業
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「仙台市史 年表」P95/「仙台市史 特別編4 市民生活」P350
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「目で見る仙台の歴史」P144に「仙台瓦斯会社」(東七番丁)と「ガス発生炉」
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ガス |
仙台市ガス局 |
1961年(S36) |
* 1941年(S16)4月1日、市営ガス事業開始(仙台瓦斯を買収) / 需要戸数は、1942年(S17)に3389戸
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大打撃受けるが、10月10日から供給再開 / 需要戸数は戦災後は1500戸、1952年(S27)に4134戸
* 1957年(S32)9月、ガス局原町工場完成
* 1961年(S36)、仙台市ガス局でプロパンガス取扱開設
* 1973年(S48)、港工場竣工
* 1978年(S53)、宮城県沖地震、原町工場廃止
* 1997年(H9)、LNG船第一船入港、新港工場竣工
* 2005年(H17)、新港工場を港工場に名称変更
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災発生、港工場に甚大な被害 / 災害復旧に1ヵ月余を要す
* 2012年(H24)3月、港工場、震災による被害から復旧
<仙台市ガス事業実績グラフ(S16~42年)> →「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P539の図30 (導管延長、需要家戸数、販売量の推移)
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「仙台市史本編2」P760、P764、P769/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315、P539/「重訂 宮城県郷土史年表」P601
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「目で見る仙台の歴史」P183(小田原念仏壇の仙台市ガス局工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P101(ガス局原町工場)
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ガソリン切符制 |
実施 |
1938年(S13) |
* 「1938年、物資動員計画による消費規制も強化され『揮発油及重油販売取締規則』に基づき、切符制による配給が実施された(第二次消費規制)。この一環として、自動車用等のガソリンへのアルコール混入が実施された」(ENEOS石油便覧「戦時体制下の石油政策」より)
* 1938年(S13)3月(5月?)、商工省令「揮発油及び重油販売取締規則」(のちに「石油販売取締規則」に改定)が公布され、切符制による販売制度採用
* 1938年(S13)5月1日、ガソリン切符制を実施(「重訂 宮城県郷土史年表」P462、「菅家年表」P20))
<影響>
* 1938年(S13)5月1日、「東京では、バス会社が一斉減車、タクシーは3分の1が減少」(「日録20世紀 1938」P15)
* 仙台でも1939年(S14)年以後は木炭バスが走り、戦後もしばらく続いた → 項目「木炭バス」参照
* 1941年(S16)9月11日、警視庁、東京府下のハイヤー、タクシー各社のガソリン使用を全面的に中止と通告(「日録20世紀 1941」P32)
* 1941年(S16)10月1日から乗用車のガソリン使用を全面禁止(「週刊20世紀 1941」P27)
* 自動車も代用品の木炭で(宮城県内3000台)(佐々久「近代みやぎの歩み」P121)
<戦後>
* 1951年(S26)6月、ガソリンの統制廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)、この年、木炭タクシーが無くなる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P462/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P20、P45/「日録20世紀 1938」P15/「週刊20世紀 1938」P4、P23/「週刊20世紀 1941」P27、P32/佐々久「近代みやぎの歩み」P121
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ガダルカナル戦 |
戦闘 |
1942年(S17)8月~1943年(S18)2月 |
<ガダルカナル戦> ガダルカナル島は西太平洋ソロモン諸島の島。太平洋戦争で昭和17年8月~18年2月7日、この島の奪取をめぐって日本軍と連合国軍が戦った。 ミッドウェー海戦と共に日米両軍の攻守の転換点となった戦い。この戦いで、第二師団の多くの将兵が戦死 / 昭和18年7月、遺骨が仙台に帰還した。(「無言の凱旋」)
* 1942年(S17)8月7日、米軍ガダルカナル島上陸
* 1942年(S17)12月31日、大本営、ガダルカナル島撤退を決定
* 1943年(S18)2月1日、日本軍、ガダルカナル島撤退開始
<第二師団、ガダルカナル戦>
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103より)
・ 日本の南約5500キロ、英国領ソロモン諸島の1つで岩手県の半分ほどの島。
* 1942年8月、海軍の設営隊が飛行場を建設(敵の飛行機の出撃基地ニューギニアとオーストラリアの間にクサビを打ち込む目的)
* 飛行場完成後、米軍が進攻(艦砲射撃と海兵隊約2万人の海兵師団上陸)し、飛行場を占領
* 日本軍は陸軍部隊を投入
8月16日、先遣隊の旭川第七師団一木支隊、900人が上陸し飛行場突撃し全滅
9月、第十八師団川口支隊6500人、飛行場突入寸前に発見され死者700人以上
10月、第二師団(ジャワ島占領後に警備中、帰国輸送船待ち)と第三十八師団(スマトラ島警備中)の一部、計1万5000人投入
10月23日、第二師団歩兵第4連隊第2大隊、飛行場牽制攻撃、戦傷者続出、マタウ川渡河攻撃の独立戦車隊戦車10両全部撃破される
10月24日、第二師団歩兵29連隊(会津若松)敵陣突入し消息絶つ
10月25日、総攻撃、第二師団左翼攻撃隊長の那須弓雄少将、歩兵16連隊の広安寿郎大佐が戦死。作戦は事前に察知されて失敗。歩兵第4連隊将兵2千数百人は一夜にして壊滅状態。
日本の輸送船団(重砲8門、弾薬20万発、食糧20日分)撃沈される、日本海軍は、空母ホーネット、空母エンタープライズ大破させたが、輸送船団を軽視し敵の補給路を絶てず。
・ 米軍は飛行場南方に電流鉄条網と数多くのトーチカを配し、ジャングルには無数のマイクロホン、米軍に協力する現地民を潜ませていた。日本軍は強力な武器を持たず何回も懲りずに同じ戦法で突撃し犠牲を大きくした。
・ 第十七軍参謀の電報「島に残された兵士たちは食料も武器弾薬もない。木の根、草の葉もつき、川底のミズゴケまで食い尽くした。 動ける者はなく、壕に座ったまま銃剣で最後の戦いの準備をしている。」
・上陸した総兵力約3万1000人のうち死亡者約2万人(戦闘でなくなったのは約5000人、残る1万5000人は食料不足による栄養失調、マラリアによる)、1万1000人が救出される(昭和18年2月上旬、駆逐艦20隻で脱出)
・第二師団は、1万318人のうち、戦死・戦病死が7671人(生存者は4人にひとり)、同師団歩兵第4連隊は、2458人のうち1906人が戦没。
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19、P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103
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ガダルカナル戦 |
慰霊祭 |
1943年(S18)7月 |
* 1943年(S18)7月23日、仙台駅前広場で、ガダルカナル島戦の英霊奉迎式
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル島戦没兵の慰霊祭(追廻練兵場)
<「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P103~106より>
「1943年(S18)7月23日、宮城県出身者の英霊は2274人。いままで聞いたことも見たこともないほど多くの英霊が白木の箱に収められて帰ってきました。 国鉄仙台駅前で奉迎式が行われた後、英霊は儀仗隊に守られ、哀悼のラッパと共に榴岡の歩兵第4連隊など原隊に帰って行きました。
7月30日夜7時から川内の追廻練兵場で合同通夜、翌31日朝8時から合同慰霊祭が行われました。会場の中央には仮設の大テントが張られ、祭壇にまつられた白木の棺が、人の背丈の何倍もある高さの天井まで重なっています。国鉄は慰霊祭に参加する遺族のために列車を増発し、慰霊祭を前に仙台市内の中学、高等女学校の男女生徒は会場になる追廻で遺族が座る椅子の運搬に終日汗を流しました。
戦後、ガタルカナル島からの生還者を中心に毎年のように遺骨収集作業が行われてきました。皆さん高齢化して、2006年(平成18年)で終わりとなりましたが、島にはまだ多くの遺骨が残っています。」
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「仙台市公報」(昭和18年8月1日) P287/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P103~106
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奉迎式は、16-57、16-67、16-66/遺骨原隊へは、16-58/慰霊祭は、16-59、16-60、16-65、16-64、16-61、16-62/感謝献金呼びかけは、16-68
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キリンビアホール(東一番丁) |
竣工 |
1935年(S10) |
* 1931年(S6)、東一番丁にキリンビアホール開店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P80)
* 1935年(S10)、キリンビール(1階がキリンビアホール)建設 / 場所は東一番丁・日の出横丁南西角で、昭和8年の東一番丁大火の跡地
【「番丁詳伝」P131】東一番丁大火で焼失した仙集館跡は、昭和10年に金港商会が石造りのビルを建設、1階はキリンビアホールとして、また人々を集めることになった。
【「番丁詳伝」P164~165】キリンビール・ビルは昭和10年建造、鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階、843平方メートル、1階がビアホールで風格ある外観ながら番街の代表的な建物の1つであった。仙台空襲(昭和20年7月)では焼け残り、道路拡張のため曳行工事(昼夜通し見物人の人垣)が行われ、昭和27年9月に地下室ごと移転完了
* 1974年(S49)、閉店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P80)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P80/「番丁詳伝」P131、P164~165
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20-35、53-71、49-05、22-58/戦後は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13の左端
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サマータイム |
実施 |
1948年(S23)~1952年(S27) |
* 1948年(S23)5月2日~9月11日、初実施
* 1952年(S27)4月11日、夏時刻法(サマータイム)廃止
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「仙台年表」P218/「仙台市史10 年表」P316、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P526/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42、P46
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シネマスコープ |
仙台初公開 |
1954年(S29) |
* 1953年(S28)、シネマスコープは日本では東京の有楽座が初公開
* 1954年(S29)、仙台では「文化劇場」(東一番丁大通り)が「聖衣」を上映したのが始まり
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「仙台映画大全集」 昭和26年~30年の項
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18-08
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シルバー人材センター |
仙台 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)12月13日、仙台市シルバー人材センター開所式
* 1985年(S60)4月1日、仙台駅東のスカイビルに移転
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「続・ 宮城県郷土史年表」P120、P190
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スパイクタイヤ対策条例 |
施行 |
1986年(S61) |
* 1985年(S60)12月5日(18日?)、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制)
* 1986年(S61)4月1日、宮城県脱スパイク条例施行 / 仙台市動物園など24施設で、脱スパイク無視車駐車禁止作戦
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P79/「続・ 宮城県郷土史年表」P198、P204
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業)
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スパイクタイヤ粉塵公害 |
脱スパイクタイヤ推進 |
1981年(S56)~1986年(S61) |
* 1981年(S56)1月27日、「河北新報」への投書が発端
* 1982年(S57)、仙台弁護士会、道路粉塵問題小委員会が検討開始
* 1982年(S57)10月、仙台市消費者協会、粉塵公害追放運動展開 / 仙台など各都市でスパイクタイヤ自粛運動
* 1982年(S57)11月2日、仙台市宮町商店街は、粉塵公害スパイクタイヤ自粛決議
・ 中江商工振和会、仙台ゴミ追放婦人ロビー、環境運動団体などが脱スパイク運動
* 1982年(S57)11月22日、多賀城市はスパイクタイヤ使用自粛指示
* 1983年(S58)6月13日、仙台市、スパイクタイヤ対策本部を発足
* 1983年(S58)9月11日、宮城県がスパイクタイヤ対策本部発足
* 1983年(S58)11月18日、仙台市交通局、全車スパイクタイヤ廃止で労使双方合意
* 1983年(S58)12月、市民による「脱スパイクタイヤ推進モデル地区」で折立地区を指定(ピン抜きや積雪時の門前雪かき)
* 1984年(S59)1月20日、仙台市が、粉塵汚染で緊急事態宣言
* 1984年(S59)3月16日、名取市でタイヤのピン抜き所開設
* 1985年(S60)ころ、仙台市民によるスパイクタイヤのピン抜き活動が盛んになる
* 1985年(S60)8月22日、仙台タクシー協会、スパイクタイヤ全廃方針たてる
* 1985年(S60)10月、高橋栄(八木山本町)が、無公害スパイクピン実用化
* 1985年(S60)12月5日、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制)
* 1986年(S61)4月1日、宮城県脱スパイク条例施行 / 仙台市動物園など24施設で、脱スパイク無視車駐車禁止作戦
* 1988年(S63)6月2日、スパイクタイヤ、1990年12月までに製造を中止
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P543~544/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P58/「仙台市史 年表」P133、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P152、P153、P166、P168、P172、P174、P194、P196、P197、P198、P204/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P84
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業)
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スポーツセンター |
宮城県スポーツセンター |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)8月18日、仙台市川内(青葉山公園内)に建設落成し開館(1万人収容、つり屋根、当時は、東北一の規模)
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「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P615
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P82(S39、カラー)
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スポーツセンター |
宮城厚生年金スポーツセンター |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)10月10日、大和町前沢にオープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P45
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スポーツ大会 |
市民総合体育大会 |
1965年(S40)~ |
* 1965年(S40)10月1日~3日、第1回仙台市民総合体育大会(学区対抗などの形で、18競技)/ 1968年(S43)には25種目
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P479~480
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スポーツ大会 |
全国高校総合体育大会(第28回) |
1990年(H2) |
* 1990年(H2)7月31日、宮城県で、第28回全国高校総合体育大会開催
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「続・ 宮城県郷土史年表」P267
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