項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台市民の消費生活を守る条例 |
制定 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)12月24日、仙台市が制定
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「仙台市史 年表」P130
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仙台市民ギャラリー |
開館 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)9月9日、青葉通りの読売仙台ビル内に開館
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「仙台市史 年表」P150
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仙台市民会館 |
落成 |
1973年(S48) |
* 1972年(S47)1月27日、起工式(西公園、戦後の仙台市公会堂跡地に)
1973年(S48)11月3日、落成式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P24/「仙台市史 年表」P129/「仙台あのころこのころ八十八年」P257
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仙台市民図書館 |
西公園に開館/仙台メディアテーク内に移転 |
1962年(S37)/2001年(H13) |
<西公園内>
* 1962年(S37)10月27日、西公園内に開館
* 1966年(S41)3月、移動図書館車「ひろせ」の運行開始(仙台市史 年表) / 図書館から遠隔地域の新市域を巡回(1支所平均3駐車場を選定)
* 1966年(S41)2月25日、ブックモービル「ひろせ号」、巡回図書の貸し出しに初出動(重訂 宮城県郷土史年表)
<分室設置>
* 1978年(S53)8月24日、図書館分室を東北電力ビル内に設置
<仙台メディアテーク内へ>
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転開館
<参考>「仙台市図書館」は、仙台市立の7つの図書館の総称、「仙台市民図書館」は、仙台市青葉区春日町2-1(メディアテーク)にある中央図書館の名称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P447~449/「仙台市史 年表」P122、P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P606、P624 /「続・ 宮城県郷土史年表」P84/Wikipedia「仙台市図書館」(2020年3月)
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「市民の戦後史(仙台市)」P140(市民図書館外観、閲覧室、よい子の図書室)/「市民の戦後史(仙台市)」P187(移動図書館車「ひろせ号」に群がる子ら)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(閲覧室、移動図書館車「ひろせ号」、カラー)
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仙台市民教養センター |
開館 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)4月1日、開館(東二番丁小学校5階)
・ 講習室、会議室、談話室、和室など
・ 利用は、社会教育関連団体
・ 成人学校、青年教室、老壮大学、明治青年大学、教養講座など開催、教育映画・映写機など貸出
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P449~450
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「市民の戦後史(仙台市)」P160(市民教養センターが入る東二番丁小学校新校舎、講座風景)
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仙台市民文化センター |
開館 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)5月26日、仙台駅東口に仙台市民文化センター、開館式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P162
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仙台市民金庫/仙台信用金庫 |
改称 |
1932年(S7)/1951年(S26) |
* 1932年(S7)10月3日、仙台市民金庫、創立 / 三越進出問題に触発されての設立(「番丁詳伝」P141)
* 1932年(S7)10月、仙台市民金庫を産業組合法により、定禅寺通・東一番丁突き当りに開業(「重訂 宮城県郷土史年表」P433)
* 1951年(S26)10月、仙台市民金庫を仙台信用金庫と改称
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「番丁詳伝」P141/「重訂 宮城県郷土史年表」P433、P552
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53-61、40-07、201-04、07-01-01、22-29/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(29~33年頃)の右端
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仙台市科学館 |
開館 |
1968年(S43)5月1日 |
<前身のサイエンスルーム>
* 1952年(S27)6月10日、仙台市レジャーセンター内にサイエンスルームを設置(「重訂 宮城県郷土史年表」P556では、6月13日竣工)
・実験室、資料室、研究室など
・学校教育では、主に中学3年生対象に実験指導、教職員理科実技講習、科学相談、実験機材・資料の貸出など
・社会教育では、科学見学採集会、科学実験講座、実験のしおり発行など
<仙台市科学館>
* 1968年(S43)5月1日、東二番丁・青葉通り角の日本長期信用銀行ビル地下に開館(サイエンスルームを統合)
・実験室2室、工作室、講堂、展示室
・市内中学生対象の実験指導、展示活動、教員対象実験講座、一般向け科学のはなし、映画界、採集会など
<台原森林公園内に新築移転>
* 1990年(H2)9月、仙台市科学館が台原森林公園の中に新築移転し開館
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P194~195、P439~441、P450~453/「仙台市史 年表」P117、P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P556、P630、P640/Wikipedia「仙台市科学館」
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「目で見る仙台の歴史」P180に、レジャーセンター内のサイエンスルーム/「市民の戦後史(仙台市)」P209(長銀ビル内の市立科学館で子供たち、展示物)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(長銀ビル内の科学館)
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仙台市立病院 |
旧・裁判所庁舎で診療開始 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)1月30日、開院式 / 医師5人、看護婦7人、事務員4人(「番丁詳伝」P129)
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造) / 当初は内科・外科・眼科、翌年に小児科・耳鼻科を追加、S7年に産婦人科も開設 / 外来患者数、S5に14万人、S10に18万8000人、見舞客も含めて東一番丁には大きな潜在購買客となる
・ 昭和3年の昭和天皇即位大典の記念事業
・ 旧裁判所庁舎(明治9年建築の木造)を利用
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706~707に、診療科など記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「番丁詳伝」P128~129
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「目で見る仙台の歴史」P163と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P427に、「仙台地方裁判所跡に開設された市立病院」
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仙台市立病院 |
改築竣工~戦災焼失 |
1939年(S14) |
東二番丁の旧裁判所庁舎跡に建設
* 1939年(S14)11月19日、改築工事竣工
(鉄筋コンクリート造 4階建て一部5階、地下1階
5,211平方メートル 病床数170床)
* 後に増床も行われた
* 1941年(S16)6月、看護婦養成所開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、本館地下1階と1~2階の一部を残して焼失、黒こげの残骸となった / 入院患者190人を避難させたが、犠牲者6人 / 窓ガラスはなく病床にはワラ灰だけが残るベッドが並ぶ、まさに廃墟だったが、1~2階の一部を使用し、翌日から診療開始するが、医療機械器具、薬品なく、焼け跡からトタン板を拾って風を防いだ(「仙台市史 続編第1巻」P707~708)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P707~708/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 10 年表」P297/「番丁詳伝」P129
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35-14/「目で見る仙台の歴史」P163と「新・目で見る仙台の歴史」P145に「S14年新築された市立病院」
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仙台市立病院 |
戦後復旧 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、看護婦養成所本館裏に、木造病舎とともに新築 / S23年から、養成再開
* 1947年(S22)10月、復旧し、屋上で市立病院戦災復興式 / 本館および南側地下1階、地上3階が復旧 / ベッド230床、外来患者1日400人以上 / 焼け野原の一角にクリーム色の病院が復興
* 1951年(S26)~1954年(S29)、増築・増床
・ S26年、南側病棟屋上に4階を増築
・ S28年6月、東二番丁に面した本館北側に鉄筋コンクリート5階建を増築
・ S29年7月、さらに北側に、地下1階、地上2階増築
(本館裏の木造病棟取り壊す)
・ S30年3月、前年度完成した上に3~5階部分が完成
* 東二番丁通り拡幅に伴い、玄関が道路拡幅部分にかかる
* 1956年(S31)10月3日、人間ドック開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P583)
* 1960年(S35)、人間ドックを、1週間から2日間に短縮
* 1960年(S35)、救急車購入
* 1963年(S38)6月、救急業務開始
* 1966年(S41)1月10日、救急センター落成(地下1階、地上4階建て、東北初の専門施設、一度に5人の手術可能)、
* 1980年(S55)7月、五橋に移転
* 1980年(S55)9月2日、建物解体始まる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P708~710、P712、P714、P716~717/「仙台年表」P217/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史10 年表」P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P583、P623/「続・ 宮城県郷土史年表」P116
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22-24(東二番丁通りの拡幅部分にはみ出した市民病院玄関)/ 「市民の戦後史(仙台市)」P182(救急病棟外観、手術室)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13(S29)の左上の白いビル/同P40(S33年、空撮、画面上のL字型ビル)/同P60(S38、カラー)/同P86(S41)
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仙台市立病院 |
五橋に新築・移転 |
1980年(S55) |
* 1979年(S54)1月19日、上棟式
* 1980年(S55)3月30日、竣工
* 1980年(S55)7月1日、五橋地区(清水小路)の三島学園移転跡地に、地上10階、地下1階建ての新病院を建設、移転
* 1991年(H3)4月24日、市立病院救急センター開設(鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階、地上7階) / 8,428㎡、病床数36床
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「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P113/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P132/仙台市立病院HP
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「新・目で見る仙台の歴史」P195(五橋に移転した仙台市立病院、カラー)
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仙台市立病院 |
長町に新築・移転 |
2014年(H26) |
* 2014年(H26)11月1日、長町に移転・開院
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仙台市立病院HP(病院の沿革)/Wikipedia「仙台市立病院」
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仙台市紋章 |
制定 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)9月5日、制定
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「仙台市史10 年表」P281
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仙台市街自動車 |
設立~市が買収 |
1919年(T8)~1942年(S17) |
伊勢久治郎が設立、市民に「銀バス」の愛称で親しまれた
* 1919年(T8)7月16日、仙台市街自動車、創設(社長 伊勢久治郎、資本金20万円)
* 1919年(T8)11月10日、乗合自動車の営業開始、仙台停車場を起点に市内の南北、および市外は増田、閖上、深沼などまで走った
* 1930年(S5)7月、市内遊覧バスの運行を開始
* 1942年(S17)7月1日、33万円で仙台市に買収され、8月21日から「仙台市営バス」として営業開始
<参照>[写真98-149]は、昭和11年当時の「仙台市交通網図」で、当時のバス路線網も記載
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「重訂 宮城県郷土史年表」P373/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P86、P187(市電年表)/逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P99、P105/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
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53-46、22-10、53-15、98-104、53-121/仙台市交通網図は、98-149/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(パンフレット「仙台遊覧自動車案内」)
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仙台市視聴覚教材センター |
開設 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)9月、「仙台市視聴覚ライブラリー」を市民教養センター内に開設
* 1970年(S45)2月、仙台市レジャーセンター内に移転
* 1972年(S47)6月22日、「仙台市視聴覚教材センター」と改組・改称
* 1975年(S50)5月、柏木の旧仙台高等学校同窓会館を改築して移転
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「仙台市史 年表」P126、P128、P129
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仙台市農業協同組合 |
設立 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)3月31日、8つの農協が合併し設立
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「仙台市史 年表」P124
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仙台市電 |
開業 / 駅前~大町1丁目、東五番丁~荒町 開通/モータリゼーション進展で利用者減 / 財政悪化/全線廃止 |
1926年(T15)11月/1976年(S51)3月 |
* 1925年(T14)11月、起工
* 1926年(T15)11月25日、仙台市電が初開通
(仙台駅前~大町1丁目間2.1キロ、東五番丁~荒町間1.2キロ)
* 同日、西公園で開通記念式典
・ 「開業日、市中は飾り塔、造花、赤ちょうちん、紅白幕、小旗に彩られ、東一番丁では花トンネルをつくった。 また、開通の日、午前中だけで1万2000人が乗ったと記録されている」(「番丁詳伝」P118)
開業時にすでに、始発駅の仙台駅のやや北にある、名掛丁角まで軌道が敷かれている(「昭和史とともに 仙台市電-その50年」P166の市電系統図)
********************
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P216>
・ 市電利用者:昭和39年をピークに減少、市電財政悪化しはじめる / 対策として、大型ボディー車導入や1966年(S41)から一部をワンマン化 / 郊外に住宅団地増え周辺部から流入する自家用車で、市電並走部で交通渋滞 / 1976年(S51)3月、市電全線廃止
仙台市電(各路線)の開通日や廃止日は、
・「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189と
・「文集 仙台市電 市民が綴る五十年の軌跡」末尾年表で、わかる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P364/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電 市民が綴る五十年の軌跡」末尾年表/「番丁詳伝」P118/「仙台市史 特別編4 市民生活」P216
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22-48、/ 開通記念式典は、98-103/開業時の市電系統図は、98-101/「目で見る仙台の歴史」P148と「新・目で見る仙台の歴史」P147に「西公園における開通式、花電車」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P207(開通式、記念絵葉書の袋、一番電車が片平丁車庫を出発、開通記念無料乗車券)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P206~213(市電関連写真)
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仙台市電 |
実現しなかった予定路線 |
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「大正十五年版・仙台市全図」(川名文明堂)によれば、市電の予定路線として、定禅寺通り~北鍛冶町~青葉神社下、長丁~宮町~東照宮下などの計画もあったことがわかる
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「番丁詳伝」P118
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仙台市電 |
大町1丁目~大学病院 開通 |
1927年(S2)4月 |
・ 1.2キロ / 環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)4月1日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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仙台市電 |
仙台駅前~光禅寺 開通 |
1927年(S2)11月 |
・ 0.7キロ
・ 駅から駅前電車通りを北へ向かう路線/環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)11月24日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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99-020/「市民の戦後史(仙台市)」P73(戦後20年代後半?の駅前電車通り)
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仙台市電 |
光禅寺~県庁前 開通 |
1927年(S2)2月 |
・ 0.9キロ / 環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)2月25日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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仙台市電 |
環状線(循環線)完成 |
1928年(S3)3月 |
* 1928年(S3)3月28日、県庁前~大学病院間(1.7キロ)が開通、これで環状線(循環線)全線(6キロ)が完成
・ 仙台駅前~錦町~県庁市役所前~北四番丁~西公園~南町通~仙台駅前(停留所名は、1976年市電廃止時の名称)
・ 西公園において開通式挙行
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P104
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201-01、201-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(循環線が完成したころの乗り換え乗車券)/同211(S49年、仙台駅前停留所の市電、カラー)
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仙台市電 |
芭蕉の辻線(南町支線) 開通~廃止 |
1928年(S3)4月~1944年(S19)3月 |
・ 0.3キロ / 市電南町支線(通称・芭蕉の辻線)
・ 「芭蕉の辻」が終点
* 1928年(S3)4月8日開業
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表) / 軌道(レール)は戦時供出(金属回収)のため撤去「仙台市史 特別編4 市民生活」P92) / 資材は、他の路線の補修用にまわした(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
* 1944年(S19)12月10日に休止(「仙台市史 年表」P113)
→ <編者注> この日付は間違いと思われる
「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95
市電「芭蕉の辻線」は昭和3年の東北産業博覧会開催を目途に開通(314m) / 大正12年の案では、芭蕉の辻が終点ではなく、さらに北へ延ばし国分町・二日町を経て北鍛冶町に至る計画だったが結局は実現せず、「芭蕉の辻線」は太平洋戦争中の昭和19年3月末に廃止された
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)/「仙台市史 年表」P104、P113/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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22-33、53-49/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる芭蕉の辻線のレール)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(終点芭蕉の辻俯瞰)
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仙台市電 |
長町線 延長開通 |
1936年(S11)12月 |
東五番丁~荒町間
1926年(T15)11月25日開通
(仙台駅前~大町1丁目間と同時開通)
荒町~長町間4.2キロ
(S8年~S11年に徐々に延長開通)
1933年(S8)
2月12日、荒町~愛宕橋間
7月5日、愛宕橋~誓願寺通間
12月14日、誓願寺通~舟丁間
1934年(S9)
12月2日、舟丁~河原町間
1935年(S10)
8月21日、河原町~新河原町間
1936年(S11)
1月16日、新河原町~長町北町間
8月6日、長町北町~長町南町間
12月19日、長町南町~長町駅まで開通
12月24日、市電と秋保電車の連絡乗車券発売
* 1954年(S29)8月1日、この日から長町線と八幡町線が直通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P108/「仙台年表」P231
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36-01、201-30/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図84(S11年、土樋付近の市電線路と街並み)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(S8年、長町線土樋カーブでの架線工事)
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仙台市電 |
北仙台線 開通~廃止 |
1937年(S12)10月~1969年(S44)3月 |
・ 北四番丁~北仙台駅間、1.2キロ
* 1937年(S12)10月26日開通~1969年(S44)3月31日廃止
(「仙台市史 年表」P109では、S12年10月25日に営業開始)
* 1968年(S43)9月、北仙台線廃止決まる
* 1968年(S43)9月11日、北仙台線撤去に反対する学生等が仙台市議会議場に乱入
* 1969年(S44)3月31日、北仙台線廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P518/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P109、P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P642、P647
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53-90/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P519に北仙台線軌道俯瞰写真/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P166の写真44は、北仙台線最終日の市電/「市民の戦後史(仙台市)」P218(北仙台線の軌道俯瞰、廃止反対して議場に押しかけたヘルメット姿の学生たち)
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仙台市電 |
八幡町線 開通 |
1941年(S16)10日 |
・ 大学病院前~滝前町間、1.6キロ
* 1941年(S16)10月10日、開通
* 1954年(S29)8月1日、八幡町線の複線化工事完成、この日から長町線と八幡町線が直通(それまでは、大学病院前~八幡町折り返し運転)
* 1954年(S29)8月31日、複線開通(1582m)
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P111/「仙台年表」P231~232/「重訂 宮城県郷土史年表」P574/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P513
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「市民の戦後史(仙台市)」P73(単線当時の八幡町線)/「市民の戦後史(仙台市)」P81と「新・目で見る仙台の歴史」P178(八幡線複線化完成で旗行列)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P102(S51、カラー)
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仙台市電 |
戦時対応 |
1943年(S18)~1944年(S19) |
* 1937年(S12)3月、応召者の欠員補充のため、初めて女性車掌の採用(見習生に67名応募、20名採用 / 同年8月に2回目募集(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 戦時中の1日当たりの利用者
S16年度 6万2600人 S17年度 7万200人
S18年度 7万5700人
特に、民間の軍需工場が集中していた長町へは市電利用者が多く始発時間を5時と10分間繰上げ、ラッシュ時は長町線の車両を7両増発して10分に3本運行、乗降客数の少ない9つの停留所を通過する「急行列車」を運行、近距離を電車通学する中学生・女学生には徒歩通学を勧めた
午後10時の終電車発車後は野菜などの食糧を輸送
S19年以降は一般家庭が防空壕を作るための木材を運搬(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1943年(S18)4月1日、戦時下輸送確保のため、市電停留所15カ所廃止(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188)
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188) / 軌道(レール)を戦時供出(金属回収)のため撤去(「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)
* 1944年(S19)ころ、男性運転手不足から女性車掌を運転手に転用(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 男性運転手は徴兵による入隊や徴用が増えて117人のうち50人が欠員となり、18人の女性運転手が取って代わった / 勤労動員の市立仙台工業学校機械化4年生30余人も運転練習1日後には運転したが、その後まもなく別の軍需工場へ動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1944年(S19)(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188)
1月10日、早朝割引制度廃止
7月1日、工員定期券新設、料金10銭均一に
回数券式から定期券式に改正
急行電車運転(8時30分まで)
8月1日、産業戦士輸送のため、循環線朝夕運休
11月22日、物資輸送用電車運転
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92、P366/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P161
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「新・目で見る仙台の歴史」P163(女性車掌たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P209(モンペ姿の女性運転手たち・S19年頃、乗客長蛇の列)、P366(戦時中の市電女性運転手たち、モンペ姿)
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仙台市電 |
仙台空襲被害と復旧 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(計6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315)
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P315)
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87)
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了(「仙台市史10 年表」P309)、全線運行再開(「仙台市史 年表」P113)
・仙台空襲時、全車両(52輌)は奇跡的に全車無事 / 車両は、北二番丁車庫、北仙台線、八幡町線の終点と秋保電鉄車庫に分散しており焼夷弾攻撃を免れた / 空襲被害は片平車庫が全焼、中心部各所で架線が垂れ落ちる / 復旧工事により、空襲翌日には荒町~長町間で運転再開、仙台駅前~荒町間8月3日、敗戦13日後の8月28日に全線で運転再開(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315/「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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35-15(仙台駅西側付近の焼け跡に市電車両が写る)
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仙台市電 |
戦後(昭和20年代) |
1945年(S20)~ |
・ 戦時中運転した急行電車廃止、停留所を適正間隔に復活
・ 戦時中、軌道、車両、機械などを酷使した結果、輸送力低下し、使用可能車両は30両
・ S21年2月~、乗降口を一方口に
・ 悪性インフレの進行で料金値上 S21年4月(10銭)からS24年までに7回値上げ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510
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仙台市電 |
原の町線 開通 |
1948年(S23)5月 |
・ 花京院~原町間、3.3キロ
* 1946年(S21)冬、東六番丁の国鉄専用鉄橋完工し、花京院~榴ヶ岡公園前間、1.6キロ開通
* 1948年(S23)5月5日、榴岡公園~原町終点まで開通し、原の町線(原町線)全線開通(単線)
* 1952年(S27)、花京院の東北本線立体高架橋完成
* 1952年(S27)8月1日、全線複線化完成し、市内循環線への乗り入れ可能(10月の国体開催時の輸送に効果あり)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510、P512/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P115/「番丁詳伝」P115
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P211
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仙台市電 |
昭和30年代~全線廃止まで |
1956年(S31)~1976年(S51) |
* 1956年(S31)11月、「仙台市交通局三十年史」刊行
* 1957年(S32)、電力事情悪化で市電15%間引き運転
* 1958年度(S33)、市電事業赤字(3000万円余)、以後赤字続き
* 1959年(S34)、仙台市電停留所に照明灯がつく
* 1959年(S34)、仙台市電に女性車掌、14年ぶりに登場
* 1966年(S41)2月15日、ワンマンカー導入により職員400人削減等を労組に提示
* 1966年(S41)、一部の車両、ワンマンカーに
* 1970年度(S45年度)、一年間で1億円強の赤字(累積赤字10億円の大台にのる)
* 1972年(S47)2月4日、12億円の累積赤字のため廃止発表
* 1972年(S47)12月1日、市電の均一料金を40円に(10円値上げ)
* 1973年(S48)3月7日、島野市長、市電廃止を声明
* 1975年(S50)10月4日、仙台市議会、市電廃止議案可決
* 1976年(S51)3月31日、仙台市電お別れ式/最終運行(さよなら電車)/替わってグリーンバス運転
* 1976年(S51)4月8日、5両を長崎市へ輸送
<市電・市バスの乗客数推移グラフ S36~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P525の図26
<市電・市バスの赤字推移グラフ S31~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P533の図28
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P514、P517、P518、P525、P533/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P130/「重訂 宮城県郷土史年表」P591、P624、P674/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P15、P18、P45、P52、P53
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「市民の戦後史(仙台市)」P106(照明が入った停留所標識)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P518に、市電ワンマンカーの写真/「市民の戦後史(仙台市)」P200(市電のワンマンカー)/「新・目で見る仙台の歴史」P187(渋滞車線を走る市電、最後のサヨウナラ花電車、廃止記念乗車券)/同P211(市電ワンマンカー)/同210(S37年6月現在の市電運転系統図)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P212~213(市役所前でお別れ式、おなごり乗車、廃止記念乗車券、花束持つ運転手、車庫前の花電車群俯瞰、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P101(S51、さようなら運転、カラー)/同P102(S51、ワンマンカー、カラー)/同P103(S51、北二番丁車庫)
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仙台市電 |
モハ1型 導入 |
1926年(T15)~1934年(S9) |
車両モハ1型はT15~S9に導入、このうち7号はS39年10月に廃車
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市電の各型の使用期間は、「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P180~181
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201-36、99-002
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仙台市(名称変遷) |
名称の変遷(第一大区/仙台区/仙台市) |
1872年(M5)/1878年(M11)/1889年(M22) |
* 1872年(M5)4月、県下に区制が布かれて仙台城下一円が「第一大区」に
* 1878年(M11)7月、郡区町村編成法発布により「仙台区」
* 1889年(M22)4月1日、市制が施行され「仙台市」と改称(この時の範囲は、旧城下町のほぼ全域にあたり、面積17.27平方キロ、戸数1万6800戸、人口8万6352人)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P362
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仙台平 |
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1918年(T7) |
* 1918年(T7)、仙台平工場、琵琶首に開業
* 1956年(S31)4月、精好仙台平を重要無形文化財に指定し、甲田榮佑を重要無形文化財保持者として認定
* 1967年(S42)7月20日、人間国宝甲田榮佑「精好仙台平保存館」を建築落成
・ 「仙台平」については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P34に記述あり
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「仙台平」HP/「目で見る仙台の歴史」P151/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P283/「重訂 宮城県郷土史年表」P633
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「目で見る仙台の歴史」P151に、「仙台平工場(大正7年竣工)」/同P105(工房)/「市民の戦後史(仙台市)」P94(制作中の甲田榮佑氏)/「新・目で見る仙台の歴史」P152(織工場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P34(仙台平袴カラー)/同P46(仙台平織工場の看板)
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仙台座 |
開場 |
1890年(M23) |
* 1890年(M23)11月22日、「仙台座」開場 / 南町通・東四番丁角にできた仙台初の本格的劇場 / 木造平屋建漆喰塗、外観は洋風であったが内部には幅十間の舞台と桝席・桟敷・花道を持っていた / 歌舞伎、のちには新劇、映画も上演され、政談演説会場にも利用された
* 1945年7月10日、仙台空襲で焼失
<仙台座で、仙台初の映画公開>
(「仙台はじめて物語」P218~2019『活動写真』より)
* 1897年(M30)、仙台座で、仙台初の映画公開 / 主催は東一番丁の白崎写真店主(白崎民治)
(1)4月28日~5月8日
映写機は、フランス・リュミエールのシネマトグラフ / 人物や風景など、毎夜30分上映 / 入場料10銭、しばしば電気が切れたため、少年音楽隊の演奏でつなぐ
(2)8月4日~10日(夜7時開演)「活動大写真会」
映写機は米国製ヴァイタスコープ / 入場料は大人8銭、軍人・学生4銭(当時、新聞1部が1銭2厘) / 「パリの風景や軍隊の行進」「衣装をさまざまに着替えて踊る少女」「日本美人の布ざらし」など100余本を毎晩取り替えて上映 / フィルムには部分的に赤、緑、褐色など彩色あり/ 7日には、第二師団将兵1600余人、9日に歩兵4連隊など1000余人が観覧 / 余興には音楽隊の吹奏や蓄音機で仙台芸妓連の唄を聞かせた / 事前に、円太郎馬車(乗合馬車)が旗なびかせ、賑やかな楽隊をのせて街を走り宣伝、各所でまいたチラシには「電気作用、活動着色大写真 発音器(蓄音機)付」と書かれていた
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「仙台あのころこのころ八十八年」P238、P239/「仙台市史 年表」P87/「目で見る仙台の歴史」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P308/「仙台はじめて物語」P218~2019『活動写真』
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「市民の戦後史(仙台市)」P22/「仙台市史 特別編4 市民生活」P227(仙台座、M25年芝居番付)
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仙台庶民金庫 |
開業 |
1923年(T12) |
* 1923年(T12)7月、仙台市街地信用組合として開業、同年12月に仙台庶民金庫と改称(「仙台市史 年表」P102)
* 1923年(T12)4月、定禅寺通りに(有)信用組合仙台庶民金庫、設立(「仙台市史 特別編4 市民生活」P515)
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「仙台市史 年表」P102/「仙台市史 特別編4 市民生活」P515
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仙台復興祭グランドフェア |
実施 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)4月20日~5月31日、仙台市制施行60周年記念事業として実施 / 会場は西公園 / 歓迎のため、仙台駅西口広場に「こけし塔」を設置、のち広告塔として利用された / フェアにあわせ、仙台駅付近に河北ショーハウス建設
・「仙台市史 続編第2巻」P199に「昭和24年、戦後の混乱期も一応おさまり、食糧危機も次第に緩和され、人心も落ち着いてきたので、仙台市は、仙台復興祭グランドフェアを西公園で開いた。」
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「仙台市史10 年表」P321/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台市史 年表」P116/「仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P199
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こけし塔は、20-08、16-18、16-19、16-20/「目で見る仙台の歴史」P174に、グランドフェアで市役所夜間照明/「市民の戦後史(仙台市)」P46(会場前のこけし塔)
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仙台朝市 |
スタート |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)、青空市場、通称“朝市”から始まる(「仙台朝市商店街振興組合」HP)
* 1978年(S53)10月31日、新仙台駅前ビル(通称「仙台朝市アメ横ビル」)、オープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P87
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仙台東宝劇場 |
名称変遷 |
1922年(T11)/1938年(S13)/1946年(S21)/1950年(S25)/1963年(S38) |
以下の1)~5)は、出典を表す
1) * 1922年(T11)8月11日、仙台市東三番丁に「帝国館」として開業
* その後、読売会館→多聞会館→新興映画劇場
* 1938年(S13)、東宝直営館となり、「仙台東宝映画劇場」と改称
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で建物焼失
* 1946年(S21)1月17日、東一番丁の仙台三越5階に「東宝三越劇場」として再オープン
2) * 1946年(S21)1月~1949年(S24)6月、東宝三越劇場(開場~閉場)
<その後の再開年に以下の諸説あるが、編者は、諸資料を比較検討し、4)渡辺秀雄著「七たび転んで」P106~108の内容から、1950年(S25)4月再開が妥当と判断>
1) * 1954年(S29)10月、館名を「仙台東宝劇場」と改称し東五番丁17に移転開館
2) * 1949年(S24)10月、東宝劇場(洋画)開場(東五番丁17)
3) * 1949年(S24)10月、東宝劇場(三和興行、454席)を東五番丁17に開設(「重訂 宮城県郷土史年表」P538)
4) * 1950年(S25)4月、戦後、三越4階の(東宝)三越劇場が三越の都合で退去、仙台駅前の空襲焼け跡に建築竣工し、東宝劇場と改名して開業(渡辺秀雄著「七たび転んで」P106~108)
<再移転>
1) * 1963年(S38)3月:新築なった東宝仙台ビル6階に「仙台東宝劇場」が移転オープン <編者注>青葉通り・東五番丁西北角
5) * 1963年(S38)3月、仙台東宝劇場、開場
<東宝ビル火災>
6) * 1964年(S39)3月7日、青葉通り東宝ビル地下1階付近から出火、消防士1人殉職
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1) Wikipedia「仙台東宝劇場
2)「仙台映画大全集」P458ほか
3)「重訂 宮城県郷土史年表」P538
4)渡辺秀雄著「七たび転んで」P106~108
5)「わが心の仙台駅前史」(仙台駅前商店街振興組合)P87
6)「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P840~841
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P229(T10、帝国館ポスター、カラー)/
S38年の再移転後は、201-10、201-26/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P840の写真207(S39の東宝ビル火災)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P65(S38、新築なった東宝仙台ビル、カラー)
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仙台歌舞伎座(開明座) |
改装 |
1920年(T9) |
* 1920年(T9)7月、国分町の開明座が改装し、歌舞伎座として登場
<柴田量平「仙台・東一番丁物語」より>
・ 「国分町に歌舞伎座が開場したのは大正9年7月で、大正2年に建てられた開明座を改造整備したものであった。経営方針がよかったのか、収容観客数1,500人という大きさが手頃であったためか、以来仙台座よりは利用されることが多く、仙台の演芸・娯楽方面に多大の貢献をした。」
・ 同書明治編(昭和42年再版)P235の「明治、大正年間 仙台の劇場(一覧表)」に、「仙台歌舞伎座(国分町)、大正9年7月7日に開明座を改称」
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「仙台市史 年表」P100/柴田量平「仙台・東一番丁物語」
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仙台物産陳列所 |
開館 |
1907年(M40) |
* 1907年(M40)5月28日、仙台物産陳列所、仙台駅前に開館
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「仙台市史 年表」P94
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仙台空港 |
矢ノ目飛行場時代 |
1940年(S15)~1964年(S39) |
<戦前は軍用>
* 1940年(S15)11月、矢ノ目飛行場、熊谷陸軍飛行学校増田分校教育隊練習基地として名取郡下増田村・玉浦村に飛行場が建設される(「仙台市史 年表」P110)
* 1939年(S14)、玉浦飛行場造成。 名取郡玉浦村矢野目と同郡下増田にまたがる松林と農地300haを買収し、突貫工事で造成。熊谷陸軍飛行学校増田分教場としてパイロット養成にあたる。2年後に、熟練パイロット養成の部隊に通信隊を併設。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1945年(S20)、本土決戦に備えて隼(はやぶさ)、鐘馗(しょうき)、疾風(はやて)などの偵察隊や重爆撃機を配備したが、活躍の場がないまま敗戦。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
<戦後、進駐軍(米軍)が接収>
* 戦後、米軍が接収し弾薬集積場として使用
<防衛庁、運輸省が共同使用>
* 1955年(S30)?1956年(S31)?、「矢ノ目飛行場」がGHQ(連合軍総司令部)より返還され、防衛庁と運輸省が共同使用(空港の管理は防衛庁)
* 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設
<民間機、定期航空路線開設>
* 1957年(S32)4月22日、「仙台飛行場」開港式、民間空港として使用開始、仙台~東京間の定期航空路線開設(第1便運行)
* 1957年(S32)4月24日、矢ノ目飛行場、民間空港「仙台飛行場」として供用開始、1番機運航
* 1958年(S33)6月1日、全日空、仙台~札幌便就航
* 1963年(S38)5月10日、全日空機が仙台空港で着陸に失敗し、8人重軽傷
* 1964年(S39)3月17日、矢ノ目飛行場、第二種空港指定を受け、「仙台空港」と改称(「仙台市史 年表」P123)
<所管、防衛庁→運輸省へ>
* 1962年(S37)6月25日、仙台空港は防衛庁より運輸省へ所管換えとなる(「重訂 宮城県郷土史年表」P605)
* 1964年(S39)8月、飛行場面の管理が、防衛庁から運輸省航空局へ(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P605)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P605/「仙台市史 年表」P110、P120、P123/「仙台あのころこのころ八十八年」P253/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P605、P608/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/仙台国際空港HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P99(矢ノ目飛行場、就航したフレンドシップ機)/「市民の戦後史(仙台市)」P145(S38年5月、着陸失敗事故の全日空機)
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仙台空港 |
仙台空港時代 |
1964年(S39)以降 |
* 1964年(S39)3月17日、矢ノ目飛行場、第二種空港指定を受け、「仙台空港」と改称(「仙台市史 年表」P123)
* 1966年(S41)2月2日、拡張工事問題(滑走路2000mへ)で地元民と了解がつき、工事開始
* 1967年(S42)5月15日、空港内に日本航空乗員基礎訓練所を開設
* 1971年(S46)8月2日、2000m滑走路の一部使用開始
* 1971年(S46)9月28日、仙台空港ターミナルビル完成
* 1972年(S47)1月18日、2000m滑走路完成
* 1972年(S47)2月14日、ジェット機が就航(3月1日、定期就航)
* 1976年(S51)7月1日、全日空、仙台~大阪間の直行便、開設
* 1977年(S52)4月25日、東亜国内航空、仙台~名古屋間、就航
* 1977年(S52)7月1日、東亜国内航空、仙台~函館間、定期便開設
* 1978年(S53)3月1日、仙台~福岡間、空路開設
* 1978年(S53)6月1日、仙台~名古屋間航路の一番機到着
* 1978年(S53)6月6日、仙台空港初の国際線チャーター便、仙台~ソウル間で運航開始
* 1982年(S57)3月、新管制塔完成
* 1984年(S59)5月1日、東亜国内航空が、仙台~函館~札幌線再開記念行事
* 1988年(S63)6月、仙台空港に自動改札機導入
* 1988年(S63)11月1日、仙台空港拡張工事着工
* 1992年(H4)年末、2500m滑走路に(「仙台クロニクル」P121)
* 1997年(H9)、仙台空港ターミナルビル全面オープン
* 1998年(H10)、3000m滑走路供用開始
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「仙台市史 年表」P123、P128、P131/「重訂 宮城県郷土史年表」P624、P632/「続・ 宮城県郷土史年表」P1、P2、P6、P7、P57、P66、P70、P78、P82、P144、P176、P248、P253/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/「仙台クロニクル」P121
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P121(H8、国際線ターミナル、カラー)
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仙台空港アクセス鉄道 |
開業 |
2007年(H19) |
* 2007年(H19)3月18日、仙台空港アクセス線 (通称、仙台空港アクセス鉄道)、開業
JR仙台駅と仙台空港とを最短17分で結ぶ鉄道路線で、次の2路線から構成される
・ 仙台駅~名取駅は、JR東日本東北本線
・ 名取駅~仙台空港駅は、仙台空港鉄道仙台空港線
JR東日本と仙台空港鉄道が、仙台駅~仙台空港間で相互乗り入れ
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台空港アクセス線」(2020年8月)
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仙台空襲 |
事前に防火帯づくり |
1945年(S20) |
<事前に防火帯づくり(仙台)>
・ 鉄道沿線や込み入った住宅街などが指定され、建物を取り壊す
・ 第1次分 対象は1067戸
「重要施設周辺」=清水沼、長町八本松など
「消防道路」=南光院丁西側
「鉄道沿線」=元寺小路X橋(エックスバシ)からキリンビール工場までと、五橋、専売局前から南染師町までの2地区
・ 解体作業は建設業者や、隣組を母体に編成された国民義勇隊、学徒勤労動員の学生生徒 / 仙台駅付近は7月9日が完了予定
・ 第2次分を7月9日に指定(仙台市中心部約2万4000坪、2063戸、8294人を指定し、細横丁、元寺小路など狭い道路に面した家屋を第二師団の工兵隊が取り壊す予定だったが、翌日(7月10日未明)の空襲で対象地域は全焼
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210
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仙台空襲 |
米軍機が偵察 / 米軍が空襲予告 / 空襲前日に高射砲陣地構築 / 警報発令の体制 |
1945年(S20)5月~7月9日 |
<仙台空襲の前触れ>
* 1945年(S20)5月25日、米軍F13A(写真偵察機)、仙台市街地を撮影
* 米軍が事前に空襲予告(日本むけ米軍短波放送で「7月9日、仙台にお邪魔しますから疎開するように」と繰り返し放送 / 空襲予告ビラを投下「仙台よい町森の町 七月十日は灰の町」など / 空襲前日にも上空からビラを撒き予告
<前日に高射砲陣地構築>
* 1945年(S20)7月9日朝早く、仙台駅に軍用列車で高射砲21門、探照灯18基と、高射砲隊(2個大隊)が到着 / 列車は長町操車場へ回送、長町諏訪と広瀬川河畔の飯田団地、原町の現NHKアンテナ付近に高射砲陣地を構築(「戦争のころ 仙台、宮城」P210)
<警報発令の体制>
・ 東北軍管区司令部防空作戦室(仙台市川内)が新潟を含む東北7県の防空を担当 / 軍人や女子防空通信隊ら100人が交代で勤務 / 各県の防空監視哨から警察を通じて敵機の動静が電話で入ると、空襲警報が作成され、隣の部屋に待機している日本放送協会のアナウンサーに渡され、ラジオで警報が放送される仕組み(「戦争のころ 仙台、宮城」P212)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P207~P210、P212
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仙台空襲 |
米軍機、テニアン島を発進 / 警報発令 |
1945年(S20)7月9日 |
<仙台空襲(米軍機発進)>
* 1945年(S20)7月9日午後5時14分、マリアナ諸島テニアン島の西基地から、第58航空団B29爆撃機123機が離陸(1機は離陸に失敗し離脱) / 午後11時半すぎ、千葉県房総半島沖に到達、福島県相馬市松川浦上空からやや西に転じ亘理、岩沼を経て仙台へ
<警報発令>
* 1945年(S20)7月9日午後9時30分、東北南地区(宮城、福島両県)に警戒警報発令、10時22分に解除(仙台周辺の天候、風向き観測のため飛来したB29(1機)に対応した警報だった)
* 大編隊に対しては空襲警報発令が遅れた
午後10時56分警戒警報発令、10日午前零時5分に空襲警報発令され、仙台では市役所屋上からのサイレンが4回鳴ったところで途絶える(すでに空襲始まっており、爆撃で電線が切断されたため) / 警報が遅れたのはこの夜の当番の判断ミス
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210~212
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仙台空襲 |
空襲の概要、被害規模 |
1945年(S20)7月10日 |
(1) 『仙台市戦災復興誌』(仙台市開発局 1981年)では、「1945年7月10日、仙台市は米軍のB29、100機による空襲をうけ、中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失。 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」
(編者注: 死者901人、負傷者1689人、行方不明者の数もあるが、空襲間もなくの統計で正確でないと思われる)
(2) 『仙台はフェニックス』(1995年発行 P341)では、「死者は 約1400名近い(確認1064名、身元不明など335名)」
/ ただし、7月17日午前5:30頃の高砂駅停車中列車と周辺民家への機銃掃射、福田町付近爆弾投下による、死者6名、重軽傷者9名、および8月9日の仙台飛行場・原町陸軍造兵廠など銃撃による死者4~5名を含む)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P320)
(3) 『重訂 宮城県郷土史年表』P505では、「仙台市、米空軍の空襲を受く。9日深夜より10日(午前0時5分頃より約2時間30分)未明にかけ前後約3時間に亘り、B29爆撃機7・80機の波状的来襲により無差別焼夷弾攻撃を受け、市の中心部及び川内地帯焦土と化す。この日の戦災により、行政・教育・商業・軍事・金融・交通等の中枢部殆ど焼失、死者911名、罹災戸数11,642、罹災人口57,321、被害面積150万坪に達す。喪失したる史跡、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿、青葉城大手門、養賢堂講堂、芭蕉の辻等の古建築物」
(4) 『仙台市史 続編第2巻(経済文化編)』(1969年発行)P763では、「昭和20年7月10日、B29、100機の爆撃によって、仙台市の中心部は壊滅的な打撃を受けた。被災面積約500ha、全焼家屋1万1650戸、半焼252戸、死傷者約2600人に及び、被災人口の総数は5万7000人、全人口の26%にも達した。」
同書P315では、「房総沖、鹿島灘を北上して、仙台湾に集結したB29約100機は、午前零時5分から約2時間半にわたって仙台市中心部に対して波状的爆撃を加えてきた。このため、特に商業、行政の中心をなす繁華街や川内をはじめ各所にあった軍事施設の大部分が破壊され、家屋その他の建物はほとんど焼失し焦土と化し、その惨状は目をおおうばかりであった。」
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「仙台市戦災復興誌」(仙台市開発局) /「仙台はフェニックス」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P320/「重訂 宮城県郷土史年表」P505 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P315、P763
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仙台空襲の焼失区域図は、98-092、98-147
/空襲被害は、35-15、35-14、35-13など「写真データベース」分類G-28の全写真
/「新・目で見る仙台の歴史」P164~167(炎上する市内、焼け野原、座り込む市民、焼け跡整理作業、市民に呼びかける警官)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P61(焼け跡に建つ女性)/「市民の戦後史(仙台市)」P18(焼け跡整理作業など)/同P166(仙台空襲20年追悼式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図42(S20年空襲後、天守台より一面焼け野原の仙台市街俯瞰)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270(敗戦後の焼け跡整理)
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仙台空襲 |
空襲の状況 |
1945年(S20)7月9日~10日 |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P318~319より
<空襲時の状況>
・警戒警報サイレン(7月9日に3回)
午前9:38(5時間後に解除) / 午後9:30頃、米空軍爆撃機B29(2機)松島湾上空を旋回 / 午後10:56(このころ松島湾上空にマリアナ基地発進のB29結集しはじめていた)
・空襲(7月10日)
午前0時ごろ、120機以上が3機ないし5機の編隊で、仙台上空へ到達し焼夷弾投下 / 空襲警報サイレンは(7月10日)午前0時5分から4回鳴らした時点で電力線断絶
仙台北警察署の記録(警察望楼台から当番警察官と学生挺身隊員が観測)では、米機来襲は、午前0:03~2:03の間に、2分~12分以内の間隔で波状攻撃を25回繰り返し、焼夷弾は、最初は市中心部に、後半は東部と南部地域に集中して投下されたように見えたという
・気象状況(10日午前0時~1時)は、快晴、気温15.7度、湿度79%、北西から0.9mの風 / 以後、夜明けまで、風は東2.7m→北北東2.3m→北北西1m→北西1.3m→北北西3.7mと変化、湿度はまず82%まで上がり、その後火災の中で68%まで低下
・「戦災関係綴り」によると、投下されたのは油脂(ナパーム)性焼夷弾50㎏級と100kg級、小型エレクトロン焼夷弾が混用されていた
<米軍の被害 日米の発表比較>
・ 東北軍管区司令部発表(7月11日):来襲した米軍機70機のうち、5機を撃墜、12機を撃破(これは事実ではなかった)
・ 米側の資料(米国立公文書館提供):(B29)6機損傷のみで、迎撃した日本軍機は1機のみ
・ 米軍資料には、「対空砲火で5~6%の損害をうけた」「帰還時に小破した6機と事故、損傷機あわせて13機が中継基地の硫黄島に不時着した」(「戦争のころ 仙台、宮城」P226)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P318~319/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P226
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