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関連映像 |
八木山開発 |
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八木山は、もとは仙台藩士の共有財産だったが、明治初めに国有化され、大正年間に八木久兵衛氏の所有となった
八木山開発は、昭和初期、八木久兵衛氏が私費を投じて、自身が所有する仙台市八木山で行った一連の観光開発
<八木久兵衛(第4代)> 仙台の味噌醤油製造業「紅久」の経営者、「紅久」は藩政時代から、紅・小間物商、明治に入りみそ醸造開始、仙台市会議員、宮城貯蓄銀行、七十七銀行頭取、仙台商業会議所会頭(明治38年6月~大正7年9月)、大正7年6月貴族院議員(多額納税議員)、大正12年11月29日没(「重訂 宮城県郷土史年表」の該当年の記述より抜粋)
<八木久太郎(第5代久兵衛)> 八木山開発(昭和15年11月26日没)は第5代の手による / 私費を献じて仙台市電「芭蕉の辻線」を開通させた。
* 1929年(S4)6月23日、「野球場」を建設(同日、宮城県に寄付)
→項目「八木山球場」参照
* 1930年(S5)4月、「遊園地」と「公園」を開設(S11年5月28日、八木山遊園地を仙台市に寄付)
→項目「八木山遊園地」参照
* 1931年(S6)8月、竜の口渓谷に、「八木山橋」(木製鉄索、吊り橋)架橋、仙台市に寄付
→項目「八木山橋」参照
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」を仙台市に寄付
* 1936年(S11)11月、土居光知、薄田清が発起人となり、島崎藤村の詩碑(草枕)を建立(「番丁詳伝」P34) / 昭和42年、藤村詩碑を青葉城址へ移転
* 1937年(S12)、仙台芸妓置屋組合、芸妓の同意を得て寄付を募り、八木山遊園地に枝垂れ柳276本、沿道、紅葉ケ谷に、吉野桜524本を植栽し仙台市に寄付、動物園付近に桜樹植栽記念碑を建立(「仙台 あのころこのころ八十八年」P70、「番丁詳伝」P34)
* 1964年(S39)12月、八木山地区整理組合が発足し、宅地造成に入った
このほか、八木氏が仙台市に寄贈した土地に、
* 1965年(S40)に市が「八木山動物公園」を開園
→キーワード「八木山動物公園」で検索
<「仙台老舗百店史」P194~195「紅久」の記述>G1496
「天明3年(1783)から芭蕉の辻にあった紅・小間物商「紅久」が、明治16年、味噌醤油の醸造、販売も始め繁盛して得た資金で八木山を入手、八木山橋、野球場を建設し市に寄贈、また寄贈した土地に八木山動物園が建設された」
「番丁詳伝」P34~35にも、「紅久」「八木久兵衛」「八木山開発」について記述あり
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「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり/「仙台市史 年表」P105、P106、P108/「仙台 あのころこのころ八十八年」P70/「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「仙台市史10 年表」P283/「番丁詳伝」P34~35
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戦時中の物資統制、使用規制 |
概説 |
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・ 経済統制の結果、食糧・衣料などは統制会社ができて割当制となった。宮城水産株式会社も魚市場を東七番丁に移して魚類配給の元締めをした。衣料も統制会社ができた。
・ 終戦間近には青物も不充分で、市民は野に野草を摘み、南瓜や甘藷のつるまで配給された。買出しに田舎へ出ても物と交換でなければ手に入らなかった。
・ この現象は終戦後も続いた。物資不足のため配給で足りぬ人々は農山漁村へ買出しに出かけた。郊外から物資を買い集めてきてさばく人々もあらわれた。また、衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
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「目で見る仙台の歴史」P170
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「目で見る仙台の歴史」P170(「家庭用食糧通帳」と「衣料切符」)/同169(買出し列車に必死に乗り込む)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P52(S9年、衣料切符、カラー)/同P53(S18年改正衣料点数早見表、カラー)/同P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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師範学校 |
宮城師範学校(県立)に関する記述 |
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<宮城師範学校(県立)に関する下記二資料の記述は、「仙台市史 年表]の記述と、年が1~2年ずれている>
* 「明治の洋風建築-宮城県-」P59
「M6年に勾当台通り『仙台伝習所』が設けられ、M11年に『宮城県師範学校』と改称。M22に北一番丁に移り校舎を新築」
* 「宮城県百科事典」P1003
「(校名は数回の変遷を経ていることが詳細に記載され)M30年に『宮城県師範学校』と改称」
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「明治の洋風建築-宮城県-」P59/「宮城県百科事典」P1003の「宮城師範学校」/
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北山五山 |
輪王寺 |
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<輪王寺>
藩祖政宗に従って米沢~会津若松~岩出山~仙台と移動した伊達家の一門寺
・ 4代藩主綱村治下に、大造営
・ 1876年(M9)、山火事で焼失
・ 焼け残った山門(仁王門)は、元禄盛期の建築
北山五山は、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、光明寺
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125~126
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「目で見る仙台の歴史」P155(輪王寺)、P71(輪王寺山門)
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紙幣・硬貨(戦後) |
発行年 |
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* 1950年(S25)1月7日、日本銀行券千円札発行(聖徳太子像)
* 1951年(S26)、日本銀行、新五百円札を発行
* 1953年(S28)12月31日、この日限りで、銭貨(50,20,10,5の各銭)は流通停止、1円黄銅貨も流通停止
* 1957年(S32)10月、五千円札発行
* 1957年(S32)12月11日、100円硬貨を発行、100円紙幣が次第に消えてゆく
* 1963年(S38)11月1日、新千円札発行(伊藤博文)
* 1982年(S57)4月1日、500円硬貨発行
* 1984年(S59)11月1日、日銀15年ぶりに新札発行(一万円札=福沢諭吉、五千円札=新渡戸稲造、千円札=夏目漱石の3種)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29、P63/「重訂 宮城県郷土史年表」P540、P548、P586/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44、P47、P51、P76、P78
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切手代(ハガキ) |
ハガキの切手代 |
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■明治16年1月1日から 1銭
■明治32年4月1日から 1銭5厘
■昭和12年4月1日から 2銭
■昭和19年4月1日から 3銭
■昭和20年4月1日から 5銭
■昭和21年7月25日から 15銭
■昭和22年4月1日から 50銭
■昭和23年7月10日から 2円
■昭和26年11月1日から 5円
■昭和41年7月1日から 7円
■昭和47年2月1日から 10円
■昭和51年1月25日から 20円
■昭和56年1月20日から 30円
■昭和56年4月1日から 40円
■平成元年4月1日から 41円
■平成6年1月24日から 50円
■平成26年4月1日から 52円
■平成29年6月1日から 62円
■令和元年11月1日から 63円
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「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)P964の「郵便料金の変遷」/ほか
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(例)1銭5厘の切手が貼ってある絵葉書は、44-10
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東一番丁(商店街) |
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→ 項目「一番町(旧・東一番丁)」参照
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市民の家 |
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* 1975年(S50)4月14日、仙台市で初の市民の家、オープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P39
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野球場 |
昭和11年現在 |
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昭和11年現在、仙台の野球場は、澱橋球場(収容1万人)、スポーツマン球場(収容1万人)、八木山球場(収容2万人) / (予定)東北帝国大学の球場
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
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銀行(地域の銀行) |
七十七銀行 |
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→ 内容は、項目「七十七銀行」参照
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東二番丁通り(拡幅) |
概要(戦後) |
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・ 東二番丁通りは、定禅寺通角~五橋通角までの周辺一帯が仙台空襲(S20年7月)で焼失したが、戦後の戦災復興事業により(それまでの)幅員8mから50mに拡幅され、市中心部を南北に貫く幹線道路となった
・ その際、拡幅予定線上にあった堅ろう建物(三井生命、商工会議所、市立病院表玄関、協和銀行、逓信病院、東北学院中学校、宮城学院)の移転や撤去に時間がかかり、建物が拡幅された道路上にはみ出した状態がしばらく続いたが、1958年(S33年)7月までにすべて移転、撤去が完了し、幅50mの全線が完成した
・ 北の起点に近い三井生命はビルごと移転させた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132)
・ 両側には歩道(幅9m)と、車道内には2本の側方分離帯(幅3m)が設けられ、車道は側方分離帯にはさまれた中央の15m幅に片側2車線ずつと、2本の側方分離帯と歩道との間に5.5m幅の停車帯および低速車線が両側に設置された
・ 戦災で失われた緑を復活させて杜の都を復興する目的があり、側方分離帯と歩道には並木が設けられた
* 1975年(S50)4月1日、五橋通り角からさらに南へ延伸されて当時の仙台市立病院前交差点(*)までの区間が開通、この時期に全線の側方分離帯を廃止して中央分離帯を設け、片側4車線の道路へと改修された <* 注> 仙台市立病院はその後、2014年(H26)11月1日に長町へ移転した
* 1986年(S61)、クランク型につながっていた東二番丁通りと勾当台通りが、勾当台公園の端を削ってゆるいカーブで繋がった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345、P349/「続・ 宮城県郷土史年表」P39/Wikipedia「東二番丁通り」(2018年現在)を参考にした
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拡幅中の東二番丁通りは、22-24">22-24、53-20、22-25">22-25、22-26、36-06、22-23、36-05、36-04、36-03、98-028">98-028、36-06-01、22-24">22-24、22-25">22-25、201-03、98-028">98-028
/「市民の戦後史(仙台市)」P66(無電柱の東二番丁通り)/同P77(拡幅部分にはみ出した宮城学院校舎)/同P76(S28、拡幅中の東二番丁・中央通り交差点付近)/「目で見る仙台の歴史」P177(拡幅部分にはみ出した協和銀行)/「「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P133の写真33(東二番丁通り俯瞰、側方分離帯にも街路樹あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図39~40(S32年拡幅中、H8年カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年 空撮 北端のクランク状態がわかる)、同P39(S33年空撮、河北新報付近)、同P60(S38、北端)
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市民利用施設 |
4区分 |
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(1)~(3)は、市が計画的に設置し、(4)は設置の補助など
管理運営は、財団法人仙台市建築公社に委託されているが、その地域の各種団体代表による運営協議会が結成され、運営に対する住民参加の道が用意されている
(1)全市的および行政区域的(全市を5区に区分)
・ 市民会館、市体育館、婦人文化センターなど
(2)1~2の中学校区の地域対象の地域施設(中規模施設)
・ 地区市民センター ・ 公民館など
(3)単位は、小学校区程度の地域
・ コミュニティーセンター
(4)単位町内会程度の地域
・ 町内会集会所など
<参照> 仙台市の公共施設一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469~470
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市民利用施設 |
(1)全市対象公共施設 |
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<参照> 仙台市の全市対象公共施設一覧と最新情報は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち、「スポーツ施設」「公園・野外活動施設」「図書館」「その他の文化施設」「高齢者施設」「障害者施設」
http://www.city.sendai.jp/kurashi/shisetsu/kokyo/index.html
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「仙台市」HPの「公共施設案内」
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タクシー |
大正時代 |
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* 1923年(T12)8月、仙台タクシー自動車合資会社、名掛丁に設立、営業開始
* 1925年(T14)、合名会社実用タクシー(裏五番丁)設立、営業開始
・ 大正11年~昭和8年に開業した東一番丁界隈のタクシー業者 / 清水自動車部(清水源太郎、立町通、大正11年)、トモエタクシー(国分町、大正15年)、柳タクシー(本柳町、昭和元年)、サカタタクシー(東二番丁、昭和2年)、キングタクシー(東一番丁、昭和5年、高級車のエセックスとハドソン数台を使用)、第一タクシー(南町)、など9業者あり
* 1925年(T14)12月25日、仙台自動車運転手会、やよい軒に集まり設立(タクシ-、バス運転手、官庁自家用運転手)
・ 宮城県の運転手免許番号簿(昭和4年現在)には、2547号まで記録されている
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「番丁詳伝」P110~111
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青葉通り |
概要 |
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仙台市は、1945年(S20)7月10日の仙台空襲で広範な中心市街地を焼失したが、「青葉通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、仙台駅前から焼失地域を東西に貫き大橋へつながる幹線として新たに生まれた
長さ1.5km、幅員は、仙台駅前から東二番丁角までが50m、それ以西の西公園までが36m / 開通時には車道の両端近くに2本の分離帯があったが、その後交通渋滞解消のため取り払い、中央分離帯1本にした / 1965年(S40)に1本化工事着手
<曲直問題>
路線計画策定段階で、東五番丁交差点の前後を10度屈折か直線かで利害対立あり、半年余り紛糾、1948年(S23)5月建設院総裁裁定で10度屈折で決着(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P324~328に詳述)
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「戦災復興余話」P27~P55/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~328
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14-07、99-031など「写真データベース」A-05-05「青葉通り」の写真全部/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P762(銀行が立ち並ぶ青葉通り(S40年代前半)/「目で見る仙台に歴史」P188(S33頃、駅前から伸びる青葉通り俯瞰)/「新・目で見る仙台の歴史」P182(S32年、青葉通り)/同P185(H1頃、俯瞰)/「市民の戦後史(仙台市)」P61(S26年10月、青葉通りと南町通り一帯空撮)/同P108(S32年、雪化粧の青葉通り空撮)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P36~37(S33年頃、東三番丁角付近から西方向)/同72~73(S39年、カラー、駅前から西方向)/同P76~77(S39、カラー、藤崎から東方向)/P79(S39、カラー、藤崎屋上から西方向)/同P104(S51、東五番丁角以西)
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市民利用施設 |
(4)町内集会所 |
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・ ほぼ町内会単位で、集会所の新築、増改築、修繕費は、町内会ないし連合町内会に一部補助金を交付
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470
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竹槍訓練 |
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* 1943年(S18)2月~9月、大日本婦人会が、竹ヤリ訓練などの国防訓練を全国27支部で展開
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)
竹槍は1945年(S20)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた
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「昭和・平成家庭史年表」P138/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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16-08
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立町小学校 |
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* 1945年(S20)、仙台空襲で焼失
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「市民の戦後史(仙台市)」P22(戦前の校舎)
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銀行(都市銀行) |
日本銀行 |
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→ 内容は、項目「日本銀行」参照
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駐留軍(米軍) |
施設提供と返還 |
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* 1952年(S27)7月26日、日米安全保障条約により、在日合衆国軍に提供する施設及び区域決定(宮城県内)
/ <無期限使用> キャンプ仙台川内地区(川内)、キャンプ・ファウラー(榴ヶ岡)、第172病院(北一番丁の仙台簡易保険局ビル)、レニア・フィールド(南小泉霞の目)、キャンプ・シンメルペニヒ(原町苦竹)、司令官副司令官官舎(新坂通)、七北田演習場、 <一時使用> 安田ビル兵員クラブ(国分町)、住宅施設(北二番丁)
* 1956年(S31)6月15日、榴ヶ岡キャンプを、日本に返還
* 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還
* 1957年(S32)8月、川内キャンプの接収解除を決定(「仙台市史 続1」P465)
* 1957年(S32)8月17日、進駐軍(米軍)に接収されていた仙台簡易保険局ビルが、S20年9月に接収されて以来12年ぶりに正式返還される
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1976年(S51)10月30日、在日米軍司令部が、仙台市国見通信所施設返還を通知
<編者注> キャンプ・シンメルペニヒ(原町苦竹)は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P328では、「キャンプ・シメルフィニヒ」
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「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P582、P585、P586/「仙台市史10 年表」P328/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P465/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282、P285、P854/「市民の戦後史」年表
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駐留軍(米軍) |
榴ヶ岡キャンプ返還 |
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* 1956年(S31)6月、榴ヶ岡キャンプ(キャンプ・ファウラー)返還
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282
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樗牛瞑想の松 |
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⇒「瞑想の松」参照
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08-07、53-112
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堤人形 |
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・ 市内堤町で17世紀末から作られたといわれる
・ 明治末には芳賀佐四郎家のみとなる
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「新・目で見る仙台の歴史」P152
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「新・目で見る仙台の歴史」P152(窯場と製作風景)
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広瀬通り |
戦後新設 |
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「広瀬通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、青葉通りとともに市中心部を東西に貫く幹線道路として、仙台空襲(S20年7月)の焼失地域に新設された
・ 幅員36メートル
・ 旧立町通り、旧玉澤横丁、立町を拡幅、その他は空襲焼け跡に造成した
* 1952年度(S27)、車道の中央部分の舗装開始
* 1953年(S28)、大部分が、日米行政協定による事業として、一気に舗装すすむ
旧・「玉沢横丁」は1907年(M40)に拡幅され、東一番丁の中心的存在に(娯楽街として仙台第一の地位)(昭和41年河北新報記事による)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404
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22-19、22-20、22-21、22-22/「市民の戦後史(仙台市)」P59(S25年の東一番丁角付近、元寺小路付近)
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市場 |
明治期 |
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* 1880年(M13)12月16日、「長町青物市場」を名取郡の野菜生産農家が開設
* 1881年(M14)10月25日、青物市場が「河原町市場」に一本化され、長町市場は閉鎖される
* 1892年(M25)6月25日、「長町青物市場」を名取郡茂ケ崎村長町に開設
* 1892年(M25)7月30日、「共同八百屋市場」、河原町・新河原町に開設
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「仙台市史 年表」P83、P84、P88
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P87(明治期の長町青物市場)
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ライオンズクラブ |
仙台 |
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* 1960年(S35)5月、支倉常長記念碑を仙台城址三の丸に、仙台ライオンズクラブが建立(「重訂 宮城県郷土史年表」P596)
* 1967年(S42)、市民記念植樹実施(篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈)(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
* 1968年(S43)4月13日、勾当台公園内に、仙台ライオンズクラブ寄贈の野外音楽堂完成し、寄贈式(「重訂 宮城県郷土史年表」P639)
* 1970年(S45)6月5日、全国大会を仙台で開催(「重訂 宮城県郷土史年表」P661)
* 1978年(S53)5月2日、「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」を、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建(「続・宮城県郷土史年表」P81) / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている →「政宗卿騎馬像」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P639、P661/「続・宮城県郷土史年表」P81
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市場 |
大正期(公設市場) |
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* 1919年(T8)9月15日、公設市場として南町通りに「仙台市南市場」、表小路に「仙台市北市場」を開設
* 1920年(T9)9月28日、両市場を閉鎖
* 1920年(T9)12月17日、新たな公設市場として「名掛丁市場」を開設
* 1921年(T10)12月24日、名掛丁市場を閉鎖し、翌日、定禅寺通に「中央公設市場」、清水小路に「南公設市場」、北一番丁に「北公設市場」を開設
* 1922年(T11)8月4日、宮城県公設市場増設し、木町通に「西公設市場」開設
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「仙台市史 年表」P99、P100/「仙台市史10年表」P259
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市場 |
昭和期 |
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<戦前>
* 1929年(S4)、肴町の「仙台魚市場」と「河原町市場」が卸売市場の開設認可
* 1930年(S5)7月21日、河原町市場が、株式会社「仙台青果市場」として開業
* 1930年(S5)10月3日、「仙台果物市場」開設
* 1943年(S18)1月18日、「仙台鮮魚市場」、東七番丁に完成
<戦後 昭和40年まで>
* 1950年(S25)8月28日、「仙都魚類株式会社の魚市場」開設許可
* 1963年(S38)12月1日、明治25年創設の「長町青果市場」が閉場
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「仙台年表」P208/「仙台市史 年表」P105、P123/「仙台市史10 年表」P275、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P292、P546、P548、P611
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「目で見る仙台の歴史」P165に「河原町青物市場」/「市民の戦後史(仙台市)」P146(S38年12月、長町青果市場最後のセリ)
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陸海軍の工場(宮城県内) |
第一海軍火薬廠 |
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<海軍火薬廠>
* 1938年(S13)1月9日、海軍火薬廠を柴田郡船岡町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1938年(S13)1月9日、海軍軍需部特殊工場、柴田郡船岡村に設置 (「仙台年表」P208)
* 1939年(S14)8月1日、船岡村に海軍火薬支廠設置 (「仙台年表」P209)
* 1939年(S14)、船岡の第一海軍火薬廠完成。 2万坪(約6.6ha)あり東北最大の火薬製造工場(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
・ 海軍は、平塚に第二、舞鶴に第三火薬廠を持っていた
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)
・ 跡地は、陸上自衛隊、仙台大学が使用(2020年現在)(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157、P173)
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「仙台年表」P208、P209
/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P704/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156~157、P173
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市場 |
駅前マーケット |
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戦後のヤミ市からできたマーケットの1つでバラック小屋が集まっていた / 場所は東五番丁・南町通り交差点北側 / 経営は仙台駅前商業組合
<火災>
* 1949年(S24)3月16日、46戸焼失
* 1949年(S24)10月10日、駅前マーケット(青葉通り)67戸に撤去代執行(「仙台市史 別冊2」P382)
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「番丁詳伝」P168/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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プール |
昭和11年現在 |
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仙台市内のプール(昭和11年現在)
・ 愛宕プール(愛宕橋下)
・ 夏は、広瀬川上流に区域を定めて使用
・ 学校では、(旧制)第二高等学校、師範学校などに
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
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陸海軍の工場(宮城県内) |
多賀城海軍工廠 |
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<海軍工廠>
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠、開庁式(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠開庁式 (「重訂 宮城県郷土史年表」P492)
* 旧多賀城村のほぼ4分の1に当たる500haを強制買収して建設
南地区の機銃部は、ゼロ戦の20ミリ機銃弾、北地区の火工部では爆弾、焼夷弾、親子爆弾、照明弾など
* 1945年(S20)3月から、松島町高城地区の丘陵地に地下分工場を建設中に敗戦(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P173)
「戦争のころ 仙台、宮城」P159~160に、土地所有者からの強制的な用地取得と移転の強要、土木作業員には宮城刑務所の服役囚や強制連行された朝鮮半島からの労働者(728人)も含むこと、残酷な強制労働につき記述あり
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P711/「重訂 宮城県郷土史年表」P492/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P159~160、P173
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市場 |
仙台東一公設市場(東一マーケット) |
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* 1946年(S21)?、「仙台東一公設市場」(東一マーケット)は、戦後、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道の東側に面してあった
* 1956年(S31)、鉄筋2階建に改築され、その後も「東一市場」の名で存続
<火災>
* 1951年(S26)2月5日、東一番丁火事(午後1:40頃)により、東一マーケットに延焼 / 17戸全焼
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<火災>
「市民の戦後史」P50/「仙台年表」P221/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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16-38、16-39
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陸海軍の工場(宮城県内) |
陸軍造兵廠(東京第一陸軍造兵廠仙台製造所) |
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<陸軍造兵廠>
* 1941年(S16)4月5日、陸軍造兵廠を仙台市原町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
<編者注>陸軍造兵廠の正式名称は「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」(場所は、戦後の陸上自衛隊苦竹駐屯地)
* 1941年(S16)4月5日、原町陸軍工廠の新設と呼応し、原町工業都市建設土地区画整理(520ha)認可 (「重訂 宮城県郷土史年表」P432)/ ただし整備は戦後に持ち越された / 関連して、S16年に仙塩街道(仙台~塩釜)開通(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365)
* 1942年(S17)から稼働、4つある工場では戦闘機の銃弾や薬きょうの箱詰、旋盤、プレス加工。 のち幸町にも第二工場を建設(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、最盛期にはそれぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P706/「重訂 宮城県郷土史年表」P432/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P173
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市場 |
中央マーケット(戦前) |
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昭和戦前期、東一番丁南部(通称大通り)にあった。
【「仙台大観(昭和10年刊」P43】
「大通りには1年を通じて毎夜、夜店が開かれ、夜の一番丁に一層の賑わいを呈し、傍らの「中央マーケット」には、コリントゲーム、玉突き、輪投げ、射的、演芸(無料公開)等があり遊芸場として昼夜雑踏を極めている。」
<参照>当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみ に、戦前期の大通りの夜店、中央マーケットの思い出あり
なお、戦後(昭和21年)に通称大通りに開設された「仙台中央公設市場」も、通称「中央マーケット」と呼ばれた。
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「仙台大観(昭和10年刊」P43
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勤労青少年ホーム |
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* 1964年(S39)12月、新築された東二番丁小学校内に、勤労青少年ホームが発足
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「市民の戦後史(仙台市)」P160
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「市民の戦後史(仙台市)」P160(茶室やスポーツ室を利用する青年男女)
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
総説 |
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一番町は南から北へ、1~4丁目まであるが、商店街としての一番町は2丁目以北で、3つの商店街で構成されている。 武家の町だった東一番丁が、明治期以降は次第に商店がつらなる繁華街となり、仙台を代表する商店街「東一番丁」となった。 1970年(S45)2月の新住居表示で、「一番町」となる。
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<参照>旧町名と新住居表示実施後の新町名の対比、実施年月日は、仙台市HPの 「旧町字名(地区名)一覧表と旧・新住所対照表(五十音順)」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/ichiran.html
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障害者福祉 |
施設完成など |
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* 1968年(S43)6月16日、宮城県総合福祉センターの合同庁舎を本町1丁目に建設し、業務開始
* 1983年(S58)4月、仙台市幸町の県障害者福祉センター完成
* 1984年(S59)4月28日、仙台市河原町に自閉症児専用施設「南材ホーム」完成
* 1984年(S59)4月、西多賀に仙台市精神薄弱者育成会福祉作業所開設
* 1985年(S60)4月13日、仙台市人来田に、県内初の障害者更生センター完成
* 1988年(S63)3月28日、テクノプラザみやぎ発足(宮城県の委託で「みやぎ障害者ITサポート事業」を実施する第三セクター、2019年に解散)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P641/「続・ 宮城県郷土史年表」P161、P176、P190、P241
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
商店街組織 |
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S23.2.20、東一連合会発足 / H10.11.11、東一連合会、50周年記念式典開催(記念誌発行)
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各商店街の年表は、「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9の「年表」による
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松根油 |
宮城県への割当て |
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大平洋戦争末期、軍用機の航空燃料の不足を補うため、代替に松の根から油(高性能オクタンの成分が多い)を採るため、全国の松を伐採 / (制海権、制空権を失い、日本軍が占領した南方からの石油輸送が絶望的になる)
* 1944年(S19)10月、政府、松根油(しょうこんゆ)から航空燃料を生産する緊急対策を決定、大政翼賛会の運動として全国都道府県、市町村に発掘量を割当て、宮城県の分は2034万貫(7600トン)と決まる
・ 精製用の乾留釜(高さ1.2m、直径85cm)に、根を小さく割って入れ、ふたを粘土で密封し12~15時間燃やす
・ 釜は、昭和20年3月までに201釜、5月までに432釜完成
・ 陸海軍の協定で、東北地方で生産される松根油は海軍が使うことになっていた
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「戦争のころ 仙台、宮城」P203~204
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定禅寺通り |
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戦後、戦災復興事業で勾当台公園角~西公園通り間が幅46mに拡幅され、中央分離帯(12m幅)には、欅を2列に植え、その間に遊歩道をもうけた街路公園として整備された。青葉通りとならび杜の都仙台を代表する街路となった
* 1957年(S32)から、西公園までの480mに計158本の欅を植樹
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「仙台市史 続編1」P462
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仙台空襲 |
軍隊、学徒動員して遺体収容 |
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<軍隊、学徒動員して遺体収容>
・ 軍隊や警察、消防団、市内の中学校、女学校の生徒も動員される
・ 平貞次郎さん談(当時・歩兵第4連隊 榴ケ岡の兵舎から出向いて5日間遺体収容作業)「仙台駅から西の方は焼け野原で、特に元寺小路から現在の錦町公園にかけての道路に遺体が多くあった。井戸の中に遺体が折り重なっていたり、大きな防空壕では沢山の人が亡くなっていた。 お棺がないので、焼けトタンに1体ずつ遺体を乗せて運び、軍のトラックで新寺と北山の火葬場に運んだ。 あまりに数が多くていつになるか分からないといわれて、自分で火葬にした人もいた。」
・ 室田六郎さん(当時北山火葬場勤務)談「上半身とか片手、片足というのもあって大半は焼死体だが、防空壕で亡くなった人は衣服も体も無傷だった。 釜は16基あったが、燃料不足で1体焼くのに5時間はかかる。一番困ったのは燃料で、新坂通りの街路樹を切ってナマ木のまま使用した。」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P225~226
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一番町(旧・東一番丁)北部 |
一番町四丁目買物公園<商店街組織> |
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「北振会」の名称は戦前から使われてぃた / S26.1.1、北振会発足(S28.7、仙台東一北振繁華街協同組合設立認可) / S38.8.9、「仙台東一北振繁華街協同組合」を「仙台東一北振商店街振興組合」に改組 / S54、「仙台東一北振商店街振興組合」が「東一中央会」を吸収(北振会は森徳横丁以北、中央会は森徳横丁~広瀬通り間) / S55.6.16、「東一北振商店街振興組合」を「一番町四丁目商店街振興組合」に改称
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9
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軍事教練 |
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・ 青少年を対象とした軍事予備教育のうち、特に歩兵操典に基づく訓練をさす
* 1928年(S3)2月24日、陸軍省、教練及び青年訓練修了者検定規定公布、この結果、教練も成績に加え合否が判定される
* 1944年(S19)2月4日、文部省、軍事教育強化方針発表
<第2次世界大戦の敗戦で廃止>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P8、P35
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一番町(旧・東一番丁)中央部 |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」<商店街組織> |
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大町角(中央通り角)以北の東一番丁は、戦前から「東一振興会」の名称が使われていたことが、[写真 49-04 で確認できる / S29、「東一振興会」を「東一一番街」に改称 (ただし、写真 77-02 (S31)ではまだ「東一振興会」の字が確認できる) / S45.7.27、一番町一番街商店街振興組合設立
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9
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一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<商店街組織> |
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S23.4、一番町大通り親和会発足 S57.11.8、「一番町大通り商店街振興組合」設立 / H2.5.28、「一番町大通り商店街振興組合」を「サンモール一番町商店街振興組合」に改称 / H3.8.6、ドイツ・ハンブルグ「ハンブルガーシュトラーゼ」と姉妹商店街提携調印
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「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P269
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一銭橋(広瀬川) |
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→「宮沢の一銭橋」参照
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軍需工場(宮城県内) |
民間工場 |
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・ 東北金属(現・太白区諏訪) →マグネット通信機器、機関砲部品
・ 東北特殊鋼(現・太白区長町八幡前) →銃の中心部分となる銃身鋼
・ 三馬弘進護謨 →軍用地下たび、被服など
・ 大日本航空 →新型ジェット機「秋水」の訓練用グライダー
・ 萱場製作所(のちのカヤバ工業)仙台工場(現・太白区八本松) →戦闘機や偵察機の油圧緩衝機、陸軍の依託で着弾観測用のオートジャイロ(カ号観測機)の組立作業
・このほか、日本電気、東北ゴム、本山製作所、仙台発動機、塩釜ドック、東北ドックでも軍需品を製造
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P158~159
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商店など |
大竹園(茶舗) |
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・ よろづ園とともに、仙台の二大茶商とうたわれ、一族が市内各所に茶舗をひらく
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「番丁詳伝」P99
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53-98
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軍需工場(宮城県内) |
工場疎開 |
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<首都圏から宮城県へ>
「首都圏の軍需工場など98企業から宮城県へ疎開希望あり、すでに53工場が操業中、残りも対応中」(「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月)より)
<仙台市内の軍需工場の疎開>
東北臨時生産防衛対策委員会、仙台市内の10工場を、空襲に備えて疎開決定
・東北特殊鋼 仙台市長町 → 山形県西村山郡西郷村の国民学校へ
・三馬弘進ゴム 仙台市行人塚 → 鳴子町川端へ
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P211
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