仙台よみとき用語年表
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街灯(芭蕉の辻) 戦前 1灯型    戦前> 辻の西南角側に洒落た街灯が1本(明治40年代)    99-022 
街灯(芭蕉の辻) 戦前 5灯型    戦前> 道の両側に真新しい(白い柱の)街灯が建てられた / 昭和3~4年頃の写真53-49「芭蕉の辻と市電芭蕉の辻線」には写る / 1基5灯型(四方へ4灯、上に1灯)    53-49 
仙台七夕 戦後エピソード    * 1949年(S24)、商工会議所を中心に、市、県、各商店会で七夕協賛会が結成され、開催期間を8月5日から3日間と決定(「番丁詳伝」P157)
* 1953年(S28)から、仙台商工会議所が公募してミス七夕コンテスト
* 1954年(S29)、東一番丁にアーケード設置され、親竹・子竹と大小の七夕飾り(高さ制限、歩道で2.1m、車道で4.5m以下)
* 1955年(S30)、壱岐紙店が雨に強いシリコン加工の七夕紙の試作成功
・ 七夕流しの習慣は清掃法の強化でなくなる
・ 七夕音頭、七夕踊り制定され、一番町をパレード(開始年不詳)
* 1956年(S31)8月6日、NHK仙台放送局が、仙台七夕を初のTV生中継(全国放送)
* 1958年(S33)、山下清が来仙、仙台七夕を描く
* 1971年(S46)、音と光を取り入れて「動く七夕パレード」開催(会場は定禅寺通り)
* 1986年(S61)、ミス七夕コンクールが13年振りに復活(5人のミス七夕選出) 
「番丁詳伝」P157、P187/「市民の戦後史(仙台市)」P92/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P31  「市民の戦後史(仙台市)」P92(S48年のミス七夕たち/七夕を描く山下清画伯) NHKテレビが七夕全国中継(18-33 、「市民の戦後史(仙台市)」P92、「新・目で見る仙台の歴史」P180)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P17(東一番丁北部の七夕飾り) 
街灯(南町通り) 戦後 2灯型    戦後> 柱から左右へ2灯(アームが直線)
 / 昭和26年にはまだ無かった(写真 20-0216-45
  18-1436-08 
街灯(南町通り) 戦後 1灯型    1959年(S34)~1965年(S40)頃の写真に写る    201-12201-13201-14 
青年団 女子青年団    <未婚女性の組織化>
・ 明治末期~大正期、全国的に「処女会」や「女子青年会」に組織化
* 1927年(S2)、処女会が、大日本連合女子青年団(全国的統一組織)に発展し、女子青年団に編成替え推進
・ 女子青年団は、男性の学校長や教員が主導する形が多い
・ 宮城県女子青年団、「郷土婦人のかがみ」編纂刊行(過去に褒賞された県下の庶民女性たち中心に235人を「婦女の鑑」として讃え紹介、登場女性は大部分が、貧窮生活の中で老親や夫、兄弟を扶養し、あるいは彼らの看護・介護に粉骨砕身の苦労を続けた姿を紹介、当時は日露戦争、第一次世界大戦を経て、経済恐慌や凶作が続き、家が崩壊の危機に瀕していた時代。女子青年団は主婦予備軍である未婚女性たちに、自己犠牲と献身によって家族を支えることを婦徳として教える修養の場として大きな意味を持っていた。

* 1933年(S8)以降、市内の各尋常小学校を拠点に、単位女子青年団の結成が進む
・ 1936年(S11)には東二番丁女子青年団をはじめとして16の単位組織が結成されており、これらを統合して仙台市連合女子青年団を組織(総数2029人)
・ 活動は、建国祭への参加、愛国婦人会と共同で婦人報国祭の開催など教化的事業、ラジオ体操・遠足など集団行動訓練、神社の境内清掃や生活改善講習会などの社会的事業、編み物・漬物講習会など

<戦時下の女子青年団>
* 1939年(S14)、仙台市連合女子青年団が仙台市女子青年団と名称変更
・ 活動は、従来の講習会・遠足・建学などのレクリエーション的行事を自粛
・ 教養部(国籍調査・合同訓練・団報発行など)、奉仕部(勤労奉仕・集団勤労などの公共的活動)を新設

<女子青年義勇隊>
・ 公共的精神を涵養し婦道を発揚させるという目的のもとに女子青年義勇隊も結成 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P455、P457   
敗戦後の諸相・仙台 英語標識設置    ・ 仙台駅、占領軍の要請で駅名をローマ字表示(写真16-16)
・ 西公園前・南町通はメープル街、南町・国分町はエルバリ街、光前寺通・駅前はインディアナポリス街などの標識設置 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68~69  16-4216-4416-4616-3616-2316-1625-1453-3144-4544-29-0125-1099-148 
税務署     * 1914年(T3)9月20日、「仙台税務署庁舎」、北一番丁・上杉山通に建設し移転
* 1948年(S23)1月、「仙台税務署」を、東二番丁73(旧憲兵跡)に移転
* 1948年(S23)12月、仙台南税務署新設、仙台税務署は仙台北税務署に名称変更
* 1950年(S25)3月、北仙台税務署庁舎を、東二番丁73に新築
* 1970年(S45)3月25日、旧・仙台北税務署跡(森徳横丁と東二番丁通り交差点南西角)に、仙台中央警察署が庁舎建設

(仙台北税務署は、2020年現在、青葉区上杉1丁目1番1号) 
「目で見る仙台の歴史」P150/「仙台市史10 年表」P245/「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P531、P541、P658  「目で見る仙台の歴史」P150に、仙台税務署庁舎(T3建設)/ 
敗戦後の諸相・仙台 米、大減収    * 1945年(S20)は凶作で、20年産米の供出量は、21年3月で66%
* 1946年(S21)産米は、前年に比べやや持ち直す
* 1947年(S22)、大減収(7、8月の豪雨と9月のカスリーン台風)
* 1948年(S23)、大減収(アイオン台風) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70、P72   
敗戦後の諸相・仙台 食糧事情悪化で米配給減    ☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり

☆ 戦中戦後の「深刻な食糧難」については、【「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248】に記述あり
・ 戦後、米は大人1日2合3勺配給予定だったが、遅配欠配でヤミに頼らざるを得ず / 仙台では米配給が2週間も遅れ、コメの代わりにトウモロコシや砂糖だったこともあった / 食糧難は戦後の方がひどかった

<主食配給減や欠配>
* 1946年(S21)5月中旬、宮城県でも主食配給量を2.1合→1.8合に減量/しかし、欠配日数が増加し栄養失調者が続出、職場では欠勤者増加の一方だった

<米よこせメーデー>
* 食糧メーデー、東京で5月19日
* 食糧メーデー、仙台では5月31日/木町、榴ヶ岡、南材木町、東北学院専門部の4カ所に、革新政党、労働組合など18団体代表や市民が参加、空腹をこらえて、“米よこせ”と気勢をあげた

<色の黒い代用食パン>
* 1946年(S21)6月半ばから、危機突破用として、代替パンを月に1人当たり1~3個づつ主食がわりに配給/小麦粉5割、こぬか2.5割、雑粉2.5割で、少し塩味がつけてあり、1個(36匁)36銭、色の黒い丸形のパンだった

<主婦たちが嘆願書>
アメリカの放出物資も続いたが深刻さ解消にはならず、市内連坊地区の七つの公会の主婦たち代表8人が県庁に押しかけ嘆願書を千葉三郎知事に提出
「手持ち金はなくなりタンスの中もカラになりました。児童の犯罪が増え体力が低下してきました。ヤミ商人が増え買出し時間や燃料・調理時間の空費で教育ができません。思想の悪化で家庭の円満さえ懸念されます。以上のように私たちは、不安と暗黒の中に追われています。これはただただ主食の不足によるものです。なにとぞ主食配給の即時実施をお願いします・・・・」

<昭和22年正月の配給>
「もち米1人7合、清酒1世帯5合、ビール1世帯1本、サッカリン各家庭1個、かずのこ見込みなし・・・」(「仙台市史 続編第2巻」P254) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254  「新・目で見る仙台の歴史」P174(食糧難で労働者の提灯デモ)/同P170(食糧難で食物支給される人たち)/同P172(中田町の青年団、食糧難に市民に野菜類を贈る)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ) 
敗戦後の諸相・仙台 食糧買い出し    ・ 欠配続きで、農村へ食糧買出しのため列車は連日超満員 / 仙鉄局が無蓋貨車を臨時運転し人を運ぶ
・ 子どもも買出しに動員されたため、県は国民学校、中学校に対し校長の自由裁量で午前授業だけで打ち切るよう通達
・ 郊外から物資を買い集めてきてさばくカツギ屋とよばれる人々もあらわれた。
・ 衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
・ 1953年(S28)10月、凶作によりヤミ米横行、菓子工場、旅館など一斉取締り(「仙台あのころこのころ八十八年」P252) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72/「仙台あのころこのころ八十八年」P252  「仙台市史 続編第1巻」P72の写真(満員の買出し列車)/「新・目で見る仙台の歴史」P173(仙山線ホームのカツギ屋の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P104(仙台駅で押収されたヤミ米の山)/同105(列車で買出しに行く「カツギ屋」たち) 
敗戦後の諸相・仙台 外食券食堂    ・ 1947年(S22)7月1日、外食券食堂、旅館、喫茶店を除き、全国の料理飲食店の営業が停止された。仙台でも1168軒が休業し外食券食堂だけが残った。
・ 飲食営業緊急措置令により、主食を販売できる店は「外食券食堂」だけになった。食糧事情悪化のため政府がとった苦肉の策だが、こっそり店を開ける裏口営業が流行するが、22年内に解ける予定が24年まで続くことになる。(「番丁詳伝」P160)
・ 1949年(S24)には料理飲食店が再開されることになり、許可申請し「丸許」となった店は外食券食堂28を含め計93店だけで、客は食料品購入通帳で「外食券」「副食券」を入手し持参しないと店では食事できない建前だった。 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P100~101/「番丁詳伝」P160  「仙台市史 特別編4 市民生活」P100(外食券) 
学童疎開 仙台の学童    ・ 仙台市の学校は、強制疎開の指定地ではなかったが、縁故疎開は着々と進められていた。
・ 宮城師範付属国民学校では、疎開できる縁故のない3年生以上の学童60余人を、仙台空襲のあとに加美郡宮崎村に疎開させた。借用予定だった宮崎国民学校が陸軍予備士官学校生徒に占領されたので、やむなく村内の洞雲寺と長泉院や付近の農家に収容した。

<「戦争のころ 仙台、宮城」P150)>
宮城県でただ1校、仙台空襲(S20年7月10日)の18日後に集団疎開
* 1945年(S20)7月28日、宮城師範男子部付属国民学校129人が、仙台軽便鉄道仙台駅から乗車、宮崎村(東町洞雲寺、柳町長泉寺と近所の農家)に疎開
・ 129人は、全校生の25%で、親が転勤族などで地元に縁故がない児童
・ 学校では、地元の婦人12人に炊事作業を頼み、寺にはトイレが増設された。風呂はそういうわけにはいかず、多くの子は近くを流れる田川に毎日のように泳ぎに行きました。 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P317/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P150   
セコイヤの化石     100万年前の第四紀洪積世に死滅したといわれるセコイヤが、霊屋橋(おたまやばし)下の広瀬川の中に、数十本残存しており、天然記念物に指定されている  「仙台市市史 続編1」P410   
敗戦後の諸相・仙台 家畜も激減    <市立屠場(市内小田原泉町)では>
・扱った牛馬豚羊が、1944年(S19)5000頭超、S20は2000頭、S22は746頭と激減

<飼育頭数も激減>
・市内の飼育数(牛馬豚羊)、S20は3475頭、S21は272頭
・深刻な食糧事情で、食いつぶされてしまった 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72   
学徒勤労動員 時代背景    1937年(S12)7月の日中全面戦争開始以降、全国から青年男子が次々と戦地に出征、一方で軍需産業の拡大に伴い大量の労働力需要が生じた / 太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された / その労働力不足を補うため、1938年(S13)から始まった生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大、S19年以降は工場などへ通年動員化し、S20年3月に国民学校初等科以外の学校は授業停止となる     
敗戦後の諸相・仙台 欠食児童   
・ 荒町国民学校、全児童2000人中、食糧事情による欠席が1割近くあり、授業は午前中のほか体操は休ませる措置 / 十日間も野菜だけを食べ、米を一粒も口にしない児童が50人いた
・ 東六番丁国民学校では、昼食抜きの児童が3分の1に達し、子供らしくはしゃぎまわる姿もない
・ 仙台中学では、週5日授業で山菜とり、県立一高女など各校でも野草・山菜つみに近郊へ出かけた

☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407  「仙台市史 特別編4 市民生活」P405(敗戦直後に野外で食事する子供たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ) 
敗戦後の諸相・仙台 生活抄から        生 活 抄      通子  

・ 子供等が食にいやしくなり来つる
        叱りつつあわれ国敗れたり     
・ 配給日まで耐えこしあらな米をひき
        糊にして食い三たび三度を
・ 今少し食あらばかく病ませじを
        蒼白き鼻尖りて見ゆる 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P73~74   
敗戦後の諸相・仙台 アルコール添加で三倍増醸    <米不足で、酒造高も減>
・ 県酒造組合仙台支部では、1945年度(S20年度)5696石(1石=180リットル)、21年度4438石、22年度2585石
・ 政府、清酒をアルコール添加で増量する“三倍増醸”を認めたが、それでも酒造高は終戦前(S19年度)の半分以下で、時たまあった配給は1合か2合だった

<横行する密造酒>
・ 市内に流れた濁り酒は、市内小田原周辺や塩原の第三国人地域や、仙北地方の農村からが多かった
・ 仙台駅前のヤミ市で取引された、別名”白馬(ドブロク)”は、1升に米1升のバーター制、屋台の“仙台カストリ”(しょうちゅう)は1杯60円で、飛ぶように売れた

<連日報道されたメチル禍>
・ 薬店やヤミ商人から買ったメチルアルコールを飲んで、悶死や失明 / アルコールはかつての軍需物資がはっきりした表示がないままヤミに流れたもの 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72~73   
戦後教育・仙台 教育委員会    * 1947年(S22)3月31日、教育基本法、公布・施行
* 1947年(S22)3月31日、学校教育法、公布、翌4月1日から施行
* 1948年(S23)6月19日、国会が、「教育勅語等排除に関する決議」および「教育勅語等の失効確認に関する決議」

<教育委員会 公選制→任命制>
* 1948年(S23)7月15日、教育委員会法、公布・施行(公選制)
* 1948年(S23)11月、宮城県教育委員会発足
* 1950年(S25)11月1日、仙台市議会が仙台市教育委員会設置決議
* 1950年(S25)11月10日、仙台市教育委員選挙、立候補者10名、当選4名(このほかに市議会選出の1名)
* 1950年(S25)12月1日、第1回教育委員会

* 1956年(S31)6月30日、地方教育行政の組織及び運営に関する法律制定、教育委員公選制から任命制へ(首長が議会の同意を得て任命)
* 1956年(S31)10月10日、市長が仙台市教育委員5名を任命 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P340~346  「目で見る仙台の歴史」P182(仙台市教育委員会庁舎) 
敗戦後の諸相・仙台 住宅難    ・ 仙台は、空襲で1万1000余戸が焼失し、相次ぐ復員、外地からの引き揚げ、転入増加で、家無き市民は約2万人超あり、来る冬をいかに過ごすかが切実な問題
・ 緊急措置令(昭和21年8月1日)で、「余裕住宅」の開放呼びかけるも、(知人・親戚を優先させたいのは人情で)9月半ばまでに斡旋できたのはわわずか10世帯のみ
・ 町にはトタン小屋が並び、穴居生活や橋下生活を余儀なくされる市民もいた
・ 住宅難につけいって途方もない家賃もはびこる   
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P74~75   
戦後教育・仙台 道徳の時間/特殊教育/視聴覚教育    <道徳の時間>
* 1958年(S33)月日、学校教育法一部改訂、小中学校に「道徳の時間」特設

<特殊教育>
* 1955年(S30)~1956年(S31)、七郷地区小・中学校に精薄学級開設
・ 仙台市の特殊学級設置経過一覧表(S30~S44)、精神薄弱、肢体不自由、言語障害、病弱、難聴の5種
   → 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P350

<視聴覚教育>
・ 戦後まもなく、アメリカ文化センターの所有のUSIS映画の活用、16ミリ映写機の全学校配布
* 1959年(S34)、仙台市小学校フィルム・ライブラリー設置
・ 学級にテレビ導入し、NHK学校放送番組を活用 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P348~350、361~362  「市民の戦後史(仙台市)」P88(七郷小学校の特殊学級) 
戦後教育・仙台 学校給食    <昭和戦前期>
* 1932年(S7)、経済不況と社会事情による欠食児童対策として開始
* 1940年(S15)、栄養不良児、身体虚弱児対象とした味噌汁給食実施
* 1944年(S19)、全児童対象に雑炊給食開始するも、戦争により中止

<戦後・小学校>
* 1946年(S21)、米軍の放出物資により缶詰給食で再開
* 1951年(S26)2月、全小学校で完全給食体制
* 1954年(S29)、学校給食法
* 1956年(S31)、文部大臣表彰制度実施 / 仙台の7校が文部大臣賞
* 1958年(S33)から、完全給食実施校に栄養士必置制
* 1967年(S42)5月、初の学校給食高砂センター完成(1万5000食、小学校3校・中学校13校に配送)

<夜間定時制高校>
* 1961年(S36)9月、ミルク給食開始
* 1962年(S37)7月、全額設置者負担で夜間給食開始 / S44年5月に図南高校にも実施され、定時制3校で完全給食実施

<中学校>
* 1963年(S38)9月、依託混合乳によるミルク給食開始
* 1967年(S42)5月、学校給食高砂センター完成により、中学校22校中13校が一挙完全給食に移行 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P458~461/「市民の戦後史(仙台市)」P196  「仙台市史 特別編4 市民生活」P106(S19年、戦時中の東二番丁国民学校の学校給食/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P459の写真133(小学校の給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P147(S38年9月、中学校給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P196(学校給食高砂センター(調理場、配送トラック群)/「新・目で見る仙台の歴史」P194、P195(学校給食高砂センター、外観、調理場、カラー) 
敗戦後の諸相・仙台 町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈    <東一番丁へ移される>
・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75) 
【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」

・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。 
 東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。
 一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。
 人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。
 こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。
  三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102   
国民服     ⇒項目「戦時衣料」みよ     
敗戦後の諸相・仙台 歓楽街復活    ・ ヤミ市には戦災者、引揚者が、それぞれ根城をつくり、その日暮らしの設計をたてていたが、禁制のヤミ物資を扱うブローカーたちと進駐軍兵士のために、仙台駅前、苦竹、東一番丁付近などに、まず真っ先に歓楽街が復活した
・ 東八番丁、宮町の遊郭や売春宿も1945年(S20)9月には早くも営業を開始、東一番丁の焼けビルにはアメリカ風のキャバレーが出現して市民の目を奪った 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196   
国民帽     ⇒項目「戦時衣料」みよ     
敗戦後の諸相・仙台 赤線地帯(特殊飲食街)・青線地帯    【「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392】
* 1946年(S21)1月、GHQ指令により「公娼制度」廃止
・ 廃止以前から、酌婦・カフェー女給などが私娼として、飲食店、料理屋、飲食店などで売春を行っていた
・ 仙台市では、細横丁や東八番丁に私娼街ができた

<赤線地帯>
・ 警察は、「社会上やむを得ない悪としてこの種の行為について、特殊飲食店などを指定して警察の特別の取締りにつかせ、かつ特殊飲食店などは風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置すること」(「宮城県警察史」第二巻)と、例外的に特殊飲食店での売春を認めた / いわゆる「赤線地帯」 / 特殊飲食店街は、仙台市の東八番丁や元寺小路にあった / 表面上はあくまで特殊飲食店の女給として正業についていた / 建前上は、あくまで本人の意思に基づき、客との交渉の結果自分で契約した金額であり、4割~6割を自分の収入とし残金を主人に渡した / 特殊飲食店でそれぞれ一室をもらい、寝具を貸与される以外は衣装ほかは自弁で、建前上は自らの意思によって売春を営むという形態に切り替えられた

<青線地帯>
・ 終戦直後の米軍の進駐とともに、内務省指示により、米兵を対象とした「特殊慰安施設(RAA)」が、国分町・芭蕉の辻界隈のビルの中に作られたが、その後閉鎖され、街頭に立ち米兵を相手とするようになった / 仙台駅近くのX橋周辺、榴ヶ岡などに集まる傾向があり、俗称「青線地帯」とよばれた

* 1956年(S31)4月1日、売春防止法施行 / 赤線、青線の灯は消えた

【「番丁詳伝」P159より】
・ 戦前の公娼はGHQ指令でその制度はなくなったが、内務省は通達で特殊飲食店を認め、娼婦の自由意志での営業を許可した
・ 警察は特殊飲食街のある地域を地図上に赤線で囲ったところから赤線と呼ばれる
・ 仙台には、東八番丁、元寺小路の特飲街があった
・ その後、昭和33年4月売春禁止法の実施により赤線の灯は消える 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392/「番丁詳伝」P159   
学徒勤労動員 「戦争のころ 仙台、宮城」より
(3) 軍の3工場に動員された学校リストと作業内容 / 海軍工廠で大爆発 
  <学徒動員先>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹) 
仙台市内の中学校、高等女学校、旧制二高、東北学院高等商学部など14校 / 宮城県内各地の中学校、女学校からも動員 / 機関砲の薬きょう箱詰め、旋盤などに従事 / 女性や少年に禁止されていた深夜作業が1943年(S18)年から復活し、甲班、乙班に分かれ1週間ずつ昼夜交代で働く

・ 海軍工廠(多賀城)
仙台市内の仙台育英、東北学院、常盤木、尚絅のほか、佐沼中、塩釜、若柳、登米、石巻高女など県内各地の生徒が勤務 / 南地区の機銃部、北地区の火工部に分かれ、ゼロ戦の機関砲弾、爆弾、焼夷弾などを製造
・ 海軍工廠(多賀城)装填工場で大爆発(S18年11月23日午後1時すぎ)37人死亡、当時は極秘事項で報道されず

・ 海軍火薬廠(船岡)
旧制二高、東北薬学校、白石中、白石高女、柴田農林、大河原高女、岩沼高女、鹿又高女、角田中、角田高女、佐沼高女、岩手県黒沢尻高女、大船渡専修学校の13校 / 円筒形30キロ爆弾の信管製作 綿火薬製造など / 全身黄燐まみれ、硫酸、有毒ガスなどで健康被害(実例体験談あり) 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P174~175   
敗戦後の諸相・仙台 日陰の花/売春防止    ・ 戦後“パンパン”と呼ばれた女たちは、仙台駅前、X橋周辺、小田原、原町などに多かった / 大部分は18~20歳、中には30~35歳くらいの婦人も / 大部分は性病におかされていた
・ 片平丁にあった“夜の女”の診療所には常時30人前後の患者を収容 / 患者脱走を防ぐため、私服を取り上げ、前と背中にVDと大きなマークの入った旧軍衣類を着せた

* 1958年(S33)3月25日、売春防止法施行(同年4月1日)に先立ち、市内で最後まで残っていた東八番丁の特飲街が一斉廃業
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286   
学徒勤労動員 「戦争のころ 仙台、宮城」より
(4) 首都圏の軍需工場へも動員 / 卒業後も動員 
  <首都圏の軍需工場へ学徒勤労動員>
・ 「昭和19年以降、仙台市内の生徒のうち神奈川、茨城両県に限っても、川崎、横浜、横須賀、湘南、日立などの工場に、男子638人、女子946人の計1584人が動員された」(宮城県教育委員会発行『宮城県教育百年史』)
・ 首都圏に動員された県内の高等女学校は、宮城県第一、宮城県第二、宮城県第三、宮城、尚絅、吉田、朴沢、角田、石巻、石巻実業、白石の11校945人(宮城学院女子大学大平聡教授調べ)、これに旧制の中学校、高等学校生が加わる
・ 首都圏に動員された仙台市内の学校は、仙台一中、仙台二中、仙台中、仙台育英中、栴檀中、県工業学校、仙台工業学校、仙台商業学校、旧制第二高等学校、仙台工業専門学校、県女専、東北学院専門部、東北帝国大学(『仙台市史』)
・ 動員中の死亡例 
日立製作所(茨城県)で、県工業学校生徒5人が米艦からの艦砲射撃で
・ 横須賀海軍工廠へ動員された宮城県第一高等女学校(4年生100名)は、逗子の寮から通い、高角砲の砲弾の弾頭部に火薬を入れたり、航空特攻兵器「桜花(おうか)」の部品づくりに従事
・ 尚絅高等女学校(4年生)約200人は、農家や国民学校に泊まり込んで神奈川県(その前は東京鎌田)の東京計器で飛行機の部品づくり
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P176~177   
戦後復員/引揚げ     * 1945年(S20)12月7日、東北復員監督部、仙台に設置
* 1946年(S21)6月9日、海外引揚者更生連盟結成大会
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着
* 1946年(S21)12月15日、東部復員連絡所仙台支部設立
* 1947年(S22)2月20日、宮城県引揚者生活権確立大会
* 1947年(S22)4月12日、樺太引揚者第1陣60名、仙台駅着
* 1953年(S28)3月28日深更、中国からの引揚第1陣仙台到着
* 1956年(S31)7月、第13次中国帰国船(興安丸)
* 1956年(S31)7月、ハルビン地区関係死亡者名簿、東北地方だけで7405人の氏名が新聞一面を埋める
* 1956年(S31)12月末、最後のソ連引揚1025人、舞鶴に到着 
「仙台市史10 年表」P310、P313、P315、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、P516、P552/「仙台年表」P208/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P273、P282  「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太から引揚第1陣)/同P171と「市民の戦後史(仙台市)」P44(シベリアからの復員軍人仙台駅着)/「市民の戦後史(仙台市)」P26~27(県議会議事堂で引揚促進大会、仙台駅に設けられた引揚者相談所看板、引揚者に茶のもてなし、樺太引揚者) 
五色沼 スケート    ・ 日本のフィギュアスケート発祥の地と言われる
・ 昭和11年現在、仙台スケート協会が管理 / 会員制度だが、臨時使用する場合は20銭

* 1905年(M38)、五色沼で旧制二高生中心のスケート研究行わる(「仙台年表」P181)
* 1909年(M42)、当時(旧制)第二高等学校ドイツ語教授ウィルヘルの指導のもとに、二高生の佐藤幸三、田代三郎、河久保四朗らが五色沼で滑ったのが始まり
* 1922年(T11)1月、第二高等学校(旧制)主催、第1回スケート大会開催
* 1931年(S6)1月14日、五色沼で(初の?)スケート競技会(「宮城県の百年」掲載年表) 
「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73/「仙台年表」P181(出典:佐々久監修「仙台の散策」S49刊)/「宮城県百科事典」P543/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「宮城県の百年」掲載年表  2-08、53-1929-0373-02/「いつか見た街・人・暮らし」P4(五色沼スケート、大正13年)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図8~10/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P83(S39、カラー) 
敗戦後の諸相・仙台 天井知らずの物価/死の抗議    ・ 公定価額では何一つ買えず、すべてにヤミ物価、500円ベースの給料では困窮の極
・ 生活苦にあえぐ引揚者が、鉄道自殺で死の抗議(満州から引揚げた36歳、5人家族の公務員が「給与ではとても食っていけない」と遺書) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77   
国旗掲揚 戦後    * 1945年(S20)8月、太平洋戦争で日本敗戦
* 1945年(S20)、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止
* 1947年(S22)12月27日、GHQ,新年の国旗掲揚を許可
* 1948年(S23)4月1日、GHQ、国民の祝日の国旗掲揚を許すと通告
* 1949年(S24)1月1日、無制限に許可(「重訂 宮城県郷土史年表」P532)

<Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)より>
占領下における日章旗の掲揚禁止、祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、
* 1949年(昭和24年)1月1日、マッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。」

* 1950年(S25)10月17日、文部省、祝日に国旗、君が代をすすめる通達
* 1977年(S52)7月23日、文部省、小学校の学習指導要領で「君が代」を国歌と規定 
「重訂 宮城県郷土史年表」P532/Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)/岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P42、P71   
敗戦後の諸相・仙台 浮浪者    * 1948年(S23)6月、上野を追われた浮浪者は仙台方面に落ち延びて各地を荒らす  菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42   
敗戦後の諸相・仙台 浮浪児/戦災孤児/ホームレス    【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757】より
・ 仙台駅周辺や地下道を根城にして、通行人に金銭やタバコをねだる
・ 人数は40~50人、取締りがあると5、6人に減る / 東京ノガミ(上野)で浮浪児狩りがあると100人、200人に増えることもあった
・ 警察調べ(S23年6月17日午前2時) 計104人、このうち16歳未満が49人、40歳以上も11人 / 各年齢層とも女性が2割だった
・ このほかに、かつぎ屋やいなか回り(集団こじき)で出先に泊まる者が100人以上
・ 夜12時すぎの最終列車のあと、駅の待合室は浮浪児などのねぐらになり、持ち物は茶碗2個とモクヤ(拾ったたばこ)を入れた風呂敷のみだった
・ 香具師、博徒、ヤミ屋の手先に使われ小遣銭を稼ぎ、ゆすり、万引き、スリ、野荒しなどの犯罪を犯し、施設に収容されても、毛布などを失敬して脱走するものが多かった

【「戦争のころ 仙台、宮城」P249】より
・ 仙台駅や駅に近いX橋(エックス橋)脇の東北線名掛丁地下道には戦災で家を失った大人や子供たちがたむろし、通行人に金銭やタバコをねだっていた
・ <仙台市内のホームレス>(昭和23年6月、仙台北警察署調べ)104人で、18歳未満が半数を占め、このうち2割は女性 / ほかにもかつぎ屋や田舎を集団を回るこじきなどが100人以上いた
・ <戦災孤児>(厚生省調べ) 空襲で両親を失ったり、満州から帰還する途中で両親が死亡したりした戦災孤児が、全国で12万2300人、宮城県は1559人
・ 宮城県内では、戦災孤児が231人(仙台空襲で両親死亡や宮城県に学童疎開中に東京大空襲で肉親を失った子など)、引揚げ孤児232人(満州などから引揚途中で両親が死亡)、一般孤児(この意味は不明)1074人、捨てられた孤児22人  
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P249  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P748と「新・目で見る仙台の歴史」P170に、「たむろする浮浪児たち」の写真 
宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 概説    <場所> 勾当台通に面し図書館の北隣
 「写真98-055」(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、商品陳列所と工業試験場の位置が分かる

<名称変遷>  
 1901年(M34)、宮城県物産陳列場 →1921年(T10)、宮城県商品陳列所 →1935年(S10)、宮城県商工奨励館
<建物> 
 1901年(M34)建設 →1923年(T12)か1924年(T13)に改築

<工業試験場>
 1924年(T13)か1925年(T14)に宮城県工業試験場を併設 
  98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年) 
敗戦後の諸相・仙台 小中学生にも流行る「符丁」    ・ パチンコはピストル、ダチコは友達、ヤジコはオヤジ(父親)、オシンはゼニ(銭)、ハイモナイは1銭もない(「仙台市史 続編第1巻」P80にこのほかの主な30例が載る)
・ 香具師仲間の符丁が、終戦後にヤミ屋、露天商などを通じて普及、夜の女、チンピラの日常語となっていたが、これが学校の生徒にも影響
・ 符丁は、日常生活に関する言葉全体にわたっていた 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P79~80   
宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 以下(1)(2)(3)の出典一覧    出典一覧
イ 「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」(国立国会図書館蔵)
ロ 「重訂 宮城県郷土史年表」P323
ハ  七十七銀行「七十七年史」の年表
ニ 「古写真に見る仙台の建築」のP42の写真キャプション
ホ 「仙台市史 年表」 
   
戦災復興(応急対策) 戦災地の跡片づけ    * 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興計画基本方針決まる
* 1946年(S21)2月、清掃事業が戦災復興事業として認められ、最も緊急を要する個所から重点的に清掃を開始
・ 焼け跡では、瓦や石の大部分は街路の路盤の上に、あるいは整地工事に使用など付近地で処理
・ 清掃事業は、市役所、県庁周辺から開始、S20~23年度で、市中心部、のべ94万5537㎡に達した
・「地区内の民間宅地、また公共用地にまだ取り残されているがれきは多く、運搬用トラックも不足していたので、荷馬車と人手による整地工事を兼ねた清掃事業が中心市街地で行われたのは21年度のことで、4か年計画の第2期にあたる年である。」(「番丁詳伝」P164)
・ 焼け跡の片づけは学徒の動員などで進められた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)

<金属類回収>
・ S21年11月~、焼け跡の鉄くず類回収 / 再生可能なものを除き、鉄くず499トン、鉛くず6万5556トンを金属回収統制株式会社に売却 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P312~313/「番丁詳伝」P164/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323  戦災地の跡片づけする市民たちは、「市民の戦後史(仙台市)」P18、「新・目で見る仙台の歴史」P166/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323の「図324」 
戦災復興(応急対策) 住宅応急対策    ・ 戦災者を、焼け残った学校その他の施設に収容(縁故先や他町村へも疎開も多かった)
・ 建築は規模に関係なく知事の許認可を要したが、S21年3月末までで1139戸(平均建坪29坪)、無許可で752戸(同18坪)
・ 県が越冬対策で簡易住宅(6畳、3畳、組み立て式)2000戸計画し実物見本を展示したが、申し込みは約800戸、実際に建ったのはごくわずかだった
・ S21年5月、簡易住宅(賃貸)完成(市営住宅250戸、日本住宅営団750戸
・ S22年5月現在、民間自力建築2073戸、市営住宅350戸、営団住宅1814戸、同胞援護会関係138戸、計4375戸 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P313~314   
敗戦後の諸相・仙台 石炭飢饉で火葬場にも赤信号/銭湯は客急増    <戦後も燃料飢饉>
・ 長町の鉄道操車場付近で、機関車が焚いた石炭の燃え残りを拾う主婦や子供の姿が多くなる
・ 戦災家屋の焼け残りの木材、墓場の塔婆、うっかりすると板塀まで消えて無くなっていた
・ 1946年(S21)12月、冬暖房用の亜炭、輸送力不足で、市は国鉄や各事業所のトラックを借り、足りぬ場合は進駐軍の救援も頼んで輸送した

<火葬場にも赤信号>
・ 仙台の火葬場は北山の市営と新寺小路の会社経営の2か所で、冬は死亡者が日に20人も珍しくない / 石炭配給の中止状態が続き、新寺小路の火葬場では、燃料持参しないと焼いてもらえない事態も発生

<銭湯は客急増>
・ 市の公益浴場、戦前は大赤字経営だったが、S20年は12万人、S21年は16万人が利用
・ 利用料金はS20年は10銭、S21年は一気に35銭に
・ 湯銭にもヤミ値(一般の浴場)あらわれ、S21年当時、正午~2時が1円、2~3時が50銭、3時の営業開始時間からマル公の20銭
・終戦当時は銭湯はたいてい電熱で沸かしたので、停電日は休業、電灯の暗い夜の間は“板の間かせぎ”の絶好の場で、身ぐるみ持ち去られることが多かった 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P82   
戦災復興(応急対策) 上下水道の応急復旧    <上水道>
・ 上水道の給水管破損がひどく、全給水戸数の44%、1万1642戸が被災、漏水量は配水量の58%、給水人口は14万人から8万人に減少

<下水道>
・ 汚水桝や雨水桝にたまった焼け土が排水管に流れ込み、排水機能が一時半減
・ 復旧作業はS20~23年(上水道応急復旧事業)
・ 下水本管の掃除、S21~23年度で一応終了 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P314   
敗戦後の諸相・仙台 隠匿物資の摘発    <隠匿物資> 終戦のどさくさに紛れて、旧軍隊や軍需工場、官庁などでひそかに確保していた物資、それらを無償に近い安値でかき集め倉庫などに保管し、小出しでヤミで売るさばいていた物資を、公正な配給ルートに乗せるべきと摘発

(1) 市会戦後対策委員会が「隠匿摘発監視隊」を編成、各公会や警察とも連絡、場合によっては進駐軍の手を借りて摘発 / 1946年(S21)1月21日、CIC(米第9軍指令部特務機関)が、仙台鉄道局東七番丁材料品倉庫に隠してあった大量の米や酒、大量の貴金属を押収
(2) 1946年(S21)2月、日本共産党宮城地方委員会が、東北戦災者更生団、仙台民主主義連盟と共同で、隠匿物資摘発隊を組織、20数人で南材木町の某倉庫から、警察官立ち合いで、もめん、缶詰など多量の物資を摘発 / 警察は、「不正に隠匿されると思われるものはない」、摘発が住居侵入罪、脅迫罪を構成しかねない点を警告
(3) 1946年(S21)2月、宮城地方生活擁護同盟結成準備会が摘発した物資は、米1723俵(仙台市民2日分の配給量に相当)、小麦770俵、あずき、メリケン粉、ウーメン、乾パン、その他各種の食糧、衣料、燃料などおびただしい量にのぼった
(4) 仙台地方検察局が、日通仙台支店長町営業所の12の倉庫から、水銀など時価1億円相当の隠匿退蔵物資を摘発 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P83~84   
米騒動     * 1918年(T7)8月富山県魚津町の主婦たちから始まった米騒動が、8月15~16日、米価の暴騰に悩む仙台の民衆にも波及した。シベリア出兵の軍用米買い占めなどが原因だった / 仙台の米騒動には、6000~7000人の群衆が参加したとみられ、15日には米穀商や資産家が襲われた。16日にも発生、第二師団の軍隊も出動、実力で鎮圧にあたった。

<仙台の米騒動>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P494~499「米騒動と仙台」に詳述有)
・ 推定のべ6000~7000人の市民が参加
* 1918年(T7)8月11日、廉米払下請願市民大会(五城閣、400名参加) / 東華新聞社長小野平一郎らが主催、外米買入の陳情と売り惜しみへの警告を決議
* 同年8月13~14日、仙台停車場など市内各所の電柱・板塀によびかけビラ
* 同年8月15日夜、西公園、青葉神社、東三番丁、宮城野原、伊勢堂山、仙台停車場前広場、新常磐町と、市内7カ所に市民が参集、約13組の集団をつくり行動、大米穀商、高利貸、酒味噌醤油業など37軒以上に押しかけ、米の廉売、金や在庫米の寄付などを交渉・強要、当時1升42銭の米を25銭から20銭に、味噌醤油の廉売する承諾書の貼紙を出させた / 西公園からは約500名出発、途中各所で演説、名掛丁に達するころには1400名
* 16日、仙台警察署は、盆火を禁止、日没後の禁足令(外出禁止令)を出す / 市は発注した外米を市内各所で1升15銭で廉売、米穀商の多くは約束履行を渋っていた
* 16日夜、西公園から、警官の解散命令を無視して、行動 / 米穀商、高利貸、その他資産家宅で、米・味噌醤油・薪炭の値下げ要求もあったが、貧民救済資金の寄付集めを目的とした行動が多かった / 知事の要請で軍隊(歩兵第4連隊)が出動、市民の集団が大町の藤崎呉服店付近で銃に着剣した兵士と衝突、拘引された市民の奪還に出るなど険悪な状態 / 鉄砲町の高利貸宅で前夜予約した寄付金につき再交渉、主人の態度が曖昧で、数十人が侵入し戸障子を破壊、火の手が上がる(但しこれは稀有な例で、「著しき暴行に至るものなし」(報知新聞)、「彼の細谷を除くの外、破壊を試むることなかった」(公判での検事の論告)のように市民の行動は秩序と分別をは持ったものであった)
* 17日、警官223名、町内青年会・警火組合・在郷軍人会・消防組合など約1200人動員し警戒、歩兵第4連隊、歩兵第29連隊兵士も出動 / 警察は禁足令を出し、前夜までの参加者の検挙強行 / 午後9時ころ、大町の藤埼呉服店前と停車場前広場に、あわせて約1000名の市民集合したが、厳しい警戒態勢の前に解散、騒動は山を越えた
・ 仙台の集団行動は、交渉は代表者が警察官立会の上で直談判し、集団行動の秩序を保っていた / 交渉・決定した米の値段は冒頭以前の標準米価 / 貧民救済基金の寄付要求も資産家から市役所へ寄付金をとほぼ統一した要求と理由を代表者を立てて提示・交渉、寄付金は直接受け取らず、必ず寄付承諾書を書かせている 
「新・目で見る仙台の歴史」P148/「仙台市史 特別編4 市民生活」P494~499  「新・目で見る仙台の歴史」P148(仙台・8月15日の米騒動移動ルート図、新聞記事)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P495(T7年8月、米騒動を伝える「河北新報」、同群衆の移動コース) 
戦災復興事業 土地区画整理    ・ 土地区画整理施工地区は仙台市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)
 / 当初計画(1946年(S21)5月の仙台都市復興都市計画土地区画決定)では土地区画整理面積424haだったが、その後、3回の縮小変更を経て、最終的には293haとなった

・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P339の区画整理地図で、計画区域の縮小経過が確認できる
・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P341~342に、区画整理前後の街路地図あり、街路の変化を対比できる
・ 区画整理前後の地積(道路・公園・宅地など)の変化は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P343の表79
 / 道路面積が11.5%→29.5%、公園1.1.%→6.8%、宅地84.8%→63%へ

<川内地区>
・ 当初計画区域とされた川内地区は、米軍接収(S20年9月~32年11月)されているため、区画整理区域からは除外、日本側に返還後は、国から東北大学、宮城県、仙台市が土地の使用配分を受ける
・ 返還後、東北大学川内キャンパス、市立商業高校、県営スポーツセンター、市立博物館などが建設された 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P338~343   
桜ケ岡公園(西公園)     → 項目「西公園」参照     
大学・短大 東北大学     →項目「東北帝国大学」、項目「東北大学」参照  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532~534   
芭蕉の辻     <芭蕉の辻、名称の初見>(矢島玄亮編著「仙台年表」P32より)
「1668年(寛文8)4月、岩城の俳諧執行者松山房仙台に再遊し芭蕉の辻を詠む。句に『聞よるやはせおをが辻をほととぎす』。これが芭蕉の辻の初見。」

【昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」より】
・ 藩政時代は、仙台城下町の中心(町の区画の中心)で札番所(ふだばんどころ)がおかれ、忠孝条目のほかキリシタン捨馬の制札が掲げてあったので、札の辻(ふだのつじ)と呼ばれた。辻の四隅には城郭風の櫓があった。 

【写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻】
・ 「芭蕉の辻」は、藩政時代から商人町の中心として栄えた国分町(旧・奥州街道)と、青葉城大手門へ通じる大橋へむかう大町の通りが交わる交差点で、明治時代までは仙台で最も繁華だった場所。
・ 辻の四隅に建つ城櫓風(2階建て白壁)の建物(商家)が城下仙台のシンボル的な景観だったが、明治半ばに三隅(北東角、南西角、南東角)を焼失した。
・ その後は、残る北西角の城櫓風建物と、向いあう北東角の洋館(明治36年竣工のドイツルネッサンス式純洋風建築、七十七銀行本店)が、仙台の代表的な景観の1つとして絵葉書やアマチュア写真の対象となったが、いずれも1945年(S20)7月の仙台空襲で周辺一帯と共に灰燼に帰した。

<明治初期の地価>
(「重訂 宮城県郷土史年表」P244、明治6~7年の項より)
「この頃政府は土地の整理を開始し、地籍を設け、地価を定め地券を発行す。 当時仙台の中心地芭蕉の辻は一反に付き三百六十円即ち一坪壱円二十銭。 今の東一番丁は僅かに一反三十円即ち一坪十銭、田地の価格が一反歩金十円乃至二十円なりき」 
矢島玄亮編著「仙台年表」P32/昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」/「写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻」/「重訂 宮城県郷土史年表」P244  「写真データベースの分類A-03 「芭蕉の辻」の全写真(98-02077-18-0199-02222-3320-03など)/「目で見る仙台の歴史」P189(S30年前後の芭蕉の辻)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図5~7(S10年頃、S36年、H8年) 

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