写真データベース
仙台駅 戦後の急造駅舎
仙台駅 戦後の急造駅舎

分類項目 仙台駅(戦後) 
タイトル 仙台駅 戦後の急造駅舎 
写真番号 16-16 
場所 仙台市
映像内容 旧駅舎が仙台空襲(昭和20年7月10日)で焼失し、終戦直前の20年8月上旬に木造バラックの待合室が急ごしらえで建設された。(仙台駅百年史年表P224) / 戦前の1代目、2代目に次ぐ3代目駅舎となる / 屋根も壁面も黒っぽい / 窓がないようだ / 英語入り看板「仙臺驛 SENDAI STATION」は米軍進駐後につけられたのか? / 駅名看板の両脇に突き出た筒状は拡声器か? / 左右の白く見える丸は時計 / 中央の女性はモンペ姿か / 駅前広場には車の姿が無い
撮影年代 1945年(S20)秋~1946年(S21)の間 
撮影年代判定根拠 ①米軍進駐以降
関連情報/参考文献 日本の敗戦は、1945年(昭和20)8月15日 / 米軍の仙台進駐は翌9月半ば 
/ 戦後の「急ごしらえの駅舎」は、分類H-30の写真 91-0291-0391-04 (1945年9月23日、米軍撮影)
備考 渡邊慎也氏談「敗戦後しばらく、国鉄の乗車券発売枚数は駅ごとに決められていた。切符を買うのは一日はかかるものと考えていた。」

<青葉区・鈴木重正さん(大正15年生まれ) 「戦災直後、仙台駅勤務だった父の思い出」> 
 「父が戦災直後(昭和20年)11月に、大船渡線折壁駅長から、仙台駅出札主任に転勤したので、私も東七番丁の鉄道官舎に入り、よく父のところ(職場)に弁当を持って行った。(届けに行った)/(写真の)左側が出札口です。 / 砂利を敷いたままのバラック建てでしたが、(隣の)RTO(進駐軍鉄道輸送指令所  98-099 )は立派でした。                                                                      / よく米兵とパンパンがやって来て切符を売れと迫ったそうで、父は大変苦労しました。不正販売については職員に毎日朝礼で話しそうです。(編者注:注意したという意味か?)                                                            / 空腹で出勤した職員には、オニギリを母が作って準備して食べさせたのです。 父は大河原町の農家出身だったので多少米が手に入りました。 宿舎に来て職員さんは腹ごしらえをしていました。お茶を飲む姿は今も忘れられません。」 
カラー/モノクロ モノクロ 
分類内の通し番号
画像ファイル名 sendai4092 
写真とデータを印刷