項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
軍都・仙台 |
「軍都」と地元経済 |
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P298より
・ 新聞の広告などによると、軍の食料品や馬糧を主にして、燃料、衣料、軍靴などの購入調達が、入札による納入や指定御用達商店を通す方法で行われ、仙台の経済と深くかかわっていた
*******************************************
「仙台市史 特別編4 市民生活」P334(「軍都」と経済より要約)
<兵士や将校の個人的な消費>
・ 日曜祭日、慰労休暇、褒賞休暇などの外出(飲食・映画などの娯楽 / 娯楽は軍人半額料金が多い)
・ 面会人や除隊兵士向けの土産品・記念品の店(菓子店、漆器店、木盃製造販売店などが大町1・2丁目と、鉄砲町方面から仙台駅前に向かって並んでいた)
・ 軍服・軍帽・軍靴・軍鞄・軍用腕時計・双眼鏡など(将校は自前で準備する必要)
<軍による調達>
・ 各隊兵士の食糧、軍馬用飼料(大麦・わら・干し草など)
・ パンや酒・缶詰などの陸軍御用商人もあった
(御用商人は定められた額の保証金を出した)
・ 軍馬の購入(川内の追廻や、扇坂、古川で)
・ 馬丁、調教師、蹄鉄工など募集
<軍による払下げ>
・ 外套・軍服などの古着、廃馬、各隊の下肥などの汲み取り、馬糞などの入札競売
・ 残飯などの払い下げを受ける業者 → 貧民に売る
・ 戦時には、生活に苦しむ軍人留守家族救済のため、軍服類の縫製や修繕を、留守家族が働く施設に発注
☆ 地元商工業界からは軍に、地元産業育成のため地元製品のより積極的な買上げを要望する声が絶えなかったが、その成果は上がらず、昭和期の軍工廠の設立を待つことになる
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P298、P334
|
|
軍都・仙台 |
第二師団御用達の店(軍関係者、兵士がよく利用した店を含む) |
|
<調査中 資料未完成>
<昭和3年刊「東北産業博覧会写真帳」掲載写真に「陸軍御用達」の記載ある店>
・ パリーヤ洋服店(元寺小路101) 看板に「第二師団、偕行社指定」/軍服
・ 高新もちや(南町) 創業1869年(M2)、第二師団各隊御用、宮城師範学校御用 / 「番丁詳伝」P97では、「東一番丁2丁目、創業は奥州街道に沿う南町で明治2年、片平丁に仙台第二高等学校が開校し、さらに仙台に多くの兵舎が建てられてからは多くの若い人たちが名物のお汁粉を求めての門前市をなし「軍隊餅屋」の名でしられており、昔のあんもちの味を続けている。」
・ 日進堂(南町、和洋菓子、パン製造) 陸軍、鉄道局、逓信局、東北大学各学校諸官衙御用達
・ 須賀川酒造仙台支店(荒町26) 陸軍御用
<「番丁詳伝」などから>
・ 大町(通り)は、川内に兵舎が多く並んでときには、兵隊さんの往来で賑わい、除隊記念品を販売する店も目を惹いた(「番丁詳伝」P81)
・ 製麺製造所 日進堂本店(名掛丁)、日進堂増設販売所(新伝馬町)
・ 大平商店(大町2丁目) 酒味噌醤油飴たばこ小間物
・ 大武写真館(東一番丁) 1903年(M36)開業、日露戦争の頃第二師団御用写真館の指定をうけ軍人の来客多く門前市をなす状況(「番丁詳伝」P31)
・ 村上屋餅店(戦前は柳町の大日横丁) 1877年(M10)、創業 / 兵隊さんに人気の店、学生たちの集まりや送別会などでもよく使われた / 大日様をお詣りしての帰りには、必ずお土産にするのが習いという郷土名物おはぎやダンゴが人気 / その後、北目町に移転した
・ やぶや本店(大町2丁目、蕎麦屋)「1890年(M23)に、大町2丁目に移る / 川内の兵舎から外出する兵隊も多く利用した」(「番丁詳伝」P37)
・ 大久そば(東一番丁)「東京風のそばで、旧制仙台二高生や軍人などなじみ客で賑わい、また七夕まつりの日などは客止めをするほど人気の店だった。」(仙台老舗百店史)
・ ブラザー軒(洋食)「特に第二師団関係者が多く利用した」(「番丁詳伝」P36)
・ 武田洋服店 明治初期、大町1丁目で軍の御用商人として、軍服、生地の卸業/M43年、新伝馬町へ/S10年、大町5丁目へ、既製服専門店(「おおまち」P209)
・ 東京屋カバン店 T9年、東一番丁北部で開業/S6年、新伝馬町70に移転(軍隊行李や軍用靴を第二師団や連隊に納入)/S20、戦災で山本丁21へ/S22、大町5丁目へ出店(「おおまち」P210)
・ 横山輪業商会 大正9年創業 / 北海道・東北を販路として東北唯一、全国でも五指に数えられる営業 / 戦前は軍御用となった(「番丁詳伝」P209)
|
・「仙台市史 特別編4 市民生活」P46の図45(仙台市商工業連合会広告)
・「仙台市史 特別編4 市民生活」P47の図46(広告団扇)/「番丁詳伝」P31、P37、P81、P97、P209/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P209~210
|
18-35(村上屋餅店)/61-14 (だい久そば店)/61-19(やぶや本店)/61-21(高新餅屋)/ 62-14(ブラザー軒、軍人客と仲居さんたち)/61-22(日進堂)
|
軍用機献納 |
|
|
「愛国号」は陸軍へ、「報国号」は海軍への献納機 / 昭和7年の「愛国機」1号、2号にはじまり、太平洋戦争中まで、全国の市民、企業、団体などから献納が相次いだ。
* 1932年(S7)4月24日、宮城県民の寄付による軍用機「愛国機2号」の命名式(宮城野原練兵場)
* 1939年(S14)8月20日、海軍への献納機、宮城水産号、命名式(仙台飛行場)
* 1941年(S16)10月5日、愛婦献納機、命名式
* 1944年(S19)2月11日、愛国機仙台市民号、献納
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P431/「仙台市史10 年表」P278、P296、P302、P307/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
参考:陸軍愛国号献納機調査 http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html
その1「愛国1号、2号」http://coah.pro.tok2.com/AvnHistory/article/KF_2011-10.pdf /
海軍報国号献納機調査http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Houkokugou_List1.html
|
民間から献納された海軍機「とうふ号」 80-01
|
婦人標準服 |
|
|
⇒ 項目「戦時衣料」参照
|
|
|
警察(戦前) |
特別高等警察報告 |
|
<宮城県知事事務引継書の「特高警察」の報告(昭和20年)から>
(1) 本土決戦を迎え報道義勇隊結成を計画中
東北軍管区司令部と特高警察が連絡をとり、河北新報社を主体に東京各紙、東北6県の記者を包括した報道義勇隊
(2) 敗戦的和平策動の容疑人物を重点観察中
ドイツの戦線離脱、沖縄戦の急迫、主要都市に対する空襲の激化により、国民の一部に不安、焦燥感を持つ者あり
(3) 拘束中の敵性外国人
・ カトリック元寺小路教会に35人(横須賀海軍警備隊から引き継いだインドネシア人35人~うち1人死亡~、広島県から送られてきた外国人1人)
・ 仙台市畳屋町の教会に26人(敵性修道女26人)
・ このほか、仙台に居住中の外国人は、中国満州人160人、ドイツ人など16人
(4) 朝鮮人の動向
東京、大阪など大都市の空襲で被災や縁故疎開で宮城県内に移住した朝鮮人は546人(うち335人は戦災) / 中には要観察中の者、不良朝鮮人もあり視察、取締りを強化
(5) 移入朝鮮人労務者
国民動員計画に基づく朝鮮人労務者は県内に1442人 / うち、239人は1年間の契約期間満了だが、法令で1年間契約延長となり動揺、逃亡者も予想される / 各種事故増加傾向改善のため、移入朝鮮人が多い塩釜、若柳両警察署に「移入労務者事故防止協議会」設置、事前指導の強化徹底を図っている
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P202
|
|
東一マーケットと中央マーケット |
|
|
・ 東一マーケットは、「仙台東一公設市場」のことで、戦後しばらく、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道東側に面してあった
( → キーワード「仙台東一公設市場」または「東一マーケット」で検索)
・ 一方、東一番丁通り南部(藤崎より南)には、「仙台中央公設市場」(中央マーケット)が道東側に面してあった
( → キーワード「仙台中央公設市場」または「中央マーケット)」で検索)
|
「市民の戦後史」P50、P30
|
東一マーケットは、16-38、16-39 /中央マーケットは、98-013、22-55(右端に写る)
|
警察(戦後) |
警察官 |
|
<全国>
* 1946年(S21)1月16日、警官がピストル携行となる
* 1946年(S21)3月16日、婦人警官(65人が入所式)、4月27日から街頭へ
* 1946年(S21)7月20日、警官のサーベルを廃止
* 1950年(S25)1月10日、警官の拳銃常時携行となる
<宮城県>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P367)
* 1946年(S21)10月、宮城県でも婦人警察官21人採用
(応募は、17~39歳まで、大陸から引揚げてきた未亡人も含め96人が応募) / 12月24日に仙台北警察署に11名、南警察署に6名配属 / 青少年補導が主な活動の場
|
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P36、P44/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367
|
|
仙台市電 |
実現しなかった予定路線 |
|
「大正十五年版・仙台市全図」(川名文明堂)によれば、市電の予定路線として、定禅寺通り~北鍛冶町~青葉神社下、長丁~宮町~東照宮下などの計画もあったことがわかる
|
「番丁詳伝」P118
|
|
ブラザー軒 |
概要 |
|
ブラザー軒は、仙台初の本格的な西洋料理店(高級レストラン)
1) 1901年(M34)か1902年(M35)、新国町で創業
2) 1910年(M43)、東一番丁通りに新築移転するが3年後に焼失
3) その後は森徳横丁で営業
第二師団の将校たちがよく利用したほか、東北帝国大学や仙台高等工業学校の学生たちも送別会や歓迎会などで利用した
|
「東一番丁物語」(柴田量平著)P112/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
|
62-14
|
東北学院 |
参考資料 |
|
<参考資料>
・ 東北学院の沿革は、「東北学院」HPの「沿革」
・ 「東北学院創立七十周年写真誌」P65~P70の「年表 1886年(M19)~1955年(S30)」
・ 「同写真誌」末尾の「年表略図 1886年(M19)~1955年(S30)」
<参照>
・ 東北学院の総合的な沿革は、→項目「東北学院(沿革)」
・ 部門別には
→ 項目「東北学院中学部」
→ 項目「東北学院中学校・高等学校」
→ 項目「東北学院(専門科/専門部/高等学部)」
→ 項目「東北学院大学」
|
|
|
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 |
弁士/トーキー |
|
「文化キネマは東京浅草から弁士を招致して新風を吹き込んだという / 日本初のトーキー映画「マダムと女房」もここで上映 / トーキーが盛んになるにつれ、文化キネマ説明部の弁士は職を失うとストライキを行い、これを他館の弁士たちが応援した」
|
「番丁詳伝」P113
|
|
埋木細工 |
|
|
・ 青葉山・八木山一帯の亜炭層から掘り出される資材を、盆・皿・置物・ブローチなどに加工 / 手工業として藩政時代からつづく
|
「新・目で見る仙台の歴史」P152
|
「新・目で見る仙台の歴史」P152(製作風景)
|
県営宮城野原公園総合運動場 |
各施設の開場 |
|
宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン、昭和20年代半ばに以下のスポーツ施設が完成
* 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場開場
* 1951年(S26)5月、県営宮城野原蹴球場完成
* 1951年(S26)8月10日、県営宮城野原陸上競技場開場
* 1952年(S27)10月21日、県営宮城野原総合運動場庭球場落成(「重訂 宮城県郷土史年表」P557では、8月21日落成)
* 1952年(S27)、県営宮城自転車競技場開場
* 1973年(S48)4月28日、宮城野原公園に総合運動場の標識除幕
|
「仙台市史」P117/「仙台市史10 年表」P323、P328/「仙台市史 年表」P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P542、P551、P557/「続・ 宮城県郷土史年表」P19/Wikipedia「宮城自転車競技場」2020年1月版
|
「目で見る仙台の歴史」P189(運動公園全域空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(同空撮)/「市民の戦後史(仙台市)」P62(S25年5月、空撮)
|
進駐軍(米軍) |
宮城県知事事務引継書(昭和20年)より |
|
【「宮城県知事事務引継書」(昭和20年 生悦住求馬知事→千葉三郎知事)】より
<進駐した米軍部隊>
・ 第8軍第14師団、同砲兵隊、第11空挺師団第187連隊、東部122部隊、第6工作隊
・ 司令官は空挺師団長のスウィング少将
<進駐先>
仙台市、塩釜市、石巻市、松島町、古川町、大河原町、多賀城村
<警備体制>
・ 宮城県警察部655人、応援として岩手県から50人、秋田県から30人
・ 県内28か所に検問所設置、373人を動員して警戒した
<接収された施設>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)、歩兵第4連隊(仙台市榴岡)、陸軍飛行場(仙台市霞目)、陸軍飛行場(岩沼)、海軍松島飛行隊(矢本)などのすべての軍施設
・ 仙台の尚絅女学院、日銀社宅、塩釜の二つの学校、倉庫15棟、仙台市内の富国生命、安田生命、明治生命の各ビル
・ 仙台地方簡易保険局(仙台市北一番丁)は、東北6県の占領行政を監視する第8軍第14軍団司令部がおかれた
・仙台市内の民間住宅60戸(将校用宿舎に)
<編者注>
・この時点では、のちにキャンプ・センダイとなる、第二師団司令部と各部隊兵営(仙台市川内)用地が接収対象に記載されていないようだ
【「戦争のころ 仙台、宮城」P244】に、仙台市川内のキャンプ・センダイ用地(第二師団司令部と各部隊兵営跡)の接収関連の記述あり → 項目「進駐軍(米軍)の小項目「宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地)」参照
**************************************
占領軍に建物を円滑に引き渡すために、仙台市内の中学生、旧制高等学校生、大学生が大勢集められ、「机、いすなどの備品は今日中に市内の郵便局に移すよう」命令された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242)
|
/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240~242
|
|
文学碑など(仙台) |
石川善助の詩碑 |
|
* 1958年(S33)9月27日、詩碑建立 / 愛宕山神社のかたわら、仙台市を一望できる場所にある
「化石を拾ふ。 光の澱む切り通しの中に、童子が化石を捜してゐた。 黄赭の地層のあちこちに、白いうづくまる貝を掘り、遠い古生代の景色を夢み、母の母なる匂ひを嗅いでゐた。 もう日は翳るよ、空に鴉は散らばるよ。 だのに、なほも探してゐる。探してゐる。 外界のこころを、生の始めを、母を、母を」
・ 「番丁詳伝」P104~105に、国分町生まれの詩人石川善助の生い立ち、経歴、詩の世界につき記述あり
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191/「番丁詳伝」P104~105
|
|
進駐軍(米軍) |
予備軍団(第16軍団) |
|
* 1951年(S26)4月13日、GHQ、仙台に予備軍団設置を発表(総司令官アーレン少将)
* 1951年(S26)5月12日、仙台所在の総司令部予備軍団を、第16軍団と改称
|
「仙台市史10 年表」P325/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
|
「市民の戦後史(仙台市)」P74(16軍団長と岡崎市長)
|
仙台市の工業 |
参考文献 |
|
<参考>
(1) 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~697に、戦前(大正~昭和戦前期)、戦後(終戦~昭和43年頃)の仙台市の工場立地、開発計画、工業統計、新産業都市指定にむけての動きなどが記述されている
(2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~697
|
|
進駐軍(米軍) |
24師団 |
|
* 1952年(S27)2月17日、GHQ、朝鮮戦線帰還の米軍24師団、仙台地区に駐留と発表
|
「仙台市史10 年表」P327
|
|
文化勲章 |
宮城県関係受賞者 |
|
* 1937年(S12)2月11日、文化勲章令公布
(昭和12年)本多光太郎 / (昭和19年)志賀潔、(昭和25年)土井林吉(晩翠) / (昭和27年)熊谷岱蔵 / (昭和28年)矢部長克、宇井伯寿 / (昭和30年)増本量 / (昭和31年)村上武次郎 / (昭和33年)野副鉄男 / (昭和43年)黒川利雄
****** 以上、昭和50年まで ******
|
岩波ブックレット「年表 昭和史」P12/「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P545、P560、P569
|
|
仙台市の消防 |
消防団(戦後) |
|
* 1948年(S23)、発足 / 北・南消防団で1470人、腕用ポンプ56台、手引きガソリンポンプ11台
* 1950年(S25)9月、原町、岩切など7分団を支団と改称、定員1800人
* 1957年(S32)3月、9支団を再び分団と改称、地域の事情により水防部も併置
* 1967年(S42)末の消防団組織図(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822)計1654人
・ 北消防団に、1本部13分団
・ 南消防団に、1本部14分団
・ 東消防団に、1本部6分団
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P821~822
|
|
米軍進駐 |
|
|
⇒ 項目「進駐軍」参照
|
|
|
新伝馬町商店街 |
由来 ほか |
|
<仙台市HPより 新伝馬町(しんてんまち)>
「城下町開府当初は日形町と称したが、延宝六~八年(1678~80)の仙台城下絵図からは新伝馬町となっている。国分町、北材木町、北目町と共に四伝馬町のひとつとして栄え、毎月二十六日から晦日までを担当、伝馬十匹を置いた。明治二十年の鉄道開通後も中心街をむすぶ商店街として発展を続けている。」
* 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成
* 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁の順にあとを追い、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116)
<編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に新伝馬町商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける
|
仙台市HPの「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(新伝馬町通り)/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP
|
「市民の戦後史(仙台市)」P102(S32年、中央通り新伝馬町商店街)
|
東北大学 |
学部・大学院・附置研究所等一覧 |
|
最新時点の一覧は、東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」にある https://www.tohoku.ac.jp/japanese/academics/
|
東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」
|
|
高等学校(新制) |
|
|
・ 高等学校は、1948年(S23)4月の学制改革を境に「旧制」と[新制」に区分される
・「旧制」は宮城県内では、(旧制)第二高等学校があったが、1949年(S24)4月に、(新制)東北大学に併合される
・ 1948年(S23)4月の学制改革で誕生する(新制)高等学校は、多くは戦前からの中等学校(旧制中学校、高等女学校、商業学校、工業学校、農業学校などの実家学校)が移行したもので、市立、県立、私立がある
・ 旧制中等学校在校生は、1948年(S23)4月時点の4~5年生が新制高等学校生に移行した
<参考 ~旧制中等学校、戦時中の修業年限短縮~>
* 1943年(S18)1月21日公布、4月施行の中等学校令により修業年限4年間 / 従来の中学校、高等女学校、実業学校の修業年限が5年から4年に短縮された(「仙台市史 続編第2巻」P312) / ただし高等女学校の修業年限を2年、実業学校の修業年限を男子3年・女子2年に短縮することができる
(Wikipedia「中等学校令」2020年5月版)
* 1946年(S21)2月23日、中等学校を5年生に、(旧制)高等学校と大学予科を3年生に復活(「菅家年表」P36)
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P312/Wikipedia「中等学校令」/「仙台年表」P213/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P36
|
|
防空演習(防空訓練) |
甘かった認識 |
|
『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より「甘かった認識」
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。
<防火貯水槽>「戦争のころ 仙台、宮城」P154)
・ 仙台市では310カ所 江戸時代につくられた四ツ谷用水の水路を改修したり、道路わきや神社仏閣の境内に、隣組総出で数多くの貯水槽を設置した。南町には17カ所、土橋通りには10か所。空襲時に消火活動に役立ったという話はあまり聞かず、熱風の中を逃げ回る人たちが顔や体を防火用水に浸け、かぶっていた布団や毛布を水で浸して難を避けた。
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P154
|
16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
|
横断歩道橋 |
|
|
* 1966年(S41)12月、東二番丁通り市立病院前に横断歩道橋完成
|
「市民の戦後史(仙台市)」P181
|
「市民の戦後史(仙台市)」P181
|
本土決戦体制 |
(1)二本柱 |
|
1945年(S20)、
・太平洋戦争末期、米軍の日本本土上陸を想定し、国民を本土決戦に総動員するため
(1)本土防衛のため「部隊」を編成~兵士を大量召集し全国に配置~
(2)郷土防衛のため民間人による「国民義勇隊」を組織
( → 項目「国民義勇隊」参照)
(1)本土防衛部隊
* 1945年(S20)4月、本土防衛の総司令部が設置され「本土上陸を図る敵の4分の1は特攻によって海上で、残りは陸上で撃滅する」基本方針決まる / 全国で250万人の兵士、徴用工を召集し、兵役年齢を45歳に引き上げた(「根こそぎ動員」) / ただし、武器、装備などは不足で全員に行き渡らず
(2)国民義勇隊
* 1945年(S20)5月、国民義勇隊の兵役法公布
・ 全国の国民学校初等科卒業以上(12歳)で、男子は65歳未満、女子は45歳以下を強制的に隊員に加入させ、防空、被害復旧、疎開輸送、食糧増産に動員、「状況急迫した場合には必要地域の国民義勇隊を戦闘などに移転させること」(国民義勇戦闘隊)
・ 敵の本土上陸作戦が始まったら、男子(15~60歳)、女子(17~40歳)を「国民義勇戦闘隊」に編入し、陸海軍の司令官の指揮に従い戦いに参加させる
・ 従来の大政翼賛会や隣組は解散し、国民義勇隊に組み入れられた
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P193、198~199
|
|
本土決戦体制 |
(2)陸軍(七十二師団、百四十二師団 ほか) |
|
<陸軍>
・ 全国を5ブロックに編成(東北、関東甲信越、中部北陸、中国四国、九州) / 東北担当は、第十一方面軍
・ 第十一方面軍
司令部は、仙台市青葉山に地下防空壕、7月までに兵力整備、10月以降は速やかに行動できるよう計画したが、途中で敗戦(8月) / 地下壕の場所は特定できず(2015年に、東北大学付属植物園がけ下(傾斜地)に本格的な地下壕発見、幅1.8mの3本のトンネルや30坪ほどの広い部屋、排水溝もあり)
仙台市川内には、第二師団(仙台師団と改称)の各部隊、防空担当の東北軍管区司令部、など三つの管理、監督機関を設置
・ 第十一方面軍の指揮下に、
☆ 第七二師団(通称:伝部隊 / 福島、宮城両県) 宮城県内では、岩沼・名取・亘理・山元などの学校や公共施設、民家に兵隊が宿泊して作業 / 名取郡では、山間部にトンネルやタコツボ(個人用の小さな塹壕)の陣地構築や道路建設 / 亘理吉田海岸では、杉の丸太を伐採して海岸線に上陸阻止のくいを立てる / 逢隈国民学校では、常磐線の鉄道を守るため高射機関砲の射撃訓練 / 大河原町には野戦病院を設置
☆ 第一四二師団(通称:護仙部隊 / 仙台中心) 司令部は仙台の旧制二高校舎におく / 宮城、福島、山形三県出身者で構成 / 石巻海岸を中心に志津川町から七ヶ浜まで要所要所に壕を掘り機関銃を据え、主要道路には戦車爆破用のタコツボを多くつくる / 訓練内容は、敵戦車に向かって爆弾や地雷を抱いて突っ込む、敵戦車に速射砲発射訓練、小牛田では鉄道空襲に対する防空訓練 / 鹿島台には野戦病院 / 仙台市内の学校、寺には小規模部隊が駐屯し、八木山に壕を掘る、町内の婦人に消防訓練、戦車への体当たり自爆訓練、白兵戦用の短剣術などを教えた
☆ 第一五七師団(八戸)に配置
・ 第十一方面軍の指揮下にはさらにS20年6月に、第二二二師団、第三二二師団、独立混成一一三旅団、独立混成十二連隊を編制
・ 第一四二師団(護仙部隊)入隊者の体験談(武器・装備不足、作業や訓練内容、乏しい食事や寝具)あり(「戦争のころ 仙台、宮城」P195,196)
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P193~197
|
|
高等学校(新制) |
宮城県工業高等学校 |
|
<前史>
* 1916年(T5) 3月、 宮城県立工業学校、米ケ袋広丁に創立(機械電気科,漆工科)
* 1919年(T8)11月、宮城県工業学校と改称
* 1938年(S13)4月、採鉱科、第二本科電気科、第二部機械科設置
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で校舎の約8割焼失
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、宮城県工業高等学校と改称
・ 学科新設(S24年、機械科・電気科・木材工芸科・採鉱科 / S27年、化学工業科)/廃止(S29年、採鉱科)
* 1954年(S29)2月、火災で校舎7棟焼失/S31年迄に校舎再建
・ 学科新設(S34年、電気通信科設置)
・ 学科改称(38年、木材工芸科を工芸科,電気通信科を電子科に改称)(S48年、工芸科をインテリア科とし男女共学にした)
* 1974年(S49)4月、電気・電子・化学工業科を男女共学に
* 1977年(S52)8月、第二運動場取得
* 1978年(S53)10月、体育館竣工
* 1992年(H4)10月、総合実習棟竣工
* 1992年(H4)12月、機械3クラスのうち1クラスを電子機械科に学科転換, 電子科を情報技術科に学科転換
* 1994年(H6)10月、校舎棟竣工
* 1996年(H8)1月、屋外運動場竣工
* 1999年(H11)4月、機械科を男女共学とした
* 2013年(H25)11月15日、創立100週年記念式典挙行
|
「宮城県工業高等学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P509~510
|
|
本土決戦体制 |
(3)海軍/航空部隊 |
|
<海軍の特攻作戦>
・ 牡鹿半島中心に、特攻艇「震洋」、小型潜航艇「海竜」人間魚雷「回天」91隻配備を計画 / ただし、敗戦までに配備されたのは11隻
<航空部隊の対応>
宮城県内の陸海軍航空基地は3か所 / 基本方針は、敵が上陸してきたら全機が特攻となって敵輸送船団に突っ込む / このため(戦力温存のため)、米軍機が来襲(空襲)しても日本軍機は迎撃しなかった
(1) 増田飛行場(現・仙台空港) 戦闘機の「隼(はやぶさ)」「鐘馗(しょうき)」「疾風(はやて)」や偵察機、重爆撃機が多数配備されたが、1945年(S20)6月には1機も姿が見られなくなった(最初は、名取郡愛島国民学校の桜並木の下に「隼」「鐘馗」など3~4機に偽装網をかぶせ分散駐機するなど飛行場近くに疎開 / のちに全機が白石町の森林内に疎開(解体して運搬し現地で組み立てる) / その作業のため約1300人の部隊が、近くの複数の国民学校に分宿
(2) 霞目飛行場の軍用機も、白石町の森林に疎開
(3) 海軍松島航空隊は、米軍B29の出撃地点(マリアナ諸島サイパン島)をほかの陸海軍部隊と共同で空襲計画(剣作戦、烈作戦)に参加予定 / このため戦闘機、爆撃機群が温存されていたが、実施前に敗戦 / 米軍艦載機などからの執拗な攻撃うけるが、敗戦時には、一式陸上攻撃機39機、陸上爆撃機「銀河」36機、艦上爆撃機「彗星」6機など百機以上の航空機が残っていた
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P195、P197~198
|
|
高等学校(新制) |
宮城県工業第二高等学校 |
|
<前史>
* 1943年(S18)4月、「宮城県第二工業学校」、開校(米ケ袋広丁)、県工業学校の校舎と設備を共用、夜間機械科新設
* 1944年(S19)4月、電気科を設置
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、「宮城県工業第二高等学校」と改称(夜間定時制)
* 1993年(H5)、機械科を電子機械科に学科改編
* 1994年(H6)、新校舎が完成し(専用教室・体育館・食堂・図書室など,最新の施設・設備を持つ)
* 1995年(H7)4月、完全給食、女子生徒募集を開始
|
「宮城県工業第二高等学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P510~511
|
|
本土決戦体制 |
(4)学校は、軍や軍需産業が使用 |
|
<学校は、軍や軍需産業が使用>
* 1945年(S20)4月、中学校以上の学校は授業停止、学生生徒は軍需工場などに通年動員となり、学校は陸海軍の施設として使用
・ 第二高等学校=第一四二師団司令部(護仙部隊) / 東北学院高等部=被服廠、海軍人事部 / 同学院中学部=出征部隊編成所、鉄道輸送部隊 / 同学院礼拝堂=特設非常電話局 / 尚絅女学校専攻科=陸軍糧秣廠 / 宮城学院家政科教室=仙台連隊区司令部 / 同各院専攻科教室=日本電気学校工場 / 仙台一中=臨時兵舎 / 仙台二中=陸軍造兵廠工場 / 仙台高等工業学校=仙台陸軍燃料部 / 宮城県女子専門学校=軍需品廠
・ 学校以外では、仙台市役所(現青葉区役所)=東北地方海軍部、仙台地方海軍人事部 / 三越百貨店=防衛通信東北施設部、通信機械資材庫 / 斎藤報恩館=東北方面軍需部 / 日本キリスト教会=海軍経理部
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P197
|
|
高等学校(新制) |
県立盲学校 |
|
<前史>
* 1903年(M36)5月、東六番丁の日本キリスト教会に、「盲人日曜学校」開設
* 1907年(M40)4月、私立東北盲人学校開設(盲人日曜学校閉鎖)
* 1914年(T3)5月、「宮城県立盲唖学校」開校式(外記丁の旧宮城師範構内)
* 1925年(T14)9月、北七番丁に新校舎落成、
* 1935年(S10)8月、東九番丁校舎に移転
* 1937年(S12)3月、「盲部」および「聾唖部」を置き、各部を初等部・中等部に分ける
* 1937年(S12)7月1日、ヘレン・ケラー女史来校
* 1945年(S20)7月21日~10月24日、栗原郡宮野村能持寺に疎開学寮開設
* 1947年(S22)5月26日、フラナガン神父来校
|
宮城県立視覚支援学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P517~518
|
「目で見る仙台の歴史」P185に、「フラナガン神父来校」、「ヘレンケラー女史来校」)
|
名掛丁商店街 |
由来 ほか |
|
<仙台市HPより 名掛丁通り(ナカケチョウ)>
「御名懸組の組士屋敷が置かれたまちである。新伝馬町の東端から東七番丁車町に至るまでの丁をいう。明治二十年の鉄道開通で町内が二分され,駅から西は繁華街となった。駅の東裏には島崎藤村の下宿があり,「若菜集」の作品群が書きつづられた。」
* 1965年(S40)12月、名掛丁商店街アーケード完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1993年(H5)、ハピナ名掛丁の新アーケード完成
|
「仙台市HP」の「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(名掛丁通り)」/仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271
|
99-029、16-28、50-02、22-29、20-30/「市民の戦後史(仙台市)」P47(昭和20年代)/「新・目で見る仙台の歴史」P184(カラー、手前が名掛丁、奥が新伝馬町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図35~36(S26年、H8年カラー)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P371(アーケード、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P11(S29、商店街入口付近)、P52(S35年、俯瞰)
|
仙台市ミートプラント |
|
|
<前史>
* 1909年(M42)、仙台市営屠場開設(市内小田原牛小屋丁)、この施設で、仙台食肉組合が屠殺
・処理頭数(明治は年に1600頭、大正は3000~4000頭、昭和初期で5000頭(1日、牛1頭、豚10頭程度)、昭和20年牛馬あわせて、1700頭)
* 1940年(S15)、市直営、職員7人はそのまま市が引き継ぐ / 汚水は、付近の川(藤川)へ調節放流
<戦後>
駐留米兵の需要、牛豚飼育普及で処理数増
* 1949年(S24)~1950年(S25)ころから、爆発的に増加 / S28年1万超、S30年頃から1万2000~1万4000頭
<ミートプラント>
* 1959年(S34)6月1日、仙台市ミートプラント操業開始(市内中田)/エアカーテンで仕切られた屠場で、すべて流れ作業で屠殺・解体 / S34年度は2万頭で、県内の処理頭数の4割、S40年度に5万頭超
* 1967年(S42)12月、活性汚泥浄化槽建設
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P740に、年度別処理頭数一覧表
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P737~741
|
「目で見る仙台の歴史」P144(牛小屋丁の市営屠場)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P739(市営ミートプラント屠場内部の写真)/「目で見る仙台の歴史」P183(中田のミートプラント外観)/「市民の戦後史(仙台市)」P106と「新・目で見る仙台の歴史」P19と「仙台市史 特別編4 市民生活」P90に、「S30年代、市営ミートプラント内部」
|
松島パークホテル |
|
|
* 1913年(T2)8月15日、開業
・ 松島への外国人観光客誘致のために、東北地方初のリゾートホテルとして宮城県が建設 / 宮城県から借り受けた精養軒(東京)が運営した
・ 松島パークホテルは、景勝松島に建設した木造洋館風の建物で、県の迎賓館ともいえるものです / 占領軍撤退後の昭和44年3月、火災で全焼しています(「戦争のころ 仙台、宮城」P240)
* 1945年(S20)9月、宮城県に進駐した米軍が接収 / ドン准将ら幹部の宿舎となった。(「宮城県史 警察兵事」P249)
* 1969年(S44)、火災で2階を焼失後に撤去された
|
「宮城県史 警察兵事」P249/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240
|
35-01
|
松永正敏中将 |
|
|
第5代第二師団長
* 任期は1906年(M39)7月6日~1912年(M45)2月18日
* 1912年(M45)1月16日、死去
第二師団が朝鮮派遣(駐剳)中に京城(現・ソウル)で死去
* 1912年(M45)、葬儀(仙台・追廻練兵場で)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P351
|
99-077/ 葬儀は、99-011-2、99-103
|
松原街道 |
|
|
・ 古代の官道「東山道」とされ、藩制時代に仙台市中心部と塩釜神社を結んだ塩釜街道の一部
・ 数百本の松並木があったことが名称の由来
・ 松並木は太平洋戦争末期に伐採され、燃料用に供出された
|
河北新報記事(2017年01月11日)「古代の官道 松原街道」
|
34-04/「仙台市史 特別編4 市民生活」P523(戦前の塩釜街道・案内付近)
|
スポーツ大会(昭和戦前期) |
宮城県体操大会 |
|
* 1939年(S14)6月4日、第2回宮城県体操大会(宮城野原)
|
「目で見る仙台の歴史」P166
|
「目で見る仙台の歴史」P166
|
二十人町 |
戦前 |
|
「二十人町」は東北線の東側にある商店街
(仙台駅東口がなかった1952年(S27)夏までは)仙台駅からは、駅西側の駅前通りを北へゆき、すぐの名掛丁角の交差点を東へ右折し、線路を宮城野橋(通称・X橋エックスバシ)で越えるのが経路だった
・ 藩政時代に、仙台城大手筋をそのまま東へ延ばした要の場所に、鉄砲組二十人衆を配し城を守らせたのが町の始まりといわれる
・ 戦前は、釈迦堂の門前町として、また花見で有名な榴ケ岡公園へゆく行楽客で賑わい、明治時代から榴ケ岡に置かれた歩兵第4連隊の兵隊さんや連隊に出入りの人々相手の商売(入隊・除隊時の記念品、食料品、飲食店、菓子屋など)が多く、近くの片倉製糸仙台工場(明治38年開設、昭和31年1月閉鎖)に大勢いた女工さんもお得意さんで、庶民的な町として栄えた
・ 1937年(S12)の日中全面戦争以降は、次第に戦時色が強まるなかで軍事優先の統制経済による物資不足でやむなく店を閉鎖したり、太平洋戦争期には商店主たちが軍需産業へ強制動員されるなど苦難の時代が続いた
・ 1945年(S20)7月の仙台空襲では、商店街の一部を焼失
<二十人町と鉄砲町>
・「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121に、両町の由来、沿革の記述あり
|
「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121
|
写真分類A-05-07二十人町の全写真(34-05、34-06、34-04、75-04、98-142など)/16-04、16-10ほか/「目で見る仙台の歴史」P138に「二十人町教会堂」
|
二十人町 |
戦後 |
|
・ 戦後、昭和20年9月~31年6月に、近くの歩兵第4連隊兵営跡地に米占領軍が駐留(キャンプ・ファウラー)
・ 市中心部が戦災で壊滅した中で二十人町は戦災被害が比較的少なく、駅に近い下町は仙台では有数の活きた町で夜遅くまで活気にあふれたという
・ 商店数はS10年頃が54店、S30年頃が70店
しかし、
* 1952年(S27)、最寄駅の仙石線東七番丁駅(昭和19年に仙台東口駅と改称)が廃止
* 1956年(S31)6月、米軍キャンプ・ファウラーが返還
* 1956年(S31)、片倉工場閉鎖 などで
商店街はそれまでの存立基盤を失うが、S20年代半ば以降、仙台七夕に積極的に参加するなど商店主たちが結束、青年会もS32~35年には七夕仕掛物で毎年、全市商店街コンクールで2等賞を獲得などが明るい話題となった
* 1985年(S60)、再開発事業に着手(「仙台クロニクル」P120)
<二十人町教会>
商店街の真ん中に1895年(M28)年から二十人町教会があった
* 1982年(S57)6月、1909年(M42)建築の教会堂、取壊し始まる
* 1988年(S63)、教会が原町5丁目に移転
|
「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120
|
二十人町の七夕仕掛け物、75-01、75-02/「目で見る仙台の歴史」P189(戦後20年代の二十人町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図67~68(二十人町S32年、H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120(H5、カラー)
|
偕行社 |
|
|
→ 項目「仙台偕行社」参照
|
|
|
街灯(旧・大町五丁目) |
戦後 3灯型 |
|
戦後> 旧・大町5丁目の街灯は1基3灯型だが、戦前とは形が違う
|
|
16-44
|
街灯(停車場前通り) |
戦前 2灯型 |
|
戦前> 1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ)
|
|
99-020、44-10、44-09、64-04
|
国際反戦デー |
|
|
* 1969年(S44)10月21日、東北は7万人参加
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P653
|
|
南町通り(多門通り) |
概要 |
|
・「南町通り」は、仙台駅前から裁判所(戦前は宮城控訴院、戦後は仙台高等裁判所)へ向かう通りで、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路だった
・ 仙台で初めて街路樹が植栽され、歩車道の区別が設けられるなど、大正期から昭和期にかけ整備がすすんだ(「番丁詳伝」P81)
・ 仲見世(南町通り) 大正年間、毎年年末25日頃より、道路真ん中に一間くらいに仕切った板囲いの小屋が両側にできた。(露天商が東京など全国からやってきた)
・ 戦前から、コンクリート舗装されていた
・ 1933年(S8)1月、第二師団(多門師団長)が満州事変から「凱旋」し、これを機に「多門通り」と改称され、1945年(S20)日本敗戦後、再び「南町通り」となった
* 1926年(T15)11月、仙台初の市電が、「仙台駅前」から南町通りを経由し、大橋や川内の第二師団への入口である「大町一丁目」まで開通した
* 1933年(S8)1月、 第二師団(師団長の名を関して、通称多門師団)が「凱旋行進」 / 「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを行進
* 1933年(S8)1月、「多門通り」と改名(「凱旋」を記念して、仙台市会が当時の師団長の名を冠した改名を決議)
* 1945年(S20)7月、 仙台空襲で南町通り周辺一帯も焼失し壊滅的な被害
* 戦後は「南町通り」に復名
* 1953年(S28)月日、南町通り・西公園線の一部の舗装が、日米行政協定による事業として、一気にすすむ
* 1963年(S38)、仙台初の地下ケーブルの水銀灯点灯、歩道の舗装も完成、街路樹もヤナギから唐カエデに植え替えられた(「仙台市史 続編第2巻」P167)
* 1976年(S51)3月、仙台市電廃止
|
「番丁詳伝」P81/「わが心の仙台駅前史」P43/「仙台市史 年表」P103、P106、P130/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167
|
53-91、65-01-01、20-02など分類A-05-06「南町通り」の全写真 / 戦災焼失後の様子は、63-04/「目で見る仙台の歴史」P198(南町通り東五番丁交差点、朝のラッシュ、S30年代前半)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P100(S51、東一番丁角以東、カラー)
|
年中行事(まつり) |
仙台七夕 |
|
* 毎年8月6日~8日開催 → 項目「仙台七夕」を参照
|
|
写真分類E「仙台七夕」の全写真
|
南町通りの電柱(戦前) |
木製 →金属製 |
|
[写真65-01](多門師団凱旋3)をみると、1933年(S8)1月には、このあたりの南側の電柱は木製だった/ その後に、道の南側が金属製の柱にかわる
|
|
65-01、98-037、43-30は木製 / 73-03、53-53、53-91、 53-96、63-04は道の南側が金属製
|
仙台七夕 |
明治・大正期/七つ道具 |
|
【「番丁詳伝」P94~95】
・ 藩政期の諸文書にみる七夕と七夕流しに関する記述あり
・ 仙台七夕が7月6日にからに固定したのは、18世紀中期(六代藩主宗村の時代)からで、月遅れ(8月6日)ながら今日まで継承されている
・ 明治維新の大変革や、日露戦争後の明治30年代末以降、全国的に七夕行事が衰退するが、仙台では女子・家族のまつりとして、町家、屋敷町に守られてその火を消すことはなかった
・ 1894年(M27)、仙台市内に電柱がたてられるようになってから竹飾りは斜めに立てられるようになった、明治40年以降は電気照明もだいぶ利用されている
<七つ道具>
・ 仙台独自の飾りつけ「七つ道具」が確立するのは明治期
・ 七夕線香を飾るのは、昔は遊郭や芸妓屋のあった町に特にみられ、線香を三段に吊るすところもあった
(1)短冊 梶の葉のならいから。シメの変化とも考えられ、歌や願いごとを書き、歌や書の上達を願う。
(2)吹流し 五色の糸の変形。機織りの上達を願うが、この日そうめんを食べ供えた故事からかえられたとも考えられる。願いの糸にかけた願いは3年のうちに叶うという
(3)千羽鶴 吉兆として延命長寿を願う。家族の最年長者の数だけ折られた。
(4)紙衣 一般には白石紙子を使用するが、小袖がそのまま吊るされることもある。病災を身代わりに流す形代の意味をももち、タナバタツメの信仰から生まれた裁縫の上達と、子どもが丈夫に育つようにと祈りながら一番先端に吊るされる。
(5)巾着 富貴を祈りつくられる。
(6)投網 海の幸の豊漁を願い感謝のしるしをあらわす。
(7)屑籠 倹約と始末することの大切さを教える。
|
「番丁詳伝」P94~95
|
|
仙台七夕 |
昭和初期、復活させた商人たち |
|
【「番丁詳伝」P124】
「昔から仙台の代表的なまつりの一つとして有名であった仙台七夕まつりは、明治以降はほそぼそとその伝統を守ってきたもののその衰退はどうしようもなく、特に大正期から昭和にかけての不況の時代、ますます淋しいものとなっていた。仙台七夕の伝統を生かしながら下火になったこの七夕行事に活を入れたのは大町五丁目の人々である。(以下略)」
【「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100】
・ 「昭和に入ってすぐ、その伝統を生かしながら、下火になった七夕行事に喝をいれたのは大町の人々である。 当時大町五丁目共同会会長の佐々木重兵衛は、町内の桜井常吉、三原庄太らに相談。 『不景気退散』の合言葉で、仙台商人の意気をみせようと町内一斉に七夕を飾りつけて、市民から喜ばれたのは昭和2年のことである。」
・ 「昭和3年6月、東北産業博覧会終了後、昨年の七夕を一層盛大にしようと、佐々木重兵衛の提唱を取り上げた仙台協賛会は、連合協議会の案をもって商工会議所に建議し、共同開催で実施することとした。 参加町内を募ったところ、仙台駅前、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、東一番丁、虎屋横丁、立町通り、五丁目新丁、元櫓町など11町会が参加し、八月六日夕四時一斉に飾付けがはじまり仕掛物が披露され、三日二夜にわたる祭典が開幕した。(以下略)」
【「番丁詳伝」P125】
・ 「昭和3年は、11か町会が参加し3日間2夜にわたる復活七夕が開幕、8月6日夕4時から一斉に飾り付けが始まり仕掛け物が披露され3日2夜にわたる復活七夕が開幕、この日は霧さえ立ちこめて今にも雨の降りそうな空模様のなか、しばしば通行整理と交通禁止が行なわれるほどの盛況を呈した。 飾りつけの審査(1~5等)が行われ、大町五丁目が優勝。」
・ 「昭和4年は、8月6日夜を本祭り、7日夜を後祭りとし、前年より4町多い15町会が参加。審査1等には、銀カップの優勝杯と賞金20円、・・・4等5等は5円授与」
・ 「昭和5年には、菖蒲田の外人村、東京、水戸、福島、森岡、青森から団体の繰りこみがあった。道路ごとに南進、北進の一方通行とした。見物客が年毎に増加し臨時列車の運行も」「東一番丁の東一振興会(第一区)では個人審査も行い、軒並み仕掛け物(仕掛け飾り)を飾って話題をまいた。(昭和5年の仕掛け物の具体記述あり)」
|
「番丁詳伝」P124~125/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100
|
戦前・戦後の仙台七夕の写真は、写真分類E-15、E-16、E-17、E-18、E-19
|