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出典/参考資料 |
関連映像 |
歩兵第104連隊 |
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1937年(S12)~1945年(S20) |
・ 1937年(S12)、日中戦争開始後に仙台で急きょ編制された陸軍第十三師団隷下にあり、宮城県人を中心に編制された歩兵連隊
・ 当時、仙台の第二師団は、1937年(S12)4月から満州守備(駐箚)のため不在、仙台に一部残っていた第二師団留守部隊に加え新たに召集された兵士を合わせ十三師団(歩兵第104連隊)が編制され、中国戦線へ送られた
* 1937年(S12)9月9日、動員下令
* 1937年(S12)9月16日、軍旗拝受
* 1937年(S12)9月19日、編制完結
* 1937年(S12)9月24日、仙台から「出征」 上海から徐州、南京、武漢、漢口北部など中国各地を転戦し昭和20年敗戦まで帰還せず
* 1945年(S20)8月23日、衡陽郊外の三板橋にて軍旗奉焼
→ 項目「第十三連隊」参照
【「近代みやぎの歩み」(佐々久・著 1979年)P96】
「(日中戦争勃発で)仙台市内の兵舎は、動員令と出征準備で忙殺され、次々と動員された応召兵士は仙台に集まり、民家に分宿を割り当てられ、多きは一軒に十人にも及んだ。区長や町の世話役は食料をくばり、兵士は軍服を渡され、現役兵が出征すると、ただちに連隊に移り、この応召兵が出征すると、次の民宿応召兵士が入隊する有様であった。」
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾(P685~715)「仙台部隊関連年表」
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28-01(応召後、仙台の民家に分宿した将兵と民家家族たち)
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横断歩道橋 |
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* 1966年(S41)12月、東二番丁通り市立病院前に横断歩道橋完成
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「市民の戦後史(仙台市)」P181
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「市民の戦後史(仙台市)」P181
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仙台市博物館 |
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1961年(S36)/1986年(S61) |
* 1951年(S26)12月、旧仙台藩主伊達家が、伝来の文化財を市に寄贈、覚書を交わす
* 1961年(S36)6月、仙台城三の丸跡に、第1期工事(鉄筋コンクリート2階建)完成(湿気抜きのため、開館は翌S36年10月10日)/ 落成記念特別展覧会「桃山美術名宝展」
* 1963年(S38)第2期工事、1968年(S43)第3期工事完成
* 1969年(S44)4月、増築完成(新館)
* 1986年(S61)3月1日、新装オープン(新博物館)
<「伊達家寄贈文化財目録」発刊>
・ 古文書古記録類約8000点、美術工芸品類約4000点
・ 1965年(S40)12日、古文書編Ⅰ / 1966年(S41)12月、古文書Ⅱ・記録編 / 1968年(S43)6月、美術工芸編
<収集活動>
・「慶長遣欧使節関係資料」(S41、国の重要文化財指定)など郷土関係資料の収集保存
<関連>
(1) 「魯迅の碑」 1961年(S36)12月4日、仙台市博物館前庭に建立、除幕式(発起は、日中友好協会宮城県連合会) / 「重訂 宮城県郷土史年表」P600では、S36年4月に除幕式、魯迅夫人許広平臨席
(2) 「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」 1978年(S53)5月2日、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建 / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている
(3) 「阿部次郎記念散歩道」 1987年(S62)8月21日完成、仙台市博物館起点に1.28km/哲学者・ 阿部次郎東北大学名誉教授(1883~1959年)を記念する散歩道で、石田名香雄総長時代に、生誕百年を記念して大学と仙台市が協力して4kmほどの周回散策路を整備し、「三太郎の小径」と名付けた
(4) 「島野武市長胸像」 1987年(S62)11月6日、博物館前に、建立
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P193~194、P445~447/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P600、P601、P648/「仙台市史 年表」P122、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P81、P203、P228、P232/「日中友好協会宮城県連合会」HP/「市民の戦後史(仙台市)」P217
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P194の写真56(博物館の開館式)、P445の写真128(博物館外観)/「市民の戦後史(仙台市)」P128(完成した博物館外観、収蔵品の「六十二万石の知行状」、二の丸の襖絵)/「市民の戦後史(仙台市)」P129(魯迅の碑)/「新・目で見る仙台の歴史」P150(阿部次郎、同氏句碑)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(展示会場)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(S44年1月、博物館増築完成した建物)
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仙台市ミートプラント |
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<前史>
* 1909年(M42)、仙台市営屠場開設(市内小田原牛小屋丁)、この施設で、仙台食肉組合が屠殺
・処理頭数(明治は年に1600頭、大正は3000~4000頭、昭和初期で5000頭(1日、牛1頭、豚10頭程度)、昭和20年牛馬あわせて、1700頭)
* 1940年(S15)、市直営、職員7人はそのまま市が引き継ぐ / 汚水は、付近の川(藤川)へ調節放流
<戦後>
駐留米兵の需要、牛豚飼育普及で処理数増
* 1949年(S24)~1950年(S25)ころから、爆発的に増加 / S28年1万超、S30年頃から1万2000~1万4000頭
<ミートプラント>
* 1959年(S34)6月1日、仙台市ミートプラント操業開始(市内中田)/エアカーテンで仕切られた屠場で、すべて流れ作業で屠殺・解体 / S34年度は2万頭で、県内の処理頭数の4割、S40年度に5万頭超
* 1967年(S42)12月、活性汚泥浄化槽建設
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P740に、年度別処理頭数一覧表
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P737~741
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「目で見る仙台の歴史」P144(牛小屋丁の市営屠場)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P739(市営ミートプラント屠場内部の写真)/「目で見る仙台の歴史」P183(中田のミートプラント外観)/「市民の戦後史(仙台市)」P106と「新・目で見る仙台の歴史」P19と「仙台市史 特別編4 市民生活」P90に、「S30年代、市営ミートプラント内部」
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松島パークホテル |
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* 1913年(T2)8月15日、開業
・ 松島への外国人観光客誘致のために、東北地方初のリゾートホテルとして宮城県が建設 / 宮城県から借り受けた精養軒(東京)が運営した
・ 松島パークホテルは、景勝松島に建設した木造洋館風の建物で、県の迎賓館ともいえるものです / 占領軍撤退後の昭和44年3月、火災で全焼しています(「戦争のころ 仙台、宮城」P240)
* 1945年(S20)9月、宮城県に進駐した米軍が接収 / ドン准将ら幹部の宿舎となった。(「宮城県史 警察兵事」P249)
* 1969年(S44)、火災で2階を焼失後に撤去された
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「宮城県史 警察兵事」P249/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240
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35-01
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松永正敏中将 |
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第5代第二師団長
* 任期は1906年(M39)7月6日~1912年(M45)2月18日
* 1912年(M45)1月16日、死去
第二師団が朝鮮派遣(駐剳)中に京城(現・ソウル)で死去
* 1912年(M45)、葬儀(仙台・追廻練兵場で)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P351
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99-077/ 葬儀は、99-011-2、99-103
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松原街道 |
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・ 古代の官道「東山道」とされ、藩制時代に仙台市中心部と塩釜神社を結んだ塩釜街道の一部
・ 数百本の松並木があったことが名称の由来
・ 松並木は太平洋戦争末期に伐採され、燃料用に供出された
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河北新報記事(2017年01月11日)「古代の官道 松原街道」
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34-04/「仙台市史 特別編4 市民生活」P523(戦前の塩釜街道・案内付近)
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マナスル登頂成功 |
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1956年(S31) |
* 1956年(S31)5月9日、日本人登山隊がヒマラヤのマナスル登頂(8125m)に成功(マナスル第3次登山隊)
・ 日本人が8000メートル峰の登頂に成功したのは初めてで、この年のニュースだった
・ 特に、槇有恒隊長が仙台出身、(旧制)仙台第二中学校卒業なので、宮城県内ではビッグな話題となった
・ 1956年(S31)7月15日、槇有恒氏を仙台市名誉市民に推挙
・ 1956年(S31)10月13日、文化功労章受章
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「重訂 宮城県郷土史年表」P581、P582/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282
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75-01(七夕仕掛物のテーマとなった)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282の写真91(マナスル峰)/「目で見る仙台の歴史」P186(山を背景にマナスル登山隊記念撮影)/「市民の戦後史(仙台市)」P93(マナスル峰、山頂を仰ぐ登山隊員)
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偕行社 |
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→ 項目「仙台偕行社」参照
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買出し |
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戦時中、戦後 |
* 1942年(S17)11月14日、乗車日指定券を持たぬ者の、週末祭日の旅行を禁止(買出し防止)
* 1943年(S18)、この年の流行語「買い出し」
* 1947年(S22)、この年、飢える都会と農村をつなぐ買出し列車が超満員(「菅家年表」P41)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P29、P31、P41
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「目で見る仙台の歴史」P169に「買い出し列車の混雑」
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国際反戦デー |
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* 1969年(S44)10月21日、東北は7万人参加
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「重訂 宮城県郷土史年表」P653
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南町大火 |
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1919年(T8) |
* 1919年(T8)3月2日未明、南町「電話横丁」北側から出火、折からの強風で南町から東二番丁まで燃えひろがり、12ケ町を焼き払って午前7時半鎮火、明治以降最大の出火災害となった / 仙台郵便局・電話交換局・東北学院中学部校舎・芭蕉館・横浜火災を含む700余戸余が焼失(「仙台市史 続編第1巻」P363では、焼失698戸 / 「仙台あのころこのころ八十八年」P243では、焼失707戸) / この大火で南町は拡幅され大通りとなった
* 1927年(S2)、火災地の道路改修、区画整理工事完了
(良覚院丁、南町、南町通、柳町、柳町通、北目町、北目町通、東一番丁の各町内の、全部または一部)
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「目で見る仙台の歴史」P156/「仙台市史 年表」P98 / 「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P107/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P363~364
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「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P106~107の写真/「目で見る仙台の歴史」P156に「南町大火の焼け跡」
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パーマネント |
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1934年(S9)頃~ |
* 1934年(S9)頃から、一般家庭婦人の間に流行りだす
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P314/岩波ブックレット「年表昭和史」P12
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宮城学院 |
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1886年(M19)~ |
* 1886年(M19)9月18日、押川方義とアメリカ改革派教会のエリザベス・R・プールボーら、宮城女学校を東二番丁に開校
<年表詳細は、以下の小項目を参照>
・ 大項目「高等学校(新制)」の以下の小項目
「宮城学院高等学校(前史)」「宮城学院高等学校(戦後)」
・ 大項目「大学・短大」の以下の小項目
「宮城学院女子大学・短期大学(前史)」「宮城学院女子大学」「宮城学院女子短期大学」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P126
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P126(宮城女学校校舎)/「いつか見た街・人・暮らし」P12(T13.5.23、宮城女学校運動会)
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宮城県沖地震 |
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1978年(S53) |
* 1978年(S53)6月12日、宮城県沖地震 / 震源は仙台市の東方沖約100キロ、マグニチュード7.4、最大震度は仙台市などで5 / 特に仙台市内の被害が大きかった / 死者、仙台で13人 / (仙台市防災会議7月27日まとめ)住家全壊7000、半壊3400世帯
* 1978年(S53)7月13日、仙台市内のガス、31日ぶりに復旧完了(13万6128戸)
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「仙台市史 年表」P131/岩波ブックレット「年表 昭和史」P59/「続・ 宮城県郷土史年表」P82、P83
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「新・目で見る仙台の歴史」P189(1階が潰れたビル、倒壊したブロック塀、押しつぶされた乗用車、散乱した商品)
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税務署 |
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* 1914年(T3)9月20日、「仙台税務署庁舎」、北一番丁・上杉山通に建設し移転
* 1948年(S23)1月、「仙台税務署」を、東二番丁73(旧憲兵跡)に移転
* 1948年(S23)12月、仙台南税務署新設、仙台税務署は仙台北税務署に名称変更
* 1950年(S25)3月、北仙台税務署庁舎を、東二番丁73に新築
* 1970年(S45)3月25日、旧・仙台北税務署跡(森徳横丁と東二番丁通り交差点南西角)に、仙台中央警察署が庁舎建設
(仙台北税務署は、2020年現在、青葉区上杉1丁目1番1号)
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「目で見る仙台の歴史」P150/「仙台市史10 年表」P245/「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P531、P541、P658
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「目で見る仙台の歴史」P150に、仙台税務署庁舎(T3建設)/
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国民学校 |
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1941年(S16)4月~1947年(S22)3月 |
<参考文献>
【「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P305~310】
教育の戦時体制化と国民学校の目的(皇国民の錬成)、教科内容、特色(体錬科武道)、学校行事重視(神社参拝、勤労奉仕、出征、入営兵士の壮行式、戦没者遺骨出迎えなど)について記述
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P266~269】
・ 教育の戦時体制化~国民精神総動員~
・ 皇国民錬成の道場~国民学校~
・ 太平洋戦争下の教育~少国民の覚悟~
・ 教育の崩壊~教室から戦場・工場へ~
* 1941年(S16)4月、小学校を国民学校と改称(義務教育8年間に)
* 1943年(S18)10月5日、仙台市第1回国民学校体育大会
* 1944年(S19)2月16日、国民学校令等戦時特例公布(就学義務を満12歳までに引き下げるなど)
* 1945年(S20)3月18日、「決戦教育措置要綱」閣議決定(国民学校初等科以外の各学校の授業停止)
<空襲で焼失 国民学校・中等学校>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、市中心部の国民学校5校(全焼4校、半焼1校)、旧制中等学校(全焼13校)/ 2学期から、近くの学校校舎の一部などを借用し、二部授業
(→ 具体例は、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318)
<戦後>
* 1947年(S22)4月1日、国民学校令等旧関係諸法令廃止
* 1947年(S22)4月1日、再び小学校と改称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P305~310/「仙台市史 特別編4 市民生活」P266~269/「仙台市史 年表」P111、P113、P114/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/「仙台市史10 年表」P306、P315
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16-58(戦没者遺骨出迎え)、16-63、02-02 /「新・目で見る仙台の歴史」P161(小学生たちが神社で戦勝祈願)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P273(国民学校におかれた小神殿)
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セコイヤの化石 |
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100万年前の第四紀洪積世に死滅したといわれるセコイヤが、霊屋橋(おたまやばし)下の広瀬川の中に、数十本残存しており、天然記念物に指定されている
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「仙台市市史 続編1」P410
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仙台平 |
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1918年(T7) |
* 1918年(T7)、仙台平工場、琵琶首に開業
* 1956年(S31)4月、精好仙台平を重要無形文化財に指定し、甲田榮佑を重要無形文化財保持者として認定
* 1967年(S42)7月20日、人間国宝甲田榮佑「精好仙台平保存館」を建築落成
・ 「仙台平」については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P34に記述あり
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「仙台平」HP/「目で見る仙台の歴史」P151/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P283/「重訂 宮城県郷土史年表」P633
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「目で見る仙台の歴史」P151に、「仙台平工場(大正7年竣工)」/同P105(工房)/「市民の戦後史(仙台市)」P94(制作中の甲田榮佑氏)/「新・目で見る仙台の歴史」P152(織工場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P34(仙台平袴カラー)/同P46(仙台平織工場の看板)
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国民登録/勤労報国隊 |
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1940年(S15)~ |
<青年国民登録>
* 1940年(S15)9月、実施 / 満16歳以上徴兵適齢期以下の男子全部に職能申告を義務付け
<青壮年国民登録>
* その後に範囲拡大し、満16歳~40歳の一般男子、満16歳~25歳の一般女子(未婚)にも適用
<未婚女子の勤労報国隊>
* 1941年(S16)12月、仙台市では、“浮動労力”といわれた未婚女子の勤労報国隊が結成され、第1陣として隊員150人が12月15日、東京の陸軍被服本廠へ送り出され、1年間の長期作業に従事した
* 1943年(S18)、女子勤労報国隊員、仙台市内の女性70人が東京赤羽の陸軍被服本廠に入廠(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
<勤労報国隊>
* 1943年(S18)8月、政府、報国隊整備要綱と実施指導要領を通達 / 「男子は14歳以上50歳まで、女子(未婚)は14歳以上25歳までは、必ず、各職域、地域、団体ごとに編成する報国隊のいずれかに、また在学中の学生・生徒は各学校の報国隊に参加を義務付け / 報国隊を総合・一元的に指導訓練し動員その他を企画するため大政翼賛会県支部に県勤労報国隊本部、各市町村にも本部を置き、各本部長、役職員を置く / 全市民が翼賛体制のワク内にはめ込まれて、軍需産業その他の統制産業、農業、国防土木業、公務などへ動員され、1945年(S20)3月には本土決戦に備える国民義勇隊に移行していった。」
<青壮年国民登録を拡大>
* 1944年(S19)2月、さらに範囲拡大され、男子12歳~60歳、女子12歳~40歳までとなり、無職未婚の女子を残らず動員体制に組み入れた
(以上は、「仙台市史 続編第1巻」P44~45)
<国民義勇隊> → 参照:項目「国民義勇隊」
* 1945年(S20)3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された(「日録20世紀 1945年」P16)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P44~45/「仙台市史 特別編4 市民生活」P366/「日録20世紀 1945年」P16
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国民服 |
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⇒項目「戦時衣料」みよ
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国民帽 |
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⇒項目「戦時衣料」みよ
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戦後復員/引揚げ |
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* 1945年(S20)12月7日、東北復員監督部、仙台に設置
* 1946年(S21)6月9日、海外引揚者更生連盟結成大会
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着
* 1946年(S21)12月15日、東部復員連絡所仙台支部設立
* 1947年(S22)2月20日、宮城県引揚者生活権確立大会
* 1947年(S22)4月12日、樺太引揚者第1陣60名、仙台駅着
* 1953年(S28)3月28日深更、中国からの引揚第1陣仙台到着
* 1956年(S31)7月、第13次中国帰国船(興安丸)
* 1956年(S31)7月、ハルビン地区関係死亡者名簿、東北地方だけで7405人の氏名が新聞一面を埋める
* 1956年(S31)12月末、最後のソ連引揚1025人、舞鶴に到着
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「仙台市史10 年表」P310、P313、P315、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、P516、P552/「仙台年表」P208/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P273、P282
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「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太から引揚第1陣)/同P171と「市民の戦後史(仙台市)」P44(シベリアからの復員軍人仙台駅着)/「市民の戦後史(仙台市)」P26~27(県議会議事堂で引揚促進大会、仙台駅に設けられた引揚者相談所看板、引揚者に茶のもてなし、樺太引揚者)
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戦没者遺骨調査・収集 |
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1953年(S28)~ |
* 1953年(S28)2月、南海調査団派遣
* 1953年(S28)7月、アッツ島玉砕地の遺骨収集
* 1955年(S30)、大成丸のガダルカナル遺骨収集
* 1956年(S31)2月、ビルマの遺骨収集
* 1956年(S31)6月、ニューギニア方面の遺骨収集
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P272、P279、P282
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米騒動 |
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* 1918年(T7)8月富山県魚津町の主婦たちから始まった米騒動が、8月15~16日、米価の暴騰に悩む仙台の民衆にも波及した。シベリア出兵の軍用米買い占めなどが原因だった / 仙台の米騒動には、6000~7000人の群衆が参加したとみられ、15日には米穀商や資産家が襲われた。16日にも発生、第二師団の軍隊も出動、実力で鎮圧にあたった。
<仙台の米騒動>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P494~499「米騒動と仙台」に詳述有)
・ 推定のべ6000~7000人の市民が参加
* 1918年(T7)8月11日、廉米払下請願市民大会(五城閣、400名参加) / 東華新聞社長小野平一郎らが主催、外米買入の陳情と売り惜しみへの警告を決議
* 同年8月13~14日、仙台停車場など市内各所の電柱・板塀によびかけビラ
* 同年8月15日夜、西公園、青葉神社、東三番丁、宮城野原、伊勢堂山、仙台停車場前広場、新常磐町と、市内7カ所に市民が参集、約13組の集団をつくり行動、大米穀商、高利貸、酒味噌醤油業など37軒以上に押しかけ、米の廉売、金や在庫米の寄付などを交渉・強要、当時1升42銭の米を25銭から20銭に、味噌醤油の廉売する承諾書の貼紙を出させた / 西公園からは約500名出発、途中各所で演説、名掛丁に達するころには1400名
* 16日、仙台警察署は、盆火を禁止、日没後の禁足令(外出禁止令)を出す / 市は発注した外米を市内各所で1升15銭で廉売、米穀商の多くは約束履行を渋っていた
* 16日夜、西公園から、警官の解散命令を無視して、行動 / 米穀商、高利貸、その他資産家宅で、米・味噌醤油・薪炭の値下げ要求もあったが、貧民救済資金の寄付集めを目的とした行動が多かった / 知事の要請で軍隊(歩兵第4連隊)が出動、市民の集団が大町の藤崎呉服店付近で銃に着剣した兵士と衝突、拘引された市民の奪還に出るなど険悪な状態 / 鉄砲町の高利貸宅で前夜予約した寄付金につき再交渉、主人の態度が曖昧で、数十人が侵入し戸障子を破壊、火の手が上がる(但しこれは稀有な例で、「著しき暴行に至るものなし」(報知新聞)、「彼の細谷を除くの外、破壊を試むることなかった」(公判での検事の論告)のように市民の行動は秩序と分別をは持ったものであった)
* 17日、警官223名、町内青年会・警火組合・在郷軍人会・消防組合など約1200人動員し警戒、歩兵第4連隊、歩兵第29連隊兵士も出動 / 警察は禁足令を出し、前夜までの参加者の検挙強行 / 午後9時ころ、大町の藤埼呉服店前と停車場前広場に、あわせて約1000名の市民集合したが、厳しい警戒態勢の前に解散、騒動は山を越えた
・ 仙台の集団行動は、交渉は代表者が警察官立会の上で直談判し、集団行動の秩序を保っていた / 交渉・決定した米の値段は冒頭以前の標準米価 / 貧民救済基金の寄付要求も資産家から市役所へ寄付金をとほぼ統一した要求と理由を代表者を立てて提示・交渉、寄付金は直接受け取らず、必ず寄付承諾書を書かせている
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「新・目で見る仙台の歴史」P148/「仙台市史 特別編4 市民生活」P494~499
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「新・目で見る仙台の歴史」P148(仙台・8月15日の米騒動移動ルート図、新聞記事)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P495(T7年8月、米騒動を伝える「河北新報」、同群衆の移動コース)
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戦災復興都市計画事業 |
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計画策定 |
<仙台空襲で壊滅的被害>
* 1945年(S20)7月10日、米軍機による仙台空襲で、仙台市中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失 / 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」(仙台市開発局『仙台市戦災復興誌』 1981年)
・ 焼失1万1900戸(全戸数の4割)、5万7000人が家を失う(「戦争のころ 仙台、宮城」P220)
→ 当サイトの項目「仙台空襲」参照
<県による復興計画>
* 1945年(S20)12月、宮城県復興建築課を新設、復興計画始動
・対象地域
① 戦災に遭った仙台市中心部 ②川内の旧陸軍用地 ③一部が戦災に遭った米ケ袋
川内は、米軍の要求で中止、米軍に接収され、「キャンプ・センダイ」用地となる
米ケ袋も見送られて、事業が行なわれたのは市中心部だけ
・事業総面積 290ha(皇居の2.5倍)
・区画整理方式のため、仙台の減歩率25%(自分の土地の4分の1を事業のため提供)
<仙台市が県の計画を引き継ぐ>
* 1946年(S21)4月、仙台市復興委員会発足(市議24人全員、学識経験者20人)設置
・23人の常任委員会で週1回のペースで街路、公園の予定地を訪れ検討し決定(例:東一番丁通りは8mを15mに拡張)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P220、P250~251
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桜ケ岡公園(西公園) |
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→ 項目「西公園」参照
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桜ケ岡大神宮 |
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1875年(M8) |
* 1875年(M8)5月、元柳町の神明社が県社となり、桜岡大神宮と改称 / 桜ケ岡公園(西公園)内にある
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「仙台市史 年表」P81
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宮沢の一銭橋 |
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1880年(M13) |
* 1880年(M13)までは渡し舟だった / その後、渡し守が私設の有料橋をかける(30cm位の木製の板、2枚を並べた橋で、川の増水時には取り外しができるようになっていた)
・ 通行料が3文だったが、終わりころには1銭になったので通称「1銭橋」と呼ばれていた(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
・ 渡し守の家は根岸川の高台にあった
・ 広瀬川に架かる宮沢橋の前身
* 1938年(S13)7月、仙台市会、林吉次郎の宮沢橋仮橋寄付を採択す(「仙台市史10 年表」P293)
→このあとは、項目「宮沢橋」を参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P409/「仙台市史 続編1」P409/「仙台あのころこのころ八十八年」P135/「仙台市史 別冊2」P825、P831/
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06-03、53-109/「仙台市史 特別編4 市民生活」口の絵図23
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宮沢橋(広瀬川) |
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1946年(S21)/1949年(S24)/1955年(S30) |
項目「宮沢の一銭橋」よりつづく
* 1946年(S21)7月12日、宮沢橋落成(着工は4月31日) / 本格的な木造橋が「一銭橋」の100m程上流に架けられた(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1947年(S22)4月31日、一銭の渡り賃で「一銭橋」の異名のあった宮沢橋が木造橋に架け替えの起工式(「仙台市史 続編2」P825)
* 1948年(S23)アイオン台風と、1950年(S25)に、広瀬川が氾濫し、被害をうける
* 1949年(S24)7月17日、宮沢橋落成(「仙台市史 続編2」P831)
* 1949年(S24)、宮沢橋、堰場・根岸間に復旧架設(「重訂 宮城県郷土史年表」P539)
* 1955年(S30)8月、元の渡し場付近に、今(1995年現在)の宮沢橋が完成(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1990年(H2)8月、宮沢橋付近で、広瀬川の灯篭流し復活(13年ぶり)(「続・ 宮城県郷土史年表」P268)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P409/「仙台市史 続編2(経済文化編)」P825、P831/「仙台あのころこのころ八十八年」P135/「重訂 宮城県郷土史年表」P539/「続・ 宮城県郷土史年表」P268
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99-110、06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図24(H8年)
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芭蕉の辻 |
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<芭蕉の辻、名称の初見>(矢島玄亮編著「仙台年表」P32より)
「1668年(寛文8)4月、岩城の俳諧執行者松山房仙台に再遊し芭蕉の辻を詠む。句に『聞よるやはせおをが辻をほととぎす』。これが芭蕉の辻の初見。」
【昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」より】
・ 藩政時代は、仙台城下町の中心(町の区画の中心)で札番所(ふだばんどころ)がおかれ、忠孝条目のほかキリシタン捨馬の制札が掲げてあったので、札の辻(ふだのつじ)と呼ばれた。辻の四隅には城郭風の櫓があった。
【写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻】
・ 「芭蕉の辻」は、藩政時代から商人町の中心として栄えた国分町(旧・奥州街道)と、青葉城大手門へ通じる大橋へむかう大町の通りが交わる交差点で、明治時代までは仙台で最も繁華だった場所。
・ 辻の四隅に建つ城櫓風(2階建て白壁)の建物(商家)が城下仙台のシンボル的な景観だったが、明治半ばに三隅(北東角、南西角、南東角)を焼失した。
・ その後は、残る北西角の城櫓風建物と、向いあう北東角の洋館(明治36年竣工のドイツルネッサンス式純洋風建築、七十七銀行本店)が、仙台の代表的な景観の1つとして絵葉書やアマチュア写真の対象となったが、いずれも1945年(S20)7月の仙台空襲で周辺一帯と共に灰燼に帰した。
<明治初期の地価>
(「重訂 宮城県郷土史年表」P244、明治6~7年の項より)
「この頃政府は土地の整理を開始し、地籍を設け、地価を定め地券を発行す。 当時仙台の中心地芭蕉の辻は一反に付き三百六十円即ち一坪壱円二十銭。 今の東一番丁は僅かに一反三十円即ち一坪十銭、田地の価格が一反歩金十円乃至二十円なりき」
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矢島玄亮編著「仙台年表」P32/昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」/「写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻」/「重訂 宮城県郷土史年表」P244
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「写真データベースの分類A-03 「芭蕉の辻」の全写真(98-020、77-18-01、99-022、22-33、20-03など)/「目で見る仙台の歴史」P189(S30年前後の芭蕉の辻)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図5~7(S10年頃、S36年、H8年)
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学校教練 |
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⇒ 項目「軍事教練」参照
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渇水 |
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1973年(S48) |
* 1973年(S48)8月、仙台管区気象台始まって以来の干ばつ
/8月21日、水不足で仙台市、塩釜市で給水制限/8月22日、阿武隈川水系の32工場に50%排水カット命令/8月27日、釜房ダム渇水で仙台市給水制限、県は干ばつ被害約36億円、水稲全滅は600haと発表/8月、大倉ダム渇水
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「続・ 宮城県郷土史年表」P22
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河北新報社 |
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1897年(M30)~ |
* 1897年(M30)1月17日、 一力健治郎が「東北日報」を買収し「河北新報」 創刊
* 1934年(S9)、東北美術展開催 / 以後毎年(戦時中の4年間を除き)「河北美術展」を開催
* 1942年(S17)7月、全国の新聞は中央各紙を含め一県一紙に整理統合、(宮城県では河北新報に統合)
・ 「内務省は言論統制を容易にするため全国の新聞社の整理統合に取り掛かりました。新聞用紙の配給を武器に、力の弱い新聞の廃刊や合併による統合を進めたのです。
その結果、東京、大阪、名古屋、福岡は複数の新聞を認めましたが、ほかの道府県は一県一紙となりました。
宮城県警察部特高課が知事に提出した報告「県内には日刊の新聞社が13社あり、整理統合を断行し昭和17年1月31日をもって一県一紙(河北新報)実現す。ほかにも108社の新聞社、出版社があり最終的に19社を目標にしている。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P110)
* 1944年(S19)3月、「河北新報」夕刊廃止
・ 「S20年春、地方紙は共同印刷となり、宮城県では、河北新報社が読売報知、毎日新聞、朝日新聞の題字を併記した新聞を制作した。用紙不足から2ページ、日によってはタブロイド版2ページの時もあった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P200)
* 1945年(S20)8月1日、河北新報社に診療所を設く(はじめ内科、次いで外科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科)
* 1946年(S21)9月28日、社内に夕刊東北新聞社設立し、10月1日から日刊新聞「夕刊とうほく」発行
* 1950年(S25)10月、「夕刊とうほく」と「河北新報」併合
* 1951年(S26)9月1日、河北夕刊を発行
* 1951年(S26)11月3日、河北文化賞創設
* 1960年(S35)月日、「さくら号」(ジープ)地球一周(南北アメリカ)に出発
* 1988年(S63)9月14日、河北新報社、新社屋完成
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「仙台市史 年表」P90/「重訂 宮城県郷土史年表」P501、P505、P513、P545、P551、P552、P595/「続・ 宮城県郷土史年表」P251/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P257/「番丁詳伝」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P110、P200
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「目で見る仙台の歴史」P132に、「河北新報創刊号と初代社長一力健治郎」/「目で見る仙台の歴史」P161に「河北美術展」/同P187に「河北文化賞」受賞者記念写真(小倉強、海鋒義美氏ら)/同P193(河北新報社と東北放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P127(仙台に帰還したさくら号スタッフ、山中をゆく「さくら号」)/25-10、25-09、25-08/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P39(S33年 空撮)
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明治百年 |
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1968年(S43) |
明治元年から100年経過した1968年(昭和43年)、国内各地で記念行事や催しが開催された
* 1967年(S42)6月21日、明治百年記念として台原森林公園(59ha)開設きまる(全国10カ所に開設する施設のひとつ)
* 1968年(S43)10月23日、明治百年記念式典
* 1968年(S43)10月、仙台市が記念植樹式
* 1973年(S48)4月、台原森林公園開園
→ 項目「台原森林公園」参照
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62/「市民の戦後史(仙台市)」P211
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53-125(仙台七夕 明治百年に因んだ飾り)/「市民の戦後史(仙台市)」P211(市が記念植樹)
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紙芝居 |
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「新・目で見る仙台の歴史」P178(駅前・紙芝居を見る子供たち
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木炭バス(仙台) |
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1946年(S21) |
写真「仙台駅前を走る木炭バス(9月24日)」
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91-21、 91-24
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幹線道路 |
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・ 自動車専用道(高速自動車道など)→ 項目「自動車専用道」参照
・ 国道は → 項目「国道45号線」、項目「国道48号線」
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森天祐堂 |
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昭和初期~ |
* 昭和はじめ、文化横丁で開店(店主・森権五郎氏は明治34年生) / 文化キネマ(大正14年に開館した映画館)に隣接し、ブロマイド専門店だった
* 1933年(S8)、東一番丁大通りへ移転
* 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
* 1945年(S20)夏、空襲後、いちはやく東一番丁で店再建(バラック → 木造)
* 青葉通り開通(S25)後、店は東一番丁・青葉通り北東角になった
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森天祐堂(森つきサン)談/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197
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戦前は53-28 / 戦後は、53-05、53-06、53-07、53-10
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パテー館 |
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→ 項目「松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場」参照
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花火大会 |
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* 1967年(S42)8月、広瀬河畔の花火大会、交通事情などでこの年限りで廃止
* 1970年(S45)8月5日、仙台七夕で、花火大会初開催
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「市民の戦後史(仙台市)」P201/仙台市史 年表」P127
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「市民の戦後史(仙台市)」P201(S42年、広瀬河畔の花火大会)
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本土決戦体制 |
(1)二本柱 |
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1945年(S20)、
・太平洋戦争末期、米軍の日本本土上陸を想定し、国民を本土決戦に総動員するため
(1)本土防衛のため「部隊」を編成~兵士を大量召集し全国に配置~
(2)郷土防衛のため民間人による「国民義勇隊」を組織
( → 項目「国民義勇隊」参照)
(1)本土防衛部隊
* 1945年(S20)4月、本土防衛の総司令部が設置され「本土上陸を図る敵の4分の1は特攻によって海上で、残りは陸上で撃滅する」基本方針決まる / 全国で250万人の兵士、徴用工を召集し、兵役年齢を45歳に引き上げた(「根こそぎ動員」) / ただし、武器、装備などは不足で全員に行き渡らず
(2)国民義勇隊
* 1945年(S20)5月、国民義勇隊の兵役法公布
・ 全国の国民学校初等科卒業以上(12歳)で、男子は65歳未満、女子は45歳以下を強制的に隊員に加入させ、防空、被害復旧、疎開輸送、食糧増産に動員、「状況急迫した場合には必要地域の国民義勇隊を戦闘などに移転させること」(国民義勇戦闘隊)
・ 敵の本土上陸作戦が始まったら、男子(15~60歳)、女子(17~40歳)を「国民義勇戦闘隊」に編入し、陸海軍の司令官の指揮に従い戦いに参加させる
・ 従来の大政翼賛会や隣組は解散し、国民義勇隊に組み入れられた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P193、198~199
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市民利用施設 |
(1)全市対象公共施設 |
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<参照> 仙台市の全市対象公共施設一覧と最新情報は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち、「スポーツ施設」「公園・野外活動施設」「図書館」「その他の文化施設」「高齢者施設」「障害者施設」
http://www.city.sendai.jp/kurashi/shisetsu/kokyo/index.html
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「仙台市」HPの「公共施設案内」
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(1)宮城県物産陳列場 |
1901年(M34)~1921(T10) |
<開設年>
* 1901年(M34)11月7日、宮城県物産陳列場が開場
・ イ →「物産陳列場は、M34年11月7日開場式、陸軍東北大演習御統監のため明治天皇来仙にあわせた」
・ ロ →「宮城県物産陳列場はM34年建設」
・ ハ →「M34年11月7日設置」
・ ホP91 →「M34年11月7日、宮城県物産陳列場、県庁南隣に新築開場」
<参考>
「近代日本〈陳列所〉研究」
(三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)(国立国会図書館蔵)には、
・ M25年~31年3月に芭蕉の辻商館3階におかれた「物産陳列場」
・ 勾当台の「物産陳列場」「商品陳列所」につき記述
(原典は仙台市史)
・ 各写真と「商品陳列所の平面図」あり
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」/ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P323 /ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)/ホ「仙台市史 年表」P91/「近代日本〈陳列所〉研究」 (三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)
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改築前の「物産陳列場」は、99-090/ 「東宮行啓記念宮城県写真帖」1908年にもある
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市民利用施設 |
(2)地区市民センター |
1972年(S47)~ |
・ およそ1500㎡程度の、集会施設、体育施設(会議室、和室、体育館、遊戯室、娯楽室、図書室など)がある多目的施設
・ 公民館、保健センターと併設の場合もある
* 1972年(S47)、鶴ケ谷市民センター、東部市民センター建設
・ 1996年(H8)7月現在、市内に50館
<参照> 「市民センター」一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち「仙台市市民センター」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469~470
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469(鶴ケ谷市民センターの利用案内)
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(2)宮城県商品陳列所 |
1921年(T10)~1935年(S10) |
<名称の変更年>
* 1921年(T10)11月11日、宮城県物産陳列場を宮城県商品陳列所に改称
(編者注: 以下のハの改称年は間違い)
・イ →「物産陳列場をT10年11月に商品陳列所と改称、発明部と図案部を設置」
・ロ → 「T10年11月に宮城県商品陳列所と改称」
・ハ → 「T14年11月に商品陳列所に改称」
・ホP100 → 「T10年11月11日、宮城県物産陳列場、宮城県商品陳列所に改称」
<建物の改築年><工業試験場併設年>
* 1923年(T12)か1924年(T13)、商品陳列所の建物を改築
* 1924年(T13)か1925年(T14)、宮城県工業試験場を併設
・イ → 「建物はT11年改築開始し、構内に「県工業試験場」併設しT13年落成」
・ニ → 「T12年建築、宮城県物産陳列所、木造2階建」
(編者注:商品陳列所の間違いと思われる)
・ホP103 → 「T14年8月8日、宮城県商品陳列所に設置された宮城県工業試験場の落成披露式」
<位置図>
「写真98-055」(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」
ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P382
ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)
ニ、「古写真に見る仙台の建築」のP42
ホ、「仙台市史 年表」P100、P103
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・「目で見る仙台の歴史」P139に、「県内初の自動車の背景に物産陳列所(明治末期)」
・改築後の建物は、
(1) 写真22-36
(2)「宮城県の百年」P36に、「宮城県図書館」と「改築後の物産陳列場」の写真
(3)「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P42
(4)「宮城県商品陳列所年報 昭和3年度」
(5)「市民の戦後史(仙台市)」P20
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本土決戦体制 |
(2)陸軍(七十二師団、百四十二師団 ほか) |
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<陸軍>
・ 全国を5ブロックに編成(東北、関東甲信越、中部北陸、中国四国、九州) / 東北担当は、第十一方面軍
・ 第十一方面軍
司令部は、仙台市青葉山に地下防空壕、7月までに兵力整備、10月以降は速やかに行動できるよう計画したが、途中で敗戦(8月) / 地下壕の場所は特定できず(2015年に、東北大学付属植物園がけ下(傾斜地)に本格的な地下壕発見、幅1.8mの3本のトンネルや30坪ほどの広い部屋、排水溝もあり)
仙台市川内には、第二師団(仙台師団と改称)の各部隊、防空担当の東北軍管区司令部、など三つの管理、監督機関を設置
・ 第十一方面軍の指揮下に、
☆ 第七二師団(通称:伝部隊 / 福島、宮城両県) 宮城県内では、岩沼・名取・亘理・山元などの学校や公共施設、民家に兵隊が宿泊して作業 / 名取郡では、山間部にトンネルやタコツボ(個人用の小さな塹壕)の陣地構築や道路建設 / 亘理吉田海岸では、杉の丸太を伐採して海岸線に上陸阻止のくいを立てる / 逢隈国民学校では、常磐線の鉄道を守るため高射機関砲の射撃訓練 / 大河原町には野戦病院を設置
☆ 第一四二師団(通称:護仙部隊 / 仙台中心) 司令部は仙台の旧制二高校舎におく / 宮城、福島、山形三県出身者で構成 / 石巻海岸を中心に志津川町から七ヶ浜まで要所要所に壕を掘り機関銃を据え、主要道路には戦車爆破用のタコツボを多くつくる / 訓練内容は、敵戦車に向かって爆弾や地雷を抱いて突っ込む、敵戦車に速射砲発射訓練、小牛田では鉄道空襲に対する防空訓練 / 鹿島台には野戦病院 / 仙台市内の学校、寺には小規模部隊が駐屯し、八木山に壕を掘る、町内の婦人に消防訓練、戦車への体当たり自爆訓練、白兵戦用の短剣術などを教えた
☆ 第一五七師団(八戸)に配置
・ 第十一方面軍の指揮下にはさらにS20年6月に、第二二二師団、第三二二師団、独立混成一一三旅団、独立混成十二連隊を編制
・ 第一四二師団(護仙部隊)入隊者の体験談(武器・装備不足、作業や訓練内容、乏しい食事や寝具)あり(「戦争のころ 仙台、宮城」P195,196)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P193~197
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市民利用施設 |
(3)コミュニティーセンター |
1975年(S50)~ |
・ およそ300~500㎡規模、主に集会施設、和室、図書室など
・ 地区住民活動の場で建設段階から市民参加で施設内容を決め、運営管理も住民組織が自主的に行う(住民団体代表など40~80名の市民委員会を設置し、実際の運営は、委員会で選ばれた運営委員会が行う
* 1975年(S50)、上野山コミュニティーセンター(上野山市民の家)、若林コミュニティーセンター(若林会館)開館
・1996年(H8)7月現在、市内のコミュニティーセンターは48か所
<参照> 「コミュニティーセンター」一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち「コミュニティーセンター」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470(上野山コミュニティーセンターの上野山市民まつり)
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(3)宮城県商工奨励館 |
1935年(S10)~1941年(S16) |
<名称変更年>
* 1935年(S10)2月8日、宮城県商品陳列所を宮城県商工奨励館と改称(出典:「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」)
・イ →「昭和10年2月8日、宮城県商工奨励館と改称」
・その他の資料から
1) 宮城県商品陳列所があった位置に、昭和11年地図では「商工奨励館」がある
2)仙台市大観(東北産業協会 昭和10年4月印刷、5月発行)P5の市内官公衛一覧には「宮城県商品陳列所」
3)「仙台の産業と観光」(仙台市役所、昭和11年刊)P87の官公署其他の表に、宮城県商工奨励館(勾当台通)があり、商品陳列所がない
* 1941年(S16)2月、商工奨励館、物産陳列を廃止(「仙台市史10 年表」P300)
* 1944年(S19)12月10日、旧商工奨励館と日本発送電東北支店などが全焼(「仙台市史10 年表」P308)
<建物は>
・ 宮城県商品陳列所の建物を引継ぐ
「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)(国会図書館蔵)の記述「宮城県産業奨励館は県産品、発明品、参考品を多数陳列し、毎年観覧者12~13万人、東京、大阪に販売斡旋所を設置」 (編者注:商工奨励館の間違いと思われる)
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イ、「宮城県商工奨励館年報昭和10年度」(国会図書館蔵)/「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)」(国会図書館蔵)/昭和11年の「仙台市地図」/「仙台市大観」P5/「仙台の産業と観光」P87/「仙台市史10 年表」P300、P308
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本土決戦体制 |
(3)海軍/航空部隊 |
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<海軍の特攻作戦>
・ 牡鹿半島中心に、特攻艇「震洋」、小型潜航艇「海竜」人間魚雷「回天」91隻配備を計画 / ただし、敗戦までに配備されたのは11隻
<航空部隊の対応>
宮城県内の陸海軍航空基地は3か所 / 基本方針は、敵が上陸してきたら全機が特攻となって敵輸送船団に突っ込む / このため(戦力温存のため)、米軍機が来襲(空襲)しても日本軍機は迎撃しなかった
(1) 増田飛行場(現・仙台空港) 戦闘機の「隼(はやぶさ)」「鐘馗(しょうき)」「疾風(はやて)」や偵察機、重爆撃機が多数配備されたが、1945年(S20)6月には1機も姿が見られなくなった(最初は、名取郡愛島国民学校の桜並木の下に「隼」「鐘馗」など3~4機に偽装網をかぶせ分散駐機するなど飛行場近くに疎開 / のちに全機が白石町の森林内に疎開(解体して運搬し現地で組み立てる) / その作業のため約1300人の部隊が、近くの複数の国民学校に分宿
(2) 霞目飛行場の軍用機も、白石町の森林に疎開
(3) 海軍松島航空隊は、米軍B29の出撃地点(マリアナ諸島サイパン島)をほかの陸海軍部隊と共同で空襲計画(剣作戦、烈作戦)に参加予定 / このため戦闘機、爆撃機群が温存されていたが、実施前に敗戦 / 米軍艦載機などからの執拗な攻撃うけるが、敗戦時には、一式陸上攻撃機39機、陸上爆撃機「銀河」36機、艦上爆撃機「彗星」6機など百機以上の航空機が残っていた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P195、P197~198
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