分類項目 | 昭和20年代の動き |
タイトル | 戦後いち早く建てたバラックの店 (森天祐堂) |
写真番号 | 53-05 |
場所 | 仙台市東一番丁 |
映像内容 | 仙台空襲(昭和20年7月10日)で仙台は、仙台駅前から西公園や、医大病院(現・東北大学病院)が見渡せる程、一面の焦土と化した <参考> 東一番丁北部中部と周辺部の空襲被害→写真 35-14 / 東一番丁・森天祐堂の森権五郎(ごんごろう)さんの一家3人は、空襲の9日後、7月19日から母娘3人でバラック造りにとりかかり20日後に完成させた / 熱で丸まった焼けトタンを金槌で叩きのばして壁や屋根に使い、風呂はドラム缶の露天風呂だった / 空襲で周りは焼けたままで人影がなかったころ、焦土の真ん中でいち早く商売を再開した / 右は店主の森権五郎さん / 中央は夫人、左は娘のつきさん(当時女学校2年生) / 左後ろのビルは電力会社(当時東北配電または日本発送電東北支店) |
撮影年代 | 1945年(S20)秋 |
撮影年代判定根拠 | 撮影者のメモと服装から類推 |
関連情報/参考文献 | 店主の森権五郎(ごんごろう)さんは明治34年生、昭和62年8月七夕の時に86歳で他界 / 長女のつきさんは、終戦の年(昭和20年)には15歳で女学校2年生、仙台空襲のあと、常盤木女学校生の女子挺身隊員として、空襲で亡くなった人の名簿つけを経験した <女子挺身隊員> → 当サイト内「仙台よみとき用語年表」で、キーワード“女子挺身隊”で検索 戦後いち早くバラック店を再建した森権五郎(ごんごろう)さんの手記は → 98-100 |
備考 | 撮影)森権五郎 <参照> 当サイト内「仙台よみとき用語年表」でキーワード「森天祐堂」で検索 <参照> 戦時中の学校生活については、当サイト内「仙台よみとき用語年表」の項目「戦時下の学園」 |
カラー/モノクロ | モノクロ |
分類内の通し番号 | 22 |
画像ファイル名 | sendai12124 |