項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
明治・大正期 |
*** 各種年表・資料から転記したが、明治・大正・昭和期とも、これ以外にも慰霊祭などは多数あると思われる ***
<西南戦争>
* 1878年(M11)4月、西南戦争の政府軍戦死者慰霊祭、仙台鎮台・宮城県庁の共催により榴ケ岡で行われる。
* 1878年(M11)11月、同戦没者慰霊の為、経ケ峯に「西討戦死者之碑」が建立される
<日清戦争>
* 1896年(M29)5月20日~21日、日清戦争戦死者の臨時大招魂祭、榴ケ岡で行われる
* 1902年(M35)11月22日、仙台城本丸跡に「昭忠碑」建立
<日露戦争>
* 1906年(M39)4月1日、(日露戦争)第二師団臨時招魂大祭、宮城野原練兵場で行われる
・ 日露戦争では、第二師団の将兵2740人が戦没(「戦争のころ 仙台、宮城」P70)
<大正時代>
第二師団は、大正時代に、「第一次世界大戦で、中国・青島出兵」や「シベリア出兵」をしているが、年表など各種資料に見当たらないだけで、慰霊祭などはあった筈
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「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「仙台市史10 年表」P210、P230/「仙台市史 年表」P82、P83、P89、P92、P93/「重訂 宮城県郷土史年表」P305、P335/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P70
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「いつか見た街・人・暮らし」P9(招魂祭・歩兵第4連隊の参拝、大正13年4月30日)/同P24(招魂祭連合学生運動会、追廻練兵場、大正14年)/同P43の写真150(招魂祭・大町2丁目、戦前期)/第二師団招魂祭の錦絵(「目で見る仙台の歴史」P113)
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
昭和期(20年まで) |
* 1931年(S6)10月11日、満州事変最初の戦闘で戦死した第二師団兵士32人のうち20人の遺骨が、仙台駅に到着。(十五年戦争初の戦死者は第二師団の兵士だった) 仙台駅頭には陸軍大臣代理、湯沢三千男知事ら300人が出迎え、沿道には市民約5万人が戦友の胸に抱かれて原隊に変える英霊を見送りました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P26)
* 1931年(S6)10月12日、川内の追廻練兵場で、県、第二師団など主催の合同慰霊祭が行われました。(満州事変では)戦死者が合計300人、このほか負傷700人、凍傷800人を出しました。宮城県では遺骨が到着するたびに慰霊祭が7回にわたり行われました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P26)
* 1931年(S6)10月12日、満州事変戦没将兵の遺骨が仙台に到着、10月12日に追廻練兵場で慰霊祭(昭和7年10月まで慰霊祭が7回)(「重訂 宮城県郷土史年表」P427)
* 1931年(S6)10月12日、榴岡の歩兵第4連隊の営門を出た霊柩車(弾薬車であったという)と遺族の胸に抱かれた遺骨の行列は、葬送行進曲の吹奏に送られて市内を行進した。軍部のほか青年団や小中学校生徒なども加わり、沿道に人垣をつくり、会場には列車や市電・バスで詰めかけた約5万人が参列した。合同慰霊祭は以降7回に及んだ(「仙台市史 特別編4 市民生活」P309)
* 1931年(S6)10月12日、第二師団第4連隊の満州事変戦没者合同慰霊祭が追廻練兵場で行われる(「「仙台市史年表」P106、「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1931年(S6)12月18日、第二師団、昭忠会主催、戦没者慰霊祭(「仙台市史10年表」P277)
* 1931年(S6)12月28日、NHK仙台放送局が「満州事変戦没者慰霊祭」(追廻練兵場)をラジオで中継放送(12月18日か?)
<日中戦争 昭和12年7月勃発>
* 1937年(S12)12月、日中戦争、故大泉中佐以下221柱の合同慰霊祭(仙台市公会堂)
*「(開戦から2年足らずの)1939年(S14)4月現在で、宮城県関係の戦死者は2552人、負傷して内地帰還された兵は3131人と「知事引継書」にあります。遺骨が仙台駅に到着するたびに駅前広場では、県、仙台市、軍主催の奉迎式が行われ、その後、西公園内の仙台市公会堂で通夜、翌日、合同慰霊祭が開始されました。昭和14年3月時点で県主催の合同慰霊祭は22回に上り、遺骨がふるさとに帰ると、今度は市町村主催の葬儀が行われました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
* 1940年(S15)11月17日、日中戦争北中支各地に於て陣没せる管内出身将兵の慰霊祭を東二番丁小学校に於て行う / 引き続き、追廻練兵場の昭忠塔前で、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭を行う
* 「宮城県知事事務引継書(昭和17年)によると、日中戦争勃発後は毎月1回、県、仙台市、第二師団の共催で慰霊祭(前夜に通夜法要)を行い、県では知事代理が弔問、葬祭料として将校30円、下士官以下20円を贈ること、その後の市町村葬には知事代理が出席することを決めています。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79)
<太平洋戦争>
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル戦、戦没者慰霊祭(追廻練兵場)→ 写真16-57、16-59に説明文あり
* 1943年(S18)10月2日、忠魂合同慰霊祭(立町小学校で)
* 1944年(S19)8月18日、故陸軍大佐佐久間鶴治ほか合同慰霊祭
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P26/「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P309、P361/「仙台市史10 年表」P277、P306、P308/「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P460、P479/「仙台放送局60年のあゆみ」P5/「私にとっての戦争」末尾年表P183/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34、P79
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ガダルカナル戦、戦没者遺骨奉迎式は、16-57、16-67、16-66
/同遺骨原隊へは、16-58
/同慰霊祭は、16-59、16-60、16-65、16-64、16-61、16-62
/同感謝献金呼びかけは、16-68
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
昭和戦後期 |
<仙台市の戦没者遺骨伝達式>
*1949年(S24)、第288回戦没者遺骨伝達式 / 翌年になっても遺骨伝達式は終わっていない(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
<戦後>
* 1952年(S27)8月20日、宮城県五万柱の戦没者の追悼式(仙台市公会堂)
* 1965年(S40)7月10日、戦災(仙台空襲)20周年追悼式
* 1972年(S47)2月6日、ガダルカナル島に鎮魂のレリーフ建立
* 1972年(S47)6月15日、小松島の常盤台霊園でガダルカナル島戦没者霊魂碑序幕
* 1975年(S50)5月25日、旧陸軍歩兵第4連隊第6中隊の戦没者慰霊塔を、気仙沼市の観音寺に建立
* 1975年(S50)9月14日、仙台市常盤台霊園で、旧歩兵104連隊戦没者慰霊塔を除幕
* 1981年(S56)10月25日、ガダルカナル島平和公園に潮音像建立
* 1982年(S57)7月、加藤正治(角田市小坂)が、戦没者供養の地蔵尊を市道沿いに建立
* 1982年(S57)8月20日、小松利邦(気仙沼市太田1丁目)は戦友慰霊像完成
* 1983年(S58)6月18日、昭和17年に大河原町から出征した加藤源三郎の遺品・日章旗戻る
* 1983年(S58)8月26日、仙台市保春院住職が、ガダルカナル島に鎮魂碑建立、慰霊祭
* 1987年(S62)9月9日、常盤台霊苑に、ガダルカナル・ビルマの戦死者足跡記念碑除幕
* 1988年(S63)8月7日、仙台市岡田の照徳寺に戦没者慰霊塔建立
(以上、昭和末年まで)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P620/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P11、P41、P44、P135、P149、P163、P165、P229、P250
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ホテル |
仙台市内でオープン |
1973年(S48)~1975年(S50) |
仙台ホテルは、項目「仙台ホテル」参照
* 1960年(S35)8月、グランドホテル仙台が、同年竣工の東北電力ビルの7~9階にオープン
* 1973年(S48)8月4日、ニューシティーホテルがオープン(国分町2丁目)
* 1973年(S48)10月1日、東京第一ホテル仙台、完成
* 1973年(S48)12月7日、ホテルオーツカがオープン(鉄砲町)
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* 1973年(S48)12月19日、仙台チサンホテルがオープン(仙台駅前)
* 1974年(S49)2月20日、ビジネスホテルのニューホッタがオープン
* 1974年(S49)9月20日、仙台ワシントンホテルがオープン(青葉通り)
* 1975年(S50)3月16日、仙台プラザ・ホテル、オープン(本町2丁目)
* 1975年(S50)4月20日、ホテルリッチ、オープン(国分町2丁目
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45/「続・ 宮城県郷土史年表」P22、P23、P25、P27、P32、P38、P39、
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(グランドホテル仙台)
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ホテル |
仙台市内でオープン |
1976年(S51)~1989年(H1) |
1976年(S51)~1972年(S52)は、特に記事無し
* 1978年(S53)2月1日、ホテル・オペラ、オープン
* 1978年(S53)7月1日、ホテル国分町ビル、オープン
* 1978年(S53)10月28日、ホテル西公園、オープン
* 1979年(S54)5月31日、仙台パシフィックホテル完成
* 1980年(S55)10月23日、東急ホテル完成(一番町3丁目)
* 1981年(S56)8月1日、三井アーバンホテル、オープン(本町2丁目)
* 1982年(S57)4月10日、仙台第2ワシントンホテル、オープン
* 1985年(S60)3月8日、ホテルユニバース仙台店、オープン(一番町)
* 1986年(S61)7月1日、仙台ニューパシフィックホテル開業(中央1丁目)
* 1986年(S61)8月1日、ホテル・アルティア開業(中央2丁目)
* 1986年(S61)10月6日、仙台ターミナルホテル起工式(S63年7月、オープン)
* 1987年(S62)4月21日、ホテルウインブルドン、オープン(仙台市岡田)
* 1988年(S63)7月11日、仙台駅西口に仙台ターミナルホテル開業(20階建、地下2階 高さ86m)、1990年(H2)7月1日にホテルメトロポリタン仙台に改称
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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「続・ 宮城県郷土史年表」P77、P83、P87、P96、P118、P189、P207、P212、P222/「わが心の仙台駅前史」掲載年表
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P122(H2、カラー)
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NHK全国唱歌ラジオコンクールで連続優勝 |
仙台市内の学校が優勝 |
1949年(S24)~1952年(S27)/1954年(S29)~1956年(S31)/1959年(S34) |
* 1949年(S24)、「全国児童唱歌コンクール」に中学校を加え、「第16回唱歌ラジオコンクール」に改称
<仙台の学校が連続入賞>
* 1947年(S22)、連坊小路小2位
* 1948年(S23)、南材木町小2位
* 1949年(S24)、南材木町小優勝、五橋中優勝
* 1950年(S25)、連坊小路小優勝
* 1951年(S26)、南材木町小優勝
* 1952年(S27)、連坊小路小優勝
* 1953年(S28)、南材木町小2位
* 1954年(S29)11月7日、南材木町小3位、五橋中優勝
* 1955年(S30)11月6日、南材木町小優勝、五橋中連続優勝
* 1956年(S31)11月4日、立町小2位、五橋中3年連続優勝
* 1957年(S32)、立町小2位、南材木町小優良校
* 1958年(S33)、南材木町小3位
* 1959年(S34)、立町小優勝
* 1960年(S35)、南材木町小3位
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P256、P363/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P580、P583
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「目で見る仙台の歴史」P187に「4度全国優勝した五橋中学校コーラス」と「戦前戦後通じて8回全国優勝した南材木町小学校コーラス」/「市民の戦後史(仙台市)」P42(S24年優勝の南材木町小学校と五橋中学校ステージ)/「新・目で見る仙台の歴史」P180(S30年、1位となった南材木町小学校のステージ)
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高等学校(新制) |
仙台市内の高校一覧 |
1969年(S44)現在 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482~531に、以下の各高校について、概要、沿革などを紹介(昭和45年時点)
<仙台市立>
仙台商業高校(P482~485)、仙台高校(P485~489)、仙台工業高校(P489~492)、仙台第二工業高校(P492~494)、仙台女子商業高校(P494~497)、仙台女子高校(P497~500)、仙台図南高校(P500~501)
・ 「仙台市立7高校の系譜図」→「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P502~503
<宮城県立>
宮城県仙台第一高校(P504~505)、宮城県仙台第二高校(P506~507)、宮城県仙台第三高校(P507~508)、宮城県農業高校(P508~509)、宮城県工業高校(P509~510)、宮城県第二工業高校(P510~511)、県立盲学校(P517~518)、県立聾学校(P518)、宮城県第一女子高校(P518~520)、宮城県第二女子高校(P520~521)、宮城県第三女子高校(P522~523)
<私立>
東北工業大学電子工業高校(P511)、東北学院高校(P512~513)、東北高校(P513~514)、仙台育英学園高校(P514~515)、栴檀学園高校(P516)、宮城学院高校(P523~524)、仙台白百合学園高校(P524~525)、常盤木学園高校(P525~526)、尚絅女学院高校(P526~527)、三島学園女子高校(P527~528)、聖和学園吉田高校(P528~529)、朴沢女子高校(P529~530)、聖ウルスラ学院高校(P530~531)、聖ドミニコ学院高校(P531)
<国立>
仙台電波高校(P516~517)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482~531
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進駐軍(米軍) |
仙台市内街路名称 |
昭和20年代 |
進駐後、市内いたるところに英語標識ができるが、通り名称もアメリカ風にかえられた英語街路表示が作られた
・ 西公園から南町通りにかけて → メープル街
・ 光前寺通りから仙台駅前にかけて → インディァナポリス街
・ 南町通りから国分町にかけて → エルバリ街
・ 大町通りは、ヒッコリー街(クルミ)
・ 定禅寺通は、フィア街(モミ)
・ 南町通りは、メープル街(カエデ)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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被占領時代の仙台市街地図(米軍用) は、98-148
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東北大学 |
仙台市内4キャンパス |
2020年現在 |
<以下は、「東北大学」HP(2020年)より転記>
東北大学には、仙台市内に4つのキャンパスがあります。
<片平キャンパス>
仙台市中心部に位置する片平キャンパスは、1907(明治40)年に東北帝国大学が創設された本学発祥の地で、金属材料研究所、電気通信研究所など世界的な研究成果を挙げている研究所や大学本部などが設置されています。
<川内キャンパス>
川内キャンパスは旧青葉城内に位置しており、本学の附属図書館本館が設置されているのをはじめ、近隣には宮城県美術館・仙台市博物館・仙台国際センター等が点在する、仙台随一の文教地という環境にあります。全学の1・2年生は、主に川内北キャンパスにおいて全学教育科目等の講義を受講し、文系4学部の主に3・4年生及び大学院生が、川内南キャンパスで学び研究をしています。
<青葉山キャンパス>
青葉山は仙台市の中心部から西に数キロの距離に位置しながら、豊かな自然が現存する希少な場所です。青葉山キャンパスには、理学部、薬学部、工学部等があり、この3学部は主に3・4年生と大学院生が勉学に研究に日夜研鑽を重ねています。<編者注>農学部は、青葉山キャンパス、川渡地区キャンパス(大崎市鳴子温泉字蓬田)、女川地区キャンパス(女川町)
<星陵キャンパス>
星陵キャンパスは、大学病院をはじめ、医学部、歯学部、加齢医学研究所等が設置され、地域医療の中核的拠点となっています。ここでは、医学部・歯学部の主に2~6年生と大学院生が勉学・研究に励んでいます。南に15分ほど歩くと、県庁・市役所及び東北一の繁華街である一番町があります。
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「東北大学」HP(2020年)>ホーム>大学概要>キャンパス
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園 開園 |
1936年(S11) |
* 1933年(S8)、失業対策事業で、広瀬川沿いの評定河原が埋め立てられ、北半分は東北帝国大学のグラウンドとなり、南隅は動物園用地となった
* 1936年(S11)4月1日、仙台市動物園が評定河原埋立地に開園(当時、東京以北で唯一の動物園で、昭和12年12月までの入場者は31万人)
・ 入園料(昭和11年) 大人15銭、軍人10銭、小人5銭(昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64)
・ 坪数8150坪、収容動物150種500点、初代園長漆沢忠雄(「重訂 宮城県郷土史年表」)
・ 象・虎・ヒョウ・白熊など35種100頭を、閉園した東京浅草の花屋敷動物園から譲り受け、それに加えて200余頭を購入した(「仙台はじめて物語」)
・ 3月29日に収容動物到着、4月1日開園、165種471点(仙台市史10 年表)
・ 入場者、昭和11年(4月~12月)に31万人
・ 入場者 昭和12年17万人、13年20万人、14年26万人と戦乱(日中戦争)が拡大しても、観客は減るどころか年々増えていった(「戦争のころ 仙台、宮城」P40)
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「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 年表」P108/「仙台はじめて物語」P104~105 /「仙台市史10 年表」P288/「重訂 宮城県郷土史年表」P451/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「市史せんだい Vol2」P15/昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P40
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53-119/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204(仙台市動物園開園記念観覧券と市電乗車券)
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園猛獣射殺 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)3月25日、太平洋戦争末期の仙台市動物園で、猛獣12頭(熊4頭、シロクマ・ヒグマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ各1頭)が「空襲の際に危険」と射殺された(仙台市交通局五十年史)/ ただし仙台市史ではシロクマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ・ヒグマ・クマ各1頭の合計8頭 / 自然休園となる / 5月19日、銃殺動物慰霊塔建設
* 1944年(S19)5月19日、空襲にそなえ処分された動物たちの慰霊祭(「戦争のころ 仙台、宮城」P140)
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「仙台はじめて物語」P104~105/「仙台市史10 年表」P307~308/仙台市史 年表」P113/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P140
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園閉園 |
1945年(S20) |
・ 猛獣の処分(S19年3月)で空き家になった建物には、市議会の建議通りブタ15頭が飼われ、花壇や通路では野菜を栽培、動物舎付近はカボチャ畑になった。閉園までは猛獣ぬきで営業(「戦争のころ 仙台、宮城」P143)
* 1945年(S20)4月1日、休園(そのまま再開せず)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P504/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P143
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体育館 |
仙台市勤労者体育館 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)8月22日、卸町東に開館
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「仙台市史 年表」P132/「仙台市史 特別編4 市民生活」P286
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戦災復興(応急対策) |
仙台市営ガス |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲被害>
・ 空襲で、清水小路事業所構内の建物、機械室、倉庫など8棟が全焼、ガス発生炉3基、ガスタンク3基を除いて他の機械設備51基は焼失または損傷 / 市内のガス需要家の約半分1892戸が焼け、供給管が被害
<応急復旧工事>
* 1945年(S20)10月、一応、ガス供給施設の復旧修了
10月10日から、一般需要家1200戸へ供給再開
* 1946年(S21)3月末までに、事業用建物、機械設備復旧完了
* 1946年(S21)10月、被災した供給管など一応修理完了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315
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バス |
仙台市営バス |
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→ 項目「仙台市営バス」参照
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火葬場 |
仙台市営火葬場 |
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* 1885年(M18)、市制施行前の仙台区が、北山の公営火葬場設置、間もなく民営移管
* 1924年(T13)、市直営で、新坂通りに設置
* 戦後の燃料不足(石炭、薪)で、月20トンの配給はしばしば欠配 / 手持ち石炭が2~3日分という状況が続く / 新寺小路の私営火葬場では燃料持参でないと火葬を受け付けない事態
* 1947年(S22)2月、電気炉5基設置
* 1962年(S37)7月、重油兼石炭炉3基、重油バーナー4基新設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P741~743
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P742と、「目で見る仙台の歴史」P182に、新坂通の市営火葬場の写真
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発電事業 |
仙台市営電気事業 |
1911年(M44)~1942年(S17) |
* 1910年(M43)年9月、仙台市が仙台電力株式会社と宮城紡績電灯株式会社に設備買収交渉
<仙台市営電気事業>
* 1911年(M44)6月 仙台市が仙台電力と契約し、同年7月1日電気事業を開始
* 1912年(T1)、仙台市が宮城紡績電灯も買収、大倉(現在の大倉発電所とは異なる)・大堀・碁石川・三居沢の水力発電所を所有
「土樋火力発電所」(仙台市営)
* 1926年(T15)6月、土樋火力発電所トンネル工事による水量減少で、七郷・高砂・原町3村の600余名に影響し騒動(「番丁詳伝」P122)
* 1926年(T15)12月24日、土樋火力発電所が竣工(出力、2000kW)
* 土樋火力発電所の設備は1941年(S16)に北支那開発関係機関へと徴用され、廃止
<仙台市営電気事業>
* 1941年(S16)公布の配電統制令に基づき、市が新たに設立される東北配電株式会社の設立に参加
* 1942年(S17)3月31日、仙台市電気事業、配電統制令に基づき東北配電KKに移行
* 1942年(S17)4月、市営電車部門を除く電気事業設備を出資して市の電気事業は終焉を迎える
<東北配電株式会社>
* 1942年(S17)4月1日、事業開始
* 1942年(S17)6月30日、宮城県電気部解散式
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141/「東北大学鉄道研究会公式ブログ」/「仙台市史 年表」P103/「仙台市史10 年表」P304
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08-10-03(右端の煙突が土樋火力発電所)
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発電事業 |
仙台市営電気事業(大正期の電灯増加) |
大正年間 |
出典:雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_10.pdf#search=%27%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82+%E7%99%BA%E9%9B%BB%E4%BA%8B%E6%A5%AD+%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%85%83%E5%B9%B4%27
<仙台市営電気事業の電灯需要数>
・1911年(M44)7月、 5960灯
・1915年(T4)、 7万4310灯
・1919年(T8)、 9万3729灯
・1920年(T9)、 10万9390灯
供給区域は、この間に、仙台市(当時)から周辺町村や仙南地域まで及んでいる
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「東北学院大学経済学論集第177号」P172、雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
仙台市民の消費生活を守る条例 |
1975年(S50) |
→ 項目「仙台市民の消費生活を守る条例」参照
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年中行事(まつり) |
仙台市民まつり |
1975年(S50)~ |
* 1975年(S50)11月1日~3日、第1回開催
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「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P46
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「新・目で見る仙台の歴史」P207
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仙台市の消防 |
仙台市消防本部 |
1947年(S22)以降 |
<自治体消防>
* 1947年(S22)4月、消防団令公布 / 消防団長は市長が任命し、消防の運営は消防委員会があたる
* 1948年(S23)3月、消防組織法公布
* 1948年(S23)11月1日、自治体消防本部発足 / 従来の常備消防は消防本部のもとに統合、仙台市北・南消防署に改編設置 / 同年12月、常備消防部員を全員、消防吏員として採用 / 北と南の消防署、5分遣所、消防車11台
* 1951年(S26)、北消防署庁舎(鉄筋コンクリート2階建て)を北一番丁の元特別調達庁跡に新築し、消防本部と北消防署が移転
* 1951年(S26)以降、毎年、防火用水を建設、S31年までに計31か所新設
* 1952年(S27)、南消防署の望楼を鉄塔に改築
* 1957年(S32)7月1日、東消防署開庁、ブロック2階建て望楼付き
* 1959年(S34)2月、3段式16mハシゴ車1台を北署に配置
* 1959年(S34)3月、泡消火剤など装備の科学消防車1台を南署に配置
* 1959年(S34)5月、仙台市消防音楽隊(隊員30人)発足
* 1960年(S35)、片平丁出張所を再建(戦災で焼失廃止されていた)
* 1961年(S36)4月1日、仙台市消防局に、初の救急車、救急隊(3人)配置
* 1963年(S38)、南消防署を新弓の町に改築
* 1965年(S40)12月17日、南消防署に化学消防車配置
* 1966年(S41)8月、東北初の特別消防隊(消防レインジャー部隊)編成し、訓練開始
* 1966年(S41)12月1日、北消防署に、32メートル高層梯子車を配備
* 1968年(S43)3月、排煙車配備
* 1969年(S44)5月1日、望楼勤務を廃止(ビル増設とスモッグのため市街の展望不能となる)
* 1975年(S50)11月20日、仙台初の20m級スノーケル車を南消防署連防出張所に配置
* 1983年(S58)8月25日、東消防署は、苦竹3丁目の新庁舎に移転
* 1989年(H1)月日、仙台市泉消防署に36mはしご車配備
* 1996年(H8)4月、仙台市消防局、県内ではじめて女性消防士採用
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P813~818、P831~831、P845/「重訂 宮城県郷土史年表」P600、P622、P627、P628、P649/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P165、P258/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367
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20-04/「目で見る仙台の歴史」P182/「市民の戦後史(仙台市)」P68/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P816に、消防本部・北消防署庁舎/同P846の写真210(排煙車)/「市民の戦後史(仙台市)」P104(16mハシゴ車)/同P130(救急車)/同P180(出初式一斉放水、レインジャー部隊訓練)/同P210(排煙車)
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高等学校(新制) |
仙台市立仙台高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1940年(S15)4月10日、市立仙台中学校開校(定員750名、荒町の斎藤記念館と荒町小学校を仮校舎に)
* 1941年(S16)6月、仲ノ町に本校舎落成し移転
* 1945年(S20)7月、仙台空襲で校舎全焼し、片平丁国民学校に一時間借り後、7月末に荒町、南材木町両国民学校、斎藤記念館に間借りし二部授業
* 1948年(S23)2月、北八番丁に新校舎落成
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、学制改革で仙台高等学校となる
* 1965年(S40)9月、国見台に第二運動場完成
* 1974年(S49)、男子校から男女共学になる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P274)
* 1975年(S50)4月、国見東山に新校舎落成し、移転開校式
* 2009年(H21)4月1日、仙台市立仙台高等学校に改称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P485~489、P503/「仙台市立仙台高等学校」HP/「仙台市史 特別編4 市民生活」P274
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「目で見る仙台の歴史」P165に中ノ丁の「市立仙台中学校」
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仙台市の動物園(戦後) |
仙台市立八木山動物公園 |
1965年(S40)~ |
* 1965年(S40)10月15日、開園(14ha) / 90種、350頭 / 五大大陸ごとに放し飼い
・ 仙台の味噌醤油製造業「紅久」経営者八木家が、昭和初期に仙台市に寄贈した土地に開園 / 閉園する仙台市立三居沢子ども動物園の動物も八木山へ移された
* 1967年(S42)8月7日、音楽姉妹都市の大分県竹田市からイノシシ3頭を贈られる
* 1970年(S45)7月31日、動物園付近に、八木山開発者八木久兵衛(五代)の胸像建立
* 1971年(S46)1月18日、類人猿舎で火事、猿類18匹焼死
* 1987年(S62)6月29日、中国長春市から、レッサーパンダ到着(1988年(S63)8月6日、レッサーパンダの赤ちゃん誕生)
* 1988年(S63)3月30日、カナダからアメリカビーバー受納式
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「仙台市史 年表」P124/「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「重訂 宮城県郷土史年表」P622、P634、P663、P667/「続・ 宮城県郷土史年表」P225、P242/「市民の戦後史(仙台市)」P172/「番丁詳伝」P34~35
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「市民の戦後史(仙台市)」P172~173(正面から見た全景、象トシ子さん引越し)/「新・目で見る仙台の歴史」P192(カラー)
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高等学校(新制) |
仙台市立女子高等学校/仙台図南萩陵高等学校/仙台大志高等学校 |
1948年(S23)/1983年(S58)/2009年(H21) |
<前史>
* 1936年(S11)6月、「仙台夜間女学校」、北五番丁に創立
* 1939年(S14)4月、「仙台市立昭和女学校」
* 1943年(S18)4月、「仙台市立昭和高等女学校」
* 1944年(S19)4月、「仙台女子商業学校」と合併し、「第二部」となる
<学制改革で定時制高校に>
* 1948年(S23)4月、仙台女子商業学校から独立し、「仙台市立女子高等学校」と改称(女子単独の定時制高校)
・ 昭和30年代前は「制服のない学校」「試験のない学校」「罰則のない学校」が特徴
<統合>
* 1983年(S58)3月1日 仙台図南高等学校と仙台市立女子高等学校を統合し、仙台図南萩陵高等学校創立、共学の定時制高校として開校 / 図南萩陵の校名は旧校名である「図南」、市立女子高の校章に使われてシンボルであった「萩」と、学校があることを表す「陵」を合わせて「図南萩陵」と命名
* 2006年(H18)4月1日、高校商業科の生徒募集が停止される。(2009年閉講)
* 2009年(H21)4月1日 仙台市立仙台大志高等学校創立(定時制高校) / それまでの仙台図南萩陵高等学校は仙台市立仙台図南萩陵高等学校に校名が変更され、生徒募集が停止される
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P497~500、P502
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医療機関 |
仙台市立榴岡病院 |
1922年(T11) |
伝染病隔離専門病院
* 1922年(T11)5月1日、「仙台市伝染病院」が「仙台市立榴岡病院」と改称して常設病院となる(木造平屋建て)
* 戦後、赤痢大流行 / 患者・保菌者が、S21~S22に県内約3000人、仙台市1000人 / S25~S27に連続して爆発的に発生し畳敷きの部屋まで病室に転用
* 1952年(S27)12月~1955年(S30)5月、3期に分け増改築 / 木造平屋6棟に代わって完成
* 1957年(S32)1月、増築完成(病床、計106床に)
・ 1960年(S35)の赤痢患者・保菌者の収容数は696人(前年度の倍)/ 以後、患者ふたたび多く発生(原因は抗生物質耐性菌の出現、学校・職場を中心の大量集団発生)
* 1980年(S55)、榴岡病院廃止
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「仙台市史 年表」P101/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P717~721/「仙台市史 特別編4 市民生活」P395
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P718に、改築後の写真/「目で見る仙台の歴史」P182(S30年改築の病院)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P396
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医療機関 |
仙台市立病院 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始
(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造)
→ これ以降は、項目「仙台市立病院」へ
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バス |
仙台市街自動車 |
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→ 項目「仙台市街自動車」参照
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台市警防団 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)、「警防団令」発令(勅令)、防護団と消防団を統合 / 警防団は、家庭防火群を引き継ぐ「隣組」の防空訓練を監視、督励する役割を担う / 隣組や家庭は、桶やバケツ、貯水槽などを備え、火叩きや水ひしゃく、ムシロや砂などの消火道具を用意しておく義務があった / 家庭にいる女性が防空頭巾や地下足袋などに身をかためて隣組ごとにまとまって動員され、水の入ったバケツを整列して手渡しでリレーし、火にかける、といった防空訓練が警防団の指導下に行われた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321)
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322)
* 1939年(S14)4月28日、「仙台市警防団」 ( 4月に県下一斉に組織)/ 同年1月20日(3月?)に解散した消防組(警察署長の指揮下)と防護団の組織と役割を引継ぐ / 警防団は、地方長官の監督のもとに警察署長の指揮を受ける仕組みで、カーキ色の制服に黒の戦闘帽、ゲートル姿
・ 仙台市警防団は全市で3411、警防団長は市長、国民学校の学区ごとに分団があり、役員は在郷軍人、青年団員、医師、薬剤師会会員、婦人団体など。 戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)
* 1944年(S19)4月1日仙台警防団を解団し、「仙台北警防団」および「仙台南警防団」を新設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322/「仙台市史 年表」P110、P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P468、P501/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P39/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152
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隣組の防空演習は、76-10、16-10、16-11
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市銃後奉公会 |
1939年(S14)4月~ |
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
* 1939年(S14)4月1日、仙台市兵事義会を「仙台市銃後奉公会」と改称
・ 仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
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「仙台市史10 年表」P295/「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台市防護団 |
1936年(S11) |
* 1933年(S8)9月15日、仙台で「防空救護団」発団式
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、青年訓練所生、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1936年(S11)4月29日、「仙台市防護団」結成(17分団成立)
* 1937年(S12)、仙台市防護団、防護団の下に5~20戸をまとめた「家庭防火群」をおく
* 1943年(S18)1月19日、「仙台市役所特別防護団」設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P38/「仙台年表」P204/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台市史10 年表」P305
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戦災復興(応急対策) |
仙台市電 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(あわせて6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了、全線運行再開
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315
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青少年団 |
仙台市青少年団結成 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)3月10日、仙台市青年団・仙台女子青年団・仙台愛国少年会・少年団宮城地方同盟が統合し「仙台市青少年団」結成
仙台市青年団結成は、1916年(T5)7月16日
仙台女子青年団結成は、1932年(S7)1月
仙台連合女子青年団結成は、1933年(S8)5月6日
仙台愛国少年会連盟結成は、1932年(S7)11月10日
* 1945年(S20)6月30日、仙台市青少年団解散
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「仙台市史 年表」P97、P106、P107、P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P505
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戦時中の疎開者受入れ |
仙台市/宮城県 |
1945年(S20) |
<京浜地区等から仙台市へ>
* 1945年(S20)3月~9月、受け入れた人員疎開は、935世帯、2791人
* 1945年(S20)3月~10月、受け入れた他都市からの戦災者は、3968所帯、8848人
<宮城県への疎開者>
「宮城県知事引継書(昭和20年6月10日)」によれば、宮城県へは首都圏などから空襲を避けて、あるいは空襲の被災者が、7万7490人疎開(東京からの学童集団疎開1万3669人、付き添いの教員1802人を含む、それ以外に縁故疎開者4万人、空襲で家を焼かれた人が2万人) / 大崎事務所管内が最多で1万241人(多くの集団疎開児童を鳴子温泉に収容)、仙台市は5856人、石巻市は2815人、塩釜市733人 / 東京都から、縁故のない妊婦28人と乳幼児68人の集団疎開受入れ要請あり古川健民修練所に入れる準備中 / 伊豆大島の住民全員引揚げのため、宮城県には1000人受け入れ要請あり、未耕作農地がある6村で準備中(ただし、住民輸送船の都合がつかず実現しなかった) (「戦争のころ 仙台、宮城」P200~201)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P200~201
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多門師団凱旋 |
仙台帰還(凱旋) |
1933年(S8)1月 |
陸軍第二師団(多門二郎師団長)は、満州駐箚中に起きた満州事変(S6年9月~)で満州各地を次々に占領 当時の市民は、その「武勲」に熱狂した
・ 第二師団の戦死者は約300人、凍傷・負傷者約1500人(「新・目で見る仙台の歴史」P160)
* 1933年(S8)年1月7日~9日と13日、市民あげて歓迎する中、第二師団が仙台に凱旋した
・ 凱旋歓迎に動員された児童生徒は「凱旋凱旋ああわが勇士」(多門師団凱旋の歌)と歌った
・仙台駅前から南町通りを経由して、川内の第二師団まで凱旋行進(師団長ら師団司令部は8日「凱旋」)
・南町通りは、1月7日市会の決議により、この日から師団長の名にちなんで「多門通り」と改称された → 項目「多門通り」参照
・1月8日、戦勝祝賀花電車(市電)
・2月19日、宮城県愛国連盟・仙台市教育会主催、対国際連盟大講演会・県民大会開催
・2月24日、国際連盟、リットン報告を採択
・3月27日、日本、国際連盟を脱退
・4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)→<参照>項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」
* 1934年(S9)12月、仙台市昭忠記念堂除幕式(青葉山公園)
昭忠記念堂は、満州事変で「武勲」をたてた多門二郎師団長指揮下の第二師団を記念し、本丸跡上り口に建造(近くには多門師団長の胸像もあったが太平洋戦争中の金属供出により台座だけが残されていた)→ 仙台城石垣修復事業にともない平成16年に撤去
<参考> 写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述)
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「仙台市史10 年表」P280) /「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P204/「新・目で見る仙台の歴史」P160
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65-02、65-04、65-01、98-081、98-082、98-083、65-03、65-05、65-06、65-07 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128/「目で見る仙台の歴史」P168/「新・目で見る仙台の歴史」P160/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
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幼稚園 |
仙台幼稚園(私立) |
1905年(M38) |
* 1905年(M38)5月、仙台幼稚園を東三番丁に設立(写真23-01に「宮城婦人会附属」の字あり)(「仙台年表」P180)
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「仙台年表」P180(出典:仙台市教育会の「仙台郷土史」、S8刊)/明治42年の「仙台市統計一班」
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23-01
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博覧会・フェア |
仙台復興祭グランドフェア |
1949年(S24) |
→ 項目「仙台復興祭グランドフェア」参照
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発電事業 |
仙台愛宕下水力発電所 |
1921年(T10)~1929年(S4)頃 |
* 仙台市内の電気会社が1920年(T9)に建設し、翌年に開業
* 1929年(S4)頃には操業を停止、約10年間の短い歴史で幕を閉じた
「大橋の下流に築いた堰から取水した広瀬川の水を、約2キロメートルの導水トンネルを通して愛宕山の麓へ導き、そこに設けた反動水車で発電し、当時の名取郡六郷村(のち、昭和16年に仙台市に合併)へ電気を通して電灯などに運用されていたということです」
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仙台市役所関連の「広瀬川ホームページ」よりhttp://www.hirosegawa-net.com/
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特別調達庁 |
仙台支局設立 |
1947年(S22) |
<国立公文書館アジア歴史資料館「アジ歴グロッサリー」より> 特別調達庁は、1947年(S22)年9月、法律第78号「特別調達庁法」により公法人として設置。業務内容は、連合軍関係の設営工事の契約・連合軍需要品の調達・連合軍の需要する労務その他の役務調達・連合軍関係の設営に伴う設計調査の受託など。連合国軍の占領政策の縮小に伴い再編され、1952年(S27)に調達庁と改称、1958年(S33)には防衛庁の外局となり、1962年(S37)に防衛庁建設本部と合わせて防衛施設庁となった。
* 1947年(S22)12月10日(または、翌年1月)、特別調達庁仙台支局設立
* 1948年(S23)1月、特別調達庁仙台支局業務開始(県庁内に事務所)
* 1949年(S24)6月1日、仙台特別調達局と改称
* 1950年(S25)1月14日、仙台特別調達局全焼
* 1952年(S27)4月1日、仙台特別調達局、仙台調達局と改称(駐留軍施設及び区域提供、その損害補償の業務を開始)
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「仙台市史10 年表」P317、P319、P321、P322、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P524、P540、P555
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日本銀行 |
仙台支店(芭蕉の辻)開設 |
1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
(1)1903年(M36)~1929年(S4)7月18日、七十七銀行本店
(2)1929年(S4)~、精養軒仙台支店
(3)1941年(S16)10月10日~、日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 戦後、1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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戦前は、16-01/戦災焼失は、35-13、53-74/戦後は、20-03(S26年、部分)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P748(戦後改築後)
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国民金融公庫 |
仙台支所 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)6月1日、仙台市に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P550
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大日本国防婦人会 |
仙台支部結成 |
1937年(S12) |
<銃後女性の組織化>
* 1935年(S10)頃から、国防婦人会分会が、多くは在郷軍人会仙台市分会の区域内の女性で組織された
・小学校女教員、市街自動車、女給矯風会員など職場ごとの分会もできた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)
* 1937年(S12)2月、大日本国防婦人会仙台支部結成、小学校通学区域ごとに分会が設置されている(「仙台市史 特別編4 市民生活」P456) / 青年団や青年訓練所とあわせ、戦勝祈願祭や出征兵士歓送迎などの動員を支える御三家が揃う(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)
* 1937年(S12)3月16日、大日本国防婦人会仙台支部結成(「仙台市史 年表」P109)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P310、P456/「仙台市史 年表」P109
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P456(大日本国防婦人会の女性たち)
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民間放送(仙台) |
仙台放送(テレビ) |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)10月1日、 仙台放送株式会社が、宮城県内の2番目の民放テレビ局として、仙台市茂ヶ崎の大年寺山麓に開局、テレビ放送開始 / コールサイン「JOOX-DV」、略称はOX
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「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P606
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P295の写真97)「市民の戦後史(仙台市)」P144(テレビ送信鉄塔、開局記念市長対談)
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東北学院(教会) |
仙台日本基督教会 |
1901年(M34)~ |
南町通り(東二番丁通り北西角)にあり、赤レンガの「東北学院神学部校舎」に隣接していた
* 1881年(M14)5月、「仙台教会」、プロテスタント日本基督公会の押川方義らが国分町に設立
* 1901年(M34)、仙台教会が「仙台日本基督教会」献堂式挙行
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「東北学院創立七十周年写真誌」末尾年表P66
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43-30/「目で見る仙台の歴史」P138に、日本基督教会堂」
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丸光 |
仙台最大の売り場面積に |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)、藤崎や三越仙台店を上回る仙台最大の売場面積となる
* 1972年(S47)11月2日、新装オープン
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Wikipedia「丸光」 / あれから50年「戦争と丸光」(今泉清)/「続・ 宮城県郷土史年表」P14
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市場 |
仙台東一公設市場(東一マーケット) |
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* 1946年(S21)?、「仙台東一公設市場」(東一マーケット)は、戦後、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道の東側に面してあった
* 1956年(S31)、鉄筋2階建に改築され、その後も「東一市場」の名で存続
<火災>
* 1951年(S26)2月5日、東一番丁火事(午後1:40頃)により、東一マーケットに延焼 / 17戸全焼
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<火災>
「市民の戦後史」P50/「仙台年表」P221/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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16-38、16-39
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映画館(戦前・戦後) |
仙台東宝劇場 |
1922年(T11)~ |
→ 項目「仙台東宝劇場」参照
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映画館(戦後) |
仙台東映 |
1956年(S31) |
<Wikipedia「仙台東映」沿革 および「仙台映画大全集」P458より>
* 1948年(S23)7月3日、東一番町29(現在の広瀬通り一番町南東角)に開業した「公共会館」(文化教室、実演劇場)が前身で、主に演劇を上演していた
* わずか半年後の1949年(S24)1月29日に「国際劇場」と改称し東映封切館となる
* その後、1954年(S29)2月3日に「仙台新東宝映画劇場」となり、新東宝の封切館として再出発するも、ビル建て替えのため閉館
(「番丁詳伝」P218では、S29年仙台新東映映画劇場として衣替えし、さらに31年秋にビルを建て直し、地下を東映パラス、1階を東映劇場とし表通りには東映シューズ、コセキ、洋服はコンノが出店)
* 1956年(S31)9月、東映の直営館として再建され、「仙台東映」(邦画系)「仙台東映パラス」(洋画系)となった
* 1994年(H6)6月11日、現在地に飲食店などの商業施設を含んだビル「仙台東映プラザ」がオープン。同ビルの6階に「仙台東映」「仙台メルローズ」が入り、新たなスタート
* 2001年(H13)以降、市内に開業したシネマコンプレックスの影響で次第に業績が低下
* 2005年(H17)4月15日、閉館し、「公共会館」時代から数えて57年の歴史に幕を下ろした。跡地は料亭「寧々家」、居酒屋「いろはにほへと」となった
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「仙台映画大全集」P458/Wikipedia「仙台東映」〈2020年7月13日版)/「番丁詳伝」P218
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201-45、201-43 /「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33年、空撮)、P50(S34年)
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警察署 |
仙台東警察署 |
1956年(S31)~ |
* 1956年(S31)9月1日、発足(原町苦竹/宮城野区南目館21)
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「仙台市史 年表」P119/「重訂 宮城県郷土史年表」P582/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798に、「仙台東警察署庁舎」
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自動車専用道 |
仙台東部道路 |
1994年(H6)/2012年(H24) |
* 1994年(H6)3月30日、仙台東部道路の仙台空港IC~仙台東IC間開通
* 1995年(H7)7月27日、岩沼IC~仙台空港IC間開通
* 2001年(H13)8月1日、亘理IC~岩沼IC間、仙台東IC~仙台港北IC間開通(これで、全線開通) / 4車線区間の制限速度を80km/hから100km/hに引き上げ
* 2005年(H17)10月1日、日本道路公団の分割民営化により東日本高速道路株式会社に承継
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災により全線通行止(地震・津波により甚大な損傷を受ける) / 同年3月30日、東日本大震災による通行止は全て解除
* 2012年(H24)12月1日、仙台港IC供用開始(これで、仙台港IC~亘理IC間24.8kmは全線開通) / 仙台港IC以北は、三陸自動車道
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Wikipedia「仙台東部道路」(2020年7月)
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郵便局 |
仙台東郵便局 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)8月8日、開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P627
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