項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
キリンビアホール(東一番丁) |
竣工 |
1935年(S10) |
* 1931年(S6)、東一番丁にキリンビアホール開店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P80)
* 1935年(S10)、キリンビール(1階がキリンビアホール)建設 / 場所は東一番丁・日の出横丁南西角で、昭和8年の東一番丁大火の跡地
【「番丁詳伝」P131】東一番丁大火で焼失した仙集館跡は、昭和10年に金港商会が石造りのビルを建設、1階はキリンビアホールとして、また人々を集めることになった。
【「番丁詳伝」P164~165】キリンビール・ビルは昭和10年建造、鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階、843平方メートル、1階がビアホールで風格ある外観ながら番街の代表的な建物の1つであった。仙台空襲(昭和20年7月)では焼け残り、道路拡張のため曳行工事(昼夜通し見物人の人垣)が行われ、昭和27年9月に地下室ごと移転完了
* 1974年(S49)、閉店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P80)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P80/「番丁詳伝」P131、P164~165
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20-35、53-71、49-05、22-58/戦後は、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13の左端
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錦章堂ビル |
竣工 |
1957年(S32) |
東一番丁通りに面し、三越の南手前にある小ビル(印舗の錦章堂ビル)はS32年に竣工
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錦章堂主人談
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22-61
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レジャーセンター |
竣工 |
1952年(S27)~1998年(H10) |
* 1951年(S26)4月2日、起工式
* 1952年(S27)6月10日、仙台市レジャーセンター、錦町公園内(東三番丁62)に完成し落成式、あわせて同施設内にサイエンスルームが設置される / 競技場200坪、観覧席2000名(「重訂 宮城県郷土史年表」P556では、6月13日竣工)
* 1952年(S27)6月、東三番丁にレジャーセンター建設 / 2階に競技場、競技場中央にボクシングのためのせり上げ舞台を設置、1階に脱衣場やシャワー室 / ラジオ仙台の放送室、録音室も併設 / 各種の集会、展示場としても使用(「仙台市史 続編第2巻」P203)
* 1959年(S34)8月14日、大時計をレジャーセンター前に建設し除幕式(郵便友の会東北地連が皇太子ご成婚記念に)
* 1968年(S43)3月、サイエンスルームは新設される仙台市科学館(東二番丁・青葉通り角の日本長期信用銀行ビル地下に開設)へ移転統合
* 1998年(H10)6月、レジャーセンター閉館
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「重訂 宮城県郷土史年表」P556、P593/「仙台市史 年表」P117、P125/「仙台年表」P224/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P203
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53-50/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P203の写真58/「目で見る仙台の歴史」P184/「市民の戦後史(仙台市)」P68/「新・目で見る仙台の歴史」P179/「仙台市史 特別編4 市民生活」P287(S28年撮影)
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カルトン食堂 |
竣工 |
1925年(T14) |
カルトン食堂は、旧・大町5丁目通りの北側に面す
* 1925年(T14)、竣工 / 桜井常吉が建設
* 1925年(T14)、開業(「番丁詳伝」P36)
・ 鉄筋コンクリート造、地下1階、地上3階一部4階建で、エレベーターを設置 / 屋上の展望楼からは、市内を一望、太平洋が見える
・ 1階に写真機、同材料販売、宴会場があり、和・洋食店と喫茶店を兼ねた / 化粧品部もある
<「カルトン月報 大正14年12月」より>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P85)
・ 食堂(3階)に定食(洋食コース料理 午餐2円65銭、晩餐3縁45銭)、4階にカフェ
・ 各階 スチーム装置にて春日和のよう
・ 毎週土曜日曜は、東北唯一のピアノトリオ開催
・ 料理法は最も新しく、肉は神戸から直通
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「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P131/「重訂 宮城県郷土史年表」P400/「番丁詳伝」P36/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
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22-28、98-029/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85(T14年、カルトン月報)
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軍服(陸軍) |
立襟 →立折襟に |
1938年(S13) |
* 1928年(S13)6月に、立襟から立折襟に、階級章は肩章から襟章となる(ただし、旧軍服との併用が認められていた)
・ 将校がもつ軍刀は1934年(S9)に、サーベルから太刀型に変わった
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S7以前は、87-01 /S7以後S12以前は28-01
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仙台ホテル |
立て替え(ホテル3代目) |
1935年(S10)/1945年(S20) |
* 1935年(S10)、モダニズム建築に建て替え
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被災
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Wikipedia「仙台ホテル」
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仙台ホテル |
立て替え(ホテル2代目) |
1905年(M38) |
* 1905年(M38)、 4階建ての擬洋風建築に建て替え /
出羽三山・本道寺(神仏分離により口之宮湯殿山神社。山形県西川町)の仁王像一対を1875年(M8)から所有していた弥勒院(山形県河北町)から買い取り、ホテルの1階玄関に安置(Wikipedia「仙台ホテル」)
* 1905年(M38)、「明治20年頃、仙台駅前に進出せる大泉旅館は、この年、三階建て旅館に設備を拡大し、仙台ホテルと改称す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P334)
<編者注> 大泉支店の仙台ホテル改称はホテル1代目建物ができた明治29年で、38年ではない/ 38年は、ホテル2代目建物(3階建一部2階建て擬洋風建築)に建て替えた年/ 看板「仙台ホテル」の他に、壁面に「大泉館」表示もある
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「重訂 宮城県郷土史年表」P334/Wikipedia「仙台ホテル」
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44-05、98-063/「目で見る仙台の歴史」P124と「新・目で見る仙台の歴史」P130に『明治38年建築の仙台ホテル』
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戦災復興(応急対策) |
空襲跡の状況 |
1945年(S0) |
「仙台空襲(S20年7月10日)では、市内の中枢部500haが焼き払われ、わずかに土蔵、鉄筋コンクリート建物などが焦土の中に残されただけで、当時の全市民の26%が被災し2590人の死傷者を出すという惨状に市民はただ茫然自失、立ち上がる気力を失った。やがて終戦(8月15日)を迎えて幾月たっても民有地の焼け跡の整理が進まず、瓦や石ころが散乱するにまかせ手の施しようがなかった。
理由の主なものは、復興計画が確定していない、建築の制限、建築資材の入手難、大工不足、焦土の処理難、費用の増嵩などのほか、地主が土地を貸したがらず、電灯の復旧もはかばかしくなかったことなど、当時としてはやむを得ない事情が重なっていた。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P311
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仙台空襲 |
空襲被災者への救援・収容・配給 |
1945年(S20)7~8月 |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P323より
<罹災者収容先>
片平丁、八幡、東六番丁、連坊小路、上杉山通、五橋、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁、荒巻の各国民学校、巡査派出所など
<救援物資>(市配給課書類「配給・罹災関係」)
7月10日~11日、各地からの救援物資
・ 握り飯差し入れ 村田・燕沢・吉岡・塩釜・富谷・七北田・高砂・大沢・増田・大河原・根白石の各市町村、及び南警察署を通じて計2万2249個
・ 食糧営団から、米5俵と乾パン3万2250食
・ 山形県から、乾パン1万4000食
・ 漬物組合や納豆組合から、沢庵・納豆
・ 大崎地方事務所などから、むしろや縄
・ 気仙沼や桃生郡・牡鹿郡内から、米飯や干魚、サバ、マグロ
<罹災証明書> 被災者に公布され、非常用の米や味噌・醤油の配給券が配布された
<被災者への配給>
・ 7月10日、米・味噌・醤油
・ 7月14日、乾のり・焼きのり・コンニャク・下駄・石鹸
・ 7月15日、塩・下駄・草履・ろうそく・マッチ
・ 7月19日、タバコ、納豆・中古衣料品
・ 7月20日、ネル・タオルや縫い糸・縫い針・茶
・ 7月24日、ちり紙
・ 7月31日、傘
・ 8月初めになって、重要な工場・事業所の寄宿舎や全焼の被災家族に、鍋や食料品を配布
<病院や救護所へ>
・ 医薬品や冷凍魚、缶詰など配布
<乳幼児の死亡>
・ 救援物資は十分とはいえず、特に乳幼児の消化不良・栄養失調による死亡が増加
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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仙台空襲 |
空襲体験記 |
1945年(S21) |
<空襲体験記>
「番丁詳伝」P151に、『仙台空襲』に載せられた、空襲体験者の手記、空襲直後の状況の抜粋あり
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「番丁詳伝」P151
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仙台空襲 |
空襲の状況 |
1945年(S20)7月9日~10日 |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P318~319より
<空襲時の状況>
・警戒警報サイレン(7月9日に3回)
午前9:38(5時間後に解除) / 午後9:30頃、米空軍爆撃機B29(2機)松島湾上空を旋回 / 午後10:56(このころ松島湾上空にマリアナ基地発進のB29結集しはじめていた)
・空襲(7月10日)
午前0時ごろ、120機以上が3機ないし5機の編隊で、仙台上空へ到達し焼夷弾投下 / 空襲警報サイレンは(7月10日)午前0時5分から4回鳴らした時点で電力線断絶
仙台北警察署の記録(警察望楼台から当番警察官と学生挺身隊員が観測)では、米機来襲は、午前0:03~2:03の間に、2分~12分以内の間隔で波状攻撃を25回繰り返し、焼夷弾は、最初は市中心部に、後半は東部と南部地域に集中して投下されたように見えたという
・気象状況(10日午前0時~1時)は、快晴、気温15.7度、湿度79%、北西から0.9mの風 / 以後、夜明けまで、風は東2.7m→北北東2.3m→北北西1m→北西1.3m→北北西3.7mと変化、湿度はまず82%まで上がり、その後火災の中で68%まで低下
・「戦災関係綴り」によると、投下されたのは油脂(ナパーム)性焼夷弾50㎏級と100kg級、小型エレクトロン焼夷弾が混用されていた
<米軍の被害 日米の発表比較>
・ 東北軍管区司令部発表(7月11日):来襲した米軍機70機のうち、5機を撃墜、12機を撃破(これは事実ではなかった)
・ 米側の資料(米国立公文書館提供):(B29)6機損傷のみで、迎撃した日本軍機は1機のみ
・ 米軍資料には、「対空砲火で5~6%の損害をうけた」「帰還時に小破した6機と事故、損傷機あわせて13機が中継基地の硫黄島に不時着した」(「戦争のころ 仙台、宮城」P226)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P318~319/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P226
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仙台空襲 |
空襲の概要 |
1945年(S20)7月10日 |
<7月10日未明の仙台大空襲>
* 1945年(S20)7月10日未明、米軍第58航空団のB29、123機、2時間にわたって仙台市街地を空襲 / 先導機12機に誘導され高度3000~3200mで市南西部から侵入、事前設定した爆撃中心点に焼夷爆弾投下、目標区域周辺に反復し投下 / 爆撃の範囲は市電循環線の内側と、陸軍施設が集中する川内地区 / 3~5機が編隊で爆撃、何分か後に別の編隊が攻撃を繰り返す / 午前0時3分~2時5分までの2時間に25回周辺に反復し投下
* 避難で市民が向かった避難先は、広瀬川河畔、評定河原、大年寺山、愛宕神社、西公園、大崎八幡、北山、北仙台、台原、東照宮、宮城野原、遠くでは根白石、落合
・ 空襲の夜、軍管区副官部の将校たち、料亭で飲酒、2~3人が焼夷弾の直撃で亡くなった(「戦争のころ 仙台、宮城」P212~213)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P212~213、P214~216、P218
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瑞鳳殿 |
空襲で焼失/仙台市に移管 |
1945年(S20)/1952年(S27) |
* 1945年(S20)7月10日仙台空襲で焼失
・ 焼失後は、政宗の墓として白木の墓標が1基たてられただけだった / 伊達家の財政窮乏でかなり荒れ果てていたが、1951年(S26)に伊達家が京ヶ峯一帯を仙台市に寄付
* 1952年(S27)3月、伊達家所有の瑞鳳殿霊廟一帯の地域の所有権を仙台市に移管
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公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187/「重訂 宮城県郷土史年表」P554
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仙台駅(戦前) |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で駅舎、仙台鉄道局、仙台鉄道管理局が焼失 / 本局は仙台鉄道教習所に移り、さらに東二番丁の東北学院中学校の建物借用し移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P561
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「目で見る仙台の歴史」P150に、仙台鉄道局庁舎(大正8年)
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隅櫓 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大手門と共に焼失
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仙台市HP
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三原時計店 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年7月10日、仙台空襲で、大町の店舗を焼失
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三原本店HP
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天神社 |
移設 |
1667年(寛文7年) |
・ 市内榴岡にある。東照宮造営の際、その地にあった天神社を寛文7年、榴ヶ岡に移す。1795年(寛政7年)に丹塗の向唐門を残して焼失。 その後に社殿再建 / 筆塚、句碑が並ぶ
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「目で見る仙台の歴史」P59
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「目で見る仙台の歴史」P59
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博覧会・フェア |
科学博覧会 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)9月末~11月初め、開催
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P712
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秋保電鉄 |
秋保石材電気軌道/秋保電気軌道(通称、秋保電鉄)/仙南鉄道秋保線/秋保線廃止 |
1922年(T11)/1925年(T14)/1959年(S34)~1961年(S36) |
* 1922年(T11)10月29日、秋保石材軌道株式会社が株式会社となる
* さらに、T14年1月12日に秋保電気軌道株式会社と改称
* 1925年(T14)6月13日、電気鉄道に切り替え(全線の電化と軌道拡幅が完成し電車に)
<バスも運行>
* S24年4月に長町~鈎取、S26年4月に長町~秋保温泉、同8月に仙台駅前~秋保温泉など、S33年までに順次6路線運行開始(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P601)
<仙南自動車>
* 1950年(S25)、仙台市交通部から岩沼以南の路線を譲り受けて、仙南自動車が営業開始 / 以後、仙台と荒浜・白石・角田・相馬・青根などを結ぶ路線開設
<仙南交通秋保線となる>
* 1959年(S34)7月3日、秋保電気軌道が仙南交通自動車と合併し、仙南交通となる(鉄道は仙南鉄道秋保線と改称)
* 1961年(S36)5月7日、秋保線廃止、長町駅から「さよなら列車」運行
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「仙台市史 年表」P101、P102、P103、P121、P122/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P600~601に、旧秋保電鉄、旧仙南交通自動車、仙南交通について記述あり/「重訂 宮城県郷土史年表」P591/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P527(S14年、沿線の様子を伝える秋保電気軌道リーフレット)
/さよなら電車(S36年5月)は、22-09、「市民の戦後史(仙台市)」P124)/「新・目で見る仙台の歴史」P187
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秋保電鉄 |
秋保石材軌道開通 |
1914年(T3) |
* 1914年(T3)10月、覗橋~茂庭間開通
* 1914年(T3)12月23日、秋保馬車軌道、長町~湯元(後の秋保温泉)間16キロが開通 / 秋保石(凝灰岩の一種)と旅客の輸送が目的 / 箱型の客車を馬が曳いて走った
・ 停車場は、長町、西多賀、鈎取、太白山、茂庭、北赤石、覗橋
・ 所要時間は1時間半
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「重訂 宮城県郷土史年表」P353/8「仙台年表」P189/「仙台市史 年表」P97 /「仙台きょうはなんの日」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P198
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22-45 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P51/「目で見る仙台の歴史」P156と「新・目で見る仙台の歴史」P147に「秋保馬車軌道」/同P156(秋保石の運搬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P198
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体育館 |
秋保体育館 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)、秋保体育館開館
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P286
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
福祉ボランティアのまちづくり事業 |
1985年(S60) |
→ 項目「福祉ボランティアのまちづくり事業」参照
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タクシー |
福祉タクシー |
1977年(S52) |
* 1977年(S52)4月(11月?)、仙台市の個人タクシー事業協同組合、福祉タクシー120台実施
* 1977年(S52)12月5日、仙台市のフタバタクシー、車いすのまま乗車できる障害者用タクシー開始
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「続・ 宮城県郷土史年表」P66、P76、P74
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火災(地域) |
福田町 |
1902年(M35) |
* 1902年(M35)4月6日、宮城郡高砂村福田町、72戸焼失
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「仙台市史 年表」P92
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俯瞰撮影禁止など |
禁止決定 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)12月12日の「軍機保護法」施行規則改正により、軍機保護のため、ビルや高台からの風景写真、俯瞰撮影を禁止
* 1944年(S19)8月3日、撮影禁止区域、全国的に拡大
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「日録20世紀 1939」P35/「週刊20世紀 1939」P27/「仙台年表」P213
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青葉神社 |
神輿渡御復活 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)5月23日、青葉祭 / 春の例祭で神輿渡御が13年ぶりに行われ、あわせて甲冑の武者行列も
* 1961年(S36)5月のゴールデンウィーク、全市あげて青葉神社祭典(武者行列、神輿渡御、相馬浪江の相撲甚句や宝財おどり)
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「仙台市史 年表」P115/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182、P714
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182の写真49/「市民の戦後史(仙台市)」P226(5月の青葉神社例祭の武者行列)
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大崎八幡宮 |
社殿落成 |
1604年(慶長9) |
<社殿落成年、資料により異なる>
* 伊達政宗が仙台開府の折、岩出山城から現在地に移し、1604年(慶長9)に社殿が落成(「宮城県百科事典」P115)
* 1604年(慶長9)9月、大崎八幡宮の造営に着手(「重訂 宮城県郷土史年表」P75)
* 1607年(慶長12年)8月12日、大崎八幡宮の造営なる(「仙台市史 年表」P25、「重訂 宮城県郷土史年表」P77)
* 1607年(慶長12)、藩祖政宗が創建(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125)
* 1903年(M36)4月15日、社殿が国の特別保護建造物に指定
* 1952年(S27)11月22日、本殿、石の間、拝殿が「文化財保護法」に基づく国宝に指定(文化庁、国指定文化財データベース) / 桃山時代の権現造の典型的な建築、入母屋造柿葺、内外とも漆塗り、胡粉彩色、彫刻、金具
* 1966年(S41)6月11日、長床(ながどこ)が国の重要文化財に指定(国指定文化財データベース)
* 1966年(S41)~1968年(S43)6月、修復工事、創建当時の華麗な姿を再現
* 1970年(S45)10月17日、石造の大鳥居、県の重要文化財に指定(亀岡八幡宮の石造大鳥居と鳥居額とともに)
* 1984年(S59)9月15日、神輿、20年振りに復活
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文化庁、国指定文化財データベース/「宮城県百科事典」P115 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125、P214~215/「重訂 宮城県郷土史年表」P75、P77、P560、P664/「仙台市史 年表」P25、P92、P118/「仙台年表」P225/「続・ 宮城県郷土史年表」P181
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99-128、99-129/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215の写真62(修復なった大崎八幡神社)/「目で見る仙台の歴史」P40~41(社殿、同千鳥破風鶴の彫刻)/同P190(どんと祭)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(どんと祭、カラー)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(修復がすんだ社殿)/同P225(1月14日のどんと祭)
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スポーツ大会(戦後復興期) |
社会人野球 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)秋、第2回社会人野球四地区オールスター大会
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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敗戦後の諸相・仙台 |
石炭飢饉で火葬場にも赤信号/銭湯は客急増 |
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<戦後も燃料飢饉>
・ 長町の鉄道操車場付近で、機関車が焚いた石炭の燃え残りを拾う主婦や子供の姿が多くなる
・ 戦災家屋の焼け残りの木材、墓場の塔婆、うっかりすると板塀まで消えて無くなっていた
・ 1946年(S21)12月、冬暖房用の亜炭、輸送力不足で、市は国鉄や各事業所のトラックを借り、足りぬ場合は進駐軍の救援も頼んで輸送した
<火葬場にも赤信号>
・ 仙台の火葬場は北山の市営と新寺小路の会社経営の2か所で、冬は死亡者が日に20人も珍しくない / 石炭配給の中止状態が続き、新寺小路の火葬場では、燃料持参しないと焼いてもらえない事態も発生
<銭湯は客急増>
・ 市の公益浴場、戦前は大赤字経営だったが、S20年は12万人、S21年は16万人が利用
・ 利用料金はS20年は10銭、S21年は一気に35銭に
・ 湯銭にもヤミ値(一般の浴場)あらわれ、S21年当時、正午~2時が1円、2~3時が50銭、3時の営業開始時間からマル公の20銭
・終戦当時は銭湯はたいてい電熱で沸かしたので、停電日は休業、電灯の暗い夜の間は“板の間かせぎ”の絶好の場で、身ぐるみ持ち去られることが多かった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P82
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文学碑など(仙台) |
石川善助の詩碑 |
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* 1958年(S33)9月27日、詩碑建立 / 愛宕山神社のかたわら、仙台市を一望できる場所にある
「化石を拾ふ。 光の澱む切り通しの中に、童子が化石を捜してゐた。 黄赭の地層のあちこちに、白いうづくまる貝を掘り、遠い古生代の景色を夢み、母の母なる匂ひを嗅いでゐた。 もう日は翳るよ、空に鴉は散らばるよ。 だのに、なほも探してゐる。探してゐる。 外界のこころを、生の始めを、母を、母を」
・ 「番丁詳伝」P104~105に、国分町生まれの詩人石川善助の生い立ち、経歴、詩の世界につき記述あり
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191/「番丁詳伝」P104~105
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青葉城 |
石垣損壊 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)6月16日、新潟地震で、仙台は震度5、青葉城址の石垣の一部が崩れる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P614
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仙台空港 |
矢ノ目飛行場時代 |
1940年(S15)~1964年(S39) |
<戦前は軍用>
* 1940年(S15)11月、矢ノ目飛行場、熊谷陸軍飛行学校増田分校教育隊練習基地として名取郡下増田村・玉浦村に飛行場が建設される(「仙台市史 年表」P110)
* 1939年(S14)、玉浦飛行場造成。 名取郡玉浦村矢野目と同郡下増田にまたがる松林と農地300haを買収し、突貫工事で造成。熊谷陸軍飛行学校増田分教場としてパイロット養成にあたる。2年後に、熟練パイロット養成の部隊に通信隊を併設。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1945年(S20)、本土決戦に備えて隼(はやぶさ)、鐘馗(しょうき)、疾風(はやて)などの偵察隊や重爆撃機を配備したが、活躍の場がないまま敗戦。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
<戦後、進駐軍(米軍)が接収>
* 戦後、米軍が接収し弾薬集積場として使用
<防衛庁、運輸省が共同使用>
* 1955年(S30)?1956年(S31)?、「矢ノ目飛行場」がGHQ(連合軍総司令部)より返還され、防衛庁と運輸省が共同使用(空港の管理は防衛庁)
* 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設
<民間機、定期航空路線開設>
* 1957年(S32)4月22日、「仙台飛行場」開港式、民間空港として使用開始、仙台~東京間の定期航空路線開設(第1便運行)
* 1957年(S32)4月24日、矢ノ目飛行場、民間空港「仙台飛行場」として供用開始、1番機運航
* 1958年(S33)6月1日、全日空、仙台~札幌便就航
* 1963年(S38)5月10日、全日空機が仙台空港で着陸に失敗し、8人重軽傷
* 1964年(S39)3月17日、矢ノ目飛行場、第二種空港指定を受け、「仙台空港」と改称(「仙台市史 年表」P123)
<所管、防衛庁→運輸省へ>
* 1962年(S37)6月25日、仙台空港は防衛庁より運輸省へ所管換えとなる(「重訂 宮城県郷土史年表」P605)
* 1964年(S39)8月、飛行場面の管理が、防衛庁から運輸省航空局へ(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P605)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P605/「仙台市史 年表」P110、P120、P123/「仙台あのころこのころ八十八年」P253/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P605、P608/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/仙台国際空港HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P99(矢ノ目飛行場、就航したフレンドシップ機)/「市民の戦後史(仙台市)」P145(S38年5月、着陸失敗事故の全日空機)
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亀岡八幡神社 |
県重文指定 |
1970年(S45) |
伊達藩四代綱村が建立
* 1683年(天和3)落成、仙台東照宮や塩釜神社と並んで豪壮な神殿づくりで、仙台藩の氏神だった
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1966年(S41)、新社殿落成
* 1967年(S42)、境内の一部に、市の老人福祉センターが完成(大浴場、休養室、健康相談室)
* 1970年(S45)10月17日、石造大鳥居と鳥居額、県の重要文化財に指定(大崎八幡宮の石造大鳥居とともに)(「重訂 宮城県郷土史年表」P664)
* 1978年(S53)12月16日、境内に「輜重兵第二連隊の碑」建立
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187~188/「重訂 宮城県郷土史年表」P664/「続・ 宮城県郷土史年表」P89
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「仙台市史写真集 市民の戦後史」P21/「目で見る仙台の歴史」P65に社殿と内部
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高等学校(新制) |
県立聾学校/宮城県立 聴覚支援学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1902年(M35)、宮城県師範学校附属小学校に唖生部開設
* 1906年(M39)、同唖生部廃止
* 1914年(T3)5月、「宮城県立盲唖学校」開校式(外記丁の旧宮城師範構内)
* 1925年(T14)9月、北七番丁に新校舎落成、
* 1935年(S10)8月、東九番丁校舎に移転
* 1937年(S12)3月、「盲部」および「聾唖部」を置き、各部を初等部・中等部に分ける
<学制改革後>
* 1948年(S23)4月、学校教育法制定で、盲・聾学校教育の義務制施行 / 「宮城県立盲唖学校」が学制改革で小・中学部、高等部専攻科を編制、同時に同校盲部が「宮城県立盲学校」、聾啞部が「宮城県立聾学校」となる
* 1951年(S26)6月、聾学校が分離し、長町鹿又の新築校舎に移転
・ 高等部には、普通教育のほか、被服、理容、工芸、塗装の各科 / 高等部専攻科では、職業科目、保健体育に重点、社会生活に必要な聴能訓練、言語能力の拡充を目指す
* 2009年(H21)4月1日、校名を、宮城県立ろう学校から宮城県立聴覚支援学校に校名変更
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P518
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高等学校(新制) |
県立盲学校 |
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<前史>
* 1903年(M36)5月、東六番丁の日本キリスト教会に、「盲人日曜学校」開設
* 1907年(M40)4月、私立東北盲人学校開設(盲人日曜学校閉鎖)
* 1914年(T3)5月、「宮城県立盲唖学校」開校式(外記丁の旧宮城師範構内)
* 1925年(T14)9月、北七番丁に新校舎落成、
* 1935年(S10)8月、東九番丁校舎に移転
* 1937年(S12)3月、「盲部」および「聾唖部」を置き、各部を初等部・中等部に分ける
* 1937年(S12)7月1日、ヘレン・ケラー女史来校
* 1945年(S20)7月21日~10月24日、栗原郡宮野村能持寺に疎開学寮開設
* 1947年(S22)5月26日、フラナガン神父来校
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宮城県立視覚支援学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P517~518
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「目で見る仙台の歴史」P185に、「フラナガン神父来校」、「ヘレンケラー女史来校」)
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医療機関 |
県立愛宕病院 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)、性病治療のため、県立愛宕病院、設立
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P396
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養賢堂 |
県民錬成道場として使用/ |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)11月10日、県民錬成道場養賢堂開堂式(学頭 阿刀田令造)
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「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499
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木材応召 |
県庁構内の大欅 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)2月頃、宮城県庁構内の大欅(樹齢約300年)、木材応召により伐採(斧入式挙行)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P459
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仙台合同庁舎 |
県庁構内 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)4月1日、県庁構内外記丁105に竣工開庁(地下2階、地上9階)、東北財務局ほか16官署が入る
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「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「市民の戦後史」P181
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「市民の戦後史(仙台市)」P40(旧・東北財務局庁舎)/同181(仙台地方合同庁舎)
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野球場 |
県営宮城野球場(宮城球場) |
1950年(S25) |
→ 項目「県営宮城野球場(宮城球場)」参照
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競馬 |
県営(市営)競馬復活/県営廃止、市に移譲/市営も廃止 |
1946年(S21)/1952年(S27)/1960年(S35) |
場所は仙台市長町郡山(のちの飯田団地と宮城自動車学校のところ)にあった
* 1946年(S21)11月16日、宮城県営仙台競馬復活(仙台市史 年表」P114、「仙台市史10 年表」P314)
* 1946年(S21)11月、仙台市営競馬(長町郡山の市営競馬場)が7年ぶりに復活、戦災復興事業の資金調達のため
* 1952年(S27)、仙台競馬場の県営競馬が廃止となり、競馬場が仙台市に移譲される(「仙台市史 年表」P118)
* 1960年(S35)3月13日、仙台市営競馬廃止を仙台市議会で決議(「仙台市史 年表」P121、「重訂 宮城県郷土史年表」P595では3月23日決議)
* 1960年(S35)3月、仙台市営競馬廃止(「仙台市史 続編第2巻」P200)
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「「重訂 宮城県郷土史年表」P314、P514、P595/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 年表」P118、P121/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200の写真57(市営競馬)/「市民の戦後史(仙台市)」P44(S24年長町で市営競馬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P236(市営競馬のマッチラベル、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P42(S33頃)
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男女共学 |
県内高校で初 |
1973年(S48) |
<戦後学制改革で>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P275)
* 宮城県第三高等女学校が、戦後学制改革で宮城県第三女子高等学校となり男女共学実施(2年間で共学廃止)
* 仙台商業と仙台女子商業が形の上で合併し男女共学としたが、実質の伴わない共学で、1957年(S32)に元の2校に分離独立
* 1973年(S48)開校の県立泉高校が、公立私立を問わず、仙台市内では初の男女共学高校(「仙台市史 特別編4 市民生活」P274)
* 1950年(S25)4月8日、県立仙台第三高校、県内初の男女共学を採用(「仙台市史10 年表」P323)→これは間違い(県立仙台第三高校の開校は1963年(S38)年1月 同校HPより)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P274~275/「仙台市史10 年表」P323
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学童疎開 |
県内割り当て |
1944年(S19) |
* 1943年(S18)12月10日、文部省、学童の縁故疎開促進を発表
* 1944年(S19)6月30日、学童疎開促進要綱、閣議決定(国民学校初等科児童の集団疎開) 7月下旬~9月上旬で全国46万人が集団疎開
******************************
<「仙台市史 続編第1巻」P41、P53>
* 1944年(S19)7月、東京の学童1万5000人の集団疎開、宮城県に割当(遠刈田、鳴子などの温泉や松島の旅館などに収容)(P41) / 同書P53では、東京から宮城県内への学童集団疎開数は1万1500人
<「重訂 宮城県郷土史年表」P502>
* 1944年(S19)8月10日、東京方面からの疎開児童1万1115人が宮城県に割りてられる
<「ものがたり東北本線史」P531~532>
宮城県内へは、東京都浅草区、小石川区、杉並区の児童が、秋保、白石、小原、鎌先、鳴子、川渡、松島、古川などへ疎開
<「目で見る仙台の歴史」P169>
* 1944年(S19)8月11日~17日、第1陣(浅草、小石川の学童)、付き添い含め1万1800余名、県内各温泉や松島へ
* 1944年(S19)8月下旬中心に、第2陣(杉並区の学童)
<「戦争のころ 仙台、宮城」P144~150>
* 1944年(S19)夏~秋にかけ、東京都(小石川区と浅草区)の26の国民学校生(3~6年生)が学校ぐるみで1万7535人、教職員1196人、計1万8731人が宮城県内に学童集団疎開(東京都編「資料・東京都の学童疎開」))
・ 宮城県の資料では、1万5471人
・ 疎開先は、県内30市町村、戦争が終わるまでほぼ1年間、温泉地や観光旅館、寺院、民家などで過ごす
・ 1994年(S19)8月4日~9月24日、臨時列車で13時間かけて到着
・ 第1次分 小石川区学童6700人が鳴子温泉と松島町、浅草区学童6700人は遠刈田、川渡、小原,鎌先、作並の各温泉と松島町
・ 1994年(S19)暮れまでには、杉並区の学童(11国民学校)が高舘村、松山、若柳、吉岡、角田、涌谷、金成、築館、登米、米谷、佐沼の各町へ、浅草区の学童(3国民学校)が秋保温泉へ、東京第一師範付属が中新田町へ疎開
・ 翌年3月、6年生が卒業して帰京すると、4月から新3年生が到着
・ 疎開先での生活の記述あり(日課、食糧事情、親の面会、寂しさからの脱走、地元の受け入れ、帰郷した6年生が空襲で犠牲など)
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* 1945年(S20)9月26日、疎開児童の復帰を指令、学徒隊を解体
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20、P21/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41、P53/「ものがたり東北本線史」P531~532/「重訂 宮城県郷土史年表」P502、P506/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P144~150
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「目で見る仙台の歴史」P169に「学童疎開列車内風景」
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簡易保険保養センター |
県内初 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)12月24日、県内初の松島簡易保険保養センターがオープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P48
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ネオンサイン |
省エネ消灯 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)6月16日、省エネで、ネオン9割近く消灯
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「続・ 宮城県郷土史年表」P112
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木炭バス(仙台) |
登坂テスト成功 |
1939年(S14) |
仙台市街自動車、初めての代燃装置をつけた木炭バスが仙台城址入口の登坂テストに成功
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P90
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98-105
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在外同胞救出仙台学生同盟 |
発足~解散 |
1946年(S21)2月~1950年(S25)2月 |
* 1946年(S21)2月~1950年(S25)2月、仙台在住の男女学生生徒たちが、敗戦半年後から4年間、復員兵や海外からの引揚者を仙台駅で世話 (湯茶の接待、相談、宿舎提供、健康診断)
・ 412人の学生生徒が参加
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在外同胞救出仙台学生同盟史(昭和25年刊)
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78-01、78-02、78-03、78-04、78-05、78-06
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公会と隣組 |
発足~廃止 |
1940年(S15)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月15日、仙台市行政の下部機関であった区長制度を廃し、公会を全国に先駆けて創設 / 市内に341の公会を編成、学区に基づく18の連合公会に分属させた / 公会は直ちに隣組(約4300)を結成、戦時体制は市民生活に直接入り込んだ / 市では藤崎百貨店からの寄付で公会旗と連合公会旗を制定し、それぞれに交付した
「公会は、国民生活の地域的統制単位として、庶務連絡、生活物資の配給、公債の強制割当て、金属その他軍用物資の供出、防空演習、出征兵士の送迎、納税と貯蓄、特配物資の配給そのほか市民生活全般にわたることを実行した / 仙台市では「仙台市公報」を回覧板として配布、また付録として『公会通信』や『少国民通信』を配布」(「仙台市史 続編第1巻」P15、「仙台市史 特別編4 市民生活」P461)
・ (戦時下)いっそうの統制を達成するために、区制度や戸主会をはじめとする市民組織の合理的効率的な再編成が課題となっていった。それまでに、衛生組合・納税組合・町内会・部落会・契約講・戸主会・防火組合・青年団・婦人団体など多種多様な団体が、地域の必要によって結成されてきたが、それらの組織の複雑さを解消すべく、一貫した組織系統のもとに市民の体制を一元化しようと、渋谷徳三郎市長が提案
・ 内務省訓令「部落会町内会等整備要領」に基づき、1940年(S15)11月実施
・ 公会は、100~200戸程度を標準とし、区域内の世帯主と法人が会員、近隣の10戸程度で組、同一小学校区の公会で連合公会、公会には常会をおき重要事項以外の決定を行う。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P460)
* 1941年(S16)4月25日、「仙台市隣組行進曲」発表音楽会(仙台市公会堂)
「青葉城下の街々に銃後を守る手を組んで 助け合いましょう助けましょう
親和の誓いなごやかに 行くよわれらの隣組」
大政翼賛会仙台支部、仙台市、河北新報社が募集、審査員は土井晩翠ら5人
当選作は、宮城第一高女音楽教師古宇田明子の作詞、
これに市音楽担当視学 の海鋒義美が作曲
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51)
・6月に日本コロンビアからレコード化される
(唄 霧島昇・松原操夫妻、高橋裕子)
* 1941年(S16)9月15日、中田、六郷、七郷、岩切、高砂の5か村が仙台市に合併、全市の公会は400、連合公会は23になる / S18年11月、公会区域改訂で、168公会に統合
* 1941年(S16)7月1日、隣組の常会設置(「生活と風俗」P96)、全国の隣組一斉に常会を開く、ラジオ番組通じ、内務省、司会・指導(岩波ブックレット「年表 昭和史」P18)
* 1941年(S16)、ラジオ「常会の時間」(毎月1回)開始
* 1942年(S17)8月、公会なども大政翼賛会の指導下となる/ 同会県支部長が委嘱する世話役(公会長・連合公会長兼任)、世話人(隣組長兼任)を置き、各公会、隣組の常会を指導し大政翼賛運動の徹底をはかる仕組みとなる
* 1943年(S18)2月3日、仙台市隣組回覧板発行
* 1943年(S18)11月12日、公会を164に統合して連合公会を廃止
* 1947年(S22)4月1日、仙台市が公会制度を廃止(公会177、隣組4,584) / 旧泉市、旧宮城町、旧秋保町の部落会や隣組も同時期に廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P14~18、「仙台市史 特別編4 市民生活」P460~463に、仙台市の公会について記述あり
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18、P26/「市制八十周年記念 仙台の歴史」P147/「仙台市史 年表」P110、P111、P112、P114/「仙台市史10 年表」P305、P315/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51
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公会の慰安演芸大会は、06-17、06-11など写真分類G-27-03の全写真/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P15に、「仙台市公報」「公会通信」「少国民通信」の写真/「目で見る仙台の歴史」P169に「隣組回覧板」/「新・目で見る仙台の歴史」P172(配給を受けようと並ぶ人の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(S16年、こども隣組双六)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P461(S16年、木町通り第一公会第十八隣組栄養食共同炊事場、S16年外記丁隣組の炊事風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P462(S17年東裏丁公会の金属供出の様子、S18年仙台市隣組回覧板)
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大日本婦人会 |
発足 |
1942年(S17)2月2日 |
「愛国婦人会」と「大日本国防婦人会」「大日本連合婦人会」がS17年に全国的に統合されて「大日本婦人会」になった
* 1942年(S17)4月28日、大日本婦人会仙台支部結成(東二番丁国民学校講堂で結成式、仙台連隊区司令官、仙台師団長、仙台地方海軍人事部長などの軍関係者が祝辞、仙台師団兵務部長が銃後を守る「婦道」の精神発揚を講演)
* 1942年(S17)6月14日、大日本婦人会宮城県支部結成
* 1945年(S20)6月13日、大日本婦人会解散、同年3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された
Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P489/「仙台年表」P212/「仙台市史 年表」P112/「日録20世紀 1945年」P16
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16-06/「新・目で見る仙台の歴史」P162(大日本婦人会のタスキ)
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郵便番号制度 |
発足 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)7月1日、スタート
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「重訂 宮城県郷土史年表」P641
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