項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
ユネスコ協会(仙台) |
発足 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月19日、仙台ユネスコ協力会発足
* 1948年(S23)、第2回ユネスコ運動全国大会(於仙台)/ 14回・40回も仙台で開催
* 1951年(S26)、仙台ユネスコ協会と改称
* 1954年(S29)、ユネスコ子供学校創設
* 1955年(S30)、第1回仙台ユネスコ夏期学校開催
* 1957年(S32)、社団法人仙台ユネスコ協会に改組
* 1957年(S32)6月16日、仙台ユネスコ会館落成(現・青葉区大町1-2-2、晩翠草堂の隣) / 2011年の東日本大震災で、ユネスコ会館被災⇒改修不能
これ以降は、「仙台ユネスコ協会HP」の「仙台ユネスコ協会のあゆみ」参照
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「市民の戦後史(仙台市)」P101/仙台ユネスコ協会HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P585
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「市民の戦後史(仙台市)」P101(ユネスコ会館)
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スポーツ少年団 |
発足 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)、仙台市スポーツ少年団発足 / クラブ活動を行っていない子弟対象 / 地域別(学区、町内会、子供会ごと)と種目別の少年団
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P481
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青年学校 |
発足 |
1935年(S10) |
<「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)>
1935年(S10)4月1日、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学)
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311>
・普通科(尋常小学校卒対象)は2年間(科目は、修身および公民科、普通学科、職業科、体操科、女子にはこのほかに家事および裁縫科)
・本科(高等小学校卒対象)は男子5年間(体操の代わりに教練)、女子3年間 / 土地の事情により1年短縮可
・昭和14年から義務化され、第1期検閲までの訓練を入営前に完了が目標で、実業補修の影が薄れ、教練のみが強化された
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P452>
・ 陸軍省の強い要請に基づき、在郷軍人会・青年団・青年学校を軍事的な統一組織にしてゆくためのものだったことを物語っている
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* 1935年(S10)7月31日、デパート藤崎に私立藤崎青年学校(男子38人)、片倉製糸工場内に私立片倉仙台青年学校(男子30人、女子570人)設置
* 1935年(S10)8月1日、仙台市青年学校16校開校(16あった実業補修学校や青年訓練所を所在の町名の青年学校とする、補習学校と青年訓練所の両方があったのは、南小泉・長町・西多賀・原町の4つで、原町以外の3つには青年学校となってからも女子部があった) / 仙台市工業専修学校が仙台市工業青年学校に、仙台市商業専修学校が仙台市商業青年学校になる(工業青年学校、商業青年学校は、S16年3月10日廃止)
* 1939年(S14)4月26日、青年学校、男子のみが義務制になる
* 1942年(S17)3月31日、仙台市立青年学校、17校廃止
* 1942年(S17)4月1日、仙台市立独立青年学校4校設置
* 1947年(S22)、青年学校廃止(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452)
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「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451~452/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史10 年表」P286、P304/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/
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06-06/仙台市史 特別編4 市民生活」P451(秋保村青年学校の旗、カラー)
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宮城交通 |
発足 |
1970年(S45) |
<前史>
* 1962年(S37)4月17日、塩釜交通・古川交通・仙台鉄道各社が合併し、宮城バス株式会社を設立(「仙台市史 年表」P122、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P603)
* 1964年(S39)4月14日、仙北鉄道株式会社、宮城バス株式会社と合併(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P602~603に詳細記述あり)
* 1968年(S43)3月24日、仙北鉄道登米線を廃止(50年の歴史に終止符)
* 1970年(S45)5月28日、宮城バス・宮城中央バス・仙南交通の私鉄3社、株主総会で合併を決定(「重訂 宮城県郷土史年表」P661)
<発足以降>
* 1970年(S45)10月、仙南交通・宮城バス・宮城中央交通が合併した宮城交通株式会社、営業運転開始(「仙台市史 年表」P127)
* 1979年(S54)1月20日、デマンド・バス運行
* 1983年(S58)6月16日、北仙台~青根温泉など長距離運行廃止
* 1984年(S59)1月15日、市営バスと宮城交通バスの共通乗車券発売開始
* 1985年(S60)10月16日、築館~仙台間に高速特急バス運行
* 1986年(S61)12月27日、東北運輸局が、仙台市交通局(市営バス)と宮城交通バスの、泉市加茂・泉パークタウン・名取市閖上へ共同乗り入れを発表
* 1988年(S63)4月12日、4年ぶりに終日バス運行
<運賃>
* 1975年(S50)12月13日、最低料金50円に改訂
* 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ)
* 1977年(S52)12月1日、値上げ(塩釜~利府が220円)
<ストライキ>
* 1979年(S54)12月20日、48時間スト
* 1984年(S59)4月13日、宮城交通労組が24時間スト
* 1984年(S59)4月17日、スト
<仙台関連の交通史略年表(明治10年~平成4年)> →「仙台市史 特別編4 市民生活」P205に、乗合馬車・宮城木道社・舟運・バス・バス専用レーン・鉄道・市電・新幹線・地下鉄・空港・トラックターミナル・バイパス道路・自動車道の年表
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「仙台市史 年表」P122、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P638、P661、P666/「続・ 宮城県郷土史年表」P48、P73、P74、P92、P105、P163、P172、P175、P195、P215、P243/宮城バスについては、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P602~603/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204、P205
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JR東日本 |
発足 |
1987年(S62) |
<これ以前は、項目「国鉄」へ>
* 1987年(S62)4月1日、国鉄の分割民営化、JR東日本旅客鉄道株式会社発足
* 1989年(H1)1月25日、JR東日本、県内初の駅舎内コンビニ出店(東北線白石駅)
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「続・ 宮城県郷土史年表」P221、P258
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自警団 |
発足 |
1922年(T11) |
<「番丁詳伝」P71より>
・ 自警団は、消防組の補助機関として町内につくられた民間組織で、犯罪予防、災害防止、衛生・交通思想の普及を担う / 大正11年頃から結成され、1934年(S9)末には市内で135にのぼる / 火事の時には現場に出て非常線の警戒援助、傷病者の救護、家財道具などの搬出援助、その盗難予防警戒にあたる / 特に町の催し物の時には提灯を下げて交通整理にあたった / 日中戦争期には防護団、さらに警防団となった
・ 市中心部の各自警団名と設立年一覧表(「番丁詳伝」P71)
* 1922年(T11)10月9日、仙台市自警団が発足
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「番丁詳伝」P71、P130/「仙台市史 年表」P101
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22-35 (大正10年の藩祖政宗公三百年祭の奉祝アーチに立町自警団の字)
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仁丹マーク |
発表 |
1905年(M38) |
* 1905年(M38年)2月、「仁丹」、日露戦争最中に懐中薬として発売
・ 大礼服でデザインされた「仁丹マーク」は、発売当初の容器や宣伝看板のデザインとして使われている
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森下仁丹のHP
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44-19
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紙幣・硬貨(戦後) |
発行年 |
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* 1950年(S25)1月7日、日本銀行券千円札発行(聖徳太子像)
* 1951年(S26)、日本銀行、新五百円札を発行
* 1953年(S28)12月31日、この日限りで、銭貨(50,20,10,5の各銭)は流通停止、1円黄銅貨も流通停止
* 1957年(S32)10月、五千円札発行
* 1957年(S32)12月11日、100円硬貨を発行、100円紙幣が次第に消えてゆく
* 1963年(S38)11月1日、新千円札発行(伊藤博文)
* 1982年(S57)4月1日、500円硬貨発行
* 1984年(S59)11月1日、日銀15年ぶりに新札発行(一万円札=福沢諭吉、五千円札=新渡戸稲造、千円札=夏目漱石の3種)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29、P63/「重訂 宮城県郷土史年表」P540、P548、P586/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44、P47、P51、P76、P78
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東日本大震災 |
発生 |
2011年(H23) |
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災発生 / 東北地方太平洋沖地震による災害と、これに伴う福島第一原子力発電所事故による災害
<参考文献>「東日本大震災 仙台市 復興五年記録誌」(仙台市 平成29年3月刊)https://www.city.sendai.jp/shinsaifukko/shise/daishinsai/fukko/5nenkiroku.html
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昭和三陸大地震津波 |
発生 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)3月3日発生、マグニチュード8.1 / 岩手、宮城、中心に大津波被害甚大(死者・行方不明者 3000余人、うち宮城県が300余人)
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明治三陸地震津波 |
発生 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)6月15日発生、マグニチュード8.2~8.5 / 岩手、宮城、青森中心に大津波被害甚大(死者・行方不明者 約2万2000人、うち宮城県が3400余人)
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ユニオンビール |
発売開始 |
1922年(T11) |
* 1922年(T11)4月3日、日本麦酒鉱泉が発売開始
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キリンHP「日本のビール歴史年表」
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ユニオンビール看板が、53-67、99-026、44-10、99-003に写る
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テレビアンラジオ |
発売開始 |
1936年(S11)7月1日 |
山中電機が発売した、時計つきのラジオ
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「日録20世紀 1936年」P30
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53-14に「テレビアンラジオ」の広告看板あり
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流行歌「ミス仙台」 |
発売 |
1936年(S11)夏 |
* 1935年(S10)頃、西城八十作詞、今関裕而作曲「ミス仙台」は、売れっ子流行歌手コロンビヤ・ローズの甘い声でレコーディングされ大流行となり、仙台だけでなく全国に仙台・一番丁の名を高からしめた。戦後は花柳界にわずかに保たれ忘れかけられていたが(昭和)40年代に入り再び歌われるようになった。 一番町だけでなく、仙台の最初のイメージ・タウン・ソングとして忘れられない歌のひとつである。
(「番丁詳伝」P197)
<歌詞>
一、森の都の花乙女 月に掉さす広瀬川
若きひと夜の恋ごころ
仙台 仙台 なつかしや
二、夏の祭りは七夕に 星も逢瀬の笹の露
君と歩みし思い出や
仙台 仙台 なつかしや
三、青葉城下に秋立てば ネオン色めく一番丁
三味の音いろも泣きぬれて
仙台 仙台 なつかしや
*「 (日中戦争の)戦地では作戦が一段落するたびに部隊ごとに集会が開かれました。食べ物が出て酒が出て、後はお決まりの演芸会になります。仙台の部隊で必ず歌われたのはご当地ソング「ミス・仙台」(西城八十作詞、今関裕而作曲、二葉あき子歌)でした。昭和11年夏に発売されると仙台市民の間で爆発的に歌われた歌です。(戦地では)みんなで何度も何度もこの歌を歌って故郷に思いをはせたということです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
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「番丁詳伝」P197/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34
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宮城婦人会 |
発会 |
1899年(M32) |
* 1899年(M32)2月12日、宮城婦人会、日本赤十字社宮城支部で発会式
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「仙台市史 年表」P90
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈 |
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<東一番丁へ移される>
・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」
・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。
東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。
一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。
人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。
こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。
三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(1)仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
<バラック建ての仙台駅周辺>
・ 終戦直後いちはやくヤミ市が出現、物流はもっぱらこの“まちの卸屋”で行われ、「東北の上海」などといわれた
* 1945年(S20)9月、露店にヤミ市が並ぶ(「仙台あのころこのころ八十八年」P250)
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋(エックスバシ)間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけに望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
・ 名掛丁には、通称“浅草楽天地”と呼ばれたバラックのマーケット街が出現、軍物資、ヤミたばこ、覚醒剤などが密売され、夜の女や不良の温床でもあった(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
・ 「仙台でのやみ市は、仙台駅前地区、東一番丁地区に10カ所あまりの青空市場ができたが、そば、ウドン、パン、いもなどの食べ物を中心に、食料品、衣料品、雑貨など統制物資までをも加えて法外な値をつけていた。市(いち)とまではならないが、東一番丁の空き地、大道に露天商が並び、戦後しばらく定職をもたないものはヤミ商人になったとまでいわれるようになる。(中略) 昭和21年5月の一斉取締りで仙台北警察署は東一番丁、仙台駅前、大学病院前の3か所から45名を検挙」(番丁詳伝」P159)
・ 仙台駅前(西側)のヤミ市(「戦災復興余話」P45~49より)
青葉通りなどの新設道路予定地や不在者宅地内にできたヤミ市で、ビッグ・スリーは、駅前マーケット(東五番丁/昭和24.10.10~31に市が代執行し80戸を強制撤去)、新興マーケット(仙台駅前/昭和25.3に14戸撤去)、国際マーケット(裏五番丁/昭和25.7に、28戸強制撤去) / 国際マーケット(203坪)の所有者は野路清蔵市会議員
【参照】 ヤミ市など不法建築物の強制撤去は、
項目「戦災復興事業」の小項目「不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺」、小項目「不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町」に詳述
<青空市場>
・ ヤミ市には、クツみがき、輪タク、街の女がたむろし、スイトン、しるこ、カストリ焼酎などは引っ張りダコ、なんとか飢えをしのごうという人たちで食べ物屋は大繁盛した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196/「戦災復興余話」P45~49/「わが心の仙台駅前史」P38/「仙台あのころこのころ八十八年」P250(年表)/「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158~159
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P772に、「町を行くやみ屋の列」(S25年3月、仙台駅前付近)
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戦時中の勤労動員/就労規制(5) |
男子就業制限 |
1943年(S18) |
<戦時中の男子就業制限>
* 1943年(S18)9月23日、閣議、国内必勝勤労対策決定 / 販売店員・出改札係・車掌など17職種の男子就業禁止、25歳未満の女子を勤労挺身隊として動員
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20
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新伝馬町商店街 |
由来 ほか |
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<仙台市HPより 新伝馬町(しんてんまち)>
「城下町開府当初は日形町と称したが、延宝六~八年(1678~80)の仙台城下絵図からは新伝馬町となっている。国分町、北材木町、北目町と共に四伝馬町のひとつとして栄え、毎月二十六日から晦日までを担当、伝馬十匹を置いた。明治二十年の鉄道開通後も中心街をむすぶ商店街として発展を続けている。」
* 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成
* 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁の順にあとを追い、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116)
<編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に新伝馬町商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける
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仙台市HPの「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(新伝馬町通り)/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P102(S32年、中央通り新伝馬町商店街)
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名掛丁商店街 |
由来 ほか |
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<仙台市HPより 名掛丁通り(ナカケチョウ)>
「御名懸組の組士屋敷が置かれたまちである。新伝馬町の東端から東七番丁車町に至るまでの丁をいう。明治二十年の鉄道開通で町内が二分され,駅から西は繁華街となった。駅の東裏には島崎藤村の下宿があり,「若菜集」の作品群が書きつづられた。」
* 1965年(S40)12月、名掛丁商店街アーケード完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1993年(H5)、ハピナ名掛丁の新アーケード完成
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「仙台市HP」の「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(名掛丁通り)」/仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271
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99-029、16-28、50-02、22-29、20-30/「市民の戦後史(仙台市)」P47(昭和20年代)/「新・目で見る仙台の歴史」P184(カラー、手前が名掛丁、奥が新伝馬町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図35~36(S26年、H8年カラー)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P371(アーケード、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P11(S29、商店街入口付近)、P52(S35年、俯瞰)
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用語(皇居と宮城) |
用語の使用はいつ始まったか |
1888年(M21)/1948年(S23)7月 |
* 1888年(M21)、「皇居」を「宮城」(きゅうじょう)と称する告示
* 1948年(S23)7月1日、宮内庁、「皇居」を「宮城」(きゅうじょう)と称する告示を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
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用語(大東亜共栄圏) |
用語の使用はいつ始まったか |
1940年(S15)8月 |
有田八郎外相(第2次近衛内閣)の1940年(S15)8月のラジオ放送に始まるとされる
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「東洋経済新報社 百年史」P647
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用語(東亜新秩序と大東亜新秩序} |
用語の使用はいつ始まったか |
1938年(S13)11月~/ 1940年(S15)7月~ |
・ 「東亜新秩序」は、1938年(S13)11月3日の第2次近衛声明(「東亜新秩序建設」声明)及び同年12月22日発表の「近衛3原則」で使われた
・ 「大東亜新秩序建設」は、第2次近衛文麿内閣の発足時、1940年(S15)7月26日の閣議決定「基本国策要綱」(大東亜新秩序・国防国家建設方針)で使用
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P15、P17
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青葉通り(築造) |
用地確保で代執行 |
1949年(S24)~1951年(S26) |
* 1949年(S24)3月~1951年(S26)年9月、駅前から東五番丁西側付近までの青葉通り予定地には、空襲跡の土地に戦後できた3つのマーケット(ヤミ市)や無届建築物が集中していたが、S24年3月~26年9月にかけ、しばしば市や県による強制代執行で取り壊され、50m幅の用地が確保された
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「戦災復興余話」
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98-032/「新・目で見る仙台の歴史」P185/「仙台市史 特別編4 市民生活」P165(東五番丁での代執行)
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敗戦後の諸相・仙台 |
生活抄から |
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生 活 抄 通子
・ 子供等が食にいやしくなり来つる
叱りつつあわれ国敗れたり
・ 配給日まで耐えこしあらな米をひき
糊にして食い三たび三度を
・ 今少し食あらばかく病ませじを
蒼白き鼻尖りて見ゆる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P73~74
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住宅団地 |
生出ニュータウン構想中止 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)11月29日、島野市長が生出ニュータウン構想中止を発表
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「続・ 宮城県郷土史年表」P15
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防空演習(防空訓練) |
甘かった認識 |
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『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より「甘かった認識」
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。
<防火貯水槽>「戦争のころ 仙台、宮城」P154)
・ 仙台市では310カ所 江戸時代につくられた四ツ谷用水の水路を改修したり、道路わきや神社仏閣の境内に、隣組総出で数多くの貯水槽を設置した。南町には17カ所、土橋通りには10か所。空襲時に消火活動に役立ったという話はあまり聞かず、熱風の中を逃げ回る人たちが顔や体を防火用水に浸け、かぶっていた布団や毛布を水で浸して難を避けた。
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P154
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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仙台市電 |
環状線(循環線)完成 |
1928年(S3)3月 |
* 1928年(S3)3月28日、県庁前~大学病院間(1.7キロ)が開通、これで環状線(循環線)全線(6キロ)が完成
・ 仙台駅前~錦町~県庁市役所前~北四番丁~西公園~南町通~仙台駅前(停留所名は、1976年市電廃止時の名称)
・ 西公園において開通式挙行
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P104
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201-01、201-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(循環線が完成したころの乗り換え乗車券)/同211(S49年、仙台駅前停留所の市電、カラー)
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
環境基本条例 |
1996年(H8) |
→ 項目「環境基本条例」参照
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東北楽天ゴールデンイーグルス |
球団創立 |
2005年(H17) |
* 2004年(H16)10月29日、楽天野球団設立
* 2004年(H16)、県営宮城野原公園宮城球場(宮城球場)を全面改修、プロ野球団東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となる(施設は宮城県が所有し、東北楽天ゴールデンイーグルスの運営法人・株式会社楽天野球団が都市公園法に基づく管理許可制度により運営管理)
* 2005年(H17)3月16日、球団として初の一軍公式戦(千葉マリンスタジアム)で千葉ロッテマリーンズに3対1で勝利(先発の岩隈が完投)
* 2013年(H25)9月26日、パ・リーグ優勝(球団創設9年目)/ 11月3日、日本シリース初出場で日本一達成(Kスタ宮城での読売ジャイアンツとの第7戦に3対0で勝利し、4勝3敗) / 11月24日、仙台市内中心部で優勝パレード
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Wikipedia「東北楽天ゴールデンイーグルス」2020年8月10日版
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物価上昇 |
狂乱物価 |
1974年(S49) |
<岩波ブックレット「年表 昭和史」P55>
1974年(S49)は、
・ 狂乱物価(卸売物価指数31.3%、消費者物価指数34.5%上昇)
・ 戦後初のマイナス成長(実質成長率、マイナス0.5%)
・ スタグフレーション問題化
* 1974年(S49)1月16日、電力の使用制限始まる(16年ぶり)、ネオン、広告塔、テレビ放送時間短縮(深夜放送禁止)(「菅家年表」P68)
* 1974年(S49)1月25日、物価が前年同月比20.6%上昇
* 1974年(S49)3月13日、仙台、タクシー初乗り210円に
* 1974年(S49)3月31日、インフレ反対国民集会、全国270カ所で130万人参加
* 1974年(S49)4月11日、春闘で空前の交通スト(600万人参加、国鉄初の全面運休)
* 1974年(S49)4月30日、仙台市の物価上昇率は全国第2位(1位は札幌)
* 1974年(S49)5月1日、<全国の地価>建設省、1月1日現在の土地公示価格(前年比32.4%上昇、宅地は2年で倍)
* 1974年(S49)7月10日、仙台市営バス、均一区間50円に
* 1974年(S49)8月、「千円亭主」多数、500円昼飯、ほか
* 1974年(S49)8月17日、政府、石油緊急事態を解除
* 1974年(S49)10月11日、仙台市内、ハイヤータクシー料金がアップ
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P55/「続・ 宮城県郷土史年表」P27、P28、P30、P33/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P68
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警察(戦前) |
特別高等警察報告 |
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<宮城県知事事務引継書の「特高警察」の報告(昭和20年)から>
(1) 本土決戦を迎え報道義勇隊結成を計画中
東北軍管区司令部と特高警察が連絡をとり、河北新報社を主体に東京各紙、東北6県の記者を包括した報道義勇隊
(2) 敗戦的和平策動の容疑人物を重点観察中
ドイツの戦線離脱、沖縄戦の急迫、主要都市に対する空襲の激化により、国民の一部に不安、焦燥感を持つ者あり
(3) 拘束中の敵性外国人
・ カトリック元寺小路教会に35人(横須賀海軍警備隊から引き継いだインドネシア人35人~うち1人死亡~、広島県から送られてきた外国人1人)
・ 仙台市畳屋町の教会に26人(敵性修道女26人)
・ このほか、仙台に居住中の外国人は、中国満州人160人、ドイツ人など16人
(4) 朝鮮人の動向
東京、大阪など大都市の空襲で被災や縁故疎開で宮城県内に移住した朝鮮人は546人(うち335人は戦災) / 中には要観察中の者、不良朝鮮人もあり視察、取締りを強化
(5) 移入朝鮮人労務者
国民動員計画に基づく朝鮮人労務者は県内に1442人 / うち、239人は1年間の契約期間満了だが、法令で1年間契約延長となり動揺、逃亡者も予想される / 各種事故増加傾向改善のため、移入朝鮮人が多い塩釜、若柳両警察署に「移入労務者事故防止協議会」設置、事前指導の強化徹底を図っている
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P202
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警察(戦前) |
特別高等警察(特高) |
1928年(S3)~1945年(S20)10月 |
<「戦争のころ 仙台、宮城」P17~18より>
・ 特高警察は、内務省警保局を頂点に各府県の警察署特高係までを網羅した組織で、各県の特高、外事課長は内務省の人事で赴任した。 少数のエリートとその下で働く大勢の特高警官という構図。
・ 宮城県警察部は旧県庁2階の一角にあり7課(警務、警防、保安、刑事、工場、衛生、特高)85人体制
・ 特高課は刑事課と並ぶ20人の大世帯で、県内22警察署に100人以上の特高係が置かれ、職務は左翼、右翼、労働農民、内鮮宗教、検閲、外事、時局対策の7セクションにわかれていた
・ 1945年8月15日、戦争に負けると、内務省は全国の「特高警察」に捜査書類を一切焼却するよう指示(このため、宮城県公文書館に特高関係資料がない)
・ その50日後、GHQは政治的、宗教的自由を制限する治安維持法を廃止し、政治犯も釈放
・ 内務省と特高は解散を命じられ、内務大臣や警察首脳部、すべての特高警察官は休職扱いとなって後に罷免される / その数、全国では5000人、宮城県警察部では特高課長のほか一線署員も含めて90人が対象になった
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* 1928年(S3)、「特別高等警察」(特高)、全国一律に未設置県にも設置された
* 1928年(S3)7月、宮城県警察部に特別高等警察課設置
<言論検閲も担当>
「宮城県特高課には、検閲係4人が専従、河北新報社本館1階には特高課用の部屋があって警官がしょっちゅう出入りしていたとの話もあります。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P111)
* 1945年(S20)8月末日、宮城県特高課廃止(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747)
* 1945年(S20)10月5日、宮城県特別高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
* 1945年(S20)10月11日、宮城県特高警察官91名の休職の臨時措置
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「宮城県史7 警察」P243/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P17~18、P111
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99-125(左下に宮城県特高課検閲済の字あり)
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多賀城跡 |
特別史跡指定 |
1966年(S41) |
多賀城市にあった日本の古代城柵
* 1961年(S36)8月、東北大学考古学教室が多賀城跡の発掘調査に着手
* 1966年(S41)3月25日、多賀城址を特別史蹟に指定
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292/「重訂 宮城県郷土史年表」P624
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仙台空襲 |
焼失した学校 / 校舎再建 |
1945年(S20)7月10日 |
<空襲で焼失>
☆ 国民学校 5校(全焼4、半焼1)
・全焼・・・北五番丁、立町、東二番丁、西多賀
・半焼・・・木町通
☆ 中等学校13校(全焼)
・全焼(公立)・・・仙台、仙台商業、仙台図南、県第一高女、県仙台第二、県工業、
・全焼(私立)・・・仙台育英、東北学院、宮城女学校、栴檀、仙台女学校、常盤木高女、朴沢松操
☆ 高等専門学校 3校(全焼)
・全焼・・・第二高等学校、県立女子専門学校、宮城学院女子専門学校
☆ 大学 3学部
・一部焼失・・・東北帝国大学理学部、工学部、法文学部
<二部授業や青空教室>
・ 焼失を免れた学校の一部をかりて、二部授業
・ 西多賀国民学校のように、近くの神社の社務所や部落公民館などを仮校舎として二部授業や複式授業
・ 間借りの場所がない学校は、野外授業(青空教室)
<校舎再建>
・ 国民学校(小学校)は、1950年(S25)までに7校の校舎が建ち、二部授業、青空教室はほぼ解消した
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P316「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270~271
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仙台空襲 |
焼失した学校 / 児童の犠牲者 |
1945年(S20)7月10日 |
<焼失した学校>
☆ 国民学校
・ 全焼(東二番丁、立町、西多賀、北五番丁)、一部焼失(木町通)
・ 上杉山国民学校は、南校舎や西校舎が被弾したが、教職員がバケツリレーで消火、焼失を免れる
☆ 旧制中学校など中等学校(全焼)
・ 育英中学(現・錦町公園の場所)、仙台商業、東北学院中学校(東二番丁)、仙台中学校、常盤木高等女学校(西公園近く)、宮城県第一高等女学校(元寺小路)、仙台女学校(現・白百合学園 元寺小路)
☆ 旧制高等学校など(全焼)
・ 旧制第二高等学校、東北学院神学部(南町通)
☆ 大学
・ 東北帝国大学(片平丁)は、法文学部、理学部、工学部の校舎の40%を焼失
<仙台空襲による児童(国民学校生)の犠牲>
・ 死亡 計86人(木町通国民学校22人、東二番丁18人、立町16人、ほか)
・ けが40人
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P222~223
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仙台空襲 |
焼失した国宝 など |
1945年(S20) |
<焼失した国宝文化財>
・ 国宝 仙台城大手門、仙台城隅櫓、伊達政宗霊廟瑞鳳殿、伊達忠宗霊廟感仙殿
<被災後、よみがえった樹木>
・ 東二番丁国民学校校庭のクスノキ(戦災から3年後に小さな新芽を吹き、のちに大木に)
・ 西公園の大町交番と桜ケ岡大神宮の間に立つイチョウ(樹齢推定300年)(のちに新芽を吹く、往時をしのぐ樹勢に)
<土井晩翠宅(本荒町)>
焼失し、蔵書3万冊も焼失 / 晩翠は「五十余年 心を込めて集めたる 東西の書 皆灰となる」と詠んだ
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P223~224
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ひらつか(東一番丁) |
焼失 |
1960年(S35) |
ひらつかは、S35年暮れの火事で焼失 / その後再建
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金の星(カフェ) |
焼失 |
1941年(S16) |
・ 昭和初期、東一番丁の三越やや南にあった「金の星」は仙台一のカフェといわれた
・ 東久邇宮稔彦王殿下も第二師団長時代に通った伝えられる
・ 女給たちで結成した「金の星楽団」もあり、日中戦争では兵士慰問のため中国大陸に派遣された(「番丁詳伝」P111)
* 1936年(S11)、河北新報主催「麗人同乗のシボレー県下南北早回り競争には、紅組「金の星」の玲子とミチル、白組「エー・ワン」(国分町)のすみ子とたき子が同乗・・・」(河北新報、昭和41年「東一番丁企画シリーズ」より)
当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみに、金の星楽団につき記述あり
* 1941年(S16)、焼失 (その跡地で印舗の錦章堂が営業)
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「番丁詳伝」P111/焼失年は、東一番丁の錦章堂主人談
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22-53、98-110、47-06、53-34、20-57、44-76
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洞雲寺 |
焼失 |
1943年(S18) |
仙台市泉区山の寺(旧・七北田村)にある曹洞宗の寺院で、山形の立石寺、近江の石山寺とともに日本三大山寺の一つと言われた。仙台近郊の名所のひとつだった。
* 1935年(S10)、汽車の飛び火で洞雲寺山寺が3度目の炎上(「仙台年表」P206=出典は「河北新聞」)
* 1942年(S17)11月6日、戦時中の金属回収で仙台の寺社の鐘が供出されるが、洞雲寺の鐘は国宝級としてまぬかれた県内3か所の鐘の1つ(応召より除かれた県内の三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
* 1943年(S18)4月20日(28日?)、野火に全焼す/門前付近の芝草より出火し延焼、山門・本堂・庫裡などを焼失/仙台鉄道山ノ寺駅付近で機関車の排煙から山火事が発生し、洞雲寺(山ノ寺)が類焼(建物全て焼失)、その後コンクリート造りで再建(「仙台年表」P212=出典は「七北田村誌」、「重訂 宮城県郷土史年表」P496、Wikipedia「洞雲寺(仙台)」、Wikipedia「仙台鉄道」)
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災でコンクリート柱破壊され建物解体
* 2017年(H29)5月9日、本堂及び山門の落慶式
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「仙台年表」P206、P212/「重訂 宮城県郷土史年表」P493、P496/Wikipedia「洞雲寺(仙台)」(2009.2現在)/Wikipedia「仙台鉄道」
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99-135、76-14
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仙台城二の丸焼失 |
焼失 |
1882年(M15) |
資料により、出火原因が異なっている
* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1882年(M15)9月7日、川内(旧仙台城跡)の仙台鎮台で火災発生、鎮台本営などの施設のほか、旧仙台城二の丸の建物のほとんどが焼失
* 1882年(M15)9月7日、旧仙台城二の丸(仙台鎮台本営)は雷火によりて火災を起こし、伊達家累代の建物等ことごとく焼失す。わずかに征韓の折、豊太閤より賜りたる大手門(名護屋にありし門)と巽門とのみを残したるに過ぎざりき / 二の丸遺構の9割、17~8棟焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P265)
* 1882年(M15)、追廻で行われた西南戦争の招魂祭の花火のため二の丸が全焼(「仙台市史 続編第2巻」P163)
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232/「仙台市史 年表」P84/「重訂 宮城県郷土史年表」P265/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P163
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タクシー |
無線配車 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)2月10日、仙台市の個人タクシー、無線で配車実施
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「続・ 宮城県郷土史年表」P159
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防空演習(防空訓練) |
灯火管制訓練 |
1935年(S10) |
<訓練>
* 1935年(S10)3月9日、仙台市で全市一斉の灯火管制を実施
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「仙台市史 年表」P107
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野球場 |
澱橋野球場 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)10月、澱橋野球場開設(角五郎町、澱橋わき)
* 1940年(S15)5月5日、澱橋総合運動場竣工、落成式
* 澱運動場は、戦後一時、米軍(進駐軍)が接収
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「重訂 宮城県郷土史年表」P422/「仙台市史10 年表」P298/「仙台年表」P210/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328/「仙台あのころこのころ八十八年」P246、P248
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戦勝祝賀行事 |
漢口陥落 |
1938年(S13)10月 |
* 1938年(S13)10月27日、武漢三鎮を完全に占領す(「重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 1938年(S13)10月27日、漢口陥落祝捷行列挙行(「仙台市史10 年表」P294)
* 1938年(S13)10月28日、漢口陥落(日中戦争)の祝勝行事が行われる(「仙台市史 年表」P109)
* (仙台控訴院坂本徴章判事夫人たねさんの日記)「昭和13年10月28日、金曜日 観光陥落につき市内は慶祝気分溢れ大変なにぎわいなり。閲兵式分裂式など壮観なりし模様。主人は午後3時より祝賀式に参列、夜、市役所前で提灯行列を見る。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P32)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「仙台市史10 年表」P294(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P32
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「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128
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博覧会・フェア |
満州事情展覧会 |
1932年(S7)~1934年(S9)頃 |
* 東北帝国大学報国会が、満州事変勃発(昭和6年9月18日)記念日頃に開催 / 開催場所は県商品陳列所か?(後援が県商品陳列所)/ 会場垂れ幕に満州皇軍慰問金バザー、音楽童謡舞踊の会の字 / 開催年は、昭和7年~10年の間の9月(根拠:宮城県商品陳列所は昭和10年11月11日に「宮城県商工奨励館」に改称なのでそれ以前)
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「新・目で見る仙台の歴史」P160/当サイト内「写真データベース」の「商工奨励館」
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「新・目で見る仙台の歴史」P160
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清掃工場 |
清掃工場 |
1966年(S41)以降 |
* 1967年(S42)2月9日、今泉ゴミ焼却場起工式
* 1968年(S43)7月、今泉ゴミ焼却場完成(2基で、1日180トン処理) / 鶴ケ谷と合わせ1日250トンで、埋め立ては不燃物含め1日50トン以下に
* 1971年(S46)6月15日、松森清掃工場完成、焼却開始(宮城郡泉町松森に)
* 1986年(S61)1月18日、今泉清掃工場落成式
* 1986年(S61)4月10日、今泉清掃工場に、ごみ・PAL開館
* 1987年(S62)4月、今泉清掃工場の温水プール使用開始
2020年現在、仙台市には、今泉、葛岡、松森の3清掃工場がある
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P675/「続・ 宮城県郷土史年表」P201、P204、P223
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「市民の戦後史(仙台市)」P213(今泉清掃工場外観)/「新・目で見る仙台の歴史」P196
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水道事業 |
深刻な水不足 |
1955年(S30)~1961年(S36) |
<水不足>
* 1955年(S30)、水不足深刻
* 1958年(S33)夏、夜間給水停止、7月から昼間も断水、
南小泉若柳に2本の動力揚水井戸
* 1959年(S34)3月、夏の渇水期にそなえ若林、富田地区に井戸掘削するも、全体的には焼け石に水
* 1959年(S34)5月、抜き打ち断水、給水車出動/7月に15カ所で断水、学校給食にバケツ利用、プール閉鎖/9月、給水1日8時間
<臨時応急拡張事業 さく井>
* 1956年(S31)8月着工~1960年(S35)3月完工
・市内安養寺下と小田原露無に深井戸、長町下河原に浅井戸
・累積給水人口30万人
<水不足>
* 1960年(S35)6月、市西部、南部などの高台地区に給水車 / 7月、水圧低下で2/3給水がやっと、病院も時間給水、消防車、自衛隊出動するも全市の1割以上が断水地帯
* 1961年(S36)春~夏にかけ水飢饉
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P488~493
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P145(S26年、日照りで込み合う西多賀地区の井戸)
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仙台市の消防 |
消防団(戦後) |
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* 1948年(S23)、発足 / 北・南消防団で1470人、腕用ポンプ56台、手引きガソリンポンプ11台
* 1950年(S25)9月、原町、岩切など7分団を支団と改称、定員1800人
* 1957年(S32)3月、9支団を再び分団と改称、地域の事情により水防部も併置
* 1967年(S42)末の消防団組織図(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822)計1654人
・ 北消防団に、1本部13分団
・ 南消防団に、1本部14分団
・ 東消防団に、1本部6分団
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P821~822
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軍需工場(宮城県内) |
海軍火薬廠、海軍工廠、陸軍造兵廠 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
→ 項目「陸海軍の工場(宮城県内)」の小項目「第一海軍火薬廠」「多賀城海軍工廠」「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」を見よ
・ 陸海軍は、宮城県内にそれぞれ直営の軍事工場を持っていました。民間工場も含めて軍需工場がこれだけ集積していた県は東北にはありません。(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156
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