項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
水害 |
暴風雨 |
1913年(T2) |
* 1913年(T2)8月26日、広瀬川が氾濫し、牛越橋などが流失
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「仙台市史 年表」P96
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水害 |
暴風雨 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)7月22日、広瀬川氾濫
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「仙台市史10 年表」P301
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高橋是清 |
暗殺 |
1936年(S11) |
<仙台との縁> 1854年(嘉永7年)閏7月27日、江戸芝中門前町(現東京都港区)に幕府絵師川村庄右衛門の私生児として生まれ、間もなく仙台藩の足軽高橋覚治の家に里子に出され後養子となる(Wikipedia「高橋是清」より)
日銀総裁、蔵相、政友会総裁、首相を歴任
* 1936年(S11)2月26日、2・26事件で暗殺される
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Wikipedia「高橋是清」
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82-01
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祝賀行事 |
普通選挙祝賀 |
1925年(T14) |
* 1925年(T14)4月3日、仙台市内で、普通選挙祝賀提灯行列
* 1928年(S3)2月20日、普通選挙法で初の衆議院議員臨時総選挙(宮城県8人選出)
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「仙台市史 年表」P102/「重訂 宮城県郷土史年表」P409
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「いつか見た街・人・暮らし」P22(大正14年4月4日夜)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P501(T14年、仙台、普選案通過祝賀会提灯行列)
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蛍光灯 |
普及始まる |
1949年(S24) |
* 1941年(S16)、東芝が“マツダ蛍光ランプ”として、昼光色15Wと20Wを正式に発売
* 1949年(S24)、この年、白色蛍光灯(40W)、発売、商店、事務所に普及
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Wikipedia「蛍光灯」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43
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ATM |
普及 |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)7月21日、東北初の郵便貯金ATMを、藤崎デパートに設置
* 1988年(S63)5月18日、七十七銀行が、河北新報社前にATM設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P227、P246
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土井晩翠 |
晩翠草堂 |
1949年(S24) |
「晩翠は戦災で本荒町の自宅と共に、50年にわたって集めた3万巻余の蔵書や貴重な美術品を焼失、一時は「天われを滅ぼせり」と嘆息し、花壇川前町の仮寓で生活していた。しかし晩翠を慕う旧制二高同窓会や市民有志が昭和23年、晩翠会をつくり、当時の岡崎栄松市長が会長となって募金し、約40万円をもって本荒町の土井邸跡に、東北大学名誉教授小倉博の設計で晩翠草堂を建て晩翠に贈呈した。」(「仙台市史 続編第2巻」P189)
* 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置
* 1952年(S27)10月19日、詩人土井晩翠〈81歳)晩翠草堂において逝去(「重訂 宮城県郷土史年表」P559)
* 1978年(S53)7月1日、一般公開(大町1丁目)/ 仙台市出身の詩人・英文学者の土井晩翠が最晩年に過ごした邸宅を、一般開放(「続・ 宮城県郷土史年表」P83)
* 1989年(H1)7月、晩翠草堂周囲改装
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189/「重訂 宮城県郷土史年表」P559/「続・ 宮城県郷土史年表」P83、P261/「市民の戦後史(仙台市)」P41
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271の写真86/「目で見る仙台の歴史」P191(草堂と詩碑「天地有情」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(草堂と詩碑)
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土井晩翠 |
晩翠忌/晩翠賞 |
1959年(S34) |
* 1952年(S27)10月19日、晩翠逝去(81歳) / 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏
* 1959年(S34)10月19日、制定し、第1回晩翠賞表彰式
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「重訂 宮城県郷土史年表」P594
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学徒勤労動員 |
時代背景 |
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1937年(S12)7月の日中全面戦争開始以降、全国から青年男子が次々と戦地に出征、一方で軍需産業の拡大に伴い大量の労働力需要が生じた / 太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された / その労働力不足を補うため、1938年(S13)から始まった生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大、S19年以降は工場などへ通年動員化し、S20年3月に国民学校初等科以外の学校は授業停止となる
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冷害・凶作 |
昭和9年 |
1934年(S9) |
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
<昭和9年>
* 1934年(S9)の凶作、米減収率、岩手県54.5%、青森県46.4%、山形県45.9%、宮城県38.3%、福島県33.4%、秋田県25.6%(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
* 1934年(S9)秋、台風・冷害のため大凶作となる
・「宮城県内、3分の1の減収」(佐々久「近代みやぎの歩み」P87)
・「この年、宮城県下農村は大冷害に見舞われ婦女子の身売り相次ぐ。東北からの女性出稼ぎは58,175人、うち半数は苦界に身を沈めた」(「仙台年表」P205)
・11月、仙台救世軍が「凶作地婦女売買救済運動本部」設置
・12月12日、皇后陛下より、凶作東北地方の乳幼児に対し、着衣1組づつ1万6000人分、御下賜(「仙台市史10 年表」P443)
・1934年(S9)10月26日、仙台市、凶作による仙台市内窮民救済のため、市吏員職員および市立学校職員の臨時救恤金拠出規定を制定
「仙台市史 特別編4 市民生活」P359~360より
・ 1934年9~11月の河北新報紙上に「娘の身売り」の記事が多い
・ 婦女子の出稼ぎ(昭和9年、警視庁管下の調査)、宮城県では1万962人(芸妓228人、娼妓520人、酌婦1264人、女給643人、女中・子守3860人、女工3346人、その他1101人)
・ 婦女子の紹介業者は地方の事情に通じ、または各地の「モグリ」業者と連絡をとり、生活に窮している婦女子のいる家庭をあらかじめ調査して機会を待っている。(中略)彼らは、窮民の貧困と無知とに乗じ若干の前渡金をエサとして、甘言を用いて誘い出すことを常套手段としている。紹介する業務内容を隠し、窮民の文盲に乗じて悪辣な契約書に捺印させ、あるいは白紙委任状を取って抱主と共謀の下に書類を偽造、変造するのも珍しいことではなかった
・ 婦女子の身売りの原因は、不況や凶作などによって生じた負債の重圧と、現実の生活難より逃れるために多額の金額を必要とするためなど、押し迫ってくる生活難を緩和する手段として家族の口数を減少させるためである
・ 売春婦に至るまでの経緯は、家庭より直ちに売春婦になる者、子守・女中あるいは女工などとして雇用され、その後各種の経路で売春婦に沈む者、売春の場を兼ねた料理店や飲食店などの雇女として働き、その後、売春婦になる者
・このような婦女子の身売りによって前借金の半額程度を得た家庭は、負債の返済、当面の生活費、病人の医薬代などに充てるが、生活の基盤は依然として不安定で、その後も婦女子からの送金を期待せずにはいられない状況が続いた
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仙台市史 特別編4 市民生活」P356~357、P359~360/「仙台市史 年表」P107/佐々久「近代みやぎの歩み」P87/「重訂 宮城県郷土史年表」P444
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P360(仙台に救世軍の凶作地婦女売買救済運動本部が設置されたことを伝える河北新報記事 昭和9年11月10日)
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冷害・凶作 |
昭和6年 |
1931年(S6) |
<昭和6年>
* 1931年(S6)、冷害
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4、昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
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仙台市史 特別編4 市民生活」P356~357
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P356(宮城県の米収穫高グラフ)/同P360(婦女売買救済運動本部設置をつたえる新聞記事)/同P361(窮民救済のため設けられた公益質屋)
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(5) |
1938年(S13)~1945年(S20) |
~1935年(S10)~1937年(S12)、年表に記載なし~
* 1938年(S13)2月1日、大内兵衛・有沢広巳・脇村義太郎・美濃部亮吉ら労農派検挙(第二次人民戦線事件)(岩波ブックレット「年表 昭和史」P15)
* 1938年(S13)2月1日、宮城県特高課、第二次人民戦線事件で佐々木更三、宇野弘蔵ら14名検挙(「仙台市史10 年表」P292)
* 1938年(S13)2月1日、各公私立大学教授中のグループたる所謂新装共産党に対し三府六県に亘り第二次検挙(35名)を行う(「重訂 宮城県郷土史年表」P462)
~1939年(S14)~1944年(S19)の間、年表に記載なし~
<敗戦後>
* 1945年(S20)9月10日、宮城刑務所より春日庄次郎ら共産党員を釈放(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
・ 1945年(S20)9月10日、宮城刑務所に収容されていた政治犯、岡邦雄、赤木健介、春日庄次郎らが、前夜来の雨の中を、栄養失調の姿で出所した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P245)
* 1945年(S20)10月4日、GHQ、治安維持法・国防保安法廃止、政治犯即時釈放、特高警察廃止、天皇制批判の自由を指令(「仙台市史10 年表」P310)
* 1945年(S20)10月5日、宮城県高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P15/「宮城百年」(毎日新聞社)年表P299/宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P292、P310/「重訂 宮城県郷土史年表」P462、P506/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P245
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P265(S13年2月2日、宇野弘蔵東北帝大法文学部助教授らの検挙を伝える「河北新報」)
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(4) |
1934年(S9) |
* 1934年(S9)5月1日、メーデー共同闘争協議会、約20名各組合代表仙台市役所にデモ、夜、東一館で演説会開催、佐々木更三逮捕される
* 1934年(S9)6月1日、文部省、学生部を拡充,思想局設置
* 1934年(S9)6月27日、宮城県特高課、共産青年同盟関係者東北帝大生ら6名検挙
* 1934年(S9)7月11日、仙台合同運送、荷馬車挽子約80名スト(待遇改善、賃金値上げ要求)
* 1934年(S9)7月17日、非合法右翼団体振頭塾急襲、大久保政夫ほか3名逮捕
* 1934年(S9)9月3日、三馬ゴム工業職工262名、賃上げ要求(翌日スト)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P11/宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P283、P284
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(3) |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)1月18日、(旧制)第二高校生12名検挙(青共同盟建設実行運動に関し)
* 1933年(S8)2月28日、特高警察、宮城県消費組合仙台支部を急襲、5名逮捕
* 1933年(S8)3月23日、社会大衆党仙台支部結成(宮城県全農大衆党と社民党が合同)
* 1933年(S8)5月27日、京都帝大瀧川事件に東北帝大生起ち、法文学部有志大会を開く / 6月16日、東北帝大有志が学生大会で決議(瀧川教授休職取消、京大法文学部閉鎖反対など)/東北帝大法文学部同盟休校
* 1933年(S8)10月6日、消費組合設立運動者東北帝大法文学部学生3名検挙
* 1933年(S8)10月7日、仙台署特高警察、共産青年同盟再建運動を探索、市内数カ所急襲
* 1933年(S8)10月17日、広瀬川改修工事労働者300余名、デモを企つ、25日に首謀者2名解雇
* 1933年(S8)10月25日、共青事件街頭レポ東北帝大生門平謙三検挙、(共青関係者検挙終わる)
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宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P280、P281、P282/「宮城百年」(毎日新聞社)年表
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(2) |
1932年(S7) |
* 1932年(S7)2月10日、赤化運動によって東北帝大生4人検束
* 1932年(S7)3月1日、日本プロレタリア劇場同盟本部員江津誠等、仙台署に検束
* 1932年(S7)11月10日、県下共産党員の一斉検挙(仙台年表P203)
* 1932年(S7)11月14日、共産党員および青年同盟関係者一斉検挙、宮城県124名、東北帝大理学部助教授服部鼎、東北中学教員鈴木博等逮捕さる(「仙台市史10 年表」P279)
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宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P278、P279/「仙台年表」P203
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(1) |
1925年(T14)~1929年(S4) |
* 1925年(T14)4月22日、治安維持法制定
* 1927年(S2)5月30日、京都地裁、京都学連事件に有罪判決、(治安維持法初の適用)
* 1928年(S3)2月1日、「赤旗」創刊
* 1928年(S3)2月20日、初の普通選挙
* 1928年(S3)3月15日、全国で、共産党員一斉検挙、検挙者1568人、起訴488人に及ぶ(3・15事件)
* 1928年(S3)6月29日、改正治安維持法、緊急勅令で公布(死刑、無期刑を追加)
* 1928年(S3)7月3日、全国の警察部に「特別高等課」設置
* 1928年(S3)7月22日、無産大衆党結成
* 1928年(S3)7月24日、司法省、思想係検事を設置
* 1928年(S3)10月30日、文部省、思想問題のための「学生課」設置、各大学に学生主事をおく
* 1928年(S3)12月20日、日本大衆党結成
* 1928年(S3)12月22日、新労働農民党結成(12月24日、解散命令)
* 1928年(S3)12月28日、政治的自由獲得労農同盟準備会創立宣言
* 1929年(S4)3月5日、山本宣治(旧労農党代議士)刺殺
* 1929年(S4)4月16日、4・16事件(共産党員大検挙)
~1930年(S5)~1931年(S6)の間は、年表に記載なし~
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P4、P5、P6/
宮城県関連は、「重訂 宮城県郷土史年表」P397、P506
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市場 |
昭和期 |
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<戦前>
* 1929年(S4)、肴町の「仙台魚市場」と「河原町市場」が卸売市場の開設認可
* 1930年(S5)7月21日、河原町市場が、株式会社「仙台青果市場」として開業
* 1930年(S5)10月3日、「仙台果物市場」開設
* 1943年(S18)1月18日、「仙台鮮魚市場」、東七番丁に完成
<戦後 昭和40年まで>
* 1950年(S25)8月28日、「仙都魚類株式会社の魚市場」開設許可
* 1963年(S38)12月1日、明治25年創設の「長町青果市場」が閉場
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「仙台年表」P208/「仙台市史 年表」P105、P123/「仙台市史10 年表」P275、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P292、P546、P548、P611
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「目で見る仙台の歴史」P165に「河原町青物市場」/「市民の戦後史(仙台市)」P146(S38年12月、長町青果市場最後のセリ)
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冷害・凶作 |
昭和戦後期 |
1953年(S28)/1954年(S29)/1976年(S51)/1980年(S55) |
* 1953年(S28)10月29日、仙台市が冷害凶作を受けて冷害臨時対策本部を設置
* 1953年(S28)、この年、東北・北海道は冷害、前年比19%減で、昭和9年以来の凶作(菅家年表)
* 1954年(S29)7月17日、県農地課発表、県下高冷開拓地の陸稲大豆夏作物で収穫皆無が690町歩(総面積の4分の1)、特に蔵王山麓、栗駒山麓
* 1976年(S51)、東北、北海道は冷害
* 1980年(S55)、東北地方は冷害
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「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P231/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P47、P70、P74
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子ども会など(子供の団体) |
昭和戦後期 |
1945年(S20)~1980年(S55) |
<敗戦後、教育の転換>
・ アメリカ教育使節団の指導で学校教育が一変 / 教師中心の指導方法から児童生徒中心の指導方法へ / 自分の選択した学習の目標で、真実に興味と関心を満足させる自主的な学習を育てる / 自由な雰囲気の中で、自分の能力を発揮できる個性的な教育 / 自己の中に眠っている可能性を引き出すための教育
・ 高学年児童は、1949年(S24)頃から、クラブ的な組織に自由に参加(読書・音楽・文芸・手芸・珠算・書道・絵画など)
・ グループ学習の採用
* 1946年(S21)4月、仙台児童倶楽部復活(第1回童話・童謡会) / 1949年(S24)頃まで盛ん(S24は毎月開催)
* 1947年(S22)、ボーイスカウト復活
* 1948年(S23)、青少年赤十字団、かなりの学校が参加
* 1949年(S24)、ガールスカウト、塩釜で県内初の結成
* 1950年(S25)1月、仙台児童劇団結成(毎日曜に稽古 / 毎月2・3回、NHKや東北放送のラジオ放送に出演(事実上NHKの嘱託団体でNHK出演では「仙台放送子ども会」 / 公演15回を最後に休団)
* 1954年(S29)ころ、仙台ユネスコ学校開始 / 小学生対象で、美術・社会・理科・科学工作の4クラブに分け学習 / 毎週土曜の3~4時に創作、実物教育、個性尊重を目的に教育
* 1955年(S30)、各地域に子供会(地域全児童対象に班編成で活動)
* 1964年(S39)、スポーツ少年団県本部、発足
* 1965年(S40)、日本海洋少年団県連盟、結成
* 1973年(S48)、「宮城県青年の船」始まる
* 1980年(S55)、「宮城県少年の船」始まる(宮城県青年の船乗船経験者の友の会の主催事業で、県内小学生高学年が対象)
・ このほかに、緑の少年団や郵便友の会など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445~447
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P447(ボーイスカウト連盟宮城第39団発団式 / 昭和51年、緑の少年団大会)
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冷害・凶作 |
昭和戦前期 |
1935年(S10)/1941年(S16)/1945年(S20) |
* 1935年(S10)、冷害のため大凶作
* 1941年(S16)、冷害(宮城県内の米作、収穫半減)
* 1945年(S20)、冷害と水害のため凶作(明治42年以来の不作)
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
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仙台市史 特別編4 市民生活」P356/「仙台市史 年表」P108、P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P508/仙台年表」P211
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兵役制度 |
昭和年代(2) |
1942年(S17)~1945年(S20) |
<太平洋戦争開戦 1941年(S16)12月8日>
* 1942年(S17)3月、少年砲兵の志願兵を募集(菅家年表)
* 1943年(S18)3月2日、兵役法改正、朝鮮に徴兵制(岩波)(菅家年表)
* 1943年(S18)9月21日、兵役法施行規則改正、5年以前の徴兵検査の第二国民兵も召集、学生の一般徴兵猶予も停止(菅家年表)
* 1943年(S18)11月1日、兵役法改正、国民兵役を45歳まで延長(岩波)(菅家年表)
<学生・生徒の徴集猶予停止>
* 1943年(S18)10月2日、在学徴集延期臨時特例公布(学生・生徒の徴集猶予停止)(岩波)
「法学、文学、経済など文科系学生の猶予を停止、満20歳になれば在学中でも出陣。学徒出陣は、深刻な指揮官になる将校の不足を補うためといわれる。定員14万2000に対して現役将校は3万4000にすぎず、残りは予備役将校で補っていた。中でも尉官(大尉、中尉、少尉)クラスは、戦闘で陣頭指揮をとるので戦死や負傷しやすい。政府は、高等教育を受け中学時代から軍事教練が義務づけられている学生を補充にあてようと考えた。
陸軍は昭和18年12月1日まで、海軍は12月9~10日に軍隊に出頭せねばならず、10月15日から11月5日の間に徴兵検査を受ける必要があった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P124~125)
* 1943年(S18)10月21日、神宮外苑競技場で学徒出陣壮行大会(岩波)
<徴兵年齢19歳に>
* 1943年(S18)12月24日、徴兵適齢臨時特例法公布施行、徴兵年齢の1歳引き下げ、翌19年度に満19歳と20歳の者も受検することに改正 (岩波)(菅家年表)
* 1944年(S19)10月16日、陸軍特別志願兵令改正公布(17歳未満の志願を認める)(岩波)(菅家年表)
* 1944年(S19)10月18日、陸軍省、兵役法施行規則改正公布(17歳以上を兵役に編入)(岩波) / 防衛召集の対象が在郷軍人および国民兵役にある17歳以上45歳までの大部分の者にまで拡大された / 防衛召集は、空襲や撹乱を目的とした敵小部隊の上陸に備えるためのもの(ウィキペディア「兵役」)
* 1945年(S20)6月1日、仙台市国民義勇隊結成(仙台市史年表) → 項目「国民義勇隊」参照
* 1945年(S20)6月22日、国民義勇兵法施行(男15~60歳、女17~40歳に義勇兵役の義務)(仙台市史10 年表)
* 1945年(S20)8月15日、天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)、第二次世界大戦終る (岩波)
<戦後>
* 1945年(S20)8月21日、国民義勇隊を解散(菅家年表)
* 1945年(S20)9月1日、仙台市国民義勇隊解散(仙台市史年表P113~114))
* 1945年(S20)11月17日、兵役法廃止
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20、P21、P24/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P31/「「仙台市史10 年表」P309~310/「仙台市史 年表」P113~P114/ウィキペディア「兵役」?/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P124~125
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兵役制度 |
昭和年代(1) |
1926年(T15)~1941年(S16) |
<大正末期~昭和初期>
* 1926年(T15)7月21日、1年志願兵及び1年現役兵服務特例公布(教練の検査とその合格者の在営機関短縮)(菅家年表)=「生活の変わりようをみる昭和の年表」
* 1927年(S2)4月1日、徴兵法を改正し兵役法を公布、現役期間1年短縮(菅家年表)
<満州事変勃発 1931年(S6)9月18日>
* 1931年(S6)11月10日、兵の名称改正(1等卒が1等兵に、輸卒が特務兵に)(菅家年表)
* 1933年(S8)2月16日、特別志願士官制度採用(予備、後備からの志願)(菅家年表)
* 1933年(S8)4月28日、少年航空兵制度実施、少年の志願兵に道を開く(菅家年表)
* 1937年(S12)2月19日、兵役法施行令改正、徴兵検査合格基準を5cm緩和、視力、聴力の基準も引き下げ(菅家年表)
<日中戦争勃発 1937年(S12)7月7日>
* 1938年(S13)2月25日、兵役法改正、学校教練修了者の在営期間短縮の特典を廃止(菅家年表)
* 1939年(S14)3月9日、兵役法改正公布、兵役期間延長(短期現役制廃止)(岩波)=岩波ブックレット「年表 昭和史年表」
* 1939年(S14)7月15日、少年戦車兵150名(15~18歳)募集を閣議決定(菅家年表)
* 1939年(S14)11月11日、兵役法施行令改正公布、第一乙種は現役兵、第二乙種は補充兵、第三乙種を設けて第二補充兵へ(菅家年表)、短期現役制廃止(市史10 P297)
* 1940年(S15)4月24日、陸軍志願兵令公布(岩波)(市史10 P298)
* 1941年(S16)11月15日、兵役法施行令改正公布、丙種合格で第二国民兵編入者も召集へ/ 同日、朝鮮志願兵を募集、25万人が応募(岩波P18)(菅家年表P27)
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P4、P16、P18、/【菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P6~7、P12、P14、P18、P22、P27/「仙台市史10 年表」P297~298/「重訂 宮城県郷土史年表」P507
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(2) |
戦後 |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察 / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町にさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
* 1952年(S27)10月、国民体育大会(宮城、福島、山形が会場)で各会場を回られる
* 1965年(S30)4月5日、植樹祭で来県(翌日、大衡村で植樹祭)
* 1963年(S38)5月18日、両陛下、青森県下の植樹祭行幸啓の際、仙台市に立ち寄られる
****** 以上、昭和40年まで ******
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P559、P577、P608 /「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180
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<昭和22年行幸>
「目で見る仙台の歴史」P186(S22年、訪問先の光ヶ丘天使園、東北大金属材料研究所での陛下)/S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174)
<昭和30年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P89(S30年4月、県庁バルコニーから歓迎で集まった人々に手を振る天皇ご夫妻)
<昭和38年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P149(S38年、青葉城址から復興の仙台をご覧になる昭和天皇ご夫妻)
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(1) |
1918年(T7)~昭和戦前期 |
<皇太子時代の行啓>
* 1918年(T7)7月7日、来仙
* 1925年(T14)10月18日~25日、摂政皇太子(のちの昭和天皇)、宮城県での陸軍特別大演習統監のため宮城県に行啓 / 大演習の間、大本営を仙台偕行社に置く
<御大典>
* 1928年(S3)11月10日に、京都御所で即位礼
* 御大典、仙台の奉祝行事(「番丁詳伝」P126)
・ 大典奉祝祭(仙台市公会堂)
・ 中心繫華街の装飾と仮装行列、東一番丁は全町軒並みに紅白幕をめぐらし、電飾もあった
・ 奉祝大売り出し実施
・ 仮装行列(10日)は午後1時から3時間半で、行列は長さ3丁に及び、コースは公会堂(西公園)~大町一丁目~芭蕉の辻~国分町~表小路~県庁前~勾当台通~定禅寺通~東一番丁~大町五丁目~新伝馬町~名掛丁~仙台駅前~南町通~東二番丁~商工会議所で、各町内仮装出し物の記述あり
・ 奉祝菊の花展覧会(会場は、南町の鈴喜陶器店の中庭)
<昭和の行幸>
* 1928年(S3)10月、仙台偕行社に御駐泊(4日と10日)、(岩手県内における陸軍特別大演習御統監のため)(この演習に第二師団も参加)
**********************************
<皇太子(のちの平成天皇)生誕祝賀>
* 1933年(S8)12月29日、皇太子誕生仙台市民奉祝大会
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「仙台市史10 年表」P282/「仙台市史 年表」P98、P103/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P413、P414/「番丁詳伝」P126、P127
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98-061 (大正14年、摂政宮殿下、偕行社で市民の歓迎をうける)
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仙台七夕 |
昭和初期、復活させた商人たち |
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【「番丁詳伝」P124】
「昔から仙台の代表的なまつりの一つとして有名であった仙台七夕まつりは、明治以降はほそぼそとその伝統を守ってきたもののその衰退はどうしようもなく、特に大正期から昭和にかけての不況の時代、ますます淋しいものとなっていた。仙台七夕の伝統を生かしながら下火になったこの七夕行事に活を入れたのは大町五丁目の人々である。(以下略)」
【「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100】
・ 「昭和に入ってすぐ、その伝統を生かしながら、下火になった七夕行事に喝をいれたのは大町の人々である。 当時大町五丁目共同会会長の佐々木重兵衛は、町内の桜井常吉、三原庄太らに相談。 『不景気退散』の合言葉で、仙台商人の意気をみせようと町内一斉に七夕を飾りつけて、市民から喜ばれたのは昭和2年のことである。」
・ 「昭和3年6月、東北産業博覧会終了後、昨年の七夕を一層盛大にしようと、佐々木重兵衛の提唱を取り上げた仙台協賛会は、連合協議会の案をもって商工会議所に建議し、共同開催で実施することとした。 参加町内を募ったところ、仙台駅前、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、東一番丁、虎屋横丁、立町通り、五丁目新丁、元櫓町など11町会が参加し、八月六日夕四時一斉に飾付けがはじまり仕掛物が披露され、三日二夜にわたる祭典が開幕した。(以下略)」
【「番丁詳伝」P125】
・ 「昭和3年は、11か町会が参加し3日間2夜にわたる復活七夕が開幕、8月6日夕4時から一斉に飾り付けが始まり仕掛け物が披露され3日2夜にわたる復活七夕が開幕、この日は霧さえ立ちこめて今にも雨の降りそうな空模様のなか、しばしば通行整理と交通禁止が行なわれるほどの盛況を呈した。 飾りつけの審査(1~5等)が行われ、大町五丁目が優勝。」
・ 「昭和4年は、8月6日夜を本祭り、7日夜を後祭りとし、前年より4町多い15町会が参加。審査1等には、銀カップの優勝杯と賞金20円、・・・4等5等は5円授与」
・ 「昭和5年には、菖蒲田の外人村、東京、水戸、福島、森岡、青森から団体の繰りこみがあった。道路ごとに南進、北進の一方通行とした。見物客が年毎に増加し臨時列車の運行も」「東一番丁の東一振興会(第一区)では個人審査も行い、軒並み仕掛け物(仕掛け飾り)を飾って話題をまいた。(昭和5年の仕掛け物の具体記述あり)」
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「番丁詳伝」P124~125/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100
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戦前・戦後の仙台七夕の写真は、写真分類E-15、E-16、E-17、E-18、E-19
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宮城県庁舎 |
昭和の庁舎竣工(赤レンガ庁舎) |
1931年(S6) |
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった(「番丁詳伝」P123)
* 1929年(S4)6月27日、工事着手
* 1931年(S6)9月30日、県庁舎議事堂竣工
(鉄筋コンクリート造、一部鉄骨、地上4階地下1階)
* 1952年(S27)9月30日、東庁舎竣工(鉄筋コンクリート3階建、建坪684.0坪、延坪2432.63坪)
* 1952年(S27)12月10日、東庁舎落成式
* 1953年(S28)9月15日、宮城県印刷所を県庁構内北一番丁側に新設落成(鉄筋コンクリート2階建)
* 1986年(S61)~1987年(S62)、取り壊し
* 1986年(S61)8月9日、本庁舎改築に伴いお別れ参観デー
* 1986年(S61)8月11日、赤レンガ庁舎お別れ式、花時計も撤去
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「番丁詳伝」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P558、P561、P567/「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P42/「続・ 宮城県郷土史年表」P209/
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99-008、99-009、18-05、53-16、22-37/「目で見る仙台の歴史」P162/東庁舎は、53-111
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54~55(S37)/同P115(S61、さようなら県庁舎看板と正面玄関)
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市町村合併 |
昭和の大合併 |
1954年(S29)
~1955年(S30)に合併した県内新自治体名 |
通称「昭和の大合併」は、昭和28年の町村合併促進法=町村はおおむね、8000人以上の住民を有するのを標準=、及びこれに続く昭和31年の新市町村建設促進法による市町村合併で、1953年(S28)~1961年(S36)に実施された。1954年(S29)4月以降、宮城県内でも町村合併が相次いだ。以下は、昭和30年までに合併が行われ誕生した新市町村名(31年以降は略)
<1954年(S29)>
4月には、白石市(新市誕生)、岩出山町、鳴子町、小牛田町 / 7月には、大郷村、宮崎町 / 8月には、中新田町、築館町 / 11月に、津山町 / 12月に丸森町、若柳町
<1955年(S30)>
昭和30年1月~12月に、金成町、亘理町、山元町、宮城村、志津川町、三本木町、河北町、河南町、桃生町、牡鹿町、北上村、本吉町、松山町、蔵王町、岩沼町、名取町、栗駒町、一迫町、迫町、泉村、村田町、川崎町、大和町、鳴瀬町、矢本町、涌谷町
******(S31年以下、略)******
<参考>明治以降、昭和末年までの宮城県内市町村合併の全貌は、「第4 市町村変遷等の状況」http://www.mygsk.or.jp/sityouson/pdf/siryou/04_shichosonhensenjoukyou.pdf#search=%27%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C+%E7%94%BA%E6%9D%91%E5%90%88%E4%BD%B5%E4%B8%80%E8%A6%A7+%E6%98%AD%E5%92%8C%27
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「重訂 宮城県郷土史年表」P572~579
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仙台市電 |
昭和30年代~全線廃止まで |
1956年(S31)~1976年(S51) |
* 1956年(S31)11月、「仙台市交通局三十年史」刊行
* 1957年(S32)、電力事情悪化で市電15%間引き運転
* 1958年度(S33)、市電事業赤字(3000万円余)、以後赤字続き
* 1959年(S34)、仙台市電停留所に照明灯がつく
* 1959年(S34)、仙台市電に女性車掌、14年ぶりに登場
* 1966年(S41)2月15日、ワンマンカー導入により職員400人削減等を労組に提示
* 1966年(S41)、一部の車両、ワンマンカーに
* 1970年度(S45年度)、一年間で1億円強の赤字(累積赤字10億円の大台にのる)
* 1972年(S47)2月4日、12億円の累積赤字のため廃止発表
* 1972年(S47)12月1日、市電の均一料金を40円に(10円値上げ)
* 1973年(S48)3月7日、島野市長、市電廃止を声明
* 1975年(S50)10月4日、仙台市議会、市電廃止議案可決
* 1976年(S51)3月31日、仙台市電お別れ式/最終運行(さよなら電車)/替わってグリーンバス運転
* 1976年(S51)4月8日、5両を長崎市へ輸送
<市電・市バスの乗客数推移グラフ S36~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P525の図26
<市電・市バスの赤字推移グラフ S31~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P533の図28
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P514、P517、P518、P525、P533/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P130/「重訂 宮城県郷土史年表」P591、P624、P674/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P15、P18、P45、P52、P53
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「市民の戦後史(仙台市)」P106(照明が入った停留所標識)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P518に、市電ワンマンカーの写真/「市民の戦後史(仙台市)」P200(市電のワンマンカー)/「新・目で見る仙台の歴史」P187(渋滞車線を走る市電、最後のサヨウナラ花電車、廃止記念乗車券)/同P211(市電ワンマンカー)/同210(S37年6月現在の市電運転系統図)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P212~213(市役所前でお別れ式、おなごり乗車、廃止記念乗車券、花束持つ運転手、車庫前の花電車群俯瞰、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P101(S51、さようなら運転、カラー)/同P102(S51、ワンマンカー、カラー)/同P103(S51、北二番丁車庫)
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野球場 |
昭和11年現在 |
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昭和11年現在、仙台の野球場は、澱橋球場(収容1万人)、スポーツマン球場(収容1万人)、八木山球場(収容2万人) / (予定)東北帝国大学の球場
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
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プール |
昭和11年現在 |
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仙台市内のプール(昭和11年現在)
・ 愛宕プール(愛宕橋下)
・ 夏は、広瀬川上流に区域を定めて使用
・ 学校では、(旧制)第二高等学校、師範学校などに
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
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日乃出映画劇場 |
映画館閉館/ビル解体 |
2002年(H14)/2019年(R1) |
* 2002年(H14)9月17日、映画館は全館閉館となり、45年の歴史に幕を閉じた。
・ ビルはパチンコホール「ベガスベガス」などを運営する山形市の「大成商事」(当時)に売却され『大成商事GSビル』となった
* 2008年(H20)4月17日、『大成商事GSビル』はオリックス不動産に売却され『GSビル』となった
* 2018年(H30)6月、「GSビル」の解体工事開始
* 2019年(R1)秋、解体完了
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Wikipedia「日乃出会館」 2019年12月18日版
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市場 |
明治期 |
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* 1880年(M13)12月16日、「長町青物市場」を名取郡の野菜生産農家が開設
* 1881年(M14)10月25日、青物市場が「河原町市場」に一本化され、長町市場は閉鎖される
* 1892年(M25)6月25日、「長町青物市場」を名取郡茂ケ崎村長町に開設
* 1892年(M25)7月30日、「共同八百屋市場」、河原町・新河原町に開設
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「仙台市史 年表」P83、P84、P88
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P87(明治期の長町青物市場)
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冷害・凶作 |
明治年間 |
1869年(M2)
1874年(M7)
1897年(M30)
1902年(M35)
1905年(M38)
1910年(M43) |
* 1869年(M2)秋、冷害のため凶作となる
* 1874年(M7)、冷害のため凶作となる
* 1897年(M30)秋、冷害と水害のため凶作となる。
10月16日、仙台市会、凶作のため臨時米穀売買所開設を決議
10月27日、市が臨時米穀売買所で外国米の低価販売開始
* 1902年(M35) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治35年」へ
* 1905年(M38) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治38年」へ
* 1910年(M43)、この年水害のため凶作となる
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P305(図310)は、明治30~39年の宮城県の米収穫量(グラフ)
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「仙台市史 年表」P79、P81、P90、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P304
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天皇、仙台行幸 |
明治天皇 |
1876年(M9)~ |
<明治9年>
* 1876年(M9)6月24日仙台御着の際は、榴ヶ岡梅林亭を行在所にあて、29日まで各所御巡覧、26日には西公園下の博覧会御覧の後、公園で小栗大三郎以下十二名の古式による騎射供覧(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1876年(M9)6月24日、東北巡幸中に来仙 / 翌25日に官立宮城師範学校、官立宮城英学校、宮城県博覧会などを巡覧し、26日には仙台鎮台で閲兵(「仙台市史 年表」P81)
* 1876年(M9)6月24日、東北御旅行の明治天皇、乗馬にて旧本丸跡に登臨す」(「仙台城」P232) / 24~30日、仙台滞在(「新・目で見る仙台の歴史」P122)
<明治14年>
* 1881年(M14)の第二次御巡幸の際は、7月12日御着、国分町金須松三郎別宅を行在所にあてた(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1881年(M14)8月12日、北海道・東北巡幸中に来仙(「仙台市史 年表」P84)(注:日付が両資料で1か月の差あり)
<明治34年>
* 1901年(M34)11月7日、陸軍特別大演習統監のため来仙 / 同日に宮城県物産陳列場が県庁南隣に新築開場(「仙台市史 年表」P91)
* 1901年(M34)11月10日、陸軍特別大演習統監の明治天皇、旧二の丸前庭に於て群臣に宴を賜う。これに先立ち8日、政宗に正三位の追贈あり(「仙台城」P233)
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「目で見る仙台の歴史」P111/「仙台市史 年表」P81、P84、P91/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232、P233
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「目で見る仙台の歴史」P111(明治9年、榴ヶ岡梅林亭、西公園騎射展覧図 ほか)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(明治9年御巡幸御行列之図式)
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仙台七夕 |
明治・大正期/七つ道具 |
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【「番丁詳伝」P94~95】
・ 藩政期の諸文書にみる七夕と七夕流しに関する記述あり
・ 仙台七夕が7月6日にからに固定したのは、18世紀中期(六代藩主宗村の時代)からで、月遅れ(8月6日)ながら今日まで継承されている
・ 明治維新の大変革や、日露戦争後の明治30年代末以降、全国的に七夕行事が衰退するが、仙台では女子・家族のまつりとして、町家、屋敷町に守られてその火を消すことはなかった
・ 1894年(M27)、仙台市内に電柱がたてられるようになってから竹飾りは斜めに立てられるようになった、明治40年以降は電気照明もだいぶ利用されている
<七つ道具>
・ 仙台独自の飾りつけ「七つ道具」が確立するのは明治期
・ 七夕線香を飾るのは、昔は遊郭や芸妓屋のあった町に特にみられ、線香を三段に吊るすところもあった
(1)短冊 梶の葉のならいから。シメの変化とも考えられ、歌や願いごとを書き、歌や書の上達を願う。
(2)吹流し 五色の糸の変形。機織りの上達を願うが、この日そうめんを食べ供えた故事からかえられたとも考えられる。願いの糸にかけた願いは3年のうちに叶うという
(3)千羽鶴 吉兆として延命長寿を願う。家族の最年長者の数だけ折られた。
(4)紙衣 一般には白石紙子を使用するが、小袖がそのまま吊るされることもある。病災を身代わりに流す形代の意味をももち、タナバタツメの信仰から生まれた裁縫の上達と、子どもが丈夫に育つようにと祈りながら一番先端に吊るされる。
(5)巾着 富貴を祈りつくられる。
(6)投網 海の幸の豊漁を願い感謝のしるしをあらわす。
(7)屑籠 倹約と始末することの大切さを教える。
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「番丁詳伝」P94~95
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冷害・凶作 |
明治38年(その3) |
1905年(M38) |
* 明治38年凶作
(3)「仙台市史 年表」P93より
* 1905年(M38)8月28日、仙台市、大凶作のため臨時米穀売買事務所を開設
* 1905年(M38)11月18日、凶作救済県民大会、挹翠館(ゆうすいかん)で開催
* 1905年(M38)11月29日、宮城県凶作救済会結成
* 1905年(M38)11月29日、仙台市内のキリスト教各派の外国人宣教師ら、外国人救済会結成
* 1905年(M38)12月6日、仙台市、臨時救済事務所を開設
* 1906年(M39)1月、仙台市内のキリスト教各派の日本人牧師ら、東北凶作救済会を結成
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「仙台市史 年表」P93
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冷害・凶作 |
明治38年(その2) |
1905年(M38) |
* 明治38年凶作
(2)「仙台市史 特別編4 市民生活」P358の「出稼ぎと身売り」より
<凶作、農村の窮乏>
・ 「明治35年の凶作の痛手を回復しえないまま、明治38年に、天明・天保以来の大凶荒と言われた凶作が東北地方を襲い、特に宮城・福島・岩手の3県で大きな被害を出した。米収穫高平年に比べ、福島は24%、宮城14%、岩手34%」
・ (明治三十八年宮城県凶荒誌)「盛夏尚綿布を着け気候の異常に一種の畏怖の念懐きて憂慮せしもの、九月下旬に至りては至る処収穫皆無を唱え、米価の騰貴甚だしき加ふると共に、窮民の惨状は見るに忍びざるものありき」
・ 下級農民の多くは、米の収穫どころか、労働の途も絶たれ、飢餓寸前に追い込まれるという状態であった / 特に山間の村落の住民は、木の実を拾い草の根を掘って食糧とするが、積雪の季節に入るとそれもままならず、救いを待つしかなかったのである
・ 中産農家の土地家屋に身分不相応の負債が生じると、移住者として郷里を捨てる動きがみられる。 / 働く場を求めて、宮城県内から県外への移住件数が明治38年に5220人、39年に1万3312人、40年に1万6212人(3年間計、3万4744人) / 仙台市でも、65人、315人、837人
・ M35年の仙台市内貧民調査表
<救済事業>は、耕地整理や土木工事の執行、里道改修、ため池修繕、用水路改修、上水工事および廃沼田地開墾、町有林開墾、河川改修、堤防修繕、道路改修
<児童救済>では、岡山孤児院石井十次来仙し養育困難児143人を一時引き取りや、メソジスト教会のフェルプスらが「東北育児院」を開設(同年11月3日に、仙台育児院と改称)
<身売り>
・ 凶作地に於ては、婦人を欺き連れ出し、あるいは本人が知らないうちに職工や売春婦にされ、不本意な労働を強いられるということが起きている
・ 日露戦争下での経済不況は賃金の低落が著しく(中略)職を失った場合には、生活の困窮は目も当てられないというありさまがこのような事態をも生じさせたといえる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P358~359
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冷害・凶作 |
明治38年(その1) |
1905年(M38) |
明治38年凶作
(1)「仙台市史 特別編4 市民生活」P305~307より
1905年(M38)の凶作は「東北三県凶作」と呼ばれ、岩手県・宮城県・福島県の三県に例年の作況の1割にも満たない甚大な被害をもたらした。 仙台市もあまりの被害の大きさに有効な救済策をとることができなかったといわれる
* 1905年(M38)夏、冷害で米は大凶作となる。(宮城県87%減、福島県76%減、岩手県66%減) / 天明・天保以来の大凶作といわれた
・ 宮城県の窮民調査で、3人に1人が窮民(28万8千人) / 米作地帯の栗原郡で44%以上、遠田郡で76%、仙台市では7%(6500人)、宮城郡25%(1万8000人)、名取郡34%(2万1200人)が窮民
・ 1904年(M37)にはじまる日露戦争で、特に農村部では働き手が兵士として戦場に動員されたため家族労働力に頼る農家経営が困難となる事例が次第に増加していった
明治38年の5月、日本海海戦の勝利が伝えられた頃、東北三県を冷害が襲い始めた。
・ 8月~9月、ヤマセと雨天・日照不足
・ 仙台の8月の平均気温、前年より3.8度低い
・ 日照時間も極端に少なく、特に出穂期を迎える8月下旬は連日ほぼゼロの日が続いた
・ 農作物の生育は極端に悪く。特に稲が実を結ばずに米の収穫が激減した
・ 米価高騰で市民生活に打撃(6月はじめ、1升13銭 → 8月末に18銭 → 11月に20銭超え)
・ その他の影響(牛馬家畜減少、児童出席率低下、退学児童増、教科書寄贈運動、教員給与未払い、ほか)についても記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P305~P307
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冷害・凶作 |
明治35年 |
1902年(M35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P358より>
「明治35年は春からヤマセ(北東の冷たい風)が吹き、7月中旬から8月中旬にかけて雨が多く気温の低い日が続いた。 米の収穫高は予想を上回る減収で、1897年から1901年に至る過去5年間の平均収穫高の32%にすぎなかった。」
* 1902年(M35)、冷害のため凶作となる
(仙台市会、凶作のため外国米売渡手続を決議)
(外国米を698戸に配布)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P305、P358/「仙台市史 年表」P92
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住宅団地 |
旭丘堤団地 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)、旭丘堤団地造成開始
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「仙台市史 年表」P122
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住宅団地 |
旭ヶ丘団地 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)、旭ヶ丘団地(130ヘクタール)、東北開発会社が計画、造成開始(仙台の団地開発第1号)
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「仙台市史 年表」P120
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P147の写真37/「市民の戦後史(仙台市)」P190
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丸光 |
旧館全焼 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)5月、丸光旧館全焼(増築中だった)
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Wikipedia「丸光」/わが心の仙台駅前史」年表
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仙台市立病院 |
旧・裁判所庁舎で診療開始 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)1月30日、開院式 / 医師5人、看護婦7人、事務員4人(「番丁詳伝」P129)
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造) / 当初は内科・外科・眼科、翌年に小児科・耳鼻科を追加、S7年に産婦人科も開設 / 外来患者数、S5に14万人、S10に18万8000人、見舞客も含めて東一番丁には大きな潜在購買客となる
・ 昭和3年の昭和天皇即位大典の記念事業
・ 旧裁判所庁舎(明治9年建築の木造)を利用
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706~707に、診療科など記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「番丁詳伝」P128~129
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「目で見る仙台の歴史」P163と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P427に、「仙台地方裁判所跡に開設された市立病院」
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アーケード |
旧・大町五丁目 |
1965年(S40)ほか |
* 1965年(S40)3月、大町五丁目商店街で完成
<マ-ブルロードおおまち商店街>
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1982年(S57)6月27日、マーブルロードおおまち商店街ゲート除幕式
* 1987年(S62)、大理石舗道が完成、
* 1996年(H8)4月、2代目アーケード竣工(第3代か?)
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「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P148/「マ-ブルロードおおまち商店街」HP
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敗戦後の諸相・仙台 |
日陰の花/売春防止 |
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・ 戦後“パンパン”と呼ばれた女たちは、仙台駅前、X橋周辺、小田原、原町などに多かった / 大部分は18~20歳、中には30~35歳くらいの婦人も / 大部分は性病におかされていた
・ 片平丁にあった“夜の女”の診療所には常時30人前後の患者を収容 / 患者脱走を防ぐため、私服を取り上げ、前と背中にVDと大きなマークの入った旧軍衣類を着せた
* 1958年(S33)3月25日、売春防止法施行(同年4月1日)に先立ち、市内で最後まで残っていた東八番丁の特飲街が一斉廃業
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286
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血液センター |
日赤宮城県血液センター |
1965年(S40) |
日本赤十字社宮城県支部が支部内に設置
* 1965年(S40)2月5日、宮城県血液センター開所、4月から献血車「いずみ号」稼働開始
* 1966年(S41)5月、民間血液閉鎖、売血制度廃止
* 1966年(S41)8月、県内6カ所に出張所開所
* 1967年(S42)、「第二いずみ号」配置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P736/「重訂 宮城県郷土史年表」P618
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「市民の戦後史(仙台市)」P166(献血の様子)
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スポーツ大会(戦後復興期) |
日米対抗陸上競技大会 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)8月15日~17日、日米対抗陸上競技大会(会場は、8月10日に開場した宮城県営宮城野原陸上競技場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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ビル建設 |
日産生命ビル(解体) |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)5月、解体(仙台駅西口前)
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「わが心の仙台駅前史」P90
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22-14(の左下のビル)
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電話 |
日本電信電話公社時代 |
1952年(S27)8月~1985年(S60)4月 |
* 1952年(S27)8月1日、電気通信省廃止され、「日本電信電話公社」設立
* 1952年(S27)9月16日、仙台電話局、自動ダイヤル化
* 1953年(S28)9月、長町分室開局
* 1954年(S29)4月29日、仙台電話局、東北初の市内局番制採用( → 小項目「仙台の市内局番」参照)
* 1955年(S30)5月1日、117番(天気予報サービス)開始
* 1955年(S30)7月1日、東北初の依託自動公衆電話機(通称ダルマ型)第1号を藤崎デパート内に設置
* 1956年(S31)、電話マイクロウェーブが2月、東京~仙台間、10月に仙台~札幌間完成
* 1958年(S33)7月、仙台駅に公衆電話サービスステーション設置、「丹頂型電話」と「赤電話」をおく
* 1959年(S34)4月、仙台電話局、南町の構内に局舎新築(鉄筋5階建)し、営業開始
* 1961年(S36)、榴ヶ岡に東分局開局
* 1963年(S38)、長町分局開局
* 1963年(S38)6月、仙台中央電報局、東二番丁・南町通り南側に新築(東二番丁・青葉通り角の木造庁舎から移転)
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局
* 1964年(S39)10月、電話ダイヤルで東京へ即時通話化(「仙台あのころこのころ八十八年」P254)
* 1964年(S39)11月、仙台から、東京、秋田、青森へも自動即時通話となる
* 1965年(S40)、ダイヤル市外通話、全国の360局と連絡可能に
* 1965年(S40)11月、仙台電話局内の加入電話4万台を突破(開局後の10年間で4倍に)
* 1968年(S43)6月、電話加入数6万192、公衆電話1533台
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* 1985年(S60)4月10日、日本電信電話公社が民営化し、日本電信電話株式会社に / NTTは民営化以前から使われていた略称
<これ以降は、→ 項目「NTT東北支社」へ>
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P574~579/「仙台市史 年表」P117/「続・ 宮城県郷土史年表」P189/「仙台あのころこのころ八十八年」P254
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー、画面左端に仙台電話局)
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芭蕉の辻の洋館 |
日本銀行が使用 |
1941年(S16)10月~ |
* 1941年(S16)10月10日~ 日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(外観もかなり損傷)
* 1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に営業所再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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16-01/S20年戦災で損傷→53-77、35-13
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