仙台よみとき用語年表
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大型店・量販店 ジャスコ/フォーラス  1975年(S50)/1984年(S59)  * 1975年(S50)5月、仙台店進出(一番町の仙台日活の跡地)

* 1984年(S59)、ジャスコ仙台店からの業態転換「仙台フォーラス」開業 / イオングループのファッションビル「フォーラス」の第1号店 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/ウィキペディア「仙台フォーラス」2021年1月24日版   
東二番丁通り(拡幅) はみ出し建物撤去  1958年(S33年)7月  拡幅予定地にかかり、街路にはみ出していた、逓信病院、宮城学院、東北学院中学校は、S33年3月~7月末に取り壊し完了(東北学院中学校赤レンガ校舎の道路側部分はS33年4月撤去)  「仙台市史 続1」P349  98-02798-10922-2336-0336-0436-06 
定禅寺通り     戦後、戦災復興事業で勾当台公園角~西公園通り間が幅46mに拡幅され、中央分離帯(12m幅)には、欅を2列に植え、その間に遊歩道をもうけた街路公園として整備された。青葉通りとならび杜の都仙台を代表する街路となった

* 1957年(S32)から、西公園までの480mに計158本の欅を植樹 
「仙台市史 続編1」P462   
遺児の日   1939年(S14)  <戦争遺児代表が靖国参拝 ~軍人援護会、厚生省主催の「遺児の日」~>
* 1939年(S14)8月6日、第1回対面、仙台市からは立町、榴岡、南材木町小学校の遺児6名が選ばれ靖国神社に参拝 / 感想文「社頭に額づく」あり(「仙台市史 続編第1巻」P11~12) / 全国からは戦没者遺児代表(1324人)が父の英霊と対面するため上京、靖国神社へ(日録20世紀1939年)
* 1940年(S15)3月29日、第2回、仙台市から31名、宮城県内から124名が参加 / 全国からは、3191名(男子1634名 女子1557名) 宮城遙拝(聖寿の万歳三唱)、皇后陛下の御下賜品の伝達、朝香宮殿下の御言葉、靖国神社参拝(週刊20世紀1940年)
* その後も回を重ねるごとに人数が増えた 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P11~12/「日録20世紀 1939年」P30/「週刊20世紀 1940年」P23   
殉国勇士の家   日中戦争以降  仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
<参照> → 項目「兵事義会/銃後奉公会」

「誉輝く軍国の家」(河北新報) 「河北新報は中国と戦争を始めてから5年目の昭和17年7月、1家族で2人以上の戦死者を出した宮城県内の12家族を「誉輝く軍国の家」として取り上げています。・・・「お国のために散ったこと、親としてこんなうれしいことはありません」・・・・肉親を戦争で失った家族には、涙と絶望が数多くありましたが、人々はそれを平静というオブラートに包んで冷静を装っていました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12/「仙台市史 特別編4 市民生活」P315/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P79  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標) 
公会と隣組 発足~廃止  1940年(S15)~1947年(S22)  * 1940年(S15)11月15日、仙台市行政の下部機関であった区長制度を廃し、公会を全国に先駆けて創設 / 市内に341の公会を編成、学区に基づく18の連合公会に分属させた / 公会は直ちに隣組(約4300)を結成、戦時体制は市民生活に直接入り込んだ / 市では藤崎百貨店からの寄付で公会旗と連合公会旗を制定し、それぞれに交付した

「公会は、国民生活の地域的統制単位として、庶務連絡、生活物資の配給、公債の強制割当て、金属その他軍用物資の供出、防空演習、出征兵士の送迎、納税と貯蓄、特配物資の配給そのほか市民生活全般にわたることを実行した / 仙台市では「仙台市公報」を回覧板として配布、また付録として『公会通信』や『少国民通信』を配布」(「仙台市史 続編第1巻」P15、「仙台市史 特別編4 市民生活」P461)

・ (戦時下)いっそうの統制を達成するために、区制度や戸主会をはじめとする市民組織の合理的効率的な再編成が課題となっていった。それまでに、衛生組合・納税組合・町内会・部落会・契約講・戸主会・防火組合・青年団・婦人団体など多種多様な団体が、地域の必要によって結成されてきたが、それらの組織の複雑さを解消すべく、一貫した組織系統のもとに市民の体制を一元化しようと、渋谷徳三郎市長が提案
・ 内務省訓令「部落会町内会等整備要領」に基づき、1940年(S15)11月実施
・ 公会は、100~200戸程度を標準とし、区域内の世帯主と法人が会員、近隣の10戸程度で組、同一小学校区の公会で連合公会、公会には常会をおき重要事項以外の決定を行う。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P460)

* 1941年(S16)4月25日、「仙台市隣組行進曲」発表音楽会(仙台市公会堂)
  「青葉城下の街々に銃後を守る手を組んで 助け合いましょう助けましょう
   親和の誓いなごやかに 行くよわれらの隣組」
大政翼賛会仙台支部、仙台市、河北新報社が募集、審査員は土井晩翠ら5人
   当選作は、宮城第一高女音楽教師古宇田明子の作詞、
   これに市音楽担当視学 の海鋒義美が作曲
     (「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51)
・6月に日本コロンビアからレコード化される
    (唄 霧島昇・松原操夫妻、高橋裕子)
* 1941年(S16)9月15日、中田、六郷、七郷、岩切、高砂の5か村が仙台市に合併、全市の公会は400、連合公会は23になる / S18年11月、公会区域改訂で、168公会に統合
* 1941年(S16)7月1日、隣組の常会設置(「生活と風俗」P96)、全国の隣組一斉に常会を開く、ラジオ番組通じ、内務省、司会・指導(岩波ブックレット「年表 昭和史」P18)
* 1941年(S16)、ラジオ「常会の時間」(毎月1回)開始

* 1942年(S17)8月、公会なども大政翼賛会の指導下となる/ 同会県支部長が委嘱する世話役(公会長・連合公会長兼任)、世話人(隣組長兼任)を置き、各公会、隣組の常会を指導し大政翼賛運動の徹底をはかる仕組みとなる
* 1943年(S18)2月3日、仙台市隣組回覧板発行 
* 1943年(S18)11月12日、公会を164に統合して連合公会を廃止
* 1947年(S22)4月1日、仙台市が公会制度を廃止(公会177、隣組4,584) / 旧泉市、旧宮城町、旧秋保町の部落会や隣組も同時期に廃止 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P14~18、「仙台市史 特別編4 市民生活」P460~463に、仙台市の公会について記述あり

/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18、P26/「市制八十周年記念 仙台の歴史」P147/「仙台市史 年表」P110、P111、P112、P114/「仙台市史10 年表」P305、P315/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51 
公会の慰安演芸大会は、06-1706-11など写真分類G-27-03の全写真/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P15に、「仙台市公報」「公会通信」「少国民通信」の写真/「目で見る仙台の歴史」P169に「隣組回覧板」/「新・目で見る仙台の歴史」P172(配給を受けようと並ぶ人の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(S16年、こども隣組双六)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P461(S16年、木町通り第一公会第十八隣組栄養食共同炊事場、S16年外記丁隣組の炊事風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P462(S17年東裏丁公会の金属供出の様子、S18年仙台市隣組回覧板) 
金属回収 街灯  1942年(S17)  * 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26   
街灯(東一番丁南部) 戦前 4灯型  設置年不詳~1945年(S20)
 
東一番丁南部(旧大通り地区=大町通角~南町通角の間)の街灯

戦前> 
* 設置年不詳(ただし、S7年の絵葉書(20-37 藤崎西館完成記念)では、1基4灯型の街灯が写る)
・ 同じ東一番丁のスズラン灯でも、中央通(大町通)角を境に街灯の形が違った
・ 大町角以南の通称「大通り」は統一され、4灯タイプ(上1、下3)で、「わかもと」の遠景の宣伝看板がついていた

* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26  20-3720-4522-5553-3822-59、夜景は99-01952-01 
街灯(東一番丁中央部) 戦前 5灯型  1928年(S3)~1945年(S20)  東一番丁中央部(立町通角~大町通角の間)の街灯

戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置 
・ 東一番丁通り中央部(立町通角~大町通角の間)の「スズラン灯」は1基5灯型(電球が球形と釣鐘型がある)

* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26  99-01861-1111-03、/傘が釣鐘型は、20-2599-037 
街灯(東一番丁北部) 戦前 5灯型  1928年(S3)~1945年(S20)  東一番丁通り北部(立町角以北)の街灯

戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置 / 通称「スズラン灯」(1基5灯型、電球の傘が筒型) 

・ 写真 22-51 (三越付近)、 99-052 (栄亭付近)、 99-037 (富士屋洋品店付近)など

* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出  
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26  61-1622-5153-3453-1353-2399-04199-052 
金属回収 寺院の梵鐘など  1942年(S17)  * 1942年(S17)11月6日、大年寺の名鐘、白銀混鋳の「開静鐘」など(仙台市内の)各寺院神社等の撞鐘をはじめ金属製の調度品(国宝級のものを除く)を戦時資材として回収開始(“応召”より除かれた三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)
* 1942年(S17)11月12日、各寺院より“応召”した梵鐘の壮行供養会を東一番丁の西本願寺に於いて挙行 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26/「重訂 宮城県郷土史年表」P493/「仙台年表」P214  「目で見る仙台の歴史」P168(各寺院供出物の山) 
第十三師団 編制  1937年(S12)9月~1945年(S20)  * 1937年(S12)9月9日、日中戦争勃発(同年7月7日)により急きょ、仙台において編制される(第二師団留守部隊を根幹とする十三師団=青葉師団)
* 1937年(S12)9月24日、宮城県人を中心に編制された歩兵第104連隊(十三師団隷下)が仙台から「出征」

・出動に際し仙台に集まる将兵は市内の民家に分宿した
・第十三師団は、上海上陸、南京攻略、徐州占領、大別山越え、宣昌作戦、大陸打通作戦と、日中戦争・太平洋戦争期を通して中国大陸を転戦、敗戦時は華南にあった(「仙台市史 続編第1巻」P64)

・大陸打通作戦は、1944年(S19)4月~45年2月。兵力50万を投入、第十三師団も組み込まれた。作戦距離1500キロ。ねらいは、中国の華北から華南までの鉄道を確保し南方からの資源輸送を船舶から鉄道へ切換え、かつ沿岸の大都市、長沙、衡陽、桂林を占領し、周辺に建設された米軍基地をたたき、北九州地区への空襲を防ぐもくろみだった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P136~137)
* 1945年(S20)8月敗戦時には、中国華南に駐屯(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)

   → 項目「歩兵第104連隊」参照

* 1939年(S14)12月9日、荻洲立平中将(オギス リッペイ)、仙台市公会堂で講演会(荻洲中将の十三師団長在任期間は、昭和12年9月10日~14年8月1日なので、師団長離任後になる)

<「戦争のころ 仙台、宮城」P30~31>
「第十三師団は日露戦争末期に編成され樺太を占領した師団ですが軍縮により廃止されました。日中戦争開戦2か月後に復活、仙台に司令部、仙台、会津若松、新潟県高田に部隊が置かれ、仙台は歩兵104連隊です。」
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P2、P8、P64/「仙台市史 年表」P109/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P184/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P30~31、P136~137、P238   
戦勝祝賀行事 大平洋戦争中  1942年(S17)  <シンガポール陥落>
* 1942年(S17)2月15日、日本軍がシンガポール占領
* 1942年(S17)2月15日、シンガポール島要塞の敵軍、皇軍に無条件降伏す、17日に昭南島と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P487)
* 1942年(S17)2月18日、シンガポール陥落戦捷第一次祝賀会開催(「仙台市史10、年表」P303)
 / 仙台でも祝賀行事が行われた / 河北新報記事「歓喜と日章旗のうずまき、感激を軍歌に乗せて、軍都仙台に音楽大行進がくりひろげられた」(「仙台市史 続編第1巻」P36)

・「シンガポール陥落を祝って仙台では提灯行列が行われました。お父さんたちには清酒2合、家庭には砂糖、小豆が特配されました。5月になると児童たちに、そのころ貴重品になっていたゴムまりが配られました。占領地のマレー半島はゴムの産地です。武器弾薬を届けた輸送船が帰りにゴムの材料を積んで帰ってきたのです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P66~67)

* 1942年(S17)3月12日、戦捷第二次祝賀記念式典(「仙台市史10年表」P304)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争一周年記念県民大会(「仙台市史10 年表」P305)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争第一周年記念県民大会を開催、この日、武道大会を挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P493) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P493/「仙台市史10 年表」P303~304(出典:河北新報)、同P305/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P66~67)  シンガポール陥落祝捷行列(仙台)は、16-05 
金属回収 銅像「壮行式」  1943年(S18)  * 1943年(S18)8月10日、仙台市内にある知名人の銅像・胸像52体、市役所で「壮行式」をあげて供出
 元首相斎藤実、元枢密顧問藤沢幾之助、元貴族院議員伊沢平左衛門、元衆議院議員氏家清吉、元東北帝国大学総長本田光太郎、当時の市長今村武志、元仙台市長早川智寛、元仙台市議小西利兵衛、河北新報社社長一力次郎、大内合資会社社長大内源太右衛門など /このうち伊沢氏の胸像だけで20体あった。 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36~27/「仙台市史 年表」P112   
健康都市宣言 仙台市  1962年(S37)  * 1962年(S37)3月16日、健康都市宣言発表(島野市長2期目)
基本目標は、「人口集中、産業高度化、交通激化などに伴う問題を克服し、市民すべてが健康で文化的な生活を営むことのできる都市づくり」
・ 昭和39年以降、とくに工業化を先兵として拠点的地域開発がすすめられるであろうことを想定して、あらかじめ健康な仙台を保存して、開発と保存のバランスを前もってとることにした (「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P778)
* 1962年(S37)5月、健康都市建設協議会発足
* 1962年(S37)7月25日、市公会堂で第1回健康都市建設市民大会開催(1700人参加) / 以後毎月16日を「健康都市の日」と定め、4月~12月には早朝、市民総出で「町ぐるみ清掃」(町ぐるみで道路、広場、公園などの公共的場所の清掃)を8月16日から実施、第1回は78トンのごみ回収、第2回は倍の138町参加しごみ200トン、回ごとに参加町内は増えるがごみ量は急カーブで減少)

「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P245に、3項目の目標、宣言文

* 1963年(S38)9月、第1回健康都市子ども大会(レジャーセンター)2400人参加 / 以後毎年開催
* 1963年(S38)9月8日、仙台市は健康都市の一環として「市民ラジオ体操会」開催
* 1965年(S40)8月8日、第1回「歩け歩け運動」(仙台市が実施)
* 1969年(S45)11月15日、仙台市が「健康都市仙台のあゆみ」刊行 

・ 梅田川清掃運動(1964年10月)、広瀬川、六郷堀(1968年3月)、七号堀の清掃運動など各地に河川浄化運動が生まれ、1968年(S43)4月には連合組織として仙台市河川愛護会結成、この間下水道の普及もあって、市内河川の水質は目に見えて良くなり、アユがつれ、フナが泳ぐきれいな川が復活し全国からの見学に訪れるようになった → 項目「梅田川清掃運動」参照
・ 緑と花いっぱい運動へも発展 → 項目「緑と花いっぱい運動」参照 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P115、P245~250/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P777~778/「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P604、P605、P609、P621、P654/「市民の戦後史(仙台市)」P138(町ぐるみ清掃)    201-01/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P247~249に、「こども大会」、市民による「道路清掃」「六郷堀清掃」の写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P138(第4回健康都市建設市民大会、学童パレード、町ぐるみ清掃、市民ラジオ体操会、歩け歩け運動、花いっぱい運動の花壇)/「新・目で見る仙台の歴史」P190と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P428に「市民が横断幕掲げてパレード」 
やりなおし市長選挙 仙台市  1958年(S33)  * 1955年(S30)4月30日仙台市長選、岡崎栄松4期目当選に対し、革新系島野武候補側が、市選管に異義申し立て / 市選管は票再点検の結果、却下(この過程で投票総数増加等の疑惑)  / 仙台地検捜査開始 / 県選管も投票用紙点検し、選挙無効と裁定 / 岡崎派が行政訴訟
* 1956年(S31)12月25日、仙台高裁、選挙無効判決
* 1957年(S32)12月17日、最高裁が、仙台市長選挙無効の判決
* 1958年(S33)2月2日、やりなおし選挙で、島野武当選 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P116~118/「重訂 宮城県郷土史年表」P586、P587  「市民の戦後史(仙台市)」P103と、「新・目で見る仙台の歴史」P182に「S33年2月、初当選し登庁する島野武市長」 
仙台市役所庁舎 第3代庁舎  1965年(S40)  第2代庁舎の北側に建てられた(鉄骨鉄筋コンクリート 地上8階・塔屋3階、地下2階、総建坪3万1237㎡、軒高30.4m、塔屋最上部40.25m)

* 1964年(S39)3月24日、新庁舎建設起工式
* 1965年(S40)10月31日、新庁舎が竣工
* 1965年(S40)11月8日、落成式(開扉式)
* 1965年(S40)11月22日、新庁舎で執務開始(マイクロフィルムシステム、電子計算機等導入)
* 1966年(S41)12月1日、庁舎前庭落成(噴水池を中心に岩石や花木を配置)
* 1972年(S47)9月1日、市役所前広場と水道局隣の二日町に市営有料駐車場設置 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P219~220/「重訂 宮城県郷土史年表」P613、P622、P628/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P13/「市民の戦後史」P175  40-05201-02201-05/「市民の戦後史(仙台市)」P174~175(新庁舎全景、窓口、議場、玄関、ロビー、電算機室、和風中庭)/「新・目で見る仙台の歴史」P200(第3代庁舎と噴水)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図60(H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S45、カラー) 
姉妹都市(仙台市) 国内姉妹都市  1967年(S42)~  <音楽姉妹都市>
* 1967年(S42)1月18日、仙台市(土井晩翠生地)が、大分県竹田市(滝廉太郎生地)と音楽姉妹都市に(「荒城の月」の縁) / S42年11月18日には、中山晋平生地の長野県中野市も加わり、三姉妹都市の縁を結ぶ

<観光姉妹都市>
* 1970年(S45)4月15日、徳島市と、七夕・阿波踊りという全国に誇る代表的な祭りをもつ縁で、観光姉妹都市に

<歴史姉妹都市>
* 1975年(S50)11月3日、宇和島市と歴史姉妹都市締結
* 1981年(S56)5月8日、北海道白老町と歴史姉妹都市調印

<参考> 詳細(各都市との提携動機など)は、仙台市ホームページの「仙台市の国内姉妹都市」に記述あり 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230/仙台市HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P636/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P128   
梅田川清掃運動 開始  1965年(S40)  <梅田川浄化運動>
梅田川は、急速に発展した住宅街を流れるため、ごみが投げ捨てられ、汚水が流れ込み、きたない川の代名詞のようにいわれていたが、市民が汚水と悪臭の追放に取り組む / 毎月16日の「町ぐるみ清掃の日」に、流域住民総出で清掃 / 当初3年計画だったが、1年半で目標を達成した

* 1964年(S39)10月(S40年3月?)、苦竹、中江地区の12町内会4200世帯と地域の衛生団体、東保健所などが参加して、梅田川浄化推進協議会結成
* 1965年(S40)3月29日、梅田川浄化運動大会
* 1965年(S40)5月、小田原から荒巻神明町にかけての29町内会による、北部地区梅田川環境美化推進協議会発足

* 1965年(S40)夏、ドジョウやフナを放流
* 1966年(S41)10月、美しい町づくり全国コンクール最優秀賞受賞(テレビで全国に紹介)

<他の地域へ波及>
このあと、六郷堀清掃運動(1968年3月~)、広瀬川、七郷堀、郡山堀など市内各地に河川浄化の取り組みが生まれる
* 1968年(S43)5月、これら運動団体で仙台市愛護会結成
* 1980年代までに河川愛護会の構成団体は10団体となり、梅田川、広瀬川、七北田川、郡山堀、六郷堀、七郷堀、藤川で運動継続、毎年1万人以上が清掃の参加 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P248~249、P680/「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 特別編4 市民生活」P541~542  「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(ごみ捨て場となった梅田川)/同P430(S41年、市民が梅田川清掃)/「市民の戦後史(仙台市)」P189と「新・目で見る仙台の歴史」P191に「市民総出で梅田川清掃作業」/「市民の戦後史(仙台市)」P189(フナを放流) /同P212(住民たちが六郷堀川さらいで清掃)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(七郷堀を市民が清掃作業) 
ライオンズクラブ 仙台    * 1960年(S35)5月、支倉常長記念碑を仙台城址三の丸に、仙台ライオンズクラブが建立(「重訂 宮城県郷土史年表」P596)
* 1967年(S42)、市民記念植樹実施(篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈)(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
* 1968年(S43)4月13日、勾当台公園内に、仙台ライオンズクラブ寄贈の野外音楽堂完成し、寄贈式(「重訂 宮城県郷土史年表」P639)
* 1970年(S45)6月5日、全国大会を仙台で開催(「重訂 宮城県郷土史年表」P661)
* 1978年(S53)5月2日、「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」を、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建(「続・宮城県郷土史年表」P81) / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている →「政宗卿騎馬像」参照 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P639、P661/「続・宮城県郷土史年表」P81   
戦災復興(応急対策) 空襲跡の状況  1945年(S0)  「仙台空襲(S20年7月10日)では、市内の中枢部500haが焼き払われ、わずかに土蔵、鉄筋コンクリート建物などが焦土の中に残されただけで、当時の全市民の26%が被災し2590人の死傷者を出すという惨状に市民はただ茫然自失、立ち上がる気力を失った。やがて終戦(8月15日)を迎えて幾月たっても民有地の焼け跡の整理が進まず、瓦や石ころが散乱するにまかせ手の施しようがなかった。
理由の主なものは、復興計画が確定していない、建築の制限、建築資材の入手難、大工不足、焦土の処理難、費用の増嵩などのほか、地主が土地を貸したがらず、電灯の復旧もはかばかしくなかったことなど、当時としてはやむを得ない事情が重なっていた。」 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P311   
戦災復興(応急対策) 戦災地の跡片づけ    * 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興計画基本方針決まる
* 1946年(S21)2月、清掃事業が戦災復興事業として認められ、最も緊急を要する個所から重点的に清掃を開始
・ 焼け跡では、瓦や石の大部分は街路の路盤の上に、あるいは整地工事に使用など付近地で処理
・ 清掃事業は、市役所、県庁周辺から開始、S20~23年度で、市中心部、のべ94万5537㎡に達した
・「地区内の民間宅地、また公共用地にまだ取り残されているがれきは多く、運搬用トラックも不足していたので、荷馬車と人手による整地工事を兼ねた清掃事業が中心市街地で行われたのは21年度のことで、4か年計画の第2期にあたる年である。」(「番丁詳伝」P164)
・ 焼け跡の片づけは学徒の動員などで進められた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)

<金属類回収>
・ S21年11月~、焼け跡の鉄くず類回収 / 再生可能なものを除き、鉄くず499トン、鉛くず6万5556トンを金属回収統制株式会社に売却 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P312~313/「番丁詳伝」P164/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323  戦災地の跡片づけする市民たちは、「市民の戦後史(仙台市)」P18、「新・目で見る仙台の歴史」P166/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323の「図324」 
戦災復興(応急対策) 住宅応急対策    ・ 戦災者を、焼け残った学校その他の施設に収容(縁故先や他町村へも疎開も多かった)
・ 建築は規模に関係なく知事の許認可を要したが、S21年3月末までで1139戸(平均建坪29坪)、無許可で752戸(同18坪)
・ 県が越冬対策で簡易住宅(6畳、3畳、組み立て式)2000戸計画し実物見本を展示したが、申し込みは約800戸、実際に建ったのはごくわずかだった
・ S21年5月、簡易住宅(賃貸)完成(市営住宅250戸、日本住宅営団750戸
・ S22年5月現在、民間自力建築2073戸、市営住宅350戸、営団住宅1814戸、同胞援護会関係138戸、計4375戸 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P313~314   
戦災復興(応急対策) 上下水道の応急復旧    <上水道>
・ 上水道の給水管破損がひどく、全給水戸数の44%、1万1642戸が被災、漏水量は配水量の58%、給水人口は14万人から8万人に減少

<下水道>
・ 汚水桝や雨水桝にたまった焼け土が排水管に流れ込み、排水機能が一時半減
・ 復旧作業はS20~23年(上水道応急復旧事業)
・ 下水本管の掃除、S21~23年度で一応終了 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P314   
戦災復興事業 戦災墓地を北山霊園へ  1951年(S26)~1952年(S27)  * 1951年(S26)10日、復興区画整理区域内の11寺院のうち、区域内に墓地をもつ社寺(満願寺、光円寺、大聖寺、宮城県神職会)に対して、新造成した北山霊園の一部に、墓地用地を配分 
* 1952年(S27)までに、4社寺の有縁墓碑1648基移転修了、無縁墓碑600基は各墓地内に万霊塔を建て納骨
* 1956年(S31)6月、残りの用地は市営墓地とし、市民に開放
・霊園東の入り口に戦災死亡者の記念碑がある 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P331~333  「市民の戦後史(仙台市)」P77(S28、北山霊園へ墓地移転供養)/同P96(墓参する家族) 
霊園/墓園 北山霊園  1948年(S23)/1951年(S26)  仙台市が、市北部北山町の高台に面積5.3haの霊園を造成し、戦災を受けた元寺小路地区の4寺社の墓地(0.86ha)を移転するとともに、同墓園周辺地区を拡張し市営墓地として市が経営

* 1948年(S23)10月、仙台市が、元寺小路や東三番丁の墓地を移転させるため造営開始
* 1951年(S26)10月に一部完成し、墓地移転が始まる / 戦災復興整理区域内の11寺院のうち、区域内に墓地をもつ社寺(満願寺、光円寺、大聖寺、宮城県神職会)に、新造成した北山霊園の一部を、墓地用地(5.7ha)として配分
* 1952年(S27)までに、4社寺の有縁墓地1648基移転終了、無縁墓地600基は各墓地内に万霊塔を建て納骨
* 1956年(S31)6月、残りの用地(7.8ha)は市営墓地とし、市民に開放
・霊園東の入り口に戦災死亡者の記念碑がある
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P331~333、P743~744/「仙台市史 年表」P115、P117  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P743(北山霊園)/「目で見る仙台の歴史」P171(北山霊園の空襲犠牲者慰霊供養碑)/同P178(霊園) 
戦災復興事業 難航した堅牢建物移転  1948年(S23)~1958年(S33)  <建物移転>
・ 1948年(S23)8月、開始
・ 対象は、区画整理施行区域内の幹線街路、区画街路、公園など予定地に建つ建築物
・ 方法は、曳き方、移築、除去の3種
・ 移転補償は移転料、移転完了までの家賃補償、工作物補償、営業補償、移転雑費など

<手を焼いた堅牢建物の移転>
* 1950年(S25)開始~1958年(S33)7月完了、新設または拡幅予定の幹線道路の用地にあった堅牢建築物11軒を移転
 ・ 長町堤町線の日乃出映画劇場
 ・ 東一番丁線の明治製菓支店、キリンビール支店
 ・ 東二番丁線の市立病院表玄関、仙台商工会議所、三井生命支店、協和銀行支店、逓信病院、東北学院赤レンガ校舎の一部、宮城学院校舎の一部
 ・ 多門通常盤丁線の小林家住宅

・ 最後まで残っていた、東二番丁線沿いの逓信病院、東北学院、宮城学院は、S33年3月~7月末に撤去完了

<参考>三井生命仙台支店は、1938年(S13)8月12日、新装された(「仙台市史10 年表」P294) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P334~345、P349  撤去対象の東二番丁の堅牢建物の位置図は、写真98-109/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349の写真61(東二番丁通り拡幅部分にはみ出した宮城学院) 
戦災復興事業 土地区画整理    ・ 土地区画整理施工地区は仙台市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)
 / 当初計画(1946年(S21)5月の仙台都市復興都市計画土地区画決定)では土地区画整理面積424haだったが、その後、3回の縮小変更を経て、最終的には293haとなった

・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P339の区画整理地図で、計画区域の縮小経過が確認できる
・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P341~342に、区画整理前後の街路地図あり、街路の変化を対比できる
・ 区画整理前後の地積(道路・公園・宅地など)の変化は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P343の表79
 / 道路面積が11.5%→29.5%、公園1.1.%→6.8%、宅地84.8%→63%へ

<川内地区>
・ 当初計画区域とされた川内地区は、米軍接収(S20年9月~32年11月)されているため、区画整理区域からは除外、日本側に返還後は、国から東北大学、宮城県、仙台市が土地の使用配分を受ける
・ 返還後、東北大学川内キャンパス、市立商業高校、県営スポーツセンター、市立博物館などが建設された 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P338~343   
戦災復興事業 不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町  1958年(S33)  <仲ノ町の集団占拠>
・ 西公園の一部として公園緑地帯に指定された仲ノ町地区広瀬川岸の3.5haに、戦災で行き場所を失い追い詰められた生活困窮者や朝鮮人約1000人が無許可でバラックを建て住む
・ 1956年(S31)6月の市調査では、231戸347世帯、999人(うち朝鮮人が93人)居住
・ 通路は迷路状で密造酒、麻薬の巣窟、犯罪者の逃避場ともいわれ、市の調査員に警官同行した場合あり
・ 1958年(S33)7月26日、制服私服警官を配して、13戸を強制撤去、以降2~3戸ずつ順に代執行、自主移転者もいたが、12世帯(40人)は最後まで残った
・ 1960年(S35)、跡地に市民プール(東北電力が建設し市に寄付)着工し、最後まで残った世帯を臨時収容所に収容しS35年末までに完了・解決した 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P347~348/「番丁詳伝」P165   
戦災者・引揚者用住宅 市営住宅・県営住宅  1945年度(S20)など  ・ 西公園の一角に、戦後、戦災応急住宅として建設した市営住宅があったが、公園整備のため、他へ移転した
・ 上杉山通りの仙台商業学校の空襲跡地に戦後、戦災応急住宅として建設した市営住宅があったが、のちに他へ移転した(以上、「仙台市史 続編第1巻」P350)

* 市営住宅建設戸数
(「仙台市史第2巻本編1」P601~602の102表より)
・1945年度(S20)、元柳町(西公園)104戸、上杉山通(仙台商業跡地)53戸、仲ノ町18戸、良覚院丁49戸、花壇49戸、北一番丁6戸、計250戸
・1946年度(S21)、北六番丁40戸、花壇60戸、計100戸
・1947年度(S22)、長者町100戸
・1948年度(S23)、荒巻、長者町、南小泉、新寺小路に計110戸
・1949年度(S24)~1951年度(S26)に、計529戸]
(以下は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P424~426より)
・空襲焼け残りの鉄筋コンクリート建築物を地方長官の権限で開放
・一般遊休住宅の開放
・仙台市 引揚者住宅 448戸(うち新設288,改造転用160)
・住宅営団 600戸(追廻住宅)
・1953年(S28)、市営の鉄筋コンクリートのアパート
・1955年(S30)~、簡易耐火構造

<「仙台市史 特別編4 市民生活」P185より>
* 1950年(S25)ころより、戦災者、引揚者、戦災復興土地区画整理による立退き者などを対象に、市営・県営の住宅建設
・市営庶民住宅(西の平に約200戸)
・県営庶民住宅(荒巻・西多賀など)
・1949年(S24)、市内同心町に中層県営アパート建設 / 引き続き、小田原団地・新坂通団地・支倉通団地にも中層アパート建設 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P350、P424~426/「仙台市史第2巻本編2」P601~602  「仙台市史 特別編4 市民生活」P185(同心町の県営アパート)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P427(S25年ころ、長者町につくられた市営住宅) 
西公園(桜ケ岡公園) 概要、公園内の施設など  戦後  <戦後>
・ 仙台空襲後の住宅難対策で一時期は集団公営住宅(60棟)が建てられていたが、戦災復興事業により北方に大拡張し、あわせて3万6230坪の公園として整備された(11.45haに拡張)

* 1947年(S22)3月13日、戦災復興事業による道路・公園名の公募の結果、名称は「西公園」と決定 / S23年から整備開始
* 1949年(S24)4月20日~5月31日、西公園で、仙台復興祭グランド・フェア開催
* 1950年(S25)6月、軟式野球場
* 1960年(S35)8月、仲の町の「不法占拠住宅」約200世帯のうち、一部を強制立ち退き
* 2015年(H22)12月6日、地下鉄東西線開通し、最寄駅の「大町西公園駅」開業

<天文台>
* 1955年(S30)2月1日、西公園に、民営の仙台天文台が開台(市史年表P119) / 41センチ・マケリン氏反射赤道儀、当時は全国4番目の大きさ(「重訂 宮城県郷土史年表」P575)
* 翌年、市に寄贈され、市営の「仙台市天文台」に
* 1968年(S43)5月、プラネタリウム館併設(河北新報社寄贈)
* 2007年(H19)11月25日、観覧業務終了(翌年、新天文台が青葉区錦ケ丘にオープン) → 項目「仙台市天文台」参照

<市民プール>
* 1961年(S36)7月20日、市民プール(西公園プール)が西公園西下の中瀬に竣工し、落成式(22日に開園)(市史年表P112)
* 2006年(H18)、西公園プール廃止

<市民図書館>
* 1962年(S37)10月27日、公園内に、市民図書館が設置された(市史年表P112)
* 1962年(S37)10月、浜夢助の句碑「雪国にうまれ無口に馴らされる」市民図書館付近に建立
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転

<こけし塔>
* 1961年(S36)3月27日、仙台市の戦災復興都市計画事業完了を記念して、西公園で「こけし塔」除幕式がおこなわれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P600) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P350、P464~465/「仙台市史 年表」P119、P122/「仙台市史 本編2」P36~37の「桜ガ岡公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P601、P606、P607/Wikipedia「西公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P600、P601  「目で見る仙台の歴史」P178(戦後の西公園)/「市民の戦後史(仙台市)」P129(戦災復興都市計画事業完了記念こけし塔)/同P136~137(市民プール)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P56(S37、西公園の市民プール、カラー) 
戦災復興事業 市電軌道、電線、水路の移設  1947年(S22)~1960年(S35)  <市電軌道の移設>
循環線の一部を、戦災復興年計画により既設街路の線形の変化、街路拡幅にあわせて軌道も移設(のべ1013m撤去、910m敷設)
* 1947年度(S22)から開始
・ 片平丁の裁判所前、西公園前、仙台駅前付近の3か所で、軌道の屈折緩和のため改良工事
* 1960年(S35)に、清水小路銑鉄局前の屈曲部も改良

<電線移設>
* 1952年(S27)2月、宅地になる旧道路に敷設されていた地下ケーブル線(送電用300m、電話用100m)を新道路地下に移設

<無電柱街路実現>
・ 仙台駅~川内線(仙台駅~南町間)=青葉通944m
・ 元寺小路川内線(元寺小路~国分町間)=広瀬通927m
・ 長町堤町線(南町通~錦町間)=818m
・ 東二番丁線(南町通~定禅寺通間)=892m
・ 東一番丁線(南町通~定禅寺通間)=838m
・ 中央通り繁華街(昭和35年7月ころまでに完成予定)
・ 当初計画された定禅寺通錦町線は、家屋移転が遅れて実現せず

<四ツ谷堰の水路変更>
* 1948年度(S23)~1957年度(S32)、一部水路の付け替え、暗渠化などを5カ所で実施
参考)「仙台市史2」(昭和30年刊)P673~674に、四ツ谷堰の市内三系統の経路が記載されている 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P352~354/中央通りの無電柱化予定は、「重訂 宮城県郷土史年表」P594/「番丁詳伝」P166~167   
廃藩置県(仙台県誕生) 仙台県誕生/宮城県と改称  1971年(M4)/1972年(M5)  <版籍奉還>
* 1868年(M1)12月7日、伊達藩主(第13代)慶邦は、慶応4年の戊辰の役、奥羽戦争の罪を問われ、仙台城没収と28万石(宮城・黒川・名取・玉造・志田の5郡)に削封
・ 慶邦の実子亀三郎(3歳)に家名を継がせ、藩内の土地、領民の版籍を奉還
* 1869年(M2)6月、仙台藩「知事」に当主の亀三郎任命される / 仙台城二の丸に「勤政庁」設置(翌3年藩庁と改称)

・ 伊達藩から没収した旧領地に、政府直轄地として「涌谷県」「栗原県」「桃生県」設置し「権知事」を置く
・ その後の名称変更や統合(白石県→「角田県」/ 桃生県→「石巻県」/ 登米・石巻が合して「登米県」など)

<廃藩置県>
* 1971年(M4)7月、廃藩置県、「仙台県」誕生(仙台藩、角田県、登米県を合わせ、玉造郡は一関県(岩手)に分割) / 藩庁は県庁となり、二の丸から養賢堂に移転、二の丸跡には「東北鎮台」(のちの第二師団)設置
* 1872年(M5)1月、「仙台県」が「宮城県」と改称 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P361~362   
仙台市(名称変遷) 名称の変遷(第一大区/仙台区/仙台市)  1872年(M5)/1878年(M11)/1889年(M22)  * 1872年(M5)4月、県下に区制が布かれて仙台城下一円が「第一大区」に
* 1878年(M11)7月、郡区町村編成法発布により「仙台区」
* 1889年(M22)4月1日、市制が施行され「仙台市」と改称(この時の範囲は、旧城下町のほぼ全域にあたり、面積17.27平方キロ、戸数1万6800戸、人口8万6352人) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P362   
仙台市電 開業 / 駅前~大町1丁目、東五番丁~荒町 開通/モータリゼーション進展で利用者減 / 財政悪化/全線廃止  1926年(T15)11月/1976年(S51)3月  * 1925年(T14)11月、起工
* 1926年(T15)11月25日、仙台市電が初開通
  (仙台駅前~大町1丁目間2.1キロ、東五番丁~荒町間1.2キロ)
* 同日、西公園で開通記念式典

・ 「開業日、市中は飾り塔、造花、赤ちょうちん、紅白幕、小旗に彩られ、東一番丁では花トンネルをつくった。 また、開通の日、午前中だけで1万2000人が乗ったと記録されている」(「番丁詳伝」P118)

開業時にすでに、始発駅の仙台駅のやや北にある、名掛丁角まで軌道が敷かれている(「昭和史とともに 仙台市電-その50年」P166の市電系統図)

      ********************
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P216>
・ 市電利用者:昭和39年をピークに減少、市電財政悪化しはじめる / 対策として、大型ボディー車導入や1966年(S41)から一部をワンマン化 / 郊外に住宅団地増え周辺部から流入する自家用車で、市電並走部で交通渋滞 / 1976年(S51)3月、市電全線廃止

仙台市電(各路線)の開通日や廃止日は、
 ・「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189と
 ・「文集 仙台市電 市民が綴る五十年の軌跡」末尾年表で、わかる
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P364/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電 市民が綴る五十年の軌跡」末尾年表/「番丁詳伝」P118/「仙台市史 特別編4 市民生活」P216  22-48、/ 開通記念式典は、98-103/開業時の市電系統図は、98-101/「目で見る仙台の歴史」P148と「新・目で見る仙台の歴史」P147に「西公園における開通式、花電車」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P207(開通式、記念絵葉書の袋、一番電車が片平丁車庫を出発、開通記念無料乗車券)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P206~213(市電関連写真) 
野草園 開園  1954年(S29)  * 1954年(S29)7月21日、開園(面積3.4ha) / 仙台市営 / 大年寺山の一隅19,620坪を20ブロックに分かち、東北地方などに自生している600数種に及ぶ野草を各適地に植栽
* 1976年(S51)9月、野草園で、大賀ハス開花
* 1983年(S58)4月29日、野草園で「杜と彫刻の風の音」除幕
* 1989年(H1)7月21日、佐藤よしの依頼で彫刻家鈴木政夫制作による花地蔵安置
* 1989年(H1)9月14日、萩にちなんだ石の彫刻「萩の守」を除幕 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P368/絵葉書99-127の説明文/「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P231/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P261、P262  99-127/「目で見る仙台の歴史」P179/「市民の戦後史(仙台市)」P78/「新・目で見る仙台の歴史」P192/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P68(S38、カラー) 
防空演習(防空訓練)   1936年(S11)~1938年(S13)  <防護団>
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)

* 1936年(S11)8月17日、仙台中央街防空演習
* 1936年(S11)9月18日、仙台市で大防空演習(満州事変5周年記念)

(* 1937年(S12)7月7日、日中戦争勃発)

* 1937年(S12)
4月5日、防空法公布(10月1日施行)/9月15日、宮城県灯火管制規程公布/9月17日、仙台市防空演習/10月1日、仙台市役所に防空係設置/11月16日、関東東北地方防空訓練
 
<家庭防火群>
 「1937年(S12)10月頃から、家庭防火群組織開始。5~20戸で1ブロック、数ブロックで町家庭防火団を結成、防護分団がこれを統制する。家庭には防火担当者、群には群長を選任、工場やアパートなど特殊建物には特別家庭防護群をおく / 各家庭は常時防水用として水槽やたらい、バケツ、ホースなどを備え、戸外には防火土砂を用意。訓練警戒警報が出ると婦人はモンペ姿でバケツ・リレーの演習に引っ張り出された。」(「仙台市史 続編第1巻」P38)

* 1938年(S13)
 3月、仙台市防空委員会設置/ 8月27日、防空訓練/9月13日、東部防空訓練/11月26日、東部防衛司令部防空演習 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P37~39/「仙台放送局60年のあゆみ」P12/「仙台市史10 年表」P289、P290、P291、P294/「重訂 宮城県郷土史年表」には防空訓練関連記述なし   
霊園/墓園 葛岡墓園(葛岡墓地公園)  1969年(S44)  新寺小路地区の都市改造事業(区画整理)による移転墓地 / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成

* 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始
* 1969年(S44)3月、第一期工事分(約38.2ha)がほぼ完成し一部墓碑の移転開始
* 1972年(S47)、仙台市葛岡斎場が開場
* 1978年(S53)4月、仙台市葛岡墓園が一般に開放 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P386、P744/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127/「仙台市史 年表」P123/Wikipedia「仙台市葛岡墓園」/「続・ 宮城県郷土史年表」P80  「市民の戦後史(仙台市)」P211(造成すすむ葛岡墓地公園) 
新寺小路地区都市改造事業(区画整理) 計画公示~完了  1960年(S35)
~2000年(H12) 
<「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」(昭和44年9月発行)P388より>
「新寺小路地区第一工区土地区画整理事業=寺院と墓地によって相当部分が占められており、仙台駅に隣接してしているにもかかわらず市街地としての環境整備が遅れているので、市中心部と東部地区を連絡する都市計画街路を築造し、駅前広場(東口)を拡張して交通の円滑化を図るとともに、区画街路、公園などを設置、墓地を整理して総合的に近代市街地化する。このため墓地は別途事業で造成中の葛岡墓園に移転改葬し跡地は宅地として利用する計画。事業認可面積は約60.3haで、昭和35年から5か年計画で着工したが、墓地の所有権をめぐる訴訟事件などのため事業は進まなかったが、同地区の10カ寺との話し合いがつき、昭和44年一部墓地の移転が開始されたので、清水小路多賀城線の拡張工事は軌道に乗り始めた。」

<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127>
「新寺小路の区画整理は、区域内約1100戸を交換分合するほか、約30カ寺の墓地を整理、3万基近い墓を葛岡墓地公園に移転。そして道幅を7.5mから25mに広げ、都心部と仙台バイパスを結ぶ最短路線にしようというもの。」

* 1960年(S35)6月、新寺小路地区都市改造事業計画公示(施行年度は、2000年度(H12)まで / 施行面積60.4ha)
* 1960年(S35)9月、新寺小路地区の33カ寺、墓地所有をめぐり市を相手に訴訟
* 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始(新寺小路地区の都市改造事業=区画整理による移転墓地) / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成
* 1965年(S40)1月、新寺小路墓地問題で11カ寺と市が和解
* 1969年(S44)3月、移転第1号として応瑞寺の墓碑50基を移転 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P388/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127、P744/「同書」末尾年表P871、P888/「仙台市史 年表」P123/「市民の戦後史(仙台市)」P110、P113  「市民の戦後史(仙台市)」P211(葛岡墓地公園) 
消防組/防護団/警防団/消防団 仙台市防護団  1936年(S11)  * 1933年(S8)9月15日、仙台で「防空救護団」発団式
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、青年訓練所生、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1936年(S11)4月29日、「仙台市防護団」結成(17分団成立)
* 1937年(S12)、仙台市防護団、防護団の下に5~20戸をまとめた「家庭防火群」をおく

* 1943年(S18)1月19日、「仙台市役所特別防護団」設置 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P38/「仙台年表」P204/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台市史10 年表」P305   
防空演習(防空訓練)   1940年(S15) 
* 1940年(S15) 東部特別防空訓練
 第1次開始6月7日、第2次開始9月2日(20日か?)、第3次実施10月1日(5日間)

* 1940年(S15)11月、仙台市は公会の設置に伴い、家庭防空業務規程制定(翌16年5月から町内および隣組防空業務は公会関係者が担当) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39/「仙台市史10 年表」P298~P299   
広瀬通り 戦後新設    「広瀬通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、青葉通りとともに市中心部を東西に貫く幹線道路として、仙台空襲(S20年7月)の焼失地域に新設された
・ 幅員36メートル
・ 旧立町通り、旧玉澤横丁、立町を拡幅、その他は空襲焼け跡に造成した
* 1952年度(S27)、車道の中央部分の舗装開始
* 1953年(S28)、大部分が、日米行政協定による事業として、一気に舗装すすむ

旧・「玉沢横丁」は1907年(M40)に拡幅され、東一番丁の中心的存在に(娯楽街として仙台第一の地位)(昭和41年河北新報記事による) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404  22-1922-2022-2122-22/「市民の戦後史(仙台市)」P59(S25年の東一番丁角付近、元寺小路付近) 
青葉通り(舗装) 車道中央部分の舗装  1949年度(S24)~1953年(S28)  * 1949年度(S24)、車道の中央部分(幅9m)の舗装、失業対策事業で開始
* 1950年度(S25)、国庫補助で本格的な舗装開始
* 1954年(S29)年3月、中央部分のコンクリート舗装(幅9m)が完了
* 1958年(S33)現在、緩行車線は未舗装(「仙台クロニクル」P23の写真)/ 当時車道は、2本の分離帯で3つの部分に分けられており、分離帯の両外側が緩行車線だった 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「戦災復興余話」P50~51  98-04898-03022-07/仙台クロニクル(風の時編集部 2020年刊)P9(S29年、駅前)、P10(S29、東五番丁角から西、俯瞰)、P12(S29、藤崎より東、俯瞰)、P23(S33、東一番丁より駅方向) 
幹線道路 東五番丁通り(長町堤町線)    * 1949年度(S24)、車道の中央部分の舗装、失業対策事業で開始
* 1952年度(S27)、国庫補助で本格的な中央部分舗装開始
* 1987年(S62)5月27日、東五番丁通(愛宕~上杉線)の中央分離帯に水銀灯設置
* 1987年(S62)7月10日、東五番丁通りにガス灯87基設置される
* 1988年(S63)4月、五番街ガス灯、110基完成 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「続・ 宮城県郷土史年表」P224/「仙台市史 年表」P135/「わが心の仙台駅前史」年表  「仙台市史 特別編4 市民生活」P165(S24年頃、東五番丁での強制代執行)/「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅工事前後の東五番丁通リ(堤町線)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年、拡幅工事中の東五番丁通り・南町通り交差点 
広瀬橋(広瀬川) コンクリート橋/鋼桁橋  1909年(M42)/1959年(S34)  ・ 広瀬川に架かり、長町から旧市内へ入る国道の橋
(M42に長町橋を架け替えて「広瀬橋」に名称変更)

<流失相次ぐ> 
* 明治年間(長町橋の時代)に、広瀬川の氾濫で以下の年に橋が流失 →1884年(M17)9月15日、1889年(M22)9月11日、1908年(M41)9月30日

<鉄筋コンクリート橋>
* 1909年(M42)11月25日、広瀬橋竣工
・地元では日本の鉄筋コンクリート橋の第1号といわれるが、異説あり / 橋長127m、橋幅10.3m / 両側に当時としては珍しく歩道がつけられていた(写真99-111)
* 1935年(S10)、上流側に市電の専用橋ができた
  (長町までの市電が開通し使われたのは翌S11年から)

<戦後、かけ替え>
* 1959年(S34)8月4日、老朽化で架け替え、渡り初め式 / 橋長127m、橋幅22mの鋼桁橋 / 市電専用橋は橋の中央に複線の軌道として入れられた 
* 1988年(S63)4月21日、広瀬橋~長町駅前までの「杜のみち歩道」完成 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P408/「仙台市史 年表」P85、P87、P94、P96/「仙台市史10 年表」P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P593/「続・ 宮城県郷土史年表」P244  99-111/「目で見る仙台の歴史」P143(コンクリト橋)/同P199(広瀬橋の拡張工事)/「新・目で見る仙台の歴史」P131(コンクリート橋)/「市民の戦後史(仙台市)」P100(S32年8月、架け替え工事)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図14~18(M42年架橋工事中、S40年、H9年) 
宮沢の一銭橋   1880年(M13)  * 1880年(M13)までは渡し舟だった / その後、渡し守が私設の有料橋をかける(30cm位の木製の板、2枚を並べた橋で、川の増水時には取り外しができるようになっていた)
・ 通行料が3文だったが、終わりころには1銭になったので通称「1銭橋」と呼ばれていた(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
・ 渡し守の家は根岸川の高台にあった
・ 広瀬川に架かる宮沢橋の前身

* 1938年(S13)7月、仙台市会、林吉次郎の宮沢橋仮橋寄付を採択す(「仙台市史10 年表」P293) 
  →このあとは、項目「宮沢橋」を参照 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P409/「仙台市史 続編1」P409/「仙台あのころこのころ八十八年」P135/「仙台市史 別冊2」P825、P831/  06-0353-109/「仙台市史 特別編4 市民生活」口の絵図23 
宮沢橋(広瀬川)   1946年(S21)/1949年(S24)/1955年(S30)  項目「宮沢の一銭橋」よりつづく

* 1946年(S21)7月12日、宮沢橋落成(着工は4月31日) /    本格的な木造橋が「一銭橋」の100m程上流に架けられた(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1947年(S22)4月31日、一銭の渡り賃で「一銭橋」の異名のあった宮沢橋が木造橋に架け替えの起工式(「仙台市史 続編2」P825)
* 1948年(S23)アイオン台風と、1950年(S25)に、広瀬川が氾濫し、被害をうける
* 1949年(S24)7月17日、宮沢橋落成(「仙台市史 続編2」P831)
* 1949年(S24)、宮沢橋、堰場・根岸間に復旧架設(「重訂 宮城県郷土史年表」P539)
* 1955年(S30)8月、元の渡し場付近に、今(1995年現在)の宮沢橋が完成(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1990年(H2)8月、宮沢橋付近で、広瀬川の灯篭流し復活(13年ぶり)(「続・ 宮城県郷土史年表」P268)
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P409/「仙台市史 続編2(経済文化編)」P825、P831/「仙台あのころこのころ八十八年」P135/「重訂 宮城県郷土史年表」P539/「続・ 宮城県郷土史年表」P268  99-11006-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図24(H8年) 
防空演習(防空訓練)   1943年(S18)  * 1943年(S18)6月、防空警報伝達当直規程を設け、警報を受けたときに市内各変電所とも連絡して一斉にサイレンを鳴らす
* 1943年(S18)
    3月15日、仙台市特別防空訓練 6日間
    7月10日、仙台市第1期防空訓練 3日間
    8月25日、仙台市臨時特別防空訓練(東久邇宮稔彦王殿下が防空状況視察)
    10月11日、仙台市第2期防空訓練開始
    12月14日、仙台市防空講習所開設

戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P40/「仙台市史10 年表」P305~P307/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152   
霊屋橋(広瀬川) 木造吊り橋新設完工  1916年(T5)  * 以前は“粗末な有料三文渡し”があった
* 1908年(M41)5月24日、越路橋架橋(今の霊屋橋より100m程下流に)
* 再三水害にあい、1910年(M43)に流失
* 1915年(T4)8月20日、越路橋を霊屋橋と改称
  1916年(T5)、木造吊り橋新設完工(霊屋橋と命名)
* 1934年(S9)8月、市失業対策事業として架け替え起工 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P410/「仙台年表」P190/「重訂 宮城県郷土史年表」P362/「仙台市史 年表」P94/「仙台市史10」年表P247、P283  木造吊り橋は、99-10943-29/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図52(木造吊り橋) 
仲の瀬橋(広瀬川) 木造橋架橋/ゲルバー型に架け替え/二層構造の橋架橋  1927年(S2)/1956年(S31)/1980年(S55)or1983年(S58)  (旧)中の丁から川内地区を結ぶ橋
* 1885年(M18)11月24日、広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失
* 以前は私設の渡銭橋だった
* 1927年(S2)11月11日、第二師団工兵第二大隊の架橋演習により架設され竣工、開通式(S3年の「東北産業博覧会」に備え架橋) / 木造ポニートラス六連の橋で、長さ170.6m、有効橋幅5m
* 1940年(S15)9月5日、大雨による広瀬川氾濫で流失
* 1941年(S16)5月、工兵第二連隊の架橋演習として修築
* 1950年(S25)、出水時に橋桁、橋台など被災 その後復旧
* 1953年(S28)、架け替え着工
* 1956年(S31)9月に、ゲルバー型の鋼板桁橋完工(長さ163.3m、幅9m)

<二重構造の橋>
(注:Wikipedia「西公園」と、Wikipedia「仲の瀬橋」で開通年が異なる)
* 1980年(S55)8月、仙台西道路新仲の瀬橋下り車線完成(「続・ 宮城県郷土史年表」P116)
* 1980年(S55)8月、二層構造の橋架橋完成(Wikipedia「仲の瀬橋」) / 上層の道路は地上の道路とつながり、下層の道路は仙台西道路(国道48号バイパス)として川内トンネルとつながる
* 1983年(S58)、仙台西道路の建設に伴い、2層構造になる
* 1983年(S58)5月14日、仙台西道路が暫定開通、同時に(新)仲の瀬橋も開通(Wikipedia「西公園」の年表) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412/「仙台市史10、年表」P270/「仙台市史 年表」P85、P104、P110、P111/「仙台年表」P210、P211/Wikipedia「仲の瀬橋」(2019年11月)/「続・ 宮城県郷土史年表」P116  34-31-0107-02-0116-4716-48 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P87(昭和3年)/「市民の戦後史(仙台市)」P95(S31年架橋以前の傷んだ仲の瀬橋、S31年3月完成した新仲の瀬橋)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図25~27(S26年木造橋、S54年高架橋工事中、H8高架橋カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P57(S37、カラー) 

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電球
電信開始(仙台)
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伝染病流行
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天皇、仙台行幸
電力ホール
電話
電話開始(仙台)
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特別調達庁
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特急はつかり
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飛行大会
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ひらつか(東一番丁)
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福祉ボランティアのまちづくり事業
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