項目 |
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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
澱橋(広瀬川) |
鉄橋架橋/新たな橋架設 |
1892年(M25)/1951年(S26)? |
* 1889年(M22)9月10日・11日、大雨で広瀬川が氾濫し澱橋・大橋・広瀬橋が流失
* 1892年(M25)10月11日、大橋とともに鉄橋に架け替えられる
* 1951年(S26)11月、新たな橋に架け替え / 橋長137m、橋幅12m
* 1961年(S36)11月28日、新たな澱橋が完成、渡り初め式
(「重訂 宮城県郷土史年表」P602 / S26年架け替えの橋と混同か?)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412~413/「仙台市史 年表」P87、P88/「重訂 宮城県郷土史年表」P602
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「目で見る仙台の歴史」P130に、「澱橋」(撮影年代不詳)
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戦時中の疎開者受入れ |
仙台市/宮城県 |
1945年(S20) |
<京浜地区等から仙台市へ>
* 1945年(S20)3月~9月、受け入れた人員疎開は、935世帯、2791人
* 1945年(S20)3月~10月、受け入れた他都市からの戦災者は、3968所帯、8848人
<宮城県への疎開者>
「宮城県知事引継書(昭和20年6月10日)」によれば、宮城県へは首都圏などから空襲を避けて、あるいは空襲の被災者が、7万7490人疎開(東京からの学童集団疎開1万3669人、付き添いの教員1802人を含む、それ以外に縁故疎開者4万人、空襲で家を焼かれた人が2万人) / 大崎事務所管内が最多で1万241人(多くの集団疎開児童を鳴子温泉に収容)、仙台市は5856人、石巻市は2815人、塩釜市733人 / 東京都から、縁故のない妊婦28人と乳幼児68人の集団疎開受入れ要請あり古川健民修練所に入れる準備中 / 伊豆大島の住民全員引揚げのため、宮城県には1000人受け入れ要請あり、未耕作農地がある6村で準備中(ただし、住民輸送船の都合がつかず実現しなかった) (「戦争のころ 仙台、宮城」P200~201)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P200~201
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国民登録/勤労報国隊 |
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1940年(S15)~ |
<青年国民登録>
* 1940年(S15)9月、実施 / 満16歳以上徴兵適齢期以下の男子全部に職能申告を義務付け
<青壮年国民登録>
* その後に範囲拡大し、満16歳~40歳の一般男子、満16歳~25歳の一般女子(未婚)にも適用
<未婚女子の勤労報国隊>
* 1941年(S16)12月、仙台市では、“浮動労力”といわれた未婚女子の勤労報国隊が結成され、第1陣として隊員150人が12月15日、東京の陸軍被服本廠へ送り出され、1年間の長期作業に従事した
* 1943年(S18)、女子勤労報国隊員、仙台市内の女性70人が東京赤羽の陸軍被服本廠に入廠(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
<勤労報国隊>
* 1943年(S18)8月、政府、報国隊整備要綱と実施指導要領を通達 / 「男子は14歳以上50歳まで、女子(未婚)は14歳以上25歳までは、必ず、各職域、地域、団体ごとに編成する報国隊のいずれかに、また在学中の学生・生徒は各学校の報国隊に参加を義務付け / 報国隊を総合・一元的に指導訓練し動員その他を企画するため大政翼賛会県支部に県勤労報国隊本部、各市町村にも本部を置き、各本部長、役職員を置く / 全市民が翼賛体制のワク内にはめ込まれて、軍需産業その他の統制産業、農業、国防土木業、公務などへ動員され、1945年(S20)3月には本土決戦に備える国民義勇隊に移行していった。」
<青壮年国民登録を拡大>
* 1944年(S19)2月、さらに範囲拡大され、男子12歳~60歳、女子12歳~40歳までとなり、無職未婚の女子を残らず動員体制に組み入れた
(以上は、「仙台市史 続編第1巻」P44~45)
<国民義勇隊> → 参照:項目「国民義勇隊」
* 1945年(S20)3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された(「日録20世紀 1945年」P16)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P44~45/「仙台市史 特別編4 市民生活」P366/「日録20世紀 1945年」P16
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幹線道路 |
宮城県道22号仙台泉線 |
1985年(S60) |
宮城県道22号仙台泉線(元寺小路~七北田線)は、青葉区本町から、仙台市泉区将監に至る県道(主要地方道)で、青葉区と泉区を結ぶ幹線
* 1953年(S28)、広瀬通り角から北にイチョウ91本植栽(以降、計240本に)
* 1985年(S60)12月25日、拡幅完了し開通(「続・ 宮城県郷土史年表」P198)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P468?/「続・ 宮城県郷土史年表」P198
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学徒勤労動員 |
その他の文献、年表より(2) ~通年動員/授業停止~ |
1944年(S19)~1945年(S20) |
* 1944年(S19)1月、閣議決定「緊急学徒勤労要綱」で、勤労工場を特定し、循環的に動員して1年のうち3分の1の4か月を働かせる
* 1944年(S19)2月、「決戦非常措置要綱」
・ 中等学校以上の学徒はすべて1年間常時、勤労その他の非常任務に出動できる組織的体制に置き、理科系のものは専門に応じて軍需工場や病院などに動員
・ 学校校舎は必要に応じて軍事工場、軍用非常倉庫、非常病院、避難用住宅などに転用(旧制二高校舎正面2階が師団司令部に徴用、東北学院校舎の一部(高等部)が被服廠や海軍人事部に、東北学院中学部は出征部隊編成所のちには鉄道輸送部隊に接収、東北学院礼拝堂地下室(六軒丁)は特設非常電話局に(仙台空襲で仙台電話局焼失後)、尚絅女学校の地階と2階が陸軍糧秣廠に、宮城学院は日本電気の「学校工場」に転用された) (以上、「仙台市史 続編第1巻」P46)
* 1944年(S19)2月25日、文部省、食糧増産に学徒500万人動員を決定
* 1944年(S19)3月7日、閣議決定「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、学徒勤労動員通年実施、対象を国民学校高等科生、中等学校1~2年まで拡大
* 1944年(S19)4月17日、文部省に学徒動員本部設置
→ 4月から、中等学校以上の男女生徒を軍需工場、鉱山、農村などへ通年で強制動員開始
* 1944年(S19)5月16日、文部省、学校工場化実施要綱発表
* 1944年(S19)8月23日「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」公布施行、これにより「学徒動員実施要綱」を法的追認
* 1944年(S19)11月16日、中学1、2年生と国民学校高等科1、2年生に勤労動員を発動(菅家年表)
* 1945年(S20)3月18日、「決戦教育措置要綱」により、学徒勤労総動員体制 → 国民学校初等科以外の生徒・学生の授業を停止
<戦後>
* 1945年(S20)8月16日、学徒動員解除
* 1945年(S20)10月11日、学徒勤労動員令廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P46/「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269「学都の戦時体制」/「仙台市史 年表」P113/「Wikipedia「学徒勤労動員」などを参考にした/
「仙台市史10 年表」P308、P310/「重訂 宮城県郷土史年表」P486、P505/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32
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16-72、16-73、16-74、41-03、41-02/「仙台市史 特別編4 市民生活」P444(S20年、鍋蓋代替品をつくる児童たち)
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敗戦後の諸相・仙台 |
浮浪児/戦災孤児/ホームレス |
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【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757】より
・ 仙台駅周辺や地下道を根城にして、通行人に金銭やタバコをねだる
・ 人数は40~50人、取締りがあると5、6人に減る / 東京ノガミ(上野)で浮浪児狩りがあると100人、200人に増えることもあった
・ 警察調べ(S23年6月17日午前2時) 計104人、このうち16歳未満が49人、40歳以上も11人 / 各年齢層とも女性が2割だった
・ このほかに、かつぎ屋やいなか回り(集団こじき)で出先に泊まる者が100人以上
・ 夜12時すぎの最終列車のあと、駅の待合室は浮浪児などのねぐらになり、持ち物は茶碗2個とモクヤ(拾ったたばこ)を入れた風呂敷のみだった
・ 香具師、博徒、ヤミ屋の手先に使われ小遣銭を稼ぎ、ゆすり、万引き、スリ、野荒しなどの犯罪を犯し、施設に収容されても、毛布などを失敬して脱走するものが多かった
【「戦争のころ 仙台、宮城」P249】より
・ 仙台駅や駅に近いX橋(エックス橋)脇の東北線名掛丁地下道には戦災で家を失った大人や子供たちがたむろし、通行人に金銭やタバコをねだっていた
・ <仙台市内のホームレス>(昭和23年6月、仙台北警察署調べ)104人で、18歳未満が半数を占め、このうち2割は女性 / ほかにもかつぎ屋や田舎を集団を回るこじきなどが100人以上いた
・ <戦災孤児>(厚生省調べ) 空襲で両親を失ったり、満州から帰還する途中で両親が死亡したりした戦災孤児が、全国で12万2300人、宮城県は1559人
・ 宮城県内では、戦災孤児が231人(仙台空襲で両親死亡や宮城県に学童疎開中に東京大空襲で肉親を失った子など)、引揚げ孤児232人(満州などから引揚途中で両親が死亡)、一般孤児(この意味は不明)1074人、捨てられた孤児22人
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P249
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P748と「新・目で見る仙台の歴史」P170に、「たむろする浮浪児たち」の写真
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水道事業 |
創設~第2次拡張 |
1913年(T2)~1954年(S29) |
仙台市の水道事業
<創設 水源:大倉川表流水>
* 1913年(T2)4月着工~1923年(T12)3月完工、
・計画給水人口12万人、実際の給水人口約3万人
<第1次拡張事業 青下川貯水池3池>
* 1931年(S6)8月着工~1934年(S9)3月完工
・累積給水人口18万人
<仙台空襲で被災、戦後の水不足>
* 仙台空襲(昭和20年7月)で全給水戸数の44%が被災、戦後は海外からの引き揚げ者帰国と駐留軍(米軍)の需要で、一気に水不足
<第2次拡張事業 名取川伏流水を揚水>
* 1948年(S23)10月着工~1955年(S30)6月完工
・累積給水人口25万人
* 1953年(S28)、大年寺配水池使用開始
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P485~487
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「市民の戦後史(仙台市)」P90(大年寺山配水池)
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水道事業 |
第3次~第4次拡張 |
1958年(S33)~1976年(S51) |
<第3次拡張事業 大倉ダム放流後の表流水>
* 1958年(S33)4月大倉ダム着工~1965年(S40)3月完工
・累積給水人口40万人
* 1961年(S36)8月3日、大倉ダム通水式/水圧が上がり、パイプ破損が市内で続出で一時的に水不足
* 排水管、給水管などの老朽化で高い漏水率
* 1962年(S37)8月、追加給水可能となり水枯れ現象だけは解消
<国見浄水場>
* 1963年(S38)1月12日、国見浄水場完成、大倉ダム導水のフル操業可能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P493)
* 1965年(S40)5月、国見浄水場落成(「市民の戦後史(仙台市)」P113/「仙台市史 年表」P124/仙台市HP)
<第4次拡張事業 釜房ダム貯留水>
* 1966年(S41)4月着工~1976年(S51)3月完工予定
・累積給水人口62万人
・1970年(S45)、釜房ダム完工予定
・1970年(S45)7月1日、給水開始(20万トン)
<仙台市水道配水管系統図(第5次拡張事業まで)> → 「仙台市史 続編第1巻」P497
<給水人口と給水量の伸び グラフ> → 同上P499
<普及率>
・ 1967年(S42)年度末、給水区域内人口の82.6%
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P487~500/「市民の戦後史(仙台市)」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P662
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「市民の戦後史(仙台市)」P170(国見浄水場空撮)
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水道事業 |
深刻な水不足 |
1955年(S30)~1961年(S36) |
<水不足>
* 1955年(S30)、水不足深刻
* 1958年(S33)夏、夜間給水停止、7月から昼間も断水、
南小泉若柳に2本の動力揚水井戸
* 1959年(S34)3月、夏の渇水期にそなえ若林、富田地区に井戸掘削するも、全体的には焼け石に水
* 1959年(S34)5月、抜き打ち断水、給水車出動/7月に15カ所で断水、学校給食にバケツ利用、プール閉鎖/9月、給水1日8時間
<臨時応急拡張事業 さく井>
* 1956年(S31)8月着工~1960年(S35)3月完工
・市内安養寺下と小田原露無に深井戸、長町下河原に浅井戸
・累積給水人口30万人
<水不足>
* 1960年(S35)6月、市西部、南部などの高台地区に給水車 / 7月、水圧低下で2/3給水がやっと、病院も時間給水、消防車、自衛隊出動するも全市の1割以上が断水地帯
* 1961年(S36)春~夏にかけ水飢饉
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P488~493
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P145(S26年、日照りで込み合う西多賀地区の井戸)
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仙台市電 |
戦後(昭和20年代) |
1945年(S20)~ |
・ 戦時中運転した急行電車廃止、停留所を適正間隔に復活
・ 戦時中、軌道、車両、機械などを酷使した結果、輸送力低下し、使用可能車両は30両
・ S21年2月~、乗降口を一方口に
・ 悪性インフレの進行で料金値上 S21年4月(10銭)からS24年までに7回値上げ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510
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仙台市電 |
原の町線 開通 |
1948年(S23)5月 |
・ 花京院~原町間、3.3キロ
* 1946年(S21)冬、東六番丁の国鉄専用鉄橋完工し、花京院~榴ヶ岡公園前間、1.6キロ開通
* 1948年(S23)5月5日、榴岡公園~原町終点まで開通し、原の町線(原町線)全線開通(単線)
* 1952年(S27)、花京院の東北本線立体高架橋完成
* 1952年(S27)8月1日、全線複線化完成し、市内循環線への乗り入れ可能(10月の国体開催時の輸送に効果あり)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510、P512/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P115/「番丁詳伝」P115
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P211
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仙台市電 |
昭和30年代~全線廃止まで |
1956年(S31)~1976年(S51) |
* 1956年(S31)11月、「仙台市交通局三十年史」刊行
* 1957年(S32)、電力事情悪化で市電15%間引き運転
* 1958年度(S33)、市電事業赤字(3000万円余)、以後赤字続き
* 1959年(S34)、仙台市電停留所に照明灯がつく
* 1959年(S34)、仙台市電に女性車掌、14年ぶりに登場
* 1966年(S41)2月15日、ワンマンカー導入により職員400人削減等を労組に提示
* 1966年(S41)、一部の車両、ワンマンカーに
* 1970年度(S45年度)、一年間で1億円強の赤字(累積赤字10億円の大台にのる)
* 1972年(S47)2月4日、12億円の累積赤字のため廃止発表
* 1972年(S47)12月1日、市電の均一料金を40円に(10円値上げ)
* 1973年(S48)3月7日、島野市長、市電廃止を声明
* 1975年(S50)10月4日、仙台市議会、市電廃止議案可決
* 1976年(S51)3月31日、仙台市電お別れ式/最終運行(さよなら電車)/替わってグリーンバス運転
* 1976年(S51)4月8日、5両を長崎市へ輸送
<市電・市バスの乗客数推移グラフ S36~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P525の図26
<市電・市バスの赤字推移グラフ S31~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P533の図28
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P514、P517、P518、P525、P533/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P130/「重訂 宮城県郷土史年表」P591、P624、P674/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P15、P18、P45、P52、P53
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「市民の戦後史(仙台市)」P106(照明が入った停留所標識)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P518に、市電ワンマンカーの写真/「市民の戦後史(仙台市)」P200(市電のワンマンカー)/「新・目で見る仙台の歴史」P187(渋滞車線を走る市電、最後のサヨウナラ花電車、廃止記念乗車券)/同P211(市電ワンマンカー)/同210(S37年6月現在の市電運転系統図)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P212~213(市役所前でお別れ式、おなごり乗車、廃止記念乗車券、花束持つ運転手、車庫前の花電車群俯瞰、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P101(S51、さようなら運転、カラー)/同P102(S51、ワンマンカー、カラー)/同P103(S51、北二番丁車庫)
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仙台市電 |
北仙台線 開通~廃止 |
1937年(S12)10月~1969年(S44)3月 |
・ 北四番丁~北仙台駅間、1.2キロ
* 1937年(S12)10月26日開通~1969年(S44)3月31日廃止
(「仙台市史 年表」P109では、S12年10月25日に営業開始)
* 1968年(S43)9月、北仙台線廃止決まる
* 1968年(S43)9月11日、北仙台線撤去に反対する学生等が仙台市議会議場に乱入
* 1969年(S44)3月31日、北仙台線廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P518/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P109、P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P642、P647
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53-90/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P519に北仙台線軌道俯瞰写真/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P166の写真44は、北仙台線最終日の市電/「市民の戦後史(仙台市)」P218(北仙台線の軌道俯瞰、廃止反対して議場に押しかけたヘルメット姿の学生たち)
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仙台市営バス |
戦後(1) |
1945年(S20)~1964年(S39) |
<戦後>
・ 終戦直後は、23両のバス中、実働は11両のみ / 路線17系統、199キロ(終戦前より減少)
・ 1949年(S24)、24系統、247キロ、実働30両 / 仙台~作並間運転開始
・ 1949年(S24)4月22日、大型トレーラーバス(250人乗り)2台購入(輸送難解消のため)
・ 1950年(S25)、路線55、実働47両/市営バス案内所(駅前丸光デパート脇)開設/4月、貸し切りバス営業開始 / 仙北鉄道バス、秋保電鉄バスが市内に乗り入れ / 12月、広瀬通車庫と営業所開設(広瀬通東三番丁)
・ 1951年(S26)、65両 / 仙台駅構内乗り入れ廃止、発着場が青葉通、東五番丁周辺に移転
・ 1952年(S27)4月、市内定期遊覧バス運行開始 ※
・ 1953年(S28)、66路線、814キロ / ラッシュ時に重点的に増発、季節の催しものなどへ増発 / 定禅寺櫓町・細横丁角に車庫新設
・ 1955年度(S30)、乗車人員3000万人越え、対人口利用比率21.3%
・ 1956~1960年度(S31~35年度)、この間に路線拡大続き、110系統、9927キロ、49両増車 / 市中心部ビル建設、近郊丘陵地帯などに住宅団地造成で需要増大 / 霞の目車庫新設(仙台バイパス予定地脇)
・ 1961年(S36)、45両購入し在籍296両 / 東仙台車庫新設
・ 1962年(S37)、ラッシュ時混雑すさまじく、新車41両、中古35両購入、在籍350両
・ 1963年(S38)3月、七北田車庫落成 / 仙台駅前バス窓口案内所改築
・ 1964年(S39)、94両増車、在籍390両
<市電・市バスの乗客数推移グラフ S36~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P525の図26
<市電・市バスの赤字推移グラフ S31~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P533の図28
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P520~525、P533
/※ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182に、市内定期観光バスの遊覧コースなど記述/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203
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「市民の戦後史(仙台市)」P70(観光バス乗り場標識)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(仙台遊覧自動車案内パンフ)
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仙台市営バス |
戦後(2) |
1965年(S40)~1986年(S61) |
<ワンマンバス化>
* 1965年(S40)7月16日、市内路線のワンマンバス化を開始、12路線(台原線、川内線など)52両(全車両の13%)
* 1946年(S41)7月、新規に9路線40台/年度末には102両で、全体の25%
* 1970年(S45)3月11日、仙台市営バス、平均31%値上げ
* 1974年(S49)7月10日、仙台市営バス、均一区間50円に
* 1974年(S49)11月20日、バスは、中乗り前降りに統一
* 1975年(S50)9月1日、均一区間料金を50円から70円に値上げ
* 1975年(S50)10月6日、団地10路線増便、7路線にワンマンバス運行
* 1976年(S51)、乗車人員、年1億616万人
* 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ)
* 1978年(S53)9月8日、仙台市バス、市内均一料金を10円値上げし90円に
* 1979年(S54)11月23日、ひまわりバス実施
* 1981年(S56)3月、路線別プレート登場
* 1982年(S57)12月16日、人事院勧告凍結抗議ストで、346本運休
* 1982年(S57)12月24日、抗議スト1200本運休
* 1983年(S58)11月18日、仙台市交通局、全車スパイクタイヤ廃止で労使双方合意
* 1984年(S59)1月15日、市営バスと宮城交通バスの共通乗車券発売開始
* 1984年(S59)7月1日、市営バスは、行き先表示に番号制実施
* 1986年(S61)12月27日、東北運輸局、仙台市交通局(市営バス)と宮城交通バスの、泉市加茂・泉パークタウン・名取市閖上へ共同乗り入れを発表
* 1986年(S61)、乗車人員、年9206万人(10年前より13余%減)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P525/「仙台市史 年表」P124/「市電年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P620、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P34、P44、P45、P73、P85、P103、P125、P154、P168、P172、P178、P215/「仙台市史 特別編4 市民生活」P217
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201-08/「市民の戦後史(仙台市)」P167(ワンマン表示のバス)
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空襲(宮城県内) |
塩釜空襲 |
1944年(S19)12月29日 |
<塩釜空襲>
* 1944年(S19)12月29日、塩釜に、B29、1機が油脂焼夷弾約500個を投下、焼失570余戸、被災者3200余人(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P55~56)
* 1944年(S19)12月29日、B29、1機、塩釜市尾島町、南町、本町に小型油脂焼夷弾約500発(570発説も)を投下、441戸(483戸説も)2142人(2240人説も)が焼け出される / 警戒警報が解除になった直後で、早朝の空襲 / 隣組で用意していた防火用水は凍結していて役にたたず / 赤子1人がやけど、死者なし(「戦争のころ 仙台、宮城」P185~187)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P55~56 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P185~187
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仙台駅(戦前) |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で駅舎、仙台鉄道局、仙台鉄道管理局が焼失 / 本局は仙台鉄道教習所に移り、さらに東二番丁の東北学院中学校の建物借用し移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P561
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「目で見る仙台の歴史」P150に、仙台鉄道局庁舎(大正8年)
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国鉄(東北本線) 2 |
旅客・貨物輸送 |
1945年(S20)秋~1965年(S40) |
<戦後(昭和24年6月からは国鉄=公共企業体日本国有鉄道)>
* 1945年(S20)11月、上野~青森間急行1往復(101・102列車)が運転再開、しかし翌月、深刻な石炭不足になり再び一時運休
* 1947年(S22)6月28日、仙台鉄道管理局管内、急行復活し常磐線経由の急行1往復(207・208列車)運転開始、二等車復活
* 1947年(S22)7月1日、青森行き普通列車に「婦人子ども専用車」登場(「菅家年表」P41)
* 1947年(S22)11月1日、東北で木炭が滞貨となり、輸送のため「木炭列車」を運転 / 国鉄はこの秋、電力、石炭の不足で貨車の入れ替えにも支障が出る(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)7月1日、上野~青森間直通急行は東北本線経由の1往復(103・104列車)運転開始
* 1949年(S24)6月、日本国有鉄道法施行、公共企業体日本国有鉄道発足
* 1958年(S33)10月10日、東北初の特急列車「はつかり」、上野~青森間を常磐線経由で運転開始(「仙台市史 年表」P120) / 蒸気機関車、仙台~上野間5時間25分 / 上野~青森12時間
* 1960年(S35)12月10日、「はつかり」(常磐線経由)が気動車(ディーゼル)特急となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P598)/ 常磐線経由で
* 1961年(S36)3月、仙台まで交流電化完成(「仙台市史 特別編4 市民生活」P201)
* 1961年(S36)5月1日、東京~仙台間電化され、特急電車が走る(「菅家年表」P55)
* 1961年(S36)6月1日、「宮城野駅」(貨物専用駅)開業(同時に、仙台中央卸売市場への引き込み線完成) / 前年10月、長町~東仙台間に貨物線開通
* 1962年(S37)4月27日、特急「ひばり」、東北本線の上野~仙台間で運転開始(「仙台市史 年表」P122)
* 1962年(S37)6月30日、東北本線の山廻線(利府駅経由)を廃止
* 1963年(S38)4月、修学旅行専用の「おもいで号」誕生
* 1963年(S38)10月、市内大梶(仙台駅・東仙台駅中間)に電車基地(または仙台運転所)を設置 / S41年4月全面完成
* 1964年(S39)3月20日、上野~仙台間の全急行を電車化
* 1965年(S40)10月1日、特急「ひばり号」(仙台~上野)を2往復に増便、特急「やまびこ号」(盛岡~上野)運転開始
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P562、P564、P566~567、P571/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P589、P598、P605/Wikipedia「東北本線優等列車沿革」(2020年7月)/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P55/「仙台市史 年表」P122/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P566に、仙台上野間急行電車の写真
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国鉄(仙石線) |
国有化以降 |
1944年(S19)5月~ |
<これ以前は、項目「宮城電鉄」参照>
* 1944年(S19)5月1日、宮城電鉄が国有化され、仙石線となる
・ 戦時中、沿線にある原町苦竹の陸軍造兵廠や多賀城の海軍工廠への通勤者で大混雑(いずれも従業員が1万人あり24時間稼働)、電車はフル稼働して対応、国策により1944年(S19)に国鉄が買収した(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
<戦後>
* 1952年(S27)、仙石線東七番丁駅の廃止
* 1956年度(S31)、赤字2億3000万円
* 1964年(S39)5月8日、東京国電並みの混雑緩和のため、時差出勤呼びかけ
* 1966年(S41)1月20日、苦竹踏切、立体交差完成
* 1966年(S41)3月15日、陸前原町~西塩釜間、複線化工事起工式
* 1968年(S43)3月22日、陸前原町~多賀城間の複線が完成 / ラッシュ時の電車運転が6分間隔に
* 1975年(S50)2月15日、新型電車始発式
* 1980年(S55)11月24日、ドカ雪で、仙石線戦後初めて不通
* 1983年(S58)10月2日、仙石線に特別快速列車
* 1985年(S60)10月24日、仙台~苦竹間(3.9キロ)の地下化工事起工式
* 1986年(S61)3月20日、多賀城駅の新駅舎完成
* 2000年(H12)、仙石線地下新線開業・あおば通駅開設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P563、P567/「重訂 宮城県郷土史年表」P614、P623、P624、P638/「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P37、P120、P166、P196、P203/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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「新・目で見る仙台の歴史」P173(S21年10月頃、鈴なりの満員電車)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P99(S50年、カラー、走行する電車)/同P121(H12、走行する電車、カラー)
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国鉄(仙山線) |
戦前・戦後 |
1926年(T15)~昭和末年まで |
* 1926年(T15)4月、着工
* 1929年(S4)9月24日(または29日)、仙台~愛子間で営業開始(9月29日、北仙台駅開業)
* 1931年(S6)8月30日、愛子~作並間開通
* 1932年(S7)7月25日、東仙台駅開設
* 1934年(S9)10月17日、仙山西線、羽前千歳~作並間開通
* 1936年(S11)1月28日、面白山トンネル工事で建設列車が鉄橋から転落、60余人死傷す
* 1937年(S12)11月10日、作並~山寺間の工事完了し、全線開通(仙台~作並~山寺~山形)、全線で電気機関車運転開始
<戦後>
* 1957年(S32)7月1日、交流電化完成(日本初)
* 1957年(S32)9月5日、仙台~作並間、交流電化による運転開始
* 1958年(S33)2月24日、世界初の交直両用電車の試運転開始
* 1960年(S35)11月1日、仙山線全線交流電化が完成(日本初の全線交流電化)
* 1984年(S59)2月1日、国見駅・北山駅開業(当初は無人駅)
* 1986年(S61)7月7日、仙山線に自動式ドア採用
* 1987年(S62)3月21日、西仙台ハイランド駅開業
* 1988年(S63)11月18日、東照宮駅開業
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P564/「仙台市史 年表」P105、P109、P120、P121、P135/「仙台市史10 年表」P284/「重訂 宮城県郷土史年表」P416、P427、P450、P460、P585、P598/「仙台年表」P200、P203、P207/「続・ 宮城県郷土史年表」P172、P208、P220、P253/「新・目で見る仙台の歴史」P147(カラー、北仙台駅)
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「市民の戦後史(仙台市)」P99(S32年9月、祝交流電化と表示かかげた電気機関車、熊ヶ根鉄橋を行く電気機関車)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201(祝交流電化と表示かかげた電気機関車)
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国鉄(戦後) 2 |
東北本線以外 |
1966年(S41)~1975年(S50) |
* 1966年(S41)3月5日、運賃値上げ、旅客31%
* 1966年(S41)7月、北目町に国鉄ビル完成(地上6階地下1階)
* 1967年(S42)10月1日、常磐線、電化し営業運転を開始
* 1968年(S43)4月1日、国鉄丸森線、槻木~丸森間営業開始
* 1969年(S44)5月9日、運賃15%値上げ
* 1969年(S44)5月10日、1、2等車を廃止、グリーン車ができる(「菅家年表」P63)
* 1970年(S45)1月22日、指定乗車券がコンピューターによる発売となる(「菅家年表」P64)
* 1970年(S45)7月21日、東北支社廃止決定
* 1972年(S47)3月15日、仙台(宮城野駅)~東京間(小名木川駅)、フレートライナー(鉄道とトラック輸送を直結したコンテナ輸送)往復運転開始/ 同日、長距離普通列車228号(青森~上野間)引退
* 1972年(S47)4月1日、運賃改正にあわせて、仙台市内11駅を市内扱いに改正
* 1972年(S47)4月27日、国労・動労が空前のストライキ
* 1973年(S48)12月4日、公労協全日ストで国鉄ダイヤ大混乱
* 1973年(S48)8月、鉄道弘済会の売店をKIOSK(キオスク)と呼称(「菅家年表」P67)
* 1974年(S49)3月26日、国労・動労、正午まで準ゼネスト
* 1974年(S49)4月11日、春闘で空前の交通スト(600万人参加、国鉄初の全面運休)、4月13日収拾
* 1974年(S49)10月、仙台鉄道管理局管内からSLが完全に姿を消す
* 1974年(S49)11月27日、国鉄48時間スト
* 1975年(S50)5月9日、春闘で交通ゼネスト、国労・動労はスト中止
* 1975年(S50)11月26日、公労協・国労・動労などがスト権奪スト、12月4日スト中止(国鉄全線、史上最長の192時間運休)
* 1975年(S50)12月1日、東北公労協ストで、仙山線完全ストップ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567/岩波ブックレット「年表 昭和史」P55、P56/「重訂 宮城県郷土史年表」P624、P635、P639、P662/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P8、P9、P25、P28、P34、P41、P47/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P63、P64、P67、P68
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P569に、仙台の国鉄ビルの写真/「市民の戦後史(仙台市)」P199(S42年3月、国鉄原町操車場空撮)
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国鉄(東北本線) 3 |
旅客・貨物輸送 |
1966年(S41)~1985年(S60) |
* 1966年(S41)8月1日、清水小路多賀城線との立体交差完成(北目町立体交差)
* 1967年(S42)10月1日、東北本線、岩沼~福島駅間が複線電化して開通 / 同日に、東北本線特急の東京駅乗り入れも実現
* 1967年(S42)10月1日、特急「ひばり」「やまびこ」が、東京駅に乗り入れ
* 1967年(S42)10月、電車急行登場(「市民の戦後史(仙台市)」P203)
* 1968年(S43)8月19日、東北本線、東京~青森間全線電化と複線化を完了(「菅家年表」P62)
* 1968年(S43)10月、特急「はつかり」が全列車東北本線経由となる(Wikipedia「はつかり(列車)」)
* 1968年(S43)10月1日、特急「ひばり」仙台~東京間、3時間50分に(40分間短縮)
* 1972年(S47)3月15日、長距離普通列車228号(青森~上野間)引退
* 1980年(S55)11月24日、ドカ雪で、東北線27時間全面ストップ
* 1982年(S57)6月23日、東北新幹線開業(大宮~盛岡間)
* 1982年(S57)11月15日、特急「はつかり」、新幹線開業により運行区間を盛岡駅 - 青森駅間に短縮(Wikipedia「はつかり(列車)」)
* 1982年(S57)11月22日、特急「ひばり」(上野~仙台)お別れ運転
* 1984年(S59)1月4日、仙台~上野間にお座敷列車
* 1984年(S59)2月20日、東北線郡山行普通列車で禁煙実施
~以上、1989年(H1)まで~
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567~568/「仙台市史」P133/「重訂 宮城県郷土史年表」P627、P635/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P153、P172、P173/Wikipedia「東北本線優等列車沿革」(2020年7月)/[NHK仙台放送局60年のあゆみ」P56/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62/「市民の戦後史(仙台市)」P203
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「市民の戦後史(仙台市)」P181(清水小路多賀城線との立体交差)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567に、特急「ひばり号」の写真/「市民の戦後史(仙台市)」P203(電車急行試運転、最後の三重連蒸気機関車~岩手・中山峠)/「市民の戦後史(仙台市)」P220(走行する電車特急はつかり)
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仙台空襲 |
空襲被害の状況 |
1945年(S20)7月10日 |
(5) 『仙台市史 続編第1巻(行政建設編)』P56~62より
<仙台空襲>
・仙台空襲時には、全市5万1630余世帯の約35%が疎開中
・「昭和20年、仙台市内には、本土決戦に備え東北軍司令部など数々の司令部が設置され、形の上の迎撃態体制は一応つくられていたが、それに伴うべき武器弾薬に乏しく、軍司令部所在地たる仙台に一門の高射砲もなく、木造の模擬高射砲がむなしく空をにらんでいたのである。」
・「7月10日深夜から早暁の仙台空襲では、B29の小編隊(2~5機)が20数回波状的に来襲、投下された焼夷弾は、油脂50キロ、100キロ、小型エレクトロン1号、2号混用などで、市内各所に火災発生後は50mもの烈風となり火勢はたけり狂った。」
・「市電環状線内は見るかげもなく壊滅、地をはいからっみあった電線、トタン、カワラ、ガラスの破片、まちかどにうずくまる重軽傷者、わが子を探し求める母親、性別もわからぬほどに焼けただれた遺体、焼け落ちたビルの残骸からはなお煙と異臭を吐き出す。都心のビルが焼き払われたため、仙台駅前から県庁方面が一望できる始末であった。」
・「死傷者の多くは防空壕内でやられたのである。都心のある防空壕では、ここに避難した老若男女20人が、外の熱気のためむごたらしく死んでいた。東一番丁北端と定禅寺通交差点では、家財を背負って避難途中の市民が折り重なって死んでいた。」
・その他、全焼・半焼した地域(公会別)、焼失した古建築などの記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P56~62
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仙台空襲の焼失区域図は、98-147
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電話 |
戦後~公社化以前 |
1945年(S20)7月~1952年(S27)7月 |
<電信・電話>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、南町にあった仙台郵便局、仙台電話局が焼失 / 仙台郵便局内に、電信課があったが、仙台空襲で本局が焼失後、電信課、電話課は東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、「仙台非常措置局」として業務再開
* 1946年(S21)2月、郵便局から独立し、仙台電信局と名称変更、南町の仙台電話局3階に間借り
* 1947年(S22)2月、仙台電信局開設し、電信、電報、電話の各業務を一体化
* 1947年(S22)5月、仙台電信局、東二番丁・青葉通り北東角に新庁舎建築(木造2階建)へ移転
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 東北電気通信局設置(清水小路・五橋脇)
関連して、仙台電報局(東二番丁・青葉通角/仙台電信局を改称)、仙台電話局(東二番丁)、国際電話通話所開設(東二番丁) → 項目「仙台電報局」参照
<電話>
南町の仙台郵便局北隣にあった仙台電話局は、仙台空襲で焼失後、東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、電信課とともに「仙台非常措置局」として業務再開 / その後、南町へ戻る(同3階に電信課が同居) /
* 1947年(S22)6月10日、東京~仙台間電話開通
* 1948年(S23)2月24日、アメリカとの国際電話開通
* 1948年(S23)7月、仙台~札幌間の電話線完成
* 1949年(S24)4月、国際電話通話所開設(背景に、米占領軍の強い指導)
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 仙台電話局(南町から東二番丁に移転?)
* 1950年(S25)3月1日、仙台電話局、度数制通話に切替え
* 1951年(S26)9月、仙台市内の電話が自動式になる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P573~574、P579/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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「市民の戦後史(仙台市)」P202(改築前の電話局赤レンガ庁舎)/20-07(青葉通り・東二番丁角の仙台電報局)
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電話 |
日本電信電話公社時代 |
1952年(S27)8月~1985年(S60)4月 |
* 1952年(S27)8月1日、電気通信省廃止され、「日本電信電話公社」設立
* 1952年(S27)9月16日、仙台電話局、自動ダイヤル化
* 1953年(S28)9月、長町分室開局
* 1954年(S29)4月29日、仙台電話局、東北初の市内局番制採用( → 小項目「仙台の市内局番」参照)
* 1955年(S30)5月1日、117番(天気予報サービス)開始
* 1955年(S30)7月1日、東北初の依託自動公衆電話機(通称ダルマ型)第1号を藤崎デパート内に設置
* 1956年(S31)、電話マイクロウェーブが2月、東京~仙台間、10月に仙台~札幌間完成
* 1958年(S33)7月、仙台駅に公衆電話サービスステーション設置、「丹頂型電話」と「赤電話」をおく
* 1959年(S34)4月、仙台電話局、南町の構内に局舎新築(鉄筋5階建)し、営業開始
* 1961年(S36)、榴ヶ岡に東分局開局
* 1963年(S38)、長町分局開局
* 1963年(S38)6月、仙台中央電報局、東二番丁・南町通り南側に新築(東二番丁・青葉通り角の木造庁舎から移転)
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局
* 1964年(S39)10月、電話ダイヤルで東京へ即時通話化(「仙台あのころこのころ八十八年」P254)
* 1964年(S39)11月、仙台から、東京、秋田、青森へも自動即時通話となる
* 1965年(S40)、ダイヤル市外通話、全国の360局と連絡可能に
* 1965年(S40)11月、仙台電話局内の加入電話4万台を突破(開局後の10年間で4倍に)
* 1968年(S43)6月、電話加入数6万192、公衆電話1533台
******************************
* 1985年(S60)4月10日、日本電信電話公社が民営化し、日本電信電話株式会社に / NTTは民営化以前から使われていた略称
<これ以降は、→ 項目「NTT東北支社」へ>
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P574~579/「仙台市史 年表」P117/「続・ 宮城県郷土史年表」P189/「仙台あのころこのころ八十八年」P254
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー、画面左端に仙台電話局)
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電話 |
仙台の市内局番 |
1954年(S29)/1963年(S38) |
* 1954年(S29)4月29日、仙台市内の電話番号に「局番」がつく (「2」と「3」局誕生) / 東北初
* 1960年(S35)、局番「5」新設
* 1961年(S36)、局番「6」新設(榴ヶ岡に東分局開局)
* 1962年(S37)8月、仙台の市外局番が「0222」となる / 仙台~福島~郡山間、ダイヤル市外通話が可能に
* 1963年(S38)1月20日、仙台市内の電話局番が「2桁」になる(22・32・42・52・65局などに)
* 1963年(S38)、長町分局開局、局番「48」新設
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局、局番「34」新設
* 1963年(S38)11月~1968年(S43)1月、局番9つ新設(設置順に、57,29,21,58,33,86,88,24,27)
************************************
* 1986年(S61)7月1日、仙台地区の電話「市外局番022」となる / 同日、仙台・岩沼・大河原・古川地区の市外電話局番3桁実施
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P575~578/「仙台年表」P230/「重訂 宮城県郷土史年表」P607/「続・ 宮城県郷土史年表」P207
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郵便局 |
仙台中央郵便局 |
1965年(S40) |
<改称>
* 1965年(S40)11月26日、南町通りの仙台郵便局が仙台中央郵便局と改称
* 1968年(S43)7月1日、郵便番号制、実施
* 1969年(S44)11月25日、郵便番号自動読み取り機、稼働(東北初)
<北目町に移転>
* 1973年(S48)9月15日、南町通から北目町に新築移転
* 1975年(S50)8月24日、仙台中央郵便局で、日曜配達休止実施
* 1987年(S62)4月23日、中央郵便局に、自動引受機登場
* 1987年(S62)7月21日、東北初の郵便貯金ATMを、藤崎デパートに設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P582/「仙台市史 年表」P124、P128/「重訂 宮城県郷土史年表」P654/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P223、P227/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62
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ビル建設 |
東北電力ビル |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)8月4日、東北電力ビル(地下1階一部2階、地上9階建、塔屋3階)が東二番丁70に完成 / 東北電力本社 / グランドホテル仙台、電力ホール、貸室、市民図書館分室を併設 / 当時は東北一の大型ビル
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P596
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S35年)、P60(S38、カラー)
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東北電力 |
会社設立/東北電力ビル |
1951年(S26)/1960年(S35) |
* 1951年(S26)、会社設立(本社は、藤崎の近く、大町5丁目の旧カルトン食堂ビル)
* 1952年(S27)、仙台はまだ電力不足で、週2日の節電日があった(「仙台市史 続編第2巻」P706)
* 1960年(S35)8月4日、東北電力ビル(地下1階一部2階、地上9階、塔屋3階 / グランドホテル仙台、電力ホール、貸室を併設、市民図書館分室も併設)が東二番丁70に完成 / 当時は東北一の大型ビル / 本社を、大町5丁目藤崎わきから電力ビルに移転
* 「電力ホール」のオープンもS35年 / こけら落としは、尾上松緑の日本舞踊
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P596~597/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P706/東北電力HP/「仙台市史 年表」P121/「重訂 宮城県郷土史年表」P597/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206
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22-20/「目で見る仙台の歴史」P199(東北電力ビル建設工事)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P597の写真135(東北電力ビル)/「市民の戦後史(仙台市)」P125(東北電力ビル)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S35年、電力ビル)
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仙台空襲 |
仮埋葬/供養碑/追悼式 |
1945年(S20)/1951年(S26) |
* 「仙台北署が県下各署の応援を得て死体検視や収用に奔走、北山仮葬場と寿徳時(半子町)を収容所にあて、第1日(7月10日)はトラックで4台150体を収容、第2日は606体、第3日は169体、第4日は228体とおびただしい犠牲者を収容した。・・・・市内の各所に横たわる黒こげ死体のうち625体は身元不明のため大願寺・寿徳寺、松音寺の三寺院にして仮埋葬した。・・・毎年7月10日の戦災記念日には、北山霊園内の供養碑前に香華を手向ける遺族、市民が少なくない。」(「仙台市史 続編第1巻」P60、P62)
* 1945年(S20)、仙台市当局に於て死体を収容し、大願寺、寿徳寺、松音寺等に仮埋葬せるもの625人(「重訂 宮城県郷土史年表」P550)
* 1951年(S26)7月10日、仙台空襲七回忌にあたるこの日、北山霊園に戦災死没者供養碑建立(松音寺、大願寺、寿徳寺の戦災死没者181体を北山霊園に移して)
* 1965年(S40)7月10日、戦災(仙台空襲)20周年追悼式
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P60、P62/「重訂 宮城県郷土史年表」P550、P620/「仙台市史10 年表」P326
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「新・目で見る仙台の歴史」P166(戦災死没者慰霊碑)
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敗戦後の諸相・仙台 |
宮城県出身者の従軍数(召集数)、戦死者数、復員数 |
1931年(S6)~1945年(S20) |
<宮城県出身者の従軍数と復員数>
(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66)
陸軍17万人 外地 12万人 → 復員数 9万6000人
内地 5万人 → 復員数 5万人
海軍4万人 外地 2万人 → 復員数 1万3000人
内地 2万人 → 復員数 2万人
<宮城県からの召集数、県出身者の戦死数>
(「宮城県史」より 「戦争のころ 仙台、宮城」P239)
召集数
陸軍 約17万
海軍 約4万
戦死者数(死亡公報が発行された人数)
陸軍 約2万8000人(全体の16%)
海軍 約7000人(全体の18%)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239
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「新・目で見る仙台の歴史」P171(シベリア抑留軍人が仙台着)
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敗戦後の諸相・仙台 |
女子の登校、婦女子の夜間外出見合わせ |
1945年(S20)9月 |
9月16日からの進駐軍(米軍)の宮城県内進駐を警戒して
* 1945年(S20)9月13日、県教学課「連合国軍の本県進駐に伴う臨時措置として、仙台市と占領軍の駐留地周辺町村内の女子中等学校(高等女学校)と国民学校高等科の女子生徒児童の授業を、9月15日から当分の間中止するよう」通達(のち、9月25日と10月1日から授業再開)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327)
* 1945年(S20)10月1日、進駐軍との関係で再開の遅れていた仙台の高等女学校の授業が再開(焼失した学校は他の女学校や小学校の校舎に間借り)
・ 仙台女子商業学校「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495)
* 警察署は、婦女子の夜間外出を避けるよう呼びかけたので、繁華街の東一番丁もしばらくは夜の人出は絶えるほどであった(「番丁詳伝」P158)
* 仙台市役所では、女子職員を午後4時に退庁させた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 占領軍が進駐してくる県内市町村の高等女学校では当分授業を中止、役所の女子職員は午後4時に退庁、一般市民も夜間は外出を控えるよう注意が出された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242~243)
・ 「昭和20年9月半ばから1か月間の進駐軍関係の事故は257件、悪質なものとしては婦女暴行未遂4件、傷害6件(うち1人死亡)など・・・戦後しばらくの間、住民は進駐軍の姿におびえ、日没後、進駐軍の姿を恐れて外出を控える婦女子が多かったのも、当時としては無理もない。」「県警統計では、その後、1946年(S21)までに進駐軍犯罪が、届出あったものだけでも、1053件」(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68、「仙台市史 特別編4 市民生活」P327)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66~68/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P244、P495/「番丁詳伝」P158/「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P242~243
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 続編第1巻」P67】より
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)仙台到着
* 9月16日、仙台に本格進駐開始(第8軍指揮下の第14軍団第11空挺師団)/ロード准将ら将兵106人がジープで仙台到着
・ 特別列車と、海路塩釜から上陸して仙台、塩釜、石巻、松島、大河原、古川、多賀城など7市町村に計1万人が分駐
・ ドン准将以下幹部は、松島海岸のパークホテルに宿営
・ 第14軍団司令部は北一番丁の仙台簡易保険局庁舎に設置
・ 空挺隊員は、原町の陸軍造兵廠と多賀城海軍工廠に駐屯
【「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240】より
* 1945年(S20)9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 内務省からの連絡で案内役を仰せつかった宮城県職員矢野栄作さんは「福島県境の山下村(現・山元町)の望楼から半鐘が鳴った。米軍の到着である。案内車と英語で書いた乗用車から米軍のジープをのぞくと、2門の機関銃を手に完全武装したした米軍兵が緊張した面持ちでこちらを見ている」と『せんだいあこころ八十八年』(宝文堂)に書いています
【毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション】より
* 9月15日、仙台に司令部をおいた第14軍団、塩釜に上陸
* 9月16日、仙台には第11空挺師団が進駐開始
・ (陸軍)幼年学校、尚絅女学院、安田生命(国分町)、富国生命、日銀仙台支店を宿舎として接収
<編者注:疑問> 日銀は仙台空襲(S20年7月)で焼失したのに接収対象にできたのか? 「日銀支店社宅」が正しいと思われる(宮城県知事事務引継書(昭和20年)には、日銀社宅と記載あり=「戦争のころ 仙台、宮城」P241)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P67/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~241/毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション/「仙台市史 年表」P114
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P327(接収された仙台地方簡易保険局庁舎)
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敗戦後の諸相・仙台 |
英語標識設置 |
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・ 仙台駅、占領軍の要請で駅名をローマ字表示(写真16-16)
・ 西公園前・南町通はメープル街、南町・国分町はエルバリ街、光前寺通・駅前はインディアナポリス街などの標識設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68~69
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16-42、16-44、16-46、16-36、16-23、16-16、25-14、53-31、44-45、44-29-01、25-10、99-148
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清掃事業(行政) |
開始 |
1918年(T7)~1965年(S40) |
* 1918年(T7)、仙台市が清掃事業を開始、一部地域は市直営、その他は請負業者による収集と、2本立て
* 1924年(T13)6月、市営焼却場建設
* 1925年(T14)9月、原町に新焼却場建設
* 1929年(S4)、請負制廃止しすべて市直営に、馬車付き人夫35人を直雇いに
* 1931年(S6)、請負制に復帰、市と二本立て / 戦後も二本立てが続く
* 1956年(S31)10月、請負業者による収集を廃止し、全て市直営収集とする
* 1957年(S32)9月、鶴ケ谷焼却場、稼働開始 / 従来の市営焼却場廃止
* 1962年(S37)6月、定時容器収集(ポリ容器に入れたごみを各家庭が持ち出し決まった時間に市の清掃部員が収集)、土樋など5町内会で試験実施
* 1963年度(S38)、定時容器収集を全地域に広げ、収集を週2回に増やす
このころごみ収集量は1日200トン、約60トンは鶴ケ谷焼却場で焼却、残りは埋め立て
* 1964年(S39)3月、新埋め立て地、六郷地内の子牛沼6000㎡を買収し埋め立て
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P690~691、P701~704
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「目で見る仙台の歴史」P183(鶴ケ谷の塵芥焼却場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(ゴミ収集作業作業/鶴ケ谷焼却場)
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧危機で転入抑制 |
1946年(S21)3月~11月 |
<仙台への転入者急増>
・ 市の人口、1946年(S21)4月末で25万3655人に対し、5月中の転入者が5699人/疎開先からの復帰のほか、東京・横浜など食糧事情の極度に悪い大都市からの“再疎開”も多かった
<都会地転入抑制緊急措置令を適用>
* 1946年(S21)3月~、東北地方ではただ1か所、仙台市内への転入抑制措置開始/復員・引揚者や復興工事労務者など特別な場合を除いて転入不可 / 9月末の解除予定が、食糧事情、住宅事情から11月末まで延期
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P69~70
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清掃工場 |
清掃工場 |
1966年(S41)以降 |
* 1967年(S42)2月9日、今泉ゴミ焼却場起工式
* 1968年(S43)7月、今泉ゴミ焼却場完成(2基で、1日180トン処理) / 鶴ケ谷と合わせ1日250トンで、埋め立ては不燃物含め1日50トン以下に
* 1971年(S46)6月15日、松森清掃工場完成、焼却開始(宮城郡泉町松森に)
* 1986年(S61)1月18日、今泉清掃工場落成式
* 1986年(S61)4月10日、今泉清掃工場に、ごみ・PAL開館
* 1987年(S62)4月、今泉清掃工場の温水プール使用開始
2020年現在、仙台市には、今泉、葛岡、松森の3清掃工場がある
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P675/「続・ 宮城県郷土史年表」P201、P204、P223
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「市民の戦後史(仙台市)」P213(今泉清掃工場外観)/「新・目で見る仙台の歴史」P196
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仙台市立病院 |
旧・裁判所庁舎で診療開始 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)1月30日、開院式 / 医師5人、看護婦7人、事務員4人(「番丁詳伝」P129)
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造) / 当初は内科・外科・眼科、翌年に小児科・耳鼻科を追加、S7年に産婦人科も開設 / 外来患者数、S5に14万人、S10に18万8000人、見舞客も含めて東一番丁には大きな潜在購買客となる
・ 昭和3年の昭和天皇即位大典の記念事業
・ 旧裁判所庁舎(明治9年建築の木造)を利用
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706~707に、診療科など記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「番丁詳伝」P128~129
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「目で見る仙台の歴史」P163と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P427に、「仙台地方裁判所跡に開設された市立病院」
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仙台市立病院 |
改築竣工~戦災焼失 |
1939年(S14) |
東二番丁の旧裁判所庁舎跡に建設
* 1939年(S14)11月19日、改築工事竣工
(鉄筋コンクリート造 4階建て一部5階、地下1階
5,211平方メートル 病床数170床)
* 後に増床も行われた
* 1941年(S16)6月、看護婦養成所開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、本館地下1階と1~2階の一部を残して焼失、黒こげの残骸となった / 入院患者190人を避難させたが、犠牲者6人 / 窓ガラスはなく病床にはワラ灰だけが残るベッドが並ぶ、まさに廃墟だったが、1~2階の一部を使用し、翌日から診療開始するが、医療機械器具、薬品なく、焼け跡からトタン板を拾って風を防いだ(「仙台市史 続編第1巻」P707~708)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P707~708/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 10 年表」P297/「番丁詳伝」P129
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35-14/「目で見る仙台の歴史」P163と「新・目で見る仙台の歴史」P145に「S14年新築された市立病院」
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仙台市立病院 |
戦後復旧 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、看護婦養成所本館裏に、木造病舎とともに新築 / S23年から、養成再開
* 1947年(S22)10月、復旧し、屋上で市立病院戦災復興式 / 本館および南側地下1階、地上3階が復旧 / ベッド230床、外来患者1日400人以上 / 焼け野原の一角にクリーム色の病院が復興
* 1951年(S26)~1954年(S29)、増築・増床
・ S26年、南側病棟屋上に4階を増築
・ S28年6月、東二番丁に面した本館北側に鉄筋コンクリート5階建を増築
・ S29年7月、さらに北側に、地下1階、地上2階増築
(本館裏の木造病棟取り壊す)
・ S30年3月、前年度完成した上に3~5階部分が完成
* 東二番丁通り拡幅に伴い、玄関が道路拡幅部分にかかる
* 1956年(S31)10月3日、人間ドック開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P583)
* 1960年(S35)、人間ドックを、1週間から2日間に短縮
* 1960年(S35)、救急車購入
* 1963年(S38)6月、救急業務開始
* 1966年(S41)1月10日、救急センター落成(地下1階、地上4階建て、東北初の専門施設、一度に5人の手術可能)、
* 1980年(S55)7月、五橋に移転
* 1980年(S55)9月2日、建物解体始まる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P708~710、P712、P714、P716~717/「仙台年表」P217/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史10 年表」P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P583、P623/「続・ 宮城県郷土史年表」P116
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22-24(東二番丁通りの拡幅部分にはみ出した市民病院玄関)/ 「市民の戦後史(仙台市)」P182(救急病棟外観、手術室)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13(S29)の左上の白いビル/同P40(S33年、空撮、画面上のL字型ビル)/同P60(S38、カラー)/同P86(S41)
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敗戦後の諸相・仙台 |
米、大減収 |
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* 1945年(S20)は凶作で、20年産米の供出量は、21年3月で66%
* 1946年(S21)産米は、前年に比べやや持ち直す
* 1947年(S22)、大減収(7、8月の豪雨と9月のカスリーン台風)
* 1948年(S23)、大減収(アイオン台風)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70、P72
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敗戦後の諸相・仙台 |
欠食児童 |
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・ 荒町国民学校、全児童2000人中、食糧事情による欠席が1割近くあり、授業は午前中のほか体操は休ませる措置 / 十日間も野菜だけを食べ、米を一粒も口にしない児童が50人いた
・ 東六番丁国民学校では、昼食抜きの児童が3分の1に達し、子供らしくはしゃぎまわる姿もない
・ 仙台中学では、週5日授業で山菜とり、県立一高女など各校でも野草・山菜つみに近郊へ出かけた
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P405(敗戦直後に野外で食事する子供たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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敗戦後の諸相・仙台 |
家畜も激減 |
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<市立屠場(市内小田原泉町)では>
・扱った牛馬豚羊が、1944年(S19)5000頭超、S20は2000頭、S22は746頭と激減
<飼育頭数も激減>
・市内の飼育数(牛馬豚羊)、S20は3475頭、S21は272頭
・深刻な食糧事情で、食いつぶされてしまった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧買い出し |
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・ 欠配続きで、農村へ食糧買出しのため列車は連日超満員 / 仙鉄局が無蓋貨車を臨時運転し人を運ぶ
・ 子どもも買出しに動員されたため、県は国民学校、中学校に対し校長の自由裁量で午前授業だけで打ち切るよう通達
・ 郊外から物資を買い集めてきてさばくカツギ屋とよばれる人々もあらわれた。
・ 衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
・ 1953年(S28)10月、凶作によりヤミ米横行、菓子工場、旅館など一斉取締り(「仙台あのころこのころ八十八年」P252)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72/「仙台あのころこのころ八十八年」P252
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「仙台市史 続編第1巻」P72の写真(満員の買出し列車)/「新・目で見る仙台の歴史」P173(仙山線ホームのカツギ屋の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P104(仙台駅で押収されたヤミ米の山)/同105(列車で買出しに行く「カツギ屋」たち)
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敗戦後の諸相・仙台 |
アルコール添加で三倍増醸 |
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<米不足で、酒造高も減>
・ 県酒造組合仙台支部では、1945年度(S20年度)5696石(1石=180リットル)、21年度4438石、22年度2585石
・ 政府、清酒をアルコール添加で増量する“三倍増醸”を認めたが、それでも酒造高は終戦前(S19年度)の半分以下で、時たまあった配給は1合か2合だった
<横行する密造酒>
・ 市内に流れた濁り酒は、市内小田原周辺や塩原の第三国人地域や、仙北地方の農村からが多かった
・ 仙台駅前のヤミ市で取引された、別名”白馬(ドブロク)”は、1升に米1升のバーター制、屋台の“仙台カストリ”(しょうちゅう)は1杯60円で、飛ぶように売れた
<連日報道されたメチル禍>
・ 薬店やヤミ商人から買ったメチルアルコールを飲んで、悶死や失明 / アルコールはかつての軍需物資がはっきりした表示がないままヤミに流れたもの
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72~73
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がん検診センター(宮城県対がん協会) |
協会結成/検診センター完成 |
1958年(S33)/1968年(S43) |
* 1958年(S33)9月、宮城県対がん協会結成(北七番丁)
* 1960年(S35)、集団検診車登場、東北各地に出張診断
* 1963年(S38)8月、第1回がん対策推進全国大会、仙台で開催
* 1963年(S38)9月、第15回保健文化賞受賞(間接撮影装置の開発とその車両化、広範ながん対策推進の功績に対し)
* 1964年(S39)9月、婦人科がん検診車完成(農協婦人部中心に拠出)
* 1966年(S41)6月、検診車「第二きぼう号」稼働
* 1967年(S42)1月、河北文化賞受賞
* 1967年(S42)9月2日、宮城県対がん協会検診センター着工
* 1968年(S43)6月10日、宮城県がん検診センター完成(北六番丁、鉄筋コンクリート5階建て / 全国初)
* 1979年(S54)12月3日、乳がん検診車稼働
* 1981年(S56)5月11日、新らたながん検診センター(上杉6丁目)診療開始
* 1986年(S61)9月5日、対がん協会に、きぼう18号・しあわせ3号の検診車両配備
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P734~736/「重訂 宮城県郷土史年表」P634、P640/「続・ 宮城県郷土史年表」P104、P128、P210/「市民の戦後史(仙台市)」P146
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P735(がん検診車)/「市民の戦後史(仙台市)」P146(第1回がん対策推進全国大会)/「新・目で見る仙台の歴史」P195(胃の集団検診車「きぼう」、カラー)
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血液センター |
日赤宮城県血液センター |
1965年(S40) |
日本赤十字社宮城県支部が支部内に設置
* 1965年(S40)2月5日、宮城県血液センター開所、4月から献血車「いずみ号」稼働開始
* 1966年(S41)5月、民間血液閉鎖、売血制度廃止
* 1966年(S41)8月、県内6カ所に出張所開所
* 1967年(S42)、「第二いずみ号」配置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P736/「重訂 宮城県郷土史年表」P618
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「市民の戦後史(仙台市)」P166(献血の様子)
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仙台市ミートプラント |
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<前史>
* 1909年(M42)、仙台市営屠場開設(市内小田原牛小屋丁)、この施設で、仙台食肉組合が屠殺
・処理頭数(明治は年に1600頭、大正は3000~4000頭、昭和初期で5000頭(1日、牛1頭、豚10頭程度)、昭和20年牛馬あわせて、1700頭)
* 1940年(S15)、市直営、職員7人はそのまま市が引き継ぐ / 汚水は、付近の川(藤川)へ調節放流
<戦後>
駐留米兵の需要、牛豚飼育普及で処理数増
* 1949年(S24)~1950年(S25)ころから、爆発的に増加 / S28年1万超、S30年頃から1万2000~1万4000頭
<ミートプラント>
* 1959年(S34)6月1日、仙台市ミートプラント操業開始(市内中田)/エアカーテンで仕切られた屠場で、すべて流れ作業で屠殺・解体 / S34年度は2万頭で、県内の処理頭数の4割、S40年度に5万頭超
* 1967年(S42)12月、活性汚泥浄化槽建設
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P740に、年度別処理頭数一覧表
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P737~741
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「目で見る仙台の歴史」P144(牛小屋丁の市営屠場)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P739(市営ミートプラント屠場内部の写真)/「目で見る仙台の歴史」P183(中田のミートプラント外観)/「市民の戦後史(仙台市)」P106と「新・目で見る仙台の歴史」P19と「仙台市史 特別編4 市民生活」P90に、「S30年代、市営ミートプラント内部」
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敗戦後の諸相・仙台 |
生活抄から |
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生 活 抄 通子
・ 子供等が食にいやしくなり来つる
叱りつつあわれ国敗れたり
・ 配給日まで耐えこしあらな米をひき
糊にして食い三たび三度を
・ 今少し食あらばかく病ませじを
蒼白き鼻尖りて見ゆる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P73~74
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火葬場 |
仙台市営火葬場 |
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* 1885年(M18)、市制施行前の仙台区が、北山の公営火葬場設置、間もなく民営移管
* 1924年(T13)、市直営で、新坂通りに設置
* 戦後の燃料不足(石炭、薪)で、月20トンの配給はしばしば欠配 / 手持ち石炭が2~3日分という状況が続く / 新寺小路の私営火葬場では燃料持参でないと火葬を受け付けない事態
* 1947年(S22)2月、電気炉5基設置
* 1962年(S37)7月、重油兼石炭炉3基、重油バーナー4基新設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P741~743
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P742と、「目で見る仙台の歴史」P182に、新坂通の市営火葬場の写真
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