項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台復興祭グランドフェア |
実施 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)4月20日~5月31日、仙台市制施行60周年記念事業として実施 / 会場は西公園 / 歓迎のため、仙台駅西口広場に「こけし塔」を設置、のち広告塔として利用された / フェアにあわせ、仙台駅付近に河北ショーハウス建設
・「仙台市史 続編第2巻」P199に「昭和24年、戦後の混乱期も一応おさまり、食糧危機も次第に緩和され、人心も落ち着いてきたので、仙台市は、仙台復興祭グランドフェアを西公園で開いた。」
|
「仙台市史10 年表」P321/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台市史 年表」P116/「仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P199
|
こけし塔は、20-08、16-18、16-19、16-20/「目で見る仙台の歴史」P174に、グランドフェアで市役所夜間照明/「市民の戦後史(仙台市)」P46(会場前のこけし塔)
|
博覧会・フェア |
東北こども博覧会 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)4月20日から、榴ヶ岡公園などで開催(河北新報社主催)(「重訂 宮城県郷土史年表」では、3月開催)
|
「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P541
|
16-49、16-51/「市民の戦後史(仙台市)」P65
|
河北遊園地 |
開園 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)7月2日、開園(仙台市史10年表」P323)
(「重訂 宮城県郷土史年表」P542では、「昭和25年4月、河北新報社計画のもとに子どものため天神社境内西隣に榴ケ岡遊園地を特設し、河北遊園地と称す」)
* 1950年(S25)4月、河北新報社では、榴ケ岡公園などに「東北子供博覧会」を開いた。博覧会終了後、同社は榴ケ岡の天神社境内に博覧会の施設を活用して「河北遊園地」を開園した。」(「仙台市史 続編第2巻」P199)
|
「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P541、P542/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P199
|
16-50
|
イールズ事件 |
|
1950年(S25) |
GHQのイールズ博士による「大学制度についての講演会」開催に反対抗議しデモなど行う(「目で見る仙台の歴史」P186)
* 1950年(S25)5月2日、東北大学生、イールズ博士演説反対闘争開始 / GHQ宮城県軍支部が仙台市警察に対し、職務執行妨害の疑いで、学生4人の逮捕を命じる / 6月5日、学生14名処分(3名は退学、停学、譴責あり)/ 7月6日、学生2名追加処分
・ 連合国総司令部CIE教育顧問のイールズ博士は全国各地で「赤色教授は学問の自由に反する。学問と学園の自由のために大学は共産主義思想を持つ教授を追放する権利をもつ」と講演してまわった。東北大学での講演には600名参集、学生と押し問答あり、公演中も妨害あり中断、流会となった。」(「番丁詳伝」P171)
<参照> 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98に、イールズ事件の詳述あり
|
「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P542~543/「番丁詳伝」P171/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98
|
・「目で見る仙台の歴史」P186(学内の掲示を見る学生たち)
/・「東北大学本部前で学生たち座り込み」は、「市民の戦後史(仙台市)」P62と「仙台市史 特別編4 市民生活」P535と「新・目で見る仙台の歴史」P179に
|
進駐軍(米軍) |
予備軍団(第16軍団) |
|
* 1951年(S26)4月13日、GHQ、仙台に予備軍団設置を発表(総司令官アーレン少将)
* 1951年(S26)5月12日、仙台所在の総司令部予備軍団を、第16軍団と改称
|
「仙台市史10 年表」P325/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
|
「市民の戦後史(仙台市)」P74(16軍団長と岡崎市長)
|
県営宮城野原陸上競技場 |
宮城県営/仙台市営 |
1951年(S26)/2009年(H21) |
<「宮城百科事典P1007」より>
・ 戦前の宮城野原練兵場跡地の宮城野原公園総合運動場にある陸上競技場
・ 特に陸上競技場の走路はアンツーカー舗装で、当時東洋一といわれた程、整備された施設であった
・ オープン早々、S27年の第7回国体秋季大会の会場の1つとなった
* 1951年(S26)8月10日、宮城県営宮城野原陸上競技場開場
* 1951年(S26)8月16日、日米陸上仙台大会開催
* 1952年(S27)10月19日~23日、第7回国民体育大会、宮城・福島・山形県で開催、宮城野原総合運動場が、宮城県の主会場となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P559では、10月20日から5日間)
・ 開会入場式終了後、市内の女子高校生600人がマスゲーム「荒城の月」を披露 / その前夜、土井晩翠が晩翠草堂で永眠を場内アナウンスで伝える(「仙台市史 続編第2巻」P271)
* 1956年(S31)10月6日、第40回全日本陸上競技大会開催
* 1988年(S63)7月16日、陸上競技場改築落成
<仙台市陸上競技場となる>
* 2009年(H21)4月1日、仙台市に譲渡され、「仙台市陸上競技場」となる
* 2017年(H29)4月、弘進ゴムが命名権を取得し、愛称が「弘進ゴム アスリートパーク仙台」となる
|
「仙台市史10 年表」P326/「仙台市史 年表」P117、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P547、P551、P559、P583/「続・ 宮城県郷土史年表」P249/「宮城百科事典P1007」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271/Wikipedia「仙台市陸上競技場」2020年6月7日版
|
14-06、14-04/「目で見る仙台の歴史」P189(グラウンドで女子生徒たちのマスゲーム)
|
進駐軍(米軍) |
24師団 |
|
* 1952年(S27)2月17日、GHQ、朝鮮戦線帰還の米軍24師団、仙台地区に駐留と発表
|
「仙台市史10 年表」P327
|
|
水害 |
豪雨 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月6日、豪雨で河川氾濫、床下浸水140戸
* 1952年(S27)9月28日夜から29日にかけ、宮城県一帯に50~70ミリ程度の豪雨、各地で洪水
|
「仙台市史10 年表」P328
|
|
スポーツ大会(戦後復興期) |
宮城県高校総合体育大会(第1回) |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)5月23日、第1回県下高等学校総合体育大会始まる
|
「仙台市史10 年表」P328
|
|
土井晩翠 |
歌碑、詩碑 |
1952年(S27) |
<樗牛瞑想の松の歌碑>
・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)
<荒城の月詩碑>
* 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328)
* 1952年(S27)8月11日、荒城の月四節全文、青葉城址に建立、除幕式(「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台市史 続編第2巻]P270)
・ 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が荒城の月詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189)
<詩碑「天地有情」>
* 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置
|
「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P270/「市民の戦後史(仙台市)」P70/「仙台市史 続編第2巻」P189
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(荒城の月詩碑)/「目で見る仙台の歴史」P137に「晩翠肖像写真」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(晩翠草堂と詩碑)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑、市葬)
|
霞目飛行場(仙台飛行場) |
落成~終戦 |
1933年(S8)~ |
<戦前は、軍用→逓信省→軍用>
* 1932年(S7)12月、時局匡救事業として仙台に飛行場工事を起す
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し、7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)3月27日、仙台飛行場落成式(「仙台市史10 年表」P280、「仙台市史 年表」P107)
* 1937年(S12)4月1日、東京・札幌間(仙台、青森経由)で定期航空路開設(「仙台市史 年表」P109、「仙台年表」P207=出典:毎日新聞、「仙台あのころこのころ八十八年」P247) / 日本航空輸送のフォッカー・スーパーユノバーサル機(旅客6人乗り)が発着した。 冬季は休便を強いられ効率が悪い上、中国との開戦が影響して、1938年(S13)に休止(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1938年(S13)9月10日、航空局仙台乗員養成所、落成開所式(「仙台市史10 年表」P294、重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 太平洋戦争開戦とともに陸軍が仙台飛行場の拡張と整備を重ね、航空機乗員養成所、軍用機操縦訓練施設として使用。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
*******************************
「宮城県百科辞典」P188の「霞ノ目飛行場」
* 1933年(S8)、軍の飛行場として完成
* 1938年(S13)、逓信省臨時航空機乗員養成所
* 1944年(S19)、陸軍航空部隊が使用
「仙台年表」P203(出典:河北新報26.10.1)
<編者注:以下の内容は多分間違いか?>
* 1932年(S7)、逓信省航空乗員養成所として、七郷村霞目飛行場開設
*********************************************
<松島の海軍飛行場>(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
このほか、戦前の軍用飛行場に「松島海軍航空隊」の飛行場があった。
* 1942年(S17)5月、3本の滑走路完成(S16年12月に矢本の国有林300haと65名の田畑買収) 戦闘、補給、管理の3部隊約1000人を配置。一式陸上攻撃機20~30機、爆撃機銀河約50機、夜間戦闘機月光5~6機の一大航空基地
* 敗戦後は米軍(第11空挺師団188連隊)が進駐、隣接地も接収し拡張
* 講和条約締結後返還され、航空自衛隊の基地(ブルーインパルスも所属)
|
「仙台市史10 年表」P280、P294/「仙台年表」P203、P207/「仙台市史 年表」P107、P109/「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「宮城県百科事典」P188/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155、P156
|
戦前は、「目で見る仙台の歴史」P161/02-01、02-02
|
仙台市紋章 |
制定 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)9月5日、制定
|
「仙台市史10 年表」P281
|
|
銀行(地域の銀行) |
東北貯蓄銀行 |
1934年(S9)~1945年(S20) |
* 1934年(S9)1月20日、東北貯蓄銀行は、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行が合併し、(旧)大町五丁目に設立された(東北実業貯蓄銀行はT4年に本店を志田郡古川町から仙台市に移転)
* 1945年(S20)4月10日、東北貯蓄銀行、七十七銀行へ営業譲渡契約書に調印、一県一行体制が完成
|
「仙台市史10 年表」P282、P309/「仙台市史 年表」P107、P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P439、P504
|
東北貯蓄銀行の仙台七夕飾り物「貯蓄校」は20-53、同「東北振興丸」は、83-04
|
天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(1) |
1918年(T7)~昭和戦前期 |
<皇太子時代の行啓>
* 1918年(T7)7月7日、来仙
* 1925年(T14)10月18日~25日、摂政皇太子(のちの昭和天皇)、宮城県での陸軍特別大演習統監のため宮城県に行啓 / 大演習の間、大本営を仙台偕行社に置く
<御大典>
* 1928年(S3)11月10日に、京都御所で即位礼
* 御大典、仙台の奉祝行事(「番丁詳伝」P126)
・ 大典奉祝祭(仙台市公会堂)
・ 中心繫華街の装飾と仮装行列、東一番丁は全町軒並みに紅白幕をめぐらし、電飾もあった
・ 奉祝大売り出し実施
・ 仮装行列(10日)は午後1時から3時間半で、行列は長さ3丁に及び、コースは公会堂(西公園)~大町一丁目~芭蕉の辻~国分町~表小路~県庁前~勾当台通~定禅寺通~東一番丁~大町五丁目~新伝馬町~名掛丁~仙台駅前~南町通~東二番丁~商工会議所で、各町内仮装出し物の記述あり
・ 奉祝菊の花展覧会(会場は、南町の鈴喜陶器店の中庭)
<昭和の行幸>
* 1928年(S3)10月、仙台偕行社に御駐泊(4日と10日)、(岩手県内における陸軍特別大演習御統監のため)(この演習に第二師団も参加)
**********************************
<皇太子(のちの平成天皇)生誕祝賀>
* 1933年(S8)12月29日、皇太子誕生仙台市民奉祝大会
|
「仙台市史10 年表」P282/「仙台市史 年表」P98、P103/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P413、P414/「番丁詳伝」P126、P127
|
98-061 (大正14年、摂政宮殿下、偕行社で市民の歓迎をうける)
|
博覧会・フェア |
藩祖三百年祭記念産業観光博覧会 |
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月12日、藩祖三百年祭記念産業観光博覧会
|
「仙台市史10 年表」P285
|
|
東北帝国大学 |
学園に見る時代相(2) |
1936年(S11)~1945年(S20) |
<日中戦争 1937年(S12)7月7日~>
* 1938年(S13)2月1日、宮城県特高課、第二次人民戦線事件で佐々木更三、宇野弘蔵(当時は、東北帝大文学部助教授)ら14名検挙(「仙台市史10 年表」P292、「仙台市史 特別編4 市民生活」P265)
* 1939年(S14)7月10日、興亜青年勤労報国隊北支蒙彊派遣東北帝大第一班11名、仙工10名、茨城県内原訓練所に出発/9月21日帰還
* 1940年(S15)8月30日、文部省より、学生生活刷新要綱等を各地方長官、大学専門学校長等に通牒
* 1940年(S15)9月1日、満州国産業視察団興亜学生勤労報国隊帰県(東北帝大教授市原通敏統率)
* 1940年(S15)11月19日、東北帝国大学報国団結成(「重訂 宮城県郷土史年表」P479)
<太平洋戦争 1941年(S16)12月8日~>
* 1941年(S16)8月8日、文部省、学校報国団再編成を訓令(全国中等・高等・専門学校及び公私立大学の学生生徒をもって学校報国団を組織することを決定発表す)
* 1941年(S16)10月7日、東北帝国大学報国団結成式
<戦時中、大学の修業年限短縮>
* 1941(S16)年度 大学・専門学校・高等師範学校・実業専門学校など、3か月短縮し、2年9か月間に(S17年3月卒業生はS16年12月卒業)
* 1942(S17)年度~1944(S19)年度卒業生、6か月短縮
* 1945年(S20)年度卒業からは、3年間(短縮なし)
(旧制高等学校は、S17~19年度卒業予定者は、6か月短縮し、2年6か月間 / 20年度予定者は1年短縮し2年間)
<戦後>
* 1945年(S20)11月28日、法文学部学生大会
* 1945年(S20)12月1日、服部英太郎、宇野弘蔵両教授復帰
|
「仙台市史10 年表」P292、P296、P301、P302、P310、/「重訂 宮城県郷土史年表」P476、P479、P484、P485
大学・旧制高校の修業年限短縮の出典は、(1)「京都大学大学文書館研究紀要第15号」(2017年)P30、(2)文部科学省HP「高等教育の戦時体制化」https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317703.htm
|
|
陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍幼年学校、三神峯に復活 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」復活、開校式
榴ケ岡にあった「仙台陸軍幼年学校」は1924年(T13)に廃止されるが、S13に復活(校舎は三神峯に設置)
|
「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 年表」P99、P109
|
|
火災(地域) |
長町八本松 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)5月23日、長町八本松で30戸全焼
|
「仙台市史10 年表」P298
|
|
水害 |
暴風雨 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)7月22日、広瀬川氾濫
|
「仙台市史10 年表」P301
|
|
防空演習(防空訓練) |
|
1941年(S16) |
* 1941年(S16)5月1日、仙台市家庭防空業務規程公布(町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
* 1941年(S16)
8月15日、特別防空訓練実施(17日間)
10月12日、総合防空訓練、仙台市で実施
(* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦)
|
「仙台市史10 年表」P301、P302/「仙台市史 年表」P111
|
|
大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(2) |
1941年(S16) |
<商人・自営業者などの転・廃業> 「産業、経済の戦時再編成に伴い、配給以外の品物しか取り扱うことができなくなった商人をはじめ軍需関係以外の自営業者(中小企業)、職人、官公吏、会社員などは余剰労力とみなされ、これを国策産業へ動員するため“職域奉公の臣道を実践する国策戦士”とおだてられて転・廃業をしいられ、やがて軍需工場、あるいは鉱山へ、はては遠く満州へ農業開拓戦士(→ 参考:項目「満蒙開拓」)として送り込まれていった。」(「仙台市史 続編第1巻」P42~43)
* 1941年(S16)1月24日、大政翼賛会仙台市支部結成
* 1941年(S16)4月20日、逓信報国団仙台支部結成
* 1941年(S16)4月22日、大日本産業報国会仙台地方鉱山部会設立
* 1941年(S16)5月11日、仙台鉄道局奉公会結成
* 1941年(S16)5月26日、宮城県産業報国会創立
* 1941年(S16)7月19日、仙台市内単位商業報国会結成、市商業報国連合会(会長は市長)結成
<商業報国会> 「なかでも、戦前は城下町で繁栄した商家の多くの人々は、座して自滅を待つより新体制の公益機関に奉公すべきであると勧められ、従来の商業組合を中心に仙台市内で60余の商業報国会を結成した。市連合会も結成され、新商業道の確立をめざして“商業報国の赤誠”を発揮することを宣言、店員の錬成道場などを開催するかたわら勤労奉仕にも繰り出したが、戦争が激化するにつれ、これら余剰労力はどしどし軍需工場はおろか常磐炭鉱などへツルハシ戦士として送り込まれた」(「仙台市史 続編第1巻」P43)
* 1941年(S16)12月27日、宮城・福島昭徳会、思想国防報国団結成
|
「仙台市史10 年表」P301、P303/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42~43
|
|
防空演習(防空訓練) |
|
1942年(S17) |
* 1942年(S17)
4月18日、本土初空襲
(米空軍B25、16機により東京、横浜、川崎、名古屋、四日市、神戸)(「重訂 宮城県郷土史年表」P488、岩波ブックレット「年表昭和史」P19)
6月、防空指導員に対する防空講習会3回
8月1日、特別防空訓練 6日間
9月28日、総合防空訓練 3日間
12月9日、大東亜戦一周年記念防空強化運動実施
・ S17年9月、仙台市東二番丁国民学校で行われた総合訓練には、本物の焼夷弾が持ち込まれ、東二番丁警防分団、育英中学の生徒が消火訓練。
しかし、繁華街で訓練しているそばのビアホールに長い列ができて訓練どこ吹く風だった。太平洋戦争翌年で日本軍が勝ち進んでいたころで、まだ空襲の現実味がなかった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P151)
|
「仙台市史10 年表」P304~P305/「「重訂 宮城県郷土史年表」P488/岩波ブックレット「年表昭和史」P19/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
|
16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
|
総進軍大会 |
開催 |
1943年(S18)/1944年(S19) |
* 1943年(S18)7月8日、仙台市主催、米英撃滅総進軍大会
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
* 1944年(S19)7月30日、滅敵強行宮城県総進軍大会
|
「仙台市史10 年表」P306、P307、P308
|
|
養賢堂 |
県民錬成道場として使用/ |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)11月10日、県民錬成道場養賢堂開堂式(学頭 阿刀田令造)
|
「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499
|
|
政宗卿騎馬像 |
戦時供出 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、政宗卿騎馬像、戦時中の金属回収で供出(出陣式挙行)
* 1944年(S19)1月22日、政宗銅像、戦時金属回収のため供出、藩祖出陣と称し壮行式行わる(「仙台城P234)
「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500に、「昭和19年1月22日、青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及護国神社共同主催のもとに県下青少年団代表参集して盛大なる銅像出陣式を挙行す。この折詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」
<戦後に発見>
* 1946年(S21)9月9日、仙台郷土研究会員石川謙吾、塩釜市金属集積所より政宗銅像上半身を自費にて払い下げ、青葉神社に奉納す(「仙台城」P235)
戦後、1946年(S21)10月8日、郷土史家石川謙吾が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で、騎馬像の上半身だけが捨てられていたのを偶然の機会に発見、一部を改修し青葉神社に奉納
* 1961年(S36)、仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公像の頭部のみが敷地内に展示されている
|
「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499、500/「仙台市史 年表」P113/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234
戦後発見は、「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史続編第2巻経済文化編」 末尾付表(年表)P823/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P184
|
|
仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園閉園 |
1945年(S20) |
・ 猛獣の処分(S19年3月)で空き家になった建物には、市議会の建議通りブタ15頭が飼われ、花壇や通路では野菜を栽培、動物舎付近はカボチャ畑になった。閉園までは猛獣ぬきで営業(「戦争のころ 仙台、宮城」P143)
* 1945年(S20)4月1日、休園(そのまま再開せず)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
|
「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P504/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P143
|
|
第二高等学校(旧制) |
戦後、三神峯校舎時代/東北大に包括 |
1945年(S20)~1949年(S24) |
<戦後 三神峯校舎時代>
* 1945年(S20)、仙台空襲(7月10日)で北六番丁校舎焼失後、旧仙台陸軍幼年学校の校舎だった三神峯校舎に移転
* 1946年(S21)2月23日、昭和18年から修業年限が1年短縮されていた中等学校を5年間に、高等学校と大学予科を3年間に復活(菅家年表P36)
* 1946年(S21)12月28日、第二高等学校寄宿舎(西多賀)焼失(「市史10 年表」P314)
<東北大学に包括>
* 1949年(S24)5月:新制東北大学設立にともない包括される(旧制二高三神峯校舎は分校第一教養部として引き継がれる)(東北大学HP掲載「沿革図」)
<記念碑など>
* 1976年(S51)10月23日、堤通雨宮町に、旧制二高創立90周年記念「雄大剛健之碑」除幕(続・郷土史年表P59)
* 1982年(S57)月日、上杉6丁目の旧制二高明善寮閉鎖(明治39年清水小路に、大正15年現在地へ移転)(「続・郷土史年表」P144)
* 1986年(S61)4月23日、仙台市三神峯に「二高尚志の碑」、除幕(「続・郷土史年表」P204)
* 1986年(S61)10月25日、仙台旧制二高創立百年で片平丁の東北大学キャンパスに「青年の像」除幕(続・郷土史年表P212)
<番外編>
* 1967年(S42)8月、仙台寮歌祭
|
「仙台市史10 年表」P314/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P144、P204、P212/「菅家年表」P36/東北大学HP掲載「沿革図」/「仙台あのころこのころ八十八年」P255
|
「市民の戦後史(仙台市)」P198(S42年8月の仙台寮歌祭)
|
天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(2) |
戦後 |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察 / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町にさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
* 1952年(S27)10月、国民体育大会(宮城、福島、山形が会場)で各会場を回られる
* 1965年(S30)4月5日、植樹祭で来県(翌日、大衡村で植樹祭)
* 1963年(S38)5月18日、両陛下、青森県下の植樹祭行幸啓の際、仙台市に立ち寄られる
****** 以上、昭和40年まで ******
|
「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P559、P577、P608 /「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180
|
<昭和22年行幸>
「目で見る仙台の歴史」P186(S22年、訪問先の光ヶ丘天使園、東北大金属材料研究所での陛下)/S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174)
<昭和30年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P89(S30年4月、県庁バルコニーから歓迎で集まった人々に手を振る天皇ご夫妻)
<昭和38年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P149(S38年、青葉城址から復興の仙台をご覧になる昭和天皇ご夫妻)
|
仙台七夕 |
天皇を七夕飾りで歓迎 |
1947年(S22) |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察) / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「5日の夕、常磐炭鉱・平市を経て仙台入りをなされた陛下御一行が予定外のを五彩の吹流しがトンネルをつくる飾りつけの中を一本杉の伊達邸に入られた。市中のコースについては各商店ともぜひわが町をご通過いただきたいとその要望合戦は激烈であったが、予定外の新伝馬町も加えられている。河北新報は「紙吹雪のなかを歓呼にゆれて進む御料車」の見出しで伝えた。この年七夕飾りを行った家は約五千軒、中心部の商店の中には1本に2万円もかけた店もあった。」(「番丁詳伝」P157)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町のさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
|
「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520/「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180/「番丁詳伝」P156~157
|
S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「番丁詳伝」P157)
|
東北大学 |
学園にみる時代相 |
昭和20年代~40年代 |
* 1950年(S25)5月、イールズ声明反対闘争 / 「共産主義思想をもった教授を大学から追放せよ」というGHQ教育局イールズ顧問の大学での講演会に反対し、学生が抗議、中止させた → 参照:項目「イールズ事件」
* 1952年(S27)5月30日、東北大学反ファシズム委員会主催、5・30記念デモ行進
* 1952年(S27)6月14日、破防法反対東北大学経済学部大会、スト決議/17日スト分裂し、一部学生が街頭デモ
* 1952年(S27)7月21日、破壊活動防止法公布施行、東北公安調査局設置
* 1952年(S27)9月29日、東北大学生約100名、無届デモ
* 1960年(S35)、日米安全保障条約改定反対闘争
「60年安保闘争では、学生が労働者や市民と広く合流して運動を盛り上げた。特に自民党による国会での強行採決に対する抗議行動には、立場の違いを超えて多くの学生が参加した。仙台では、学生とともに東北大学の教官が講義デモに参加したことでも注目された。」(「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536)
* 1960年(S35)、国会周辺デモ隊と警官隊との衝突で女子学生が死去した事件への抗議デモ、青葉通に3000名の学生が参加
* 1965年(S40)9月15日、教養部は授業放棄
* 1965年(S40)9月19日、石津照璽学長辞任
* 1966年(S41)2月1日、教育学部、宮城教育大学設置に反対し、期末試験を拒否
* 昭和43年~45年の大学紛争 → 項目「大学紛争」参照
* 1970年(S45)4月14日、教養部で留年学生479人(これまでの最高数)
|
「仙台市史10 年表」P328、P329/「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P621、P624、P659/「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536~538
|
|
仙台ホテル |
仙台ホテル開業 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)5月15日、仙台ホテル開業式挙行(「仙台市史10年表」P210)
<編者注> 大泉旅館が仙台駅前に、大泉支店の建物とは別に、「仙台ホテル」を仙台駅前広場に面した場所に建築し、開業
* 1896年(明治29年)、「仙台ホテル」を仙台駅前広場に面した場所に開業 / 2階建ての和洋折衷建築であり、東北地方初の洋式ホテルであった(Wikipedia「仙台ホテル」)
* 1903年(M36)6月、洋食開始(この年、陸奥ホテルは洋食を廃業)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P84)
|
「仙台市史10年表」P210/「仙台はじめて物語」P90/Wikipedia「仙台ホテル」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P84
|
98-062(「仙台市老舗百店史」P129のスケッチ画)と「目で見る仙台の歴史」P124に『明治29年建築の仙台ホテル』 <編者注>両書とも説明文に明治28年頃とあるが、明治29年完成のホテル第1代
|
日米野球 |
米大リーグ選抜対巨人軍 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)10月25日、日米親善野球、米大リーグ選抜対巨人戦、宮城県営野球場で開催 / オドール監督以下ディマジオ兄弟ら
|
「仙台市史10年表」P326/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
|
|
愛宕橋(広瀬川) |
コンクリート橋 |
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日、上部を失対事業でコンクリート橋に架け替え / 橋長93.42m、橋幅8.9m、歩車道の区別あり / 「仙台市史10 年表」P285では、S10年5月20日架換工事竣工、式典挙行(出典:仙台市報)と記載
|
「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述 /「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史10 年表」P285
|
06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図101~102(S40年、H8年カラー)
|
愛宕橋(広瀬川) |
吊り橋開通 |
1901年(M34) |
* 古くは誓願寺渡し
* 1901年(M34)に吊り橋(仙台初)
* 1903年(M36)2月11日、架設
* 1912年(M45)に大水害で流失、 その後は、幅1間の板渡し
|
「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 年表」P92
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図100(つり橋)
|
愛宕橋(広瀬川) |
木造橋 |
1916年(T5) |
* 1916年(T5)8月、レンガのピアノ木造橋となる
(「重訂 宮城県郷土史年表」P362では、愛宕橋、霊屋橋の竣工は、T4と記載)
|
「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台年表」P190/「重訂 宮城県郷土史年表」P362
|
99-110
|
県営宮城野原公園総合運動場 |
各施設の開場 |
|
宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン、昭和20年代半ばに以下のスポーツ施設が完成
* 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場開場
* 1951年(S26)5月、県営宮城野原蹴球場完成
* 1951年(S26)8月10日、県営宮城野原陸上競技場開場
* 1952年(S27)10月21日、県営宮城野原総合運動場庭球場落成(「重訂 宮城県郷土史年表」P557では、8月21日落成)
* 1952年(S27)、県営宮城自転車競技場開場
* 1973年(S48)4月28日、宮城野原公園に総合運動場の標識除幕
|
「仙台市史」P117/「仙台市史10 年表」P323、P328/「仙台市史 年表」P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P542、P551、P557/「続・ 宮城県郷土史年表」P19/Wikipedia「宮城自転車競技場」2020年1月版
|
「目で見る仙台の歴史」P189(運動公園全域空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(同空撮)/「市民の戦後史(仙台市)」P62(S25年5月、空撮)
|
警察(戦後) |
宮城県警察 |
1954年(S29)7月~ |
* 1954年(S29)7月1日、新警察法施行に伴い、国家地方警察宮城県本部と、仙台市警察などの自治体警察が統合し宮城県警察が発足
(2020年現在、宮城県警察本部庁舎は、宮城県庁舎に隣接)
* 1973年(S48)5月11日、県警にヘリコプター「あおば」配備
* 1975年(S50)2月7日、ヤングテレホン設置
* 1985年(S60)5月21日、県警、少年相談電話スタート
* 1986年(S61)4月11日、県警、仙台市内の交差点にセンター・ブロック埋設
|
「仙台市史」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P37、P191、P204
|
|
日本生命館 |
取壊し |
1968年(S43) |
・「S43.11 消えるレンガ館 仙台日生館」の写真あり(「市民の戦後史」P202)
・ 解体はS42年(か?)(「仙台クロニクル」P89)
|
「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202
|
「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202の写真/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P88~89(カラー、S42年、解体中)
|
NTT東北支社 |
民営化スタート |
1985年(S60) |
<これ以前は、項目「日本電信電話公社」に>
* 1985年(S60)4月1日、日本電信電話公社が民営化し、日本電信電話株式会社に / NTTは民営化以前から使われていた略称
* 1988年(S63)4月1日、NTT東北支社が、仙台周辺地区で、伝言ダイヤルサービス開始
|
「仙台市史年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P242
|
|
ガス |
仙台市ガス局 |
1961年(S36) |
* 1941年(S16)4月1日、市営ガス事業開始(仙台瓦斯を買収) / 需要戸数は、1942年(S17)に3389戸
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大打撃受けるが、10月10日から供給再開 / 需要戸数は戦災後は1500戸、1952年(S27)に4134戸
* 1957年(S32)9月、ガス局原町工場完成
* 1961年(S36)、仙台市ガス局でプロパンガス取扱開設
* 1973年(S48)、港工場竣工
* 1978年(S53)、宮城県沖地震、原町工場廃止
* 1997年(H9)、LNG船第一船入港、新港工場竣工
* 2005年(H17)、新港工場を港工場に名称変更
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災発生、港工場に甚大な被害 / 災害復旧に1ヵ月余を要す
* 2012年(H24)3月、港工場、震災による被害から復旧
<仙台市ガス事業実績グラフ(S16~42年)> →「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P539の図30 (導管延長、需要家戸数、販売量の推移)
|
「仙台市史本編2」P760、P764、P769/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315、P539/「重訂 宮城県郷土史年表」P601
|
「目で見る仙台の歴史」P183(小田原念仏壇の仙台市ガス局工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P101(ガス局原町工場)
|
逓信関連 |
仙台逓信局 |
戦前期 |
・ 東二番丁・南町通り交差点の南東角にあった / 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1910年(M43)4月1日、仙台逓信管理局を仙台市に設置
* 1913年(T2)6月、北部逓信局と改称
* 1919年(T8)5月、仙台逓信局と改称
・ 終戦後、焼け跡に通称「仙台銀座」(木造6棟のマーケット、建坪3000坪)ができたが、S27年1月22日の仙台銀座大火で140戸焼失
|
「仙台市史第2巻本編2」P717~718/「重訂 宮城県郷土史年表」P345、P554
|
53-53/「目で見る仙台の歴史」P144/「市民の戦後史(仙台市)」P22
|
練兵場 |
追廻練兵場 |
明治~1945年(S20) |
・ 追廻練兵場(おいまわしれんぺいじょう)は、陸軍第二師団の練兵場で、宮城野練兵場とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 兵士の軍事訓練のほか戦没者慰霊祭会場ともなった
・ 場所は、広瀬川西岸沿いで、仙台市川内の師団司令部と各連隊兵営に隣接
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市名家及実業家一覧図」(地図、明治34年4月24日印刷)には、「追廻練兵場」と記載あり
<戦後は>
・ 戦後は戦災者・引揚者用住宅が建てられ、その後住宅地となった → 項目「戦災者・引揚者用住宅の小項目「住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅)」を参照
|
「仙台市名家及実業家一覧図」(明治34年)
|
99-011-1、22-02-01、53-101/位置図は、98-111,98-112、98-114
|
仙台市天文台 |
新天文台開館 |
2008年(H20) |
* 2008年(H20)、新天文台開館(青葉区錦ケ丘9丁目29-32)
|
「仙台市天文台」HP
|
|
セコイヤの化石 |
|
|
100万年前の第四紀洪積世に死滅したといわれるセコイヤが、霊屋橋(おたまやばし)下の広瀬川の中に、数十本残存しており、天然記念物に指定されている
|
「仙台市市史 続編1」P410
|
|
仙台空襲 |
空襲の概要、被害規模 |
1945年(S20)7月10日 |
(1) 『仙台市戦災復興誌』(仙台市開発局 1981年)では、「1945年7月10日、仙台市は米軍のB29、100機による空襲をうけ、中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失。 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」
(編者注: 死者901人、負傷者1689人、行方不明者の数もあるが、空襲間もなくの統計で正確でないと思われる)
(2) 『仙台はフェニックス』(1995年発行 P341)では、「死者は 約1400名近い(確認1064名、身元不明など335名)」
/ ただし、7月17日午前5:30頃の高砂駅停車中列車と周辺民家への機銃掃射、福田町付近爆弾投下による、死者6名、重軽傷者9名、および8月9日の仙台飛行場・原町陸軍造兵廠など銃撃による死者4~5名を含む)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P320)
(3) 『重訂 宮城県郷土史年表』P505では、「仙台市、米空軍の空襲を受く。9日深夜より10日(午前0時5分頃より約2時間30分)未明にかけ前後約3時間に亘り、B29爆撃機7・80機の波状的来襲により無差別焼夷弾攻撃を受け、市の中心部及び川内地帯焦土と化す。この日の戦災により、行政・教育・商業・軍事・金融・交通等の中枢部殆ど焼失、死者911名、罹災戸数11,642、罹災人口57,321、被害面積150万坪に達す。喪失したる史跡、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿、青葉城大手門、養賢堂講堂、芭蕉の辻等の古建築物」
(4) 『仙台市史 続編第2巻(経済文化編)』(1969年発行)P763では、「昭和20年7月10日、B29、100機の爆撃によって、仙台市の中心部は壊滅的な打撃を受けた。被災面積約500ha、全焼家屋1万1650戸、半焼252戸、死傷者約2600人に及び、被災人口の総数は5万7000人、全人口の26%にも達した。」
同書P315では、「房総沖、鹿島灘を北上して、仙台湾に集結したB29約100機は、午前零時5分から約2時間半にわたって仙台市中心部に対して波状的爆撃を加えてきた。このため、特に商業、行政の中心をなす繁華街や川内をはじめ各所にあった軍事施設の大部分が破壊され、家屋その他の建物はほとんど焼失し焦土と化し、その惨状は目をおおうばかりであった。」
|
「仙台市戦災復興誌」(仙台市開発局) /「仙台はフェニックス」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P320/「重訂 宮城県郷土史年表」P505 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P315、P763
|
仙台空襲の焼失区域図は、98-092、98-147
/空襲被害は、35-15、35-14、35-13など「写真データベース」分類G-28の全写真
/「新・目で見る仙台の歴史」P164~167(炎上する市内、焼け野原、座り込む市民、焼け跡整理作業、市民に呼びかける警官)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P61(焼け跡に建つ女性)/「市民の戦後史(仙台市)」P18(焼け跡整理作業など)/同P166(仙台空襲20年追悼式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図42(S20年空襲後、天守台より一面焼け野原の仙台市街俯瞰)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270(敗戦後の焼け跡整理)
|
仙台平 |
|
1918年(T7) |
* 1918年(T7)、仙台平工場、琵琶首に開業
* 1956年(S31)4月、精好仙台平を重要無形文化財に指定し、甲田榮佑を重要無形文化財保持者として認定
* 1967年(S42)7月20日、人間国宝甲田榮佑「精好仙台平保存館」を建築落成
・ 「仙台平」については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P34に記述あり
|
「仙台平」HP/「目で見る仙台の歴史」P151/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P283/「重訂 宮城県郷土史年表」P633
|
「目で見る仙台の歴史」P151に、「仙台平工場(大正7年竣工)」/同P105(工房)/「市民の戦後史(仙台市)」P94(制作中の甲田榮佑氏)/「新・目で見る仙台の歴史」P152(織工場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P34(仙台平袴カラー)/同P46(仙台平織工場の看板)
|
幼稚園 |
仙台幼稚園(私立) |
1905年(M38) |
* 1905年(M38)5月、仙台幼稚園を東三番丁に設立(写真23-01に「宮城婦人会附属」の字あり)(「仙台年表」P180)
|
「仙台年表」P180(出典:仙台市教育会の「仙台郷土史」、S8刊)/明治42年の「仙台市統計一班」
|
23-01
|
三越(仙台店) |
開店 |
1933年(S8) |
<前史>
* 1930年(S5)6月、株式会社仙都ビルディング創設(東一番丁)
* 1931年(S6)、三越仙台進出阻止運動(「仙台年表」P203)
* 1932年(S7)8月、東一振興会と商業連合会、三越仙台店設置反対運動を展開
* 1932年(S7)8月18日、仙台進出阻止演説会(日比谷公会堂)
・ 三越進出阻止運動(昭和5年~7年)については、「番丁詳伝」P138~141に詳述あり
・ 三越店員を地元から採用が伝わると、300人の計画に対し、男女3500人の履歴書が出され、2月15日から8日間、市公会堂で採用試験実施
<東一番丁に開店>
* 1933年(S8)年4月1日、三越百貨店(鉄筋コンクリート5階建、地下1階)、東一番丁北部の仙都ビルに開店 / 「三越の開店は風があったとはいえ、穏やかな春日和の四月一日、宣伝飛行機は開店ビラをまきながら大売り出しで始まった」
【「番丁詳伝」P144~145】
・ 「三越開店前までは、東一番丁では初の商店街組織「北振会」が結成されていたが開発は遅かった。三越周辺は空き地が目立ち、桃季園病院の黒塀が20m程続き淋しいところで、夜は暗くまったく商売にならなかった」
・ 「三越が開店して東一番丁は急激に商店が増えてくる。これまで、立町通り、虎屋横丁角までの人の流れもにも変化が見えてくる」
・ 「開店当初の店内配置は、地下(食料品・家庭用品)、1階(化粧品・履物・薬品・紳士用品・帽子)、2階(紳士婦人子供服・傘・ハンドバッグ・靴・貴金属品)、3階(呉服)、4階(文化用品)、5階(和洋家具・小ホール)」
・ 「開店時、ホールでの芸能披露、目玉商品、十銭均一売り出しなど記述あり」
・ 「(仙台は)街行く婦人は着物姿、僅かにみられる男性の背広姿はツンツルテンのズボンであったから、東京から転勤した約30人の三越青年社員の東京仕込みの中折帽、編上靴、ステッキ姿は目立つ存在であった」
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、内部を全焼
* 1945年(S20)8月1日、空襲後の営業再開
* 1963年(S38)11月1日、新館新装開店
(地上7階、地下2階、屋上に3階の塔屋あり)
* 1992年(H4)10月25日、三越増改築開店(三越・ABビルが竣工)/ 北隣の141ビルとの間に上空連絡通路を設置
|
「仙台年表」P203~204/「仙台市史10 年表」P279/「仙台市史 年表」P113/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「重訂 宮城県郷土史年表」P420、P435/「番丁詳伝」P138~145
|
22-51、47-06、53-34、22-53、53-23、16-39、20-33/「目で見る仙台の歴史」P165
/三越の七夕飾りは20-22/仙台空襲焼け跡に立つ三越は35-14/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38、新館)、P66(S38、新館)
|
斎藤報恩会博物館(斎藤報恩館) |
博物館竣工~取壊し |
1933年(S8)~2015年(H27) |
・ 東三番丁の元貞(げんてい)坂上にあった
・ 鉄筋コンクリート3階建て、秋保石張り、ドームのある建物として親しまれた / 設計は小倉強
* 1933年(S8)11月1日、東三番丁に斎藤報恩会会館完成、併置した博物館を開設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れる
戦後は、
* 1948年(S23)年5月27日~S27年5月、「仙台CIE図書館」(GHQの民間情報教育局管轄)が同居 → 項目「仙台CIE図書館」参照
* 1952年(S27)、「仙台アメリカ文化センター」(米国務省管轄)が館内に同居 → 項目「仙台アメリカ文化センター」参照
* 1953年(S28)11月3日、終戦後閉館中だった自然史博物館を再開(化石、動物はく製品等を展示)
* 1972年(S47)9月、解体
* 1973年(S48)~74年(S49)に改築のために取り壊し
* 建替え後、自然史博物館を継続
* 2015年(H27)3月末、斎藤報恩会博物館を閉館(所蔵資料は仙台市に寄贈された)
|
「仙台年表」P204/「仙台市史10 年表」P437/Wikipedia「斎藤報恩会」/「仙台市史 年表」P115、P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P437、P569/「続・ 宮城県郷土史年表」P14/「古写真にみる仙台の建築」P46
|
戦前は、53-110、99-101、「目で見る仙台の歴史」P165/「新・目で見る仙台の歴史」P151/空襲焼け跡に立つのは、35-14、62-04、53-71、35-09、35-10 /戦後は53-50、07-01-04
|
洞雲寺 |
焼失 |
1943年(S18) |
仙台市泉区山の寺(旧・七北田村)にある曹洞宗の寺院で、山形の立石寺、近江の石山寺とともに日本三大山寺の一つと言われた。仙台近郊の名所のひとつだった。
* 1935年(S10)、汽車の飛び火で洞雲寺山寺が3度目の炎上(「仙台年表」P206=出典は「河北新聞」)
* 1942年(S17)11月6日、戦時中の金属回収で仙台の寺社の鐘が供出されるが、洞雲寺の鐘は国宝級としてまぬかれた県内3か所の鐘の1つ(応召より除かれた県内の三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
* 1943年(S18)4月20日(28日?)、野火に全焼す/門前付近の芝草より出火し延焼、山門・本堂・庫裡などを焼失/仙台鉄道山ノ寺駅付近で機関車の排煙から山火事が発生し、洞雲寺(山ノ寺)が類焼(建物全て焼失)、その後コンクリート造りで再建(「仙台年表」P212=出典は「七北田村誌」、「重訂 宮城県郷土史年表」P496、Wikipedia「洞雲寺(仙台)」、Wikipedia「仙台鉄道」)
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災でコンクリート柱破壊され建物解体
* 2017年(H29)5月9日、本堂及び山門の落慶式
|
「仙台年表」P206、P212/「重訂 宮城県郷土史年表」P493、P496/Wikipedia「洞雲寺(仙台)」(2009.2現在)/Wikipedia「仙台鉄道」
|
99-135、76-14
|