項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
日米野球 |
来仙チーム |
1953年(S28)?~1956年(S31) |
* 1953年(S28)?、ニューヨーク・ジャイアンツ来仙試合
* 1955年(S30)、ニューヨーク・ヤンキース
* 1956年(S31)、ブルックリン・ドジャース
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
|
|
スポーツ大会(戦後復興期) |
国体サッカー |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)秋、第1回国体サッカー東日本予選(東大グラウンド)で、旧制仙台一中準優勝
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P467
|
|
戦後教育・仙台 |
学校給食 |
|
<昭和戦前期>
* 1932年(S7)、経済不況と社会事情による欠食児童対策として開始
* 1940年(S15)、栄養不良児、身体虚弱児対象とした味噌汁給食実施
* 1944年(S19)、全児童対象に雑炊給食開始するも、戦争により中止
<戦後・小学校>
* 1946年(S21)、米軍の放出物資により缶詰給食で再開
* 1951年(S26)2月、全小学校で完全給食体制
* 1954年(S29)、学校給食法
* 1956年(S31)、文部大臣表彰制度実施 / 仙台の7校が文部大臣賞
* 1958年(S33)から、完全給食実施校に栄養士必置制
* 1967年(S42)5月、初の学校給食高砂センター完成(1万5000食、小学校3校・中学校13校に配送)
<夜間定時制高校>
* 1961年(S36)9月、ミルク給食開始
* 1962年(S37)7月、全額設置者負担で夜間給食開始 / S44年5月に図南高校にも実施され、定時制3校で完全給食実施
<中学校>
* 1963年(S38)9月、依託混合乳によるミルク給食開始
* 1967年(S42)5月、学校給食高砂センター完成により、中学校22校中13校が一挙完全給食に移行
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P458~461/「市民の戦後史(仙台市)」P196
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P106(S19年、戦時中の東二番丁国民学校の学校給食/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P459の写真133(小学校の給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P147(S38年9月、中学校給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P196(学校給食高砂センター(調理場、配送トラック群)/「新・目で見る仙台の歴史」P194、P195(学校給食高砂センター、外観、調理場、カラー)
|
仙台市民教養センター |
開館 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)4月1日、開館(東二番丁小学校5階)
・ 講習室、会議室、談話室、和室など
・ 利用は、社会教育関連団体
・ 成人学校、青年教室、老壮大学、明治青年大学、教養講座など開催、教育映画・映写機など貸出
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P449~450
|
「市民の戦後史(仙台市)」P160(市民教養センターが入る東二番丁小学校新校舎、講座風景)
|
仙台市民図書館 |
西公園に開館/仙台メディアテーク内に移転 |
1962年(S37)/2001年(H13) |
<西公園内>
* 1962年(S37)10月27日、西公園内に開館
* 1966年(S41)3月、移動図書館車「ひろせ」の運行開始(仙台市史 年表) / 図書館から遠隔地域の新市域を巡回(1支所平均3駐車場を選定)
* 1966年(S41)2月25日、ブックモービル「ひろせ号」、巡回図書の貸し出しに初出動(重訂 宮城県郷土史年表)
<分室設置>
* 1978年(S53)8月24日、図書館分室を東北電力ビル内に設置
<仙台メディアテーク内へ>
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転開館
<参考>「仙台市図書館」は、仙台市立の7つの図書館の総称、「仙台市民図書館」は、仙台市青葉区春日町2-1(メディアテーク)にある中央図書館の名称
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P447~449/「仙台市史 年表」P122、P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P606、P624 /「続・ 宮城県郷土史年表」P84/Wikipedia「仙台市図書館」(2020年3月)
|
「市民の戦後史(仙台市)」P140(市民図書館外観、閲覧室、よい子の図書室)/「市民の戦後史(仙台市)」P187(移動図書館車「ひろせ号」に群がる子ら)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(閲覧室、移動図書館車「ひろせ号」、カラー)
|
婦人の社会活動(戦後・仙台) |
仙台の婦人団体 |
1945(S20)~1994年(H6) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439「仙台市婦人のあゆみ」>
・ 昭和20年~43年頃までの運動と団体の動向を記述
・ 市内の婦人団名(昭和40年)~市教委把握数は45団体
・ 活動内容が記述された団体は、日本キリスト教婦人矯風会仙台支部、日本婦人有権者同盟仙台支部、仙台市主婦連合会、仙台婦人懇談会、宮城婦人問題連絡会、仙台市婦人会議、地域婦人会、みやぎ草の実、高砂むつみ会、葉月会、PTA、社会学級、仙台市母子福祉連合会、仙台市農業協同組合婦人部、労働組合婦人部、婦人公務員、仙台教職員組合婦人部 / そのほかに、民間婦人の職場、パートタイマー、公職進出についても触れている
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459>にも、婦人会をはじめ、戦後の女性たちの社会活動組織について記述あり(昭和63年位まで)
* 日本基督教婦人矯風会仙台支部、戦後すぐ活動再開(街娼撲滅運動、平和運動)
* 1946年(S21)、稲村キクエの呼びかけで新日本婦人同盟仙台支部、結成(1950年に、日本婦人有権者同盟仙台支部と改称)
* 1947年(S22)ころ、国鉄労働組合婦人部、日本教職員組合婦人部、農業協同組合婦人部など、活動開始
* 1947年(S22)、仙台市主婦連合会発足(各種団体や労働組合の女性たち、地域の主婦も多数結集)
* 1949年(S24)2月、仙台婦人懇談会結成
* 1959年(S34)、宮城県婦人問題連絡会結成
* 1966年(S41)、仙台市婦人会議発足(55グループが参加)
・ 1960年代以降、婦人防火クラブ誕生(S37、萩の台婦人防火クラブ/S38、高砂戌区婦人消火隊など) / 1978年(S53)の宮城県沖地震後には町内会単位で結成が進む
・ 1975年(S50)、国際婦人年を契機に、仙台では、新たに女性問題・社会問題の学習グループ、消費者グループ、育児および育児ボランティアグループ、高齢者介護など福祉のボランティアサークルなど発足
・ 1987年(S62)3月、エルパーク仙台(仙台婦人文化センター)オープン / 記念して「女たちのメッセージ」開催(参加団体:当初は29 → 1994年(H6)には40団体以上)
・ 「女たちのメッセージ'94」の参加団体名一覧表 / 福祉・ボランティア活動、育児支援活動、学習活動など41団体(「仙台市史 特別編4 市民生活」P459)
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459
|
「市民の戦後史(仙台市)」P186と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P458に、「S41年10月、仙台市婦人会議結成大会」
|
水害 |
集中豪雨 |
1950年(S25)8月3日~4日 |
20mの強風下、仙台で200ミリの豪雨 / 広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / 堤防決壊10か所、橋梁流失47か所 / 仙台で138戸流失、死者6名、行方不明10名、浸水家屋1万戸以上 / 元虚空蔵の崖が崩れて水がせき止められ、評定河原に水があふれ家屋流失138戸 / 市制施行以来の大水害
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P405/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P544/「目で見る仙台の歴史」P175
|
「目で見る仙台の歴史」P175に「新聞掲載写真」
|
戦後教育・仙台 |
道徳の時間/特殊教育/視聴覚教育 |
|
<道徳の時間>
* 1958年(S33)月日、学校教育法一部改訂、小中学校に「道徳の時間」特設
<特殊教育>
* 1955年(S30)~1956年(S31)、七郷地区小・中学校に精薄学級開設
・ 仙台市の特殊学級設置経過一覧表(S30~S44)、精神薄弱、肢体不自由、言語障害、病弱、難聴の5種
→ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P350
<視聴覚教育>
・ 戦後まもなく、アメリカ文化センターの所有のUSIS映画の活用、16ミリ映写機の全学校配布
* 1959年(S34)、仙台市小学校フィルム・ライブラリー設置
・ 学級にテレビ導入し、NHK学校放送番組を活用
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P348~350、361~362
|
「市民の戦後史(仙台市)」P88(七郷小学校の特殊学級)
|
戦後教育・仙台 |
教育委員会 |
|
* 1947年(S22)3月31日、教育基本法、公布・施行
* 1947年(S22)3月31日、学校教育法、公布、翌4月1日から施行
* 1948年(S23)6月19日、国会が、「教育勅語等排除に関する決議」および「教育勅語等の失効確認に関する決議」
<教育委員会 公選制→任命制>
* 1948年(S23)7月15日、教育委員会法、公布・施行(公選制)
* 1948年(S23)11月、宮城県教育委員会発足
* 1950年(S25)11月1日、仙台市議会が仙台市教育委員会設置決議
* 1950年(S25)11月10日、仙台市教育委員選挙、立候補者10名、当選4名(このほかに市議会選出の1名)
* 1950年(S25)12月1日、第1回教育委員会
* 1956年(S31)6月30日、地方教育行政の組織及び運営に関する法律制定、教育委員公選制から任命制へ(首長が議会の同意を得て任命)
* 1956年(S31)10月10日、市長が仙台市教育委員5名を任命
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P340~346
|
「目で見る仙台の歴史」P182(仙台市教育委員会庁舎)
|
学童疎開 |
仙台の学童 |
|
・ 仙台市の学校は、強制疎開の指定地ではなかったが、縁故疎開は着々と進められていた。
・ 宮城師範付属国民学校では、疎開できる縁故のない3年生以上の学童60余人を、仙台空襲のあとに加美郡宮崎村に疎開させた。借用予定だった宮崎国民学校が陸軍予備士官学校生徒に占領されたので、やむなく村内の洞雲寺と長泉院や付近の農家に収容した。
<「戦争のころ 仙台、宮城」P150)>
宮城県でただ1校、仙台空襲(S20年7月10日)の18日後に集団疎開
* 1945年(S20)7月28日、宮城師範男子部付属国民学校129人が、仙台軽便鉄道仙台駅から乗車、宮崎村(東町洞雲寺、柳町長泉寺と近所の農家)に疎開
・ 129人は、全校生の25%で、親が転勤族などで地元に縁故がない児童
・ 学校では、地元の婦人12人に炊事作業を頼み、寺にはトイレが増設された。風呂はそういうわけにはいかず、多くの子は近くを流れる田川に毎日のように泳ぎに行きました。
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P317/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P150
|
|
仙台空襲 |
焼失した学校 / 校舎再建 |
1945年(S20)7月10日 |
<空襲で焼失>
☆ 国民学校 5校(全焼4、半焼1)
・全焼・・・北五番丁、立町、東二番丁、西多賀
・半焼・・・木町通
☆ 中等学校13校(全焼)
・全焼(公立)・・・仙台、仙台商業、仙台図南、県第一高女、県仙台第二、県工業、
・全焼(私立)・・・仙台育英、東北学院、宮城女学校、栴檀、仙台女学校、常盤木高女、朴沢松操
☆ 高等専門学校 3校(全焼)
・全焼・・・第二高等学校、県立女子専門学校、宮城学院女子専門学校
☆ 大学 3学部
・一部焼失・・・東北帝国大学理学部、工学部、法文学部
<二部授業や青空教室>
・ 焼失を免れた学校の一部をかりて、二部授業
・ 西多賀国民学校のように、近くの神社の社務所や部落公民館などを仮校舎として二部授業や複式授業
・ 間借りの場所がない学校は、野外授業(青空教室)
<校舎再建>
・ 国民学校(小学校)は、1950年(S25)までに7校の校舎が建ち、二部授業、青空教室はほぼ解消した
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P316「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270~271
|
|
学徒勤労動員 |
アウトラインと宮城県内の状況 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314>
・ 労働力不足に対応するための中等学校生徒以上に対する集団勤労は昭和13年、文部省の「集団勤労作業に関する訓令」に始まるがこれが激しくなったのは昭和16年秋ごろから
・ 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」により、「1年を通じて30日以内、授業を廃して増産運動に協力すること」を命じられる
・ 1943年(S18)10月、閣議決定「教育に関する戦時非常措置」により、「在学期間中1年につき3分の1に相当する部分が学徒動員にあてられる」 / この傾向はさらに強化されて、「工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」(昭和19年?)、「学徒勤労の徹底強化に関する件」(昭和19年7月)などにより、「国民学校高等科生徒の動員や、中等学校3年生以上の深夜労働が認められる」ようになる
・ 仙台市においても、昭和16~17年は主として近郊農家の田畑の除草、収穫の手伝いなどだったが、18年になると男子は開墾、湿田の暗渠排水、製炭作業のほかに、原町の陸軍造兵廠、玉浦飛行場(仙台空港の前身)などの整地作業が加えられ、女子は被服廠の縫製作業に動員され、農家の手伝いには低学年を動員
・ 昭和19年にはいると、上級学年は主として日立、川崎、逗子など県外の軍需工場に動員され、低学年生徒は市内の軍需品関連工場に動員されるという状態で、仙台貯金局に動員された仙台女子商業や宮城県第一高等女学校生徒はむしろ恵まれたものとして、うらやまれた。
<編者注>
(1) 上記「閣議決定」「要綱」などの年月は、編者が補足、ただし、工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」は年月不詳
(2) 仙台の中等学校等の勤労動員の具体例 → 当データベース<仙台よみとき用語年表>の項目「戦時下の学園」参照
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P49~50に、昭和18年春と夏の農繁期に農作業支援で動員された学徒や職域の団体(報国隊)別の動員人数、学徒が動員された軍需工場名など記述あり
|
|
高等学校(新制) |
|
|
・ 高等学校は、1948年(S23)4月の学制改革を境に「旧制」と[新制」に区分される
・「旧制」は宮城県内では、(旧制)第二高等学校があったが、1949年(S24)4月に、(新制)東北大学に併合される
・ 1948年(S23)4月の学制改革で誕生する(新制)高等学校は、多くは戦前からの中等学校(旧制中学校、高等女学校、商業学校、工業学校、農業学校などの実家学校)が移行したもので、市立、県立、私立がある
・ 旧制中等学校在校生は、1948年(S23)4月時点の4~5年生が新制高等学校生に移行した
<参考 ~旧制中等学校、戦時中の修業年限短縮~>
* 1943年(S18)1月21日公布、4月施行の中等学校令により修業年限4年間 / 従来の中学校、高等女学校、実業学校の修業年限が5年から4年に短縮された(「仙台市史 続編第2巻」P312) / ただし高等女学校の修業年限を2年、実業学校の修業年限を男子3年・女子2年に短縮することができる
(Wikipedia「中等学校令」2020年5月版)
* 1946年(S21)2月23日、中等学校を5年生に、(旧制)高等学校と大学予科を3年生に復活(「菅家年表」P36)
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P312/Wikipedia「中等学校令」/「仙台年表」P213/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P36
|
|
国民学校 |
|
1941年(S16)4月~1947年(S22)3月 |
<参考文献>
【「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P305~310】
教育の戦時体制化と国民学校の目的(皇国民の錬成)、教科内容、特色(体錬科武道)、学校行事重視(神社参拝、勤労奉仕、出征、入営兵士の壮行式、戦没者遺骨出迎えなど)について記述
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P266~269】
・ 教育の戦時体制化~国民精神総動員~
・ 皇国民錬成の道場~国民学校~
・ 太平洋戦争下の教育~少国民の覚悟~
・ 教育の崩壊~教室から戦場・工場へ~
* 1941年(S16)4月、小学校を国民学校と改称(義務教育8年間に)
* 1943年(S18)10月5日、仙台市第1回国民学校体育大会
* 1944年(S19)2月16日、国民学校令等戦時特例公布(就学義務を満12歳までに引き下げるなど)
* 1945年(S20)3月18日、「決戦教育措置要綱」閣議決定(国民学校初等科以外の各学校の授業停止)
<空襲で焼失 国民学校・中等学校>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、市中心部の国民学校5校(全焼4校、半焼1校)、旧制中等学校(全焼13校)/ 2学期から、近くの学校校舎の一部などを借用し、二部授業
(→ 具体例は、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318)
<戦後>
* 1947年(S22)4月1日、国民学校令等旧関係諸法令廃止
* 1947年(S22)4月1日、再び小学校と改称
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P305~310/「仙台市史 特別編4 市民生活」P266~269/「仙台市史 年表」P111、P113、P114/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/「仙台市史10 年表」P306、P315
|
16-58(戦没者遺骨出迎え)、16-63、02-02 /「新・目で見る仙台の歴史」P161(小学生たちが神社で戦勝祈願)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P273(国民学校におかれた小神殿)
|
多賀城跡 |
特別史跡指定 |
1966年(S41) |
多賀城市にあった日本の古代城柵
* 1961年(S36)8月、東北大学考古学教室が多賀城跡の発掘調査に着手
* 1966年(S41)3月25日、多賀城址を特別史蹟に指定
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292/「重訂 宮城県郷土史年表」P624
|
|
ビル建設 |
4階以上のビル |
終戦前/1958年(S33) |
* 昭和20年の終戦前、4階以上は、東北電力、市立病院、三越、富国ビル、簡易保険局、明治生命など
* 1957年(S32)頃
・4階 仙台電話局、興銀ビルなど
・5階 徳陽相互銀行
・6階 仙台ビル、山口ビル、郵政ビル
・8階 丸光デパート、日乃出会館(工事中)
S32年頃に建設計画中(東宝ビル、七十七銀行)
(以上、出典調査中)
* 1958年(S33)1月、仙台市内で4階建以上のビルは17(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286)
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286
|
|
駐留軍(米軍) |
榴ヶ岡キャンプ返還 |
|
* 1956年(S31)6月、榴ヶ岡キャンプ(キャンプ・ファウラー)返還
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282
|
|
戦没者遺骨調査・収集 |
|
1953年(S28)~ |
* 1953年(S28)2月、南海調査団派遣
* 1953年(S28)7月、アッツ島玉砕地の遺骨収集
* 1955年(S30)、大成丸のガダルカナル遺骨収集
* 1956年(S31)2月、ビルマの遺骨収集
* 1956年(S31)6月、ニューギニア方面の遺骨収集
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P272、P279、P282
|
|
NHK全国唱歌ラジオコンクールで連続優勝 |
仙台市内の学校が優勝 |
1949年(S24)~1952年(S27)/1954年(S29)~1956年(S31)/1959年(S34) |
* 1949年(S24)、「全国児童唱歌コンクール」に中学校を加え、「第16回唱歌ラジオコンクール」に改称
<仙台の学校が連続入賞>
* 1947年(S22)、連坊小路小2位
* 1948年(S23)、南材木町小2位
* 1949年(S24)、南材木町小優勝、五橋中優勝
* 1950年(S25)、連坊小路小優勝
* 1951年(S26)、南材木町小優勝
* 1952年(S27)、連坊小路小優勝
* 1953年(S28)、南材木町小2位
* 1954年(S29)11月7日、南材木町小3位、五橋中優勝
* 1955年(S30)11月6日、南材木町小優勝、五橋中連続優勝
* 1956年(S31)11月4日、立町小2位、五橋中3年連続優勝
* 1957年(S32)、立町小2位、南材木町小優良校
* 1958年(S33)、南材木町小3位
* 1959年(S34)、立町小優勝
* 1960年(S35)、南材木町小3位
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P256、P363/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P580、P583
|
「目で見る仙台の歴史」P187に「4度全国優勝した五橋中学校コーラス」と「戦前戦後通じて8回全国優勝した南材木町小学校コーラス」/「市民の戦後史(仙台市)」P42(S24年優勝の南材木町小学校と五橋中学校ステージ)/「新・目で見る仙台の歴史」P180(S30年、1位となった南材木町小学校のステージ)
|
広瀬川の清流を守る条例 |
制定 |
1974年(S49) |
<条例制定以前>
* 1956年(S31)から、アユを放流
* 1968年(S43)6月、カジカ500匹放流
<条例制定>
* 1974年(S49)9月28日、広瀬川の清流を守る条例、仙台市が制定
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P209/「仙台市史 年表」P129
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P240(S28年ころ、広瀬川で水遊びする子ら)
/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P209の写真61(カジカの放流)/「市民の戦後史(仙台市)」P212(S43年5月の稚アユ放流、S43年6月のカジカ放流)/「新・目で見る仙台の歴史」P190(カジカ放流)と(釣り人たち)
|
養種園 |
開園 |
1900年(M33) |
<伊達家が開設>
* 1900年(M33)年4月、伊達家養種園、伊達邦宗により開設(保春院前丁) / 品種改良を目的に国内、欧米各地から種子・苗木を求めて品種改良をはかり、仙台白菜の品種としての固定化、ソールダムの紹介普及、めん羊の試験飼育など各種の先駆的試験栽培、飼育を行い、これを県農会や各農家に分譲配布
<仙台市が借受け → 買収>
* 1943年(S18)、戦時中中断したので、仙台市が借受け、本来の研究とともに市立動物園の動物用餌を栽培(動物園は戦争激化によりS20年4月閉園)
* 戦後、「仙台市指導農場養種園」と改称
* 1955年(S30)(またはS31年)12月、仙台市、伊達家から借用していた養種園を買収(4万㎡)、「仙台市養種園」とする / 育種研究を都市近郊農業にふさわしい果樹、球根、花き類に重点を置き、あわせて市民対象の園芸講習会、バラまつり、チューリップまつり開催、球根、種苗の販売、植物ドック開設など
* 1973年(S48)9月1日、養種園に真山青果文学碑除幕式
<仙台市農業園芸センター>
* 1989年(H1)6月17日、仙台市、仙台市養種園を発展・改称した仙台市農業園芸センターを荒井に開設
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206、P658/「仙台市史 年表」P91、P119、P136/「続・ 宮城県郷土史年表」P23/「市民の戦後史(仙台市)」P95(バラ祭り)
|
|
スポーツ大会(戦後復興期) |
東北陸上競技大会(第1回) |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)8月、仙台市で開催
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
|
|
スポーツ大会(戦後復興期) |
宮城県民体育大会(第1回) |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)9月10日、第1回大会(仙台市宮城野原で)
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
|
|
仙台美術館 |
開館 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)2月25日、財団法人仙台美術館、斎藤報恩会館内に開館
* 1973年(S48)、柳町の河北ビルに移転
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197/「仙台市史 年表」P126、P129/「重訂 宮城県郷土史年表」P646
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
歓楽街復活 |
|
・ ヤミ市には戦災者、引揚者が、それぞれ根城をつくり、その日暮らしの設計をたてていたが、禁制のヤミ物資を扱うブローカーたちと進駐軍兵士のために、仙台駅前、苦竹、東一番丁付近などに、まず真っ先に歓楽街が復活した
・ 東八番丁、宮町の遊郭や売春宿も1945年(S20)9月には早くも営業を開始、東一番丁の焼けビルにはアメリカ風のキャバレーが出現して市民の目を奪った
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196
|
|
仙台市天文台 |
西公園に開台 |
1955年(S30)/2008年(H20) |
* 1954年(S29)12月23日、桜ケ岡公園に建築完成(41cm反射望遠鏡、当時全国4番目の大きさ) / 国分町の板垣金造氏が望遠鏡製作費100万円を寄付
* 1955年(S30)2月1日、西公園に、民営の仙台天文台が開台(翌年、市に寄贈され、市営の「仙台市天文台」に)
* 1956年(S31)11月18日、仙台市天文台として観覧業務を開始
* 1968年(S43)5月15日、東北初のプラネタリウム館(250席)が併設される / S42年東北大博覧会(会場:苦竹)で展示された東北初のプラネタリウムを終了後、主催者河北新報社が市に寄付、市が西公園に移設
<観測機器>
41cm反射望遠鏡、運転時計付赤道儀架台に10cm屈折望遠鏡、20cm天体写真儀、20cm反射移動用望遠鏡、人工衛星望遠鏡など
<業務>
・ 学校教育:プラネタリウム学習や天文台実習(市内中学3年生全員、希望する小・高校対象)、課外クラブ利用、教員対象講習、東北各県に講師派遣、資料提供
・ 社会教育:市民、修学旅行団体の有料観覧、夜間天体観察、夏期には町内会・子供会など対象にに移動天文教室
・ 研究観測:人工衛星観測所として国際登録、彗星位置、太陽観測、変光星観測など世界の天文台に速報
<年間利用数 1968年度(S43)>
・ 一般観覧(有料) 2万6161人(半数が団体利用)
・ 市内学校教育利用(無料) 1万3781人
* 1974年(S49)1月10日、新型プラネタリウムを導入
* 1975年(S50)8月、仙台市天文台愛子観測所開設
* 2001年(H13)12月9日、来場者300万人を達成
* 2007年(H19)11月25日、観覧業務終了、閉館(H20年に、錦が丘の新天文台開館)
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P195、P441~444/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P632、P640、P650/「仙台あのころこのころ八十八年」P252/「仙台年表」P232/「仙台市史 年表」P119、P125、P129、P130/Wikipedia「仙台市天文台」/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/「仙台市天文台」HP
|
「目で見る仙台の歴史」P185(西公園内の天文台、望遠鏡)/「市民の戦後史(仙台市)」P78(外観、41センチ反射望遠鏡)/「市民の戦後史(仙台市)」P208(プラネタリウム)/「新・目で見る仙台の歴史」P180(41センチ反射望遠鏡)/同P193(天文台内の星のジオラマ)
|
仙台市科学館 |
開館 |
1968年(S43)5月1日 |
<前身のサイエンスルーム>
* 1952年(S27)6月10日、仙台市レジャーセンター内にサイエンスルームを設置(「重訂 宮城県郷土史年表」P556では、6月13日竣工)
・実験室、資料室、研究室など
・学校教育では、主に中学3年生対象に実験指導、教職員理科実技講習、科学相談、実験機材・資料の貸出など
・社会教育では、科学見学採集会、科学実験講座、実験のしおり発行など
<仙台市科学館>
* 1968年(S43)5月1日、東二番丁・青葉通り角の日本長期信用銀行ビル地下に開館(サイエンスルームを統合)
・実験室2室、工作室、講堂、展示室
・市内中学生対象の実験指導、展示活動、教員対象実験講座、一般向け科学のはなし、映画界、採集会など
<台原森林公園内に新築移転>
* 1990年(H2)9月、仙台市科学館が台原森林公園の中に新築移転し開館
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P194~195、P439~441、P450~453/「仙台市史 年表」P117、P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P556、P630、P640/Wikipedia「仙台市科学館」
|
「目で見る仙台の歴史」P180に、レジャーセンター内のサイエンスルーム/「市民の戦後史(仙台市)」P209(長銀ビル内の市立科学館で子供たち、展示物)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(長銀ビル内の科学館)
|
仙台市博物館 |
|
1961年(S36)/1986年(S61) |
* 1951年(S26)12月、旧仙台藩主伊達家が、伝来の文化財を市に寄贈、覚書を交わす
* 1961年(S36)6月、仙台城三の丸跡に、第1期工事(鉄筋コンクリート2階建)完成(湿気抜きのため、開館は翌S36年10月10日)/ 落成記念特別展覧会「桃山美術名宝展」
* 1963年(S38)第2期工事、1968年(S43)第3期工事完成
* 1969年(S44)4月、増築完成(新館)
* 1986年(S61)3月1日、新装オープン(新博物館)
<「伊達家寄贈文化財目録」発刊>
・ 古文書古記録類約8000点、美術工芸品類約4000点
・ 1965年(S40)12日、古文書編Ⅰ / 1966年(S41)12月、古文書Ⅱ・記録編 / 1968年(S43)6月、美術工芸編
<収集活動>
・「慶長遣欧使節関係資料」(S41、国の重要文化財指定)など郷土関係資料の収集保存
<関連>
(1) 「魯迅の碑」 1961年(S36)12月4日、仙台市博物館前庭に建立、除幕式(発起は、日中友好協会宮城県連合会) / 「重訂 宮城県郷土史年表」P600では、S36年4月に除幕式、魯迅夫人許広平臨席
(2) 「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」 1978年(S53)5月2日、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建 / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている
(3) 「阿部次郎記念散歩道」 1987年(S62)8月21日完成、仙台市博物館起点に1.28km/哲学者・ 阿部次郎東北大学名誉教授(1883~1959年)を記念する散歩道で、石田名香雄総長時代に、生誕百年を記念して大学と仙台市が協力して4kmほどの周回散策路を整備し、「三太郎の小径」と名付けた
(4) 「島野武市長胸像」 1987年(S62)11月6日、博物館前に、建立
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P193~194、P445~447/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P600、P601、P648/「仙台市史 年表」P122、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P81、P203、P228、P232/「日中友好協会宮城県連合会」HP/「市民の戦後史(仙台市)」P217
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P194の写真56(博物館の開館式)、P445の写真128(博物館外観)/「市民の戦後史(仙台市)」P128(完成した博物館外観、収蔵品の「六十二万石の知行状」、二の丸の襖絵)/「市民の戦後史(仙台市)」P129(魯迅の碑)/「新・目で見る仙台の歴史」P150(阿部次郎、同氏句碑)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(展示会場)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(S44年1月、博物館増築完成した建物)
|
文学碑など(仙台) |
菊地養之輔の歌碑 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)9月、西公園の公会堂西南隣に建設 / 「新しき世界のために靴の紐、結ぶしもべと我をならしめ」
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192~193
|
|
文学碑など(仙台) |
浜夢助の句碑 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)12月、川柳宮城野社一同の手で、西公園内に句碑建立 / 「雪国にうまれ 無口に馴らされる」
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192
|
|
文学碑など(仙台) |
阿部みどり女の句碑 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)10月1日、仙台城址、宮城護国神社南の池のはたに建立 / 「初蝶の流れ光陰ながれけり みどり女」
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192
|
|
文学碑など(仙台) |
石川善助の詩碑 |
|
* 1958年(S33)9月27日、詩碑建立 / 愛宕山神社のかたわら、仙台市を一望できる場所にある
「化石を拾ふ。 光の澱む切り通しの中に、童子が化石を捜してゐた。 黄赭の地層のあちこちに、白いうづくまる貝を掘り、遠い古生代の景色を夢み、母の母なる匂ひを嗅いでゐた。 もう日は翳るよ、空に鴉は散らばるよ。 だのに、なほも探してゐる。探してゐる。 外界のこころを、生の始めを、母を、母を」
・ 「番丁詳伝」P104~105に、国分町生まれの詩人石川善助の生い立ち、経歴、詩の世界につき記述あり
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191/「番丁詳伝」P104~105
|
|
文学碑など(仙台) |
原阿佐緒の歌碑 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)6月、除幕式 / 歌碑「家ごとにすもも花咲くみちのくの 春べをこもり病みて久しも」 / 野草園に近い、仙台放送の放送所とNHKTVアンテナの中間、道に東側に建つ
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292の写真96
|
文学碑など(仙台) |
藤村の詩碑 |
1936年(S11)/1965年(S40) |
* 1936年(S11)、八木山の一角に建立 / 戦後荒廃し、碑が雑草と雑木林に埋もれる
* 1965年(S40)10月、八木山動物公園開園に伴い敷地内に入り、自由に参観出来ないため、天守台跡に移転
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P190~191
|
「新・目で見る仙台の歴史」P151(八木山の詩碑を見る藤村夫妻)/「目で見る仙台の歴史」P167
|
文学碑など(仙台) |
魯迅の碑 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)12月4日竣工 / 仙台博物館わきに、熊谷岱蔵(東北大学名誉教授、文化勲章受章者、仙台市名誉市民)らの手で建てられた / 除幕式には魯迅夫人許広平女史出席
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P190
|
|
土井晩翠 |
晩翠草堂 |
1949年(S24) |
「晩翠は戦災で本荒町の自宅と共に、50年にわたって集めた3万巻余の蔵書や貴重な美術品を焼失、一時は「天われを滅ぼせり」と嘆息し、花壇川前町の仮寓で生活していた。しかし晩翠を慕う旧制二高同窓会や市民有志が昭和23年、晩翠会をつくり、当時の岡崎栄松市長が会長となって募金し、約40万円をもって本荒町の土井邸跡に、東北大学名誉教授小倉博の設計で晩翠草堂を建て晩翠に贈呈した。」(「仙台市史 続編第2巻」P189)
* 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置
* 1952年(S27)10月19日、詩人土井晩翠〈81歳)晩翠草堂において逝去(「重訂 宮城県郷土史年表」P559)
* 1978年(S53)7月1日、一般公開(大町1丁目)/ 仙台市出身の詩人・英文学者の土井晩翠が最晩年に過ごした邸宅を、一般開放(「続・ 宮城県郷土史年表」P83)
* 1989年(H1)7月、晩翠草堂周囲改装
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189/「重訂 宮城県郷土史年表」P559/「続・ 宮城県郷土史年表」P83、P261/「市民の戦後史(仙台市)」P41
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271の写真86/「目で見る仙台の歴史」P191(草堂と詩碑「天地有情」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(草堂と詩碑)
|
亀岡八幡神社 |
県重文指定 |
1970年(S45) |
伊達藩四代綱村が建立
* 1683年(天和3)落成、仙台東照宮や塩釜神社と並んで豪壮な神殿づくりで、仙台藩の氏神だった
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1966年(S41)、新社殿落成
* 1967年(S42)、境内の一部に、市の老人福祉センターが完成(大浴場、休養室、健康相談室)
* 1970年(S45)10月17日、石造大鳥居と鳥居額、県の重要文化財に指定(大崎八幡宮の石造大鳥居とともに)(「重訂 宮城県郷土史年表」P664)
* 1978年(S53)12月16日、境内に「輜重兵第二連隊の碑」建立
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187~188/「重訂 宮城県郷土史年表」P664/「続・ 宮城県郷土史年表」P89
|
「仙台市史写真集 市民の戦後史」P21/「目で見る仙台の歴史」P65に社殿と内部
|
仙台バイパス |
開通 |
1964年(S39)~ |
仙台バイパスは、仙台都市圏を南北に縦断するバイパス道路 / 柴田町四日市場~泉町(のちの泉区)七北田間の33.8キロ / 国道4号・国道6号・国道47号の一部であり、途中、苦竹ICで国道45号と接続する4車線(一部6車線)道路
* 1941年(S36)10月13日、仙台バイパス工事着手(四日市場~市名坂間34キロ)
* 1962年(S37)、仙台バイパス着工
* 1964年(S39)4月、岩沼~仙台市郡山(籠ノ瀬)間(10.3㎞)の供用開始
* 1966年(S41)3月4日、千代大橋(広瀬川)開通、橋長310m、橋幅19.5m
* 1966年(S41)4月6日、籠ノ瀬~苦竹間(7.4km)、供用開始 / これにより、柴田町四日市場~仙台市苦竹間(24km)使用開始(苦竹は、国道45号線との交差点)
* 1970年(S45)4月24日、苦竹~七北田間、暫定2車線で供用開始
* 1974年(S49)11月1日、苦竹~七北田間、4車線で開通
* 1974年度(S49年度)、苦竹ICの立体交差完成により、岩沼(梶橋交差点)~泉区(泉交差点)間(26.6km)、4車線で供用開始
* 1982年度(S57年度)南有料取付 - 苦竹IC間 (8.0 km) を6車線で供用開始
* 2007年(H19)3月20日、苦竹IC~山崎交差点間(2.2km)を6車線で供用開始
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P155、P295/「仙台市史 年表」P123、P124、P127、P129/「重訂 宮城県郷土史年表」P602、P625、P660/Wikipedia「仙台バイパス」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P408
|
「市民の戦後史(仙台市)」P192~193(S41年4月仙台バイパス市内中田付近空撮、国道45号線とのインター予定地空撮、車行き交うバイパス空撮)
|
東二番丁通り(拡幅) |
概要(戦後) |
|
・ 東二番丁通りは、定禅寺通角~五橋通角までの周辺一帯が仙台空襲(S20年7月)で焼失したが、戦後の戦災復興事業により(それまでの)幅員8mから50mに拡幅され、市中心部を南北に貫く幹線道路となった
・ その際、拡幅予定線上にあった堅ろう建物(三井生命、商工会議所、市立病院表玄関、協和銀行、逓信病院、東北学院中学校、宮城学院)の移転や撤去に時間がかかり、建物が拡幅された道路上にはみ出した状態がしばらく続いたが、1958年(S33年)7月までにすべて移転、撤去が完了し、幅50mの全線が完成した
・ 北の起点に近い三井生命はビルごと移転させた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132)
・ 両側には歩道(幅9m)と、車道内には2本の側方分離帯(幅3m)が設けられ、車道は側方分離帯にはさまれた中央の15m幅に片側2車線ずつと、2本の側方分離帯と歩道との間に5.5m幅の停車帯および低速車線が両側に設置された
・ 戦災で失われた緑を復活させて杜の都を復興する目的があり、側方分離帯と歩道には並木が設けられた
* 1975年(S50)4月1日、五橋通り角からさらに南へ延伸されて当時の仙台市立病院前交差点(*)までの区間が開通、この時期に全線の側方分離帯を廃止して中央分離帯を設け、片側4車線の道路へと改修された <* 注> 仙台市立病院はその後、2014年(H26)11月1日に長町へ移転した
* 1986年(S61)、クランク型につながっていた東二番丁通りと勾当台通りが、勾当台公園の端を削ってゆるいカーブで繋がった
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345、P349/「続・ 宮城県郷土史年表」P39/Wikipedia「東二番丁通り」(2018年現在)を参考にした
|
拡幅中の東二番丁通りは、22-24">22-24、53-20、22-25">22-25、22-26、36-06、22-23、36-05、36-04、36-03、98-028">98-028、36-06-01、22-24">22-24、22-25">22-25、201-03、98-028">98-028
/「市民の戦後史(仙台市)」P66(無電柱の東二番丁通り)/同P77(拡幅部分にはみ出した宮城学院校舎)/同P76(S28、拡幅中の東二番丁・中央通り交差点付近)/「目で見る仙台の歴史」P177(拡幅部分にはみ出した協和銀行)/「「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P133の写真33(東二番丁通り俯瞰、側方分離帯にも街路樹あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図39~40(S32年拡幅中、H8年カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年 空撮 北端のクランク状態がわかる)、同P39(S33年空撮、河北新報付近)、同P60(S38、北端)
|
北山五山 |
輪王寺 |
|
<輪王寺>
藩祖政宗に従って米沢~会津若松~岩出山~仙台と移動した伊達家の一門寺
・ 4代藩主綱村治下に、大造営
・ 1876年(M9)、山火事で焼失
・ 焼け残った山門(仁王門)は、元禄盛期の建築
北山五山は、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、光明寺
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125~126
|
「目で見る仙台の歴史」P155(輪王寺)、P71(輪王寺山門)
|
新常盤町(遊郭) |
(1)新常磐町以前 |
明治初期~1894年(M27) |
<遊廓> 「くるわ」(廓または郭と書く)は城郭のように周囲を石や土で覆い、塀などをめぐらせた一画で、ここに遊女や関係の業者だけを集中的に存在させ、官許の遊女町とすることがあった / 遊女屋は郭外での営業を禁止
<公娼と私娼> 「公娼」は、遊郭で働く法律で許可された売春婦で、鑑札(営業許可証)定期検診が義務付けられた / 多くの場合、貧民の子女が、貧しさの為に、親に手渡されるまとまった前渡し金によって、年季を定められ売春生活を余儀なくされた / 「私娼」は、許可されていない売春婦
・ 藩政時代は、仙台城下における遊女屋営業は禁止
・ 明治維新期、薩長軍相手の遊女屋(妓楼)が虎屋横丁に開業
* 1869年(M2)、国分町を中心に、遊女屋28軒が官許を得て開業開始/ 中正楼(ちゅうせい)楼、新盛楼(しんせい)、舞鶴楼(まいづる)、南幸楼(なんこう)など
* 1878年(M11)9月15日、国分町遊郭の妓楼(貸座敷)15軒が、片平丁河岸(常盤町、のちの元常盤町)に移転完了
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
(新常盤丁の名称は1894年(M27)7月15日に市会の決議による / 戦後は旅籠町と改名した) / 常盤町の川向かいに川内の第二師団兵舎があり、若い兵士の士気に影響ありと軍の圧力があり、県は移転期限をきめ移転を強要
<新常磐町(遊郭)の沿革>
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123、「仙台市史 特別編4 市民生活」P389に、記述あり
<編者注> 常盤町、新常盤町の表記は、文献により「町」と「丁」の二通りあり
<廃娼運動> 明治期~昭和戦前期の宮城県内の廃娼運動については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P392~393に記述あり
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123/「仙台市史 年表」P82、P88、P89/「重訂 宮城県郷土史年表」P330/「仙台市史 特別編4 市民生活」P393、P392~393
|
99-033、98-079/「目で見る仙台の歴史」P118に、国分町の貸座敷「南幸楼錦絵」(のち明治4年に中正楼)と「常盤町の妓楼街」
|
敗戦後の諸相・仙台 |
治安悪化、犯罪多発 |
昭和20年代 |
終戦後の混乱期、食糧難や貧困の時代、治安悪化し各種犯罪が多発、刑務所が収容定員超過 / 成人の犯罪が昭和24年を峠に減少傾向、一方青少年犯罪が逆に増え、しかも強盗、暴行、放火など凶悪犯が増加
・ 具体的事例は、→ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P745からの第十一章第一節「警察と公安」参照
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」第十一章第一節「警察と公安」
|
|
NHK東北児童唱歌コンクール |
荒町国民学校が優勝 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)11月10日、東北6県から国民学校代表12校参加、第1位に荒町国民学校、第2位に宮城師範女子部付属国民学校 / 「このころ二部授業や青空教室で不自由な思いをしていた児童や父兄の憂鬱を吹き飛ばした」
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P94
|
|
スポーツ大会(戦後復興期) |
中等学校野球全国大会 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)8月、旧制仙台二中が「夏の甲子園」に東北代表で出場、浪花商業、下関商業を破り、ベスト・フォーに残る
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P94
|
|
スポーツ大会(戦後復興期) |
戦後・仙台一中対二中の野球定期戦復活 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)5月、旧仙台一中対二中の野球復活第1回定期戦(市営澱球場) / 戦時中は中断し4年ぶりに復活した定期戦で、戦後の東北地方では初の野球試合 / 32対27で二中の勝利、7回表までの試合時間が4時間50分 / 「野球用具の入手も困難な時期でスパイクをはいているのは選手の半数ぐらい、1塁塁審の二中OB氏は学生服と兵隊靴、3塁塁審の一中OB氏は復員姿そのままといったスタイルであった。」
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P93
|
|
戦災復興都市計画事業 |
制度、計画など |
1946年(S21)~1961年(S36) |
* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興都市計画基本方針決定
* 1946年(S21)4月15日、仙台市復興委員会開催(学識経験者と市会議員から委員64人)
* 1946年(S21)4月20日、戦災復興院特別建設出張所設置
* 1946年(S21)5月、仙台市は「戦災区域」の指定をうける
* 1946年(S21)5月5日、仙台市役所復興局(2部7課)設置
* 1946年(S21)5月9日、仙台都市復興都市計画土地区画決定
・424haの土地区画整理、23路線(2万4000m)の都市計画道路、13か所(51.7ha)の公園緑地、墓地計画、学校移転、無電柱街路計画など
・S26年とS29年に事業区域が縮小されて、最終的な施工地区は市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)に変更された
* 1946年(S21)8月15日、戦災都市における建築物の制限に関する勅令を仙台市に適用
* 1946年(S21)10月9日、特別都市計画法、仙台市に適用
* 1946年(S21)10月10日、仙台市役所に仙台復興局を置き復興計画方針決定(五か年計画の樹立)
* 1946年(S21)10月、戦災跡地ガス供給管被害箇所復旧
* 1947年(S22)2月17日、仙台特別都市計画事業復興土地区画整理及び執行年度割決定
* 1947年(S22)6月4日、戦災復興院宮城建築出張所設置
* 1947年(S22)6月11日、仙台都市計画公園変更決定
* 1947年(S22)12月12日、仙台復興都市計画土地区画整理委員選挙
* 1947年(S22)12月31日、仙台市に適用の都会地転入抑制緊急措置令解除
* 1961年(S36)3月27日、仙台市戦災復興都市計画事業完了、完工式(総額11億5千万円)、3月27日に完了記念の「こけし塔」を西公園に建設除幕式
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P90、P315~316/「仙台市史10 年表」P312~314、P316~P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P513、P519、P600/「仙台市史 年表」P121
|
|
戦災復興(応急対策) |
仙台市営ガス |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲被害>
・ 空襲で、清水小路事業所構内の建物、機械室、倉庫など8棟が全焼、ガス発生炉3基、ガスタンク3基を除いて他の機械設備51基は焼失または損傷 / 市内のガス需要家の約半分1892戸が焼け、供給管が被害
<応急復旧工事>
* 1945年(S20)10月、一応、ガス供給施設の復旧修了
10月10日から、一般需要家1200戸へ供給再開
* 1946年(S21)3月末までに、事業用建物、機械設備復旧完了
* 1946年(S21)10月、被災した供給管など一応修理完了
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315
|
|
仙台市電 |
仙台空襲被害と復旧 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(計6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315)
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P315)
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87)
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了(「仙台市史10 年表」P309)、全線運行再開(「仙台市史 年表」P113)
・仙台空襲時、全車両(52輌)は奇跡的に全車無事 / 車両は、北二番丁車庫、北仙台線、八幡町線の終点と秋保電鉄車庫に分散しており焼夷弾攻撃を免れた / 空襲被害は片平車庫が全焼、中心部各所で架線が垂れ落ちる / 復旧工事により、空襲翌日には荒町~長町間で運転再開、仙台駅前~荒町間8月3日、敗戦13日後の8月28日に全線で運転再開(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315/「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
|
35-15(仙台駅西側付近の焼け跡に市電車両が写る)
|
戦災復興(応急対策) |
仙台市電 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(あわせて6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了、全線運行再開
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
隠匿物資の摘発 |
|
<隠匿物資> 終戦のどさくさに紛れて、旧軍隊や軍需工場、官庁などでひそかに確保していた物資、それらを無償に近い安値でかき集め倉庫などに保管し、小出しでヤミで売るさばいていた物資を、公正な配給ルートに乗せるべきと摘発
(1) 市会戦後対策委員会が「隠匿摘発監視隊」を編成、各公会や警察とも連絡、場合によっては進駐軍の手を借りて摘発 / 1946年(S21)1月21日、CIC(米第9軍指令部特務機関)が、仙台鉄道局東七番丁材料品倉庫に隠してあった大量の米や酒、大量の貴金属を押収
(2) 1946年(S21)2月、日本共産党宮城地方委員会が、東北戦災者更生団、仙台民主主義連盟と共同で、隠匿物資摘発隊を組織、20数人で南材木町の某倉庫から、警察官立ち合いで、もめん、缶詰など多量の物資を摘発 / 警察は、「不正に隠匿されると思われるものはない」、摘発が住居侵入罪、脅迫罪を構成しかねない点を警告
(3) 1946年(S21)2月、宮城地方生活擁護同盟結成準備会が摘発した物資は、米1723俵(仙台市民2日分の配給量に相当)、小麦770俵、あずき、メリケン粉、ウーメン、乾パン、その他各種の食糧、衣料、燃料などおびただしい量にのぼった
(4) 仙台地方検察局が、日通仙台支店長町営業所の12の倉庫から、水銀など時価1億円相当の隠匿退蔵物資を摘発
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P83~84
|
|