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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
防空演習(防空訓練) |
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1942年(S17) |
* 1942年(S17)
4月18日、本土初空襲
(米空軍B25、16機により東京、横浜、川崎、名古屋、四日市、神戸)(「重訂 宮城県郷土史年表」P488、岩波ブックレット「年表昭和史」P19)
6月、防空指導員に対する防空講習会3回
8月1日、特別防空訓練 6日間
9月28日、総合防空訓練 3日間
12月9日、大東亜戦一周年記念防空強化運動実施
・ S17年9月、仙台市東二番丁国民学校で行われた総合訓練には、本物の焼夷弾が持ち込まれ、東二番丁警防分団、育英中学の生徒が消火訓練。
しかし、繁華街で訓練しているそばのビアホールに長い列ができて訓練どこ吹く風だった。太平洋戦争翌年で日本軍が勝ち進んでいたころで、まだ空襲の現実味がなかった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P151)
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「仙台市史10 年表」P304~P305/「「重訂 宮城県郷土史年表」P488/岩波ブックレット「年表昭和史」P19/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(2) |
1941年(S16) |
<商人・自営業者などの転・廃業> 「産業、経済の戦時再編成に伴い、配給以外の品物しか取り扱うことができなくなった商人をはじめ軍需関係以外の自営業者(中小企業)、職人、官公吏、会社員などは余剰労力とみなされ、これを国策産業へ動員するため“職域奉公の臣道を実践する国策戦士”とおだてられて転・廃業をしいられ、やがて軍需工場、あるいは鉱山へ、はては遠く満州へ農業開拓戦士(→ 参考:項目「満蒙開拓」)として送り込まれていった。」(「仙台市史 続編第1巻」P42~43)
* 1941年(S16)1月24日、大政翼賛会仙台市支部結成
* 1941年(S16)4月20日、逓信報国団仙台支部結成
* 1941年(S16)4月22日、大日本産業報国会仙台地方鉱山部会設立
* 1941年(S16)5月11日、仙台鉄道局奉公会結成
* 1941年(S16)5月26日、宮城県産業報国会創立
* 1941年(S16)7月19日、仙台市内単位商業報国会結成、市商業報国連合会(会長は市長)結成
<商業報国会> 「なかでも、戦前は城下町で繁栄した商家の多くの人々は、座して自滅を待つより新体制の公益機関に奉公すべきであると勧められ、従来の商業組合を中心に仙台市内で60余の商業報国会を結成した。市連合会も結成され、新商業道の確立をめざして“商業報国の赤誠”を発揮することを宣言、店員の錬成道場などを開催するかたわら勤労奉仕にも繰り出したが、戦争が激化するにつれ、これら余剰労力はどしどし軍需工場はおろか常磐炭鉱などへツルハシ戦士として送り込まれた」(「仙台市史 続編第1巻」P43)
* 1941年(S16)12月27日、宮城・福島昭徳会、思想国防報国団結成
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「仙台市史10 年表」P301、P303/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42~43
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防空演習(防空訓練) |
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1941年(S16) |
* 1941年(S16)5月1日、仙台市家庭防空業務規程公布(町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
* 1941年(S16)
8月15日、特別防空訓練実施(17日間)
10月12日、総合防空訓練、仙台市で実施
(* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦)
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「仙台市史10 年表」P301、P302/「仙台市史 年表」P111
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水害 |
暴風雨 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)7月22日、広瀬川氾濫
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「仙台市史10 年表」P301
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火災(地域) |
長町八本松 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)5月23日、長町八本松で30戸全焼
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「仙台市史10 年表」P298
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍幼年学校、三神峯に復活 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」復活、開校式
榴ケ岡にあった「仙台陸軍幼年学校」は1924年(T13)に廃止されるが、S13に復活(校舎は三神峯に設置)
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「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 年表」P99、P109
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東北帝国大学 |
学園に見る時代相(2) |
1936年(S11)~1945年(S20) |
<日中戦争 1937年(S12)7月7日~>
* 1938年(S13)2月1日、宮城県特高課、第二次人民戦線事件で佐々木更三、宇野弘蔵(当時は、東北帝大文学部助教授)ら14名検挙(「仙台市史10 年表」P292、「仙台市史 特別編4 市民生活」P265)
* 1939年(S14)7月10日、興亜青年勤労報国隊北支蒙彊派遣東北帝大第一班11名、仙工10名、茨城県内原訓練所に出発/9月21日帰還
* 1940年(S15)8月30日、文部省より、学生生活刷新要綱等を各地方長官、大学専門学校長等に通牒
* 1940年(S15)9月1日、満州国産業視察団興亜学生勤労報国隊帰県(東北帝大教授市原通敏統率)
* 1940年(S15)11月19日、東北帝国大学報国団結成(「重訂 宮城県郷土史年表」P479)
<太平洋戦争 1941年(S16)12月8日~>
* 1941年(S16)8月8日、文部省、学校報国団再編成を訓令(全国中等・高等・専門学校及び公私立大学の学生生徒をもって学校報国団を組織することを決定発表す)
* 1941年(S16)10月7日、東北帝国大学報国団結成式
<戦時中、大学の修業年限短縮>
* 1941(S16)年度 大学・専門学校・高等師範学校・実業専門学校など、3か月短縮し、2年9か月間に(S17年3月卒業生はS16年12月卒業)
* 1942(S17)年度~1944(S19)年度卒業生、6か月短縮
* 1945年(S20)年度卒業からは、3年間(短縮なし)
(旧制高等学校は、S17~19年度卒業予定者は、6か月短縮し、2年6か月間 / 20年度予定者は1年短縮し2年間)
<戦後>
* 1945年(S20)11月28日、法文学部学生大会
* 1945年(S20)12月1日、服部英太郎、宇野弘蔵両教授復帰
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「仙台市史10 年表」P292、P296、P301、P302、P310、/「重訂 宮城県郷土史年表」P476、P479、P484、P485
大学・旧制高校の修業年限短縮の出典は、(1)「京都大学大学文書館研究紀要第15号」(2017年)P30、(2)文部科学省HP「高等教育の戦時体制化」https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317703.htm
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博覧会・フェア |
藩祖三百年祭記念産業観光博覧会 |
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月12日、藩祖三百年祭記念産業観光博覧会
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「仙台市史10 年表」P285
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(1) |
1918年(T7)~昭和戦前期 |
<皇太子時代の行啓>
* 1918年(T7)7月7日、来仙
* 1925年(T14)10月18日~25日、摂政皇太子(のちの昭和天皇)、宮城県での陸軍特別大演習統監のため宮城県に行啓 / 大演習の間、大本営を仙台偕行社に置く
<御大典>
* 1928年(S3)11月10日に、京都御所で即位礼
* 御大典、仙台の奉祝行事(「番丁詳伝」P126)
・ 大典奉祝祭(仙台市公会堂)
・ 中心繫華街の装飾と仮装行列、東一番丁は全町軒並みに紅白幕をめぐらし、電飾もあった
・ 奉祝大売り出し実施
・ 仮装行列(10日)は午後1時から3時間半で、行列は長さ3丁に及び、コースは公会堂(西公園)~大町一丁目~芭蕉の辻~国分町~表小路~県庁前~勾当台通~定禅寺通~東一番丁~大町五丁目~新伝馬町~名掛丁~仙台駅前~南町通~東二番丁~商工会議所で、各町内仮装出し物の記述あり
・ 奉祝菊の花展覧会(会場は、南町の鈴喜陶器店の中庭)
<昭和の行幸>
* 1928年(S3)10月、仙台偕行社に御駐泊(4日と10日)、(岩手県内における陸軍特別大演習御統監のため)(この演習に第二師団も参加)
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<皇太子(のちの平成天皇)生誕祝賀>
* 1933年(S8)12月29日、皇太子誕生仙台市民奉祝大会
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「仙台市史10 年表」P282/「仙台市史 年表」P98、P103/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P413、P414/「番丁詳伝」P126、P127
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98-061 (大正14年、摂政宮殿下、偕行社で市民の歓迎をうける)
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銀行(地域の銀行) |
東北貯蓄銀行 |
1934年(S9)~1945年(S20) |
* 1934年(S9)1月20日、東北貯蓄銀行は、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行が合併し、(旧)大町五丁目に設立された(東北実業貯蓄銀行はT4年に本店を志田郡古川町から仙台市に移転)
* 1945年(S20)4月10日、東北貯蓄銀行、七十七銀行へ営業譲渡契約書に調印、一県一行体制が完成
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「仙台市史10 年表」P282、P309/「仙台市史 年表」P107、P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P439、P504
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東北貯蓄銀行の仙台七夕飾り物「貯蓄校」は20-53、同「東北振興丸」は、83-04
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仙台市紋章 |
制定 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)9月5日、制定
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「仙台市史10 年表」P281
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霞目飛行場(仙台飛行場) |
落成~終戦 |
1933年(S8)~ |
<戦前は、軍用→逓信省→軍用>
* 1932年(S7)12月、時局匡救事業として仙台に飛行場工事を起す
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し、7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)3月27日、仙台飛行場落成式(「仙台市史10 年表」P280、「仙台市史 年表」P107)
* 1937年(S12)4月1日、東京・札幌間(仙台、青森経由)で定期航空路開設(「仙台市史 年表」P109、「仙台年表」P207=出典:毎日新聞、「仙台あのころこのころ八十八年」P247) / 日本航空輸送のフォッカー・スーパーユノバーサル機(旅客6人乗り)が発着した。 冬季は休便を強いられ効率が悪い上、中国との開戦が影響して、1938年(S13)に休止(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1938年(S13)9月10日、航空局仙台乗員養成所、落成開所式(「仙台市史10 年表」P294、重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 太平洋戦争開戦とともに陸軍が仙台飛行場の拡張と整備を重ね、航空機乗員養成所、軍用機操縦訓練施設として使用。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
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「宮城県百科辞典」P188の「霞ノ目飛行場」
* 1933年(S8)、軍の飛行場として完成
* 1938年(S13)、逓信省臨時航空機乗員養成所
* 1944年(S19)、陸軍航空部隊が使用
「仙台年表」P203(出典:河北新報26.10.1)
<編者注:以下の内容は多分間違いか?>
* 1932年(S7)、逓信省航空乗員養成所として、七郷村霞目飛行場開設
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<松島の海軍飛行場>(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
このほか、戦前の軍用飛行場に「松島海軍航空隊」の飛行場があった。
* 1942年(S17)5月、3本の滑走路完成(S16年12月に矢本の国有林300haと65名の田畑買収) 戦闘、補給、管理の3部隊約1000人を配置。一式陸上攻撃機20~30機、爆撃機銀河約50機、夜間戦闘機月光5~6機の一大航空基地
* 敗戦後は米軍(第11空挺師団188連隊)が進駐、隣接地も接収し拡張
* 講和条約締結後返還され、航空自衛隊の基地(ブルーインパルスも所属)
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「仙台市史10 年表」P280、P294/「仙台年表」P203、P207/「仙台市史 年表」P107、P109/「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「宮城県百科事典」P188/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155、P156
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戦前は、「目で見る仙台の歴史」P161/02-01、02-02
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土井晩翠 |
歌碑、詩碑 |
1952年(S27) |
<樗牛瞑想の松の歌碑>
・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)
<荒城の月詩碑>
* 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328)
* 1952年(S27)8月11日、荒城の月四節全文、青葉城址に建立、除幕式(「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台市史 続編第2巻]P270)
・ 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が荒城の月詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189)
<詩碑「天地有情」>
* 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置
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「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P270/「市民の戦後史(仙台市)」P70/「仙台市史 続編第2巻」P189
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(荒城の月詩碑)/「目で見る仙台の歴史」P137に「晩翠肖像写真」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(晩翠草堂と詩碑)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑、市葬)
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水害 |
豪雨 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月6日、豪雨で河川氾濫、床下浸水140戸
* 1952年(S27)9月28日夜から29日にかけ、宮城県一帯に50~70ミリ程度の豪雨、各地で洪水
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「仙台市史10 年表」P328
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スポーツ大会(戦後復興期) |
宮城県高校総合体育大会(第1回) |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)5月23日、第1回県下高等学校総合体育大会始まる
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「仙台市史10 年表」P328
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進駐軍(米軍) |
24師団 |
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* 1952年(S27)2月17日、GHQ、朝鮮戦線帰還の米軍24師団、仙台地区に駐留と発表
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「仙台市史10 年表」P327
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県営宮城野原陸上競技場 |
宮城県営/仙台市営 |
1951年(S26)/2009年(H21) |
<「宮城百科事典P1007」より>
・ 戦前の宮城野原練兵場跡地の宮城野原公園総合運動場にある陸上競技場
・ 特に陸上競技場の走路はアンツーカー舗装で、当時東洋一といわれた程、整備された施設であった
・ オープン早々、S27年の第7回国体秋季大会の会場の1つとなった
* 1951年(S26)8月10日、宮城県営宮城野原陸上競技場開場
* 1951年(S26)8月16日、日米陸上仙台大会開催
* 1952年(S27)10月19日~23日、第7回国民体育大会、宮城・福島・山形県で開催、宮城野原総合運動場が、宮城県の主会場となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P559では、10月20日から5日間)
・ 開会入場式終了後、市内の女子高校生600人がマスゲーム「荒城の月」を披露 / その前夜、土井晩翠が晩翠草堂で永眠を場内アナウンスで伝える(「仙台市史 続編第2巻」P271)
* 1956年(S31)10月6日、第40回全日本陸上競技大会開催
* 1988年(S63)7月16日、陸上競技場改築落成
<仙台市陸上競技場となる>
* 2009年(H21)4月1日、仙台市に譲渡され、「仙台市陸上競技場」となる
* 2017年(H29)4月、弘進ゴムが命名権を取得し、愛称が「弘進ゴム アスリートパーク仙台」となる
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「仙台市史10 年表」P326/「仙台市史 年表」P117、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P547、P551、P559、P583/「続・ 宮城県郷土史年表」P249/「宮城百科事典P1007」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271/Wikipedia「仙台市陸上競技場」2020年6月7日版
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14-06、14-04/「目で見る仙台の歴史」P189(グラウンドで女子生徒たちのマスゲーム)
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進駐軍(米軍) |
予備軍団(第16軍団) |
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* 1951年(S26)4月13日、GHQ、仙台に予備軍団設置を発表(総司令官アーレン少将)
* 1951年(S26)5月12日、仙台所在の総司令部予備軍団を、第16軍団と改称
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「仙台市史10 年表」P325/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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「市民の戦後史(仙台市)」P74(16軍団長と岡崎市長)
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イールズ事件 |
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1950年(S25) |
GHQのイールズ博士による「大学制度についての講演会」開催に反対抗議しデモなど行う(「目で見る仙台の歴史」P186)
* 1950年(S25)5月2日、東北大学生、イールズ博士演説反対闘争開始 / GHQ宮城県軍支部が仙台市警察に対し、職務執行妨害の疑いで、学生4人の逮捕を命じる / 6月5日、学生14名処分(3名は退学、停学、譴責あり)/ 7月6日、学生2名追加処分
・ 連合国総司令部CIE教育顧問のイールズ博士は全国各地で「赤色教授は学問の自由に反する。学問と学園の自由のために大学は共産主義思想を持つ教授を追放する権利をもつ」と講演してまわった。東北大学での講演には600名参集、学生と押し問答あり、公演中も妨害あり中断、流会となった。」(「番丁詳伝」P171)
<参照> 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98に、イールズ事件の詳述あり
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「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P542~543/「番丁詳伝」P171/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96~98
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・「目で見る仙台の歴史」P186(学内の掲示を見る学生たち)
/・「東北大学本部前で学生たち座り込み」は、「市民の戦後史(仙台市)」P62と「仙台市史 特別編4 市民生活」P535と「新・目で見る仙台の歴史」P179に
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河北遊園地 |
開園 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)7月2日、開園(仙台市史10年表」P323)
(「重訂 宮城県郷土史年表」P542では、「昭和25年4月、河北新報社計画のもとに子どものため天神社境内西隣に榴ケ岡遊園地を特設し、河北遊園地と称す」)
* 1950年(S25)4月、河北新報社では、榴ケ岡公園などに「東北子供博覧会」を開いた。博覧会終了後、同社は榴ケ岡の天神社境内に博覧会の施設を活用して「河北遊園地」を開園した。」(「仙台市史 続編第2巻」P199)
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「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P541、P542/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P199
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16-50
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博覧会・フェア |
東北こども博覧会 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)4月20日から、榴ヶ岡公園などで開催(河北新報社主催)(「重訂 宮城県郷土史年表」では、3月開催)
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「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P541
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16-49、16-51/「市民の戦後史(仙台市)」P65
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仙台復興祭グランドフェア |
実施 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)4月20日~5月31日、仙台市制施行60周年記念事業として実施 / 会場は西公園 / 歓迎のため、仙台駅西口広場に「こけし塔」を設置、のち広告塔として利用された / フェアにあわせ、仙台駅付近に河北ショーハウス建設
・「仙台市史 続編第2巻」P199に「昭和24年、戦後の混乱期も一応おさまり、食糧危機も次第に緩和され、人心も落ち着いてきたので、仙台市は、仙台復興祭グランドフェアを西公園で開いた。」
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「仙台市史10 年表」P321/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台市史 年表」P116/「仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P199
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こけし塔は、20-08、16-18、16-19、16-20/「目で見る仙台の歴史」P174に、グランドフェアで市役所夜間照明/「市民の戦後史(仙台市)」P46(会場前のこけし塔)
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台風被害(戦後) |
アイオン台風 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)9月16日~17日、広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / (仙台で?)堤防決壊28か所、橋梁流失15か所、道路損壊32か所、仙台鉄道七北田鉄橋の流失を受け代行バス輸送 / (県内で)家屋流失121戸、倒壊254戸、浸水家屋3万3000余戸、田畑被害も甚大
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「仙台市史10 年表」P319/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P529
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火災(地域) |
国分町虎屋横丁 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)10月2日、国分町虎屋横丁13戸焼失
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「仙台市史10 年表」P319
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台風被害(戦後) |
ユーニス(ユーリス?)台風 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)8月11日~13日、で、宮城県内被害、家屋流失倒壊23戸、浸水4300余戸、田畑冠水2万2900余町歩
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「仙台市史10 年表」P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P528
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特別調達庁 |
仙台支局設立 |
1947年(S22) |
<国立公文書館アジア歴史資料館「アジ歴グロッサリー」より> 特別調達庁は、1947年(S22)年9月、法律第78号「特別調達庁法」により公法人として設置。業務内容は、連合軍関係の設営工事の契約・連合軍需要品の調達・連合軍の需要する労務その他の役務調達・連合軍関係の設営に伴う設計調査の受託など。連合国軍の占領政策の縮小に伴い再編され、1952年(S27)に調達庁と改称、1958年(S33)には防衛庁の外局となり、1962年(S37)に防衛庁建設本部と合わせて防衛施設庁となった。
* 1947年(S22)12月10日(または、翌年1月)、特別調達庁仙台支局設立
* 1948年(S23)1月、特別調達庁仙台支局業務開始(県庁内に事務所)
* 1949年(S24)6月1日、仙台特別調達局と改称
* 1950年(S25)1月14日、仙台特別調達局全焼
* 1952年(S27)4月1日、仙台特別調達局、仙台調達局と改称(駐留軍施設及び区域提供、その損害補償の業務を開始)
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「仙台市史10 年表」P317、P319、P321、P322、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P524、P540、P555
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台北消防団/仙台南消防団 |
1948年(S23) |
* 1947年(S22)5月1日、消防団令公布
* 1948年(S23)1月20日、「仙台北警防団」・「仙台南警防団」が解散し、「仙台北消防団」・「仙台南消防団」が発足
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「仙台市史10 年表」P316、P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P524
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戦後教育・仙台 |
新制中学校発足 |
1947年(S22) |
<新制中学校>
* 1947年(S22)3月31日、仙台市立中学校19校、市立高等学校6校設置(「仙台市史10 年表」P315)
* 1947年(S22)4月1日、仙台市で29校の新制中学校開校
(「仙台市史年表」P115) / <編者注> 29は、市立18、官立1、私立10の合計
<市立中学校の校舎建築>(仙台市史 続編第1巻)
・ 市立新制中学校は18校
・ 五橋など旧高等小学校4校はそのまま中学校に移行したが、14校は校舎がなく学区内の小学校に併置、授業は小学校教室を借りての二部授業だった
・ S27年までに18校校舎が新築され二部授業は解消したが、引き続き生徒増加に追われながら新増築が進められた
・ S28~S39年度、屋内体育館建設
・ 各中学校校舎等建築状況→「仙台市史 続編第2巻」P328~330
<戦後ベビーブームで、生徒激増>
・ S35年度から激増し、S37年度にピーク
・ S27年度~37年にマンモス校解消のため、中学校3校新設(西多賀、郡山、台原)
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「仙台市史10 年表」P315/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P517/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95~96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P327~330
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戦後教育・仙台 |
国民学校から小学校へ |
1947年(S22) |
<空襲で焼失 国民学校・中等学校>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、市中心部の国民学校5校(全焼4校、半焼1校)、旧制中等学校(全焼13校) / 2学期から、近くの学校校舎の一部などを借用し、二部授業
(→ 具体例は、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318)
<国民学校から小学校へ>
* 1947年(S22)4月、新制小学校発足(市立26校、官立1校)
<戦後、校舎火災頻発>
* 1946年(S21)~1949年(S24)、南材木町国民学校、榴岡国民学校、片平丁小、高砂小、八軒中
<空襲被災、戦後焼失学校の校舎再建> ( )内は再建年月
・ 木町通小(S22.6)、西多賀小(S22.8)、榴岡小(S22.11 騎兵隊跡改装)、東二番丁小(S23.3)、立町小(S24.4)、片平丁小(S24.5)、南材木町小(S25)
<人口急増対応>
* 1948年(S23)~1968年(S43)、人口急増に対応し、市立16小学校新設、生出村編入で2校増加
* ベビーブーム対応で、8校新設
・ S29年度から小学校児童激増、S34年度にピーク
・ S28年度~S33年度に、東長町、小松島、若林、国見、宮城野、荒巻、鹿野、台原の各小学校新設
* 人口のドーナツ化、周辺部急増で、6校新設
・ S40年度~43年度に、四郎丸、新田、旭丘、遠見塚、中山、八本松の各小学校新設
<PTA>
* 1947年(S22)11月11日、仙台市小中学校父兄教師会(PTA)連合会創立
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「仙台市史10 年表」P315、P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P522/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95~96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318~321、324~326
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「新・目で見る仙台の歴史」P181(S23年、仙台市立第二中学校で青空卒業式)/「市民の戦後史(仙台市)」P184(ドーナツ化現象で郊外小学校すし詰め教室)
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在住朝鮮人大会 |
開催 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)3月1日、宮城県在住朝鮮人大会
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「仙台市史10 年表」P315
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政党県支部など(戦後) |
日本共産党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月25日、日本共産党宮城県支部演説会開催
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「仙台市史10 年表」P311
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戦後復員/引揚げ |
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* 1945年(S20)12月7日、東北復員監督部、仙台に設置
* 1946年(S21)6月9日、海外引揚者更生連盟結成大会
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着
* 1946年(S21)12月15日、東部復員連絡所仙台支部設立
* 1947年(S22)2月20日、宮城県引揚者生活権確立大会
* 1947年(S22)4月12日、樺太引揚者第1陣60名、仙台駅着
* 1953年(S28)3月28日深更、中国からの引揚第1陣仙台到着
* 1956年(S31)7月、第13次中国帰国船(興安丸)
* 1956年(S31)7月、ハルビン地区関係死亡者名簿、東北地方だけで7405人の氏名が新聞一面を埋める
* 1956年(S31)12月末、最後のソ連引揚1025人、舞鶴に到着
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「仙台市史10 年表」P310、P313、P315、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、P516、P552/「仙台年表」P208/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P273、P282
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「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太から引揚第1陣)/同P171と「市民の戦後史(仙台市)」P44(シベリアからの復員軍人仙台駅着)/「市民の戦後史(仙台市)」P26~27(県議会議事堂で引揚促進大会、仙台駅に設けられた引揚者相談所看板、引揚者に茶のもてなし、樺太引揚者)
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市銃後奉公会 |
1939年(S14)4月~ |
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
* 1939年(S14)4月1日、仙台市兵事義会を「仙台市銃後奉公会」と改称
・ 仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
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「仙台市史10 年表」P295/「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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ヒトラーユーゲント一行が来県 |
来県 |
1938年(S13)9月 |
ドイツから日独親善のため来日したヒトラーユーゲント一行が宮城県に来県
* 1938年(S13)9月11日、ヒトラーユーゲント派遣団歓迎招待会開催
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「仙台市史10 年表」P294/「重訂 宮城県郷土史年表」P464
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19-01/「新・目で見る仙台の歴史」P160
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第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会 |
開催 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)
<「わしが国さ」昭和8年2(?)月号P2「満蒙軍事博覧会」より要約> 展示館は、満州国大パノラマ館、陸軍館(新兵器、満州事変上海事変戦利品)、海軍館(陸軍館と同様)、第二師団戦勝館(各種兵器、軍刀、血染めの軍服、遺品)、産業館、特設館、日本伝説お化け館、お伽の国館、特設海女館(豊麗なる十数名の海女が水中にて種々なる妙技を実演)、演芸館(歌舞、映画、演劇等)
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「仙台市史10 年表」P280/「わしが国さ」昭和8年2(?)月号P2
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多門師団凱旋 |
仙台帰還(凱旋) |
1933年(S8)1月 |
陸軍第二師団(多門二郎師団長)は、満州駐箚中に起きた満州事変(S6年9月~)で満州各地を次々に占領 当時の市民は、その「武勲」に熱狂した
・ 第二師団の戦死者は約300人、凍傷・負傷者約1500人(「新・目で見る仙台の歴史」P160)
* 1933年(S8)年1月7日~9日と13日、市民あげて歓迎する中、第二師団が仙台に凱旋した
・ 凱旋歓迎に動員された児童生徒は「凱旋凱旋ああわが勇士」(多門師団凱旋の歌)と歌った
・仙台駅前から南町通りを経由して、川内の第二師団まで凱旋行進(師団長ら師団司令部は8日「凱旋」)
・南町通りは、1月7日市会の決議により、この日から師団長の名にちなんで「多門通り」と改称された → 項目「多門通り」参照
・1月8日、戦勝祝賀花電車(市電)
・2月19日、宮城県愛国連盟・仙台市教育会主催、対国際連盟大講演会・県民大会開催
・2月24日、国際連盟、リットン報告を採択
・3月27日、日本、国際連盟を脱退
・4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)→<参照>項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」
* 1934年(S9)12月、仙台市昭忠記念堂除幕式(青葉山公園)
昭忠記念堂は、満州事変で「武勲」をたてた多門二郎師団長指揮下の第二師団を記念し、本丸跡上り口に建造(近くには多門師団長の胸像もあったが太平洋戦争中の金属供出により台座だけが残されていた)→ 仙台城石垣修復事業にともない平成16年に撤去
<参考> 写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述)
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「仙台市史10 年表」P280) /「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P204/「新・目で見る仙台の歴史」P160
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65-02、65-04、65-01、98-081、98-082、98-083、65-03、65-05、65-06、65-07 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128/「目で見る仙台の歴史」P168/「新・目で見る仙台の歴史」P160/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
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七十七銀行 |
他行を合併 |
1927年(S2)、1932年(S7) |
<他行を合併>
* 1927年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409)
* 1931年(S6)11月27日、東北実業銀行、五城銀行と合併仮契約書(「仙台市史10 年表」P277)
* 1932年(S7)1月31日、七十七銀行が、東北実業銀行、五城銀行と合併し、七十七銀行に(「重訂 宮城県郷土史年表」P429)
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P356」より>
「七十七銀行は、第一次大戦後は、『米の七十七、繭の商銀』とうたわれ、宮城商業銀行とともに、県内各地に支店網を形成していった。 しかし(片倉製糸などの器械製糸工場におされて、取引先の)座繰製糸の不振によって、宮城商業銀行は大きな不良貸し付けを抱えることになり、1927年(S2)の金融恐慌をきっかけとして、仙台興業銀行ともに七十七銀行に合併されることになった。 さらに、七十七銀行は金融恐慌のさなかの1932年(S7)に東北実業銀行と五城銀行を合併し、仙台を中心とした地方の金融機関として生き残っていくことになる。」
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「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P429/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356
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第二師団(出兵記録)(2) |
出兵記録(凱旋・慰霊などを含む) |
明治年間(2) |
<日清戦争>
* 1894年(M27)10月29日~11月3日、第二師団が遼東半島・山東半島への出征のため、長町軍用駅から出発(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月20日~21日、日清戦争戦死者の臨時大招魂祭、榴ケ岡で行われる(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月22日、宮城県凱旋部隊歓迎会(挹翠館)
(「仙台市史10年表」P210)
<日露戦争>
* 1904年(M37)2月17日、第二師団、長町駅から出兵を始める(「市史年表」P92)
* 1905年(M38)12月24日、第二師団師団司令部凱旋、日露戦役凱旋式を挙行(「仙台年表」P180 =出典:第二師団司令部「仙台城沿革」S12年刊)
* 1906年(M39)4月1日、第二師団臨時招魂大祭、宮城野原練兵場で行われる(「市史年表」P93)
<韓国駐箚>
* 1910年(M43)4月、第二師団、韓国守備に派遣される(市史年表P95)
* 1910年(M43)4月8日、師団司令部は韓国駐箚のため仙台を発つ(Wikipedia「第二師団」)
* 1912年(M45)4月24日、師団司令部が朝鮮より仙台に帰着(Wikipedia「第二師団」)
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「仙台市史10 年表」P210/「仙台市史 年表」P89、P92、P93、P95/「仙台年表」P180/Wikipedia「第二師団」/「宮城県の百年」P99
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「新・目で見る仙台の歴史」P136(日清戦争で長町臨時停車場からの出発風景/「出征」する軍馬)/「目で見る仙台の歴史」P131(日清戦争で「長町から乗車出征する第二師団」「凱旋門」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P302~303(長町停車場で日清戦争出征将兵見送り、絵図「同戦争からの帰還を迎える市民たち」)/同P306(日露戦争凱旋門と帰還兵士を迎える市民たち)/「新・目で見る仙台の歴史」P136(「日露戦争将兵の帰還」/「正装の日赤従軍看護婦たち」)/同P137(「仙台の日露戦争凱旋門」/「軍事郵便」)「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?)
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仙台の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(3) |
1960年(S35)~1968年(S43)頃 |
・ 連続の豊作記録と、消費の拡大によって、S34年のはじめから拡大をはじめていた東北の経済は、35年も引き続き高水準の成長を示し、民間企業317工場の設備投資額が、S33~35年には、毎年2倍くらいずつ伸び、事業所得も順調に伸長した。このような景気上昇を支えていたのは、いぜんとして農村を中心とする消費需要であった。
・ 昭和37年は、東北は全体として鉱工業生産の若干の伸び悩みがみられたものの、米の連続豊作や底堅い消費によってささえられている仙台の経済活動はますます活発になったのであり、その中で中央資本と結びついた大型スーパーの進出が相次いだ。
・ 日本経済は、昭和39年~40年に戦後最大の不況を迎えるが、当初は影響はそう大きくなく、昭和38年もまた連続豊作が続き農村での堅調な消費が、年末から再び行われた金融引き締めによる鉱工業生産の出荷のびなやみを大幅にカバーすることになった。
・ しかし、工業製品の出荷や在庫の動きを手始めに、次第に景気後退があらわれ、39年秋には企業倒産が深刻、不渡り手形も激増、市内百貨店の売り上げ増も39年12月は前年同月の8%増にとどまり、米代金の流入停滞や漁業不振も重なり、東北にも不況の波が押し寄せた。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P745~762の「第九章第三節 景気と金融の三 飛躍への道」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(2) |
1950年(S25)~1959年(S34) |
・ 全国的には、昭和25年勃発した朝鮮戦争による特需が、停戦により景気後退が始まる中で、26年は米の大豊作、豊漁、27年も農水産物好調で、仙台の商業も活況、第一次産業の堅調にもっぱら依存しながら、仙台の経済は本格的な復興の段階にはいる。
・ 昭和28年の冷害凶作、29年の米価切下げによるデフレ浸透のあと、30年は空前の豊作で農家経済は一挙に好転(宮城県内の稲作収入は前年比46%増)、ナタネ、麦、繭なども豊作、サンマ中心に水産業の水揚実績は戦前戦後通じて最高を記録、このため工業も食品加工業が活況、他の工業は中央の動向を反映し依然不況ではあったが、東北では工業の比重が低いため他の先進地に比べ不況の程度は少なく、東北の全体経済には影響が少なかった。
・ 仙台のデパートは、29年末の売上から戦後最高を記録、東一番丁や中央通りの商店街の増改築が目立って増え始める
・ 昭和31~32年も、米作3年続きの豊作、水産業はサンマ漁獲減にもかかわらず比較的順調で、消費需要の堅調に支えられ商業中心に伸長を続けた(全国的にはこの時期の景気は重化学工業の発展による消費需要だったが、仙台や東北はそれに直接依存するものではなかった。31年の工業出荷額、全国は前年比23%増、宮城はわずか5%と自然増程度。)
・ 昭和30年代は、食管制度に支えられて、ともかくも安定している米作を中心とする第一次産業へ流れ込んだ資金が、農村を背景とする消費の堅調を通じて第三次産業を媒介にしながら、仙台を中軸とする都市の金融機関に集中する。この資金が都市銀行に集められて、太平洋ベルト地帯などの先進地域における重化学工場の成長資金として利用された。
・ 先進地帯の重化学工業中心の経済成長のために、東北は農業、特にコメを中心とする食糧の供給、次に東北開発の一環として行われた各種自然資源の供給、さらに農村からの労働力の供給、そして金融面では成長資金の供給をも担当することになったのであり、仙台はそれらの供給業務に伴う管理中枢の機能を集積していくことになるわけである。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P732~745の「第九章第三節 景気と金融の二 再建の足取り」から、農業にかかわる部分のみを抜粋
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仙台市の農村・農業(戦後) |
農漁業が支えた戦後経済(1) |
昭和20年終戦~昭和24年頃 |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732>
・ 昭和20年は明治38年以来の凶作で米が大減収、農家は供出よりも自家飯米の確保に忙殺された。
・ 昭和21年には米をはじめ水産業でも収穫が急速に回復、その上、インフレと食料不足にもとづくヤミ取引の横行により生産県である宮城県の農家経済は異常な現金収入に恵まれ、昭和22年、23年と連続して台風被害による米の減収があったとはいえ、全体として農家はヤミ取引による現金収入で潤い、戦後という異常な時期の特色を示していた。
・ 終戦から昭和24年ごろまでの特徴は、戦争による経済の破壊は大きかったが、仙台の経済が農村に依存していたために、農家のインフレ景気に支えられて、都市部の疲弊にもかかわらず相対的には商業を中心に活動が開始されていた。特に金融は農村からの預金の集中があったために、それを貸し出しに回すことができた。
・ 昭和24年のドッジ・ライン以降、デフレへの経済転換の中で、農村の景気が終わりを告げ、そのために経済が沈滞し金融面にも大きく影響した。
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P368>
・ 第二次大戦後の仙台市の経済は、ほとんど休眠の状態に陥ったといえる。産業は沈滞を極め、農業も労働力の絶対的不足で農地は荒れ、食糧事情は窮迫していた。
しかし、都市部の経済がまだ混乱が続く中で、米の生産量は増加し、仙台近郊の農家は、現金収入を増加させていった。 農村景気の出現である。この農村の余剰資金が仙台に集中し、それが産業復興の資金としての役割の一部をになったといえる。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P725~732の「第九章第三節 景気と金融の一 復興のあゆみ」から、農業にかかわる部分のみを抜粋/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
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物価上昇 |
高度成長期 |
1961年(S36)~1973年(S48) |
* 1961年(S36)8月、市内物価指数が前年同月比7.9%上昇
* 1963年(S38)9月、市内のし尿汲み取り料70%値上げ
* 1963年(S38)、物価大幅上昇 / 背景に建築ブーム、生産者米価大幅引き上げ、労賃高騰、公務員のベースアップ
* 1966年(S41)2月27日、春闘共闘委員会、「物価値上げ反対・生活危機突破国民大会」開催(物価メーデー)
* 1966年(S41)3月5日、国鉄運賃値上げ、旅客31%
* 1969年(S44)5月9日、国鉄運賃15%値上げ
* 1970年(S45)3月11日、仙台市営バス、平均31%値上げ
* 1972年(S47)2月24日、宮城県生活協同組合を中心に物価値上げ反対仙台市民会議結成
* 1972年(S47)4月1日、国鉄運賃改正
* 1972年(S47)秋、物価上昇率(仙台)、前年度同月比で15%超(「仙台市史 特別編4 市民生活」P544)
* 1972年(S47)12月1日、仙台市電の均一料金を40円に(10円値上げ)(「続・ 宮城県郷土史年表」P15)
* 1973年(S48)4月2日、<全国の地価>建設省、1973年1月1日現在の地価発表(前年比30.9%の暴騰)
<第1次オイルショックで、物価上昇、物不足、不況>
* 1973年(S48)10月25日、オイルショック発生
* 1973年(S48)11月5日、物価大幅上昇(チリ紙150%、砂糖51%、牛肉42%上昇)
* 1973年(S48)11月、12月、灯油大幅に値上がりなど、物価急上昇
* 1973年(S48)11月23日、ガソリンスタンド、日曜・休日、休業
* 1973年(S48)秋、ガソリン、紙、洗剤など品不足
* 1973年(S48)12月、紙不足で、新聞・雑誌のページが減る
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P714、P718、P720/岩波ブックレット「年表 昭和史」P46、P54/「重訂 宮城県郷土史年表」P624、P649、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P8、P15/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P67/「仙台市史 特別編4 市民生活」P544
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「新・目で見る仙台の歴史」P198(S41年物価メーデーで風船を手に婦人たちがデモ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P545(S40年代、物価メーデー集会)
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博覧会・フェア |
科学博覧会 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)9月末~11月初め、開催
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P712
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自衛隊 |
宮城県内(警察予備隊、保安隊時代) |
1950年(S25)8月~1954年(S29) |
<警察予備隊>
* 1950年(S25)8月10日、警察予備隊令公布 / 隊員募集に志願者殺到、宮城県内でも応募者1000人を超える / 8月20日までに県内で7575名が応募、365名合格(第1次入隊)
* 1950年(S25)8月23日、東北6県の第1次合格者1194名が仙台管区警察学校に入る
* 1950年(S25)、その後の入隊者を含め、創設当時の警察予備隊員、東北地方からの約7000人が、米軍苦竹キャンプに4か月間駐屯、米軍顧問機関の指導や訓練を受ける(朝鮮戦争開戦で、米軍第一空挺師団が去り、一時的に空いていた / その後米第一騎兵師団が交代駐屯) / その後、宮城県船岡、山形県神町、青森県八戸などの米軍キャンプ内に隊舎がつくられ、隊員は一時そこに分駐するが、そのほとんどは後に関東や北陸での任務にまわされたという
<保安隊>
* 1952年(S27)7月、警察予備隊と新設の海上警備隊を統合的に指揮する、保安庁設置 / 警察予備隊を「保安隊」、海上警備隊を「警備隊」とし改編 / 保安隊発足当初、東北地方の駐屯地は、宮城県の船岡、青森、秋田の3か所 / その後、郡山、福島、大湊が加わる
* 1954年(S29)、保安庁が改組され防衛庁になり、「保安隊が「陸上自衛隊」に、警備隊が「海上自衛隊」になる
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333
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34-47 (東北管区警察学校)
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自衛隊 |
宮城県内(自衛隊) |
1954年(S29)~ |
<陸上自衛隊>
* 1954年(S29)、保安隊から「陸上自衛隊」への改編にあわせ、第六管区(東北6県と新潟県を管轄)を新設(総監部は暫定的に福島) / S31年に、青森と岩手は管轄外に
* 1954年(S29)12月5日、陸上自衛隊多賀城駐屯地創設
* 1955年(S30)3月19日、第六管区総監部駐屯各部隊の主力が福島から多賀城駐屯地に移動(宮城県内は、多賀城に総監部、普通科連隊、武器・通信・補給部隊、船岡に補給整備支援群部隊、大和に特車と偵察部隊を配置)
* 1955年11月1日、米軍松島キャンプ跡に自衛隊第二操縦学校を開設
* 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設
* 1958年(S33)3月25日、原町苦竹(旧苦竹米軍キャンプ)に陸上自衛隊南仙台駐屯地を設置
* 1958年(S33)6月、原町苦竹に北仙台駐屯地設置
* 1960年(S35)1月13日、仙台駐屯地に東北方面総監部が発足(全国を5つの方面管区制に移行、東北地方は東北方面隊が統括)
* 1960年(S35)、仙台南と仙台北駐屯地を統合し、「仙台駐屯地」に
* 1962年(S37)、第六管区隊を第六師団、第九混成隊を第九師団と改称)、第六管区隊の総監部は、山形県東根市の神町(じんまち)に移され、多賀城には第22普通科連隊が残る
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・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P452の表207に「東北方面隊の部隊配置表」(S35年頃?) → 宮城県内には、第6師団が多賀城(第22普通科連隊・第1教育大隊ほか)と大和(第6戦車大隊ほか)/ 霞の目に東北方面航空隊ほか、船岡に第2施設団ほか、岩沼に航空学校岩沼分校ほか
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333
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「市民の戦後史(仙台市)」P123(自衛隊東北総監部設置関連映像)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P331(S32年、苦竹キャンプ跡地に自衛隊の看板をかける)
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銀行(地域の銀行) |
振興相互銀行/仙台銀行(平成時代) |
1952年(S27)/1989年(H1) |
* 1951年(S26)、振興無尽株式会社創業
* 1952年(S27)5月29日、振興無尽株式会社が振興相互銀行と改称
* 1970年(S45)5月、本店を青葉通りに新築移転
* 1989年(H1)2月1日、振興相互銀行が普通銀行に転換し、仙台銀行と改称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705、P755/「仙台市史 年表」P117、P135
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P755(青葉通りに進出した振興相互銀行本店、S44年5月)
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水害 |
カスリーン台風 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、県内に水害
* 1947年(S22)9月、カスリン台風で、県内はさらに大きな被害をうけ、物資はいっそう不足した
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702
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「市民の戦後史(仙台市)」P35(流失した根岸橋)
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物価上昇 |
戦後インフレ |
昭和20年代 |
* 1946年(S21)3月、国鉄運賃25割値上げ、仙台~東京間250円に(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702)
* 1946年(S21)秋、物価はウナギのぼり、ヤミ値はつりあがる(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701)
* 1947年(S22)、この年、酒、タバコ、郵便が一斉に値上げ / 消費者物価が終戦時の4倍となる
* 1948年(S23)末、同年3月比の物価
・ 5割以上値上がりした品目(鯨油、黒砂糖、白砂糖、清酒、茶、ポプリン、キャラコ、革靴、練炭、化粧石鹸、ポマード、クリーム、アルコール、紙類、材木、自転車など)
・ 下落した品目(白菜、ホウレンソウ、大根、イカ、蒲鉾、スルメ、りんご、人絹、絹布、靴下、マッチ、サッカリン、ペニシリン、セメント、畳、鉄くぎ など)
* 1949年(S24)3月、物価調査で公定価格割れが続々と出てくる
* 1950年(S25)7月、仙台市、ガス料金を23.8%値上げ
* 1954年(S29)春、前年秋からのデフレ政策が仙台にも波及、市内商店の売り上げは2~3割減、一方デパート売上は堅実に伸びる
* 1954年(S29)秋から翌年6月ごろまで仙台の物価は横ばい
* 1955年(S30)6月の仙台の物価指数、S26年を100として、120 / 市内の標準家庭(5人)の家計支出は月平均2万5000円で食費は半分以下となった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701~702、P710/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P43/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P107
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仙台市の工業 |
参考文献 |
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<参考>
(1) 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~697に、戦前(大正~昭和戦前期)、戦後(終戦~昭和43年頃)の仙台市の工場立地、開発計画、工業統計、新産業都市指定にむけての動きなどが記述されている
(2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~697
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仙台市の工業 |
戦前期 |
大正~1945年(S20)8月 |
<大正末期に立地>
仙台市に、山文製作所(若林4丁目/サッシ類、汽缶類)、本山製作所(堤土手下/ポンプ、汽缶、精密機器類)、東洋刃物(米ケ袋下丁/製紙用、パルプ用の裁断ナイフ)が立地
<昭和戦前期の立地>
・東北金属(S8年、市内郡山諏訪/マグネット、通信機器材料)、東北特殊鋼(S11年、長町7丁目/高速度鋼、合金工具鋼、耐熱鋼)立地
・ 昭和戦前期と終戦時の工場名一覧(「仙台市史 続編第2巻」P661)
<1940年(S15)6月、「仙塩地方開発総合計画概要」(宮城県土木部、金森構想)> 釜房ダム、仙台内港開削、塩釜港修築し1万トン岸壁新設、貞山堀拡築、道路改良、動力は常磐、北海道の石炭と電力使用、緑の工業地帯(大代、蒲生、深沼に3工業地区、貞山堀東岸全部と西岸の数か所に緑地造成、工場地帯には帯状の公園広場) / 戦争激化で実現せず
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~664
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P365(T4年、山田機業場工場内部)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P491(茂庭製糸工場操業風景
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