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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
学徒勤労動員 |
その他の文献、年表より(2) ~通年動員/授業停止~ |
1944年(S19)~1945年(S20) |
* 1944年(S19)1月、閣議決定「緊急学徒勤労要綱」で、勤労工場を特定し、循環的に動員して1年のうち3分の1の4か月を働かせる
* 1944年(S19)2月、「決戦非常措置要綱」
・ 中等学校以上の学徒はすべて1年間常時、勤労その他の非常任務に出動できる組織的体制に置き、理科系のものは専門に応じて軍需工場や病院などに動員
・ 学校校舎は必要に応じて軍事工場、軍用非常倉庫、非常病院、避難用住宅などに転用(旧制二高校舎正面2階が師団司令部に徴用、東北学院校舎の一部(高等部)が被服廠や海軍人事部に、東北学院中学部は出征部隊編成所のちには鉄道輸送部隊に接収、東北学院礼拝堂地下室(六軒丁)は特設非常電話局に(仙台空襲で仙台電話局焼失後)、尚絅女学校の地階と2階が陸軍糧秣廠に、宮城学院は日本電気の「学校工場」に転用された) (以上、「仙台市史 続編第1巻」P46)
* 1944年(S19)2月25日、文部省、食糧増産に学徒500万人動員を決定
* 1944年(S19)3月7日、閣議決定「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、学徒勤労動員通年実施、対象を国民学校高等科生、中等学校1~2年まで拡大
* 1944年(S19)4月17日、文部省に学徒動員本部設置
→ 4月から、中等学校以上の男女生徒を軍需工場、鉱山、農村などへ通年で強制動員開始
* 1944年(S19)5月16日、文部省、学校工場化実施要綱発表
* 1944年(S19)8月23日「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」公布施行、これにより「学徒動員実施要綱」を法的追認
* 1944年(S19)11月16日、中学1、2年生と国民学校高等科1、2年生に勤労動員を発動(菅家年表)
* 1945年(S20)3月18日、「決戦教育措置要綱」により、学徒勤労総動員体制 → 国民学校初等科以外の生徒・学生の授業を停止
<戦後>
* 1945年(S20)8月16日、学徒動員解除
* 1945年(S20)10月11日、学徒勤労動員令廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P46/「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269「学都の戦時体制」/「仙台市史 年表」P113/「Wikipedia「学徒勤労動員」などを参考にした/
「仙台市史10 年表」P308、P310/「重訂 宮城県郷土史年表」P486、P505/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32
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16-72、16-73、16-74、41-03、41-02/「仙台市史 特別編4 市民生活」P444(S20年、鍋蓋代替品をつくる児童たち)
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」などより |
1944年(S19)~1945年(S20)敗戦まで |
・ 1944年(S19)1月、宮城県第一高等女学校、モンペ、ズボン姿を制服に(仙台のモンペ時代に先べん)
・ 1944年(S19)2月6日、政府、女学生の戦時標準服を制定 / 上下衣に分かれ、裾と膝を皮紐で締める / 上衣は婦人標準服乙型、下衣はモンペ
・ 1944年(S19)4月、農林省、野生の苧麻(チョマ)、桑皮、竹の幹などで衣料品70万着製造
・ 1944年(S19)4月19日、宮城県経済部、繊維資源供出として、桑皮、生苧、麻、竹皮、藺草(イグサ)、ひま、柳枝、蒔枝、葛、かわむぐら、蒲類の大増産運動を広げると発表 / 農業会、翼賛壮年団、中等学校、国民学校、青少年団、大日本婦人会を総動員して
・ 1944年(S19)5月21日、仙台市街地で、警官や警防団員が通行人の服装チェックし、注意する(河北新報記事)
・ 1944年(S19)、衣料切符支給さらに減る / 市街地では、30歳以上は年40点、30歳未満は年50点と、従来の約半分に
・ 1944年(S19)、足袋と靴下の配給は、一人1足、男性用パンツは13人に1人しか行き渡らず
・ 1945年(S20)、衣料切符、新発行停止
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「仙台市史 特別編4市民生活」P53~54/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P123
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モンペ姿は、16-72、41-02、76-10、16-10など(写真データベースで、キーワード“モンペ”で検索) / 「仙台市史 特別編5 市民生活」P30(モンペ姿の女性たち)
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婦人の社会活動(戦後・仙台) |
仙台の婦人団体 |
1945(S20)~1994年(H6) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439「仙台市婦人のあゆみ」>
・ 昭和20年~43年頃までの運動と団体の動向を記述
・ 市内の婦人団名(昭和40年)~市教委把握数は45団体
・ 活動内容が記述された団体は、日本キリスト教婦人矯風会仙台支部、日本婦人有権者同盟仙台支部、仙台市主婦連合会、仙台婦人懇談会、宮城婦人問題連絡会、仙台市婦人会議、地域婦人会、みやぎ草の実、高砂むつみ会、葉月会、PTA、社会学級、仙台市母子福祉連合会、仙台市農業協同組合婦人部、労働組合婦人部、婦人公務員、仙台教職員組合婦人部 / そのほかに、民間婦人の職場、パートタイマー、公職進出についても触れている
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459>にも、婦人会をはじめ、戦後の女性たちの社会活動組織について記述あり(昭和63年位まで)
* 日本基督教婦人矯風会仙台支部、戦後すぐ活動再開(街娼撲滅運動、平和運動)
* 1946年(S21)、稲村キクエの呼びかけで新日本婦人同盟仙台支部、結成(1950年に、日本婦人有権者同盟仙台支部と改称)
* 1947年(S22)ころ、国鉄労働組合婦人部、日本教職員組合婦人部、農業協同組合婦人部など、活動開始
* 1947年(S22)、仙台市主婦連合会発足(各種団体や労働組合の女性たち、地域の主婦も多数結集)
* 1949年(S24)2月、仙台婦人懇談会結成
* 1959年(S34)、宮城県婦人問題連絡会結成
* 1966年(S41)、仙台市婦人会議発足(55グループが参加)
・ 1960年代以降、婦人防火クラブ誕生(S37、萩の台婦人防火クラブ/S38、高砂戌区婦人消火隊など) / 1978年(S53)の宮城県沖地震後には町内会単位で結成が進む
・ 1975年(S50)、国際婦人年を契機に、仙台では、新たに女性問題・社会問題の学習グループ、消費者グループ、育児および育児ボランティアグループ、高齢者介護など福祉のボランティアサークルなど発足
・ 1987年(S62)3月、エルパーク仙台(仙台婦人文化センター)オープン / 記念して「女たちのメッセージ」開催(参加団体:当初は29 → 1994年(H6)には40団体以上)
・ 「女たちのメッセージ'94」の参加団体名一覧表 / 福祉・ボランティア活動、育児支援活動、学習活動など41団体(「仙台市史 特別編4 市民生活」P459)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459
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「市民の戦後史(仙台市)」P186と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P458に、「S41年10月、仙台市婦人会議結成大会」
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戦災復興(応急対策) |
空襲跡の状況 |
1945年(S0) |
「仙台空襲(S20年7月10日)では、市内の中枢部500haが焼き払われ、わずかに土蔵、鉄筋コンクリート建物などが焦土の中に残されただけで、当時の全市民の26%が被災し2590人の死傷者を出すという惨状に市民はただ茫然自失、立ち上がる気力を失った。やがて終戦(8月15日)を迎えて幾月たっても民有地の焼け跡の整理が進まず、瓦や石ころが散乱するにまかせ手の施しようがなかった。
理由の主なものは、復興計画が確定していない、建築の制限、建築資材の入手難、大工不足、焦土の処理難、費用の増嵩などのほか、地主が土地を貸したがらず、電灯の復旧もはかばかしくなかったことなど、当時としてはやむを得ない事情が重なっていた。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P311
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戦時中の勤労動員/就労規制(7) |
国民勤労動員令 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)3月6日公布、3月10日施行
老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざす
→ 詳細は、項目「国民勤労動員令」参照
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「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P504
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戦時中の疎開者受入れ |
仙台市/宮城県 |
1945年(S20) |
<京浜地区等から仙台市へ>
* 1945年(S20)3月~9月、受け入れた人員疎開は、935世帯、2791人
* 1945年(S20)3月~10月、受け入れた他都市からの戦災者は、3968所帯、8848人
<宮城県への疎開者>
「宮城県知事引継書(昭和20年6月10日)」によれば、宮城県へは首都圏などから空襲を避けて、あるいは空襲の被災者が、7万7490人疎開(東京からの学童集団疎開1万3669人、付き添いの教員1802人を含む、それ以外に縁故疎開者4万人、空襲で家を焼かれた人が2万人) / 大崎事務所管内が最多で1万241人(多くの集団疎開児童を鳴子温泉に収容)、仙台市は5856人、石巻市は2815人、塩釜市733人 / 東京都から、縁故のない妊婦28人と乳幼児68人の集団疎開受入れ要請あり古川健民修練所に入れる準備中 / 伊豆大島の住民全員引揚げのため、宮城県には1000人受け入れ要請あり、未耕作農地がある6村で準備中(ただし、住民輸送船の都合がつかず実現しなかった) (「戦争のころ 仙台、宮城」P200~201)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P200~201
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(8) |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)6月25日、東京神田で水田が作られた
* 1945年(S20)7月17日、旅行者用外食券が交付されることになる
<仙台> (「仙台市史 特別編4 市民生活」P99)
* 1945年(S20)8月、仙台でも外食券制度施行され、旅行用16軒、三食用20軒を外食券食堂に指定
・ 外食券制度は、米の配給通帳制と同時に発足したが、新聞などの記事による限り、一般の人に良く利用されるようになったのは、敗戦が近くなり食糧難が深刻になったころからのようである
<敗戦 8月15日>
* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1945年(S20)秋、鉄かぶとを鍋に再生
* 1945年(S20)秋、タバコ巻機が大流行
<戦後の統制撤廃>
→ 項目「戦後の物資・価格統制撤廃」参照
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P34、P35/「仙台市史 特別編4 市民生活」P99
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仙台駅(戦前) |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で駅舎、仙台鉄道局、仙台鉄道管理局が焼失 / 本局は仙台鉄道教習所に移り、さらに東二番丁の東北学院中学校の建物借用し移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P561
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「目で見る仙台の歴史」P150に、仙台鉄道局庁舎(大正8年)
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銀行(都市銀行) |
住友銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)2月17日、住友銀行仙台支店を新伝馬町に開業
* 1948年(S23)10月1日、株式会社大阪銀行に商号変更
* 1952年(S27)12月1日、商号を株式会社住友銀行に復帰
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「住友銀行」2020年9月13日版
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銀行(都市銀行) |
三和銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)5月1日、三和銀行仙台支店を東二番丁元寺小路角に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516
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仙台偕行社 |
2代目?、空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 2代目?に建替え(年不詳)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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養賢堂 |
戦災で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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仙台空襲 |
事前に防火帯づくり |
1945年(S20) |
<事前に防火帯づくり(仙台)>
・ 鉄道沿線や込み入った住宅街などが指定され、建物を取り壊す
・ 第1次分 対象は1067戸
「重要施設周辺」=清水沼、長町八本松など
「消防道路」=南光院丁西側
「鉄道沿線」=元寺小路X橋(エックスバシ)からキリンビール工場までと、五橋、専売局前から南染師町までの2地区
・ 解体作業は建設業者や、隣組を母体に編成された国民義勇隊、学徒勤労動員の学生生徒 / 仙台駅付近は7月9日が完了予定
・ 第2次分を7月9日に指定(仙台市中心部約2万4000坪、2063戸、8294人を指定し、細横丁、元寺小路など狭い道路に面した家屋を第二師団の工兵隊が取り壊す予定だったが、翌日(7月10日未明)の空襲で対象地域は全焼
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210
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仙台空襲 |
被害状況 / 死因 |
1945年(S20) |
<被害状況>
・焼失1万1900戸(全戸数の4割)、5万7000人が家を失う
・死者・負傷者はいまもって確定せず、最新(2020年現在)のデータでは、死者1399人、負傷者1683人
<死因> (1980年、岩倉政城医師による調査)
仙台北署に出された死亡届のうち、医師が死亡原因を記載した599人について、医師や看護婦、入院患者から聞き取り調査
・焼死303人、やけどによる死亡103人(火傷3~4の重傷者が多く、中には肌が黒褐色に炭化した人も)、焼夷弾直撃74人、防空壕内の炭酸ガス中毒死60人、やけどと破傷風併発5人、やけどと敗血症併発2人、やけどと細菌感染2人、溺死12人(大半は、飛び込んだ井戸内から出られずに)
<病院では>
・東北帝大附属病院
当夜は11の診療科で5~6人の当直医師が勤務 / 回復見込みのない患者は内科へ、やけどのひどい人は外科へ、早急に手術が必要な人は手術室へ振り分け / 手術した人の大部分は手足の複雑骨折で、消毒液がなく、井戸水をバケツリレーし、患部の泥を流しながら20数人を手術
・仙台逓信病院
ほとんどがやけどの人でその夜のうちに10人ほどが死亡 / 薬品も包帯も不足で、数日たつと患者の腐敗臭が部屋に充満した
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P220~222
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仙台空襲 |
被災者への援助 / 避難先 |
1945年(S20) |
<被災者への援助、避難先>
・ 家を焼け出された約5万人
・ 仙台圏の多くの町村から非常食や善意の炊き出しを受ける / 避難所は、被災を免れた国民学校や一部焼失した国民学校の講堂 / その後、多くは親類縁者宅に避難 / 仙台市では、追廻練兵場跡に2年間で1876戸の簡易住宅を建設し、空襲被災者や海外からの引揚者に提供された
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227
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仙台空襲 |
被災した区域/身元不明遺体/甘かった認識 |
1945年(S20) |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P318~319より
・ 全焼は13公会の区域(東一番丁、東二・三番丁、元寺小路、新伝馬町、多門通、東二・四番丁、二日町、大町、国分町、立町、肴町、本櫓丁、北目町)
・ 半焼は37公会の区域(勾当台通、外記丁通、杉山通、上杉山通、光禅寺通、錦町、東六番丁、小田原中部、宮城野橋西部、新屋敷、八塚、二十人町、南町、元柳町、清水小路、土樋、田町、米ケ袋、花壇・枇杷首、霊屋下、向山東部、向山西部、鹿野、西多賀、川内、荒巻、八幡町、伊勢堂、春日、北六番丁中部、支倉、土橋、本材木町、木町通中部、木町通南部、北鍛冶町、北堤通)
『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より
・ 「9月28日現在身元不明とされた遺体は、その埋葬にあたった半子町の寿徳寺、北山火葬場と大願寺、新寺小路の松音寺の3か所で213体(一時仮に土葬されたが、身元判明し引き取られた遺体を除く) / なかには発掘したものの、ほかの遺体との区別が判然とせず、やむなく埋葬した土を持ち帰る遺族もあった / 医療も埋葬も人手や資材の不足に悩まされ、人間としての満足な処遇を与えられなかったのである」
・ 甘かった認識「『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵(むしろ)をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P318~319
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<仙台空襲焼失区域図> 98-092(「仙台市史 特別編4 市民生活」319の図320をスキャン)/98-147(「仙台市史 第二巻本編2」P680~681掲載の第24図「戦災焼失地域図」をスキャン)
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仙台空襲 |
焼失した国宝 など |
1945年(S20) |
<焼失した国宝文化財>
・ 国宝 仙台城大手門、仙台城隅櫓、伊達政宗霊廟瑞鳳殿、伊達忠宗霊廟感仙殿
<被災後、よみがえった樹木>
・ 東二番丁国民学校校庭のクスノキ(戦災から3年後に小さな新芽を吹き、のちに大木に)
・ 西公園の大町交番と桜ケ岡大神宮の間に立つイチョウ(樹齢推定300年)(のちに新芽を吹く、往時をしのぐ樹勢に)
<土井晩翠宅(本荒町)>
焼失し、蔵書3万冊も焼失 / 晩翠は「五十余年 心を込めて集めたる 東西の書 皆灰となる」と詠んだ
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P223~224
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(5) 空襲犠牲者 |
1945年(S20) |
<県内の空襲犠牲者>
仙台空襲以外に、計209人が空襲の犠牲になった / 空襲を受けたのは、(旧市町村名で)気仙沼、女川、石巻、矢本、小牛田、古川、三本木、松島、塩釜、多賀城、仙台、岩沼、亘理など / このうち、気仙沼では11人死亡、漁船79隻が被害
<筆者石澤友隆氏の体験>
戦時中は気仙沼に住む / 国民学校で授業中に空襲警報発令がないのに艦載機1機が突然飛来、先生の「伏せろ」の大声で、目と耳を手で押さえて机への下にもぐりこんだ / 一日に何回も襲来するので、恐ろしくて家にはいられず近くの杉林で杉の木を柱に掘っ立て小屋をつくり蚊帳を吊って入り、夜は空襲がないので家に戻り、朝、おにぎりを持って杉林へ戻る生活が敗戦まで続いた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236
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医療機関 |
国立仙台病院 |
1945年(S20) |
→ 項目「国立仙台病院」へ
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仙台市電 |
仙台空襲被害と復旧 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(計6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315)
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P315)
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87)
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了(「仙台市史10 年表」P309)、全線運行再開(「仙台市史 年表」P113)
・仙台空襲時、全車両(52輌)は奇跡的に全車無事 / 車両は、北二番丁車庫、北仙台線、八幡町線の終点と秋保電鉄車庫に分散しており焼夷弾攻撃を免れた / 空襲被害は片平車庫が全焼、中心部各所で架線が垂れ落ちる / 復旧工事により、空襲翌日には荒町~長町間で運転再開、仙台駅前~荒町間8月3日、敗戦13日後の8月28日に全線で運転再開(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315/「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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35-15(仙台駅西側付近の焼け跡に市電車両が写る)
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映画館(戦後) |
青葉劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)10月8日、東七番丁に開設(9~10日は、戦災市民無料招待)
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「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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映画館(戦後) |
錦映画館 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、錦町21に開設(480席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508
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映画館(戦後) |
東北劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、本櫓町51に開設(700席)
* 1979年(S54)4月13日、立町の東北劇場焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508/「続・ 宮城県郷土史年表」P94
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「市民の戦後史(仙台市)」P42(NHKのど自慢会場の看板あり)
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園閉園 |
1945年(S20) |
・ 猛獣の処分(S19年3月)で空き家になった建物には、市議会の建議通りブタ15頭が飼われ、花壇や通路では野菜を栽培、動物舎付近はカボチャ畑になった。閉園までは猛獣ぬきで営業(「戦争のころ 仙台、宮城」P143)
* 1945年(S20)4月1日、休園(そのまま再開せず)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P504/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P143
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隅櫓 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大手門と共に焼失
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仙台市HP
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三原時計店 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年7月10日、仙台空襲で、大町の店舗を焼失
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三原本店HP
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政党県支部など(戦後) |
日本社会党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月2日、日本社会党宮城県連合会結成大会開催
* 1950年(S25)2月4日、社会党宮城県連分裂
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507、P540/「仙台市史10 年表」P310、P323
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政党県支部など(戦後) |
進歩党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月20日、進歩党宮城県支部を結成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507/「仙台市史10 年表」P310
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政党県支部など(戦後) |
日本共産党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月25日、日本共産党宮城県支部演説会開催
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「仙台市史10 年表」P311
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国民義勇隊 |
結成~解散 |
1945年(S20) |
Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)(岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21)
竹槍は1945年(S20年)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた
* 1945年(S20)3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された(「日録20世紀 1945年」P16)
* 1945年(S20)6月22日、国民義勇兵法施行(男15~60歳、女17~40歳に義勇兵役の義務)(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)8月15日、天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)、第二次世界大戦終る (岩波P24)
* 1945年(S20)8月21日、国民義勇隊を解散(「菅家年表」P34)
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21、P24/仙台市史10年表」 P309/「菅家年表」P34/「日録20世紀 1945年」P16
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国民義勇隊 |
宮城県関連 |
1945年(S20) |
【出典記載あるものを除き、「戦争のころ 仙台、宮城」P198~200より転記】
* 1945年(S20)5月、国民義勇隊の兵役法公布
・ 全国の国民学校初等科卒業 (12歳)以上で、男子は65歳未満、女子は45歳以下を強制的に隊員に加入させ、防空、被害復旧、疎開輸送、食糧増産に動員、「状況急迫した場合には必要地域の国民義勇隊を戦闘などに移転させること」(国民義勇戦闘隊)
・ 敵の本土上陸作戦が始まったら、男子(15~60歳)、女子(17~40歳)を「国民義勇戦闘隊」に編入し、陸海軍の司令官の指揮に従い戦いに参加させる
・ 従来の大政翼賛会や隣組は解散し、国民義勇隊に組み入れられた
* 1945年(S20)5月31日、刈田郡連合国民義勇隊結成(県内初) / 6月9日までに、全県下3市194町村で国民義勇隊結成(「宮城県知事事務引継書」昭和20年6月10日)
* 1945年(S20)6月1日、仙台市国民義勇隊結成(「仙台市史年表」P113)
* 1945年(S20)7月5日、護国神社前で「仙台市国民義勇隊」結成、市長が全市民に向かって「火の玉となって敵撃滅の戦列に参加しよう」と呼びかけた(「仙台市史 続編第1巻」P53)
* 1945年(S20)7月5日、仙台市国民義勇隊、宮城県護国神社で結成式 / 丸山知事(国民義勇隊宮城県本部長)は「郷土防衛の組織体として訓練と活動をなすのみならず、事態急迫して軍の要請あらば戦闘隊として戦線にでて軍務に服すのであり、これが従来の国民運動と大きく異なるところであります」と談話を発表(「戦争のころ 仙台、宮城」P199)
・ 宮城県の義勇隊副本部長は一力次郎河北新聞社社長と佐藤正在郷軍人会県支部副長(陸軍少将)、事務局長は長門頼三宮城県商工経済会事務局長
・ 国民義勇隊は、国民学校初等科修了以上で男子は65歳以下、女子は45歳以下で編制、隣組を単位として分隊を,公会単位で小隊、戦闘部隊に移行する場合は中隊を編制する、本隊は市長が隊長となって統率、本部は市役所内に置く
「大本営陸軍部は「国民抗戦必携」「国民築城必携」を刊行して国民に配布、国民義勇戦闘隊の教育参考書として敵と戦う方法を教えた / 河北新報は、10回にわたって、仙台連隊区司令部の解説つきで「国民抗戦必携」を連載したが、それはまさに殺人のやり方教授法でした。 / 狙撃、手りゅう弾の投げ方、戦車肉薄攻撃、ガス、火災防護などとともに「白兵戦闘格闘」の項目もあり、刀、やり、出刃包丁や玄能(金槌)などでの戦い方を挿絵入りでこまごまと説明。」
* 1945年(S20)9月1日、仙台市国民義勇隊解散(「仙台市史年表」P113~P114、「仙台市史10 年表」P309)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P198~200/「仙台市史年表」P113~114/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P53/「仙台市史10 年表」P309
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国民勤労動員令 |
施行 |
1945年(S20) |
<国民勤労動員令> (「日録20世紀 1945年」P13、P42)
* 1945年(S20)3月6日公布、病人にも登録を義務化 / 3月10日施行
/ 本土決戦にそなえ、国民徴用令、女子挺身勤労令、国民勤労報国令、労務調整令、学校卒業者使用制限令の五勅令を統合・強化して発された勅令 病人にも登録を義務化 老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざすものだった
<戦後>
* 1945年(S20)12月20日、国家総動員法・戦時緊急措置令廃止を公布(S21年施行)(「日録20世紀 1945年」P35、「重訂 宮城県郷土史年表」P311)
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「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P311
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国立仙台病院 |
開院 |
1945年(S20) |
<前身>
* 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院の宮城野原臨時分院(宮城野分院?)、発足
* 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所(宮城野原)に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
<戦後は、国立病院へ>
* 1945年(S20)12月、旧陸軍省から厚生省に移管され国立仙台病院となる / 木造で、内科、外科など5科、500床
* 1952年(S27)から、本格的な病棟建設に着手
* 1954年(S29)11月、高血圧センター開設
* 1957年(S32)、総合病院となる
* 1958年(S33)1月、心臓診療センター開設
* 1958年(S33)10月25日、「国立仙台病院」(原町南目)完工式(着工は、S26年12月)
* 1959年(S34)1月1日、ガンセンターを設置
* 1960年(S35)1月、小児診療センター開設 / 2月、小児マヒ治療用「鉄の肺」
* 1965年(S40)3月、救急病院指定
* 1967年(S42)7月、脳神経センター開設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P728~729/「重訂 宮城県郷土史年表」P590
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P729/「目で見る仙台の歴史」P192
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戦災復興(応急対策) |
仙台市電 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(あわせて6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了、全線運行再開
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315
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進駐軍(米軍) |
進駐軍専用列車 |
1945年(S20)10月~1952年(S27)2月 |
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46
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空襲(宮城県内) |
霞目陸軍飛行場を爆撃 / 米軍機、蔵王山中に墜落 |
1945年(S20)3月10日~11日 |
<霞目陸軍飛行場(仙台)>
* 1945年(S20)3月10日夜、米軍機が霞目陸軍飛行場(仙台)と太白区四郎丸地区を爆撃、ほとんど被害なし / 霞目には仙台少年飛行学校があり、油脂焼夷弾1371発投下、うち248発は不発弾、西風が強く、焼夷弾は目標を外れて周辺の田んぼに落ち燃え上がる
・ この夜(3月10日)、東北地方では、いわき市、盛岡市、青森県上北郡もB29が空襲 / いわき市で16人、盛岡市で4人死亡
<米軍機、蔵王山中に墜落>
・ この夜(S20年3月10日)、吹雪の蔵王連峰不忘岳に3機の米軍B29が間をおいて激突、34人の乗員全員が死亡 / 時刻は、午後9時50分ころ、その1時間後、翌11日午前2時頃 / 翌日、地元七が宿村横川集落の警防団十数人が吹雪と積雪1mのなか現場へ向かい墜落した1機と死亡した搭乗員を発見
・ 1945年(S20)5月、仙台の藤崎百貨店で、不忘岳に墜落した機内から回収した救命具、携行食品などを展示
・ 1961年(S36)9月、登山グループ「不忘会」が呼びかけ、地元婦人会、キリスト協会、仏教会、航空自衛隊などが協力し、現地にB29搭乗員の慰霊碑「不忘の碑」を建立
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P191~192
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(2) 生徒動員数 |
1945年(S20)4月現在 |
<「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月 丸山鶴吉知事→生悦住(いけずみ)求馬(もとめ)知事)より>
・ 「宮城県としては学徒動員本部を設置し、専任視学員を置いて事業所の受け入れ態勢、作業状況、厚生施設、給与、保健の改善に努めている」
・ 動員数(昭和20年4月、宮城県) 農業・商業を含め男子中学校1万1616人、女子中学校1万953人
・ 動員先 多くは陸軍造兵廠(仙台市苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)だが、民間工場へも動員
<動員先の例>
・ 仙台中学 5年生(仙台の陸軍造兵廠)、4年生(川崎市の東芝 →のちに、仙台の東北特殊鋼)、3年生(作並製炭所)、2年生(仙台近郊農家の手伝い)
<参考文献>
・ 『戦時下女学校の学徒勤労動員』(宮城学院発行) 宮城県内の39旧制高等女学校卒業生の271人に聞き取り(2000年 大平聡教授と学生たち調べ)
・ 『旧制男子中学校の勤労動員実態調査』(2001年 宮城学院大学院生鈴木洋子)
・ 『海鳴りの響きは遠く』(草思社) 宮城県第一高等女学校生徒の軍需工場動員記録
・ 『太平洋戦争に生きた少女たち』(高津計以編 私家版) 尚絅高等女学校卒業生による記録と追想
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P173
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以前の空襲 |
1945年(S20)5月29日~7月9日 |
<仙台空襲以前にも、米軍による攻撃>
・ 宮城県には、B29、B24が単独、あるいは2~4機が9回飛来
・ 5~6月には、5/29、6/10、6/29、6/30
・ 6月10日は、B24(2機)が硫黄島から飛来、鮎川港停泊中の捕鯨船4隻を攻撃、乗員7人負傷
・ 6月30日未明、B29(4機)のうち1機が、村田町早稲原地区に港湾封鎖のため付設する機雷1個を落下傘で落とし、大きな穴をあける
・ 仙台には、7月3、5、6、7、9日と連続来襲 / 7月3日白昼にはB29(1機)が仙台市三神峯の仙台陸軍幼年学校付近と八木山に爆弾14発を投下、幼年学校と民家の窓ガラスが割れたが死傷者なし
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P206~207
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仙台空襲 |
米軍機が偵察 / 米軍が空襲予告 / 空襲前日に高射砲陣地構築 / 警報発令の体制 |
1945年(S20)5月~7月9日 |
<仙台空襲の前触れ>
* 1945年(S20)5月25日、米軍F13A(写真偵察機)、仙台市街地を撮影
* 米軍が事前に空襲予告(日本むけ米軍短波放送で「7月9日、仙台にお邪魔しますから疎開するように」と繰り返し放送 / 空襲予告ビラを投下「仙台よい町森の町 七月十日は灰の町」など / 空襲前日にも上空からビラを撒き予告
<前日に高射砲陣地構築>
* 1945年(S20)7月9日朝早く、仙台駅に軍用列車で高射砲21門、探照灯18基と、高射砲隊(2個大隊)が到着 / 列車は長町操車場へ回送、長町諏訪と広瀬川河畔の飯田団地、原町の現NHKアンテナ付近に高射砲陣地を構築(「戦争のころ 仙台、宮城」P210)
<警報発令の体制>
・ 東北軍管区司令部防空作戦室(仙台市川内)が新潟を含む東北7県の防空を担当 / 軍人や女子防空通信隊ら100人が交代で勤務 / 各県の防空監視哨から警察を通じて敵機の動静が電話で入ると、空襲警報が作成され、隣の部屋に待機している日本放送協会のアナウンサーに渡され、ラジオで警報が放送される仕組み(「戦争のころ 仙台、宮城」P212)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P207~P210、P212
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仙台空襲 |
空襲の概要、被害規模 |
1945年(S20)7月10日 |
(1) 『仙台市戦災復興誌』(仙台市開発局 1981年)では、「1945年7月10日、仙台市は米軍のB29、100機による空襲をうけ、中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失。 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」
(編者注: 死者901人、負傷者1689人、行方不明者の数もあるが、空襲間もなくの統計で正確でないと思われる)
(2) 『仙台はフェニックス』(1995年発行 P341)では、「死者は 約1400名近い(確認1064名、身元不明など335名)」
/ ただし、7月17日午前5:30頃の高砂駅停車中列車と周辺民家への機銃掃射、福田町付近爆弾投下による、死者6名、重軽傷者9名、および8月9日の仙台飛行場・原町陸軍造兵廠など銃撃による死者4~5名を含む)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P320)
(3) 『重訂 宮城県郷土史年表』P505では、「仙台市、米空軍の空襲を受く。9日深夜より10日(午前0時5分頃より約2時間30分)未明にかけ前後約3時間に亘り、B29爆撃機7・80機の波状的来襲により無差別焼夷弾攻撃を受け、市の中心部及び川内地帯焦土と化す。この日の戦災により、行政・教育・商業・軍事・金融・交通等の中枢部殆ど焼失、死者911名、罹災戸数11,642、罹災人口57,321、被害面積150万坪に達す。喪失したる史跡、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿、青葉城大手門、養賢堂講堂、芭蕉の辻等の古建築物」
(4) 『仙台市史 続編第2巻(経済文化編)』(1969年発行)P763では、「昭和20年7月10日、B29、100機の爆撃によって、仙台市の中心部は壊滅的な打撃を受けた。被災面積約500ha、全焼家屋1万1650戸、半焼252戸、死傷者約2600人に及び、被災人口の総数は5万7000人、全人口の26%にも達した。」
同書P315では、「房総沖、鹿島灘を北上して、仙台湾に集結したB29約100機は、午前零時5分から約2時間半にわたって仙台市中心部に対して波状的爆撃を加えてきた。このため、特に商業、行政の中心をなす繁華街や川内をはじめ各所にあった軍事施設の大部分が破壊され、家屋その他の建物はほとんど焼失し焦土と化し、その惨状は目をおおうばかりであった。」
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「仙台市戦災復興誌」(仙台市開発局) /「仙台はフェニックス」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P320/「重訂 宮城県郷土史年表」P505 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P315、P763
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仙台空襲の焼失区域図は、98-092、98-147
/空襲被害は、35-15、35-14、35-13など「写真データベース」分類G-28の全写真
/「新・目で見る仙台の歴史」P164~167(炎上する市内、焼け野原、座り込む市民、焼け跡整理作業、市民に呼びかける警官)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P61(焼け跡に建つ女性)/「市民の戦後史(仙台市)」P18(焼け跡整理作業など)/同P166(仙台空襲20年追悼式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図42(S20年空襲後、天守台より一面焼け野原の仙台市街俯瞰)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270(敗戦後の焼け跡整理)
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仙台空襲 |
空襲被害の状況 |
1945年(S20)7月10日 |
(5) 『仙台市史 続編第1巻(行政建設編)』P56~62より
<仙台空襲>
・仙台空襲時には、全市5万1630余世帯の約35%が疎開中
・「昭和20年、仙台市内には、本土決戦に備え東北軍司令部など数々の司令部が設置され、形の上の迎撃態体制は一応つくられていたが、それに伴うべき武器弾薬に乏しく、軍司令部所在地たる仙台に一門の高射砲もなく、木造の模擬高射砲がむなしく空をにらんでいたのである。」
・「7月10日深夜から早暁の仙台空襲では、B29の小編隊(2~5機)が20数回波状的に来襲、投下された焼夷弾は、油脂50キロ、100キロ、小型エレクトロン1号、2号混用などで、市内各所に火災発生後は50mもの烈風となり火勢はたけり狂った。」
・「市電環状線内は見るかげもなく壊滅、地をはいからっみあった電線、トタン、カワラ、ガラスの破片、まちかどにうずくまる重軽傷者、わが子を探し求める母親、性別もわからぬほどに焼けただれた遺体、焼け落ちたビルの残骸からはなお煙と異臭を吐き出す。都心のビルが焼き払われたため、仙台駅前から県庁方面が一望できる始末であった。」
・「死傷者の多くは防空壕内でやられたのである。都心のある防空壕では、ここに避難した老若男女20人が、外の熱気のためむごたらしく死んでいた。東一番丁北端と定禅寺通交差点では、家財を背負って避難途中の市民が折り重なって死んでいた。」
・その他、全焼・半焼した地域(公会別)、焼失した古建築などの記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P56~62
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仙台空襲の焼失区域図は、98-147
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仙台空襲 |
空襲の概要 |
1945年(S20)7月10日 |
<7月10日未明の仙台大空襲>
* 1945年(S20)7月10日未明、米軍第58航空団のB29、123機、2時間にわたって仙台市街地を空襲 / 先導機12機に誘導され高度3000~3200mで市南西部から侵入、事前設定した爆撃中心点に焼夷爆弾投下、目標区域周辺に反復し投下 / 爆撃の範囲は市電循環線の内側と、陸軍施設が集中する川内地区 / 3~5機が編隊で爆撃、何分か後に別の編隊が攻撃を繰り返す / 午前0時3分~2時5分までの2時間に25回周辺に反復し投下
* 避難で市民が向かった避難先は、広瀬川河畔、評定河原、大年寺山、愛宕神社、西公園、大崎八幡、北山、北仙台、台原、東照宮、宮城野原、遠くでは根白石、落合
・ 空襲の夜、軍管区副官部の将校たち、料亭で飲酒、2~3人が焼夷弾の直撃で亡くなった(「戦争のころ 仙台、宮城」P212~213)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P212~213、P214~216、P218
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仙台空襲 |
投下された3種の焼夷弾 |
1945年(S20)7月10日 |
<投下された3種の焼夷弾>
・ M47焼夷爆弾
落ちるとものすごい音がして火が噴き出す / 空襲の手始めに攻撃目標に対し集中的に投弾し火災を発生させる / 先導機群と2個群団が1万800発を投下
・ M17集束焼夷弾
ザアーと雨のように降ってきて、あたりかまわず青白い炎を出して燃える / 1個の中に直径5cm、長さ35cmの六角棒状のテルミット・マグネシウム焼夷弾が110本はいっていて、地上300mになると自動的にまき散らされる / 総数23万7000個を投下)
・ 小型油脂焼夷弾
6個のガソリン、ナフサ入りナパーム弾が集束しており、これも途中で分かれて落下、地上で燃え上がると火を振り払っても落ちない
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P216~217
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仙台空襲 |
仙台北警察署の報告 |
1945年(S20)7月10日 |
<空襲避難中の状況>
【仙台北警察署『仙台空襲の被害と民防空機関の活動状況』より】「東一番丁巡査派出所の後藤、佐藤両巡査にして東一番丁界隈の避難者約百名を誘導、台原方面に向かいつつありたるが、北一番丁野沢醤油店前広場に至るや、前途は火焔にて進む事不能、風の為火焔は渦巻き、行く事は完全に阻まれ如何とも成難き状況に至りたり。 両巡査は此処は安全なりとは謂ひ兼ぬるも避難不能なり。 俺達と此処へ止れ、此処より動くと死ぬぞと連呼し狂象の如き避難者を沈静せしめ事なきを得たり。」
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「番丁詳伝」P151
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仙台空襲 |
東北軍管区司令部発表 |
1945年(S20)7月10日 |
<仙台空襲につき、東北軍管区司令部発表>
(空襲から8時間後の昭和20年7月10日午前10時)
「敵B29約百機は、今10日午前零時5分ごろより約2時間30分にわたり仙台中心部に対し無差別焼夷攻撃を加え来たり。市内各所に火災発生するも午前5時頃にはおおむね鎮火せり。市民はかねて準備したる食料ならびに付近町村よりの炊き出しにより直ちに配給を受け、指定収容所に復帰し、鎮静に帰しつつあり」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P226
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仙台空襲 |
東北軍管区発表/号外記事 |
1945年(S20)7月10日 |
<東北軍管区発表 7月10日午前8時>
「B29百機来襲/仙台市街猛爆/各所に火災、生産陣異状なし 敵約百機は今十日零時五分頃より約二時間三十分に亘り仙台市中心部に対し無差別焼夷攻撃を加へ来り市内各所に火災発生せるも概ね五時頃には鎮火せり。市民はかねて準備せられありたる食糧並附近町村よりの炊出しにより本朝直ちに配給を受け逐次指定収容所に復帰し鎮静に帰しつつ市の再建設に向ひ猛進しつつあり。仙台市民は東北一般民衆の粘り強さを如実に発揮しつつあり。」
<河北新報号外 7月10日付>には、
「上記の東北軍管区発表のほか、集団避難の戦災者に、米、味噌、醤油の無料配布を行うこと、片平丁、上杉山通、八幡、東六番丁、連坊小路、五橋、南材木町、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁小学校と第二中学校の十三カ所を罹災者収容所とし臨時市役所出張所を設けて罹災証明書、一般物資配給券を交付することにしたことを報じている。」
・ 「救援物資の配給が本格的になされるのは14日からだが、焼のり、コンニャク、塩、茶などで腹を満たすものはなかった。中古衣料は5人以上の家族に1点、タオル1枚、縫い針2本というもので、ちり紙はひとり25枚というような数量であった。」
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「番丁詳伝」P150~151
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仙台空襲 |
焼失した学校 / 児童の犠牲者 |
1945年(S20)7月10日 |
<焼失した学校>
☆ 国民学校
・ 全焼(東二番丁、立町、西多賀、北五番丁)、一部焼失(木町通)
・ 上杉山国民学校は、南校舎や西校舎が被弾したが、教職員がバケツリレーで消火、焼失を免れる
☆ 旧制中学校など中等学校(全焼)
・ 育英中学(現・錦町公園の場所)、仙台商業、東北学院中学校(東二番丁)、仙台中学校、常盤木高等女学校(西公園近く)、宮城県第一高等女学校(元寺小路)、仙台女学校(現・白百合学園 元寺小路)
☆ 旧制高等学校など(全焼)
・ 旧制第二高等学校、東北学院神学部(南町通)
☆ 大学
・ 東北帝国大学(片平丁)は、法文学部、理学部、工学部の校舎の40%を焼失
<仙台空襲による児童(国民学校生)の犠牲>
・ 死亡 計86人(木町通国民学校22人、東二番丁18人、立町16人、ほか)
・ けが40人
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P222~223
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仙台空襲 |
焼失した学校 / 校舎再建 |
1945年(S20)7月10日 |
<空襲で焼失>
☆ 国民学校 5校(全焼4、半焼1)
・全焼・・・北五番丁、立町、東二番丁、西多賀
・半焼・・・木町通
☆ 中等学校13校(全焼)
・全焼(公立)・・・仙台、仙台商業、仙台図南、県第一高女、県仙台第二、県工業、
・全焼(私立)・・・仙台育英、東北学院、宮城女学校、栴檀、仙台女学校、常盤木高女、朴沢松操
☆ 高等専門学校 3校(全焼)
・全焼・・・第二高等学校、県立女子専門学校、宮城学院女子専門学校
☆ 大学 3学部
・一部焼失・・・東北帝国大学理学部、工学部、法文学部
<二部授業や青空教室>
・ 焼失を免れた学校の一部をかりて、二部授業
・ 西多賀国民学校のように、近くの神社の社務所や部落公民館などを仮校舎として二部授業や複式授業
・ 間借りの場所がない学校は、野外授業(青空教室)
<校舎再建>
・ 国民学校(小学校)は、1950年(S25)までに7校の校舎が建ち、二部授業、青空教室はほぼ解消した
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P316「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270~271
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲 |
1945年(S20)7月10日未明 |
→ 項目「仙台空襲」を見よ
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(2) 陸海軍基地、鉄道、船舶を攻撃 |
1945年(S20)7月14日 |
・ 7/14は、県内の18か所で空襲
<陸海軍基地への攻撃>
7/14、矢本の海軍松島基地に20機来襲、爆弾やロケット弾を撃ち込み2機が破損 / 玉浦の陸軍基地(現・仙台空港)も攻撃を受けるが、戦闘機や爆撃機はすでに疎開しており、飛行場付属施設が焼失 / 霞目の仙台飛行場にも来襲 / 航空基地と軍需工場への空襲は、その後も継続
<鉄道への攻撃>
7/14朝5時半、国鉄仙石線高砂駅で停車中の電車に5機のグラマンが機銃掃射し、死亡6人、負傷9人 / この日は東北線岩切駅舎も攻撃され、近くで農作業中の2人が機銃掃射で死亡
<船舶への攻撃>
7/14、本吉郡十三浜村沖の海上で船舶2隻が米英軍機の攻撃で6人が死亡、9人負傷 / 名取郡沖の海上では漁船乗組員2人死亡、8人負傷 / 桃生郡追波川河口で運送船が被弾し、2人死亡、3人負傷 / 唐桑で漁船2隻沈没 / 志津川では湾内の船舶3隻が被害
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232~234
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